2021年8月15日

皇族を含む神道ネオナチ勢の分析と対策

現代日本で最も人々に悪疫を為している政治勢力は、いわゆる自称愛国者の愛国カルトであるところの、日本全体主義こと神道原理主義によるネオナチ(新国民社会主義者)勢力、神道ネオナチ勢である。かれらはその各種人道犯罪および悪行の過激さの質に応じて、ネット言論界ではネット右翼、ネトウヨ・ネウヨなどとも呼ばれている。
 しかし実態は単にウェブ上の勢力ではなく、皇族自身を含み、日本会議や神道政治連盟という最低でも2つの神道政治勢力、あるいは日本青年会議所や国際勝共連合などの右派団体と結んで、具体的に国政を自民党員、内閣構成員の殆ど全員として直接かつ具体的に牛耳っている者の、ウェブ上での人格でもある。あまたの公法を違反してきた安倍晋三被疑者氏のツイッターなどがその証拠であり、ネット右翼と本質的に何の違いもない稚拙かつ悪意のある口調で、一般社会の良識をつかさどる進歩的言論への口汚い攻撃、あるいは反日などのレッテル張りで国益を害するあるいは敵対すると彼が勝手にみなした人々への薄汚いぬれぎぬ行為などを、公然と支持者とつるみながら、あるいは首相を務めていた菅直人氏からのその種の事実と異なるレッテル貼りへの名誉毀損訴訟などをなにひとつ反省することなくくりかえしてきているのである。

 神道ネオナチの実態は、単なる暴政を目的とするものであり、本質的に反国民的かつ反議会主義などの傾向をもち、個々の神道ネオナチ自身の都合次第で内ゲバをくりかえしてきている。自称保守であるネット右翼の一員とみなされていた東京や大阪のネット・テレビ芸能人らのあいだで、たびたび公に演じられる内紛があるのは周知されており、特に種族主義を是認する極右・桜井誠氏と、男系論という姿で天皇種族主義(天皇レイシズム)の形で間接的にこれをおこなう右翼・竹田恒泰氏のあいだでも近いうちに相互批判の係争が起きている。この係争の内容は、桜井氏はご内示との表現で示す天皇自身の意思を奉るのが愛国者の基本秩序であるとする叡慮至上主義者であるが、竹田氏は天皇自身の意思は無視しつつも天皇という制度上の地位の形式だけつねづね奉るのが必要だとする皇室政治利用主義者だという点に求まるであろう。但し、右派一般がおおよそすべて竹田氏の様な皇室政治利用主義に正当性を認めているかは定かではないにせよ、必ずしも戦後憲法下で、桜井氏の様な純粋な叡慮至上主義に合意するかといえば甚だ怪しい部類のところで、右派一般は両者にどっちつかずといっていい。
 つまり、この両者だけをかえりみても、神道ネオナチらとその形学は一枚岩ではなく、極右と右派では政治志向にかなりの差があるものの、究極のところ、天皇の先祖を神格化する神道による民族差別を是認し、その核心に天皇種族主義を含んでいる点では同一の政治勢力であって、なおかつ、この天皇種族主義によって国民全体を共通の政治目的へ従わせようとする点では、やはりネオナチこと新国社主義者の勢力だと言って構わないはずなのである。

 かれらは口では愛国とか親日と称しているが、実は、天皇を建前にした種族主義とか、そのもとでの国政領域での国社主義といった、万人の人道あるいは世界史の示す失敗例のまえで甚だ劣った観念論をともどもに唱え、大日本帝国主義の侵略罪やそれに伴う戦争犯罪や、皇民化と呼ぶ全体主義的教化の人権侵害を伴う失政になんの反省もおこなってきていないという点で、やはり最も国益を損なう前時代的な考えを現代以降の世界にも延長させ持っていこうとしている点では、真に反日的、真に反国益的、真に反国民主権的なのは、かれらの政治家や政治評論家としての地位やその主張の方だというべきなのだ。

