夏の夜 虫の鳴きけり宇宙の孤独に
2021年8月31日
2021年8月27日
愚者の存在意義
愚かな人の言葉を我々は次第に聞かなくなる。また愚者は無数に存在する。彼らに賛同したり同調したりも全く望ましくない。
もし道徳的生き方をしたければ、愚者との関わりを避けねばならない。また、世知を十分にもつ必要もきっとあるだろう。端的に、愚者は無数に現れ、およそ何も望ましいことをしない。悪例の有り様をさまざまにみせている存在として、愚者にまつわる世知は知られねばならない。
愚者の間で人は幸せになれない。自分より遥かに愚かな人々の間で生きるのは地獄で生きているのと一緒である。だから賢者は通常、脱俗して世捨て人や仙人のよう生きている筈で、それ以外に愚者らから大小の損害を受けるのを避ける仕方はどこにもありえない。
自然を愛さない人
自然を愛することなき人は、その一部である人間のくらしも陸に愛してはいない。人工都市で人工的くらしをするだけで自然へ直接触れない様くらしたところで、自然と縁を切ったとはいえない。それは都市が自然の一部にすぎないからだ。
2021年8月21日
消えない星
性悪的な人間と、性善的な人間の行動動機の違い
愚劣な人間の無知さからくる悪事は彼らの悪意と殆ど見分けがつかないし、実際に、かれらの中で殆ど同じか、双方がよく交差していることが多い。これを命題「性悪な人間は単に無知な為だけでなく、よく進んで悪を為す」にすることができる。
しかしこれは彼らが性悪な場合によくあてはまる事だが、性善的な人間には全くあてはまらない。
性善的な人間が何か悪事と思われる事をしてしまう時は「悪を悪と知りながら、自ら進んで悪を為すものはいない」とソクラテスが言った――とプラトンの書き残した――命題と総じて一致する。彼らは善意を持ちながら何かを行い、現実には悪い結果をもたらしてしまった場合でも、動機に間違いをみいだすことができないからだ。
2021年8月20日
ツイッターの本性
あるいは我意で致命傷を与えようと躍起になり
聖人君子からつぎつぎBANさせていく
2021年8月16日
なにゆえ三浦瑠璃氏の皆兵論は誤った前提に立ち誤った結論を導いているか、その解読
三浦瑠璃氏の主張のうち、過去の英米イスラエル諸国(以下、英米以諸国)の少数例を根拠に民衆の良識に期待するだけでは戦争を防ぎ切れるとは限らないという論旨は性悪説的な平和法制に新たな前提を与えるのが一定の事実だが、これはそれらを反証する証拠、つまり多数支配のもと反戦派が多数か、少数支配のもと反戦派が優越か、単独支配のもと反戦派が指導者か、それら以外でも実際に反戦派が政権から何らかの開戦に消極的か禁止を命じる場合、つまり性善説的な場合をさもあり得ないかの如く語っている点では単なる非科学的謬説にすぎない。反対側の証拠を挙げて事柄の信憑性を程度として保証しうるという反証性を持たない仮説、反証されざる仮説は単なる信念にすぎない。いいかえれば、三浦氏個人が近世から現代まで(以下、近現代)の一部英米以諸国での少数例で、多数支配の体制に、それらの国々の民衆への性悪説的な良識懐疑をおこなっている、という点しか、彼・彼女(以下、彼女による彼女個人の人格とは別分類可能なものとしての単なる論旨を、のち女性論客としての社会的性差の文脈から切り離し、その論旨内容だけを公平にみるため或いは記法省略のため、三浦瑠璃氏を人称代名詞上で「彼」と記述し、この論考内では性別・性差を示さない)の基本主張は意味するところがない。
東大がこの論旨に博士相当という評価を下したのは、東大の学術水準がその政治学に於いて十分低いことを示している。なぜなら、上記のよう、この論説は科学的な研究の基本水準を到底満たしていないからだ。繰り返すが、ある仮説が反証されていない間は、それが実験などで検証しうる科学知識だとは認めえず、単なる信念と呼ぶべきものである。つまり或る信仰の提出者でしかない場合、それは過去・現在・未来の客観的事実分析にあたる戦争論上の政治学の対象ではない。尤も、社会科学の対象としての政治については或る社会の歴史が過去の実験として機能するのを超えれば現在進行形の政治界を後づけで分析できるにとどまり、それ以外にできることは仮想条件下の模擬にすぎないので、精々、ある政治学は常に過去になり続けていく現在も続けられる歴史としての政治の諸相についての系統的分析にとどまるだろう。だがこの調べうる全過去(現在も認識を照射した時点で常に過去になるため、ここでは過去とまとめる)の分析にあたっても、また未来を仮想条件とした模擬実験についても、常にその趣旨は最初の論旨を否定する反対側の仮説によって再検証されえる必要がある。つまり、三浦氏と彼の担当教授らは、彼の仮説が、実際に性善説的戦争反対勢力または別状況下で反戦派の支配により或る想定される戦争をしなかったり押しとどめたり撤退したりした場合を過去の実例から公正に拾い上げ、それら前者の場合と、彼の信じている性悪説的な民衆が特に近現代の一部英米以諸国にかぎって戦争賛成の民意を示した証拠を後者として照らし合わせ、後者の信憑性が前者とのなんらかの矛盾によっている、と自らの仮説の信憑性を提示していなければならなかった――例えば前者の近現代かつ多数支配下での実例として、結果として泥沼化したがゆえとはいえ米国の一般民衆世論のもとでの米軍のベトナム戦争撤退がその実例にあたるかもしれない。この様な反証がおこなわれていない段階では、彼の性悪説的な民衆懐疑論は、単に近現代の且つ一部の英米以諸国のそのまた一部の例にかぎっての事例にすぎず、彼のこれらの論旨を発展させ形容してのちいう「血の費用」すなわち、「職業軍人と一般民衆の間に、戦争の具体的悲惨さが我が身の事と感じられる程度が異なるがゆえ、一般的好戦性を特定場面で一般民衆が示しうるのだ」という特定好戦性の理由づけは、それ以外別の要因が働いているが偶然少数例ではその様にもみえなくもない単なる疑似相関で、純粋な因果関係ではないのではないか、と言われてもその非統計学的(ここでは一定の有意性を一定以上の信頼区間のもと、一般的好戦性と血の費用の無自覚とがすべての国すべての民衆かつすべての政治体制で普遍的または一般的にに正の相関を示している、と示す、多岐な時代かつ多岐な国々を異なる体制間で十分あまねくまとめた抽出標本での統計手法を用いた論理的証拠づけが欠けている、または、限定的前提条件を置いてして近代の多数支配の形をとる先進国間とした場合ですらその様な統計手法をとっていないの意)かつ非反証的な論理の不備からいって、科学的に反論のしようがないはずなのである。もっといえば、三浦氏の「血の費用の無自覚(以下略記してしばしば血の無自覚とも記す)」と「民衆の好戦性」には因果関係がある、という信念、いわば、反戦の理由とするだけ職業軍人や他国民の命へ共感しない民衆の戦争他人事信念は、科学的仮説ではない。さらに一段深めていっても、この因果関係は一部の確証偏見を集めればさもそうかのごとく見えるかもしれない、といった程度に過ぎない疑似相関な可能性がはなはだ高く、それというのも、彼が集めた実例は統計学的相関性を示す有効な検証を経ていない単なる彼の信念に有利となる少数のかぎられた場合の証拠あつめにすぎないだからだ。仮にその様な詭弁目的なら、どの立場であっても例外的場合をさも一般例かのごとく集めてくれば、世界政治史の事例は多岐にわたるため、およそいくらでもおよそどんな自説でも正当性を有するかのごとく、特定論旨のために特定の証拠をこじつけることができるのである。単なる無知や愚かさを悪意のせいにすべきではないとすれば、研究不正といいうるかは定かではないにしても、この箇所について、我々の批判的思考に照らし合わせてみれば三浦氏による論旨の内容は、少なくとも知性かその為に必要な誠実性に欠いた論理展開といわざるをえないのである。辛うじて、時代や政治体制のほどちかい近現代の先進国およびそれに類した国々の戦争史のうち、英米以の3国の5戦例を持ってきた事で、その様な知的不誠実さを補えると考えているとすれば、端的にいって教育された文民に値しないというだけ子供だましな話でしかない。また、彼が論旨の一部につかっている非軍人一般民衆にとっての戦争他人事信念なるものを、血の無自覚と民衆の好戦性のあいだに確かめられる実際の統計学的相関性を持ってきておおかれすくなかれ証左したとしても、それらが、多数支配以外の政治体制の場合を含んだものでなければ、あるいはまた、近代の少数の英米以諸国が置かれた多数支配体制が置かれていた国際状況その他の別の共通性や、偶然の一致の可能性の検討を抜きに、過度の一般化をおこなっているのではないか、という批判に耐えられるだけの十分な理科学的証拠を、これら人々の真の内心を単なる開戦に関する世論調査や国民投票という支持・不支持の二択または少数の選択肢しかないアンケートなどで示される外部化された側面から究極までも臆断しかしえないかぎり、示し得ているとは到底いいえない事例を三浦氏は強いて自説内にもちこんで論じている筈なのである。
こうして、三浦氏の論説の前提条件になっている彼の東大博士論文の趣旨は、 科学的仮説の水準に達しえているとは到底いいえない稚拙な思考過程や、そこから導いたろう誤っている可能性が全く否定できない結論に基づいている。「血の費用の無自覚」と、その自覚とに仮に区別があったとして、実際には職業軍人が民衆から選ばれ、又は志願し、或いは徴兵制の元で無作為に全国民が巻き込まれている場合もあれば、進んで義勇軍など民兵を組織することもあり、あるいは世襲や養子縁組を含む襲名などで職業軍人の階級が相続していることもあり、またなんらかの家庭的あるいは個人的事情とか経済徴兵などで不可避に軍人になっている人々もいるなど、軍人そのものの立場が個々人で微視的にみればみるだけ相当以上に多様かつ見方によっては網羅しきれないほど複雑で、さらには軍人自身でも勇気と呼ぶべき大胆さ・臆病さ・無謀さなどに個々人で差がありもすれば、敵・味方の被害が異なる実戦・模擬経験によって正義感や国防の義務意識など従軍のさまざまな動機を加味しても好戦性の程度など現場の状況次第ですら参戦前後あるいは最中ならびに従軍忌避後に個々人単位でしばしどうとでも変わり得るものでもあり、単純に血の費用の自覚・無自覚を二分法でわけえないのにもかかわらず、仮に血の費用の無自覚なるものがあったとしても、精神病質性のうち良識の欠如のある者とか、それ以外のなんらかの訓練や信念、行動原理によって悲惨な状況下でも戦争遂行が必要と判断している者があるために、この血の費用の無自覚が死や痛みを恐れて軍人一般又はその全体が戦争を忌避しがちになる論拠にはまずもって到底なりえないのである。
実際に、米調査機関ピュー・リサーチ・センターによると2010年時点で世界の16億人が信じているイスラム教の聖典『コーラン』によると、聖戦への参加を称賛される条件がある、というムハンムドの信念が語られている。具体的には最高神アッラーを冒涜する者とか、イスラム教徒へ不義の戦をしかけてきた者などは、改悛改宗すれば許してやれとはいうものの徹底して歯向かう様なら遠慮なく殺害込みで応戦すべきで、しかも臆病な者よりこれらの聖戦で勇敢に戦って命を落とした者の方が来世でアッラーがお恵み下さる、といった特定の正当防衛に該当する場面での戦死(討ち死に)を含む参戦の正当化・美化の趣旨が語られており、元々中世の中東でユダヤ教やキリスト教その他の勢力への最終的戦勝で確立されたと言ってもいい教義体系であるからには、これらの来世思想を含む正当防衛的布教活動の信念には開祖にして最後の預言者ムハンムドの生涯のなかで彼の生きていた当時の中東の諸宗教勢力間の勝ち残りのため或る種の必然性があった、そしてそれは彼個人のなかで決してのち過激派と称し恐怖主義(テロリズム)のレッテル張りで9.11後の米国有志の大多数側からビン・ラディンらイスラム原理主義者について汚名を着せられている様な悪意に基づくものではなかった、と推定されるべきであろう。実際、史実としてのムハンムドは、聖地奪還時はさておき、いわゆる帝国主義的な無際限の侵略主義を語ったのではなく、単なる自らの宗教集団に於ける正当防衛論を語っているに過ぎないというべきである。そしてアッラーの教えがムハンムドという最後の預言者を通じて下されたと信者らは考える、この根本教義のもと、イスラム聖戦士(ここではイスラム教の聖戦教義のもとで民兵を含み軍人になった者)なるものは究極のところ、潜在的に全信者の民兵組織が信仰の前提条件ともいえるのだから、実際にはイスラム教徒の命やアッラーならびに聖なる預言者の尊厳がおびやかされたときそのうちの世俗派らが良心参戦拒否をおこなう場合がありえたとしても、総じて、血の費用無自覚論では説明できない面、ここでは正当防衛という公的正義を帯びた戦闘性(彼らに限らず全ての国々の政府組織や一般国民間で、単なる正当防衛が被害防止目的で反戦的である通常の場合も、ここでは仮に戦闘性の一部としている。よってこの戦闘性に法的・倫理的善悪の価値づけはおこなっていない)が、敬虔なイスラム教信者あるいはその過激派といわれしばしば多方面から汚名を着せられているイスラム教原理主義者らには、不可欠の自集団の生き残りのために内在されている事が確かなのである。この種の、特有の徳目に則る計16億人以上の、全人類で最低でもキリスト教徒につぎ2番目に多い宗教集団の自己防衛本能に他ならない避け得ないだけの正当防衛的な戦闘性を、巨視的にみればキリスト教圏にあたる米国による世界の警察と称する全世界支配願望、あるいは米国的価値観の布教者としての役割をかえりみて、過激派による恐怖政治(テロ)だと、自由圏あるいは西側諸国における反イスラム扇動のたぐいで汚名を着せにかかっているのが現代国際政治の現状であればこそ、我々は好戦性・反戦性・それらの中間に位置づけられる戦闘性というラベル貼りのその名目と内実の乖離には批判的あるいは懐疑的とならざるを得ないだけの十分すぎる現場の証拠がありあまっているというべきなのだ。なぜなら、真に反戦的であるがゆえに自集団を武力防護しなければならない勢力を一方の侵略勢力が好戦的だと無理に名義づけして公然と国政府あるいは一部・一般民衆の単位で非難したり、中立的な戦闘性すら放棄している完全な非戦勢力(例えば日本では自衛隊破棄論者。あるいはガンジーら非暴力不服従運動の指導者とその従事者ら。その他、各地でなんらかの政治勢力や武装勢力に武力で支配されている全ての絶対非戦者)を国とか武力組織とかが一方的に蹂躙しながら、その占領区を国・地域・自治体あつかいしてまるごと悪質な好戦勢力かのよう善悪の価値づけをおこなうのが底抜けに野卑な一般人類の現在及び過去に於いての日常茶飯事なのである。別の言い方をすれば、イスラム勢力に限った話ではないにせよ、米国有志連合によるイラク戦争で防戦に回った被害国側が好戦的であったというラベル貼りや価値づけの一例をとってみても、大量破壊兵器が見つからなかった時点で、この戦争が9.11を引き起こしたビン・ラディンと彼の組織アルカイダを処刑する目的での、それにしては一般市民や無関係なイラクの国全体をも余りに邪悪な風貌にみせ悪の枢軸あつかいした大規模な単なる侵略戦争であり、そこに被害国側の好戦性があったとすれば正当防衛以外なにものでもないのであるから、民衆一般の好戦性・反戦性・戦闘性・非戦性その他の戦争に関する態度価値や思想形態なるものをあまねく雑なラベル貼りで一律で定義すること自体が仮の形ですら容易にしがたいものだ、と我々は、各国各地で個々人の置かれている複雑多岐で一筋縄でいかないだけでなくかつ根本的に良心の命ずるところそれ以外の選択肢をとれないなど避け得ない場合を含んでいる状況のもと、人間性とそのほとんど全ての面がおのおのの生育して暮らしている文化の段階から濃密に異なる多くの社会群の理解として十二分に知り、それすらできねば謙虚にそれぞれの違いを調べて知っていこうとするべきなのだ。
同様に、単なるイスラム聖戦士にかぎらず、他の一般的職業軍人らのなかでも、例えば敵を殺める事に罪悪感を覚えない様な前提のもと訓練されるのが基本であり、その際、捕虜や一般市民の取り扱いなどに軍や軍人らのあいだで各国法律上、また彼らの準拠すべき国際法上、もしくは個々の部隊・状況・個人の倫理などで差があったとしても、根本的になんらかの参戦理由下で敵兵をみなされる相手を遠慮なく行動不能にし、時にまた容赦なく抹殺していくのが、この軍人という生業の基本的秩序で職能ですらあるのである。そうであれば、血の費用無自覚論が一般民衆のあいだでは通用しうるが、職業軍人のあいだでは通用する、という論説そのものが矛盾をきたしてはいないだろうか。これら職業軍人らはなんらかの形で徴兵され或いは志願してその状況にあるのだが、彼らがもともと血の費用に無自覚だったとしても、職業軍人になればその費用を自分の命にかかわるものとして認識し、必然的あるいは一般人同士に比べればかなりの人数あたりの相関性をこの自覚と反戦性とのあいだに伴って参戦に消極的になる、という理由づけが、三浦氏のなかで、一体どこから生み出されてきたというのだろうか。これは単なる恣意的な理由づけというべきではないか。なにしろ、「民衆一般は血の費用に自覚的なら反戦的になる」という単純すぎる命題がもし真であったとして、正真正銘、一般的な職業軍人らがこの例外として目の前に、あるいは人類間で戦争がはじまってからの時代ほとんどどの国にもあまたいるではないか。彼らこそ、仮に志願制その他の自主的に組まれた民兵以外であったとして、血の費用を最も身近に感じ取り得るにもかかわらず、実際には兵役・参戦拒否などで反戦性をほとんど示していない最たる実例であるからには、三浦氏の上記命題は完全に偽だというほかない。さらに、のち三浦氏は、自らの当該命題こと血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説の趣旨を含む博士論文の論理を展開させ、憲法に定める拷問の禁止を踏み誤る国民皆兵論を同様の趣旨を演繹させ或いは同一論旨を直接延伸させ公然と唱えはじめることになるが、もしこれら血の費用無自覚論と好戦性に正相関や因果関係があるという仮説を彼の論文審査にあたった東大教授らに提出した時点ですでに、暗にこの血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説を単なる民衆一般の性悪説に求めるとするならば――当時からもうそのつもりであったかとは別にのちに彼自身が演繹的に展開させたとおり民兵に論理を限定して使うつもりであったとして――これは、全ての職業軍人らが全民衆からなんらかの仕方でえり抜かれているという自明の前提を無視している論説であり、いいかえれば職業軍人だけに特殊な例外という前提を置いて心理的別枠に置き、一般民衆の場合だけ無理に自分の信念を補完する論理をあてはめて使っているという意味で、科学的誠実さに欠けた確証偏見集めの一種にすぎないのではないか、と指摘されうるために十分すぎる論理的瑕疵というべき部分なのである。そして、この瑕疵が私以外おそらく誰からも指摘されないまま、またはすでにどこかで指摘されていたとしても彼のなかで正当化・合理化・正当性を帯びた論旨として肯定されつづけた結果、少数の自説に有利な証拠でしかない実例をあげつらいつつ、性悪説で他人の死ならば平気で容認するのが全ての民衆であるかのよう多少なりとも過度の一般化をほどこしたのであろう持論展開の末、一般民衆全てを潜在的に戦争に巻き込みうる皆兵令の方が、血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説という誤った前提に立った彼固有の信念のもとでは、単なる良心的兵役拒否権を含む志願兵の制度による国防より、さも反戦目的には優れているかの様な、極端に歪んだ、また前提も結論も間違った論旨を彼自身に導かせ公言させるに至ったのである(『三浦瑠麗「日本に平和のための徴兵制を」豊かな民主国家を好戦的にしないために、徴兵制を提案する 』文藝春秋SPECIAL 2014年季刊秋号、アーカイブなど)。
また、この決定的な論理的瑕疵以前に、そもそも民衆一般のなかでも、例えば2017年時点の日本国民一般のなかで戦争放棄を謳う憲法9条が少なくとも直接的参戦を防止してきているという点で有効だったと認識している者が多数派を占め*1 *2、こうして民兵以前に、仮に近現代の一部英米以諸国では決してそうでなかったとしても、血の費用の自覚があって単なる他人の死を悼むために反戦を唱えている一定より高い共感的倫理性をもつ良識的一般民衆も現に日本国内で多数いるのである。但し彼らがベトナム戦争、イラク戦争、シリア騒乱などで後方支援の立場を示した各国内政権を各時代の地点での国民多数派が人道主義の観点から公然と与党を非難し、政権の座から即座に引きずりおろさなかったなかった醜態もしくは同盟国を頼った間接的好戦性についても、単なる絶対反戦の良識をあてはめうるかは大いに疑問があるとして。なおかつ、仮にこれらの他人の死を悼むがゆえに反戦的でありうる人々が、特定の国の特定の良識派にかぎった人類全体では少数派としてしか存在しえないとしても、実際これら自国と同等以上に他国尊重の反戦良識派の人々が、なんらかの限定的又は無限定的な好戦性をもつ単なる政治勢力均衡による冷たい停戦を超えた、真の例外なき究極的永久相互不可侵状態を導きうる唯一乃至随一の人類勢力であり、寧ろ我々文明人が頼りとすべきは性悪説によらなければ戦争を少しも防止しえないがゆえいつでもその脅しあいが崩されうる勢力間均衡状態を何とか作り出そうとする便宜的・戦術的工夫の方というよりは、無条件相互不可侵権を国連やその上に立つ普遍的国際外交上の国際人道原理として全国連加入国に例外なく要求・確立し、またそれを国際法制度として外交しうる全ての国々へ適用するこれら絶対反戦良識派自身から導かれる、主権の相互尊重にあたる最たる人道性の方なのである。なぜなら、この種の人道性ぬきに、いかに血の費用無自覚・自覚論を用いた所で、結局、その民衆が自他すべての人々の命に万事を超えた至上価値を認めない何らかの意味・理由で人命軽視をする人々であった場合、功利主義的(ここでは、人命を最大多数の快苦に還元できる定量的なもの、計量可能な価値と見なそうとする傾向の)損得勘定のもとで、軍事的・政治的・経済的その他の文脈でそれら血の費用を個々の場合で程度あれ容易に濫用するだろうことは明らかだからだ。裏を返せば、三浦氏の血の費用無自覚・自覚論を、好戦・反戦性とおのおのなんらかの因果又は相関関係で結びつけたければ、第一にそのための一定以上の信頼が置ける統計学的証拠づけが必要であるのに加え、それ以前に、国または地域など集団間の相互攻撃の応酬である戦争自体の参戦・撤退・忌避またはそれらの意思決定主体にとっての当費用の自覚・無自覚にかかわらず、想像できるかぎり収奪か征服同化などの悪意による他国侵略で不条理に先制攻撃された側の正当防衛まで条件つきで武力行使を容認する場合を戦争なるものの前提条件に含んでいるがゆえに、これら血の費用そのものがなんらかの理由の元での好戦・反戦性と特段無関係といってもいいのである。こうして、血の費用なるものを人類間の戦争行動に際して好戦・反戦性の区分のための論理構築上の基礎に置いているかぎり、単にその種の性悪説的な利己的かつ場合によっては害他性を省みない個人主体にかぎっての功利主義的経済戦争の損得勘定を、便宜的に快苦の原理で定量化した、全戦争の動機のごく一部にかぎって説明できる仮初めかつ信憑性のない信念の企てに、血の費用無自覚・自覚論とそれと非統計学的に好戦・反省性を関連させた三浦氏の論説はすぎないのである。そこではいわば定性的に人命を至上価値とみる良識的主体が、無条件の戦争拒絶を当然視する良心にとって自由かつ自律的な気高い人道主義的文明人らと共に、自明に思考の前提から排除されているのはいうまでもない。だがこの人道主義的文明人、すなわち一般論的文民こそが、我々が無条件の戦争回避の為に最も必要とする、したがって常に主体となって最高権力を握り続けていなければならない第一勢力であって、その様な主体を抜きに、全ての人々を性悪説的な相互不信とそこから導かれる異なる集団間の利己かつ害他性のあいだにいるものとした場合には、究極で、冷戦的な仮の小休止以外、停戦自体がどこまでも不可能となってしまうだろうことが想定されるかぎり確かなのである。だが、幾ら先進国と称する少数の国々で好戦勢力やなんらかの面の皮を被ったその種の侵略犯なるものが、他国の主権侵害による馬乗りや相互均衡状態を使った大小の利益享受あるいは単なる差別の正当化など嫌がらせの害他を目的にした獣類同然の不道徳な社会を作っていたとして、実際に人道主義的文明人の最たる証であるところの無限定に消極的な反戦およびその究極としての絶対的非戦の良識を我々がまぎれない自然法(ここでは人類が人類であるかぎりぬぐえない自己規律)の命ずる主権者あるいは主権が侵害された体制のもとではの潜在的有資格者としてかかえているかぎり、単に権謀術数によった暴力すなわち権力のやりとりというずるく邪悪な側面だけで、人類なるものがこの世界に生きていないのもまた客観的事実なのである。
