2007年9月21日

芸能批評

芸能人は自分達を中心に世界は回ると思っているかもしれないが、テレビを見ない人には有名人でさえない。かれらの給料は広告収入である。芸は客寄せで、テレビ番組の主目ですらないのだ。

道徳の人間性

これまでの人類の進化は漸近的なもの、恐らくはこれからも暫くはそうだろう。当為への漸進は人間道徳を特徴づける。
 突然変異ない限り人類は人間にある。道徳神学は人間にとっての道徳。

2007年9月20日

信仰

全知全能の仮称としての神ほど我々を独善から救う理念はない。

[いかなる偶像へのエロスに対してすらこの理念は働く。失望は試行錯誤を通じて神への導きに足る]

字説

戻は犬と戸による旧字から生まれた異体の日本字と考えてよい。モドルという語がモトルから派生したにせよ、現代人が戻を見て表意的に解釈してもさほど不都合はないからだ。
 そして戸の下に大(ひと)を埋めるような風習は散見されない以上、戻は旧字とは異なる新しく作られた漢字と考えてよい。

普遍

いかなる文化にも多様性以上の目的はありえない。文明において普遍性がそうな様。

趣味主義論

パスカル曰く、考える葦たる悲惨から目を背け、とるにたらぬ慰めに耽らせる気晴らしは危険なり、と。我答う。いずれすべては気晴らしに過ぎず、と。神の国を建設する為の道程に幾段の階段ありしや我々知らず。されど人間を進化させる原動力は目的的活動、すなわち趣味なり。もし信仰を批判すればそれすなわち神話伝承の趣味にあらずや。どれだけ主義へ熱心淡白にても人間存在これ一個の自由実存に過ぎず。かれが偉大か悲惨か分けるのはただ活動の種類によりけり。人間は人間なり、いかに獣類未満の悪業愚劣を尽くせども、いかに救世主同然の善導を尽くせどもやはりこれ人間の仕業に他ならず。趣味主義は人間個性を容認すなり。主義の自由を気晴らしの方便として寛容すなり。
 ある人曰く、殺人の気晴らしこれ如何、また人事無用のパズルゲームへの熱狂人これ如何、あるいはアブラハムの地にて布教に狂信するキリスト者これ如何などと。我答う、主義は自由なり。気晴らしがなければ人生これ単なる奴隷機械なり。気晴らしの種類に応じては他者に損害を与う場合あり、自己欺瞞に陥り世界独我の発狂をもたらし独裁者や恐怖政治家をも生む危険なきに非ず、されどこれに反して第二第三の才をももたらすに非ずや。自己一個の主人たるには主義もたざるべからず、またこの主義は成長あらばしばしば改新せざるを得ず。
 暇つぶしは理性の自在な発達を養生す。而して人間に気晴らしを許すべし。その功罪の罪の悲惨にのみ目を向け功の偉大を退ける臆病は真の勇気の沙汰にあらぬなり。
 パスカルによるかのごとき対ギリシア保守論客の見解は人類文化に遅滞をもたらすものにして、ヘレニズムの英知をかろんずるヘブライズム偏向の狭量と言わざるべからず。もし賢あらば以上わが述べし見解の善悪をよくよく考察せよ。人間の最高幸福とはなんぞや。和辻曰く幸福は風土的なりと。されどカント曰く、理論という語に最も今も保存される意味で理性の自律した使用はこれすなわち信の行いなり。ならばあらゆる風土的な幸福もまた、様々な文化を通じて信ずべき理性を目的にするのは明らかなりき。文明とはその結果なりし。いかなる未開の部族にも人類ならざるかぎり語族としての文明は存在す。その分妙は必ずしも厳密に決定できずとて、突然変異による種の差異の範囲で仮定し真理へ漸近させることはなしあたうべし。

哲学のひきだし

学校は知識を教育できるが、みずから学ぶ哲学の心を与えることはできない。唯、ある程度のまねびの手ほどきを与えられるのは事実だろう。従って学校の最大の価値とは優れた同志のまねができる環境にある。学校教育に価値があるのは衆知の平均を向上しえるからである。学校が真理を生み出すのではないし、むしろ集団教育は独創性を摘む場合が多い。ダ・ビンチやエジソンばかりかガリレオやニュートン、アインシュタインも独学が主体だったことを思えば、我々はつねに「例外」的な天才を許容する余地を持って教育の任に当たらねばならない。教育には教えよりeduct(ひきだす)心構えがなければならない。人間は個性を通じてしか理解をしないものだ。比較していかに出来のよくない生徒でも、哲学する心さえ養生できればみにくいアヒルの子になりえるかも知れない。ニュートンやアインシュタインでさえその思索的な天才性によって幼い頃ただの劣等生扱いされたことは歴史が記録している。重要なのは成績というゲームの点数よりも、智恵を愛する心なのだと指導せよ。いずれ哲学者は秀才の群れを抜きん出る。

2007年9月19日

学歴論

女性の高学歴化には少しも憂うべきところなし。唯、命令は男性の尚更の高学歴化に過ぎない。生体本来の出来栄えには性別格差あり、同じだけ努力したところで男性の方に知力の軍配が挙がるのは相撲を取らせた場合と変わりない。そこに特徴あるなら、女性一般はその母体の必要から男性一般より比較的成長が早く、伸びが少ないという事実である。従って男性の成人は女性の二十歳に比べて三十路に引き上げられて然り、嘗てこれを丈人ジョウジンと呼んだ。その間、真剣に勉強すれば社会は劣等視する余地を持たない。男性の成熟のゆっくりさは貫禄といわれる。
 考慮されるべきは女性の学問の種類、女性学者は極めて少ないのが事実で、またそこには必然もある。なぜなら家内として構造的に最も適応的な女性という性別にとって、育児に無関係な知識の増長は却って身を滅ぼす原因になる可能性がある。それは男性からも男性としてしか見てもらえないような奇妙さをもたらすだろう。そしてこのような非家庭的な種が性選択で淘汰されるのは自然である。現代結婚は両性の合意に基づくから。よって、女性には家政学や一般教養という特別な学問部門が設けられるべきだろう。国際適応にはある程度の社交性を必要とするとあらば、花嫁修業的な女子大学における家政学部とは別に、一般大学内に一般教養学部を確立することは教育者の急に迫った命題である。現状では文学部にこの含みがある場合もあるが、それでは本来の文芸研究者志望と混同される節があり好ましいとは言えない。一般教養学部の新設は大学の必然となる。