 あるいはまた、朝敵という言葉についてだが、この汚名着せを目的にした語彙は、天皇支持者にとって最大の侮辱という意味を伴っている様だが、実際には右翼の内ゲバ(Gewalt、ゲバルト。暴力・力)、乃至、神道政争内でのレッテル張りが目的とされている、実に天皇一味の純粋な悪意のみによってひねりだされた薄ら汚い語彙でしかどこまでもありえない。なぜならば、単なる政争という意味で絶対権力者が世襲で永続しうるとは果てしない腐敗政治のいいわけ以外何も示し得ない幻想であり、最高公徳が遺伝する証拠がとりえないばかりか、世界史の現場では確かにそれと矛盾する現象ばかりが表れ、逆に単なる一代権力者に限っても「絶対権力は絶対に腐敗する」という傾向としての鉄則までもが、さも一般常識化されている程なのである。したがって、どの代の天皇であれ、彼らが当時の国全体の全成員の中で最高公徳をもちあわせていたといいうる根拠はありえず、なぜなら、その種の公徳の持ち主を公選その他の方法でえり抜く為の公平な制度を、史実として存在する飛鳥時代の大化の改新以後に絞っても律令制の模倣以来、一度も皇室なるものはもちあわせなかったからであり、いいかえれば、天皇一味は自分達の暴力による権限を担保に、彼らより高い公徳をもちあわせていたはずの諸政治勢力を手あたり次第つぶしたり、記紀神話を含む彼らを中心とした自民族中心主義的な皇国史なるものから全幅の悪意を込めて、意図して公文書を改竄し、あるいは実証科学の方を政治的意図で歪めて、全般的に抹消または汚名を着せて辱めてきたからなのである。この際、汚辱の差別用語として、彼ら皇族が用いたのは朝敵という言葉が代表例だが、それだけではなく、大和王朝以後の皇室界隈の皇族や官僚の手になる記紀や風土記などの文献にかぎってもあづまえびす・東夷、熊襲、隼人、国栖(くず)、土蜘蛛、エゾ、蝦夷(えみし)などなど、華夷秩序による異民族蔑視の中華思想を中国から借りてきて手あたり次第濫用し、国内外の色々な人々へその公徳の質や程度にかかわらず、ひたすら悪意から差別をおこなって彼らの主権・統治権・自治権や全ての人権、特に人格権や生存権を公然と侵害してきている。
 したがって朝敵という汚名を着せようとしたところで、この言葉で異民族差別や、別の自治政府へのレッテル貼り攻撃をしかけようという純粋な冤罪の悪意悪行を、過去の関西圏での天皇一味の世襲政権による最悪暴政史から、再び引っ張ってこようとしている神道ネオナチ勢の悪業のほどしか、何ひとつ示し得ない。つまり、朝敵とは究極の所、どこまでいっても右派の内ゲバ用語でしかないのである。

 しかのみならず、神道ネオナチはこれ以外にもあまたの差別用語を同じレッテル張りに使う。例えば在日、反日、国賊、非国民、日本ヘイト(日本ヘイト野郎)などなど。だがこれらすべてが、朝敵あつかいばりに底抜けに幼稚な政治手法でしかないのはいうまでもないだろう。端的にいえば、彼らが恣意的に敵とみなす相手をなんの法的・倫理的根拠もなく、単なる悪役としての色をつける目的で、中古代以来の関西政界宜しく、民族差別的文脈で世界人権規約の批准後もいまだに使い倒そうとしているだけで、現実のところ、この人道に反するこのその下ない陋習のせいで、関西地方界隈では今も、同様の語彙や概念、陰険きわまりないやり口による部落差別問題が深刻に、彼ら自身のこのレッテル貼りによる良心のどこまでも欠落した悪業で、彼ら自身を苦しめるばかりなのである。実際、彼らは近畿と自称し自明の上位者と称してきた、主として渡来人集住区として平安期にはじめてつくられた新興人造都市のなかで、中国の長安を模した条里制のあいだで、上京区とそれ以外といった具合に、御所(天皇の過去の住所地)から離れている場所の居住または出身者であればあるだけ被差別的に扱ってよい、それが当然であるという門地差別の悪習を、現代に至るまで多かれ少なかれ暗に続けてきているらしいのである。