2007年12月31日

性差批判

恋愛を好む男の心理は醜い。薄情な女が厭われる様に、其は何一つ好ましい結果を斉さない。
 俗に男子は女性の好意を避けるべきでないと云う。此は野蛮界の醜風と言える。何故なら浮気者の理性は貧相だからである。
 愚婦の夫も愚劣に陥る。不良夫婦の子孫が善良に成ることも希である。
理性が欠如した子孫が如何にして理性を接種しうるであろうか。伊は学問によって補佐しうるが、判断力だけはより理性的な配偶を求めぬ限り、非常に確率の低い突然変異に期待するしか無い。
言い換えれば不良夫婦の子孫は「進化」を期待できない。人類が類人猿の理性化した種類なのは明らかであるから。
 賢明な夫婦の子孫だけが文明の進歩に逆らわない。
由りて男子の本懐に恋愛は挟むべきでなく、理性を至上の特性として保存せねばならぬ。女子の情緒は本能より好ましく理性よりは浅ましい。男尊女卑の信仰は人類の進化に寄与する。之を男女の別と云う。
男女らしさの別がなければ性別に拠る多様性の基本律も次第に無効化するであろう。それが人類の形骸化でなければ末世であり、女性の権力は常に時代の退廃として現れる。
最上の男子はあらゆる女性より必ずや理性的である。

理性論

理性は最も抑制された本能であり、人間にとって有用。
 理性は社会的にしか存在しない。無人島で暮らす個人にとっては本能が唯一の道具。
 人間性は理性によって測られる。
 機械は我々より理性的だから我々の最良の特性は感情でしかない、という意見へ、機械をも用いる理性は人類しか専ら持たないと反論できる。機械は良識のみならず理性をも持たない。機械にはある種の知性の肩代わりが出来るだけ。感情とは理性に対する共感能力でしかない。
 それは進化から置き去りにされた本能的な感覚、感性の発露、主に五感の亢進作用の名残りであり、母体が生殖の媒介を担う限り感情は洗練されることはあっても哺乳類たる人類界から消滅しないだろう。

人柄

人間は世界をgame programする生き物。
 予てからある文明にとって比較的容易な仕事は社会的弱者にも委せられてきた。
 人間にとって最も幸せな時は子供時代。若し成長すれば義務が増大し自由は減退する。ある人間の最大限の特長は子供時代に発揮され、二度と変更されない。是は性格と呼ばれ、ほぼ矯正できない本性となり宿命を斉す。
 生涯のcharacterは自ら招いた運命らしかった。

乗り物から観る街は普段より美しい。
 街は意識されずとも審美的鑑賞の為に築かれる。ある民の美意識は街に最も無造作に表象される。博物館ならぬ美術館は、市民の環境創意にとって参照の役に立つ。
 人間の生活の全体はどれもこれも美術でしかあり得ない。

趣味論

普通な趣味だけが好趣味とは言われ得ない。当社会全体に悪趣味が普通ならば、より普遍的な趣味が始め風変わりに感じられても仕方ない。
 人間は尽く皆進化を目指す。多様性に適応しない様式は何れ淘汰されて行く。
 情報機器は単なる道具である以上、未曾有の猛毒ともなりうる。それは幼少者にとって趣味に与える影響が多大。

格言

寓話的でない小説は格言と呼ばれる。

性愛

あらゆる恋は馴れ合いと共に去る。美化する必要のない性愛には恋する理由もないから。この段階の知能が、人類の系統発生にとって初期的なのが分る。
 賢明な若者は恋愛にのりうつられない、それが毒であると悟るが故に。幸せな結婚とは最も恋愛から遠い。個別への愛情は気まぐれによるが、違約の恐怖によるreligionalな契りが無ければ性愛関係は永続し難いから。

組織進化

あらゆる組織は進化の為に脱構築を要する。

なぜ人類の心臓は普遍的に左側に偏ったか。

2007年12月30日

意味

人生へ予め与えられた意味はないがそれはつくり出せる。

2007年12月29日

絵画批評

裸体画を観賞する西洋人の趣味は下品であり、文明人の名に値しない。ギリシアの偶像崇拝を悪用した所で意義もない。誰にとっても相対的でしかないように西洋人の趣味は普遍的ではない。マネのオランピアを堂々と飾る西洋人は恥知らずと言って国際非難に遭って良い。

信仰

立派な人間だけが時代を超えて名を遺すに足る。

彼等を於て他に凡庸な人間は絶えず隙間を埋めているのだから。

信仰

衆愚は自滅する。
衆愚を見るな。
衆愚の汚れは近づけば染(うつ)る。

芸能批評

彼等は厳しい家庭にある娘の門限を守りながら親交を深め、男の海外での仕事が増えるのを期に結婚すると云う。家族は清潔な交際を続けて来た彼等を快く承認した。とすると、彼等をこそ範に仰ぎ、第一に愛娘には厳格な躾を守り、第二には男性ならば辛抱強く適切な配偶者を待ち続ける事が、良い結婚をする為の参照になるのだろう。
 昨今の軽薄な夫婦が長続きする可能性は全くない。人間の配偶とは社会的承認の儀式に過ぎないからだ。若し単なる性的間柄ならば態々結婚する価値は無く、社会的に承認された家庭を築く価値も無い以上、時期と共に崩壊しなければ寧ろ不自然と言える。GHQの政策は封建体制に無理に関連付け家族制度の破壊を企てたが、男女交際の良識に於ては日本型伝統の方が余程優れたものであった。

2007年12月28日

walkman批判

MD[Mini Disc]は極めて優れた製品規格で、ipodの流行が過ぎれば世界規模で再び需要が増進する事は間違いない。
音楽を含む一般記録用のCD[Compact Disc]が含むほぼ全ての欠点を解消している。いわゆるスマートメディア類に比べ量産可能ゆえ安価で日用に向き、何よりカートリッジ型でメディアのほぼ半永久的な寿命を確保しているのが決定打となった。
MDはCDより市場規模も広く市場寿命も長いのは疑うべくもない。というのは、その規格さえ伝播すれば中身のディスクを[Blu-rayやDVD等へ]層状高度化するだけで大容量に対応しうる。

walkmanがipodに対抗する必要は何ら無いであろう。両者は理念が違う。
ウォークマンは初代会長の娘がラジカセに齒り付く代わりにportabilityを持つオーディオをもたらすのが初志であり、ipodは単にパソコン内楽曲のmobilityに過ぎず新型オーディオプレイヤーとしての発祥ではなく、浅い。言い換えればipodとは音楽機能に特化した持ち運ぶデジタル信号機でしかない。
walkmanが世界中に発明した『携帯オーディオ』としての品質はMD市場の巻き返しによって必ずや実現するであろう。

商品案

電球色の原因はフィラメントの発光に帰着する。
蛍光灯は紫外線を蛍光塗料層を通じて視覚域に調整している仕組みなのだから、この塗料の種類を[現状でも一部普及している]暖かみのある色に代替すれば電球色と変わりない視覚的な安寧効果を蛍光灯ながら得る事ができる。