よって、命題「民衆一般は血の費用に自覚的なら反戦的になる」を全論説の最終結論「民衆政治(democracy)下の文民主義(civilianism)でも、政治指導者による軍掌握と高い軍事力、正義や損得計算などの動機に基づく文民(civilian)による戦争が起こってきた」に至る前提条件に置いている彼・三浦氏の下記に挙げる博士論文も、結論にとって有利な証拠をどう民衆政治的文民主義を採用した近現代に於ける英米以3国の5戦例をとりあげ結論を補完したとしても全体として虚偽の論説というべきで、その様な稚拙な論旨をさも十分な研究能力の証明かの如く評した教授らも、国立大学という名のつく公的費用を投じている学術研究機関にふさわしくない程度の思考能力しか持ち合わせていない人物らの集まりであった、と断言せざるをえないほど、議論の質と次元の低いありさまなのである。最低でも、東大大学院法学政治学研究科で三浦氏の『シビリアンの戦争 : 文民主導の軍事介入に関する一考察』の主査にあたった教授ら、具体名を挙げれば田中明彦氏、藤原帰一氏、久保文明氏、浅香吉幹氏、高原明生氏らは、この点で精々ことを早まって誤った判定を下したと類推せざるを得ないであろう。さもなければ、思考力が十分なかったために、三浦氏の論旨のうち、少なくとも上述した様なあまたの矛盾を指摘しえず、同時代的な学術研究の担い手としては我々の基本的思考水準にとって、論文や主張を科学的かつ批評的に読みとるだけの能力をもっていなかった、と言わざるを得ないのである。
―――
*1
共同通信社が2017年4月29日憲法施行70年を前に。2017年3月8日から2017年4月14日に全国の有権者へ郵送方式によって、層化2段無作為抽出3000人を対象に、1944人を有効回収数としておこなった世論調査。層化2段無作為抽出法とは、行政単位(都道府県・市町村)と地域によって全国をいくつかの区域に分類し(層化)、各層に調査地点を人口に応じて比例配分し、国勢調査における調査地域及び住民基本台帳を利用して(二段)、各地点ごとに一定数の標本抽出を行うもの。
日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由は「憲法9条があったからだ」が75%、「9条の存在とは関係ない」は23%。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/79306
https://www.shikoku-np.co.jp/bl/digital_news/article.aspx?id=K2017043000000009400
*2
NHKの「日本人と憲法2017」調査。全国18歳以上の国民を対象に2017年3月11日(土)から26日(日)にかけて行われた住民基本台帳から層化2段無作為抽出4800人(400地点×12人)への個人面接法による、計2643人を調査有効数とした単純集計結果。
「第11問 憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。あなたは、この第9条は、日本の平和と安全に、どの程度役に立っているとお考えですか。リストの中からお答えください」
1.非常に役に立っている 29.4%
2.ある程度役に立っている 52.6%
3.あまり役に立っていない 11.1%
4.まったく役に立っていない 2.3%
5.わからない、無回答 4.7%
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20170509_1.pdf
メンタリストDaiGo氏の優生学と、東京都の経済弱者蔑視・経済強者崇拝こと金が全てな拝金ひとでなし文化の分析
メンタリストDaiGo氏のホームレス(浮浪者)への軽蔑を含む差別的な言動が優生学に該当するので、ユーチューブ側が憎悪演説の文脈で思想統制・検閲状にアカウントBANすべき、あるいは各種媒体で公の場から永久追放すべきなどと述べている人々が、いつものネットリンチ(ネット私刑)勢として甚だ大勢、いま各種通信上にあふれている。
だがこの人々は、小山田圭吾氏を魔女裁判で葬ろうとしたり(それに連鎖して彼の息子のツイッターアカウントにおしかけ、自殺教唆などを公然とおこなったり)、ユダヤ人大量殺戮のまねごとを放送禁止になるに違いないと笑いごと文脈に置く不謹慎コントを過去に発表していた小林賢太郎氏を、消去文化と同じ趣旨で辞任に追い込んでいた人々と、本質的に同一の行動をとっている。
厳密にいって、彼らは今度は優生学にまつわる言論統制を、その考察や信仰はその他の人々からあまたおこなわれてきているにもかかわらず、各米国ビッグテックの規約をみずからの政治的都合で引っ張り出す形で急に正当化しつつ、同時に、或る種の恨みの発露として、今度はDaiGo氏を標的にしているに過ぎない面が必ずやあるとみられる。
確かに、これらの道徳的馬乗りには、過去の経緯からいって、かなりの正当性がある。例えばらい予防法による絶滅政策の形をとった人種差別を、昭和から平成の世まで日本政府が公然とおこなってきていたのであり、この種の蛮行について、国会を通じてその種の国権濫用をおこなった全日本国民は反省的認知を持っているとはいいがたいものがある。また、実際に生活保護による憲法に定める生存権保障を、水際作戦などと称し各自治体の行政が、直接、公務員職権濫用罪によって怠ってきたのも公然たる事実であり、それにもかかわらず、一般日本国民らは、自分達がコロナ禍で同様の保護を受けなければ生活がたちゆかなくなるまで、こぞって生活保護叩きを不正受給などと銘打っておこないながら、あるいは在日特権などと真偽不明な言い分をもちだし、民族・身分差別的な怠惰のそしりを全国民の共通してもっていたはず公的福祉の受給者へ絶えずほぼ総勢でくりかえしてきていたのである。もっといえば、彼らは経済弱者を手段をえらばず虐殺する目的で、これらの生活保護受給への非難を加えてきていたのである。そのなかには様々な理由で引きこもり状態にある人々への公然たる職業差別による攻撃や人間の尊厳を奪い去る目的での名誉毀損・侮辱罪の数々、あるいは在日外国人や障害をもつ人々、それ以外にも単に特定の地方や地域で生まれ育って暮らしているというだけで、彼らへ公然と門地・地域差別をおこなおうとする純然たる悪意とその為の偏見集めでの生存権・人格権侵害も、勝手に魅力度などと銘打っての田舎差別、もしくは関西地方その他、西日本一帯などで明らかな特定地域出身者への部落差別などの姿をとって、公然とおこなわれている現場が日本国内にあって甚だ一般に多く、現にあり続けているほど、この国民一般というものは、いかなる聖人にも救えないほど、底抜けに偽善的・欺瞞的で道徳的に果てしなく自堕落なありさまなのである。その最たる証拠の第一分類に該当するのが、秋篠宮眞子内親王殿下の婚約内定者となるべき小室圭氏とその母君たる方への東京都民のマスメディア、ネットメディア、週刊誌媒体からあるいはヤフーコメントや2ちゃんねる、ツイッターなどの利用者づらで各種集団犯罪を合理化し続ける匿名衆愚・匿名暴徒からを中心としたありとあらゆる場所での嫌がらせの数々であり、そこに人権擁護の念など寸分もないのは明らかで、いわば公然と大多数の日本国民が群れ打って小室一家の人格権を脅迫・名誉毀損・侮辱罪その他でほぼ無限に侵害しているだけでなく、都内マスコミ総出で、およそかぎりない私事権侵害により、まぎれなく一国民同士である彼ら親子のこの国での生存権も現に脅かしている事は、公然たる国民社会主義的・全体主義犯罪としてのまぎれもない事実かつ真実なのである。その先陣を切っているのが竹田恒泰氏や茂木健一郎氏らのよう、小室一家への門地(家柄)差別によって人格権侵害にあたる言動を公然とユーチューブなどでばらまいている都内の悪質な男系派、こと皇室論上で男女差別の弊風にしがみつく反人権的・性差別的な悪しき伝統を誇りたがる極右らなのは、いまさらいうまでもない。
いいかえれば、彼ら日本国民一般は、ここでは仮に男系派と呼ぶべき一部極右らも含み、自らの優生学に基づく皇室の制度こと天皇制なるものを自らの国費で維持しておきながら、それによって相対的に冷遇されているというべき経済弱者や国内外で様々な個性をもつ各少数者の生きる権利・生存権を、実際に、生活保護の出し渋りとか生存保障の拒絶、もしくは全国民生存保障として当然の憲法上の権利というべき基礎所得制度成立への悪意ある誤読や誤解をふくむ徹底した阻害、あるいは、麻生太郎氏など累進課税をその分おおくの奉仕を国家から受ける権利との誤導を招く政治と商売を混同した損得第一思想の持ち主(アーカイブ)など、単に国民一般だけでなく自民党国会議員の内閣総理大臣・副総理担当者までもが、現実に、これらの優生学的な政策を、皇室の婚約内定者への門地・人種・性差別的な遺伝排除も含め、おおかれすくなかれ公然と主張してきているのが日本国の動かしがたい現状なのである。
その上、彼らは上述のよう、なんらかの政治的意図に基づいて、特定の思想形態を社会の全面から、議論以前の問答無用で公然とつぎつぎ除去しようとしている。 これは思想統制でしかなく、仮にさまざまな憎悪に関する思想形態であれ、それらの是非を、単に肯定しうる面があるかを再検討するためだけでなく、もし否定すべき側面を深めるべくにさえ問い直すためだけにでも、少なくともなんらかの思想を個人が信じていたりそれを公的議論に供するの形で表現する自由は、特定の人々を具体的な実行計画の元で加害するものでないかぎり、無限定に認められねばならない。実際のところ、特定の思想形態についての議論を公に禁じるという事は、思想警察が人々の知能を低める目的でおこなう公的犯罪というべきで、寧ろ罰されるべきだとすれば、DaiGo氏の思想・良心・表現の自由を侵害する目的で彼の内面や言論活動の自由にまで踏み込み、公然と彼の人格権を侵害している人々とその蛮族じみたおこないの方なのである。
憎悪演説に関する法律では、人権擁護の観点から特定の分類にある人々への具体的犯罪や脅迫その他を禁じる事はできるが、実際にそれらの人々を加害する意図なしに、単に当人の生命倫理や現状の福祉制度の是非に関する思想形態の一種として、優生学的な意図を述べたにすぎないDaiGo氏は、なるほど、福祉の現場に関する学識や、実際の都内浮浪者らが高い生活保護の申請ハードルによって行政や民衆の怠慢から社会的疎外を受けている可能性が高いことを暗示するよう知的障害や精神的障害をもっている人々が過半であった調査を含めた実態把握、あるいは優生学を造語ととも創始したフランシス・ゴルトンの意図を超えてそれが派生的に引き起こしてきた倫理や政治社会上の諸問題について余りに無知で、余りに稚拙な論旨だったのだろう。したがって、親切な人々は彼の浮浪者への偏見や、公的福祉の求めている全ての人々への無差別な博愛と人道的救済の意図を、彼個人にもわかる形でコメントその他で教えてあげるなり、それにすら値しないと感じていれば軽蔑や呆れと共に、彼のにわかかつ悪質といわざるをえない表現の自由の行使を無視か、少なくとも自分達自身の知る人々のあいだでは彼の思想形態のその種の公徳または経済弱者への同情や進んで助けようとする善意、もしくはあまねき人間愛の欠如面を公事については権力を与え得ないほど低く評価していれば十分だった筈なのである。或いは同調勢力へ飛び火していく可能性もなくはない加害防止の観点から、彼の論旨を公に批判したければ、その様な趣旨の言説をおおやけにし、文明界に於ける公議の役に立てていれば、そしてそこで良識をもつ人々が過半を超えているか、すくなくとも良識派と呼べる人のよき信念が結果として喚起できていれば、確かに一人の素っ頓狂なあるいは幾らか猟奇的な精神病質性を感じられる人物が血迷った発言をした事がある記録と、他者や第三者によるその分析的批評として、彼を誤った向きに和合した全体主義社会的な集団圧制によって魔女裁判じみた陶片追放でもするかのごとく、都あるいは国の表舞台から一事が万事で除去しようとするまで大事にならず済んだはずなのである。
何かを憎悪演説と見なす側は、この権利とおぼわしき検閲と集団消去の文化とやらを、今では頻繁に乱用している。特にすでに述べた米国ビッグテックは、半ば共犯して、米国大統領トランプ氏が彼として暴徒鎮圧のためのSNS上での演説をしようとしたところ、グーグル(アルファベット社)、マイクロソフト、アップル、フェイスブック、アマゾン、そしてツイッターまでもが全ての彼のアカウントを凍結しだし、ツイッターに至っては永久凍結の挙に出て、いかなる公的言論をも封鎖してしまった。この言論弾圧事件は余りに一瞬で起き、しかも疑わしきを罰する近代刑法を破る不正が上記6社によって同時多発の共犯状態でおこなわれたために、実際のトランプ氏はその後も動画で示されたとおり米官邸の立場から暴徒鎮圧の表現をしようとしていただけに憎悪演説のぬれぎぬをきせた特定公益言論への検閲目的のビッグテック恐怖政治にすぎなかったのだが、いまだにトランプ氏と彼らビッグテック側には係争が生じている。ここでみられるのは、憎悪演説はそれを判定する原理が曖昧であるがゆえに、一部、または全体の過半を占める人々の都合で、ぬれぎぬ炎上などの悪徳手法で特定言論の検閲目的へ悪用されている、という現在進行形で起きている深刻な人道犯罪なのである。
たしかに憎悪演説そのものにも危険性がありうるにせよ、あまりに曖昧な線引きでこれについての誤判定し易さを、ビッグテックもしくはその利用者をしばし兼ねる一般民衆が、群集心理や集団浅慮による悪意を込めた私刑暴徒から濫用する事で、寧ろ憎悪演説そのものより一層危険で公害に該当する悪疫をもたらす。その第一分類にあたるのが、明治・大正・昭和天皇やヒトラー、ポルポト、或いは始皇帝らによる検閲で、逆に特定思想の持ち主らへの無益有害な大量虐殺を招いた事例である。井伊直弼が犯した罪も、思想統制目的での尊攘論(尊王攘夷)者への大弾圧であり、思想は内心のものなので明白に分かちがたく、容易に他人から判断できるものではないことからもこのおこないは全く不条理なもので、実際に尊攘論を信じたり唱えていたりあるいはそうと疑われ死刑を含む処刑された者たちは、特段なんの罪も犯していないに等しいにもかかわらず、安政の大獄で命を落としあるいは致命傷をいれて大小の不利益をこうむっていった。この思想形態は阿片戦争での清の敗北を受け、欧米列強による植民地化の脅威が迫っていた当時の日本列島諸国にあっては、どうとでも変わり得る政治的現場に即した、国家防衛のためのはなはだ有効性のある議論だったはずなのに、である。それが単なる排外主義だとか、のちの外国人排斥目的での恐怖政治に繋がったなどと後世の価値観で過去の時代に生きていた人達を裁断する形で述べる者達は、実際にイギリス帝国から植民地化されていたインドで、あるいは実際に絶滅政策にほぼ近い形で先住人がまるごと駆逐されてしまったアメリカ大陸各地で、それに類した出来事があったオセアニア諸国で、またはアフリカ各地から欧米列強の領土内へ無理に暴力で連れてこられた黒人たちの人間性を否定した奴隷としての酷使によって、欧米諸国で彼らの主たる人々と異なる人種の人権がいかに蹂躙されていたか知らないままで、それらにおよそまったく反省などしないまま治外法権を砲艦外交で要求していた米国など幕末当時の英仏米蘭ポルトガル(葡)・スペイン(西)らが、さも当時の日本列島の諸国内で優先保護されるべき上等な文明人であったかのごとく、第二次大戦後に生じた人権規定による逆のひいき偏見からきた誤った白人崇拝に陥っているにすぎないのである。世界史上の事実としてこの種の人権規定を、たえざる被差別側としてはじめて国連(当時の国際連盟)に提出したのは、ほかならぬ東アジアの一国である日本だったのも、諸国に記録が残っている公の事実なのである。したがって幕末当時に攘夷論を唱えた人々は、彼らの一アジア人として置かれていた悲惨な人種差別的もしくは潜在的な被侵略国としての境遇から、当時の良識として、欧米列強のうち具体的に清の次の植民地化の標的を探していると目される特定の国々から日本へ様々な目的でごく少数やってきていた外国人らへ、それまでのオランダとの平和的貿易と異なり、武力排斥的な意図をもったのも、当時の日本列島の人々のなかには似た様な侵略をはかってきた元寇への返り討ちに鎌倉時代の九州地方で成功した記憶しかなかった以上、また侵略的外国勢力による奴隷化から人命と自国民の尊厳を守る国家統治の必要上、当時の政府が英仏米蘭葡西のうち既に平和外交上の公平貿易を確立していたオランダを除く列強に伍していこうとするにあたって、専ら警察行為の目的で意気盛んな武士らが、自国民を蔑視させる英仏米葡西のいづれかの人々からの不逞な行為を見とがめるに率先して努めるのは、今の目から見ても幕末当時の時代をとりまくそれらの国々からの全アジア人差別ならびに実質的奴隷化ならびにその潜在的必然性の状況からいって、極めてまっとうで人道的な措置だったともいえるのである。実際に武力による脅しを込めて日本に不利益となる不平等条約を半ば強制で結ばされたあともつづけられた欧米列強からの有色人種差別は、日本が多大な犠牲を払って、東亜諸国の自治権を侵略主義の体裁で強制力によって主張する代わりに、それらの国々をつぎつぎ植民地化していたドイツとイタリアを除く欧米列強のうち旧連合国からの反撃を受け、結果、中国を常任理事国にいれることになった第二次大戦の趨勢が終結に至るまで現実の有色人種差別の脅威として続いていたのである。すなわち、江戸時代後半までの時点で、実際にアジア・アフリカ・アメリカ大陸・オセアニア諸国などで英米仏蘭葡西ら欧米諸国が先住人へ絶滅政策をおこなったり奴隷貿易や植民地支配を領土拡張していっていたかぎり、不逞だった面があるかぎり、それを資料や情報収集で広くしっており知識階級を兼ね倫理観にもさきがけていた高潔な武士らが、自国民を救うため唱えた攘夷論が国を救う道と考えたのは、今から見直してもまったく誤ったものとはいいがたい。実際、ドイツのイマニュエル・カントは江戸時代中期にあたる1795年『永遠平和のために』で、日本の保護貿易を含む外国人排斥をさし、当時として望ましい事だったと、ポルトガル(葡)、スペイン(西)、オランダ(蘭)、イギリス(英)など当時の近隣国らが侵略主義のもと植民地化を進める西洋でありえたかぎりの良心をおそらく込めて、認めていたのだ。カントはこれらの植民地主義の時代の現場に即し、相互不可侵を目的とする全国家間の協定、のちの国連を構想した。この組織が一部の列強、のちの連合国や常任理事国だけに牛耳られ、実際には持たざる国への不利益を押しつける形になっていってしまったのは、それらの国家間の想像を超えた利己的あくどさについて、彼としてはまだ想定外だったはずである。
……だから中国と日本が、そのような(極悪非道な)客人たちを試した上で、以下の措置を取ったことは賢明であった。すなわち中国は来航は許したが入国は許さなかった、日本はそれどころか来航さえもオランダ人というただ一つのヨーロッパ民族にしか許容しなかったし、しかも日本人はそのオランダさえ捕虜のように扱い、自国民との共同関係から排除しているのである。……
――イマニュエル・カント『永遠平和のために』
こうして、単に日本だけでなくはやく近世ドイツでも攘夷論の一起源といえる平和外交主義による保護貿易や、侵略主義への正当防衛的警戒、自国民保護を目的とした移民政策に対する消極的態度を、嘗ても今も各国各地へ、有志連合などと銘打って侵略戦争をしかけつづけている米英仏蘭葡あるいは日独、イスラエルなどはじめ、主要先進国と称し途上国に比べ武力にまさっている事実上のヤクザ国家間の抗争のあいだでは、一定の合理性があると認めるしかないのが植民地獲得戦争なるものがおこなわれはじめた嘗てから今までの現場のありさまであり、国際協調主義とか移民国家あるいは多文化包摂といえば聞こえはいいし、途中の形はどうあれ実際その向きに進んでいくしか地球全体の協働の単位ではどうみてもありえないだろうとしても、過去のすべての時点でその方向性以外のあり方が議論や政治的実践の実験をされたということは、単にひとびとが多様な考え方や行動をおこなっていた証拠にほかならず、それ自体として、文明国が文明国でありうるための一つの必要不可欠な条件ともいえるのである。なぜならば、我々は余りに複雑でいわばどうとでも変化しうるかもしれない未来を完璧に予知できないため、後づけで今は常識とされている価値観に照らして過去いづれかのもろもろの観念論や政策論のうちどれかが正しいといったとしても、それは別の形でよりよくありえた未来を否定したあとでの自己正当化の自己中心的自分史にすぎないのだから、過去当時の人々のうち別の未来を探っていた人物らを辱めるに足る根拠とは到底なりえない。過去の思想家あるいは志士らがより望ましいと見て、実際にありえたその別の未来の方がより正しいと信じていたからこそ、彼らの一部は身を挺してまでも自らの信じる正義に殉じようとしたのに違いない。大抵の思想家あるいは志士らが、当時としての単なる悪意でより望ましくない未来を全人類や自分達の不幸の為に手繰り寄せようとしていた、と考えているとすれば、過去の人々に実際に人類全体あるいは特定人類への差別的憎悪が目的と見なせるだけの悪意の証明でも見つけ得ないかぎり、それはそう考えている人達が浅はかなだけというべきだろう。事実として、幕末の攘夷論者らは外国人を異邦人であるがゆえに陥れようとしていたのではない。例えば『弘道館記』で尊王攘夷を定義し、攘夷論をはじめに唱えた徳川斉昭(烈公)は、みずから進んで米国留学をおこなおうと江戸幕府に依願していた自筆書簡が残っており、ペリーに貰った銃を即座に模造するなど、貪欲に欧米列強含む諸外国人へ親しみかつ彼らの長所から進んで学ぼうとしていた。つまり、幕末でいう攘夷とは国防目的の専守防衛論にほかならず、のち和魂洋才や富国強兵などの言い方でいわれる様になるところの、先進工業国からの侵略防止と、そのための武力・経済力・政治力で優る相手国からの技術習得が目的の理論だったのである。もしも単なる種族主義による外国人蔑視の様な趣旨がそこに心底まで含まれていたとすれば、烈公は進んでそれらの種族が異なるといえる外国人らの国々へ進んで向かい、技術や制度を学ぼうとすることは決してなかったであろう。また、そもそも、これら日本に於ける水戸学派にとって幕末攘夷論の理論的援用元となっているのは、中国春秋時代の合従連衡策として知られる尊王攘夷論にある。この尊王攘夷の語で歴史学の文脈上かたられうるのは、外国人蔑視とか種族主義の趣旨などでは毛頭ありえず、端的にいって、周の王室を奉る事で諸侯がまとまる呉越同舟的な侵略防止戦略の趣旨であって、この諸侯の連合を幕末日本列島が欧米列強という植民地化を狙う外国人侵略犯に囲まれている状況下でも同様の趣旨で適用できるがゆえに、令制国を幕藩体制下で治めている諸大名間の連帯を天皇という旧王室を奉ることでおこなうべし、という意味にすぎなかったのである。よって、この意味での尊王攘夷論をそのうち攘夷論だけに分解しつつ悪意のある解釈で誤読して、さも、外国人嫌悪とか外国人排斥運動と結びつけて理解しているひとびとは、端的に、水戸学の教養が不足していると称するほかない。なにしろ、この学派と学問体系の起源として、朱舜水というほかならず外国であって異邦人(別の国からきた移民)である明の遺臣を学者として招いた、徳川光圀(義公)の歴史哲学がある。その後も、義公は朝鮮通信使と儒学や国政に関して親しくやりとりをするなど、また今に至るまで、水戸の徳川家やその臣下の侍らが外国人差別を具体的におこなっている場面を、その統治圏にあった我々は、水戸学のおぼえがあるものですら、一度も知らないのである。いいかえれば、そこでいう尊王攘夷、尊攘の文字面が、一体どの様な高文化的文脈を込められている語彙なのか、中国史、世界史、日本史、ならびに儒学、国学、水戸学すべてに十分より通じている者にとっては自明であり、今でいう「天皇のもとにまとまっての外国からの侵略からの正当防衛」という意味に他ならないのである。その様な学識を持たない無知な民衆のうち、例えば原田伊織や関良基といった後世の浅学者らが、この尊攘の語の意味を全く誤読し、悪意から義公烈公ら水戸学者の系譜にあらぬぬれぎぬを着せ続けている事は、実際のところ、カントを援用するまでもなく、水戸徳川家の者のみの専用墓地である瑞竜山に、当の外国からの移民であって種族が異なるというべき朱舜水が、水戸の徳川家が統治していた江戸時代前期から変わらず学者先生、尊ぶべき教師として厚く祭られている事からも、世界史上の動かしたがたい真実かつ事実として、水戸を含む常陸国あるいは茨城県でのこの史実が、水戸市と重慶市の友好交流都市を通じての平和的かつ文化的な日中交流の懸け橋となっている今の今まで、完全に証左されるものなのである。