国学論

一国文明の先導と啓蒙は均衡していなければならない。

2007年9月18日

文芸論

日本語がローマ字を用いるのはその必要に即した表意性のゆえ。

 教育キョウイクeducationエデュケーションは異なる言葉で発音により使い分けえる。

簡体字と漢字の差について

現代中国における簡体字にとって文字への表音的な単純化は免れない。高度に抽象的な言語を創造するには語族の創意工夫が存分に活かされて然り。

 仮名表記は表意能率の面から外来世界語を部分消化して利用していて自然淘汰的。ハングルは人為的な急進革命。

 語は必ずしも合理さが最良とは言えず、computer言語よりも日常語にとってはむしろ「多様さ」が確保されている事の方が文化の命題。来るべき工夫の土壌となるから。
 文と語は相関しており、両輪として歩む。

 近代日本語には英語・ローマ字が重要な消化対象となっている。これには、在来の漢語方式の整理が必須項目となる。文語は口語においてもそうな、多様可能性の一方で学習便宜としてある程度の整理が果たされていなければならない。

 仮名は約50音表記を平・片仮名で行う時点でもかなり複雑な筈で、読書人を度外視しても学生の学習用漢字の種類というものはかなり緻密に検討されてもいい。平成現行では約2000字もある。
(一説に中国での常用字の数は凡そ同数だが、小学校での学習漢字数は3600字もあり、日本の小学校の約1000字を大幅に上回っている。中国は東西文明の比較観点からは、どうやら大幅な徒労ということになるだろう。)
その中にはあまり実用的でないものも、また無駄に繁雑化されていたり充分ないしは字源系統合理的に整理されたりしていない混雑した字がかなり入っている。
 音をむやみに優先させることは漢字本来の利便を妨げる。英語に比べた漢字の利点は、もとの言葉にとってむしろその表意性にあるので必ずしも表音性にではない。
「ある言語内の多様性はその整理と等価の命題である」

 字学の二度手間を避けるには字源系統を明らかにしてのちに、合理的に漢字を整頓しなければならない。社会では自動で実用の点から抽象が行われる。
 現代中文字も古文字も繁体も簡体も、いずれもみな日本語における平均体の洗練へ必要次第用いる様な大文学の構えが要る。

日本語論

漢字の発音・accentについては閑却してしまった過去。これは唐詩のような美妙な体系を享受するのを妨げる。
 大和言葉やまとことばとよばれたがっている体系は決してもとのことばではなく、統治者層がつくりあげた50音仮名への編成体制にすぎないだろう。ここから、もののあわれや大和魂という国学の論拠が単なる中央統制主義的Ideologieとわかる。

数理学

知識はエントロピーの減少である限り、科学体系は法則を示す数式の単純化に勉めるべきで、導出過程の膨大な説明は徐々に省かれなくてはならない。従って我々の知識は時代を経て増進することはあっても破裂はしないだろう。情報ならいざ知らず、知識は認識の抽象、即ち整理だからである。デカルトが近代代数学を確立したことはニュートンの幾何学的な方法論以上に、我々の科学を進展させた功績を持っている。なぜなら数式はむしろ幾何学の抽象だからだ。
 自然法則と知覚しても構わない現象群を事象として整理する営為が自然科学なら、我々の知識体系はその究極の姿として真理の数式を要求する。なぜなら我々は、恐らくは偶然に栄えた十指という地球人類の原理から興った十進法よりも普遍的で、単純な記述様式を持たないからだ。数学はそれ自体で論理構造の開拓となるが、自然科学は数学による基礎づけを結論方法として採用することで知識体系の一層の単純化に寄与する。
 未来において子どもでも、我々の今日平均文明以上の体系的な知識を有するようになるのは当然である。科学は整理され続けるし、複雑な過程は省略されその伝承能率は向上し続ける。画家が市販の絵筆を利用するように、科学者は既存の定理を体よく使用する権利を持っている。もし疑問があればその個別の検証に当たればよいのであり、馬の尻尾を追いかけるようなそもそもの始めから先祖が辿った全行程をくりかえす必要はない。丸暗記が非難される謂われはないのだ。もしそれすら不可能なら我々の小学校授業の過半はピタゴラスのおはじきを延々と続ける作業に終るだろうから。

学術論

猿相手に真剣に論戦を張る者も猿と呼ばれる。もし学者が真に賢明なら、真理に仮説の衣をまとわせて自在に舞わせたらいい。前衛芸術は歴史の向こう側にいる未来人類へ説明すべき。よって、傑作は仕事というより趣味として振る舞う方がずっと利口。作品さえ遺産されれば歴史はその偉業を評価せざるを得ないから。
 あらゆる審美意識は確立した時には既に過去のもの故、同時代を照準にした流行の職業作家はいずれもみな後世の笑い者となる、即ちサロンの戯け。
 ダ・ヴィンチが死の床にまで秘蔵したモナリザが従来の歴史的肖像画や神話偶像図といった説明従属の慣習を排した純粋な人物画の領域を開拓する偉業だった事は、後世から一瞥すれば明らか。即ち、同時代民衆に芸術家本人より正確な審美判断は不可能。なぜなら審美力そのものが独創的な制作の原動力に他ならない。
 歴史に名を留める芸術家の過半が副業や方便としての後援を経由したのは当然。もし職業作家があり得るならそれこそは俗物だろうから。
 理論文明たる学術こそは独創すべきで妥協してはならない。その政治・経済との癒着も害であって益はない。学術家は清貧でなければ歴史の前に無力を晒す他ないだろう。同時代内理解に満足する者は俗物と呼ばれる。成功者としての仮面は飽くまで道具であり、真面目には成り得ない。

安部前首相についての国策的反省

安部晋三氏の国家ヴィジョンには見るべきところも少なくはない。しかし哲学的根拠が不充分なのは疑えない。以下その分析。

 智恵と指導力はかなりの程度相関しているだろうが、カントが『永遠平和の為に』で言及するように、哲人政治家はありうべくもない。むしろ実践者として政治家は、飽くまでマキャベリ的であるべきでさえもある。
 もしあらゆるアートがテクノロジーの昇華ならばもちろん日本には科学技術創造立国ないしは工学改良の優等生を越えて芸術大国となりうる土壌はあるが、かれの『美しい国へ』に示された政治思想には国民芸術に対する批判的基礎は存在しない。むしろこの点については別によく売れた同時代の俗説『国家の品格』の方に端緒がある。ここでは日本国体の比較的な長所としての感性論が語られるから。尤も、戦前退行的軍隊教育説は凡そ戴けないが。