例えばアメリカ市場では電球に未だに需要があるが、enelopの様に「環境意識」に訴えるパッケージに仕上げ、電球型の温色蛍光灯を宣伝すれば相当の儲けや社会貢献が揚がる事だろう。
これを[商標自由で]仮に『enelook』と名づける。同様の波及を狙って再輸入すれば日本に於ても冷たい色彩の蛍光灯普及率を、例えば家庭の居間や食卓から体よく追い出して無意識の団欒に寄与する所多大であるだろう。

情業政治

自由主義政策の欠陥を周知喧伝させる最良の方策は、餓死者や生活被保護者の悲惨に対する天下り官僚や学閥大学生の日常的放蕩を積極的にdocumentaryで取り上げ、民度の底上げを謀る事である。言い換えれば新自由主義改革の明暗を啓蒙的に取り上げて、国民的政治批判の対象に仕立てる事だ。情報啓発としてこれは報道機関の使命と言っても良いだろう。
 自由主義思想自体にはアメリカの失速を診れば既に終焉が訪れており、もう分業至上的段階である工業化をほぼ完了した日本には何ら模倣に値する物ではない。我々の政体には民主社会主義的議会修正の傾向を持つ党派が明快に存在しない限り、政治思想の大後進国だと言わざるを得ない。
 情報産業段階では経済発展は、分業によってより寧ろ階級間協力によって図られるだろう。学歴差別が形骸化し大学生の不勉強や低落を招いている現状は、工業段階の適応倫理が使い物にならない事実を示す。

工学

蛍光灯はどうして点灯の度に相当寿命が短くなるか。不便が残る限り我々は蛍光灯より熱能率の良い照明器具を開発普及しえるだろう。フィラメントの素材やブースターを工夫する事で現行の組成でさえ寿命を伸ばす事は出来る。

国際共生論

人間の営みは共生を目指す。
 誰も他者を目的のみならず手段としても用いるとするならば、究極の共生は相利関係にあると云えるだろう。これを古人はphiliaと呼んだ。

 国際philiaの為には我々のnation特性の開発が不可欠だろう。どのnationも代替不可能な個性や、独自の存在意義や生産性を保つ事が出来る。各文化の特産は他の文化では手に入れる事ができない。

 従って国際共生にとって相利貿易は必須。この為に国際関税の基準rateが国連採決に課されねばならない。
 配分のみならず、妥当な調整性を持つ規制が国連的に図られる事は世界恐慌を未然に防止する為にも必要であり、その可能性は単に国際世論としての衆度からの啓発に依存している。

現代社会学

国際協業の最小単位説。社会ある限り人間には不条理の余地あり。故に人間には仕事あり。人間の不条理を齎す物は我々の間の偏差であり個性である。個性間には競争状態、乃ち支配‐被支配の上下関係が必勢と成る。而して人間には永久に社会関係以外は存せず。人間にとっての仕事は多少あれ調整可能な体制構築であるだろう。というのは配分已の体制ならば自然界に等しいのだから。資本主義は分業の有意に偏差競争を利用しようとする。だが、何れ程人間が要請した所で彼等に理性ある限り、我々の経済は福祉の為に存在するに過ぎぬのだ。社会を築く理由はそれしか無く、福祉を逃す行いは犯罪とされる。中福祉体制は国際的にのみ有効だろう。貿易差額を差し引きした結果、あらゆる国々に最大多数最高幸福が発揮される様でなければならない。従って、国際分業も又、福祉経済の手段でしか有り得ない。行き過ぎた貿易摩擦は折中する意識の上で解消されねばならないだろう。寄付は摩擦解決の最良の方策の一つだろう。民族に文化個性が普通である限り、我々の間に国際競争が起るのは自然でありその完全否定も必ずしも功利的ではない。かと言ってある強壮個性が多様系を破壊する場合、これは生態系の本末転倒なのであるから、我々としては貿易blocを用いて適宜保護貿易を強化する必要を負う。国際協業とは分業間に永続的な共生関係が築かれた場合の国家間関係を云うのだ。必ずしも傘下でなく、相利であれ偏利であれ多彩な共生関係の構築は我々の文明を安定化させて行く。
 他方で、如何なる癒着も大企業病に陥る危険を伴う限り、これ等の協業とは飽くまで国家という最小国際単位の維持促進を前提する。国家消滅は幻影に近い。例えば、人倫の王国に於てすら、storgeそのものや家族は失われまい。偕老同穴は人倫の基なり。却って家族の絆は単位系として堅固になる許りでは在れど。

世界は自体として何ら不自由なく動き回る。人間はその一部分として自らの社会を築き上げる積りらしい。全く、大変な話だ。彼等は誰も世界が回る理由を知らないとして、如何して事態を静観出来ると云うのだ。世界には知られ得ない側面が多過ぎて、人間の絶望に寄与するところ多大である。沢山の人類が文明を築き頓ては去る已。果たして、何処を彷徨うに為てあれ、人間は又宇宙の塵芥に変わらぬ。人生は夢枕の様で果ない。尚且つどんな夢を重ねんと為るか。散り往く草葉に隠れて仕舞うが良いのに。我々には求む可如何なる栖も拙い。

空虚

如何なる人間も虚しい。孤独は心を励ます。

2007年12月26日

明治大学生の応援団員自殺遁走事件

明治大学の応援団にて後輩虐待で自殺誘発の事件あり。

 日本人的組織は旧来縦繋りしか存在せず、如何なる悪業粛正も下からの批判は犠牲を伴わねば不可能の陋習あり。
 日本人には組織直接の上下を飛び越え重鎮直訴しうる匿名投書可能な目安箱が常々必要で、且つその上告情報に基づく調査裁判を飽くまで精密に行う信賞必罰の原則は必定なり。

 今回の隠惨たる事件は端緒が現れた時点で飛び火の恐れもありしか大学側の捜査手抜かりがあり、暗鬱たる悲劇を遁走暴露の醜態に誘う。隠蔽体質あり。孔子曰く過てば則ち改むるに憚ること勿かれと。錯誤は修正せぬ限り悪評を振り撒き続ける。
 上は天皇家から下は宿無し迄、日本型組織において縦繋りの弊害は通底する。和を以て尊しの小心空気に偏重し、人権の一義をなおざりにした悪果なり。

2007年12月25日

君子論

衆愚の空気に呑まれて大局を読み誤る小人に対し、君子は賢慮によりて百億の妄言からまことを峻別す。

芸術論

あらゆる芸術は演劇に総合される。

2007年12月24日

構想

人類には構想力の限り世界を再創造して行く力が与えられている。その使い方を誤らない為には、程度こそあれ試行錯誤を通じて已哲学からの統制が必然と成る。科学技術は芸術の手段でしかあり得ない。