このことは京都市外の在住者の目には、京都市民自身の陰険さによって少なからず覆い隠されているが、京都府宇治市出身の『京都ぎらい』の著者が、その著のなかで明らかにしているとおり、京都を代表する知識人といってもいい京都市上京区出身の或る京大界隈の権威に、公然と門地差別的言動をされた場合などで広く知られた文献の上でも現代の範囲で確認できるだけでなく、実際に、私個人も含め、京都市出身・在住者から単に京都市の外で出身・在住しているというだけで、酷く門地差別的言動をされた経験をもつ者は少なくない筈なのである。換言すれば、これら東夷、熊襲、朝敵、在日、部落などの差別用語によって、それとは対照的にあがめたてまつるべき偶像として天皇一味とその周辺にいて彼らの中華思想を支持してきた公卿公家らとかその影響を受けた民衆、少なくとも諸々の関西圏の者らが、例えば上場企業サントリー社長・佐治敬三氏が、九州と東北を無知か錯誤によって混同しながら東北熊襲発言として公言したとおり現役で口々に使っている差別の手法は、単なる中華思想によっている自文化・自民族中心主義による稚拙な妄想を拡大しながら異民族・異文化蔑視をおこなうという天皇一味が中国の歴代皇帝から猿まねした部類の考え方のそのまた模擬にすぎず、一から十まで正当性はかけらも持っていない。文化人類学や民俗学、その他、比較文化論などの発展により、色々な国々の諸部族の立場から、歴史観や文化の違い或いは文化多元性について物事を多角的にみなおす事が学術的にも常識となった現代の文明界に於いて、関西人の相当部分が現役でもっている近畿中華思想は根源的に全否定されて然るべき純然たる野蛮の弊風というべきなのである。裏を返せば、真に野蛮で文化的質が劣っているとすれば、それは近畿中華思想、乃至、京都市上京区上方思想によって、関西地方でこの種の門地差別を現役で続けている一部の悪魔的な人権侵害者達こそなのである。例えば沖縄の人へ土人発言をした大阪の自衛隊員の傲慢さとか、京都市世界文化自由都市宣言を前提に京都市長・門川大作氏がくりかえし京都単独の文化に過ぎないものを文化相対主義を無視しつつその他の文化より一層さも優れた面があるかの如くに吹聴する口舌やその種の文化政策的態度のなかには、この種のうぬぼれの裏腹に、異質な他者を自明に見下げようとする高慢ちきぶりが、同様の凄まじい悪徳をいまだに引きずって万人平等たるべき人としての正しさを超法規的に侵害している天皇種族主義あるいはそれを内に含む天皇住所中華思想の残滓として、いわば一種の中世懐古の時代錯誤として、垣間見られることになるのである。

 この関西圏で起きてきている門地差別を伴う天皇種族主義・天皇住所中華思想のはびこりと全く似た事は、天皇侵略後の東京都千代田区でも発生し、田舎差別、地方差別の文脈として、様々な都民やその支持者らから、純然たる悪意を込めて、日常的におよそ満遍なくいたるところでおこなわれている。彼らは東京でも京都でも、どこでも、天皇の権威を盾にとって知らない他人やその文化ならびに全人生を地域全体の自治権ごと辱める、という極悪行為を、王化・皇民化などの名義をつかった暴力による強制同化政策であるところの侵略罪の正当化とともに、これらの門地差別で公然とおこなっている。例えば特に山手言葉を範にとった標準語中心主義もしくは皇族言語中華思想というべき方言や訛りなどと汚名を着せた言語差別なども、紛れなくこれら東京都民主体の異文化差別による人権侵害の公的越権行為でしかない純然たる悪政の一端を示しているし、その主要目的とくれば、東京都民、そのうち皇居のある千代田区民を相も変わらず華夷秩序の中心かつ最上位とした、異民族蔑視、殊に皇族のうち天皇家を除く日本国民全体への生得的な身分差別が目的でしかない。神道ネオナチの悪意は彼らの思想形態の隅々まで、この種の神の末孫と自称する天皇ひいきと裏表で全人類を同時に比較蔑視する悪魔崇拝でみたされており、端的に現代の普遍的な人道主義こと万人平等の価値観でいえば、彼ら神道カルトの勢力こそが最も非人道的な宗教権力とその支持者らのありさまの第一群だといって間違いなく、すぐさまにこの我々の属する文明圏から永久追放されるのが当然といえるほど、人間の尊厳に致命的な損害を与えつづけてきている邪教一団なのはあやまりないのだ。