 その美しいという形容詞は単に、彼の政策の持つ曖昧さを象徴した皮肉としても受け取れるのが結果論である。
 本の末尾において日本風土へ美しい自然という表現をとることでしかないのなら、政策そのものとは無関係な言葉であったと考えるほうが正しい。氏はおそらく趣味判断に用いる審美用語を国体批判に宛てたことで、新保守主義の文脈を日本人の風情を好む民情において何とか合理化したかったのかもしれない。やはりそこに論理的根拠は存在しないにせよ、文学的には感得しうる方便かもしれない。
 だが閣僚の相次ぐスキャンダルによって急に降板しなければならないのは本志からすればさぞかし無念であろう。安部氏に真実の政殉職の大義があれば、再挑戦の機会は将来訪れるであろう。政治とは実践であり、従って現実的経験値が理想より物を言うのは当然でなくてはならない。

 私見では政策論中において、軍国復古とも国際的に勘違いされ兼ねない安易な自衛隊海外派遣の正当化と、すでに文明平均からすれば成熟段階にあり逆に資源少国の命運に関わる創造性の養生が要求されている現代日本人の教育の再詰め込み式化を除けば、近未来の国営に関してはあまり巨拷な誤ちはなさそうなものだ。
 むしろ理想として低きに過ぎるところも感じられ、江戸における天下泰平、明治における富国強兵、戦後における高度成長といった簡潔な激にまとめるくらいで良いと思う。一端自由化を極限化して事実上民間風紀が破綻してのち、反省と共に福祉建設を目指すべき平成の世ならば、協和超米といった開拓的理念があってよかったのではないか。それはむしろ覇権者との積極的な相務関係を国体啓蒙する役に立っただろう。

独行

我々は衆愚と真逆の進路を独行することで偉業を達成できる。

経済学

ジニ係数には配分時と調整時の違和が存在し、その運動間を測る新たな係数が発明されねばならない。これには微積分より流率法的発想が役立つかもしれない。かつ、自由と福祉の微妙に曖昧なジニ係数自体では困難な事だが、新たな係数なら理想的値というのが定式化できる可能性がある。
 これを仮に余裕係数と呼ぼう。余裕係数には固定的ではない、運動力のような特定の数次方程式の範囲で、絶えざる社会変動の最中の国民の充足感をある程度数学的に指標化できるかもしれない。尤もこのような幸福感はむしろ量的なものであり、必ずしも質的なutilityを意味しない。却って途上状態のハングリー精神やプロテスタンティズム、騎士や武士のストイックな道の中にすら活力から来る高い幸福があるだろう。従ってミル的な質的功利主義の立場から更なる指標検討が必要となる。だが、一国民経済の政治的調整の指針としてはある程度、ジニ係数よりそれは有効な筈だ。

ひま

ひまは地位より高貴である。理想の為の母体となるから。

勤勉

勤勉であることは最大の退屈凌ぎである。

2007年9月17日

国家当為論

一国の命題は国民多様観と平均衆度の類内高潮を両立させる双方に発揮しなくてはならない。
 それは極めて一部の異常な野蛮類を国民の反面教師として飼い生かすと同時に、類内最高峰の文明種を大切に育て、かつその大衆平均の値を階調の微妙と同時に世界内の標準以上に保つ便宜を要する。悪意や犯罪行為への制裁と名誉に関する報奨制度や心理作用とは、要約すればこの文明の普遍性と云えるはたらき。ひとつの独自宇宙的秩序を構築するのが国家の当為となる。

人類観

その莫大な試行錯誤損失も人類の幸福の為には相対善をかたちづくる。男女共同参画社会とは即ち、弱肉強食と適者生存を旨としたダーウィニズム社会淘汰の方便でしかない。不調和な家庭より生活能率に害ある形態はないから。
 人口が飽和状態なら競争は種内淘汰を指向する。社会的闘争の勝敗は明暗を微分する。そうして格差多様観と人類を離れた新種を育てる。この失敗が貧民窟、成功が文明である。

政治学

政体成長説。
 主権在民の元で行われる間接民主政治は永久に最善の政体というわけには行かないだろう。それは少なくとも悪くはない政治家を構成員全員の了解のもとで選出する、多数決体系の凡例に過ぎない。よってその本質はいかなる方策を取ってすら癒着を催し、漸時堕落せずにはおかない。世襲はこの最悪の結果として現れる。
 民衆政治がいずれもみな衆愚化に陥り壊滅する運命なら、その国家救済を果たしうるのは唯、王者のみ。彼は抜群の指導力によって民族のあいだから突如立ち顕れ、煽動家を悉皆征伐し、大衆からの圧倒的支持を得て新たな王政を築きあげるのだろう。それは民衆が崇拝を仰がざるを得ないカリスマ的な権威によって説明できる。
 権威とは覆せない負債の謂いなら、その様な指導者は何らかの傑出した業績によってのみ育つだろう。なおかつ政治が政治行為によってしか成り立たない限り、恐らくはこのような偉人政治家は政界外部からしか生まれはしないだろう。つまり権威の援用が王者を産む。
 あらゆる王政がまた絶対主義に陥り壊滅する運命ならば、又この様な王者の元で脱出された衆愚政治といえども次の段階では貴族政治への萌芽を残していなければならないだろう。
 もし選挙制度をとっていながらに王権のなごりをとどめた国家に幾分かの慧眼があるとするなら、王政の基盤を抜本しなかった保守性にある。その切株からは新たな芽が萌え出し、やがては実力者同士の貴族階級形成への枝を伸ばすだろう。秋が近づいてくればそれらの若々しい青葉も封建政体に枯れて豊かな実りとして民主革命をもたらすと共に、再び衆愚の冬へと向かって生気を養う準備にかかる。
 政体循環の仮説が正しければ、人類の政治とは絶え間ない新陳代謝の成長に他ならない。その結果、文明そのものの段階は向上して行く。