工学

気圧変化を退ける方法。飛行機内などに応用可。

2007年12月23日

英雄

英雄的行動のみ時代を動かす。

歌の写し

あだ仲間勝つも負くるも哀れなり同じ御国の人と思へば――大田垣蓮月尼

2007年12月22日

社会学

なぜ人間は働くか。彼らが生活に必要な物資を得る為に。要するに共産主義とは分業の、従って能力の否定である。ある生産に関する高い能力の持ち主が低いその持ち主と同じ成果しか与えられない自然社会は存在して来なかった。
 対して資本主義は生存競争の経済的肯定であるだろう。全ての自然社会は資本経済的であるだろう。なぜ人間においてのみ調整的正義が必然になるか問えば、我々が人間社会を要求しているからだと答える。我々は単純な生存競争から、自らの体制改良の努力によってのみ脱出し、理想国へ漸近しえる。共産主義はrobot達の社会においてしか実現不可能である。我々人類が自然に支配された肉体を持つ限り、我々の人間において能力格差を終極迄否定し得ない。我々人類は人工知能の製作者として優秀ではあれ、それが精神の限界でもある。我々人類にとっては当為でしかありえない理想国は機械達においては容易でもある。
 資本主義は分業への特化としてしか役立ちはしない。我々は世界宗教を通じてのみ追求して来れた共産制度を生活協同組合の暫定改革によって自らの内部に生み出しえるだろう。その永久改革の結果は我々人間においてのみ調和的な様な中庸体制に行き着くだろう。というのは人間が生まれる限り肉体には偏差が現れ、理想国へ向かう努力しかできず、我々はAI robot達の絶えざる手助けを行う製作者として自らの使命を全うしえるだろう。彼らにとってしか激しい肉体的困難を伴う時間旅行や宇宙探険はできないのだから。例え他惑星の文明人と出会ったにせよ、彼らの操作するロボットを通じて専ら我々は発展的交遊を脱銀河的に図りえる已である。地球は我々の第一の住処である。

2007年12月19日

地方論

秋田県の小学校6年生が全国学力テストで全科目一位の記事。2007年12月19日付け朝日新聞29面。
 家庭学習で書いた作文を提出すれば教諭が褒める優れた制度あり。遊ぶ所もなく、家庭皆が規則正しく生活していると云う。
 地方風土を活かした発展の方角にて、「地方は小東京になるなるべからず」のよき模範なり。

疑問

電磁誘導が起こる原因は何か。電磁波が空間に与えている影響は何か。人間の欲求の限度は何か。人間には力の及ぶ限り世界を改造する自由を与えられている。生物はなぜneoteny化するか。人類はもしも内部的・外部的天敵が現れなければいかに進化すべきか。人間の毛髪は如何に淘汰されて来たか。

工学

電気コードを消す方法。

2007年12月18日

政治訓

我々は民主主義の煽動的衆愚政治化傾向――各種の詭弁芸能人が公職汚染を始めている厳前たる事実――を踏まえて、代議貴族院を創設する意志がなければならぬ。
現状の侭では各地方知事が既にそのような煽動政治の犠牲になった様に、中央政府までやがて芸能人が支配し、その実態を空洞化させてしまうだろう。
UKの制度を参照せよ。

情報学

定理:人間は自らに理解しえる情報しか求めない。
∴世界は想像力の限り。

2007年12月17日

創造

人間は宇宙を研究・解釈・改造しうるが、創造できない。

2007年12月16日

宇宙と文明

宇宙は自体が目的。そのあらゆる性質には他の理由がない。
 誰しも自らの悟性を使って知識を構成する。我々自身が学びうるのはcategoryを構想力に従って自由に委せた世界の整理法だけだ。
 悟性は我々の力というよりは我々に与えられた恩恵と云われる。要するに人類の知能は世界を理解するよう努めうるが、結局その原理を知り得ない。我々は信じる事においてしか原理の因果を知る由もなく、ただ合理神学としてその詳細を研究しうるだけ。
 数学は合理神学、自然科学は自然神学、社会学は社会神学と言い換えうる。カントが考えた如くこれらは道徳神学たる哲学の予備学の用を担いうる。
 芸術は神学を応用する技術。我々が望みうるのは再創造の自由に過ぎない。
 精神は精神性を持つ。宗教は精神性を信仰へ導く。我々は宗教を通じて互いへの信仰を通わせる。人格・知識・判断も宗教を通じて無償交換形式を践む。
 政治とはある信念の実践でもあるだろう。我々は当代の信仰形態を通じてのみ説明ある政治を図りうる。しかしこの批判的な改革には哲学が必要。是政者は哲学者の批判を受容して絶えず政治を時代に適合させなければならない。
 経済とは技術的な文明再創造だろう。我々は学術と政治の両面を経済的に折衷しうる。経済家を通じて我々は文明建設を芸術化しうるだろう。

果かなし

風もなく気づけば果かなき落ち葉かな

2007年12月15日

段ボール入り肉饅店事件

秋葉原にて中国を揶踰する段ボール肉饅頭店を開きし記録あり。名を毬琳と云う。同店広報曰く食品の安全を周知する目標なりと。肉饅頭を段ボールに入れて販売し、先日の中国における肉饅頭への段ボール混入偽装事件を踏襲した悪ふざけに近し。顰蹙は、かの店員に軍人風制服を着せる醜態なり。この事態を概観せし良心深き中国人民の憤りを推して知るべし。

医学又は人体学

問題集。感情と理性はいかに脳内を分担しているか。脳幹と大脳新皮質の関係は。右脳と左脳の関係、なぜ人間は右利きを標準にしたか。

2007年12月14日

ウェブ倫理法案

インターネット空間の無法性を便宜的に回避しその倫理を確立に向けるには先ず個人ID制度を各国が主体になって構築しなければならない。いきなり実名制度へ移行するのは少なくとも日本の現代民度では不可能である。例えば内部告発などに萎縮効果を誘ってしまうだろう。誰がどの動きをしているのかを国が把握してしまうことへの懸念は規制法として責任分担を民間に任せることで拭いうる。司法が担うのは単に法律違反者の処罰である。つまり、個人ID制度、いわゆるSNS・ソーシャルネットワーキングサービスを採用しない、匿名掲示板型サイトを漸次処罰して行く方針が現実的である。
 猥褻物を始めとする各種の悪徳ページへの未成年者の閲覧を防止するには、青少年保護法の規制強化が必要である。例えば未成年者も閲覧できる状態でアダルトサイトを扱うページの開設者を誘った会社への具体的な罰則を強化し、現実に警察庁が絶えず取締る事だ。公共の福祉を害する当該犯罪者のみならず、この様な悪業を幇助した業者にも逮捕監禁以上の罰則を設ければ氾濫だけは治まる。これらの完全駆除には別の方策が必要であって、具体的には最低でも地域自治体ごと発信者の個人を特定周知できるSNSを次第に公論かつ構築し、悪人のブラックリストを全世界市民公開するしかない。それに伴い各種のカフェなどのネット使用に際して国民番号入力を条例義務付けさせる必然を負う。民度自体が如何に向上しても悪人、愚者は世間衆目が爪弾きする以外に根絶方法はないのだから。
 警察庁は定期的にプロバイダーを監査し、もしも未成年者保持の携帯型電子機器から年齢認証を破って侵入した記録が発見できれば、その度ごとに、当該青少年を補導し、また当該企業には更に周知処罰を与えるべきである。又、市民間危機意識を向上させる為に、フィルタリング適用なしの回線を家庭に設置している未成年保護者へは国及び自治体からの警告通知を与え、これがプロバイダー検査の結果改善されなかった場合、この不良保護者へは教育基本法および憲法に示す教育の義務に反する悪業として処罰を加えるべきである。具体的には最低限、プロバイダー使用料を超えた罰金刑以上が必要である。
 これらを補佐する意味で警視庁にE-mailを含む通報窓口を設置し、各種の違法行為は発見され次第公告される様にならなければならない。