こうして、尊攘論弾圧の例を挙げるだけでも、いかに無知で悪意ある人々が思想の内容を殆ど全く認識しないまま、適当な難癖をつけて、平和外交と国際協調を前提にした祖国防衛論に違いない攘夷の語を、さも外国人差別を目的にした憎悪演説か恐怖主義の扇動かの如くに品性下劣な論旨で公然活動道と恥知らずにも吹聴するなど、本来、ある思想自体の理解はいうまでもなくその正否について議論を様々な角度から深め続けていくべき事柄について、とにかく危険思想というラベルを貼りつけ弾圧してしまえばいいなど、文明人と称するのもおこがましいというだけでなく、永久に学術界を進んで退陣すべきなのはその様な罪深く、また己の無学と無思慮さについてまことの無恥ぶりにすら気づく事がない、悪解釈なり、己の浅ましく卑しさきわまりない悪意の無作法な投影での、検閲目的の言論統制者の方なのである。
またこれ以外でも、代表的な思想警察の例として、始皇帝による焚書坑儒や、ポルポトによる学者虐殺、あるいはヒトラーによる近代主義芸術家への弾圧と迫害、そして明治・大正・昭和天皇による反天思想や左派(進歩・革新その他の傾向をもつ諸論・諸学問)と疑われる思想への魔女裁判を含む検閲・弾圧・冤罪での死刑を含むあまたの処刑の実例がある。
こうして、過去の実例ひとつひとつをとりだし、かえりみても、思想警察やそれによる処刑は、内心の自由を当時の権力の臆断によって侵害するもので、本来、不可能なはずなのである。この趣旨で、内心の自由を外部者が特定の推定で決めつける形でしか成立しえない共謀罪に関わる規定も、安倍政権が無理やり憲法学の良識を無視して押し通した悪法であるが、根本的に人権侵害にすぎない冤罪を当時の検察機関や司法権力濫用で公認させる規定であるため、即時廃止しなければならない。
脱構築をかんがみるとそもそも筆者自身がそれを書いた意図を確定もできないものゆえ――例えば真の本心とは違うものを意図せず或いは意図して書いてしまったこともあれば、技術力の不足で十分に内面表現ができていない事もあるいは期せずして自らの本心として思ってすらいない事まで筆の滑りで書けてしまっている場合もあり、思考しながらいろいろな可能性を探っているにすぎず当面の筆致が自分の真の意見や本心ではない事もあれば、あるいは一瞬でも過去の時点の考えと今のそれがすでに違う事も常に生じており、究極で、自分の内心が思っている事を文章によって自他が正確に知る事は筆者自身を含め誰にもできない――最低でも文章によっては、人の思想信条を完全に窺い知ることは単に他人のみならず当人によってすら、決してできない。そうであれば、動画という時間的に固定した形での言論についても、幾らでも筆者自身の本心以外の何事かを語っている場面もあれば、別の解釈もできる余地があるなど、決して人の内面を深層までうかがい知れる者はなく当人にすらその様な自己の内面が全般的に定かではない、つまり戦後憲法に定めるとおり自白かそれに類した証拠によって刑を決めることはできないという意味で、思想警察のたぐいは我々の国の自由権を認める社会下で、厳格に拒絶されねばならない。あまつさえ、全て我々の文明に進歩をもたらしてきた思想形態は、過去のいづれかの時点では圧倒的大多数の人々、或いは初めてそれに到達した当人以外すべての人々にとっては理解しがたい未知のもので、それを口にした途端、狂人扱いで同集団から魔女裁判にかけられ実際に死刑になる傾向のものが幾らでもあったのである。しかもこの思想形態が単なる社会や倫理に関する、当時の圧倒多数または当人を除くすべての人々が信じていた価値転倒を含む革新的なものである場合ですらなく、単なる地球は回っているという客観的事実を述べた地動説の様な類のものですら、真実と異なる天動説を信じていないという一点からイタリア現地でこの事実の第一発見者ガリレオ・ガリレイが死刑に遭うだけ、人類なるものの思想的不寛容の愚かしさは、まことに底が抜けたしろものだったし、おそらく現にありつづけているのである。
過去の優生学は今から見返せば問題点が幾つも指摘できるものだったからといって、未来の優生学まですべてがそうであり続けるわけでもないかもしれない。また、DaiGo氏が今も昔もこの種の考えを持ち合わせていたともかぎらないし、どこかで拾った別の考え、具体的には当該発言をした動画内で示していたとおり、社会心理学上の不都合な個体への集団排斥がいじめの原因とする特定仮説の様なものと足しあわせ、彼独自の見解として、浮浪者蔑視という考えを、なかば徳川綱吉的な動物愛護の行き過ぎからきたそれと対照的な無価値と彼が見做した人間蔑視の仮の形で、偶然表現するに至っただけにすぎないかもしれない。
実際、彼は有料動画その他での収益が一個人としては図抜けて甚だ大きいとされ、それら大金を稼げている自分の能力への過信から、その様な能力を持たない人々のうち、なんらかのわけで単なる稼得能力が低い人々へ自分の支払った税金での公的福祉を与えるのは不合理だとの趣旨の発言を、諸々の場所でしばしばしてきていた。そしてこれは特に彼にかぎらず、純粋な慈善精神や経済弱者への同情の念を一定よりもちあわせていない世の中の金持ちの一部がときにいだきがちな共通見解であるらしく、上述の麻生氏だけでなく、所得再配分(所得調整)を意味する累進性の税金を払い渋るほぼすべての人々が、やはり口に出して表現しているか否かに関わらず、ほぼ共通して言動してきている或る事実としての人間感情の一種なのである。例えば、竹中平蔵氏は、新自由主義を米国の大学で習ってからというものトリクルダウン失敗を認め基礎所得論者に転向するまでの期間、ほぼDaiGo氏と類似文脈で、
私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
――竹中平蔵
『竹中平蔵(下)「リーダーは若者から生まれる」』佐々木紀彦によるインタビュー、2012/11/30 6:03、東洋経済オンライン(アーカイブ)
など弱肉強食的な市場原理主義の主張を公然としてきていた。ここにみられる考え方を、コロナ禍のなかでの世相の変容にそれほど実感もないままも安穏と踏襲的に主張しつづけていて、公然とほとんどの国民が支持して、かつ小泉政権と安倍晋三・麻生太郎政権以後の自民党政権下で実行されてきた新自由主義的弱肉強食観が、国民自身が負け犬確定となった今になって急に噛みつかれたに過ぎない、というのが、今度のDaiGo氏炎上の真相であり実態なのである。すなわち、彼に今更かみつく気になった国民自身が、いざ命の危険とか不条理な職業上の赤字とか失職の憂いにあってはじめて、自分達がこれまでさまざまな経済弱者の生きる権利を進んで踏みにじってきたその悪業のほどへ反省的に思い至るまでもなく、自分がいざ同じ目に遭う側に立った途端、攻撃的本性を露わに、嘗ての自分達が召し仕えていたこの現代日本社会をうみだした自公連立政治下での所得格差拡大に伴う弱者圧殺の原理に、汚い罵声を浴びせかけているだけのことなのだ。自分達国民一般が、障害者、生活保護者、引きこもり、非正規雇用者、無職、その他の低賃金労働者、あるいは原理主義的な僧侶ふくむなんらかのわけでの労働拒絶者、金にならない芸術家の様な名誉職にある者を含めた経済弱者らへ同様の生きる権利侵害の罪を、小泉・麻生・安倍政権下で十何年も犯してきていた事はまるきり棚に上げて、である。端的にいって、これらの一般国民は、自分達が可愛いだけ、自分達自身の命をほかの人達の命より優先させたいだけにすぎない。さもなければ、とっくの昔に、全国民にあったはず生活保護受給権侵害の水際作戦での嫌がらせなどやめていたまたはやめさせていた筈であり、自ら進んで不正受給のぬれぎぬを着せながらあまたの人々へ所得制限などをかけた福祉を受ける権利の侵害などを長々と純粋な悪意からつづけてきたわけもないのだし、実際、生活保護の捕捉率をみるかぎり、この点で、統計上もまぎれなく日本が格差から受ける自死圧力という意味では、地球で相互交流している国連加入国を主とした人類界で最も対外純資産が多い富のありさまからいって、世界最悪級の国なのである。そしてそれは、この国民一般が主たる先進国の世界でおそらく最もといっていいだけ経済弱者に冷たい人達であることを完璧な形で、示してきている*1。彼ら一般国民の言い分だった「不正受給」の掛け声は、彼らが憲法に定める文化的最低限度の生活保障を義務教育その他でほぼ全員が目にした事はある筈なのに少しも憶えておらず、乃至、仮に憶えていても性根の悪さによってその権利を侵害しようとしてきた人道犯罪行為の、今や動かぬ証拠なのである*2。
―――
*1
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatuhogo_qa.pdf
*2
そしてこの点で、もはや彼ら一般国民には、具体的にコロナ禍に伴う労働者経済について停滞のしわ寄せが襲ってきそうもないDaiGo氏への、彼ら自身が動画視聴権の購買その他で大金を払っていた過去の業からなにかしら恨みかそれを転化させた攻撃的言動を今更述べた所で無駄であり、事実、彼の発信を好んでみる信者層がいるかぎりで、その種の恨みごとにはなんの効き目もない。しかもDaiGo氏が発言した浮浪者蔑視の思想形態が、もっぱらいづれの法に触れている訳でもない為、優生学的な命の選別による新自由主義下での格差社会肯定論の代弁にすぎなかったとしても、その政経体制をみずから参加してつくりあげてきているのが一般国民や彼らの選んだ自公政権、あるいは市場経済の元で彼らの勤める会社その他であるかぎり、もしDaiGo氏の表現の一部に解釈次第では浮浪者一般への憎悪演説と受け取れる節があったとしても、コロナ禍まで国民一般が浮浪者一般を含む経済弱者全体へみずからすすんでおこなってきていた事を一般雇用者や相当部分の事業者に於ける経済状況の急激な悪化で自らがブーメラン打撃状に受ける事になっただけの話で、まことに自業自得でもある。よって、ここで思想警察をおこなってみても悪質な消去文化劇の一端を演じるにすぎず、実際には炎上商法でますますDaiGo氏の動画閲覧数や注目度があがり、結果として彼の株があがる面もあるのだから、その様な視聴回数や注目度による人気稼得経済をインフルエンサー業として散々もちあげてきたのが一般国民でもあるからには、全ての面からみて、私はDaiGo氏の今回の発言が、それまで弱者圧殺を具体的に小泉・麻生・安倍らの自公政権下でおこなってきた一般国民よりなにかしら悪辣だとは到底感じられないし、どちらかなら、そういう言動を悪意なく正直に公言しているだけ、DaiGo氏の方が一般国民より遥かに素直な人物だ、といえるにすぎないのである。無論、彼のその種の優生学が、福祉政策や人権思想、あるいはそれに伴う過去の歴史的経緯の理解についてまことにつたなく、いわば無教養をさらけ出したばかりか、特定の経済弱者へ倫理崩壊した異常人格の側面を不可避に示しているとしても、その種の或る稼得至上主義的さがを示す人格が成功者と仰がれるだけ、日本の拝金主義化は、彼の母校などの立地となっている東京都の港区近辺を国内で最も平均所得水準の高い地域の筆頭として、深刻かつ急激に一般国民の精神構造を人でなし化しているのもこの様な事件を有名人の炎上案件としてこれまた人の不幸を喜んで下衆な群衆からの閲覧数稼ぎのために押し出す下卑た都内一般報道・媒体界の文化背景にある事実なのである。この格差社会のひとつの極みである東京圏に属する人々の一部が主導する人でなし政策の加速は留まる事を知らず、安倍に続くスガ政権下でも、民主党のカン政権の頃から公然とおこなわれていた棄民政策もどきの延長戦が、コロナ禍五輪強行として実行された直後の、またかというべき大炎上事件。しかしその実態は、日本の、少なくとも大都市部で所得の相当以上に高い部類の人達が、こぞって、DaiGo氏と同然の経済弱者蔑視に耽り、能力主義の幻想によって、生まれ育ちいづれかのなかで金儲けやその絶対量保持以外の側面になんらかの長所をもった人達を無能かつ無価値とみなし、カネがなければ人でなしといった大都会一般の現場のありさまを肯定するのは、何も今に始まった話ではない。明治時代も江戸時代もそれ以前も、都市部ではその様な現場があったからこそ、商人が散財による或る種の羽振りの力をもっていたのだ。明治期の『金色夜叉』とか樋口一葉『たけくらべ』とか、江戸期の井原西鶴『好色一代男』とかは、その様な金次第な町人根性の現場をおおかれすくなかれ批判的または肯定的に描いたものだが、現代の東京も世界最大規模の商業都市江戸という町人集住社会の成れの果てであるからには、その根本精神で、経済的弱肉強食の思想が相も変わらず内部の実力者から信じられていたとしても、特に驚くべき事とは私には到底思われない。寧ろ、DaiGo氏がここで炎上させられているのは、この意味で、商業化が十分に進んでいないか進むつもりもない都外各地の一般国民が、東京都内部との雰囲気の落差に驚き、慌てているにすぎないと思われる。そしてなにゆえDaiGo氏以外のほかの都民らが同様の言動で炎上してこなかったといえば、それらの人々は、大部分が似た様な考えで浮浪者を都政上ながらく放置するばかりか、行政の命令で都内各地で公園や橋げた、なんらかの建造物の軒下などのすみかからの追い出しさえ頻繁におこなってきているのに、それらの際にもそれ以前にも特に、生活保護を与えず実質的に生殺しの形で経済弱者を虐殺しているのに福祉政策をなんとかやらずに済ませようとするザ・お役所仕事をしてきている都庁あるいは区役所・市役所の非人間的な怠慢ぶりへ声をあげてこなかった都民、ならびに大多数の日本国民は、DaiGo氏と根底でなんら変わる事のない優生学の持ち主で、要するに経済弱者となった人々の見殺しによる集団虐殺加担者でありつづけてきていたのである。見てみぬふりをしてきた人々も含め、浮浪者の見殺し主義者は、自らが進んで同様のおこないを唱導しているのと事実上、完全に同罪というべきなのだ。
私は都内に住んでいる間、うまれてはじめて浮浪者の人をみて驚き、周囲の都民らへどうして彼を助けないのかと尋ねた。すると彼らは口々にDaiGo氏と全くそっくりの事を述べていた。いわくだってあの人たち臭いじゃん、などと言いながら、エホバの証人の勧誘にきた男性ですら、すぐ近くに浮浪者が橋げたに住んでいるのにみずから人道的救済のために助けにいこうとはせず、あるいは浮浪者の人が転んで集めた空き缶を散乱させてしまったのにもかかわらず、それを目の前でみていた東京都調布市を自転車で通りすがっていた都民の母子は、足元のふらついている彼をみてみぬふりし通り過ぎていった。自分は郷に入れば郷に従えとは知っていたが、これらの都民の人でなしというしかない振る舞いの数々と、同時に、彼らが神の如くに崇め奉って大金を貢いでいる毎夜の晩餐会やら明治天皇を祝う会やらで出される贅を尽くした料理にみられる皇族の非人道三昧ぶりを目の当たりにし、この様な人でなし社会は完全に我々にとって異文化であり、しかも、その異文化がやってきたのは、歴史的に大阪商人を江戸に集めた家康、あるいは天皇を京都から連れてきた薩長の侵略以来、さらには弥生系移民の一群として中国大陸からまだ天皇と名乗っていなかった彼らの先祖が自称宮崎経由で奈良まで侵略してきて以来、まさに人を人とも思わない身分差別の権化として、関西圏の渡来系豪族のなかで発生した大量殺人鬼信仰の邪教祖であった天皇一味が縁もゆかりもない東日本の南端に定着するに至った全過程をかえりみると、我々にはその悲惨さは到底うかがいしれない、想像を超えて差別がはびこりきっていて底抜けに野蛮だった関西や西日本、そして中国や朝鮮半島のくにぐにからであるのは明らかだったのである。その様な場での生活は、女性や障害者蔑視発言をくりかえしていた私の住んでいた当時の都知事の石原慎太郎を含め、まるでなにからなにまで異星人の如くに異なる、最たる不道徳を是とする野蛮きわまりないひとびとに囲まれて生きねばならないこの世の地獄の様なもので、私の道徳観からは全く適応もできない、すべきですらないし、私にとって東京都は、どこまでも同胞あるいは仲間として受け入れがたい野卑な連中のあつまりであった。このたびDaiGo氏が炎上発言をしたのは、何も驚く事はなく、いつもの都民の本音が見れた、というだけの事なのである。そしてその本音を政治的正しさで覆い隠して生きているのが、心のすれきっていなければ一秒でも生きていけない大抵の都民が生活している文化環境であり、事実として、私が都内に暮らしていた間でも、すぐ近くの府中市の高速道路の高架下で、ホームレス狩りなる蛮行をしていた子供が浮浪者への殺人容疑で捕まる事件があったのだった。私はその高架下をジョギング中によくとおっていた。それで事件があって自分の恐怖心が治まってしばらくしてからそこを再びみにいってみたところ、以前からそこにみられたブルーシートやダンボールでつくられている高架下の生活の場そのものが、跡形もない様な状態であった気がする。多摩川の方々に点在しているのだが、相変わらず川の方には、その府中の河川敷空間でも浮浪者の人が住んでいるのだろう場がみられたが、こちらの方は都内の子供から襲われていなかったのか、変わりがなかった様に思う。尤も、再び同じ高架下の場に移動してきた別の浮浪者がでてきても、なんらおかしくはない。東京都調布市であれ東京都府中市であれ、或いは23区その他都内のどの自治体であれ、都の公務員らは、この浮浪者と称される人々へ、進んで福祉を与えるつもりがないのだ。それは彼らが福祉の文化的生存権の意義を理解していないからであり、端的にいって、東京都とは平均的な公徳民度のおどろくほど低い自治体なのである。
私自身は住民票を移さなかったのでずっと茨城県民のままだったが、この東京都という不良自治体に私が暮らしている間に、私は何度も都庁に都民の声という意見を投書する場所から、調査では浮浪者は知的・精神障害者が過半と示されているので、行政人が民生委員などと協力して、生活保護の手続きを代行して最低限度の衣食住を行政の責任で与えるべきだと忠告したが、結果として全て無視されてきた。年越し派遣村とか炊き出しをおこなっている良心をもちあわせた民間人はあの冷酷無慈悲な都内とはいえいたものの、DaiGo氏の炎上で、浮浪者への人権侵害あるいは命の軽視が公然と罷り通るのが東京都という不良自治体なのは我々にとって公然の事実であることがさらに世界中にあからさまとなり、この件を通し、実際にひとりでも浮浪者とされている人々の生活状態が改善する事を、飽くまで東京以外の地方自治権をもつ人間の一人としてだが、心から願ってやまないものである。学生あるいは芸術家としてみずからの生活費も到底稼ぐ能力をもたない、カネにならない作品しかつくることのできない私個人が、当時、彼らに貢献できたこといえば、それらの都行政へのくりかえしの諫言でしかなかった。その後、みずからの自治権をもつ茨城県内で、自分のブログでの提案がきっかけになったかは不明だが、フードバンクの試みが実行されたのは望外の喜びである。
2021年8月15日
皇族を含む神道ネオナチ勢の分析と対策
現代日本で最も人々に悪疫を為している政治勢力は、いわゆる自称愛国者の愛国カルトであるところの、日本全体主義こと神道原理主義によるネオナチ(新国民社会主義者)勢力、神道ネオナチ勢である。かれらはその各種人道犯罪および悪行の過激さの質に応じて、ネット言論界ではネット右翼、ネトウヨ・ネウヨなどとも呼ばれている。
しかし実態は単にウェブ上の勢力ではなく、皇族自身を含み、日本会議や神道政治連盟という最低でも2つの神道政治勢力、あるいは日本青年会議所や国際勝共連合などの右派団体と結んで、具体的に国政を自民党員、内閣構成員の殆ど全員として直接かつ具体的に牛耳っている者の、ウェブ上での人格でもある。あまたの公法を違反してきた安倍晋三被疑者氏のツイッターなどがその証拠であり、ネット右翼と本質的に何の違いもない稚拙かつ悪意のある口調で、一般社会の良識をつかさどる進歩的言論への口汚い攻撃、あるいは反日などのレッテル張りで国益を害するあるいは敵対すると彼が勝手にみなした人々への薄汚いぬれぎぬ行為などを、公然と支持者とつるみながら、あるいは首相を務めていた菅直人氏からのその種の事実と異なるレッテル貼りへの名誉毀損訴訟などをなにひとつ反省することなくくりかえしてきているのである。
神道ネオナチの実態は、単なる暴政を目的とするものであり、本質的に反国民的かつ反議会主義などの傾向をもち、個々の神道ネオナチ自身の都合次第で内ゲバをくりかえしてきている。自称保守であるネット右翼の一員とみなされていた東京や大阪のネット・テレビ芸能人らのあいだで、たびたび公に演じられる内紛があるのは周知されており、特に種族主義を是認する極右・桜井誠氏と、男系論という姿で天皇種族主義(天皇レイシズム)の形で間接的にこれをおこなう右翼・竹田恒泰氏のあいだでも近いうちに相互批判の係争が起きている。この係争の内容は、桜井氏はご内示との表現で示す天皇自身の意思を奉るのが愛国者の基本秩序であるとする叡慮至上主義者であるが、竹田氏は天皇自身の意思は無視しつつも天皇という制度上の地位の形式だけつねづね奉るのが必要だとする皇室政治利用主義者だという点に求まるであろう。但し、右派一般がおおよそすべて竹田氏の様な皇室政治利用主義に正当性を認めているかは定かではないにせよ、必ずしも戦後憲法下で、桜井氏の様な純粋な叡慮至上主義に合意するかといえば甚だ怪しい部類のところで、右派一般は両者にどっちつかずといっていい。
つまり、この両者だけをかえりみても、神道ネオナチらとその形学は一枚岩ではなく、極右と右派では政治志向にかなりの差があるものの、究極のところ、天皇の先祖を神格化する神道による民族差別を是認し、その核心に天皇種族主義を含んでいる点では同一の政治勢力であって、なおかつ、この天皇種族主義によって国民全体を共通の政治目的へ従わせようとする点では、やはりネオナチこと新国社主義者の勢力だと言って構わないはずなのである。
かれらは口では愛国とか親日と称しているが、実は、天皇を建前にした種族主義とか、そのもとでの国政領域での国社主義といった、万人の人道あるいは世界史の示す失敗例のまえで甚だ劣った観念論をともどもに唱え、大日本帝国主義の侵略罪やそれに伴う戦争犯罪や、皇民化と呼ぶ全体主義的教化の人権侵害を伴う失政になんの反省もおこなってきていないという点で、やはり最も国益を損なう前時代的な考えを現代以降の世界にも延長させ持っていこうとしている点では、真に反日的、真に反国益的、真に反国民主権的なのは、かれらの政治家や政治評論家としての地位やその主張の方だというべきなのだ。
あるいはまた、朝敵という言葉についてだが、この汚名着せを目的にした語彙は、天皇支持者にとって最大の侮辱という意味を伴っている様だが、実際には右翼の内ゲバ(Gewalt、ゲバルト。暴力・力)、乃至、神道政争内でのレッテル張りが目的とされている、実に天皇一味の純粋な悪意のみによってひねりだされた薄ら汚い語彙でしかどこまでもありえない。なぜならば、単なる政争という意味で絶対権力者が世襲で永続しうるとは果てしない腐敗政治のいいわけ以外何も示し得ない幻想であり、最高公徳が遺伝する証拠がとりえないばかりか、世界史の現場では確かにそれと矛盾する現象ばかりが表れ、逆に単なる一代権力者に限っても「絶対権力は絶対に腐敗する」という傾向としての鉄則までもが、さも一般常識化されている程なのである。したがって、どの代の天皇であれ、彼らが当時の国全体の全成員の中で最高公徳をもちあわせていたといいうる根拠はありえず、なぜなら、その種の公徳の持ち主を公選その他の方法でえり抜く為の公平な制度を、史実として存在する飛鳥時代の大化の改新以後に絞っても律令制の模倣以来、一度も皇室なるものはもちあわせなかったからであり、いいかえれば、天皇一味は自分達の暴力による権限を担保に、彼らより高い公徳をもちあわせていたはずの諸政治勢力を手あたり次第つぶしたり、記紀神話を含む彼らを中心とした自民族中心主義的な皇国史なるものから全幅の悪意を込めて、意図して公文書を改竄し、あるいは実証科学の方を政治的意図で歪めて、全般的に抹消または汚名を着せて辱めてきたからなのである。この際、汚辱の差別用語として、彼ら皇族が用いたのは朝敵という言葉が代表例だが、それだけではなく、大和王朝以後の皇室界隈の皇族や官僚の手になる記紀や風土記などの文献にかぎってもあづまえびす・東夷、熊襲、隼人、国栖(くず)、土蜘蛛、エゾ、蝦夷(えみし)などなど、華夷秩序による異民族蔑視の中華思想を中国から借りてきて手あたり次第濫用し、国内外の色々な人々へその公徳の質や程度にかかわらず、ひたすら悪意から差別をおこなって彼らの主権・統治権・自治権や全ての人権、特に人格権や生存権を公然と侵害してきている。