2007年9月16日

業績

ある人物は職業ではなく業績で評議されねばならない。ダ・ヴィンチが自然科学者か軍事技師か画家か伽か問うことは馬鹿げている。

信仰

善を志す者は親しまれ、悪に堕す者は疎まれる。

2007年9月15日

性別役割分業の合理性

少数派の権利平等という面だけから、男女分業の効率を全否定する極端なfeminismには哺乳動物の理解や、文明化への本質的敵意がみられる。これは特にAmericaではげしく、社会規範化された中世社会秩序への反動にすぎないはず。
 男勝りの夫婦がそうでない人間を駆逐したがる光景は、総じて社会Darwinism内にいる熱狂的feministが人類への害意をもっている証拠だ。封建道徳にみられた保守的男女観が年少者に教育されるのは、性差論からも、貴族にとってのぞましいと再認識されるべきだろう。そしてこの面から性別役割分業の合理性が安定した社会にとって基礎的と理解されていい。

 次の様な見解が中庸的。仕事する高学歴女性は男性的存在として扱うべきで配偶者に向いていない。男性なら家庭的で貞淑な女性を伴侶にすれば良い。家庭より仕事タイプの女性とは離婚可能性から言っても婚姻関係に陥る価値は大きくない。

工学

熱効率の向上には限りがない以上、熱機関の改良はtechnologyの目的として第一に置かれる。

義務

人生とは地獄であり、生活とは地獄を生き抜く試練である。いかなる幸福にも救済なし。人間が自殺せぬ理由は理性が発狂しない理由に等しい。即ち決断の遅延である。これを義務と呼ぶ。
 我々は義務の為に生き残る。義務以外に生き残る理由なし。

2007年9月14日

恋愛と労働

人へ恋愛(生殖過程の美化した用語)を快楽として貪らせるのは単に、労働者階級を量産する便宜に過ぎない。

自民党総裁選について

私はアルツハイマー病を揶揄した麻生氏を信頼しない。人間は心情に無き言葉を持たないし、尚更発言はしないものだ。

 平均文民より倫理に劣る人物を首相に推す政党が与党であれば国家は亡命したも同然である。

現代政治批判

間接民主主義とは民主的選良による間接貴族政の意味なのであり、
世論の最大公約数を民意などと煽って直接ぶら下がり質疑する現代世論政のあり方は根本的に誤っている。

政治家は民意より党意、尚更我意を優先させて良い。それでこそ主権者は雇った指導者の能力を買い、正しく使役しうるのだから。
『孫子の兵法』を参照せよ。将軍は国家存亡の為には仮言命令に背くも善なのだ。

戦場

人生は戦争、人間は戦場、破れ去れば死、勝ち残れば生。一身の頼りになる人物この世になし。唯、己独りのみ。死して悔いを残すなら生きる意義なし。

物理学

以下定義。縦波横波は混同し易く不便かつ危険なので、疎密波と振動波という用語に改良せよ。

2007年9月13日

学生制服廃止論

制服がなければ敢えて服装において乱れる理由すら無くなる。一切の猶予なし。この点で学生に制服を科する意義皆無なり。

哲学も科学も文脈の違う文芸のみ。

自由民衆政の結果

女を多少あれ低質な労働力として男性代わりに使用したのは繁殖活動の抑制という他如何なる現実的結果もなかった。人口爆発は国家を亡ぼす故に、だろう。
 民主主義とよばれるIdeologieの原理は自由経済下では単に、皇室の様な大資本家による少数派支配を合理化する方便として機能してきた上、その最低限度を保障した所で構造自体に根本相違なかった。

東京人の観察

小田急線。人前でベタつく女。品の悪いカップル。知能がなく、猿と何一つ変わらない。煩く言葉を喋る分なお悪い。こういう愚物を低級労働力として酷使に何一つためらう必要なし。繁殖の奴隷。脳骸内に理性無し。

2007年9月12日

文学論

現代中に下等文士女史多し。されどあらゆる時代にも多かるべし。俗物の平均は一考だにすべからず。世俗間の無理解、却って後世名誉の基を為す。

相撲協会言論弾圧事件

日本相撲協会、北のうみ理事長、マスメディアで言論人を抑圧す。2007年9月12日付け情報参照せよ。

 曰く協会批判した人物の取材証没収す、と。官庁直轄の協会にては如何なる組織統治も不可能の義なり。もし改善の道あらば政府と一切分離し民営化の方途に尽さざるを得ず。応じて唯一の伝統芸能存続の方便たるのみ。

2007年9月11日

思索

匿名制度を濫用した2ch、Ameba piggの様な言論slum mediaは潰すに如くはない。

 人間には完全に匿名的な発言は不可能であるし、尚且つ、責任の範囲にしか自由の善はありえない。

2007年9月10日

肩書き

馬鹿には近寄らない事。近寄らざるを得ない場面も最大限に避けるに如くはなし。人生時間に限りあり。
 肩書きは仲間を分ける方便となる以上、利用価値あり。普段の人間の分類には外的付随物しかなし。

東京の観察

五反田、東急池上線、ホームの先端から売春罪業の巨大広告が誰しもの目に飛び込む。五反田人ほど無神経にして下劣な人種なし。この様なslum地帯にまともな人間は近寄るべからず。

2007年9月9日

個体

彼らが文明を築くのは宇宙にとっていかなる意味を持つか。単なる自然に理由なし。人間より愚かな生き物なし。死ぬ事まで知ったが故に絶えず恐怖心から欲求に逆らう。繁殖活動より文明建設を主眼にする者まで育つ。動物ながら動物らしさにあらがう。本能を抑圧し、集団統制を試みる。だが、大体は失敗する、戦争による組織崩壊。人間は万物の霊長に非ず。単に偶然から天敵のいないわずかな期間を永遠であるかの様に思い込み、調子に乗る。地上の権威を宇宙に延長して恥じぬ。ほんの小さな脳骸で。お前達が偉大だと信じている文明のいかに滑稽な事。単に巣窟を山ほど築き中で知能を遊ばせるだけの事なのに。どんな個体でさえも自死に至る。

2007年9月7日

台風

台風いつもの街を濡らしていく

2007年9月6日

文芸

文芸は科学に優る。それは普く人間を引き連れて行く。

2007年9月4日

品性の改め

人間はいずれもみな従前にまさる道を行くよう仕向けられ又実際余程の失敗がない限りそうなるものだ。
 しかしその歩みには努力格差がある。よって、このまさりかたの中途で選択を働かせるに、人間の品性改良へは人々に努力の習慣をつけるが良い。うまれつきすぐれた者は少ししかそれをてらわないが、最大限の努力でそうする者も似た状態をさぐるだろう。

