2021年8月16日

メンタリストDaiGo氏の優生学と、東京都の経済弱者蔑視・経済強者崇拝こと金が全てな拝金ひとでなし文化の分析

メンタリストDaiGo氏のホームレス(浮浪者)への軽蔑を含む差別的な言動が優生学に該当するので、ユーチューブ側が憎悪演説の文脈で思想統制・検閲状にアカウントBANすべき、あるいは各種媒体で公の場から永久追放すべきなどと述べている人々が、いつものネットリンチ(ネット私刑)勢として甚だ大勢、いま各種通信上にあふれている。

 だがこの人々は、小山田圭吾氏を魔女裁判で葬ろうとしたり(それに連鎖して彼の息子のツイッターアカウントにおしかけ、自殺教唆などを公然とおこなったり)、ユダヤ人大量殺戮のまねごとを放送禁止になるに違いないと笑いごと文脈に置く不謹慎コントを過去に発表していた小林賢太郎氏を、消去文化と同じ趣旨で辞任に追い込んでいた人々と、本質的に同一の行動をとっている。
 厳密にいって、彼らは今度は優生学にまつわる言論統制を、その考察や信仰はその他の人々からあまたおこなわれてきているにもかかわらず、各米国ビッグテックの規約をみずからの政治的都合で引っ張り出す形で急に正当化しつつ、同時に、或る種の恨みの発露として、今度はDaiGo氏を標的にしているに過ぎない面が必ずやあるとみられる。
 確かに、これらの道徳的馬乗りには、過去の経緯からいって、かなりの正当性がある。例えばらい予防法による絶滅政策の形をとった人種差別を、昭和から平成の世まで日本政府が公然とおこなってきていたのであり、この種の蛮行について、国会を通じてその種の国権濫用をおこなった全日本国民は反省的認知を持っているとはいいがたいものがある。また、実際に生活保護による憲法に定める生存権保障を、水際作戦などと称し各自治体の行政が、直接、公務員職権濫用罪によって怠ってきたのも公然たる事実であり、それにもかかわらず、一般日本国民らは、自分達がコロナ禍で同様の保護を受けなければ生活がたちゆかなくなるまで、こぞって生活保護叩きを不正受給などと銘打っておこないながら、あるいは在日特権などと真偽不明な言い分をもちだし、民族・身分差別的な怠惰のそしりを全国民の共通してもっていたはず公的福祉の受給者へ絶えずほぼ総勢でくりかえしてきていたのである。もっといえば、彼らは経済弱者を手段をえらばず虐殺する目的で、これらの生活保護受給への非難を加えてきていたのである。そのなかには様々な理由で引きこもり状態にある人々への公然たる職業差別による攻撃や人間の尊厳を奪い去る目的での名誉毀損・侮辱罪の数々、あるいは在日外国人や障害をもつ人々、それ以外にも単に特定の地方や地域で生まれ育って暮らしているというだけで、彼らへ公然と門地・地域差別をおこなおうとする純然たる悪意とその為の偏見集めでの生存権・人格権侵害も、勝手に魅力度などと銘打っての田舎差別、もしくは関西地方その他、西日本一帯などで明らかな特定地域出身者への部落差別などの姿をとって、公然とおこなわれている現場が日本国内にあって甚だ一般に多く、現にあり続けているほど、この国民一般というものは、いかなる聖人にも救えないほど、底抜けに偽善的・欺瞞的で道徳的に果てしなく自堕落なありさまなのである。その最たる証拠の第一分類に該当するのが、秋篠宮眞子内親王殿下の婚約内定者となるべき小室圭氏とその母君たる方への東京都民のマスメディア、ネットメディア、週刊誌媒体からあるいはヤフーコメントや2ちゃんねる、ツイッターなどの利用者づらで各種集団犯罪を合理化し続ける匿名衆愚・匿名暴徒からを中心としたありとあらゆる場所での嫌がらせの数々であり、そこに人権擁護の念など寸分もないのは明らかで、いわば公然と大多数の日本国民が群れ打って小室一家の人格権を脅迫・名誉毀損・侮辱罪その他でほぼ無限に侵害しているだけでなく、都内マスコミ総出で、およそかぎりない私事権侵害により、まぎれなく一国民同士である彼ら親子のこの国での生存権も現に脅かしている事は、公然たる国民社会主義的・全体主義犯罪としてのまぎれもない事実かつ真実なのである。