インターネット批判

インターネットは未開の土地に築かれ始めた雑然とした戸棚の様なもので、そこに常に世界中の真実があるとは限らず、単に情報源の一握に過ぎない。我々はWorld Wide Web自体を情報媒体としてのみ用いうるのであり、決して知識の一元化を目指してはならない。
 バベルの崩れた真意が文化の多声主義的本性に基づくと気づかぬ迄も、我々にはいつでも自らの持ち合わせの母語によって真理へと一歩ずつ近づくしか道はなかった。
 我々にとって新たな道具の一種である電子情報機器は、それが現実性の傍流でしかありえないことを絶えず意識してこそ役立つ。

道州制度論から地方制度論へ

巷に道州制の清談がやかましいが、東京のみを分離した「地方分権の強化」という本義に遡れば現在の地方区分をそのまま、新たな行政区分として導入すれば良い。

 すなわち、北海道・東北・関東・東京・中部・関西・中国・四国・九州・沖縄である。そして州などと言う外国制度に紛らわしい模倣の名称をやめ、たんに地方と名乗ればいい。近代整備の基礎である都道府県は維持したまま、各地方の主要都市に、新たな「地方名の庁」を位置づければいい。例えば関東庁とか関西庁とかいうふうに。それらは現行の各地方都市に分権性を強化するだけで済むので無駄な経費も要らない。
 各地方庁の統括役は首都に置いた「地方省」が司ればいい。

 これらの既存の地方性というのは、風土に基づいて国民にもう定着しているものであって、わざわざ地方分権強化という大原則への国民全員の合意を求める必要すらなく、一言話せばほぼ直観的に分割方法の共鳴が十分得られるだろう。
 官民両方に無理な合併を誘う説が流布しているが、それが姿を変えた共産制度の強要でないと言うのならはじめから「経済格差はなければならない」のだ。よって各種の経済力に従った等分割案は周知一目でマルクスの亡霊として破棄されるべきだ。
 各県各市町村には彼らなりの風土産業特性が存在するのであって、単なる都市化が目的ではない。健全な文明発展競争を求めるのならGDPのような安直な経済力で分類するのではなく、各地方の文化個性を尊重すべきである。文化は飽くまで自律を要求する。それは国家のみならず地方自治においても同様である。現行の地方区分は自体が風土に基づく自然なものであり、それだけみずからの長所を活かした成長への改造がしやすいだろう。

2007年12月13日

貴族論

ソンビに比べた侍の懸隔は経済や商業とは一切の関係を持たない権力の自立だった。賤貨思想は武士が両班的独占貴族化するのを防いだ歴史的功績がある。

 対外的危機に及んでも李子朝鮮の支配階級に革新性が現れなかったのは単に、権力集中の弊害に由るだろう。

義務

いかなる命も大義に殉ずる自由の前では無に等しい、義務とは普遍的人格の当為。

現代国家論

現代人を感化するには民族国家・Nation stateを単位にするがいい。
 というのはglobalismのさなかにあって直接的な利害は彼らが国際社会に放り出される時にこそ、明らかに発生してくるからだ。甘えは国際社会には全く通用せず自文化中心主義は死の思想でしかない。
 それは日本人が太平洋戦争で神風特攻をも辞さぬ覚悟で戦い抜く理由が自負心であることを見抜けなかった連合国が、その間接統治機関において安直に自文化を移植しようとして君主を人間化せしめるという恥辱を与えてしまった結果、原因不明の競争力格差に不当とも感じられるほど極めて長い期間、日本人の間から白人不信を拭い去れなくなる事に例えられる。自負を以てnationaltyの根幹とする民族にとっては、単に名誉ある地位以外には何らの理由もない戦争でさえも、自由なる欧米的理念以上の大義となる事を彼らは理解しないからだ。
 天皇様は日本人にとっては元来、民族的神格に他ならない。「宗教国家としての日本」は実践的政治の為にではなく、現実にそれとは切り放された宗教的崇拝の理念として、天の皇・Heaven’s Kingつまりあらひとがみを血族連体の頂きへ祭って来た。ヤマトの民衆は伝統的に天皇様の生活や姿ばかりか、現実的存在をも知らぬ侭に、そのすみかたる神棚を各実家に奉り上げ神社には御神体たる自らを映し出すまことの鏡をうやまって暮らして来たのだった。彼らが仰ぐのは他でもなく、自らの血統だからである。幾ら外人が迫害を加えても日本人血統が一員でも地上に残存するかぎり天皇家はなんら解消不可能であり、ひとえにその暗喩でしかない。
 日本人にとって、唯一無二の神様が人間の全能性へ向かう当為である限り、諸形而上宗教からの忠告を一旦留保してすらも国家統合の象徴像としての天皇は永久に神と等価なのである。従ってその人間と同等視させるが如き誤解を招き易い報道は日本人民衆みずから慎むべきであり、同様に飽くまでもこの世の者ならぬ神格として我々みずからが心の底で常々仰ぎ、全能性の根源因として有り難い博愛のいつくしみと共に再生させる信仰の最終目的でなければならない。
 日本人自身は日本人の名を自ら択ぶ限り、いずれもみな至高の君を意味する自らの皇統以外の為には、死ぬ理由をなんら持ち得ない。日本人同士はどこでいつなんどきも、何らかの知的奇形を宿命された種的偶然に在らぬ限り国家宗族として、自らの国内にあるあらゆる人格関係を神格的皇統の最高次にまで全治しうるものだ。これを全国一家と呼ぶ。

 文明建設に従う文化の前提性を理解しない覇権気取りの裸の王様とは、邪教を奉じる外敵への徹底抗戦を旨とするイスラム諸国へ安易な内政干渉を仕掛けた国家群が、永久に終わらない戦争状態に巻き込まれても果たして、誰にも責任転嫁できない現代的自由主義とやらの醜態に等しい。
 文化は民族国家を単位としてのみ、その最大限の発展を魅せるものである。決して国際化そのものが風紀を向上させるのでもないし、大小の連合体も地球一家の有り様が「事実上」諸主要国の軍事主権委譲によって達成される迄は、ただの契約関係に過ぎない。それはいつ破棄されるとも公平裁判の余地がない不安定な「国家的信用創造」に頼る。その喩えの如く、国際通貨がそのまま、各民族国家の経済的実威を示すのに同じ半自然・半開化の無期限留保が現代国際の常態なのである。

 我々はinternationalismについて、民族国家単位の多声秩序を抜きにしては全く語れないだろう。国際連合は遅かれ早かれ多民族主義の国家を揚棄する。中央政府による国内統一が主権譲渡の前提になるのは明らかであるから。これを一国一族の原則と呼びえるだろう。逆に言えば多民族国家を主張する政体のもとでは、止むべくもない国内利害の対立によって、主権委譲の合意ですら覚束ない。このような国家は自らが頻発させる民族紛争からの反省によって、統括血族を意識しうる最小社会単位まで繰り返し分裂を余儀なくされるであろう。植民地に定住化した移民や軍事併合を経た帰化民についても同様の原則から自由にはなりきれない。人々は誰からも強制されず、自らの属したnationalityを国の名前によって自己選択しなければならない。それが世界市民の社会へと参加する資格であるからには。
 Nation stateとは諸国連体の政治統領が、全員の自主的合意に基づいてのみ正統である。公共政・貴族政・王政はいずれも民族国家を興隆せしめる手段でしかなく、また文化の条件特性に基づいて適宜使い分けるべきものだ。