したがって朝敵という汚名を着せようとしたところで、この言葉で異民族差別や、別の自治政府へのレッテル貼り攻撃をしかけようという純粋な冤罪の悪意悪行を、過去の関西圏での天皇一味の世襲政権による最悪暴政史から、再び引っ張ってこようとしている神道ネオナチ勢の悪業のほどしか、何ひとつ示し得ない。つまり、朝敵とは究極の所、どこまでいっても右派の内ゲバ用語でしかないのである。
しかのみならず、神道ネオナチはこれ以外にもあまたの差別用語を同じレッテル張りに使う。例えば在日、反日、国賊、非国民、日本ヘイト(日本ヘイト野郎)などなど。だがこれらすべてが、朝敵あつかいばりに底抜けに幼稚な政治手法でしかないのはいうまでもないだろう。端的にいえば、彼らが恣意的に敵とみなす相手をなんの法的・倫理的根拠もなく、単なる悪役としての色をつける目的で、中古代以来の関西政界宜しく、民族差別的文脈で世界人権規約の批准後もいまだに使い倒そうとしているだけで、現実のところ、この人道に反するこのその下ない陋習のせいで、関西地方界隈では今も、同様の語彙や概念、陰険きわまりないやり口による部落差別問題が深刻に、彼ら自身のこのレッテル貼りによる良心のどこまでも欠落した悪業で、彼ら自身を苦しめるばかりなのである。実際、彼らは近畿と自称し自明の上位者と称してきた、主として渡来人集住区として平安期にはじめてつくられた新興人造都市のなかで、中国の長安を模した条里制のあいだで、上京区とそれ以外といった具合に、御所(天皇の過去の住所地)から離れている場所の居住または出身者であればあるだけ被差別的に扱ってよい、それが当然であるという門地差別の悪習を、現代に至るまで多かれ少なかれ暗に続けてきているらしいのである。このことは京都市外の在住者の目には、京都市民自身の陰険さによって少なからず覆い隠されているが、京都府宇治市出身の『京都ぎらい』の著者が、その著のなかで明らかにしているとおり、京都を代表する知識人といってもいい京都市上京区出身の或る京大界隈の権威に、公然と門地差別的言動をされた場合などで広く知られた文献の上でも現代の範囲で確認できるだけでなく、実際に、私個人も含め、京都市出身・在住者から単に京都市の外で出身・在住しているというだけで、酷く門地差別的言動をされた経験をもつ者は少なくない筈なのである。換言すれば、これら東夷、熊襲、朝敵、在日、部落などの差別用語によって、それとは対照的にあがめたてまつるべき偶像として天皇一味とその周辺にいて彼らの中華思想を支持してきた公卿公家らとかその影響を受けた民衆、少なくとも諸々の関西圏の者らが、例えば上場企業サントリー社長・佐治敬三氏が、九州と東北を無知か錯誤によって混同しながら東北熊襲発言として公言したとおり現役で口々に使っている差別の手法は、単なる中華思想によっている自文化・自民族中心主義による稚拙な妄想を拡大しながら異民族・異文化蔑視をおこなうという天皇一味が中国の歴代皇帝から猿まねした部類の考え方のそのまた模擬にすぎず、一から十まで正当性はかけらも持っていない。文化人類学や民俗学、その他、比較文化論などの発展により、色々な国々の諸部族の立場から、歴史観や文化の違い或いは文化多元性について物事を多角的にみなおす事が学術的にも常識となった現代の文明界に於いて、関西人の相当部分が現役でもっている近畿中華思想は根源的に全否定されて然るべき純然たる野蛮の弊風というべきなのである。裏を返せば、真に野蛮で文化的質が劣っているとすれば、それは近畿中華思想、乃至、京都市上京区上方思想によって、関西地方でこの種の門地差別を現役で続けている一部の悪魔的な人権侵害者達こそなのである。例えば沖縄の人へ土人発言をした大阪の自衛隊員の傲慢さとか、京都市世界文化自由都市宣言を前提に京都市長・門川大作氏がくりかえし京都単独の文化に過ぎないものを文化相対主義を無視しつつその他の文化より一層さも優れた面があるかの如くに吹聴する口舌やその種の文化政策的態度のなかには、この種のうぬぼれの裏腹に、異質な他者を自明に見下げようとする高慢ちきぶりが、同様の凄まじい悪徳をいまだに引きずって万人平等たるべき人としての正しさを超法規的に侵害している天皇種族主義あるいはそれを内に含む天皇住所中華思想の残滓として、いわば一種の中世懐古の時代錯誤として、垣間見られることになるのである。
この関西圏で起きてきている門地差別を伴う天皇種族主義・天皇住所中華思想のはびこりと全く似た事は、天皇侵略後の東京都千代田区でも発生し、田舎差別、地方差別の文脈として、様々な都民やその支持者らから、純然たる悪意を込めて、日常的におよそ満遍なくいたるところでおこなわれている。彼らは東京でも京都でも、どこでも、天皇の権威を盾にとって知らない他人やその文化ならびに全人生を地域全体の自治権ごと辱める、という極悪行為を、王化・皇民化などの名義をつかった暴力による強制同化政策であるところの侵略罪の正当化とともに、これらの門地差別で公然とおこなっている。例えば特に山手言葉を範にとった標準語中心主義もしくは皇族言語中華思想というべき方言や訛りなどと汚名を着せた言語差別なども、紛れなくこれら東京都民主体の異文化差別による人権侵害の公的越権行為でしかない純然たる悪政の一端を示しているし、その主要目的とくれば、東京都民、そのうち皇居のある千代田区民を相も変わらず華夷秩序の中心かつ最上位とした、異民族蔑視、殊に皇族のうち天皇家を除く日本国民全体への生得的な身分差別が目的でしかない。神道ネオナチの悪意は彼らの思想形態の隅々まで、この種の神の末孫と自称する天皇ひいきと裏表で全人類を同時に比較蔑視する悪魔崇拝でみたされており、端的に現代の普遍的な人道主義こと万人平等の価値観でいえば、彼ら神道カルトの勢力こそが最も非人道的な宗教権力とその支持者らのありさまの第一群だといって間違いなく、すぐさまにこの我々の属する文明圏から永久追放されるのが当然といえるほど、人間の尊厳に致命的な損害を与えつづけてきている邪教一団なのはあやまりないのだ。仮に、彼らがどれほど長く王権を続けたからと言って、その支配が長ければ長いほど門地あるいは身分差別を伴う異民族蔑視の支配者が公然と王座あるいは祭司長を担う暗黒時代がその集団を毒していた時期が長いという最悪政治の証拠が積み重なるにすぎないのだから、神道ネオナチ勢の共通して語る天皇家の支配正統性や貴重性とやらは、寧ろ彼らの残虐無慈悲な非人道性、すなわち悪意からきた人類全体への差別の動かぬ証拠を示すに過ぎない。すなわち天皇一味は公徳そのものによらない単なる血筋よる国権侵害の世襲制によって、本来の最高公徳の者達を不当に排除しなおかつ朝敵その他の名義で結局は政権簒奪しつつ辱めてきたといういや増しに閻魔帳に記録されていく罪業の証として、我々の前に恥知らずにもそれらの全国民の公的正義や自治の良識を陥れてきた悲惨すぎる倨傲によった野蛮な僭主政治歴を、ひたすら逆上してあるいは人間性への根本的蔑視によって、自分自身のために並べ立てているだけにすぎないのである。もしこの世襲制をとってもなお、象徴その他の天皇の地位の正統性を証明するに、単なる男系血統による血統差別こそがふさわしいとするのは単なる彼ら皇族とその支持者らの相当数を占める男尊女卑かつ人種差別論者らによる、関西地方や東京地方で無反省にもつづけられてきた邪教祖一族一門による国政専横の傲慢である、との論旨のどこかに矛盾があるとするならば、実際にそうかもしれないという仮定にたてば、構わないので、有権者への全国民投票をやってみればいいのではないだろうか。もし全国民の過半数が、この男女差別教義を是とするのであれば、なるほど、その国民は未来永劫、文明界から退場するのがふさわしいのは誤りない。同様に、天皇という世襲による人種・身分・門地差別を込めた中古代から中世封建制に依拠した渡来系氏族の一族専制政治の継続維持のための文化の存在そのものの正統性を、皇室廃止か存続かで問う、同様の有権者への全国民投票をおこなってみればいい。この場合は、嘗ての朝日世論調査では、明仁氏による平成天皇の代にあって過半数が象徴天皇制を好意的にみていたため、あるいは、この政教未分離の差別制度を近現代の諸人権尊重の念へ明白にさからって或いはふみにじってでも続け得る余地が、世界の極東にある時代停止列島の一部にあっては可能なのかもしれない。但し、それはその国が、超法規的世襲絶対権力者一族の絶対的腐敗の証拠のと蛮行の数々を諸々の情報統制による国ぐるみの隠蔽工作よってなんとか維持しなければならない、という凄まじい上に公益に反する事はなはだしい国事上の不条理を、その為の費用増と共にかかえ続けることを意味している。そうであれば、この様な時代に応じて過去の過ちを反省し、心を入れ替え生まれ変わって進歩する健全な文明人としての人間性をあきらめ、人々の不幸をもとにしてでも自分達の中古代奈良県での天皇の名乗り以来、中華皇帝もどきの祭司長を続けようとしてきた自国民あるいは諸国民への自治弾圧的な独裁政治やその形骸化した儀式の維持願望へのどこまでも合理性に欠けた固執にすぎないのだから、今後の全ての人類にとっても、全方面からみて完璧な反面教師として、人類という生まれつき差別されることがない全ての人々の名誉と尊厳への公然たる蔑視にほかならない身分差別を現におこなっている正真正銘の蛮族たちの証として、これら皇族達は記憶されるにすぎない。そうであれば、神道ネオナチ勢の彼らへのどんな擁護論も、或いは政治利用論も同様に惨めな敗残者として、文明の公益の場からは常に、悪例の文脈として語られうるにすぎないことであろう。
もし将来も天皇家が生き残っていれば、なんらかの因果でその集団の最高公徳を占めている天皇家の男系の息子か、女帝間相続の実例に習えばさもなければ天皇の娘でかつ近親男系皇族の娘かで、当時のなんらかの制度か慣習による皇位継承順1位の末裔が、彼らを最高公徳の持ち主と認める彼らの周囲にいる人々一般や、その他少数勢力からの支持を受け、それか彼ら自身がなんらかの強権を発動する事で専制権力を再び握る場合が、仮に当集団の全人口中に生じる確率に比べれば当該最高公徳の保持がこの皇太子へ特に生じる確率がごくまれでも、ありうるであろう。但し、この仮定では、この専制、公選、少数支配その他の政権が、後づけで自らの天皇権力の正当化の為に、みずからのありもしない最高公徳を天命論や革命論、王政復古論、倒幕・倒政府の維新論などとして語る場合を除いている。なぜならそれは不正権力にすぎないからだし、仮に言論の自由が侵害されていた場合は秘した記録としての言論のあいだでですら、国内外の同時代人のみならず後世も、別のより高い公徳の持ち主らをみつけてきて、歴代政権評価の中できっとこの天皇政権を暴威による偽物または悪政をおこなっていた疑似政府と評価することだろう。この際、もし公選制などの形をその政体がとっていれば、天皇家のその君主か支配者その他の長としての地位は、単なる男系血統という人種差別・天皇種族主義やそれに伴う世襲によっていないのだから、政治的に正当化される。しかしながら、選挙によってこの政治的首長、または超法規的祭司、象徴その他の地位を受け継ぐ場合、その政権が嘗ての彼らの末裔らのよう暴力によってこの地位を得たのであれば、今も過去も未来でも、彼らの政治権力は正当化されえない。なぜなら、我々一般国民は、政治権力の正統性をただの暴力によるものだとはみなさないからである。それは只の政権簒奪勢力である。人々が我々の支持するものと公認する政体には、多くか少数の人々の合意による、又は当人だけが先んじて認識している、道徳的正統性が必ずやなければならない。そして、天皇家か何らかのその親族および末裔らは、彼らを支持する人々のいかなる強制にもよらない公選があるか、さもなくば、彼ら自身の王権を暴力革命なしに樹立するだけの道徳的資質がないかぎり、一度たりとも棄権の者とを含む有権者の総国民選挙による国民総意からの支持を実際には得ていない以上、彼らの世襲の地位は、彼ら自身とその支持者によって捏造された建前だけの紛い物、いいかえれば裸の王様というべき状態でしかありえないのだ。もっというならば、王権あるいは皇帝権力、その他、象徴その他の名義を与えられた祭司長の地位は、世襲などの付帯条件で自動的に相続されるものであってはならず、その公的資格の正統性があるか否かで常に、内政としては全国民自身または外政としては他国の監視者らのもつ革命権から試練にあわねばならず、実際、世界中の全ての国々が、その種の試練を経て、なんらかの政体を、今に至るまでしばしば断続を含みつつそうして続けてきているものなのである。
こうして国政が憲法および皇室典範に定める天皇の地位が、全女性差別や一般男性への差別を含む、竹田恒泰氏ら男系派の理屈では男系相続と称する世襲で、今後も続けられていくべきかといえば、その善悪やなんらかの伝統固執による正否なりは、究極で、我々が彼らの神道全体主義による国政のっとりを公認し続けるべきか否かに帰着する。そして、答えは否なのである。それというのはこの論考で既に述べてきたとおり、天皇一味とは単なる中華皇帝を模しながら自己神格化の祭司長を兼ねる事で、中古代の奈良県界隈で自らの豪族としての帝国主義圏を拡大しようと図ってきた、かつ、その後も増長し続けてきた封建領主の末裔にすぎないものだが、仮にどれほどその封建制が公認された形で維持される期間が長かったとしても、我々はこの種の身分差別や人種差別そのものに、人として、全過去を含む以前からも今もまた今後も、絶対に反対しなければならないからである。天皇が居を移していた奈良、大阪、兵庫、京都などの関西地方の人々あるいは東京の人々は、それら深刻な人道犯罪者でしかない天皇と称する一味に国ならびに地方自治権を乗っ取られてきたに過ぎないが、そのことについて結局、彼ら自身、正義の念が足りなかったに過ぎないのである。たとえ、独裁者である天皇一味から朝敵扱いで単なる自治権と主権を侵害され惨殺された侵略被害者であるアテルイとモレ、もしくは国民の代理機関である内閣の判断をそれに従うべき一省庁にすぎない宮内庁の判断に優先する判断をおこなったがゆえ非難を加えた天皇宗徒らによる政権解体後、国政の枢要な地位から排除された小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏の様な傑物が、国民主権あるいは国の自治権のありかを自己犠牲的に示してきた勇気ある先駆者だとして、彼ら以外のすべての国民についても、もし神道と呼ばれる天皇一族崇拝・全人類差別のカルト宗教に骨の髄まで洗脳さえされていなければ、自分達の国と郷里の主権を放棄する愚かな行いを進んで為す可能性は、寸分もありえない。ありえたのは天皇一味とその信徒から暴力を振るわれた事での無理やりの主権剥奪での奴隷化、のちにいう臣民化という天皇一味による蛮行の被害ばかりなのだ。さもなくば、天皇一味を不支持な者への適当な難癖をつけた大量虐殺や諸々の差別を常套手段とする最悪級の世襲君主兼祈祷師でありつづけてきた天皇一味より公徳が低い者しかいなかったことになり、天皇絶対権力に疑義を呈した藤原純友と、自らの公権力の前で反抗的天皇を退けた足利尊氏の2名を除く関西地方、あるいは自治権を確立維持した平将門と、攘夷論をとる孝明天皇の廃帝を企図した大老としての井伊直弼(但し彼の行った彼が尊攘派とみなしたものへの冤罪を含む彼の不平等条約勅許というのちまで外交国策上の大きな失点を含む施策の反対派への大量粛清劇は、彼の主君であったはず、紀州と宗家を除く水戸・尾張ら各徳川家への不忠な裏切り行為も含め、今や疑わしきを罰するだけおよそ見境ない大量虐殺犯となった僭主・直弼への復讐劇たる最後の手段をとった暗殺による、国政の正義をつかさどる軌道修正に、当時の良心をもつ人の目からも当然値するだけ、人道的に許容される様態をとうに超えていただろう。なぜならこれ以外の平和的議論による方途では直弼が少しも反省せず、却って各種抗議者とそうと疑われるが直接関係のない一般人までもを、抗議者が公事国事に訴える事柄の正否を問わず次々粛清対象にし死刑などにしたてあげていっていたのが、悲惨な大量虐殺の現場での厳然たる事実だったからである)の2名を除く関東地方は、もしどれほど宗教上の誠意があったとしても、全員が神道に洗脳されてきていた底知れない狂信衆愚のすみかであり続けてきているという事になるが、思想や良心の自由が認められた現今の自治のありようをみて一人残らず正義の有無を精査したならば、決してそんな事はありえないであろう。また、実際に天皇と称して己を権威づけしている大量虐殺犯一味からなすがままに差別され続ける自堕落な被征服者だった時期が彼ら自身の権力の有無にかかわらずあったとしても、それは彼らが人としての正義を知っている人物を一人でもうみだすだけの文化環境や十分な知恵、知識、そしてそのための状況がなかったにすぎない。したがって、天皇一味はこの自己神格化をはかる神道教義での洗脳を抜きにすれば、その国全体を専制権力やそれを模した儀式によって世襲する正統性は、彼らより高い公徳を持っていると自認する、或いは他者がそうと認める人物の前で、例え名目的なぬけがらの如く形式的なものであってもどこまでもあり得ないし、過去から今、及び全未来まで、ずっとありえないままであり続けてきているし今後もあり続けるであろうことは、全ての反証観点から見直してきても、誰の目にも明らかなのである。
自称愛国者による冤罪での生け贄儀式
なにゆえ平成・令和日本では国政が多数派の横暴または国会での審議拒否をくりかえす寡頭政治・独裁権力によって紊乱されているか、その原因解明を通じた議会主義復興論
日本国民一般は、対話による公的社会づくり、国造りを完全に拒絶してしまっている。特にこの傾向が甚だしくなったのは安倍晋三政権の元でであった。
安倍氏は国会でまともに対話をおこなわず、相手の質疑に直接こたえようとせず意味の通らない論点ずらしを容易に繰り返すばかりか、官僚作文の読み上げに終始するといったそれまでの自民党議員の官僚主義に従順な面も見受けられ、これらの議論に際しての不誠実さに加え、公的に118回もの虚偽答弁をおこなっていた。いうまでもなく偽証罪で嫌疑され、検察の公訴にあうべき全国会議員でも世間にしられるかぎり第一の犯罪者だが、その悪事が余りに常軌を逸して甚大すぎるので圧倒され、さもナチ政権の連呼する正義が本当にそうであったかの様に思い込んでいた一時のドイツ国民らのよう、多くの民衆が暗示状態にかかっている。
安倍氏の人格が良心の異常な欠如により平気で嘘をつく精神病質(サイコパス)の部類にあるのは既に公的証拠があまたつみかさなり、多くの人々の衆目が一致するところだが、その様な悪い方への人格異常者に最長期政権をあけわたしてきたという日本国民一般の公的判断に関する異常または良識喪失の方にも、我々は注意を向け、徹底分析をつづけねばならない。
しかしこの論考でまず問題にしなければならないのは、そもそも安倍氏がおこなってすでに国民一般へ蔓延させたたぐいの議論拒否、対話拒否の暴力政治・暴政の方にある。
これは明白に議会主義の否定である。よって多数支配も根本的には否定しているといっていいだろう。多くの人々の民意を拾いあげる体裁すらとらなくなったことを、安倍政権とその姿勢を受け継いでいる以後の自民党・公明党連立政権の、国会での虚偽答弁による対話拒否の姿勢は示しているからだ。
安倍氏がおこなおうとしたのは、この意味で、寡頭政治か、独裁政治(僭主政治)か、いづれかである。すくなくとも自民党員間での多数支持がなければこの独裁がおこなえないという意味で、正確にいって、寡頭政治と独裁政治の中間状態にある「党首独裁政治」と呼ぶのがふさわしいであろう。よって、安倍氏は自民党員の多数派の動向にはかなりの注力を払って無視できない場面があるものの、かれの政策やかれ個人へ反対・反発する国民の一部や、その代議士である野党の批判的意見に対しては、「こんな人達に負ける訳にはいかない」などの言説であからさまに攻撃的かつ排除の態度を示す場面が、演説中のかれ自身の内面感情の発露で恐らくかれ自身にも思わず散見されたばかりか、実際の国会審議中でも野党側の質疑をほとんどヤクザじみた上から目線の横暴な態度で無視したり、実際に嘘を含んでいる到底論理的に成立しないはぐらかしでかわす場面が日常的かつ随所にみられたのである。
要するに、安倍氏はかれの最後の長期政権下でみずからの党首としての地位を絶対化するのに集中しており、一方で、少数派を含む国民全体の民意の方は軽視しつつ、全体の奉仕者としての公務員職権違反を公然と繰り返す形で、その政権基盤を安定軌道にのせていたのである。
議会主義はイングランド議会で国王の専制権力に対抗する文脈で生じてきた政治の形であり、すくなくともイングランド人らはこのやり方で、一度は共和革命による国王処刑までおこなっている。
結局、イングランドではクロムウェルという新たな独裁者(僭主)と目される専制権力の出現によって、西洋大陸のオランダからドイツ人系の王侯を自分達の名目上の王として招き入れることで、議会が国政の主導権を握ったまま、同時に独裁者出現を防ぐ方途として、議会主義的な名目王政という今に続く統一王国(United Kingdom、UK)独特の政治の形をつくっていった。
日本は薩長土肥の藩閥が寡頭政治を敷いていた明治政府が、その一員である山口県出身の伊藤博文のドイツ留学を受けて、専制君主による支配体制を布いていた帝政ドイツ(プロイセン)をまねた、大日本帝国憲法(日帝憲法)を樹立させた。
この形は天皇が専制君主として全権をもち、国の議会(国会)の権力は飽くまでその下に置かれていた。
一方、第二次大戦の敗戦と国連軍のGHQからの間接統治を受け、戦後日本では天皇の全権が削除され、かれに国政権能がない事にした。いいかえれば、GHQは日本政府とのやりとりのなかで、日本の国政を、戦勝国側にあたる統一王国風の、議会主義的な名目王政の形に近づけようとした。こうして、我々が象徴天皇制と呼んでいる、国政の決定に於いてよろずに議会が天皇に優越すべき今の皇室と議会の形が、年号でいう昭和、平成前期の両時代を通じて、続いてきていた筈だった。
しかし明仁氏(今上上皇、平成天皇)は、平成の代の天皇だった頃、退位法という名で議会に自らの望む法律を通させようとした。それは宮内庁を通し、内閣と内密に謀って、公でない裏の場でおこなわれた議論であったらしく、国民やその代理機関である国会へはいわば後づけの形でビデオメッセージにより知らされ、およそ全く公の議論がおこなわれないままで国会議員が全会一致という戦後政治史的に疑義しかありえない暴挙とも呼ぶべき異常な採決をおこない、遂に明仁氏は生前退位とかれらが呼ぶ譲位行為を現実におこなってしまった。
我々一般人のうち憲法学や戦後憲政史に少しより覚えがある者は、この国会専横と呼ぶべき明仁氏の馬乗りに、心底おどろいた。なぜならこれが通るのは、本来、日帝憲法に於いてである筈で、戦後憲法のもとでは国政の権能が天皇にはない筈だったからである。よって国会議員の多数派がこの明仁氏からの退位要求に反対し、憲法に定める皇室典範の規定どおり、摂政を置くべきことは明らかだったのである。最低でも、退位法を国会が成立させたければ、明治以後は終身在位としていた皇室典範の改定か、さもなければその制度の本質的内容の議論が必要となり、国民の多数派がそれを容認するかどうかについて、国会でおおやけに質疑・答弁が議員間でおこなわれていて然るべきだったのである。なぜなら、さもなければ、皇位継承順を何らかの政治勢力または皇族自身が、自分達の都合次第で操作しうるいわゆる皇族政治利用にあたり、皇室悪用・乱用での国権(国政上の権能)侵害の余地があきらかに生まれてしまったからだし、まだ明白たる証拠をともなった政治勢力としては京都府京都市長・門川大作氏ら京都府・京都市の首長らによる皇族の京都移住への働きかけ以外でははっきりとはしていないものの、実際に皇室を国民全体の公益を損ないつつ、一部の政治勢力の私利に皇族に付随していないともかぎらない、必ずしも実定法の範囲では目に見えないが確かに暗に働いているだろう国権が悪用可能になったままだからなのである。例えば、幕末に於いて攘夷論者かつ親徳川の孝明天皇は、幕政改革路線から途中で倒幕路線に転向後は徳川氏からの政権簒奪を狙う薩長両国や、同様に権力簒奪を志向していた岩倉具視らからみて、これらの武力革命という名の国討ち(クーデター)にとって邪魔な存在となっていた。実際にこの政争のあいだに天然痘で孝明天皇が崩御したことで、まだ10代で成人していない明治天皇の名のもとに、小御所会議で弱腰だった摂関家による親政を専横し、薩摩国の西郷隆盛や大久保利通、そして岩倉具視の3名は、政権簒奪の為に前将軍の徳川慶喜へ、特に小御所会議以後の少数者による議会政治から排除の悪意以外の目的や理由がない冤罪(朝敵の濡れ衣)を、一方的に着せる事が可能になったのである。つまり一部の寡頭政治勢力、さもなくば僭主または衆愚化した国民多数派など悪徳政治勢力が、または同様の政治志向をもつ皇族自身が、かれらに不都合な皇族を退け、かれらに都合のいい皇族を持ち上げる形で、みずからの悪政を皇室の権威で正当化することができる様になる。あるいはそれが政治上の公益という形でもたらされれば後づけで、天皇の権威・権力を諸国民のあいだで強化する形になる。これが退位法を含む、皇族の政治参加や皇族自身による全権ならびに国権乱用あるいは皇族政治利用の甚だ公害または反国民主権的な点である。