仮に、彼らがどれほど長く王権を続けたからと言って、その支配が長ければ長いほど門地あるいは身分差別を伴う異民族蔑視の支配者が公然と王座あるいは祭司長を担う暗黒時代がその集団を毒していた時期が長いという最悪政治の証拠が積み重なるにすぎないのだから、神道ネオナチ勢の共通して語る天皇家の支配正統性や貴重性とやらは、寧ろ彼らの残虐無慈悲な非人道性、すなわち悪意からきた人類全体への差別の動かぬ証拠を示すに過ぎない。すなわち天皇一味は公徳そのものによらない単なる血筋よる国権侵害の世襲制によって、本来の最高公徳の者達を不当に排除しなおかつ朝敵その他の名義で結局は政権簒奪しつつ辱めてきたといういや増しに閻魔帳に記録されていく罪業の証として、我々の前に恥知らずにもそれらの全国民の公的正義や自治の良識を陥れてきた悲惨すぎる倨傲によった野蛮な僭主政治歴を、ひたすら逆上してあるいは人間性への根本的蔑視によって、自分自身のために並べ立てているだけにすぎないのである。もしこの世襲制をとってもなお、象徴その他の天皇の地位の正統性を証明するに、単なる男系血統による血統差別こそがふさわしいとするのは単なる彼ら皇族とその支持者らの相当数を占める男尊女卑かつ人種差別論者らによる、関西地方や東京地方で無反省にもつづけられてきた邪教祖一族一門による国政専横の傲慢である、との論旨のどこかに矛盾があるとするならば、実際にそうかもしれないという仮定にたてば、構わないので、有権者への全国民投票をやってみればいいのではないだろうか。もし全国民の過半数が、この男女差別教義を是とするのであれば、なるほど、その国民は未来永劫、文明界から退場するのがふさわしいのは誤りない。同様に、天皇という世襲による人種・身分・門地差別を込めた中古代から中世封建制に依拠した渡来系氏族の一族専制政治の継続維持のための文化の存在そのものの正統性を、皇室廃止か存続かで問う、同様の有権者への全国民投票をおこなってみればいい。この場合は、嘗ての朝日世論調査では、明仁氏による平成天皇の代にあって過半数が象徴天皇制を好意的にみていたため、あるいは、この政教未分離の差別制度を近現代の諸人権尊重の念へ明白にさからって或いはふみにじってでも続け得る余地が、世界の極東にある時代停止列島の一部にあっては可能なのかもしれない。但し、それはその国が、超法規的世襲絶対権力者一族の絶対的腐敗の証拠のと蛮行の数々を諸々の情報統制による国ぐるみの隠蔽工作よってなんとか維持しなければならない、という凄まじい上に公益に反する事はなはだしい国事上の不条理を、その為の費用増と共にかかえ続けることを意味している。そうであれば、この様な時代に応じて過去の過ちを反省し、心を入れ替え生まれ変わって進歩する健全な文明人としての人間性をあきらめ、人々の不幸をもとにしてでも自分達の中古代奈良県での天皇の名乗り以来、中華皇帝もどきの祭司長を続けようとしてきた自国民あるいは諸国民への自治弾圧的な独裁政治やその形骸化した儀式の維持願望へのどこまでも合理性に欠けた固執にすぎないのだから、今後の全ての人類にとっても、全方面からみて完璧な反面教師として、人類という生まれつき差別されることがない全ての人々の名誉と尊厳への公然たる蔑視にほかならない身分差別を現におこなっている正真正銘の蛮族たちの証として、これら皇族達は記憶されるにすぎない。そうであれば、神道ネオナチ勢の彼らへのどんな擁護論も、或いは政治利用論も同様に惨めな敗残者として、文明の公益の場からは常に、悪例の文脈として語られうるにすぎないことであろう。