2007年9月2日

政道論

自由偏重の民主政体は単なる国際競争の方便であり文明の目的ではない。それは持続不可能であり、遅かれ早かれ衆愚政へ退廃し、外的侵略で亡ぶ。文士はその中で現代政権死後の新芽の養生に充分準備しておけば良い。自由国家の老廃そのものは避けられず、寧ろそれこそ新たな再生の試金石となるだろう。持続可能なのは民主社会主義、又それを通じた中道政体であり、既に北欧三国では原型が実現されている。
 早晩アメリカの世界史中に必然な崩壊を傍目に看ているだけでは済まない日本に於いてさえ、「最先進国のモデル」へ向けて自らの脱構築を計る方法は存在する。それは彼と是、不良アメリカと善良北欧を明白に比較して、民衆へ近未来の模範を選ばせる事だ。
 強国追従は狭くなった地球で和平を執る為に最悪のシナリオの一つとなる。なぜなら覇権者の自由主義暴走とは単なる国際絶対王制でしかなく、いずれテロリストに革命される。破滅を避けるには当の王には気づかれないようにそっと、悪友の集会から徐々に足を洗うしかない。密かに精選した後発民間へ新規足場を築き上げたら、傲慢に陥った棟梁を革命する瞬間を辛抱強く待て。官尊民卑の悪習を一掃するには絶滅的な体制崩壊を一度通過した方が良い。
 現代人は恰も知らぬ振りで覇権者の犬たる日本人官僚を騙し、民主主義を闇雲に狂信させて自らの国家を破綻させれば良い。
 改良主義化はその後で充分だ。暗喩すれば、悪貨を根絶しなければ新通貨を流通させてはならない事。

 さもなければ単に国体退行に終わり封建体制は復活し、国寿は致命的に侵されるだろう。例えば現代中国が封建的中央集権体制を継続したまま民主化の振りをしたことで却って国体を虚弱化し、建国50年足らずのわずかな寿命をますます縮めた様に。

倫理学

本能も無意識の構造的損得勘定に基づく利己心。その顕れが文明内理性と対立均衡するのは単に生存闘争特性の射程差。男女性別についても同様。
 本能が昇華された感情という特徴が人類の近い利他性をつくる。理性が遠いそれなのと働きは等しい。
 究極に理想的な人間は本能と理性を高い次元で兼ね備えるだろう。両者は矛盾せず調和する。博愛や慈悲、という言葉の意味するところがこの過去の人類がうみだした例だ。

関係

もし人間関係を破壊したくなければ家族や友達とビジネスを始めてはいけない。

国体論

官民調和は国体の理想だが、両者は癒着してはならない。

忠告

親しい友人の真剣な忠告ほど人生の岐路で指針になるものはない。

2007年8月31日

東京人の観察

煙草を吸う女。こういう女から産まれた子供は悲惨だろう。生来不健康のハンディキャップはないから。

2007年8月29日

風紀

もし日本の市民をさらに進化させたければ、古き良きイギリス風の純愛社交の場を構造づける。プロテスタンティズムを消化して武士道と結びつける。精神至上主義を文学的に回復する等が有効だろう。

2007年8月28日

独歩

獣から遠ざかる程、人は貴い。人間には高尚な生活以外に指すべき目標なし。どの代であれ、同時代人はまともに相手にすべきほど立派ではあり得ない。独り歩め。しかしながら、既存した伴侶は愛せよ。

世の中

経験程人間を愚鈍へ誘なうものなし。なぜなら世間には俗物が住んでいるのだから。人生経験は多彩であるべきではない。もしそうであれば感性は摩耗するだろう。可能なかぎり白紙であれ。と同時に世知に長けるよう工夫を尽くせ。
 単なる知としての世間と世馴れとは人品をはるかに隔てる。君が雅たりたければ最小経験と最大知識とを目指すのが良い。あまり世に出るな、隠れて暮らせ。知り合いを増やすな、自由時間を確保せよ。

2007年8月27日

信仰

愚民は純潔の意義が道徳にある事を知らぬ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。

君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。

2007年8月25日

性愛論

一夫一妻制度に適応しない個体は淘汰されて行く。人類は種の最多種化の為、如何なる個体へも繁殖の機会を提供しようと企画するから、害他的変異、つまりそのくみあわせをへらしてしまう姦淫を行う浮気者と、場合によっては同様の業を制度化する多妻主義者だけを厭う。
 地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
 性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
 自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。

2007年8月24日

社会的幸福論

幸福そのものは人間の調和を意味する。社会と自然の調和が人間を築く。我々は獣性から神性へと絶えず導かれる。人間には度合いがあり、個性はその多様観をつくる。しかし如何なる個性と雖も精神向上への漸進にある。知能は人類を獣類からしかと見分ける唯一の特徴である。従って精神性も知能の範囲にある。それは彼らへ特定の性格を持たせて遠類の不条理から離脱させた。
 人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
 だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
 絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。

文明論

文明化が野蛮からの脱出である限りそれは知能に原因する人間の精神化だろう。
 福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
 自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。

2007年8月23日

実践理性と死

もし理性という働きそのものからの解放を求めるなら自殺する他にあり得ない。
 義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
 生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
 人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。

定め

自由意志は定めある限り成立しない。定めはあまねく往き渡る。我々の演技は定めの完成の為に繋がって行く。

聖性

権力構造は同時代的な作為である以上、理想趣味の為の利用価値しかない。政治家はこの意味で実践者としてしか存在しない。些かもその価値を減退する内容ではないが。
 アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
 幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。

人類文明論

人々は宇宙の形態の一類に過ぎず、自らの集団生活を保つ為に文明を営々と築き上げる。彼らの構造はこうだ。しかし、なぜ君の魂はその中に含まれてしまったのか。実存は単に偶然でしかない。だが、その偶然は一度起こった以上何度でも繰り返される。人間は永続する。それは精神という仕方で永久に生き延びようとするアキレスに似ている。すべての文化とは哺乳類の繁殖活動から離脱した個体群による架構。人類の貧弱さを省みれば彼らは猿類界の敗惨者だったが、同時にその逃避によっていつしか新たな一族を物す。人類はそうして成立した哺乳類の一類だったし、これからも命ある限りそうだろう。果たして哺乳類自体にどのくらいの生存力があるのか我々は究極のところ想像的にしか予測できない。だがその想像は彼らに信仰の基礎、当為ないしは理想を与える。文明は理想に協賛する一族を新たに人類内に建築しようとする。文明人類とは人類そのものと次第に区別される。いわゆる文明国とそれ以外との格差の両端は永久に縮まないだろう。両者の中に存在している最高度の知能とチンパンジーに類似した野蛮人との生息条件とは殆ど同じ生物だとは感じられない程に異なって行くこと。
 全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
 どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
 芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。