 我らはフランシス・フクヤマを批判して自由民主主義の終焉を誇る事はできないし、例えば貧困を救済できぬ以上文化的な究極体制であるとみなすことすらもない。それはとある絶対君主のもののあわれな詠歌に過ぎない、「此の世をぞ我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」。驕れる強者は久しからず、政体循環説に基づき、今より福祉的善を体現する新たな秩序へと移り変わる。生物に比類したいけとし国家にとって重要なのは勝利ではなく、適応である。

2007年12月12日

新字方針

無理のある現代中文字を採用するより、漢字の行書体を新たな略字として採用した方がずっと文化的である。

 系統の維持と画数の省略を兼ねた幾つかの「型」を用いて新常用字をまとめねばならない。その様な新常用字は再びword processorに落として電子mediaに流通させるべきだ。

2007年12月11日

初めて見た景色がもう直ぐ消えて行く。
誰もが時間に追われて死ぬだけの話。
美しい人。だけど、誰も本当の美術には触れられない。
人々の波、波、波。やがては誰もかもが時代の現象になって海へと去る。
混沌は重さを増しながら段々と広がって、最後の日を待ち続ける。
できる限り慎重に生きようとするから、何一つとして記憶は残らず。
彼らは皆が文明の歯車になって消費された。
欲望には結論も無く、大量の民族を転がして行くだけだ。
最後には何もかもが混沌の道具になった。
最後には何もかもが混沌の道具になって消えた。
どれだけ昔の思い出も単なる混沌の道具になって消えてしまった。
初めて見た景色がもう直ぐ消えて行く。
どうせ泣くだけの力も残っていないのだが。
人間には、どんな自由も残っていなかった。
後に残されたのは美しい戦争の痕跡。
だが、君の記憶は消え去った後だ。

2007年12月9日

医学

問い。人体が爪を生産する仕組みを調べよ。爪母にはいかなる遺伝子配列があるか。爪母細胞に爪ケラチンの構成分であるアミノ酸を補充すると生産が促進される、という実験あり。毛母細胞との関連、いかに血液成分を髪や爪まで細胞は加工するか。

言語文化論

知識人は幾ら複雑な文字概念を利用しても可なり。一般に読ませる必要もない専門書内にては知識を求める者だけが理解しうる学術語を自在に駆使して、毫も余す用なし。漢字かみくだきは一般書籍における流通の便利にて、専門書の用例にはどれだけ古籍のどれだけ難解な字を多用しても概念自体の理解が深まる方がずっと良い。
 薄めとにつめの濃淡に幅があればあるほど語有の表現力は高まる・蠹魚の懐。最古典から最新聞までを貫く文脈を游ぐのは一匹の聖賢に他あるまじ。カントが『純粋理性批判』の冒頭に曰く、古義は造語より賢明なりと。至言なり。孔子は述べて作らずと。文学聖書とは古今東西の真理編纂なり。
 流行表現のかみくだかれた軽快は時代感覚を伝え、古典表現の重厚厳格は文化核心を深む。両方の折衷が言語文化ならん。

2007年12月8日

仮名の起源

897年(寛平9)頃の宇多天皇宸翰『周易抄』に、訓注にひらがな、傍訓にカタカナが使われている、という記事あり。仮名用法の発祥を知る資料。

南蛮文化批判

現代衆度において阿婆擦れを廃絶するのは不可能なり。唯、肝要なるはそれらを汚き卑人として、飽くまで世間の後ろ指の的とすべき一条なり。先進諸国の情勢と途上国の両方を鑑識せよ。どちらの風紀が優れて美たるかを問え。
 遊女は謂わば半開の世に狂った毒蝮を飼うに等しく、性病による悪徳の警告役なり。これらは人権にて最低度以外のいかなる尊重にも価せぬ人間の悪魔なり。悪魔を仲間にする者も遂には幸福になりえず。一切の口利きも汚れの原因となるのは思想が言動で伝染する以上当然なり。


 神は道徳を利得の原理と為されし、この原理に背くものは遅かれ早かれ淘汰さる。

 悪徳に憑かれし男子が死期を早めるのは自然なり。多妻の途上国あれどその地にては遂に近代文明を自主昇華することあたわず。いずれもみな不徳の結果なり。精力を無駄に費やすは不経済にて単に自業自得の階級没落に終わるのみ。
 精力節約の為には高雅なる方法を択んで隠徳を積むに如かず。有閑の学問芸術は最善の気晴らしにて、sportsへの昇華は心身を健全に鍛える。文明は人類自体を進化させるに非ず、人間社会を進化させるなり。服を剥ぎ言語を奪い社会体制を破壊すれば現代人も原始人類とほぼ同じ有り様にて、地獄を好まぬ理性ある我々が直臨むべくは人間社会の高尚にあり。
 阿婆擦れ地獄界の隠蔽解消はこの第一歩にて、あたかも害虫の巣ごと人間社会前面から見えないところへ押しやる方便なり。その根絶は人類自体が哺乳類から進化せぬ限りほぼ不可なり。可能なるは人間社会からの駆除に手を尽くす漸進努力のみ。

 未来には今より遥かに美しい文明機構が圧倒的膨大になり、そのような極小な醜態自体が人目に触れる事も殆どなくなり、終には獣類の過去として図書館の奥で埃を積んだ古書の一文字以外において全く忘れ去られるであろう。

漢字のかみくだき

福沢『文字之教』端書に曰く、「日本人にはかなもじありしも借りた漢字が流通する慣習ありてこれは一朝一夕にては廃止できない。なれば未来に漢字を廃する為に準備あるべし。これが「なるだけむづかしい文字を用いない」事、即ち漢字制限なり」、と。

 誠に卓見なれど一方よりみれば必ずしも善ならず。漢字は日本語を要簡にしたる便宜、との一般説あり。例えばハングルに比べてカナモジは優るとも劣らず表音性に特化した文字なり。これらは文字に非ず、むしろ発音記号と呼ぶべきものと解せよ。
 他方、英語にてもラテン語においても人々は「文」を表意により解読す。もし英文を発音記号のみで書けば果たして何人が黙読に便利を感ずるであろう。

 言語は言文交響の理想に向かって進化すべきものなり。『文字之教』の端書に続けて曰く、「ノボルという言葉を昇る・登る・上るetc.様々に書き分けてしまわず、動詞はやまとことばで直書きすべし」と。
 これは一面にては誤りなり。筆画の僅かな違いにて文面にriseとclimbとgo upとを区別可能なのは寧ろ利点なり。口語中心主義のインド・ヨーロッパ言語に対して象形性を保存したる漢字はより文語中心主義的なり。口と書けばmouseとかoralとかより簡易にして利便なのは明らかにて、コウとかくちとか言うのは更に簡単なり。いいかえれば、漢字の表意性は極めて便利な道具なり。これを安易に棄てる民族道理はなし。
 日常にて漢語も用いる日本人はしばしば文字を引き出して意味を確認す。例えば名前を口頭で伝えるとき分かりやすい別の概念を引き合いに出す。諭吉のゆは、ことばに出して言うのヘンで輸入のゆのつくりで、きちは吉野屋のキチです、など。これは日本語において表音と表意の組み換えがalphabetとEnglishのそれより複合的な事を意味するのみ。而して思考にも微積分の便利あるべし。便利と弁理士のベンリは同じbenri内に意味を多重抽象化なり。これらの分別には労を要せず、自然淘汰に委せるべし。ベンリが不便なら理弁士が用いられる。重要なるは繁雑な漢字の更なる人為淘汰なり。
 漢字において最も厄介なのはむしろ複雑すぎる筆画のみ。