したがって明仁氏の真意がどこにあったか我々には定かではないにせよ、かれが立法府の国会という姿をとっている国民主権の行使機関に馬乗りする形で、天皇の専制権力、いわゆる全権を戦前回帰で発揮し、それについて、国会議員のうちただ一人ですら公益の為に指摘しあるいは天皇による越権行為を防止する者がいなかったという一点に於いて、戦後日本の象徴天皇制は、この退位法の可決という歴史的な堕落のできごとによって、根本的に倫理崩壊したというべきだったのである。明仁氏と次代の天皇・徳仁氏その他の皇族のあいだになんらかの政治意図があったかどうかは一般国民の目には不明であるが、少なからずこの退位法を通せてしまったという自ら招いた事実上の脱法かつ倫理崩壊の悪行によって、天皇を含む皇族なるものは、憲法に定める国民主権への裁かれざる公然たる侵害者、いわば公訴以前の、もしくは超法規的な犯罪者となったままなのである。
さらなる問題点も、退位法成立はもたらした。明仁氏はこれによって議会主義をも否定している。なぜなら摂政を置く終身在位を是とし、または天皇の全権・国政権能を戦後憲法の正統解釈どおり否定し、あるいは差別の否定・人権擁護・国家経済の合理化等を目的とした皇室廃止などさまざまな立場からの問題提起として、退位法成立への全会一致の幻想を拒絶または疑義する国会議員が、ただのひとりもいなかったという事は、既に、叡慮全体主義・大御心全体主義が日本国民一般を心理的・精神的・宗教的に毒しており、戦前憲法と同様の悪魔崇拝に陥ったまま、という殊更な事実をも公然とあからさまにしているからだ。
別の言い方をすれば、天皇自身が国政に法に定めない何かを脱法的に求めた時、それが自分達国民ひとりひとりの人権や尊厳を守る為の主権をもはっきりと侵害しているのにもかかわらず、また、首相ら国民が職権違反の趣旨で罷免しうる公務員を過半数とする皇室会議を通し摂政を置く事で皇族の政治利用を謀るさまざまな勢力や、その他の国討ちを計画している皇族による議会軽視をも事前に退けられたのにもかかわらず、明仁氏からの退位法要求については国会その他の国内議会で十分な審議をおこなわず、実質的な安倍専制政治のもとで全議員が素通りさせてしまった、という失態は、間接的に、天皇という宗教的教祖が全ての主権者の上にまたは裏に立って超法規的権限を働かせている事を自己証明してしまったからである。
安倍氏が議会軽視、それどころか無視をして恥じなくなったのは、その倫理崩壊の一部として、天皇の地位にあった明仁氏によるこの蛮行もたしかにその不可欠な要素として含まれている。まともな議員がまともに議論をおこなえる場があったなら、安倍氏も明仁氏も、そこまで違憲・違法で甚だ危険かつ公害な振る舞いの数々をほしいままにはできなかった筈だからだ。明白に憲法に定める戦争放棄や、内心の自由を逸脱している戦争法や共謀罪、あるいは国民の知る権利を侵害している秘密法を通した安倍氏は、反国民主義者だという事が明らかだが、同時に、かれの悪政を私用する形で、戦前退行の譲位もどきを実在しない全権乱用で実行してしまった明仁氏もまた、同様の反国民的罪人だという事が、わが国史に於ける同時代的真相である。そしてかれらの深層心理の奥にある考えは、議会によって一般国民らに権力を明け渡すのが面白くない、むしろ自分達のおもいあがりからくる虚栄心から国権を専横した方が望ましいという脱法的でなりふり構わぬ傲慢さであり、結果、これら一連の安倍氏・明仁氏らの自堕落かつ倫理崩壊したしぐさの数々は国民全体の遵法精神やそれに伴う人倫秩序を損ない、今となっては対話そのものを拒絶しつつ、個人の良心や少数民意を多数派の横暴で踏み躙って罪や恥を感じない、自称保守の神道ネオナチ勢力、神道国民社会主義勢力をあちこちでほとんど支配勢力になるまでの致命的規模でうみだし、のさばらせてしまったのである。
安倍氏や明仁氏の脱法行為はあまりに公然とおこなわれ、特に安倍氏のそれにかぎってはあまりに数が多すぎるので、各地の検察すらそれらすべてを把握するのを億劫がりあるいは仕事の膨大さの前でためらっている。だが、かれら安倍氏や明仁氏は正真正銘、国権の侵害者、国民主権への悪意からきた憲政破壊者であり、その増長段階として、国会という公の場での議論を事前の根回しや詭弁術その他で煙に巻くという反国民主権的な最悪行為を、自分達の私利私欲の為に謀って恬として恥じていない。しかもこの悪疫がはびこるところ、今では若者一般ですら、大抵の部類が、余りに専制的な権力の現場とそれが未成年のあいだじゅう長らく続くさも永遠と感じられるかの如くの中世状態の強権のありさまをまのあたりにし、かれら安倍氏や明仁氏を絶対的強者または皆が共通してあがめたてまつるべき模範で、さもなければいかなる過ちも犯し得ない神聖な象徴などと誤って考えている傾向にも保守信仰の一部に内在されてある為に、自らの道徳的遵法能力で意識して守らねばいつでもかれらの様な悪意あるあるいは犯意はありつつも実の責任転嫁を含んだ反国民勢力から奪われ根絶さえされうる主権を、安倍氏や明仁氏その他のかれらの人権・国権侵害の悪事を擁護する悪徳勢力から蹂躙されて喜んですらいる。そのうえ状況がわるいことには、かれら安倍氏、明仁氏、その他の反国民主権的かつ自称保守の自民党員大多数やその支持者勢力は議論を深める事を拒否し、内容を吟味せずその場の勝敗を決めるべく公事に関する論理を私利を図る目的で恣意的に操って不誠実におこなってあまたの詭弁やごまかしによって論破したなどと称し、多数派の圧政でなんらかの少数意見やその意見者らへ検閲・言論弾圧・魔女裁判による冤罪行為をおこなっておしつぶしたり、対話自体を拒絶することさえ平気でおこなうことが実に多い。すなわち安倍氏や明仁氏が現にやっているではないか、何が悪いのかなどと反議会主義的、反対話的、反議論的、かつ断章取義の上げ足取りによる論破目的な悪意と集団暴力による蛮行の数々に、安倍氏や明仁氏の脱法行為は、おおやけの開き直りの口実を与えてしまっているのが救えない現実なのである。
そればかりではなく、ツイッター社を含むGAFAMなど、米国カリフォルニア州などに本社を置く日本での治外法権を含んでいる米国企業、ビッグテックらは、単なる検閲・言論弾圧にすぎないネットリンチ(ネット私刑)の暴徒に、広告収益その他をもたらす利用者として一定以上の擁護をはかりつつ、それと矛盾した良識を代理する少数意見の弾圧BAN、および少数者・良識派永久凍結のための排他主義的荒らしからの冤罪に、単なる金儲けの為の多数派擁護目的にお墨つきを与え、ますます日本での議論軽視、対話拒否の反国民主権的かつ全体結束主義の衆愚政権醸成に、ただ私企業の営利を目的に意図して力を貸しているありさまである。
ここでは、ビッグテックらに、他国での治外法権を国会が認めない必要があるのだ。なぜなら、それは国を跨ぐ情報政経に際しての、他国に属するなんらかの勢力からの主権侵害にほかならないからである。同様に、ドイツ首相のメルケルが指摘したとおり、米国政府と米国内司法もまた、各州法の解釈をもちいた狡猾な脱法行為によって、米国憲法を逸脱した権限を米国内の私企業が主張し始めた際には、断固として憲法の倫理規定を各裁判に於いて適用し、これらビッグテックによる、企業収益に依存している州の権限をたねにした私利を公益に優越させる反憲法性を、堂々と可罰しなければならない。国連や各地の多国間の地域連合も、同様の観点で、ビッグテックに各国或いは各国民主権を逸脱した絶対権力を付与しないよう、司法の良識維持の論点から最大限の注意力を今後とも注ぎつづける必要があるだろう。これは過去もEUなどで議論されてきたかれらの単なる脱税の企てを超えて、言論・表現・良心の自由と不可避に付随した、最たる人権擁護および公の社会的正義を堅持する義務の為にである。
他方これら安倍氏や明仁氏の主導してきた議会主義の逸脱は、最終段階としては必ずや全体主義(全ての人々が和によって一つの目的に従うべきとする考え)的な国民社会主義(国社主義。国民全体の生活の隅々まで政府が支配権力を働かせうるべきとする考え)こと、全体ナチズムに辿り着くことだろう。日本ではその既往の形で天皇制ファシズム、天皇結束主義(天皇の命令に全国民が結束して従うべきとする考え)が典型例である。
自民党ナチ、自民党国社主義者は、実態的には神道原理主義者の別名義でしかない。かれらの究極目的は、図らずも自民党議員・稲田朋美氏が講演内で吐露した事があるとおり、国民主権をとりあげ、自民党憲法草案で元首と定めた天皇主権におおかれすくなかれ舞い戻す事で、大和王朝よろしく天皇結束主義の独裁国家を、中古代から中世関西地方への懐古趣味的に再現させるつもりに他ならない。そして明仁氏ら皇族も、みずからの権力や権限を最大化しうる点でやはりこの懐古趣味へさほどの反感や不満をもたないからこそ、退位法で国民主権へ平気で馬乗りし、いまだに脱法行為へなんの謝罪の念も示そうとしない。むしろかれらはそういった三権未分立の戦前天皇の姿こそ、世襲専制君主として一先進国を好き放題に動かせる証拠として、自国民のみならず諸国民に威を張るみずからの箔をつけるいい振る舞いだとでも、倨傲のあまり思い込んでいるのである。
我々が国政に正義を取り戻す大前提は、安倍氏や明仁氏といった脱法勢力を完全に国権の場から駆逐しきる事にある。なぜならかれらこそが国政の現場で戦後憲政を戦前同然の人治主義によって現に侵害しつづけている大悪党だからだ。それすらできねば、誠意を持って少数意見の尊重によって全国民の福利を最大化しようと試みるべき議会主義による国民主権の維持も、したがって国民全体の良識を信頼した平和国家の建設も、到底できない事になるだろう。
神道ネオナチの日帝主義礼賛
なぜことさら西日本一般では侵略罪を正当化する人々が幕末・明治の徳川氏とその忠臣への冤罪や、主権侵害その他国内外での主権侵害・民族殺戮の蛮行を美化し続けているか、その西日本勢の末裔である自称天皇一味の中古代奈良での名乗りの真意から紐解く
西日本の人達は、薩長土肥京芸ら西軍に与した郷土史をもつ人々を筆頭に、一般に、敗戦を悔いはしていても、侵略罪を反省などまるでしていない。このため、行政規模で明治150周年など侵略罪及びそれに伴う冤罪、一般市民を含む虐殺その他の加害行為という悪業でしかない証拠を、被害者である国内自治体やその末裔らの面前で、なんの反省も罪悪感もなしに奉祝などしてしまえるほどの無神経ぶり、野蛮極まりない中華思想ぶりを、自称京都・自称近畿の中世朝鮮系の渡来人都市を中心に、先住系日本人達の暮らす北海道含む東日本全域を被征服側の差別的地位に置き続けるつもりで、相も変わらず、純粋な悪意から、あからさまに示しつづけているのである。
さらには、この侵略罪になんの罪の意識も覚えていないという点では、それを全権から主導しながら敗戦時には部下に責任転嫁しまんまと死刑や公職永久追放逃れをし、真の第一のA級戦犯でありながらいきのびた皇族も同罪以上に罪深い一門であり、かれらはもともと中国大陸ならびに朝鮮半島から日本列島へ暴力をもちいて侵略してきた弥生民族の一類だったのが現代の遺伝学的・文化人類学的・考古学的事実であるのにもかかわらず、それを神話めかした神武東征などと自ら評し、自分達皇族による日本人達への侵略罪を神道というまぎれないみずからという大量虐殺犯の人種(特に、男系論者によればその男系の血)を悪魔崇拝させる邪教の内部で美化しつづけている。
この上に、かれら邪教神道に洗脳された民衆のあいだでは、特に幕末・明治時代の侵略罪を郷土史の文脈で自己正当化・英雄化しつづけている西日本で同胞連帯し生まれ育ちあるいはくらしている人々を中心に、天皇によるまたは天皇の権威の名のもとにおこなう侵略罪を、絶対政治として神話化する悪意も、完全な日本全体主義の形でみつかる。いいかえれば、大和王朝と称する中古代奈良県にあった政権を神聖化し、その帝国主義的侵略罪ならびに他の先住・渡来日本人その他への門地・民族・人種差別を、神道や天皇の名のもとに正当化しつつ、その際の主権侵害や民族殺戮をさも美事かのごとく語る『日本書紀』『古事記』などの神道教典を無謬のものかのよう徹底した悪意のもと被害者蔑視の文脈で使い続けようとするのだ。そしてこの悪意の延長上に出てきているのが、自称天皇が飛鳥時代に奈良県の豪族による中国風の名乗りとして発生して以来、熊襲、東夷、蝦夷、国栖(くず)、土蜘蛛、あるいは隼人、エゾなどとありとあらゆる悪意を込めた民族差別用語で、日本国各地の先住・渡来系部族らを奴隷化しようと謀った中古代から近現代までの関西人達の、今も各種文献に動かぬ証拠の残っている一般的な姿なのである。これらの悪業は今も、関西地方あるいは西日本一帯でことさら残る差別の風習である部落差別としておおかれすくなかれ続けられており、いいかえれば、西日本一般には、その種の神道原理主義、天皇中華思想に由来した悪意が果てしなく連鎖蔓延してしまい、それを王化あるいは皇民化などと称する絶対悪徳政治へ臣従する臆病さのもとで全人民に押しつけまくった結果、もはや誰も天皇という徹底した暴力を振るう邪教祖一味とかれらの悪政へ疑義を呈する余地も持てなくなってしまい、なおかつ、かれらが差別的待遇に置こうとする全ての人権の持ち主たちを、歴々と人間以下の扱いをして恥じなくなってしまったのである。
韓国・朝鮮人差別が西日本一帯でことさら激しいとして、それにはきちんと上述した様な文化背景がある。すなわちすくなくとも神道原理主義あるいは天皇中華思想以来、この皇族と称する邪教祖一味が自分達の統治権を暴力で正当化する目的で他者・他国・他自治体の主権を侵害し、尊厳を踏みにじる目的で天皇統治圏内ではまとめて差別する対象にしたてあげてきた諸々の部族・種族のうち、明治政府が恐怖政治屋・薩長閥のもとで脅したり誘拐したり実際に民衆虐殺や統治者暗殺をしたり植民地化した地域の人々、例えば東日本諸国(現在の東日本諸県)・新潟はいうまでもなく、琉球王国やアイヌモシリ(アイヌの国、本州側のいう蝦夷共和国)、あるいは朝鮮王朝(李氏朝鮮)などがことさら関西近隣諸国のうち初期に薩長土肥京芸ら西軍から侵略罪の被害を受けた場であるが、これらの国々へ天皇一味やその手先を徳川氏の平和外交主義や内乱防止内政を全否定しながら内乱・外乱罪を犯しながら買って出ていた西軍とその末裔にあたる自治体とそこで暮らしている一般日本国民は、それら過去に於ける諸々の重大犯罪について少しも済まなさ、罪悪感を感じ取ってはいない。純然たるダークトライアド・テトラドの様な犯罪者が、被害者からの訴えを聞いてもなんの痛痒も感ぜず、終ぞ反省せず、ゆえにこの加害者への具体的制裁以外にかれらを押しとどめる方途がどこにもない様に。そこにあるのは道徳的無能であり、いわゆる野蛮さにほかならない。だからこそ京都市長・門川大作氏は天皇ともどもみずから大政奉還150周年記念プロジェクトなどかれらによる虐殺・裏切り・辱めの被害者とその子孫らの面前で自分達の過去の大悪業をほめちぎる悪魔の集合体の一端でおよそなんの追悼も反省も懺悔さえないばかりか自分達を英雄化する恥知らずの口調でできるのであるし、明治150周年記念式典あるいは平成の薩長同盟などとかれらの侵略罪被害者側にあたる国内外の人々の前で述べてしまえる自治体が西軍側で侵略罪に与した西日本の一部あるいはかれらに乗っ取られ続けている東京の中央政府(日本政府)としてにたしかにいまも複数あるのであるし、安倍晋三氏のよう進んで残虐な裏切りや侵略罪、藩庁をのっとる極左テロに満ちた幕末・明治の長州こと山口県のありさまを美化する言動をいつもの嘘八百の調子でできる、凄まじい悪党も、そこには事実、いかなる歴史的重大犯罪の被害者を辱め貶める事も適わない世界人類全体の人道の為の公事への場違いの闖入者として存在しているのである。ちなみに広島やその歴史的位置づけの政治利用者らが自分達幕末西軍或いは日帝軍側を突然被害者の座に置いて、正当防衛として国連軍から原爆投下された事をさも単なる民族虐殺かのごとく称して自分達に武力制裁として下った罪深さをごまかそうとしているのも、被曝の悲惨さは実際に存在したとしても、それを制裁行為として招いた自らの悪業、すなわちこの西軍・日帝による純然たる徳川慶喜氏や松平容保氏への裏切りによる国討ち(クーデター)とその治世下の地域での主権侵害や士族・民衆虐殺といつわりの汚名を着せての辱め、財産強奪などの蛮行、植民地強奪の悪意からきたあまたの侵略罪や現地での大量虐殺それに伴う戦争犯罪の数々というみずからの主体的に先んじておこなってきた加虐行為の方を少しも恥じず、少しも反省の念がない既往の偽善の一部を構成しているのは言うまでもない。それというのも、天皇一味と同罪・共犯で、かれら西日本の薩長土肥京芸ら西軍、途中で日帝軍への潜入を経由したその末裔らは、純然たる悪意による他者の人権侵害、主権侵害、あるいは虐殺・検閲・思想統制その他の暴力行為での侵略罪自体を、天皇一味による日本侵略罪と同様に、勝手に政治英雄化し、宗教神話化さえしているからなのである。いうまでもないが、そこにある真の目的は、卑しい自己愛を補完する目的で、他者の尊厳をとにかく徹底して辱めようとする純然たる100%混じり気のない悪意からきている暴威を使った脅迫行為だけであり、虚勢を張るだけでなく実際に大量虐殺をおこないその史実をなかったことにしようとするなど、この極悪人天皇一味とその手先を買って出ている悪魔崇拝者らの脳内にあるのは、他人の尊厳を辱める事で加虐欲を満たそうとする完全な傲慢という、悪徳の本性だけなのである。中華思想の正体とはこの種の傲慢にほかならず、それを漢字で天皇という『史記』にのち加筆された中国神話または漢語に於ける北極星の比喩でいう伝説の皇帝の名を借りて名乗り始めた自称皇族一味は、飛鳥時代にこの号を公的につかいだす674年のはじめからその傲慢という悪徳の病に感染して、以後、今に至るまで一度も治った事がない。みずから天皇の号をすてるつもりもなさそうであるから、治るつもりすらない。寧ろこの病を、祖先崇拝という形をとった大量虐殺犯の悪魔崇拝で、みずからの祖先を神格化する邪教内部で誇ってすらいる。それゆえ、自称天皇は国民投票なしに勝手に国や国民統合の象徴となのり、恥じる気配もないどころか、その無法かつ最高位に留まっていながらに、民衆の中で最も恵まれない者や諸外国でかれらの侵略罪や差別の被害を受けてきた者達へ公的な謝罪もおこなわない。無論、被害者らへ謝罪したところでかれらの税収奪目的での卑しい私利心からの命令で殺されたり公然と差別されたり、単なる自明の自治権や主権を守ろうとしただけで天皇一味とその手先から虐殺され辱められ朝敵・国賊・反日などといわれ汚名を着せられるばかりか、ありとあらゆる不遇に置かれてきた人々は永久に帰ってこないのだから、永遠に各歴代天皇は極悪罪人達であることが変わるわけではない。それどころか、天皇一味はながらく手先の右派ら一般に好き放題、憎悪演説や暴力による検閲、あるいは脅迫、強要罪、暴行罪、具体的な威力妨害、名誉毀損罪・侮辱罪その他の悪業をつねづねおこなわせ、それらについて注意をおこなわないという未必の故意をくりかえす。そして全ての不都合な悪事を手先のせいにしたてあげ自分達だけが甘い蜜を吸う、といういつもの老獪極まりない悪業を、未来永劫、超法規的絶対権力の最高位から、この列島のどこかで、かれらは街宣車を乗り回しSNSでも進歩的言論の検閲の為に躍起になっているやくざじみた手先ともども、飽くまで続けていくつもりなのである。
ツイッター民一般の分析による、中から中の下程度の一般言語知能の持ち主らの興味を惹く効率的人工無能の考察
日本語ツイッター民(ツイ民)一般は、短文の短さを異様なまでに称揚しつつ、その範囲で、当人に理解できる言説をする相手を賢者とみなす異様な確証偏見を殆ど一様にもっている。そしてこの種の明らかに賢愚についての一般的事実と反する、愚かな上に彼らのなかでは信念となっていて甚だ堅固な思考回路は、なるほどその様な信念や感触を一度も持ったこともなければ同様の信仰を持つつもりもない、おそらく大多数の類型にあたる一般知能の人々にとっては、まことに意味不明である。
しかしこの事柄は次のことを示している。ツイ民なるものは反知性主義の一類型として、上述の様な、後真実をすきこのんで賢さ全体とかなりの悪意で公然とすり替えようとしている、ある種の反文明勢力なのである。
ツイ民なるものに言語障害者が混じっていた場合をそこから除くと、おそらくかれらは既存の日本に於ける年齢別学級制の公的義務教育などで、普通学級で落ちこぼれの部類であったろうことは、想像に難くない。すくなくとも、かれらの読解力の水準は到底、まともな成績で国語や英語といった一定長さの文章読解が必要な試験に合格する様な類のものではない。端的にいって、一般的に低言語知能の人々であるばかりか、特に読解力が、甚だしく日本国民の平均水準以下の人々であると考えていいだろう。
だがかれらが著しく愚かな、そして悪徳に満ちた言動をくりかえすのは、単に低言語知能だけに由来した傾向ではない。
むしろかれらはつねづね、ツイッターという低言語知能の者にとって卑怯な匿名での荒らし行為をおこなうのにふさわしい場を見つけたと感じつつ、はっきりした意図に基づいて、上記の様な長文嫌悪に伴う高い知能への蔑視という、自己欺瞞の言説をしているのである。
もっといえば、学校社会で下層扱いされ、同世代から迫害されてきたと感じている人々が群れを成し、特に高言語知能とみなされる言語流暢性が高い者をことさら標的に集団虐殺しようと、ツイッター米国本社の定めるツイッタールールを悪用し、集団通報などでぬれぎぬを着せる排他的な荒らし行動をとっている。その前座として大概に於いて、1つは「言葉が短くなければ賢くない」というラベル(短文主義)、もう1つは「自分にとって分かりづらければ知的ではない」というラベル(主観主義)をつぎつぎでたらめに貼り始める。無論、これらはどちらも底抜けに間違った命題である。これ以外にも、かれらは色々理屈の通らないラベルを駆使して相手を加虐による自己正当化かつ群衆との同調目的に貶めようとするが、ここではもっぱらこの2つについて分析をおこなう。
前者の短文主義について。どちらかならば高い言語知能を持った者ほど、長い言葉の連なりにも短期・長期記憶を働かせ全体の趣旨を文脈などを含めまとめて理解することができるし、また、自分自身が何事かを語るにあたっても、箴言や短詩の様な特殊な類型にあてはめている場合や目的を外れて無駄口にあたる詭弁を弄している様な例外的場合を除けば、一般に、長い言葉の連なりに深く哲学的あるいは複雑な文学的含意などを込めうるばかりか、低い言語知能の持ち主らには用意にできない芸当なのが事実であろう。実際、論旨の全体が無矛盾と仮定して基礎的な論理による長さだけを省みても、その長さが長ければ長いほど伝えうる情報量は多い事になるだろう。またところどころに矛盾があった場合でも、単なる乱雑な言語使用にすぎないのでなければ、言語の連なりによって複雑さをつくるという観点からみれば、特定の体系性をもつ長文執筆あるいは長話をする能力は、言語知能の高さを意味していると言ってまず間違いがないであろう。
いいかえれば、短文制作や、趣旨をまとめて結論から手早く話す能力とは、それ自体が単独で評価されるべき言語知能であり、言語に関わる全体の知能とさほど関係がない。
よって、短文主義は単なる形学であり、ツイ民一般が信じている信仰にほかならないし、それは甚だ限定的な意味に於いてしか正しくないため一般化して語りえない事でなければならない筈だ。たとえば短文制作の能力が甚だ高い人物であっても、長文で立派な物を書く能力が甚だ欠けているばかりか、中くらいの長さの文についても陸な能力がない様な人物が実在しえ、その様な人はツイ民一般にとってはすくなくとも荒らしの際にもちいる詭弁の建前上、理想的な知性を兼ね備えている事になるだろうが、端的にいって、コピーライターを含む短詩人または警句家として以外の場面では現状ほとんど役に立たない文芸能力というしかないだろう。すなわちツイ民一般がもっている短文主義が導く知能像とは、第一に誤った前提に立った知能全体のうちごく一部の能力への過剰評価または異様なきりすてによる知能の個性差別を含むひいきによっており、しかも、この主義が実際には単なる抽出・まとめの能力を超えて言語使用時の潜在的複雑さを拒絶している様な傾向をもっているので、かれらの信念のなかで反知性主義の正当化と不即不離に結びついているのである。