男女別義

数十億年かけて育んで来た地球生態観が朝礼暮改なしうる筈はない。よってfeminismは単に方便の増長をもたらすに過ぎない。白人社会で男女同権が適応的となったのはアメリカ文化のわずか200年前後の影響波に過ぎず、いずれ矛盾の露呈により愍滅されるだろう。
 市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
 文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。

2007年8月22日

芸術論

文学に於けるrealismは絵画や彫刻に於ける場合と同様に幻想に過ぎない。芸術についてrealismはillusionismの換言である他ない。
 幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
 文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
 あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
 自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。

思潮論

学術は文化史脈上にしか実在しない。それは見えない人々にとっては生涯見えず、見なくて済むものでさえある。
 文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
 又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。

2007年8月21日

脱自由主義説

人間の世俗的価値は肩書きにしか存在しない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。

権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。

 爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。

「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。


 我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
 調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。


 日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
 しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。

世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
 それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。

いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。

2007年8月20日

生死

全ての人間は時を経て死ぬ。その人に価値があるか否かは他の人によってしか測り得ない。人は人間にしか存在しない。意識を失う瞬間が自然に訪れるとは限らず、人間は常に生き方の表示を延長させて行く所にのみ存在価値を見出す他ない。生体ある限り如何なる栄誉に対してすら欲望の源が満たされる事は無い。
 全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
 理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
 時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。

2007年8月19日

文学手本説

文学は聖書と雑誌の間を媒介する中間的書籍で、その衆生啓蒙性にのみ価値がある。世界宗教無き蛮族は何らかの信仰なしに心身健全を保ちえない。よって社会環境の編成に伴う新たな手本が需要される。

 文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。

 カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
 仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。

 文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
 辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。

Feminismの考察

自然が分け与えた性別の理由、彼らの分業の用に足る様設らえられる。
 突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
 社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。

思索

強者の地位を狂気から救うものは喜捨のみ。

2007年8月18日

隣国

日韓の根本相違は神道の裏支配しかない。

商品開発

アルコールなしのビール――都会向け健康飲料として。

2007年8月17日

思索

真善美は聖の側面。それらの三身が理想を創る。

聖性の側面

科学・哲学・文学とは文面の抽象‐具体度の偏差値にすぎず、且つその境界は厳密ではありえない。知性・理性・感性とは各々の文化傾向のいいかえ用語にすぎず、優劣ですらない。それらは単に思考性質の三種であり等価と云われる。
 我々はかの三頭を高める務めを負う。それらが融合する事は必ずしも正しくなく良くはない。

地政学

歴史は風土へ時代様式を降らせ、混ぜ合わせたり押し流したりする。だが固有の命脈は世帯を超えて繋がる。種は適材適所を択ぶ為に定着しなければ引っ越しを繰り返す。遊牧民族に於いて土地は血統へ帰納される。

2007年8月16日

文芸論

文の進化は共同化の進化に並行的。それは文面に於ける抽出であり、文通という芸を風雅にする。
 もし記号を含めれば学術とは全て文の組み合わせにすぎない。我々の認識はこの文学の指導に従う。なぜなら確定性、つまり検証可能性の高い文面は口頭よりも普通、抽象し易い。

純潔度

例えば古代日本の社会に於いて、階級や地域に応じて男性の貞操が差ほど重視されなかった背景には地政学的理由がある。それは各国で王権の世襲状態にみられた様に、多妻の種を通じた繁殖速度差により群れ権力を寡占しようとした絶対主義の必然的独裁にともなった文化で、世界宗教からみれば退廃だった。現代でも猿達と同様、商業的大都市圏にこのなごりがみられる。

 近代化が昇華を方便として内発的な発展を志向し、充分な人口密度によって以上の構造から自らを解放しようとしても不思議はない。所がこの様な作為が全ての風土で完全に成功することはないだろう。文化律は、よく特定民族的でさえあるからだ。

 日本人なるものが再創造的な文化規制によって恋愛観念を消化したにせよ、その根本義は独特の慣習へ回収されて行く。夫婦の大倫は男女相互の貞潔によってしか充分に図られ得ない。それは独裁化した天皇家をはじめ古代のどの低落しきったSodom的倭へさえ正妻と他との差別として婚姻関係へ要求されて居た。そもそも性愛倫理の要求は社会秩序である。従って「例外」として一部の絶倫へ白眼視されていたにせよ種に於いて夫婦一対は幸福に値する対称形であり、そこで純潔は主要な善であった。

 婚姻前後に関わらず、他ならぬ一人のみへの献身は男女の関係を信仰の次元に高めた。それは互いの誠実の絶対的な信頼による不即不離の運命共同体を形成せざるを得ない。
 社会階級は経済的偏差によって国家人倫の大本へも微細な民度を配分する。倫理に於いても又、同様に子供の数とその育て方に千差万別の格差が生じる。それは来るべき新たな変化に満ちた時代への適応の準備として蓄えられ、微分されて行く。この流れが逆しまになるのは革命があった時を除いてあり得ない。民族的統一という幻惑の煽動される時はその致命的な危機より勝るはない様に。
 もし純潔が善の規律とされるならそれが階級秩序の方便となる。ある生産制度下で支配と被支配階級の頭数を統率する為にも、倫理は存在する。

 純潔は度合いのみならず尚更信仰を要請する。意思に於いて裏切りが存在した際には既にその定義は失われてしまう。

2007年8月15日

東京文化の観察

電車内にて人前で化粧する女。低脳をみせしめにするための儀式。

人は自分の人生を択ぶ。教養の程度が愛憎を図る。彼らの本性は世界精神に規定されているのに。生存競争、世代交代、どこ迄も終わりは無い。辛く長く、意味も無く、人生は丁寧に束ねた光のように儚い。遊び戯れて死ぬるわずかな間を延びる現象。追い風の為に向かい風の為に棚引く祈り。命。