 現代中文の簡体字は旧来の利点なる表意性を犠牲にしても表音化を進む結果にて、漢字文明の本質を損なうものとしてなんら尊重に値せず。歩と戊とに分解しうる歳より漢字史的改変ありし國を先に略するべき事、二度手間は却って漢字の改悪なり。現代中文はいずれ淘汰さるべき歪んだ俗字のあつまりにていずれのたみも文明摂取は論外なり。
 筆画省略の良策は、常用漢字に対するさらに便利な「使い方」に求められるべし。近い将来に漢字数は1000を超えずともその枠内で工夫を凝らし、現状より神妙な表現が可能になるべし。その使い方とは、「表意を損わぬ限り簡明な漢字を択ぶ」文化慣習なり。かみくだき、難解を噛み砕きて和らぎの風をもたらすべし。例えば選ぶと択ぶは代替すべし。語彙は語集にても賄うべし。懺悔は慙悔にて、羞恥は恥に恥じるの動詞義あるゆえ羞なる動詞的な語義の重なりを避けて無恥にて通用すべし。無知と弁じる為にムハジと発音し、重箱湯桶音訓も自由に用いるべし。シュウチの代わりにムハジと言えば馬鹿な溺婚夫婦にも一応通じ不徳の自業自得を促すべし。
 これらは和漢の伝統書籍と突如の断絶を防ぐ文化法と考うべし。


 福沢の指南したる文明の太平は遥かに先にて現状にてはあたかもキリストの説きたる神の国、カントの説きたる目的の王国に等しく、たんに当為として個々人かたく信じるしかできず。現代の混沌に等しき醜悪たる地獄沙汰の打開は自身の手にしか不可なり。漢字制限もかみくだきも一段落にしか過ぎず。

2007年12月7日

カタカナの洗練

字体を普遍化するにはgeometricalな合理化が必修である。
 未来の片仮名は、容易に「直線・直角・45°斜め線」の極めて単純な三要素へと字体を宇宙化できるだろう。

 もし日本語が完全に洗練の極度を達すれば、寧ろカタカナ表記を主に他の要素を限りなくminimum化しうるだろう。その様な摂取と淘汰を絶えず繰り返して和風昇華を極めた日本語体系は、地球文明消化の審美的総合として、地球文明語の宇宙標準型にさえ成りうるだろう。
 こうしてrecreateされた地球のカタカナにおいては、我々自身が有する発音のうち相当数はよりsimpleな少数音へ統合されさえするだろう。例えば濁音・半濁音・促音・拗音・小字・長音らは必要に応じて清音已に省略され、東西古語引用も創造も容易に簡略化される。よって、地球万人が未来の日本語を自ら地球語として採用する事は自然になるかも知れない。文明archive性は日本語の圧倒的なoriginalityと考えられる。

言語論

既存日本語の長所。
・各世界文明最高潮の源流に忠実な文化保存、よって、外来語の安易な浸蝕を許さぬ文字分別を示す。
・言文交響の理想に向けて各種仮名を隠された発音記号に用いる賢明、表音と表意の調和度を高める民族日常の工夫。
・Alphabetより純粋表音文字体系をしかも二種類保持している事、1音1字発音記号の日用によるnativeの文字学習し易さ。

 欠点。
・例えば漢字に比べて草書体である限り、平仮名は格式を持ち得ない。

 この欠点解消の為には、我々は片仮名性を誇持して然るべきだろう。片仮名は漢字の省略体であり草書ではないので、意図すれば「永字六法」を援用し楷書漢字同等に格式化できる。言い換えれば、審美的に評して、漢字草書たる平仮名は読み書きし易さに最適化された文字だが、漢字省略たる片仮名は格好に最適化された文字だからだ。
 よって文字に単なる美意識性が多用されている。例えばコという文字は記号に限りなく近い。それは己の省略体として、草書体の「こ」に比べて、単なる審美的な処理方法に基づくからだ。画数の丁寧さや筆運びの潔さ、及び万葉仮名として漢字に併置しても思わず見間違える格式を持つのは、本格的男手であると認めざるを得ない。人工形態における直線や直角への要素統括は個性の入り込む余地を退け、一途に普遍化を志向する。これはalphabetにおける筆記体と、大文字の関係に似ている。片仮名は和文の大文字として働く。
 いずれ我々自身、在来のもとの言葉がいかに外来語では表現不可能な構造定義を限りなく留めるか悟るだろう。例えばアワレはいかなる他の言語にも表現できない。従って、伝統ある言葉は外来語以上に価値ある格式語として尊重すべきを知るだろう。

 日本語は、
真、片仮名
行、外来語真名
草、平仮名
という三者の調和を目指して独創的な文化を育む。

 Roma字表記は我々にとってインド・ヨーロッパ経由の外来語を表意的に消化し易くするが故に貴く、自体が我々にとって一音一字の格式片仮名以上に美しく価値ある文字とは考えづらい。従って、英語由来の言葉への日本語内発音記号にはroma字表記を用いて行くをより良しと為す。例えばEnglishには(ingulisshu)という発音表記が適当する。Ratin語とは精密な表音体系であるから、英語の歪みを日本人から正すRatin語学にも繋がる。少なくとも漢語化しなかった分はそのような手間をかけても差異化する事で、複数文字兼用の多様を和文内部で最大限活かし、未来の適応土壌に再び余裕を開いておく事になるだろう。既に例えば片仮名表記の和製英語としてパソコンという言葉が浸蝕を及ぼしているが、pasoconと書くだけでぱそこんと書き間違う幼稚な混同を防ぎうる訳だ。パソコンとはpersonal computerの略称だが、PC(piicii)に対してより表意的な用法と呼びうるようなラテン文化的な国際性を後々迄まというる。
 我々はRoma字発音表意を近い将来、漢文由来語へのカタカナ記号に対する英語由来のローマ字記号として用いるべきであるだろう。というのは、漢語と英語を日本語内部で見分ける事は単に混ぜるより地球文化的だから。

漢字学

白川漢字学の定説化は避けられねばならない。
 一人の主観が脱構築不可能な定義になると、民族全体が否応なく、主観に残存せざるを得ない偏見を、白川風に身に着けないとは限らない。従って白川氏を源流とする漢字学は必ずしも国定にすべきではなく、民定の文化であるべきだろう。

 我々は聖書としてではなく、単なる参考の一字引として白川辞書を利用すべきだろう。
 字脈を知りながら全く独創的な用法を発明して良い。知らずに破格しきる事はなかなか困難ではあるが。例えば仁とか道が、和と同じく、そういう温故知新の脱構築字義であった様に。