後者の主観主義について。こちらはいうまでもなく、ある面で短文主義より一層、極めて稚拙な観点であり、要するに子供のわがままといったたぐいの、しかも高尚さ一般へ反動的な反逆でしかない。いわばどんな下衆にもわかりやすく低俗であればあるだけかれらツイ民一般にとっては親しみやすいことになるのだし、仮にかれらの間に少しの品位の差があったとして、実態的には当時の主観に読解が困難で分からない事のうちに有限な知性しかもちあわせていない自分にとって未知なうえに甚だ高い知力を示す事柄が潜在的にありうるのは当然なのだから、要するにかれらは大衆向けサブカルチャー商品の消費者的な自堕落さに慣れきってしまい、弱知化されていない諸々の高文化的言説に汚い言葉を投げつけ、その高尚さを自分達の低知性と同程度まで堕落させようとしているにすぎないのだ。
また、実際に相手がかれらツイ民と同程度の低知性まで下りてこようものなら、逆により一層悪意を込めたそしりを卑しい言い草で全方位から重ねるといった具合で、つまり、相手にしかわからない事柄を語っているとの自己認識をいいわけするために、傲慢さから相手が自分より賢い前提を排除して適当にその場で相手が愚かなことにしたてあげ、相手の語る事柄の趣旨を理解しようという努力を放棄したまま相対的に無知でありうる自分の方が賢者なのだと思い込む、酸っぱいブドウの論理による阿Qよろしくの合理化に、まるでどこかで習ったの如く、ほとんど一様に耽っているだけのことなのである。これが意味しているのは、根の卑しい人達には共通の行動様式があり、それは下衆の行動原理の研究として法則だてて体系化できる筈だ、という事実である。
我々はツイ民一般が衆愚だと認識している。それというのも、かれらは上記の様な愚劣な言動をほとんど法則的にあらゆる場面でくりかえしているばかりではなく、さも型枠にはまった様なオウム返しの言動を飽きもせずくりかえしするものだからであり、それらの型枠には一定の分類があって、各言い分をツイ民型枠として一つずつ丁寧かつ科学的にかれらの愚かさとそれに伴う一般利用者づらをした荒らしという悪意・悪行をうみだしている理論背景から考察を加えていきさえすれば、最終的にはツイ民の一般行動法則は人工無脳化できる筈なのである。
既にその様な試みをした人々がいるかどうかにかかわらず、ツイッターなる有限オートマトン内で行われている一般的なツイートならびに返信・引用リツイート方式は、確かに人類としてもさほど立派な言語知能を持たない人々の巣として特定の型にはまった単純さに片寄りをみせているため、それらは飽くまで言語の置き方として有限であってかつ幾つかに分類しきれるものであるからには、我々は近い将来、機械学習をつかってそれらのツイ民なるものを再現しうる筈である。私が挙げた2つのかれら固有の信念の型枠は、それらツイ民人工無脳の最も基礎的な部分にあたる基本言説といえるだろう。そして、SNSとしてツイッターを使っている人々がいまだに相当数いる事の真実といえば、それらの型枠による返答方式だけで、ツイッター利用者の殆どが広告クリックをするだけの情報価値を認め得る、という点にある。つまり、ツイ民人工無脳に一定の多彩さを伴わせた機械的反復だけでも、その先に人がいる様な振りさえさせておけば、ツイ民なるものと同程度の言語知能の持ち主達は飽きもせず仲間を作って質的例外者を通報BANで迫害できていると勘違いして、十分に時間をそこで費やし広告その他の方式で金を落とすだろうということだ。そして事実、ツイッター社やその他のマイクロブログが存続するつもりならば、その様なしくみをつくりだし、余り言語知能の高いまたは極端に言語知能の低い変異を除く、正規分布でいう±2σ内の一般人類にとって不愉快となりうるほどの多様性の表示を省いて、かれらの主観にウケがよくかつもっと効率のいいクリック率を、型枠に応じた短文をツイート・返信・引用リツイートなど一定の変異幅のもとで無限につくりうる人工無脳の調整によって達成することになるだろう。
さらにはこの人工無脳は、一定より言語知能が低いためかぎられた型枠でしか言動しない荒らしらに最適化した版を開発できるため、もしやりとり道具の運用主体がそれをよい目的に使えば、荒らしの総量はへらす事になるだろう。
ただし、この人工無脳は、大量資料の蓄積次第で一般的な人々をほとんどすべて包含するだけの凡庸な興味深さに最適化した言語的能力を獲得しうるため、それ自体が人気影響者の様な役割を果たしだすだろう。このため企業や個人或いは政府その他が独自に開発するとしても、この人工無脳が完成度を最も高めた段階で、その人工無脳の属している言語共同体では、人間のほとんどの会話自体が、事務的なものを除き無意味化することだろう。こうして、この型枠の学習と拡張を応用した効率的人工無脳の開発は、最終的に、人々から毒にも薬にもならない毛繕い的な言語上のやりとりの機会、すなわち雑談の機会を相当に奪うことになるだろう。けれども、内向的な人々にとって雑談は一般に不愉快といわれることがある*1ため、この人工無脳の完成は、かれらにとって煩わしい上に不安を掻き立てる退屈な対人接触の機会が激減することで、今よりずっと好ましい愚痴激減社会、特に機械とのツイッターバトル風のやり取りを除いて、人権をもつ他人への悪意ある無駄口を叩かない社会の到来を意味することになるだろう。又その環境下では、これまでおもとして定型発達と違うというだけの理由で、異常者または一般社会にとって不適応者扱いで差別され自閉症帯域などの米国精神医学会による属性分類にあてはめられてきた異能たちを、より広範な分野で既存の才能を活かして活躍させる様々な文明環境を提供し、結果、その社会で生きる人類全体にとっては精神医学上または一般的偏見からくる差別がへるので、福祉状態が改善するだろう。
これらの貢献に加え、この人工無脳の最も優れた点は、大部分の人々が単なる暇潰しで甚だ悪意ある人々、ダークトライアドやテトラドら荒らしに紛れた極悪人らをまきこみつつ無駄に会話しあう機会を大幅に減らす事で、社会全体の生産性を向上させる。かれらが実際の人と会話するより合目的に興味をみたすこの人工無脳、但し背後に人がいると期待される一定の揺らぎがありつつ型枠的な短文の連打による会話で、理解しがたい過度の揺らぎが不愉快さに繋がる人間同士によるそれより、かれら自身にとっての実感としては満足する表層的かつ活発な形で会話できたのに深く満足することになるのは確かであり、しかもそれを行うたびに独り言をしているのと同じだけの人的資源しか浪費しなくなるので、最低でも対話相手一人分の時間が空くのである。
内向的な人々は深い会話を好むとされるが*2、そういった哲学性・文学性をもつ人々を除けば、このツイ民人工無脳の方が、雑談好みの外向的な人々一般を、人的資源を無駄にさせず効率よく満足させるのである。
これらの人口無脳は最初から一定より高い一般言語知能の持ち主や、一定より低い一般言語知能の持ち主らには退屈なものと感じられ、またはついていけず飽きられてしまうが、それらの人々は少数派なので、全体として、この人工無脳の魅力に夢中にならざるをえない、その言語集団で多数派を占める中から中の下程度の一般言語知能の持ち主達は、これらの例外的であるがゆえにかれらには理解しがたく、またそれゆえ彼ら一般言語能力について凡人・俗人らが心卑しく排他的であればあるほど狂人かなにかとみやし易い天才的な人々と、無益に接触する機会も随分とへらせることになるだろう。そしてそれは、特に差別的虐待を受けやすい低言語知能の人々や、凡人・俗人らの浅ましい偏見によってはなはだ不愉快な目にあったりあらぬぬれぎぬを着せられたりしががちな高言語知能の人々にとって、大いなる救いとなるだろう。
https://www.huffpost.com/entry/introvert-signs-am-i-introverted_n_5a2ae103e4b073789f6982f4
地獄の真実
ウィキペディアを教科書がわりに
愚者と嘘つきの悪意で書きつけた偏見ばかり
鵜呑みにしている愚者
あたかもお前自身の望んでいる未来は
お前の妄想の中にしか現れないが如く
同調圧力地獄のあいだで
下衆どもが同士討ちしながら
少しでも正しい内容から削除していった
最後にのこったのが
その愚にもつかない偽百科事典の大ウソだとは
そしてその嘘だけがお前にとっては
この世を構成している後づけの真実だとは?
自分に都合のいい嘘しか信じなくなったお前は
遂に妄想の中と言う事が変わらなくなった
だがお前にとってはそこが真実の世界
遂にお前にとって最高の世界がやってきたのだ
それは人々の悪意がうずまっている
最高の計画どおりの世界
お前にとっては
他人に操られるのが最高の理想で
その他人とくれば全員が極悪人たちときている
2021年8月14日
言葉狩り魔女裁判により私刑ヘイト扱いでなんでもBAN検閲のネトナチ悪魔達
極悪のネオナチ擁護のツイッター社から冤罪でわがアカウントがホロコーストされにけり
極悪のコロナ禍五輪で感染爆発大量虐殺それを狂気と書けば極悪ツイッター社が無理やりヘイト扱いでアカウントロックしにけり
極悪の自民党閥の老害ども日々大量死をもたらす棄民悪政をなし安倍晋三被疑者と共にあまたの違憲違法蛮行を恥じる事もなく、カリフォルニア州の治外法権極悪ツイッター社による不当な言論弾圧粛清劇と共に、公文書偽造罪を犯し公文書改竄と赤木ファイル黒塗り検閲にますます意気軒昂たり
何でも適当に反日レッテルを貼り極悪暴徒と共に勢いの私刑で誰でも粛清、消去文化づらで聖人君子や全愛国者はいうまでもなく、ありとあらゆる善人が次々消され、当の自称保守のお前も世界から消されてからお前はお前自身の行いの愚かさに気づくがその頃にはなにもかも手遅れだ
自己愛を補完する目的で異質な他者を排斥するネトナチやネトウヨの分析、並びにかれらと祖先崇拝の神道教祖の反面教師性から逆算した、真の愛国行動について
自分と違う考えをもつ者を馬鹿、無知あるいは国賊、売国奴、朝敵、反日などその場で適当なラベルを貼りつける冤罪により自明の敵とみなし、かつ、自分と似た考えをもつと認識された者を自明に味方とみなし、自分と同質の者とばかりつるみたがるネット結束主義者・ネトナチは、自分の同調・排他行動を正当化する名目で、愛国・保守などと称する事が殆どである。こうして結束主義者は自分自身と似た部類の人々と群れ、個性や価値観の多様性全般を憎悪する。
だが、自分にとって未知で、又は既知であっても実は自分やその愛顧する対象にさえ自分の既存の信念より一層有益で、かつ、今の自分と違和している思想など無数にあるだろう。
その様な場面が一度もありえない人は既に完成された全知全徳に達しているが、その種の神格に完全に一致していて、もはや何事も学んだり考え直したりする必要がない人物は、後でも先でも得られないだろう。ある人が同時代の全地球人より優れた知徳をもっていても、より知識や倫理上の進歩や革新がなしえた後世からみれば、既に過去には最高位と思われた人々がそれに劣っている事が当然だからである。
だからといって、過去の聖人を外道扱いしている人々は、当時の人々の間では最も優れた知徳をもつ者がかれらであったとき、当時の圧倒的多数はそれより酷い知徳状況だった可能性が著しく高いことについても自明に民衆側を免罪している場合は、時代をとりまく学習環境や価値観の状況的な違いを省みず、単なる宗教史学的な訴求処罰を誤った形でしているというべきなのである。
ネトナチなるものは著しく狭隘で、恐らく恨みや強者妄想などに起源をもつ憎悪に満ちた排他性によって、自分達と同程度に暗愚か悪徳の集団から外に出てこれなくなり、結果、社会全般から不良集団の烙印を押され、遠からず文明界を駆逐されていくだろう。だがその淘汰までの期間が長く、且つはびこり方が甚だしい領域があり、いわばウェブ上に仮想的なネトナチ連帯を一定期に自己増殖的につくり、その集団が自治体を乗っ取ろうとする場面も散見される。ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)はこれらネトナチ極右団体に比べれば少しばかり過激さが低いものの、蛸壺内で同類を集めつつ不条理な排他原理に耽って同士討ちしがちな同根の集団というべきであり、ネトナチとネトウヨ間で抗争もしばしみられる。
例えば日本第一党の桜井誠氏と、男系論者で五輪強行論者の竹田恒泰氏とが、桜井氏による「竹田氏は今上天皇の叡慮(エイリョ、天皇の意思。おおみこころ)を無視している点で真の尊王ではなく、五輪応援団が俗に染まった金目当て」云々との指摘が名誉毀損かを、ユーチューブ動画上で公然と言い争っている事案などがこれにあたる。
しかしながら、かれらはいづれも異質な他者の包摂を含む多様の尊重という自由派の基本論理を欠く自民族優越論や、日本全体主義(ここでは日本全体が一つの目的に従うべきとする考え)をその宗教的核心にもつ神道と共に信じている点では同質の政治思想分類にあたり、結局のところ、差があったとしても異質な他者への包摂性をどの次元まで容認するかの政治的な態度価値に本の微差があるにすぎない。竹田氏は五輪強行論や男系論に際し叡慮をさも戦後典型憲法学上の政教分離の趣旨から機会主義的に無視するが、一方で事あるごとに自由かつ恣意的に天皇の権威を引き合いに出し(例えば明仁氏の行動を遵法精神の例示とするなど)みずからを含む男帝男系血統の至上性を優生学的に強弁しつづけるなど、確かに論理的自己矛盾を含んでいるものの――もし天皇の男系遺伝子に至上価値が宿っているならそこから発せられる叡慮に省みる価値がないとするのは、その遺伝の正統継承者とやらに属する者の至上価値を自ら祭政一致を否定することで損なっているので、政治・宗教いづれにあっても矛盾しているからである――彼個人のなかでは、戦後天皇の憲法上の地位がなんら国政の権能なく扱われるべし、とする趣旨のもとで、退位法を今上上皇こと明仁氏が平成天皇をしていた時期に国民やその代理機関である国会及び内閣へ求めたという越権行為については、一国民としてなんの非難も加えない事について、天皇権力(ここでは実際に終身在位を前提にしていた戦後憲法違反の可能性がある立法に影響を及ぼしたかぎり単なる権威ではない)の超法規性を認めているとしか解釈できないかぎり、やはり、単に、竹田氏個人の政治的主張に適合し都合がいいかどうかで、各論者の人物や政治的言動その他に、戦後天皇の地位の合憲・合倫理性への一貫した評価ともども、えこひいきな裁断をしているというほかない。すなわち、桜井氏の古武士的な正直さは、竹田氏の中途半端で公家的な天皇政治利用論と、天皇を巡って根本的に相容れないものでもある。今とは欧米列強による植民地支配への対抗を急場で迫られていた状況や、体制・反体制派の別が違うものの、それは幕末に於いて前者の純粋尊王に属する水戸学派から出た最後の将軍・徳川慶喜やその従者である松平容保らと、大政委任論に属した井伊直弼および政権簒奪を狙う薩長両国の西郷隆盛・大久保利通ら下士や下級公家・岩倉具視らなりあがり目的の天皇政治利用とは、結局、純粋尊王派(祭政一致派)・天皇利用派が違和なしに一つの調和的政体へ合体しなかったのと一緒なのである。明治政府は後者の系譜に属する天皇の政治利用者らが専横し、有栖川宮の前で皇太子は憐れな操り人形だと述べた(『ベルツの日記』)長州閥・伊藤博文を最初の総理大臣とした時点から、昭和の途中で皇道派の国討ちを挟みつつ、戦後の今に至るまで国の政体の建前を超えた本質におおかれすくなかれ変更がないだろう部分なのである。なぜなら、天皇がいかに全権を発揮しようとしても、幕末で薩長藩閥ら具体的武力を行使していた西軍勢や徳川勢ら、また戦前憲法下で総理大臣や軍部らの実権力を完全に無視できたわけではないのだし、戦後憲法下でも同様に首相や世論の権力を完全無視できないからこそ、天皇は西軍勢の冤罪処刑論を退け前将軍慶喜に公爵位を与えたり、統帥権干犯問題や石原莞爾ら関東軍の暴走に際しても完全に軍事権力を掌握しきなかったり、退位法構想についても密かに手を下して内閣と合意をえつつ国民世論へは後づけの形でビデオメッセージを公開するなど、いづれも単なる強権的独裁・或いは専制王権とは言い難いまたはそれをおおかれすくなかれめざしながらも手の込んだ手法を、幕末の孝明から平成の各天皇らが使ったといえるのである。
現時点で具体的に韓国・朝鮮人への憎悪演説をおこなってきた現実のネオナチというべき桜井氏が、仮に、言動上は同時に純粋尊王派に属するとしても、また竹田氏が現実の右翼としてそれよりは幾らか脅迫罪に触れる度合いが低いがより狡猾な仕方での同様の韓国・朝鮮民族または中国政府高官らへの憎悪表現をくりかえしてきた人物にあたるとしても、神道信仰は別として、今上上皇(明仁)による桓武天皇の母方が百済移民の末裔であったとする発言、或いは今上天皇(徳仁)によるコロナ禍と戦う諸国民への慈悲深い言動からもうかがい知れるとおり、かれらより少なくとも寛容な傾向をもつだろう現上皇・天皇と、純粋尊王を信じている桜井氏の強度に排外的なほかの側面も、また国益また国体論と建前では称しつつ女帝間相続の歴史を日本国民の一般知性を低く見積もってなし崩し的に女系相続につながるのでいけないなどと自らの血統を神格化すべく男尊女卑的な男系論に耽るなど旧宮家の一末裔としてお家大事に天皇政治利用をご都合主義でおこないがちといえるだろう竹田氏も、現上皇・天皇の政治思想とはだいぶ質の異なる政治論をぶっているのは、客観的にみてとれる単なる事実である。すなわち、いまの天皇・上皇と、かれの支持者らは、心から敬っている者とそうでなく天皇の権威を自らの為に利用している者も含め、それぞれ異なる政治思想をもっている。
だがそれにもかかわらず、かれら神道集団を支持母体とする皇室や、ネトナチ・ネトウヨ一般もまた、上記のよう異質な他者の排斥・迫害による自集団ひいきの蛸壺づくりに盛んな徒党を組んでいる政治勢力であるからには、かれら自身にとっての善意や正義論・正義感とは別に、究極で、多様の統一による強く健全な国づくりにとっては、根本的に公害のある邪魔者勢力でしかありえないであろう。よって、時の経過とともに、不可避に各国との国際競争にさらされているわが国民の間に、かれらネトナチ・ネトウヨならびにその唱道者らへの反感が高まり、かれらの存在は歴史のみにくいいちページとして、大部分の人々の記憶から抹消されていく。
問題は、かれら政教未分離の皇室(象徴天皇自らが神道という宗教団体の祭司長でありながら、少なくとも名目的な世襲王権の座に居座っている)、また排他主義に耽るネトナチ・ネトウヨ勢の世間的退陣時期が早ければ早いほどより一層、日本が地球文明界の近未来をみずからが模範として指導する国際競争最前線へ堂々復帰するときも早まるにもかかわらず、自民党ネトサポ(ネット・サポーターズ・クラブ)やその周囲に渦巻くビジネス右翼、御用学者から、それら右派の現状維持という名の他国と比べた比較退歩性がおおかれすくなかれ政権運営の補佐役あるいは名誉職じみた地位その他にまきこみつつ擁護されてしまい、国として、いづれにせよなさねばならない進歩的な版更新の時期を我々一般国民が、かれら自称保守派から先送りさせられつづけている事である。
例えば男女同権に則れば即座に皇室の女系相続も性差別否定の論旨で容認されねばならないし、しかも人権平等であれば身分制度の残滓で厳然たる門地差別でしかない皇室制度そのものが国政府から廃止されねばならない。これらはいうまでもなく避けがたい時代の要請としてなすのが早ければ早いほどいい上に過去の関西圏・東京圏の一部世襲権力者による行き過ぎを糺す目的で手っ取り早く実行しなければならない断然たる事務事項に過ぎないが、余りにネトナチやネトウヨに擁立される自民党右派らならびに皇室自身の頑迷さも甚だしいので、国として到底模範にならない過ちが政府のあちこちで頻発する。政府がそうであれば、国際人権規約を批准済みの法制度にも整合性がとれないし、民間人にとっても皇族および自民党に従う一般公務員らが遵法精神ならびに人権尊重の念、そして人倫そのものにあまたの悪例をなしつづけているのはいうまでもない。単なる男女同権に限ってさえその次元であれば、いますぐ法制化されて然るべきな性差平等(社会学上の性差は社会の文化的風習がとある性に期待する役割、その性らしさの慣習上の偏見の事。この文脈で、性差の平等とはそこから延伸し、LGBTなど多様な性を、既存の性別に関わらず等しく認めるべきとの考え)の趣旨など、いわゆる一般的異性愛による婚姻と生殖を自明の前提にした皇室含む自称保守派の世界では到底うけいれられないものでしかなく、要するに中古代から中世・近代に居残ってきた奈良発の宗教権力者であった皇室とその権威に委託した右派の体現している諸々の差別論やそれに伴う不条理の数々は、今及び未来に比べれば随分と野蛮だった過去にそれでも権限を独占・寡占できていたという誤った強権的な専横のかれらのなかでは成功体験、被害者や抑圧者にとっては反感を呼ぶ思い出したくもない奴隷体験を、加害者側として少しも自己批判的に修正できないという固陋さによって、わが国の前途にとってもはや一瞬でも早く外さねばならない重いくびきとなっているのである。なぜなら、ここで挙げた皇室ひいきを巡る国民差別などはかれら右派のなしてきているあまたの不合理な政策論の本の序曲で、その背後で現に行われてきている不正の山は、それだけで甚大な規模の図書館がつくれそうなほど膨大な量にわたり、しかもとんでもなく低い質にあたるので、負の遺産として我々の母国の現代史を未来永劫、汚名で満たすのに十分すぎる程なのだが、それらすべてを隠蔽しようとする右派全般からの横暴や悪意ある集団圧力が国内の全方位で激しすぎる為、それらの政治的事実にまつわる全記録は、実際のところ一部の臆病であるが賢明な穏健派史学者の胸底から殆ど一歩も出ないまま、永遠に歴史の闇に葬られかねない状況なのが我々の、いま直面している現実なのである。
我々が啓蒙に頼むのは、迷妄を打ち破り、理性の光で誤った見解を正し、当然なすべきことを本来の姿で浮かび上がらせる人々による文明社会への貢献だが、その種の啓蒙の力が、魔女裁判を通じた推定有罪下でネットリンチ(ネット私刑)の検閲暴徒となった荒らし、およびそれをさもネット全体の意見かのごとく炎上商法でとりあげるマスコミに扇動された多数派によって著しく阻害されているために、この国の停滞が少しの推進力も持たないままで延々と続いている。その間、経済成長力その他で他国のなかには多岐にわたる飛躍的進歩を遂げている場所と国民性が、実際のところ、かれらナチや右翼が無駄に敵視する中国はいうまでもなく、韓国のひとりあたりGDPさえもとうに日本を超えているとおり、アジア諸国、中東諸国の一部都市その他いくらでもあるのにである。
我々は一文明人として、むしろネトナチやネトウヨと逆に、あるいは飽くまで弥生時代の宮崎県ならびに奈良県への侵略犯の末裔と称する祈祷師兼帝国主義的世襲権力者一族にほかならない皇室の祖先崇拝から離れて、なしうるだけみずからの既知と異なる特徴をもった、異質な他者について学ばねなならない。そして理解を深めた異なる個性から、自分の国ならびに自分自身の欠点を改善する為の色々な気づきやきっかけを反省的に習い取る事、それを用いてわが国内外で以前より、ひとびとすべて、ことさら最も苦しい立場にいる最も恵まれない人類が、よりしあわせに暮らせる様になる社会をつくりなおしていくことこそ、真に愛国的な行動であり、その様な人だけが、まぎれなく国の誉れとして、本来のぬぐいがたい道徳的権威をもち、かつ末永く全国民の仰ぎ見る手本として心から顕彰されるべきなのである。
なにゆえ現実の感染爆発へ人流増で力を貸したコロナ禍五輪が反対多数にも関わらず都民の間で強行されたか、その分析と対策
茂木健一郎氏のよう主として神経生理学系の理学博士で、大学教授のほか芸能活動、各種講演会、物書きなどを並行でしている人物、また国際政治学を専攻した三浦瑠璃氏のよう血の費用論で良心兵役拒否権をぬきに戦前退行の皆兵令を唱えるほど武力放棄的な反戦そのものに多数派市民への性悪説的解釈から疑いの証拠集めをする国権論者らは、コロナ禍東京五輪下で現に感染爆発があった事について、それを示す証拠なしに五輪と感染拡大の相関は寧ろ低い、ほとんど関係がない(両者とも茂木氏の弁)、或いは政治側のびびり(三浦氏の弁)などと散々ごねてきている。