その先陣を切っているのが竹田恒泰氏や茂木健一郎氏らのよう、小室一家への門地(家柄)差別によって人格権侵害にあたる言動を公然とユーチューブなどでばらまいている都内の悪質な男系派、こと皇室論上で男女差別の弊風にしがみつく反人権的・性差別的な悪しき伝統を誇りたがる極右らなのは、いまさらいうまでもない。
 いいかえれば、彼ら日本国民一般は、ここでは仮に男系派と呼ぶべき一部極右らも含み、自らの優生学に基づく皇室の制度こと天皇制なるものを自らの国費で維持しておきながら、それによって相対的に冷遇されているというべき経済弱者や国内外で様々な個性をもつ各少数者の生きる権利・生存権を、実際に、生活保護の出し渋りとか生存保障の拒絶、もしくは全国民生存保障として当然の憲法上の権利というべき基礎所得制度成立への悪意ある誤読や誤解をふくむ徹底した阻害、あるいは、麻生太郎氏など累進課税をその分おおくの奉仕を国家から受ける権利との誤導を招く政治と商売を混同した損得第一思想の持ち主アーカイブ)など、単に国民一般だけでなく自民党国会議員の内閣総理大臣・副総理担当者までもが、現実に、これらの優生学的な政策を、皇室の婚約内定者への門地・人種・性差別的な遺伝排除も含め、おおかれすくなかれ公然と主張してきているのが日本国の動かしがたい現状なのである。

 その上、彼らは上述のよう、なんらかの政治的意図に基づいて、特定の思想形態を社会の全面から、議論以前の問答無用で公然とつぎつぎ除去しようとしている。 これは思想統制でしかなく、仮にさまざまな憎悪に関する思想形態であれ、それらの是非を、単に肯定しうる面があるかを再検討するためだけでなく、もし否定すべき側面を深めるべくにさえ問い直すためだけにでも、少なくともなんらかの思想を個人が信じていたりそれを公的議論に供するの形で表現する自由は、特定の人々を具体的な実行計画の元で加害するものでないかぎり、無限定に認められねばならない。実際のところ、特定の思想形態についての議論を公に禁じるという事は、思想警察が人々の知能を低める目的でおこなう公的犯罪というべきで、寧ろ罰されるべきだとすれば、DaiGo氏の思想・良心・表現の自由を侵害する目的で彼の内面や言論活動の自由にまで踏み込み、公然と彼の人格権を侵害している人々とその蛮族じみたおこないの方なのである。
 憎悪演説に関する法律では、人権擁護の観点から特定の分類にある人々への具体的犯罪や脅迫その他を禁じる事はできるが、実際にそれらの人々を加害する意図なしに、単に当人の生命倫理や現状の福祉制度の是非に関する思想形態の一種として、優生学的な意図を述べたにすぎないDaiGo氏は、なるほど、福祉の現場に関する学識や、実際の都内浮浪者らが高い生活保護の申請ハードルによって行政や民衆の怠慢から社会的疎外を受けている可能性が高いことを暗示するよう知的障害や精神的障害をもっている人々が過半であった調査を含めた実態把握、あるいは優生学を造語ととも創始したフランシス・ゴルトンの意図を超えてそれが派生的に引き起こしてきた倫理や政治社会上の諸問題について余りに無知で、余りに稚拙な論旨だったのだろう。