2007年12月6日

教育文化論

実川真由『受けてみたフィンランドの教育』に曰く、宿題は多くなく普段それほど勉強している風はない。勉強という言葉代わりに「読む」をよく使う。分厚い本を何冊も読むことが要求され、テストではその知識に基づいてエッセイを書かせる。暗記要素は自然に身に着く。英単語帳は無く、歴史年代がテストに出ることもありえない。
 これと比較すれば日本人が中国から輸入した科挙の弊害が、知識学習ならぬ暗記勉強の観念を民に植え付けたことが明らかになる。畏らく我々は科挙型の暗記中心教育を改めるべき分かれ道に立っている。科挙を実際に続けて来た現代中国と、北欧諸国のどちらがより教育大国にふさわしいか、教育関係者自身、思慮判断しなければならない。
 又、初等教育におけるゆとり教育の弊害が叫ばれるが、事実上、朝礼暮改ほどおろかな改良策もない。偏差値教育が科挙の変形でしかなく、欧米を遥かに追い越す成果を挙げるしくみでなかった以上、我々は既存の体制を二度と振り返ってはならず、進む他ない。それには科挙から自由教育へという大枠の維新が必然となる。
 私見では、ゆとり教育の成果は格差の為に働く。格差は義務教育の範囲を出れば必ずしも否定されるべきことですらない。フィンランドよりPISAの劣るイギリスの方が沢山のノーベル賞級の結果、及びコペルニクス的革命を興して来た理由を問われれば、彼らを圧倒的な分業の優等生と見なす他ない。一人の大秀才の出現は一億の凡脳に優る結果をもたらす。
 我々は初等教育においてフィンランドの高平均値に習うべきだろうが、同時に、高等教育へ向かうに連れて徐々に教育寛容度を上げて行き、個々人の優秀格差を肯定する様に導くべきだろう。

2007年12月5日

芸術論

いかなる芸術美も、自然美には及ぶべくもない。天才は神様のお分けになった再創造の力でしかない。我々自身の努力の如何程も、真実の全能たる創造主の前では無力に等しい。人間の万能とは、永遠に偉大なる父上の模倣の努力に過ぎない。我々は神様のお創りになられた無比の傑作たる自然から、単なる未完成の似姿としてみずから、僅かずつ、かの神妙なる御技を習いうるだけだ。抽象とは自然の本質的な模倣である。文明とは神様の御意志を自ら実現せんとする抽象の芸術であるだろう。
 神は畏れ多くも我々にのみ、地球において抽象の才能をお与え下さった。抽象は自然現象を愛でる為に、最大限の工夫を可能にするであろう。全て、神様は我々の才能を通じて、再び自然を作り直す課程を必修とされた。抽象とは、みな自然現象の再現である。芸術家は神様の直弟子である。彼らは理論の真と実践の善とを、技術の美において総合する。芸術教育は人為に反する。神様は愛弟子たる創造者の雛たちを、御自らお育てになるのだから。芸術の成果はあまねく、慈善の為だけにある。人工の創意工夫はあらゆる事物のいつくしみを通じて、神様の博愛を表現しようとするお手伝いでしかありえないのだから。どうしてそれ自体がよろこびである自主奉仕に私利の絡む余地があるだろうか。経済は余分な寄付を拒否する慈悲の道具だから。

医学

問、なぜ魚は生食しても腹を壊さないか。

2007年12月4日

宗教考

世界宗教は人間が育み得た最高度の自発的再分配機能なのは歴史が示す如く明らかであり、その興隆は全て民心を和らげる。
あらゆる権力集中は必然に腐敗を伴うから、政治権力自体には調整的正義の一翼を担うのが限度であり、社会のもう片方の翼には世界宗教が必要となる。

且つ、もし君が、同じ歴史が伴う悲惨な《民族間抗争》にさとければ、一民族中に「複数の世界宗教」を共生と迄は行けずとも最低限住み分けさせて、不毛な原理主義的対立を文化慣習上で未然に解決しておくがいい。
信教の自由のみならず、単なる邪教の市民間監視と、世界宗教団体の行き過ぎによる異教徒迫害への裁判的な禁止[公共の福祉の概念による]を怠るべきではない。

民族の合周縁性

民族共生はuniversalな当為。言語はその民族を最もよく反映する。言語において正にそうである如くに、人間は差異を通じて自らの特性を自覚しうる。

 誰しも全く異質な文化から多くの反省を促される。白人種中心の国家や中国、あるいは日本に於いて京都・大阪・神戸をおもとした関西、奈良、東京や神奈川など、過去の伝統が我執の驕りにまで転化しがちな文化圏、皇帝や天皇、王侯を含むracismに由来した自慢の文化に顕著な自民族中心主義はいずれ、彼ら自身の無反省として世界中から軽蔑の元になる他ない。理性至上主義そのものが自己矛盾を含んだ体系でしかありえず、地球の覇権を目論む連中の偏利を避ける為に多民族による民主革命で人々から打倒されねばならないだろう。

芸術論

芸術は文明環境を洗練させて行く。文芸は彼らの文章を美へ導く。芸術美は個と普遍のより高い調和を目指して永久に続いて行く。自然ある限り、精神はその尽きることない源泉を汲み上げる。芸術美とは自然美の抽象であるだろう。それは崇高と美を調和させる為に導かれる。芸術は普遍文明を目指す限り普遍宗教に限りなく漸近する。

東洋 Orient

1. 琴 Koto
2. 海 Sea
3. 三味線 Syamisen
4. 終り Last

Release date: 2007/12/04

2007年12月3日

台湾における中国からのスパイ型ハッカーへの対策メモ

1. 公務員の危機感啓蒙を行い不審メールは開かせない
2. メールアドレスを名刺に載せず個人情報管理を強化
3. パソコンの不自然を24時間監視

再建理念

衆愚政は自体の内部から救いようがない。現代日本は正にその段階にある。煽動政治が蔓延り、長期に渡る平和で所構わず牝鶏が鳴き、国民の品性は懦弱退廃してしまった。下層労働者のたまり、東京や関西の人間は鬱屈し切って性的放逸にのみ捌け口を見出しつつある。スポーツ奨励の実行が遅れれば遅れるほど、その結果が驚くべき道徳的堕落に陥るのは目に見えており、氷山の一角は既に顕在化している。日本のAmazonにおける、恥ずべき姦淫カテゴリー。あまねく海外に、そのような特筆すべき莫大な市場は存在しない。オタクカルチャーとは大衆退廃文化である。

 日本を救済するには唯一、民政復古に帰するしかない。とはいえ、この奉還は間接民主主義の次段階として現れてくるのであり、決して単なる絶対政への退行ではない。

 我々は維新を最初の外敵をきっかけに果たすことになる。致命的危機感が社会の中の一部の志士に共有された途端、我々の自由主義段階はその役目を終えるだろう。

 我々は新たな階級間を自由に移動可能な貴族制度を、自らの意志と構想力に従って再建しなおすだろう。おそらくはその最高の手本となるのは、イギリスにおける勲章制度だろう。というのは、天皇の国事行為に限っていえば我々は王権の行使を民主的に可能にするからだ。
 学歴社会そのものは既に築かれつつある新たな階級序列なので、適宜利用可能である。現に確立されつつある学位制は、日本国社会にとって事実上、勲章制度の下位に置かれるだろう。