しかし実際に、読売新聞が示すところが確かならば、携帯電話の位置情報から滞在人口を推計するNTTドコモの「モバイル空間統計」データをもとに、2021年8月1日午後3時台の都内主要駅周辺の人出を4連休最終日だった前週日曜日(同年7月25日)と比較すれば、五輪会場付近での人流増があったのが事実であり*1、人々が密になる機会と感染増には有意な一般的正相関があるので(故に都市部の方が田園部より人口あたり感染率が高い)、上記二者の論理は既に反証され破綻しているというべきなのである。
ではなにゆえかれらが、一方は理学、一方は法学の博士を得るまでの自然・または社会科学的な学習歴をもちながらも、両者とも確証偏見というべきご都合主義の論旨に有利な証拠ばかりを集め、それと矛盾したかれらのくらす都内で感染爆発がつづく悲惨な現実から目をふさいでいるかだが、端的にいえばかれらは元々批判的思考力が低いか、さもなければ十分思考停止しているのに加え、それにもまして、なんらかの政治・観念論(ここでは観念論はドイツ語Ideologieの訳語。以下、しばしば直訳で形学、かたちガク・ケイガクとも表記)が、かれらの科学的批判能力を超え、かれらの言動を心術的に操って左右しているというべきであろう。
かれら個々人の単なるサイコパシー(精神病質性)で事を片付けるには、同様の五輪強行派勢力の規模があまりに大な事例というべきだ。つまり、そこには集団浅慮が明らかに介在している。
この種の政治観念論によって現実否定に回る思考停止状態を、一般化すれば否認主義となる。既に心理学でいう正常性偏見から過度の楽観におちいった場合を引用し、五輪強行時の前半で認知不協和を指摘していた原田隆之氏の様な人物がいた。
今は『楽観バイアス』があり、コロナの怖さを訴えても不安を持たなくなっていて、自粛してくださいとことばでメッセージを出し続けても効果がない。
「五輪で『楽観バイアス』 緊急事態宣言 意味なさなく」専門家 2021-07-28 午後 05:38 NHK news
休業などの対策にインセンティブを与えたり、行動を物理的に制限したりと、長期戦を見据えて、感染症の問題だけでなく、人間の心理と行動の傾向を加味した対策がより重要になってくる。
――原田隆之(臨床心理学が専門の筑波大教授)
かれら強行派のなかで資料分析による会場付近での人流増の事実を否定に回っていた非科学論者らは端的にこの種の楽観へ片寄った正常性偏見によって、組織委の計算と野村総研の予想によれば赤字かよくてトントン(差し引き0)となることが確定している上に開催直前まで国内外で反対多数*2の2020年(実行時2021年)東京五輪を、何とか強行で終わらせるか、さもなければ強行したがる都政、自民党、組織委、IOC・IPCや選手らを擁護・正当化したがっていた。なおかつ会場付近で特に増える人手を都外でも感染者がふえているなどと余りに通らない言い訳で弁護し、しばしば明らかに日本より新型コロナウィルスでの感染・死亡率が高い欧米各国のワクチン接種への過信ぶりを実例としても甚だ誤った場面で持ち出しながら、実質的な都内高齢者らへの大量虐殺のすさまじく悪意ある行政儀式へ過失致死罪としかいいようがない形で、進んで加担していたのである。
この種の無理やりの擁護、ネット俗語でいう「アクロバティック擁護」仕草は、以前からネット右翼界隈では頻発してきている。それと同次元の事を、ごく一部の出先機関を除く主要なすべての省庁、国会、皇室の併存する東京文化内で培養されたともいいうる東大閥の東京圏ネット・テレビ論客連中も重ねて、あまたしているのがいまなお変わらない現場の事実である。いいかえれば、これら強行派に属する正常性偏見を広めたがる人々は、それぞれの真意が商売、妄信、当人達の錯誤、愚劣さ、正義と称する悪意など、一体どこにあるかとは別に、安倍政権時に縁故主義的利権を目的に、保守の名目で無数に現れた御用学者と同等の振る舞いを、進んで買って出てしているのである。
彼らの実態が、事実への健全な懐疑精神を放逐しているという意味で、非科学的、非反証的なのはいうまでもなく、仮になんらかの疑似科学の体裁をとるとしても、当人達の信じたがるなんらかの政治意志にひきつけ、現に起きている社会的・物質的現象の一側面について、政治的目的を含意した自説を補強する形でしか、科学の知見がまず使われないのが、この政治観念論者らの犯している既知のよくみられる過ちである。しかもかれらは事実としての社会・物質現象自体が或る政治観念論上の目的と違和している時、それらのデータ(資料)を隠したり、改竄したり、不都合な反証を打ち捨てて科学自体を、単なるかれら自身の理想上の思念である政治的願望で上書きしようとする。これが日本学術会議の任命拒否問題とか、五輪開催前ラムダ株隠蔽事件(事件を報じる週刊誌記事アーカイブ。その後、別の報道では政府も認めた事実と判明。アーカイブ)とかがつぎつぎと今の国政から出てくる構造的しくみである。
もし我々がかれら弱知化した政治観念論者としてのコロナ禍五輪・強行派・都民らを反面教師として用いうるなら、第一に、我々は科学的分析をおこなう際にすべての前提を省いて、事実を事実として厳密に見定める実証性のもとで絶えず反証主義的――或る命題を否定できる命題を作りえ、なおかつそこで実験的な事実に反するものを、事実である事と峻別しうる思想的――な態度を確保していなければならない。また我々は、既知の事実として知られていた資料や知見を否定する根拠が現れた際、さきの資料や知見に基づいて作られていた政治的構想や体制自体を、たとえそれがどれほど大層な作業になろうと、最も合理的なやりかたで我々は必ずやおおかれすくなかれ再編成しなおさねばならないのである。
資料改竄による事実のごまかしが刑法17章文書偽造の罪について安倍晋三被疑者(未公訴)の元で当人および側近らにはびこる原因は、この種の事実分析への冷静な態度が、かれの独裁権力または独裁院政権力の前でほとんど完全に打ち捨てられてしまっている点にある。そしてその種の悪習がサブカルチャー(副文化)稼業で弱知化させた民衆の間で僭主や寡頭党閥あるいは衆愚的多数への妄信的崇拝として一般にはびこると、組織的腐敗の最終段階として、今の東京都のよう知識層までもが観念論を優先させ事実を隠す資料の恣意的引用等による科学的虚偽の弁によるごまかしなど研究倫理を崩壊させ、あるいは人道的不正に公然と手を染める事になる。現実の方を当人達の形学でいかに歪めようとしても無理なのだから、結局これらの観念論者らは敗北主義に陥り、社会の表から退陣していくだろう。だがそのごまかしが信者らの間で通用するかぎりかれらは、自らの観念論上の教えを他人へ信じ込ませようとし、実際、これに成功した領域ではコロナ禍五輪強行の様な総じて人でなしの無差別大量虐殺の類、すなわち公然とした人道犯罪まで、暴徒同類で群れ打って実行しえてしまったのである。
―――
*1
2021年8月2日の読売新聞オンライン記事『都内週末の人出、五輪会場周辺では3割以上増加…緊急事態宣言の効果発揮されず』による。アーカイブ。
読売:中止48% 無観客26% 制限24%
https://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20210606-OYT1T50178/
毎日:無観客31% 中止30% 延期12%
https://mainichi.jp/articles/20210619/k00/00m/010/137000c
朝日:中止33% 延期27% 無観客24% 観客制限14%
https://www.asahi.com/articles/ASP6W6GC1P6WUTIL018.html
NHK:制限32% 中止31% 無観客29% 有観客3%
https://news.yahoo.co.jp/byline/suzukiyuji/20210615-00243168
産経FNN合同世論調査(2021年6月):
無観客35% 制限33% 中止30%
https://www.sankei.com/article/20210621-UMVZ3XEWDNL25HTMXEEAWVDDJI/?outputType=theme_tokyo2020
同調査(2021年7月):
無観客が妥当39% 中止すべき35% 観客制限すべき24%
(五輪が楽しみでない49% 楽しみ47%)
https://www.sankei.com/article/20210719-GH5V6PBKFBJNDCOLUGCKGBMX4A/
オリコン:延期・中止69% (選手を応援したい86% コロナ拡大後楽しみでない60%)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ef1d382bfbf258bd03bd6f26ec18660848aa04b1
国外世論
イプソス(28国):反対57% 賛成43%
https://nordot.app/787869023439159296
新聞通信調査会(5国):中止・延期70%超
https://www.jiji.com/sp/article?k=2021041400657&g=soc
KekstCNC(6国):
日 反対56%(最多)
英 反対55%(最多)
独 反対52%(最多)
瑞 反対46%(最多)
仏 反対37%(最多)
米 反対33%・賛成33%
https://nippon.com/ja/japan-data/
大量虐殺加害者に加担する最悪の冤罪装置ツイッター
感染爆発大量死コロナ禍五輪を強行した支配層老人の公害性を批判してホロコースト被害者かばっただけでツイッターバンされたぴ。何度、治外法権カリフォルニアのツイッター社に訴えても極悪匿名ネオナチ勢と一緒に無数にヘイト冤罪着せてきて、実名アカウント2つも永久凍結されたぴ。最悪ぴ😨😫😭
なにゆえ侵略罪の最高刑をわが国実定法典の第一条へ永久に明記すべきか
広島被害者論に片寄って物を語る人々は、広島人が進んで幕末の西軍に与し、徳川家へぬれぎぬを着せて東日本・新潟・北海道へ侵略虐殺行為をおこなった戊辰戦争以来、国内外の東亜やハワイ、インド(ビルマ)など各地で犯した残虐行為の数々への正当防衛として国連軍側から原爆投下された、という世界史上の事実について、認知的不協和を解消するつもりで近現代で数多の証拠が存在さえしている単なる事実の方を歪めようとする。または論理破綻した自己都合の解釈で無理に、西軍、日本軍や天皇、および日帝、広島人らが、前将軍・徳川家への不忠なぬれぎぬや、国打ちによる国内への暴虐・周辺国植民地化のための侵略犯でありながら、自分達西日本勢からなる明治帝国を美化しよう、英雄化しようとするたちの悪いザ西日本中心主義的歴史観で、自己正当化しようと必死になるのである。このため、西日本の人々は一般に、これら小御所会議で西軍に与した薩長土肥京芸の残党が鹿児島、山口、高知、佐賀・長崎、京都、広島などに遍在し、それらの人々が自分達の侵略罪をさも幕末政治上の正義かのごとくに自己正当化し吹聴つづけているかぎりで、永久に、他人の主権を暴力・暴虐・虐殺・脅迫・冤罪など手段を択ばぬ蛮行による権力専横と国政の乗っ取りで侵害しようとするかれら自身の完全な悪意による国内外侵略罪の必然的末路としての広島人や長崎人への原爆投下が人的被害だという自業自得の立場と、論理かつ倫理上矛盾しつづけざるをえないのである。天皇を擁した西軍・薩長藩閥・日帝による侵略罪の大部分での大量虐殺は自称正義として是認あるいは正当化しつつ、被害者からの正当防衛は自分達が直接大量に死んだから悪業あつかいなど、底抜けに偽善的、救い様がない利己心、あるいはサイコパシー(精神病質)による害他精神としか解説しようがないが、こういった考えを日本の西側の大部分の人達が学校での郷土教育その他ですりこまれているのが、絶望的かつ悲惨な現状なのである。だが、西日本人一般、特に幕末から昭和前期の薩長土肥京芸のひとびとは、その侵略犯の一員であった皇族と同様、かれらの先祖が犯したその種の主権侵害と虐殺加担の罪悪感を世界史の事実が不変なのにもかかわらず少しも感じとることがないし、仮にどれだけそれらの事実が動かしがたいものであっても、根源的な自己愛のためにみずからの先祖あるいは地域の先人たちが今の価値観からみれば紛れなく極悪であった、という現実の方を美化する側に歪めて解釈しようとするあまり、神話、小説、映画、漫画アニメ、さもなければ史書の体裁をとった偽史の本など土台から稚拙な虚構を用い、自分自身の先祖が罪人であると認めない為の無数の嘘をつきつづけるしかなくなっているのである。これらの虚栄心に耽って祖先崇拝したがるひとびとには宗教的に懺悔という行動をとってみずからの反省のよすがとする文化習慣が一切なく、その為の科学的客観性も大抵の場合なく、仮にあった場合でさえ道徳的誠実性の方は、一切欠けているのである。
したがって、諸国民からよくいわれる話だが、我々は戦後ドイツ国民と、戦後日本国民を同列に並べて語る事ができない。なぜならドイツはナチスの歴史と真摯に向き合いその再発防止にかれらとしてできるだけの努力をしてきた事実があるからだが、日本は一般国民の次元でこの種の反省を寸分も行うことなく、逆に大量虐殺の首謀者であった天皇一味を象徴として無罪放免にし徹底美化しながら相も変わらず崇拝対象としている上に、のち藩閥(明治寡頭政治)として侵略犯の直接の起源となった薩長同盟ら幕末西軍、日帝らが各地で犯していたあまたの人道犯罪はいうまでもなく、そもそもの天皇制こと神道カルト支配の邪悪さについてもその豪族圏が奈良で確立した飛鳥時代まで遡って徹底断罪するだけの知的・倫理的誠意やその為の知能そのものに、国民一般が欠けているからなのである。代わりに、戦後日本人達がやってきたのは、アニメ映画『火垂るの墓』『この世界の片隅に』『風立ちぬ』などの様な幼稚な子供だましの物語で日帝を美化し、あるいはNHK大河ドラマや悪意ある断章取義もしくは信用ならない本からの信用ならない恣意的引用と薩長中心主義の虚偽の弁に満ちたウィキペディアその他の風説で幕末西軍の反政府・反国民的なあまたの裏切りやぬれぎぬ、国打ちの恐怖政治といった数々の蛮行を英雄化し、大量虐殺犯の一族でしかない皇族やその末裔を現人神同然に元首扱いあるいは血統上ひいきしながら、かれらと対比する形で周辺民族その他を人種・門地・民族・文化差別するなど、どこまでも無反省な明治右派しぐさの数々であった。これらの自己欺瞞にすぎない虚構によって単なる実証による科学的な歴史をあたまごなしに弾圧し、天皇ならびに皇族または西日本の薩長土肥の元勲ら、それらの末裔を含んでいる自民党を主とし、それと敵対するものを無理にでも悪玉視させるといった敵・味方の漫画じみた善悪二元論の臆見で、全てを裁断しようとしてきた日本国民一般、特にそれら西日本で今もなお幕末明治から今までの長州閥寡頭支配などを無駄に美化しているひとびと一般と彼らに影響を受けている虚偽にみちた、自己都合で歪み切った偽物の歴史認識の愚かしさとくれば、ホロコーストの現場を国として懺悔の記念碑にしている戦後ドイツと単純比較するのもおこがましいのはいうまでもなく、あまりの根っからの邪悪さに、国連に属させるのも言語道断といえなくもない、ならず者の集まりというしかないほどの悪徳の質なのである。もし彼ら幕末・明治美化の西日本勢を、戦前の侵略罪の反省に基づく国連に属させていいと判断する者がいれば、その人達は確実に人を見る目を間違えているというべきだ。かれらは現実に今もなお何も反省などしていない。私が会話してきた西日本の人々は、確かに、侵略罪による蛮行を、勝てば官軍と呼びいまも自明の正義かのよう信じ込んでいた。それは諸国民の人権の一部に主権の相互尊重が当然に認められるべきであるからには、一見先進国の一員づらしているが、天皇ならびに西日本西軍属府県の歴史的無反省ぶりに由来した、歴たる野蛮さの証拠というべきだろう。
ちなみに同様の侵略是認歴史観をもちあわせているのは、日本全体では必ずしも明治150周年式典などと銘打ちそれを公言して恥じなかった薩長土肥京芸ら人道犯罪的で恥知らずな自治体一般、少なくともその代理人である長らにかぎったものではない。尤もそれらの幕末西軍による侵略罪を過度に美化している西日本の少数自治体が最もたちが悪いのは事実であるとして、例えば中部地方であって幕末時に徳川方であった愛知県名古屋市長の河村たかし氏が、少なくとも南京虐殺否定論などを唱えている場面についてなど、部分的に侵略是認をする者は、かれら個々人の野蛮さに応じて後を絶たないのもまた別の悲惨な現実である。現代政治史の中で、ベトナム戦争以後の自衛隊やその指揮者である首相、およびかれらを裏で無法な絶対権力者として操る天皇一味が、米軍有志による侵略罪を止めるより一層手伝う側で後援してきたのは、これら侵略罪に無自覚な極悪人たちが戦後ものうのうと国の支配者をしてきている動かぬ証拠でもある。
これらの愚か者、あるいは偽善者たちは、過去に証拠だてて実在した先祖の歴史上の事実を歪めて子孫である自分達の気分をよくする作り話をうのみにし、実際には悪意による侵略虐殺罪の加害者でしかなかった広島人もしくは長崎人一般を、自分達は各地でそれを遥かにうわまわる残虐行為をあまた犯してきていたのにもかかわらず、正当防衛上の原爆投下という単なる戦争犯罪の被害者と思い込んでしまって決して疑う事ができない。虚構を事実と混同する人々の末路は、全体結束的な歪んだ反響室の内部にこもり、現実と違和する自分の思い込みの唱和を無限にくりかえすばかりで、いわば閉じた魔界で永遠の恨みを語るばかりである。しかもこれらの認知不協和に対し事実を自己の信仰でねじまげる否認的な虚構論者あるいは単なる嘘つきたちは、既存の歴史として彼らの中で信じられていた事柄について自己懐疑を伴う過去の客観的事実の再発見の前であまりに浅はかで、ただの自己都合による心理的主観に引きずられやすい。また当時のいづれかの政治勢力に操られやすく、単なる事実に基づく歴史学を、自民族中心主義的に自分のその場の都合で解釈し、無際限に利己的な歴史虚構観による自己愛で、敵と味方とに人類を無理やり二分しつつ、つねづね当時の自分に有利になるようすべてを嘘で上書きしていくつもりなのである。
ホロコースト否定論や南京虐殺否定論と、広島被害者論あるいは薩長土肥京芸ら西軍美化史観、もしくは皇国史観を含む神道神話は究極で同根であり、それらなんらかの虚構を含む自己都合の歴史観なるものを公然と述べて恥じない人々は、歴史的事実を当時の自分達に都合がよくなるよう意図的に消去・上書きしてつくりごとの嘘に書き換えようとする点で、公文書を無理に愚かな自分を英雄化するため悪意で改竄したわが国でも比類なき巨悪である安倍晋三被疑者一味と同然の低知性または不道徳でしかない。仮に、実証科学の意義もしくは天皇家・宮家ら皇族の世襲独裁者性、または大量虐殺の正当化を含む神道の邪教性が十分に知られていなかった時代として最大の知性や誠意を駆使していたのが過去の歴史家にとっての事実としても、ひみこやアテルイ、クシャマインら中国朝鮮から自称天皇一味が侵略してくる以前から現地日本豪族らは本来の日本史を紡いできたのであり、それをすべて天皇家が最初にうみだしたかのよう意図的に書き換えたのが『日本書紀』『古事記』であれば、ここには中古代奈良の天皇一味とその手先らによる悪意、特に中国に於ける各中華皇帝による統治の正当化のための歴史改竄の悪例を模したとして、主権在民の今から見れば純然たる騙しの悪意しかなかったというべきである。
日本国の全領域は二度とこれらの侵略収奪目的の悪魔的蛮族に国政内のいかなる場所も少したりとも明け渡してはならない。また、薩長土肥京芸こと山口、鹿児島、佐賀・長崎、京都、広島の各府県に対しても、かれらが過去の過ちを郷土愛の文脈で美化する目的でそれらの自治体の単位で同様の侵略罪の正当化をした際には、国権の持ちうるすべての力をいかなる留保もなく最大限に使う政治的かつ道徳的制裁によって能うかぎりの厳罰を例外なく厳格にひとりのこらず与えきらねばならない。それは国連が単なる連合国側の都合次第、昭和天皇や岸信介といったA級戦犯の一部を見逃した事で、その後の当該真のA級戦犯残党勢が、皇室や自民党員としていかに被害者蔑視的で自己欺瞞に満ち満ちた不埒な悪行。みぐるしい蛮行や国民・諸人類洗脳行為、あるいはその後援をあまたの作り話を含む神道神話的妄念による自己正当化のかぎり繰り返したか現に続く実例があるかぎり、この侵略罪への歴史的裁きにとってあまりに不完全だったからだ。
我々は不文法・自然法としてのみならず、実定法としての憲法ならびに刑法に、侵略罪を犯した主体および共犯者への最高刑を明記し、すくなくとも幕末以後に侵略主義を唱えた吉田松陰、征韓論を唱えた西郷隆盛、大久保利通、板垣退助ら、及び飛鳥時代に帝国主義を開始しつつそれらの後押しをしてきた歴代天皇らの悪行を全世代にわたって人道の面から断罪しつづけなければならない。この際、侵略戦争にすぎなかったイラク戦争、及び米軍有志連合による内政干渉を名目にしたシリア騒乱ならびにシリア民兵将軍暗殺などの侵略戦争加担行為をも自衛隊を指揮する首相を任命する座から、天皇を辞任も皇室制度をみずから終焉もさせず現に後押ししていた平成天皇こと明仁氏も同侵略罪に曇りなく完全に該当する、と断言すべきだろう。
手段の学問と目的の学問、学術城の例えからなぜ巨大技術企業群を政府自治体の倫理と法に従わせねばならないか
倫理・道徳と人間の知識、感情教育にあたる人文学(宗教学を含む)を軽視し、あるいはなおざりにして目的とせず、かつSTEM(Science、Technology、Engineering、Mathematics)と呼ばれる自然科学(理科)・数学・工学・技術の教育のみを主として受けた者は、動物より一層悪辣な人でなしになりがちである。これら数理科学は飽くまで社会・人文科学の従者であり、数学という科学言語や自然の知識は人間なるものが社会でどう生きるべきか倫理を学ぶために考究の手段となるものに過ぎないが、目的の学である道徳哲学を軽侮している者は、結局、全学問の入り口付近に立っただけで既に完成された段階にいると勘違いし、細分化された専門の中で虚栄心に耽るばかりか、実際に、不埒な悪事に数理および自然科学という道具的知識を乱用する。
哲学という全学問の王座にとって、数学は道具、自然科学ならびに技術・工学は社会・人文科学の部分を構成する手段となるものにすぎず、各々の地位は不動である。なぜなら、人間にとって倫理なくしては人として満足に生きられないからだし、倫理なき社会は生きるに値しないからだし、社会なくして工学・技術はろくに意味をなさないからだし、技術・工学なくして自然の知識はことさら人間の為に働きはしないからだし、それらの認識なくして数学の様な記号遊びはなにかの分析に役立ちはしないからだ。
哲学は目的の学問であり、すべての学問この従者として変わらない。また、この目的の王座にはすべての社会を統治する政治哲学があり、公徳の研究である政治哲学を支える私徳の研究としての道徳哲学が第一のしもべ(首相、総理大臣)として控えている。以下、貴族として人間に関する事を学び究める人文科学、それに次ぎ人間の生きる場を分析する社会科学があり、これらは上級の知識である。さらに中層には社会にしばしば参加しつつ野生に暮らしている生物科学がいて、その下に社会的生物と物理をつなぐ技術・工学がいる。下層には物理的世界を考察する自然科学がいる。これらの学術城の門兵をつかさどっているのが数学である。
STEM教育は、これらの全学問体系に於いて、目的の学問に一度もお目見えする機会を得る事なく、 おおかれすくなかれ野卑な下層兵士と交わるだけで、単に自然の法則のとおりに生きれば人として十分、と思い上がらせるにすぎないのである。自然科学の誤り(自然主義の誤謬)というべきこの妄信あるいは自己過信は、文明に闖入した人でなし越権者が、倫理なき技術・工学により、生きるに値しない社会をつくろうとする学術的な専横であり、下層兵士による国討ち(クーデター、Coup d'état)の蛮行にすぎない。
対して、常に我々の全学術の王座は、すべての知識を前提に、この世の政治を倫理に則り支配する哲学が占めていなければならず、これら下層兵士の実力行使による非人道な振舞いの数々を、我々が法と呼ぶ国民間の最低限度の共通道徳である威厳に基づいて統御しなければならない。法のうち、特に実定法は倫理を明文化したもので、書かれざる掟としての自然法と共に、社会を倫理と矛盾なく運用する為の統治の手綱である。これら倫理ならびにその現実に於ける補佐をする法の両方が、下層兵士のつくりあげたビッグテック(Big Tech。巨大技術、巨技)企業群など、わがままな営利追求もしくは私権拡大をめざす組織には、根本的に欠けているからこそ、究極で、それらの会社同盟は地方自治を含む政府自治体を為す事ができない。善き自治体は政治という世界全体公益の為の活動を主眼としており、その公事が倫理に基づいて行われていれば、そこで一部の者の営利性は全体の目的とは到底なりえないからだ。そして我々の生きるべき社会は、倫理や法の成立する文明側にある。したがって、STEM偏重教育の慣れの果てであるところの巨技企業は、常に自治体の倫理・法に従う必要があり、それを超えた営利活動や、倫理・法に逆らう何らかの恣意的かつ反動的な動きを、文明の中に属する人々が企業内規約の治外法権という形で少しばかりも放任すべきではないのである。