 もし将来も天皇家が生き残っていれば、なんらかの因果でその集団の最高公徳を占めている天皇家の男系の息子か、女帝間相続の実例に習えばさもなければ天皇の娘でかつ近親男系皇族の娘かで、当時のなんらかの制度か慣習による皇位継承順1位の末裔が、彼らを最高公徳の持ち主と認める彼らの周囲にいる人々一般や、その他少数勢力からの支持を受け、それか彼ら自身がなんらかの強権を発動する事で専制権力を再び握る場合が、仮に当集団の全人口中に生じる確率に比べれば当該最高公徳の保持がこの皇太子へ特に生じる確率がごくまれでも、ありうるであろう。但し、この仮定では、この専制、公選、少数支配その他の政権が、後づけで自らの天皇権力の正当化の為に、みずからのありもしない最高公徳を天命論や革命論、王政復古論、倒幕・倒政府の維新論などとして語る場合を除いている。なぜならそれは不正権力にすぎないからだし、仮に言論の自由が侵害されていた場合は秘した記録としての言論のあいだでですら、国内外の同時代人のみならず後世も、別のより高い公徳の持ち主らをみつけてきて、歴代政権評価の中できっとこの天皇政権を暴威による偽物または悪政をおこなっていた疑似政府と評価することだろう。この際、もし公選制などの形をその政体がとっていれば、天皇家のその君主か支配者その他の長としての地位は、単なる男系血統という人種差別・天皇種族主義やそれに伴う世襲によっていないのだから、政治的に正当化される。しかしながら、選挙によってこの政治的首長、または超法規的祭司、象徴その他の地位を受け継ぐ場合、その政権が嘗ての彼らの末裔らのよう暴力によってこの地位を得たのであれば、今も過去も未来でも、彼らの政治権力は正当化されえない。なぜなら、我々一般国民は、政治権力の正統性をただの暴力によるものだとはみなさないからである。それは只の政権簒奪勢力である。人々が我々の支持するものと公認する政体には、多くか少数の人々の合意による、又は当人だけが先んじて認識している、道徳的正統性が必ずやなければならない。そして、天皇家か何らかのその親族および末裔らは、彼らを支持する人々のいかなる強制にもよらない公選があるか、さもなくば、彼ら自身の王権を暴力革命なしに樹立するだけの道徳的資質がないかぎり、一度たりとも棄権の者とを含む有権者の総国民選挙による国民総意からの支持を実際には得ていない以上、彼らの世襲の地位は、彼ら自身とその支持者によって捏造された建前だけの紛い物、いいかえれば裸の王様というべき状態でしかありえないのだ。もっというならば、王権あるいは皇帝権力、その他、象徴その他の名義を与えられた祭司長の地位は、世襲などの付帯条件で自動的に相続されるものであってはならず、その公的資格の正統性があるか否かで常に、内政としては全国民自身または外政としては他国の監視者らのもつ革命権から試練にあわねばならず、実際、世界中の全ての国々が、その種の試練を経て、なんらかの政体を、今に至るまでしばしば断続を含みつつそうして続けてきているものなのである。
 こうして国政が憲法および皇室典範に定める天皇の地位が、全女性差別や一般男性への差別を含む、竹田恒泰氏ら男系派の理屈では男系相続と称する世襲で、今後も続けられていくべきかといえば、その善悪やなんらかの伝統固執による正否なりは、究極で、我々が彼らの神道全体主義による国政のっとりを公認し続けるべきか否かに帰着する。そして、答えは否なのである。それというのはこの論考で既に述べてきたとおり、天皇一味とは単なる中華皇帝を模しながら自己神格化の祭司長を兼ねる事で、中古代の奈良県界隈で自らの豪族としての帝国主義圏を拡大しようと図ってきた、かつ、その後も増長し続けてきた封建領主の末裔にすぎないものだが、仮にどれほどその封建制が公認された形で維持される期間が長かったとしても、我々はこの種の身分差別や人種差別そのものに、人として、全過去を含む以前からも今もまた今後も、絶対に反対しなければならないからである。