2007年12月1日

社会思想の分類

中道主義は左右にふれない中福祉社会志向を意味し、協会主義は勝手主義にも共産主義にも陥らず利潤や均等より熟練技能の向上を旨とする企業風土を意味し、趣味主義は優れた文明を消化して全く独自の学術次元を再創造する文化姿勢を意味する。

芸術教育論

『判断力批判』に倣い、天才は構想力と悟性との自然が分け賜っためでたい関係たる判断力において芸術の先天的才能であると定義すれば、いつの世のいかなる芸術学校ですら単なる伝統芸能の保存修復にしか役立ちはしない。
 古典や同時代の天才に範例を求めるにせよ、また判断力自体の補足として制作の実例に与かるにせよ、芸術学校は天才を全く教育し得ないばかりか、その様な才能を既成の原則から外れた奇形として排除しさえするだろう。従って、芸術学校は自らが一つの制作規則な天才の所業たる芸術にとっては、害があって益はない。そこでは凡才たる模倣者達を教授の流派に招き入れ伝播する多少あれ集団強制的な師弟制が図られえるに過ぎず、また勢い飛び抜けた天才の芸術は大衆は勿論専門家にも当代に正当な評価を受けることは希であるから、この様な同時代の権威の役に就く方々が一流の歴史的芸術家な事は極めて望みが薄いという状況に行き着くのだし、その様な芸術教育の体制というものは、我々の文明にとっては単なる模擬としての伝統文化の保守的な維持に有効なだけだ。よって芸術に学歴は存在しえない。芸術というものは後天的に知識として学んだところで、その為に必須な自由美に関する制作の規則だけは先天的独創性に待つ他ない。多少あれ教育可能性があるとするならば、いわゆる設計者における付属美制作の訓練、すなわち工学技術者に対する既存の芸術模擬を課程づけることができるに過ぎないだろう。例えば現代、建築という半面において付属美を要求される造形美術分野において、かつて達成された天才的建築家たちの芸術作品を範例として模擬させ、それを仕方なく学的な規則にまで貶めてすら工学教育に伴う必然的不足としての建築術を補わせる、といった方法において。これはやはり流派の伝道であるから、伝統芸能の保守に働くだけである。建築とは用途を審美的に表現する芸術なので、用途に対する計画的対処という学的に習いえる部分に関してのみ、我々は既に技術が失われた古典的実作の模擬をもってその第一の範例としても構わない。しかし現行の技術には新たな工学に埋もれやすい単なる流行の方法が学的なものと術的なものの境をぼかしたまま混在しており、ひとえに学的実例を伴わねばならない充分な模範にはなりえない。具体的には、日本建築が慣習的に手洗いと風呂とを分けて清潔感の具に供するといったことは、古典的日本建築の範例を一度模擬してみることを通じてしか手習い得ないわけだ。そして全く伝統風土に属さない建築作品は文化的な産物ですらなくただ巨大彫刻とみなされるに過ぎないから、建築術の修養には天性の判断力としての天才が不足すればするだけ、建築学からの工学的な補完を半面として必要とする。逆に言うならば、天才的な建築家は殆ど実例を引用することもなく、用途に最適な独創的作品を巧みに科学技術を活用して導き出すことができる。よって、建築学が学校組織で教えられることは一般に凡才の為の工学教育であると考えられ、芸術学校はやはり理念上不要となる。これに対して結局あらゆる建築物を作る際に必須な建築術というものは悟性と構想力とを統括する判断力の先天的才能であり、前例と似た状況が絶えず訪れるわけではない建設現場においていくら沢山の実例を示そうが、凡才にはその制作に伴う付属美を自由美から区別できない以上、まるで教育不可能である。なお、これは俗に、職人達の間で筋がいいとかわるい、また建築批評家たちの間で感覚或いは勘がいいとかわるいという言い方で、学的なものに還元できない術的な能力の判定にも普段から息づくような、先天性を含む判断力である。
 芸術学とは審美批評論を旨とする哲学者たちの仕事であり、芸術学校で教えてよい分際の生業ではない筈。それはコントの基礎科学の分類に倣い社会学内に、歴史学における文化史の一種としてのみ定義されえる。そこにおいてしか哲学者たちの審美論が学的なものとして、科学的につまり歴史に至る積み重ねとして採用される余地はない。
 とすると、我々の文明が芸術学校を学問の府に模して日々築くことは未開な人類が犯した巨業な過ちであって、この様な場所が真実、幾多の芸術家たちをその非模擬性すなわち独創性によって迫害し駄目にし極端な場合淘汰粛清さえしたか計り知れないことは、なんら大学的教育とは無縁の天才達を永らくその古典的模範として来た我々の歴史が証明するところだろう。芸術学校が芸術家にとって自明の義務として栄えた国からはいかなる天才の飛翔も閃けない。よって、各文明国は芸術学校の名義を剥奪し、伝統芸能の学校つまり工芸学校と事実誤認を修正謝罪するべきである。芸術学校を名乗りうる場所は唯一、天才芸術家自身の工房だけだ。まことに単なる伝統芸能の模擬者たちが芸術学歴とやらを厚顔無恥にも堂々公然標傍し、市民社会に自律的な趣味判断の発達を妨げる模擬的な芸能権威化の錯誤を繰り広げるところは混沌迷盲たる野蛮界さながらであり、我々はこのような現状が散見される未文社会に暮らす限り、人為環境の洗練を信条とする品格ある文明国家を主張することは永久に不可能である。天才的芸術が凡才の仕業である模倣とは飽くまで対立する以上、我々は全く、どういう社会的立場からその様な希有な能力の証が現れてくるか、将来にわたり予測するわけには行かないだろう。なぜならば旧来のとうに知られた美学化に堕した規則を外れてのみ、新しい規則を樹立する天才の芸術は華開くから。

フィンランド教育

フィンランドの義務教育が現在の科学潮流内では世界一優れた制度なのは誰の目にも明らかなのだから、我々としてはとりあえず、その文化模倣に努めて然るべきだろう。
 曰く、
1. 小学および中学教員資格を専門課程を経た修士以上に引き上げる。
2. 中央大綱・地方自律を原則づけ教員の自由裁量余地を増強する。
3. 義務教育内で比較・競争を喚起する試験を廃止し落第を禁止する。
 先天的な天才は教育によって産まれるのではないとして、万人共通の義務教育に対する高等教育とは、優等な個性を最大限に尊重し、後天的な秀才群の養生に努めるものである。

国際的遡求処罰の趨勢についての私見

1993年に日本政府が公式な謝罪を見解した歴史から、我々は繰り返し国連総会で自らの公正を発言し直すべきである。というのはある類の反日プロパガンダに隠され、単に国際認知が未だ高くないに過ぎないのだから。

 さらに、極東国際軍事裁判が終わってもなお不当な内政干渉を国家規模で行う連体には手痛い牽制を与えるべきだろう。下院にて我が国害法を可決したオランダ、カナダ、アメリカという国際的な事後法を反省しない連合が居会わせた場に臨んで、単なる貿易関係においてそれらの国々の要請は何ら聴き入れる必要がないだろう。
 我々は再軍備なる意趣返しによってではなく、ODAと対途上国への民間平和活動について両方の世界一となる実績を淡々と、かつ冷静に目指す事で今度のあまりにも不当な干渉に対する国辱的うらみを晴らすべきである。