もし、いづれかの自治体が人道に反する振る舞いをする人々に支配されていた時、これらの巨技企業が会社規約を用いなんらかの安全地帯をほどあれその現場に提供する事があり得るが、この場合も、各国各地の自治権を公然と侵害する巨技企業群のアメリカ中心主義、米国第一主義あるいはカリフォルニア人観念論などが、無制限に現地人の総意を超えて正当化されはしないのである。なぜならこの場合、巨技企業群は現地人全体の公益を図っているのではなく、治外法権を利用して飽くまで私的な営利を追求しているからであり、いわば情報植民地化によって現地人を生活の中身から骨抜きにし、奉仕の名目で金銭上の搾取対象としているにすぎないからなのだ。
数学
名詞: 数学, 数理
忌むべき死の商人集団としての南関勢への包囲網対策案
東京地方や南関東地方、特に横浜の人々はグルになってコロナ禍賄賂五輪を強行し、結果、凄まじい大量虐殺をおこなった。しかしかれらは因果関係がないなどと強弁し、この大規模過失致死罪をごまかしつづけている。
だが同時にこの競戯洗浄を悪用した最悪政治は東京都の財政を急激に痛めつけ骨抜きにした。彼ら一般南関人自身の悪徳がその種の赤字に伴う大変な自国民大量虐殺をもたらした。新型コロナウィルス患者の病床数が明らかに足りないと知りつつ感染爆発を省みず、目先の利益だけをみて不正や嘘に満ちた五輪を強行し、さらには都内会場付近で大量密集し自滅への道を辿ったのは、普段から底抜けの虚栄心で自分達を上位者と称し、周辺自治体をきわめて暗愚かつ悪意しかない諸々の偏見で田舎者だ民度が低いなどと往々にして都民自身の自己紹介でしかない幼稚な悪口の数々で差別しながら、驕り高ぶりきってきた東京人自身であった。
南関人一般は、都民を筆頭に、自分達が完全な衆愚であるとの自覚がついにもてない。それは彼らが根っから虚栄心にみちたうつろな権力亡者達だからで、いかに全国民が東日本大震災後に都庁のもつ未曾有の東電原発事故に伴う復興をなおざりにした五輪招致・開催や強行に、あまたの都と国の不正や政治腐敗、あるいはコロナ蔓延で予想される感染者や重症者、死者らの前で、反対を過半数が表明していてもそれらの民意を都政と自公連立政権は無視しつづけた。結局、これらが示しているのは、都民一般にとって人命より競戯が、さらにいえば金儲けや諸外国への虚勢の方が優先された、という厳然たる棄民自治体としての政治腐敗の現場である。
我々はその様な棄民自治体である東京都を人道犯罪の公害主体と全国全人類で共通認識し、その構成員である都民一般や、彼らの政治犯罪に進んで与し同調しがちな南関人一般を含め人類へ明白な敵意をもつ拝金主義的な非人道勢力、いわば死の商人集団とみなし、国内外で貿易ならびに警察・検察・軍事など戦略的な政策包囲網を敷き、今後、二度と賄賂五輪強行による疫病ばらまきでの大量虐殺の様な蛮行をさせないよう、最大限の強制力による可罰が都および都民らの悪意からの暴走・公害へ必須だと知らねばならない。
2021年8月13日
芸術と慰め
文人らの流儀
二流以下の文人は、確かに二流以下の物書きを一流だと思い込んでいるものだ。そういう人と接したかぎりで、かれらは元々、読んでいるものの真価を知らずにいる。なぜならかれらは自分の頭でなにも読んでいないのである。かれらが信用しているのは他人の風評で、他人がよいと言っているものを自分も同調してそうと言説しているにすぎず、したがって下らない作品、言論、批評のたぐいを、属人的に崇めているだけなのだ。
飽くまで姦淫小説にほかならない『源氏物語』を少しも読みもせずほめちぎっていたり、実際に読んでいても極めて片寄った物の見方で不道徳礼賛に陥ってしまったり、これらの系譜に属する人達が、二流以下の文人、文学者なのは語るまでもないだろう。しかもそれらの人々は、頽廃主義の文脈としてこれらの悪徳賛美を受けとるのですらなく、心から純粋な悪意で、自民族中心主義の獣的利己性によって、舞台中の中世京都界隈の人々の乱倫模様をすきこのんで賛美しているのである。
これが中世京都界隈の皇室近辺の性差別的な価値観を示すものだとしたところで、あまたの一夫多妻下での乱れた性交・情交劇が演じられてきた劇中で最後のヒロインが強姦されたのを儚んで自殺未遂、それにも失敗して出家、さらにはそこへも強姦魔の皇族たちがつきまといをし、誘惑にくるところで全劇の幕が閉じるなど、それは倫理崩壊しきった地獄の演芸としか言いようがないのは、仮に身分差別下で人権の存在しなかった中世京都の時点でも、当然というべき話なのである。
『源氏物語』は飽くまで虚構の話だろうが、現実に一夫多妻制下で皇族には今に至るまで治外法権あるいは超法規性が認められているのが事実であり、そういった姦淫小説を愉しんでいた中世京都の皇族界隈で現におおかれすくなかれあった性倫理の完全に崩壊した野趣ぶり、悪趣味ぶりを近世・近現代にまで時代錯誤でひきこんで礼賛してきた系譜にある文人墨客の実名を挙げてもいいところだが、現世に生きている人物もこの系譜に含まれるので、敢えて読者の想像にお任せする。わざわざ調べなくとも端的に中国その他の外国への悪意と自己愛妄想の偏見にみちた民族主義者の起源として、自然に出てくる部類もその一部にいるだろう。
三流以下の文人とくればもっと酷く、俗世の受賞の有無で作品や作家の質を見極めたとばかり思い込んでいる。だからかれらはろくでもないものを、なんらかの権威を捏造する機関や権力者の意のままに崇め奉る。かれらも、自分の頭ではなにも判断していないのはいうまでもない。
尤も、このたぐいの人物とくれば、仮にかれら自身の頭でなにかを判断させたとしても、もっと悪い判断をすると自分の知能をはなから諦めていることが多く、それも事実な場合が多いので、賞とか売り上げ、有名さ、人気とかは、こういったおろかな人々にとって外部的属性によって、物の真価が分からないまままんまとむさぼりの相手にされる絶好の標的となっている。しいていえば文芸の商業市場とは、この三流の人々以下を対象にしている社会である。
いまでは動画市場の勃興によって、これらの人々は新興宗教に類したインフルエンサーと呼ばれる教祖らから、さも皇族を崇め奉る人々が日本政府属の皇室から収奪されるのと同様のむごい態を示している。
ではまともな文人がどうしているか。このひとは自分の読んだものを自分の頭で判断している上に、その判断が正確なので、批評に際し、いう事に誤りが少ない。さらにいえば広範な比較文学を基本にしているから、特定の著者あるいは学派へ信仰の形で肩入れする場合も少なく、理解と価値づけの分別もあまねく懐疑的・脱構築的に、常識の如くできる。
しかしそもそもそんな文人がこの世にいる場合がまずないことで、少なくとも私は現世でそんな人々をみた試しがない。一流の文人は、超時代的かつ普遍的に、ほとんどいない。つまり、そういった文人による重要な古典の中でもえり抜きの成果というものがいかに出現率が低いか、はかりしれないものがある。
ツイッターはいじめっこ
2021年8月12日
同類集団について
異なる友人は異なる仲間となり、異なる家族は異なる町となり、異なる市場は異なる国をつくる。それらはみな、かれら自身と類似の人々と相親しんだ結果である。
正義は必ず最後に勝つ
公然と不正をおこなっても暴力を振るえればなんでもいい、とした西軍が、明治以後の日本国を悪徳地獄にしていった根本原因である。そして、この西軍を美化している大半の西日本をおもとして遍在する明治右派らは、多かれ少なかれ神道ネオナチ化(新・神道国民社会主義化、新神道国社化)しており、多数派の圧政を是とする極悪暴徒となって国政その他の場で、ありとあらゆる悪意ある不正をかれらの邪教祖である皇族ともども欲しいままにしている。
「勝てば官軍負ければ賊軍」(Winner takes all)はあまたの人道犯罪を公然とおこなって開き直る西軍一味である皇族ら野蛮な暴力団・ヤクザもしくは極悪人のご都合主義な一切通らない詭弁であり、悪事三昧を繰り返してきたかれらの残党・自民党閥ともども、ありとあらゆる場所で、徹底して全否定されねばならない。
匿名犯罪の場をそうと知りながら提供した罪
ツイッターや2chでは匿名衆愚が文脈や文意をとることもできず、何につけ悪解釈しながら実名の人々へ悪意で成りすましたりしながら、ありとあらゆる犯罪三昧をしている。だがこれらの人々は、それらの悪魔達を仲間だと感じているのだ。そういった荒らしを囲い込んで、広告収益の鴨にしているツイッター社や2ch管理人の西村博之らは結局、かれらと同じ穴の狢で、共犯かつ同罪なのである。そしてかれらの末路も、業が同じであればこそやはり、荒らしという名の匿名集団犯罪者らと同等かそれ以下により悪いだろう。
2021年8月11日
なぜ日本が地獄と感じられるか
自分にとってなぜこの世、或いは日本が生きていくに値しない国かは、次の様な理由があるのが分かった。
それは自分に比べ、この世の人間一般や日本の一般人らが、余りに悪質すぎるからだ。
これは単なる事実で、自分がうまれて3歳児あたりで物心がついてから、37歳になった今まで一貫して続いているこの世のありさまで、恐らく自分が死ぬまで変わらない筈だ。それが一般的な人類の、また日本国民や日本に暮らしている者ども一般の傾向なのが真実で、かれらの平均的道徳水準を自分自身の良識や良心と比べるとまさにそうだからだ。つまり、総じて自分にとってこの世、あるいは日本国の一般人達は、余りに性悪すぎるのである。経験的に自分と比べてのこの性悪さの傾向は大都市部ほど高く、かつ、東日本より西日本でより一層その傾向が激しい。自分にとって関西地方の人々のうち特に、京都市界隈の女性との相性が著しく悪かったのは、この京女と呼ばれる一般的な人々はイケズと呼ばれるおそろしいほどの意地悪さ、性悪さをほとんど文化気質の様に体現しており、著しく性善的な自分にとっては、その種の他人を陰険な悪意で傷つけてあざわらう京都の風習が、地獄の様子にしか感じられなかったのである。
また、自分にとってこれら一般人類と自分の良心のあいだにおどろくほどの差があるという事実が不動であればこそ、自分はこの世を生きていくに値する場とは到底思えないのである。この世で自分をとりまく、建前上あるいは生物学上同類とされる連中が、悪魔の様な性格のひとびとで埋まっていた場合、それは自分自身の良心がはなはだ完成度の高い状態で生まれ育っていれば当然ありうる話だが(『カラマーゾフの兄弟』でいえばアリョーシャの様な性格)、その世界になんらかの好感をいだくことはまず絶対にできないだろう。寧ろひたすら不愉快で、無際限にひとなるものに失望させられ、ますます絶望的な経験ばかりが積み重ねっていくはずだ。だから聖人にとってこの世はなにもしていなくとも、絶えざる悲劇で自己犠牲の現場なのである。
自分が芸術に惹かれていた時期が長くあったのも、単純にそれら虚構のなかでは現実の邪悪な人間がしばしばいきておらず、主人公が良心をもつ英雄として描かれるRPGの物語や絵のなかでは程あれ理想化された善人や聖人といった、自分と少しは似た人々がさも生きている様に見えたからなのだ。思うに、ノンタンの絵本をみていた3歳の頃から、ドラクエ7の仲間の絶望的な性格の悪さにうんざりしている37歳の今まで、この世界構造そのものは何の変化もない。当然、今後も変わらない筈だ。
結論としてこういえる。生まれ育ちが一定より良くて、性格がよく産まれついた人間は、人間界あるいは日本国に居つかない方がよい。ガウタマがいうとおり可能ならば何らかの仕方で解脱しなければならない。なぜなら人類なるもの、日本国に暮らしている人々は、かれらの自己がなしうるあらゆる行動に照らした想像をはるかに超えて根が悪い生物で、確実に、主人公その人をしいたげ痛めつけ、ぬれぎぬを着せ虐待し、場合によってはイエスを実際に葬ったとおり適当な難癖をつけ虐殺して平気でいる、ならず者の集団に違いないからだ。
また、次の事も言える。日本国ではくりかえし冤罪や暴力を受ける。少なくとも自分はこどものころから周りの子供は無論、大人らからさえ何度も似た様な目にあった。それは北茨城だけの事かと思っていたので磐城や東京に行ってもおよそなにもかも同じであった。
その理由は、上記のよう人類あるいはこの国民一般の根っからの性悪さに加え、特にこの国民一般には善悪の認識能力が少しも、或いは微弱にも存在していないのである。かれらがおおよそ無信仰で宗教教育をろくに受けていないのはその一因だが、この国民一般が善悪の判断時に使うのは、自らの判断能力や良識ではなく、周りの人間達への哺乳動物的あるいは類人猿の集団行動的な同調なのである。無論かれらは現生人類であるが、まるで猿かなにかの集団が、群れる事で自分達の安全を保ったままで、理由を問わず少数者をしいたげる様ないじめ行動を常態的に、まるで本能のごとくにとるのだ。しかも、かれらの同調する相手が堕落した人々であったり、悪人あるいは愚か者の集まりであったりするとき、かれらは確信犯で冤罪をおこなって少しも恥じない。おそらくキリスト教やイスラム教といった罪悪感を啓発する宗教の影響を受けていない事によるのだろうが、罪の意識もなんらもっていないように見える。単に、日本国民一般が恐れるのは具体的に警察権力などから強制力で制裁を受けることだけであり、良心が痛むといった仕草は、一般人の次元ではほとんど見られないのである。この点で、日本は少なくとも一般人の次元では魔女裁判が普通の、底抜けに前近代的で、中世同然の国なのである。
理由として、これは戦後のかれらのあいだでの道徳教育の欠如あるいは不足と密接な関係がある。日本では道徳判断に関する教育を殆どおこなっていない。私の県では国に先駆けて道徳の教科を設けたが、県や国がこれをした途端、特に県外の日本人一般は猛烈な勢いで道徳教育を迫害しだしていたほどだ。かれらの理屈では倫理、道徳は存在してはいけないらしいのだ。これは科学主義に片寄った戦後教育が、いかに日本人一般の精神を毒し、人でなしばかりを量産してしまったかのいい証拠といえるだろう。道徳の存在しない人間とは、獣類より悪辣な何者かである。韓愈がいうとおり弱肉強食が恋しいならかれらは動物界に帰るべきなのだ。
しかも単に道徳教育に失敗している或いは道徳教育するつもりが一切ないこの国の大人一般自身が上記のごとく、かれらが「和」と呼ぶ衆愚的判断を多数派の圧政として正義と混同しているので、大人であれかれらをまねるこどもであれほとんどが例外なく、多数論証を乱用し、匿名群衆に混じって悪事を進んでおこなうのが当たり前というありさまなのである。これほど野蛮な国がどこかにあるのだろうか。いづれの国でも人々は一般に、個人の単位で良心を多少であれもっていると思う。だがこの国ではそうではないのである。世襲独裁者の天皇一味や、その手先をしてきた薩長藩閥、自民党ら寡頭政治屋が、政府権力を収奪や差別目的に悪用し、危機的状況下でくりかえし棄民とそれに伴う保身を図ってきたのは決して偶然ではない。多数派が善悪の判定能力をもちあわせていない衆愚集団では確実に、暴力のみを信仰する悪役が支配者を占めてしまうからだ。
結束主義(ファシズム)と日本の「和」は、前者はナチやイタリアのファッショ、天皇制をそれぞれ一つの典型例としていて、後者は『礼記』と『論語』の語彙を『十七条の憲法』で誤用あるいは換骨奪胎した聖徳太子の援用が直接の起源となっているが、ほぼ同一のものをいいあてた語彙だ。この意味で日本は結束主義が根底にある衆愚の国で、その一般的衆愚制度が地獄さの一つの必然的な層として、我々そこで暮らしていて良心をもつ人間達を、冤罪地獄として絶えず襲い続ける。だからここは紛れなく、道徳心をもつ人々が、多数派の暴力で同調圧力に押しつぶされ、衆愚の動物的自己保身欲を神道などの差別を目的にした宗教で洗脳して権力をもつに至った悪意の人々から進んで死滅あるいは排除されてしまっている、悪魔の列島というべき場なのである。その構造の根本的なありかたが生じている原因とは、善悪をもたない衆愚が多数派を占めており、しかも、政府などの権力装置を天皇ら悪意ある寡頭政治屋がほぼ独占しているからなのだ。
周辺諸国や北海道・沖縄、会津はじめ東日本や新潟がそういった寡頭帝国主義の暴徒、西軍から侵略被害をうけたのは、決して偶然ではない。今も昔もそれらの暴徒が、関西地方で天皇と称する座から帝国主義権力を掌握してきていた。今その悪魔の巣はかれらが侵略済みの東京にある。この悪魔の権力は、全体主義的目的の為に国全ての思想・信仰・良心の自由を政府を乗っ取る事で公然と侵害し、天皇を奉らない者は朝敵だなどと卑劣なラベルを貼って絶え間なく冤罪をくりかえす魔女裁判の極悪装置となっている。だからこそ、結束主義や国民社会主義(ナチズム)といった邪悪な思想が、同じく邪悪な差別を目的にしている奈良発の関西民族宗教・神道及びその政治権力である天皇制と結合し、飛鳥時代以来、かれらが「和」の全体主義と呼ぶ、天皇権力による問答無用の少数派弾圧の最悪の政体をなしているのである。この政体のもとにいる全ての民衆が、いじめをこのうえなく好む様になるのは決して理由がないことではない。最上位者がその種の朝敵あるいは国賊・反日・売国奴あつかいでの弱い者いじめを最悪政体の主要活動としているので、かれら天皇一味に乗っ取られた時期が長かった京都市では、今でもいじめの発生率が日本で最も高いままなのだ。
性善的な人間が勇者であれば、この地獄の巣で苦しむ人間を救うには、まず悪魔の核である天皇とその邪教・神道を、完全にこの列島から退治しきるしかないだろう。天皇打倒と神道根絶の政治・宗教同時革命、祭政分離革命のみによって、日本国なるもの、また、邪教祖天皇に洗脳され善悪を失った、魔術「和」の狂信奴隷状態の人類なるものが、侵略虐殺・差別・強盗犯一味を逆にあがめたてまつる歪んだ悪魔崇拝からようやく救われることになるのだ。
国を救う唯一の道
東京都という自治体はもう完璧に腐ってしまっている。それに伴って、日本政府も完璧に腐ってしまっている。
この腐敗の元になっているのが安倍晋三容疑者な事を疑う者はもはやどこにもいないだろう。この人物は贈賄罪や偽証罪をはじめあまたの犯罪を公然とおかしながら恬として恥じる気配がない、いわゆるサイコパスの一種で、自分が具体的かつ直接に強制力で制裁されないかぎり、永久に自己欺瞞を認めることはない。
そしてこの安倍容疑者の元、日本政府(国)や自民党は狂ってしまった。自民党は戦争法や共謀罪の様な人道犯罪を政権の乱用でおこなわせる違憲立法を連打し、ナチスを見習ったらどうかなどといいながら当の憲法まで無理やり改悪しようとしてきた。また日本政府は安倍容疑者の贈賄罪や偽証罪を隠蔽する目的で、官僚が進んで不正に手を染め、遂には公文書偽造の強要によって職員を自殺させてまで不道徳な違法行為を公然とおこなってきた。
自民党にこびへつらう東京都は東京地検までがこれらの政治腐敗に与し、安倍容疑者を不起訴とし、遂には旧宮家の賄賂罪によるコロナ禍五輪の強行によって、悪意で民衆大量虐殺をおこなうまでになってしまった。その際、都と国は、ワクチン不足を認識していた国の大臣がこれを隠し、新たな変異株の発見を厚労省が隠し、民衆を棄民した。
腐敗の原因を根絶なくして、部分だけを切除しても何の効果もない。再び別の腐敗菌が原因部から生じる。
日本国を救済するには、まず安倍晋三容疑者を逮捕し、有罪人として監獄に入れ、二度とこの国で彼の様な極悪人に権力を与えない事が必要不可欠である。
悪人達
2021年8月10日
哲学的精神とその対極にある自己奴隷化
哲学の根本的な宗教との違いは、それが徹底的な批判精神による絶えざる正義の脱構築で、教義や信者づくりから最も遠いところにある、またその基本運動が、過去の自分の認識を疑い直す自己批判を前提に含むという懐疑精神にも求まる点である。
ここでいう哲学的批判とは、ことがらの正否に関わらずその論旨をなんらかの形で否定するという意味ではない。実証科学にあたる対象を含め、事柄の正否を厳密に問い続けることを指す。この点で、哲学的批判は、単なる御用学者の政権浮揚目的または売名目的でのお座敷芸の類ではまったくない。あるいは詭弁を連打しモブうけをねらう論破芸を目的にしたソフィスト(知恵者)の芸当でもまるでない。
徹底的な懐疑精神は、究極の所、この哲学と呼ぶ活動の本質に属している。我々を全ての宗教上の教義、即ちときに相対主義を含む善悪その他に関わる信仰や、科学主義(例えば根拠主義を含む。ここで根拠主義とは実験で再検証できる根拠に基づく論理を真とみなす考え方、など)上の何らかの知識から一旦きりはなしてなにもかもを全て疑い直し、自我・主観や思考する主体・意識を含め、まったく疑い得ないものがない、という状態に置き直すことができるのは、この哲学と呼ばれる活動の役割である。そしてその認知領域に踏み入れる者は、プラトンや孔子らがすでにみぬいていたとおり、国民あるいは人類全体でも一部の人々に限られる――プラトンは『国家』で哲学者になれる才知のある若者は限られるとか、孔子は『論語』で中人以上には以て上を語るべし、とか語っている。だから哲学とは選ばれた学問であり、さも間口が広くみえるがそのまったく根底的な活動領域では、一般人達にはまったく理解も、ゆえに共同もしがたい議論が自由に展開されてしかるべきである。なぜなら、そこではすべての常識そのものが一旦、懐疑の俎上にのせられ、真偽・善悪・美醜・聖俗などなんらかの価値づけから一切が問い直されるからだ。
ところで、現代人のうち、ツイッターなどのSNSに戯けている匿名衆愚は、そのほぼ全員がこの哲学領域にまったく入り込むことがないし、できないし、もとからするつもりもないのである。
かれらは既に決まっている筈のかれらの信仰や認知領域の内部で、その信念をさらに強化してくれる証拠あつめをし、事柄の正否にかかわらない詭弁術に耽ってこれらの信念、観念論の自己正当化に耽る。いいかえれば確証偏見の宗教集団をつくりたがる。健全な自己懐疑の精神をまったくもっていないのはいうまでもなく、その種の哲学的発想そのものをここではかれら固有の悪意による狂気扱いで排除したがってしまう。この現象は弱知化の一種であり、いわばかれらは自己奴隷化をはかっているのだ。
この自己奴隷化を利用したがる人々にとって、なるほど、かれらは好都合な衆愚である。だからツイッター社などSNS企業は進んでかれらを囲い込んでいるし、実際、収奪対象として広告収益の家畜状態に置いている。また、広告や月額課金などの収益を目的にした企業は、同じ自己奴隷たちを一般大衆とみなし囲い込みたがる。同様に、政府も帝国主義的な収奪目的から、これらの収奪に力を貸しがちである。こうして、自己奴隷全般は、自分達が自称普通の主役だと思い込みがちである。だが、実際にはこれらの人々は飽くまで企業や政府から囲い込みでの収奪対象にされているにすぎず、決して人間としてその暗愚な人格が尊重されているのではない。
全体結束主義(集団全体が一つの目的の為に結束すべきだ、とする観念論)、その具体化としての国民社会主義(Nazism、ナチズム)が生じるのは、この種の囲い込みが成功している人民のなかで、だろう。つまり自称愛国でありながら最も反国民的・非人道的な衆愚・暴徒が、無際限な自己崇拝とその裏腹の差別的暴挙に耽るナチ(国民社会主義者)とは、はじめは弱知化からきた自己奴隷化の最終形態として現れている社会病理で、その姿が現れた時にはすでに外部の強制力で解体せずには手遅れとなっている倫理崩壊集団の証なのである。
最初にナチの起源となっているのは、こうして、遠因としてその集団全体の弱知化の前提にある確証偏見教、またそれに伴う、哲学的精神の放棄だといえるだろう。裏を返せば、とある集団で一人以上の哲学者が、詭弁術の流行やはびこりに対抗し、飽くまで倫理や真理について厳格な考究をつづけ、その集団をひとりでも多く決定的に啓蒙しつづけていれば、最終形態としてのナチに辿り着く前のどれかの時点で、自己奴隷たちがなんらかの誤った行動(例えば魔女裁判による集団虐待、私刑など)をしているのを制止できる可能性がある。要するに批判的思考や懐疑精神がとある集団の成員、特に権力上の意思決定にどれだけの量と質で残存しているか、が、その集団の暴走が修正される素早さ、的確さと綿密かつ直接に関係しているのである。