天皇が居を移していた奈良、大阪、兵庫、京都などの関西地方の人々あるいは東京の人々は、それら深刻な人道犯罪者でしかない天皇と称する一味に国ならびに地方自治権を乗っ取られてきたに過ぎないが、そのことについて結局、彼ら自身、正義の念が足りなかったに過ぎないのである。たとえ、独裁者である天皇一味から朝敵扱いで単なる自治権と主権を侵害され惨殺された侵略被害者であるアテルイとモレ、もしくは国民の代理機関である内閣の判断をそれに従うべき一省庁にすぎない宮内庁の判断に優先する判断をおこなったがゆえ非難を加えた天皇宗徒らによる政権解体後、国政の枢要な地位から排除された小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏の様な傑物が、国民主権あるいは国の自治権のありかを自己犠牲的に示してきた勇気ある先駆者だとして、彼ら以外のすべての国民についても、もし神道と呼ばれる天皇一族崇拝・全人類差別のカルト宗教に骨の髄まで洗脳さえされていなければ、自分達の国と郷里の主権を放棄する愚かな行いを進んで為す可能性は、寸分もありえない。ありえたのは天皇一味とその信徒から暴力を振るわれた事での無理やりの主権剥奪での奴隷化、のちにいう臣民化という天皇一味による蛮行の被害ばかりなのだ。さもなくば、天皇一味を不支持な者への適当な難癖をつけた大量虐殺や諸々の差別を常套手段とする最悪級の世襲君主兼祈祷師でありつづけてきた天皇一味より公徳が低い者しかいなかったことになり、天皇絶対権力に疑義を呈した藤原純友と、自らの公権力の前で反抗的天皇を退けた足利尊氏の2名を除く関西地方、あるいは自治権を確立維持した平将門と、攘夷論をとる孝明天皇の廃帝を企図した大老としての井伊直弼(但し彼の行った彼が尊攘派とみなしたものへの冤罪を含む彼の不平等条約勅許というのちまで外交国策上の大きな失点を含む施策の反対派への大量粛清劇は、彼の主君であったはず、紀州と宗家を除く水戸・尾張ら各徳川家への不忠な裏切り行為も含め、今や疑わしきを罰するだけおよそ見境ない大量虐殺犯となった僭主・直弼への復讐劇たる最後の手段をとった暗殺による、国政の正義をつかさどる軌道修正に、当時の良心をもつ人の目からも当然値するだけ、人道的に許容される様態をとうに超えていただろう。なぜならこれ以外の平和的議論による方途では直弼が少しも反省せず、却って各種抗議者とそうと疑われるが直接関係のない一般人までもを、抗議者が公事国事に訴える事柄の正否を問わず次々粛清対象にし死刑などにしたてあげていっていたのが、悲惨な大量虐殺の現場での厳然たる事実だったからである)の2名を除く関東地方は、もしどれほど宗教上の誠意があったとしても、全員が神道に洗脳されてきていた底知れない狂信衆愚のすみかであり続けてきているという事になるが、思想や良心の自由が認められた現今の自治のありようをみて一人残らず正義の有無を精査したならば、決してそんな事はありえないであろう。また、実際に天皇と称して己を権威づけしている大量虐殺犯一味からなすがままに差別され続ける自堕落な被征服者だった時期が彼ら自身の権力の有無にかかわらずあったとしても、それは彼らが人としての正義を知っている人物を一人でもうみだすだけの文化環境や十分な知恵、知識、そしてそのための状況がなかったにすぎない。したがって、天皇一味はこの自己神格化をはかる神道教義での洗脳を抜きにすれば、その国全体を専制権力やそれを模した儀式によって世襲する正統性は、彼らより高い公徳を持っていると自認する、或いは他者がそうと認める人物の前で、例え名目的なぬけがらの如く形式的なものであってもどこまでもあり得ないし、過去から今、及び全未来まで、ずっとありえないままであり続けてきているし今後もあり続けるであろうことは、全ての反証観点から見直してきても、誰の目にも明らかなのである。