したがって、親切な人々は彼の浮浪者への偏見や、公的福祉の求めている全ての人々への無差別な博愛と人道的救済の意図を、彼個人にもわかる形でコメントその他で教えてあげるなり、それにすら値しないと感じていれば軽蔑や呆れと共に、彼のにわかかつ悪質といわざるをえない表現の自由の行使を無視か、少なくとも自分達自身の知る人々のあいだでは彼の思想形態のその種の公徳または経済弱者への同情や進んで助けようとする善意、もしくはあまねき人間愛の欠如面を公事については権力を与え得ないほど低く評価していれば十分だった筈なのである。或いは同調勢力へ飛び火していく可能性もなくはない加害防止の観点から、彼の論旨を公に批判したければ、その様な趣旨の言説をおおやけにし、文明界に於ける公議の役に立てていれば、そしてそこで良識をもつ人々が過半を超えているか、すくなくとも良識派と呼べる人のよき信念が結果として喚起できていれば、確かに一人の素っ頓狂なあるいは幾らか猟奇的な精神病質性を感じられる人物が血迷った発言をした事がある記録と、他者や第三者によるその分析的批評として、彼を誤った向きに和合した全体主義社会的な集団圧制によって魔女裁判じみた陶片追放でもするかのごとく、都あるいは国の表舞台から一事が万事で除去しようとするまで大事にならず済んだはずなのである。

 何かを憎悪演説と見なす側は、この権利とおぼわしき検閲と集団消去の文化とやらを、今では頻繁に乱用している。特にすでに述べた米国ビッグテックは、半ば共犯して、米国大統領トランプ氏が彼として暴徒鎮圧のためのSNS上での演説をしようとしたところ、グーグル(アルファベット社)、マイクロソフト、アップル、フェイスブック、アマゾン、そしてツイッターまでもが全ての彼のアカウントを凍結しだし、ツイッターに至っては永久凍結の挙に出て、いかなる公的言論をも封鎖してしまった。この言論弾圧事件は余りに一瞬で起き、しかも疑わしきを罰する近代刑法を破る不正が上記6社によって同時多発の共犯状態でおこなわれたために、実際のトランプ氏はその後も動画で示されたとおり米官邸の立場から暴徒鎮圧の表現をしようとしていただけに憎悪演説のぬれぎぬをきせた特定公益言論への検閲目的のビッグテック恐怖政治にすぎなかったのだが、いまだにトランプ氏と彼らビッグテック側には係争が生じている。ここでみられるのは、憎悪演説はそれを判定する原理が曖昧であるがゆえに、一部、または全体の過半を占める人々の都合で、ぬれぎぬ炎上などの悪徳手法で特定言論の検閲目的へ悪用されている、という現在進行形で起きている深刻な人道犯罪なのである。
 たしかに憎悪演説そのものにも危険性がありうるにせよ、あまりに曖昧な線引きでこれについての誤判定し易さを、ビッグテックもしくはその利用者をしばし兼ねる一般民衆が、群集心理や集団浅慮による悪意を込めた私刑暴徒から濫用する事で、寧ろ憎悪演説そのものより一層危険で公害に該当する悪疫をもたらす。その第一分類にあたるのが、明治・大正・昭和天皇やヒトラー、ポルポト、或いは始皇帝らによる検閲で、逆に特定思想の持ち主らへの無益有害な大量虐殺を招いた事例である。井伊直弼が犯した罪も、思想統制目的での尊攘論(尊王攘夷)者への大弾圧であり、思想は内心のものなので明白に分かちがたく、容易に他人から判断できるものではないことからもこのおこないは全く不条理なもので、実際に尊攘論を信じたり唱えていたりあるいはそうと疑われ死刑を含む処刑された者たちは、特段なんの罪も犯していないに等しいにもかかわらず、安政の大獄で命を落としあるいは致命傷をいれて大小の不利益をこうむっていった。この思想形態は阿片戦争での清の敗北を受け、欧米列強による植民地化の脅威が迫っていた当時の日本列島諸国にあっては、どうとでも変わり得る政治的現場に即した、国家防衛のためのはなはだ有効性のある議論だったはずなのに、である。