路頭

近代が引き裂いた二つの世界の中をさまよっている。人類の生活、彼らは境界を侵し、やがては無に還る。日本人は他のあらゆる西洋人と同じく、別の仕方で愚かしく尊い。だがその為に何があるだろう。他の東洋人も何も違いない法則の元に生まれていた。進化の偶然を利己主義に引き付ける丈では誰も孤独から脱し得ないのに。孤立して在れ。いずれ全ては未完なり。

2007年8月11日

武道

常に人を打ち倒しえる姿勢を備えていなければならない。人に打倒させ得るが、自らに打倒できない場面に究すれば補佐するか、退け。

配偶論

自由恋愛の奨励が即風紀向上をもたらすというのは誤解なり(例えば福沢・漱石)。結婚とは偏に経済的担保の共生契約に過ぎず。恋愛とは目的に非ず、その契約制度に期待された自由な配偶選択の機会幅已。
 どころか、現に抑圧の意図的に解除された恋愛環境に於いて、却って猶予の延長はその退廃をもたらす。彼らは性愛を悪戯けへ弄ぶに過ぎず、結局社会的生産力へ直に繋がらず。出生率低下と離婚率上昇。

 もし風紀自体を向上させたくば、自由な配偶選択の奨励と両輪に家計を潤す経済体制を整えざるベからず。かつ、逆説すれば君経済的成長を見込めぬ時勢と察すれば寧ろ風紀の厳粛に孜々努めざるベからず。
 これ恋愛乃ち自由配偶選択と家計の秤なり。もし恋愛を解放したくば単に家庭を築く家計を潤さざるベからず、又既に家計を潤さば風紀の厳格を社交に浸透せざるベからず。衣食足りて礼節を知る、之又交際の発展に関しても同様。

2007年8月10日

日本の徳

中国を含むアジア連合を避け、アメリカとカナダを含む太平洋連合に協賛する方がどれだけ世界史に福祉あるか知れない。

近代文明論

知性、理性、感性はそれぞれ理論、実践、技術すなわち真、善、美のための知能特性に由来する。科学、哲学、芸術はこれらの文化。私はこれらの文化を総称して学術と呼ぼう。学術に於いて三権独立は必然となる。
 近代文明人は学術、政治、経済という自律すべき三権の調和を国家運営へ応用する。それらはやはり同様の理論・実践・技術の組み換え構造と考えられる。もし国家連合が可能なら、以上を考慮して学政経の三位を国際的に建設しなければならない。また少なくとも近代政治に於いては、理論・実践・技術に当てはまる立法・司法・行政のいわゆる三権分立が準備となる。
 国際連合が充分に機能するには更に経済上の三権に均衡がはかられるをえる。これは理論・実践・技術にあてはまる家計・政府・企業によってはかられる。家計は消費を、企業は生産を、政府はこの両者からの市場によってつくられた配分のかたよりへの調整を追求する。国家連合間におけるこれらの自律した平衡をはかるには国際市場への適度な介入が必須となる。偏った超大国覇権の打破は集団制裁の国際包囲網によって可能だろう。

文学論

文学とは合理美の抽出。それは多彩性の作為と同時に文明の便利でもある。文体と文脈の揚棄が傑作を生む。教養と天才は不可欠であり、名品は万世を啓発する古典となる。文学は世界観の見極めによって未来文明への布石となる。最高傑作已が聖書として読み継がれる。我々が娯楽としての文芸を弄ぶのは審美淘汰の便宜に過ぎない。
 どのような書物と雖も最大多数の最高啓発則ち救済を目指している。文芸が哲学より尊いならその大衆性に因る。聖書が科学書より貴いなら同じ理由から。文学は聖書の更新。それは旧典を新たな智恵と折衷させて時世へ翻訳する文化技術。よって文学は宗教を土台とし、又その真理を抽象する。
 救済の度合いに応じてのみ文学の偉業は量られうるだろう。時代を通じて古典化しない明文こそが万民の参照に値する。宿世すくせを越境し続ける経典は古今東西人間世界の真相を穿うがって、理性的存在者の宇宙観へ仮設の信仰方針を与える。
 全ての明文は考えのかたちであり永久に聖書の完成たり得ない。文字に付随した観念だけが理想の契機として重宝される。いずれ一文字で全知を表現する迄、文学は続く。その大衆部を文芸と呼び上座部を哲学と呼ぶ。どちらも文語を通じた聖書の更新という目的に於いて変わらない。科学は数字を含む少数記号を利用して哲学すら抽象化した文化だろう。この方法で現行可能なのは上座部の内、最高峰の知識人を宗派教化する事のみ。科学は知性の宗教。その普及は閑暇への適性に依存する。よって風光明美な涅槃寂静で理論生活への宗教寛容がなければ、比喩の具体性を逃れきれない文学に比べて完全に抽象化しうる科学は一部の特権選良にしか共有される事は無い。いわば科学は上座を文学は下座を救う舟となる。それらは何れが欠けても人類文化を形跡しないだろう。
 科学、哲学、文学は近代迄地球人類文明が育み得た三位一体の活字文化だった。我々は感性、理性、知性という三つの特性をこれ等から成長させる事ができた。そしていずれの特性も近代文明にとっては不可欠となった。

2007年8月9日

創作論

芸術とアカデミズムは相反する。

数理学

宇宙の理由を探ることは数学の手段化を伴う。しかしその認識の限界は同時に手段に在る。総て宇宙論は何れもみな漸近的仮説に留まらざるを得ない。智恵の泉は学究過程の厳密化中にしか無い。物理は学び得ず、思想体系に参加しえるのみだ。しかし我々はこれらの体系を完成へ向かって永久に論理更新させて行く使命を負う。
 理性人の命題は真理の追求にある。真理が相対的にしか認識し得ないにせよ、我々が真理の確律を相対的にも認識しうることは則ちそれを知る経過を意味する。知ることは働きである。全知とは固定した状態では無く、知性の漸進性にとっての進化目的に他なるまい。
 源は果てについての思考と両輪されねばならない。もし片側だけ知り片側を知らない場合があれば、我々は宇宙についての概括にさえ達していないのだ。
 数学しか絶えず積み重ねて学び得ない。数学は我々現代人類が創造する唯一の科学言語である。

2007年8月8日

文芸論

小説は民族史を物語る便覧として役立ったが脱構築思想以後最早その国際定義は無い。語族は国語から解放されたと考えて良い。我々は遊民となる他ない。
 国際文学は近代小説の破格からのみ出発する。現代において私小説すなわち単なる自己中心的現実主義の文化的意義を主張する者がいればお笑い草にしか見えまい。文学的キュビズムは多視点を通じて実存主義的通弊、狭窄な自民族中央史観を悉く排斥する。
 国際遊民は多言語使用者としてしか文芸を創作できないだろう、たとえ翻訳文体を介してさえ。
 現代小説家は多声な物語を折衷する作為を通じてのみ、同時代に献身する筋書きを見つけ得る。振り仮名は詩人の手法であり、文脈の越境は複線的明文化に由る。それらは語句語法や語感の定義のみならず心情を多語族へ伝承する。
 現代文学者の第一声は国際人としての哲学でなければならない。
 だが、無差別博愛や熱狂的自閉がそれ自体特異な様に、或いは如何なる虚構や作り事へもこの個性的友情趣味は各種文化史脈からの要請を万世へ注釈する便覧でありうべき。つまりそれは当代独創的な着眼による文化批判でなければならず、なおかつ審美観点の位置取りは時空普遍的かつその裏付けに多定点なだけ良いのだろう。よって、現代文学の最高峰は碩学的教養と観照の天才なる聖性に於いて測られるだろう。良識に欠けた者の書へ誤った人類内栄冠を与えてはならない。諸文芸賞与論。
 その程度がどの文明を反映するかに関わらず、文明多様観は人類にとって先ず地球史脈型の秩序であるべきだ。脱構築は対流であり、凡そ自傷ではない。
 文学は聖俗の間に風雅を羽含む為に設らえられる特別な祭壇。それは例え何語を通じてすら、最新美観の定義を更新する本となる。

芸術論

反体制を生涯保たない限り芸術家は大成し得ない。芸術は浮利に反する。それが先覚的であればある程、棟梁は俗物を操作しなければならない。巫性はかの審美観の不透過度に因る。且つその美術価は時代の昇華度に依り存する。時代は普遍的・非共時的・通時概念であり、地域的限定を持たない以上、究極の芸術へは文化を超越して漸近しうる已である。若し君が権威に誘惑されたならあらゆる方便を尽くして絶縁すべきである。自己批判を失えば創作性は腐る。

2007年8月7日

ヘーゲル批判

多様観が目的だとすれば、文明は宇宙がそうである如く多声秩序を要請する。我々はギリシアの調和つまり理性が世界中の理想であると考えてはならない。それは文化風土的な当為であり決して万民の規範とは成り得ないのだった。ある時それは脱人間中心的・自然本位な調和となった。彼らにとって幸福はセオーリアによらなかった。そこで理性は感性に従属し、理論理性は技術理性の道具とされた。
 文化交遊を通じて已、純粋理性的存在者、人格は当然の進化を経られる。しかし実際には全文化の保身は不可能。住民の文明化は世界遺産を離脱する様に臨むもの。でなければ地球は何れの御時にか墓場の用地に過ぎない。
 何とは無くても均質化の破格とは元来不自然だと万世へ自覚させよ。観光遺産は壊死文化であらざるを得ない。
 外部からの伝統啓発とその保護買収とは分際に留まる。以外は侵略と呼ぶのだから。この文化的分際の中庸度は単に文明の経済力へ依存している。軍事力は兵器の後手となる。抑止力は侵略力の寡言。よって、もし貴方が少数民族の自然淘汰を憐れむならば私財を投じてその趣味的鑑賞に務める他無い。その国家的な意義は進化の渦中に在る万物誰にとっても存在しえない。
 私がヘーゲルに対して確実に批判しうるのは、統一されざる全体としての梵我一如にのみ現実は存在し又二度と存在しえないという道理。自民族中心主義も脱構築の洗礼を経るべきだろう。

装飾

女性は装飾性を認められるが為に、自体が価値証明ともなっている。

民族精神

「民族意識は魂の幼児期だ、その気質が形成されるのだから」
こういった考え方は、単なる思い込みである。ある文化の働きに対する慣れが、他の文化に適応しきれない人を生み出す場合を強調し過ぎている。つまり、何々人といった枠組みは政治的派閥を目論む権力者が、暴力団乃至政党を結束する為の嘘に過ぎない。

智恵の程度

人が哲学者であるか否かは智恵の態度に応じてしか見分けられない。

科白

孤独と評してみた所でお前が社会の子である限り、永久に道理からは逃れ切れまい。

何の為に生まれたのだ?
献身の為?
死ぬ時には誰もが等しい。
想像力の範囲に幸福を求めよ。決して現実に対して在る可に無い。

人生なる限界へ自覚的にあればこそ、成す可使命は偉大でなければならぬ。
信じるな、行え。
金の為に奔走する者、僅かに浮世の安住へ浮沈する者、何れも果たして虚しい。

隠れて居ても品位は壁を通じて伝わって行くものだ。
人間である限り我々の対象は文明。では目的は?

2007年8月5日

賢愚の言

愚民は物事を複雑にして満足する。賢者には一言で足りる。

2007年8月4日

理想の王国

彼らが文明を築く理由、我々自身の為に。しかし彼らは又、宇宙史の生存闘争者だ。我々の現代は僅かに人類しか理性人を知らない無知に縁起している。彼らの知能を啓発する事、この永久革命としての哲学を通じてすら、人類には固有の限界がある。この限界についての自覚、人間原理の追究は哲学の現代的命題。なぜならこの自覚を通じて限界の克服に努めることによってしか我々は理性の王国の目的を達する建設に参加しえない。
 我々の周縁性の尚更の自覚は地球文明に文化的な個性を育てる土壌ともなる。我々は宇宙の中央文明を見つけなければならない。

流行

流行に敏感になるには食わず嫌いを避ければいい。

2007年8月3日

天才論

我後生へ警告す。現世文壇に一切期待すべからず。現世文壇とは俗物の集合にして、堕落退廃の一大地獄なり。もし文壇にて人道を打ち立てんと欲すれば文壇を観るベからず、出版マスコミその他あらゆる付属物を省みるベからず。唯、当代最高峰の天才作家へ直接弟子入りすべし。天才のみが天才を見出す。これしか天才が世に出る道一切なし。俗物のみが俗物を見出す。俗物が世に蔓延る原因これ以外なし。

女性

女権は自由な男性が解放した。力と云うもののありかと愛玩化への適応がその姿をより女性化させてきた理由。

2007年8月1日

物理学

時の構造、空間によってしか規定されないか、どう時は出来ているか。