それが単なる排外主義だとか、のちの外国人排斥目的での恐怖政治に繋がったなどと後世の価値観で過去の時代に生きていた人達を裁断する形で述べる者達は、実際にイギリス帝国から植民地化されていたインドで、あるいは実際に絶滅政策にほぼ近い形で先住人がまるごと駆逐されてしまったアメリカ大陸各地で、それに類した出来事があったオセアニア諸国で、またはアフリカ各地から欧米列強の領土内へ無理に暴力で連れてこられた黒人たちの人間性を否定した奴隷としての酷使によって、欧米諸国で彼らの主たる人々と異なる人種の人権がいかに蹂躙されていたか知らないままで、それらにおよそまったく反省などしないまま治外法権を砲艦外交で要求していた米国など幕末当時の英仏米蘭ポルトガル(葡)・スペイン(西)らが、さも当時の日本列島の諸国内で優先保護されるべき上等な文明人であったかのごとく、第二次大戦後に生じた人権規定による逆のひいき偏見からきた誤った白人崇拝に陥っているにすぎないのである。世界史上の事実としてこの種の人権規定を、たえざる被差別側としてはじめて国連(当時の国際連盟)に提出したのは、ほかならぬ東アジアの一国である日本だったのも、諸国に記録が残っている公の事実なのである。したがって幕末当時に攘夷論を唱えた人々は、彼らの一アジア人として置かれていた悲惨な人種差別的もしくは潜在的な被侵略国としての境遇から、当時の良識として、欧米列強のうち具体的に清の次の植民地化の標的を探していると目される特定の国々から日本へ様々な目的でごく少数やってきていた外国人らへ、それまでのオランダとの平和的貿易と異なり、武力排斥的な意図をもったのも、当時の日本列島の人々のなかには似た様な侵略をはかってきた元寇への返り討ちに鎌倉時代の九州地方で成功した記憶しかなかった以上、また侵略的外国勢力による奴隷化から人命と自国民の尊厳を守る国家統治の必要上、当時の政府が英仏米蘭葡西のうち既に平和外交上の公平貿易を確立していたオランダを除く列強に伍していこうとするにあたって、専ら警察行為の目的で意気盛んな武士らが、自国民を蔑視させる英仏米葡西のいづれかの人々からの不逞な行為を見とがめるに率先して努めるのは、今の目から見ても幕末当時の時代をとりまくそれらの国々からの全アジア人差別ならびに実質的奴隷化ならびにその潜在的必然性の状況からいって、極めてまっとうで人道的な措置だったともいえるのである。実際に武力による脅しを込めて日本に不利益となる不平等条約を半ば強制で結ばされたあともつづけられた欧米列強からの有色人種差別は、日本が多大な犠牲を払って、東亜諸国の自治権を侵略主義の体裁で強制力によって主張する代わりに、それらの国々をつぎつぎ植民地化していたドイツとイタリアを除く欧米列強のうち旧連合国からの反撃を受け、結果、中国を常任理事国にいれることになった第二次大戦の趨勢が終結に至るまで現実の有色人種差別の脅威として続いていたのである。すなわち、江戸時代後半までの時点で、実際にアジア・アフリカ・アメリカ大陸・オセアニア諸国などで英米仏蘭葡西ら欧米諸国が先住人へ絶滅政策をおこなったり奴隷貿易や植民地支配を領土拡張していっていたかぎり、不逞だった面があるかぎり、それを資料や情報収集で広くしっており知識階級を兼ね倫理観にもさきがけていた高潔な武士らが、自国民を救うため唱えた攘夷論が国を救う道と考えたのは、今から見直してもまったく誤ったものとはいいがたい。実際、ドイツのイマニュエル・カントは江戸時代中期にあたる1795年『永遠平和のために』で、日本の保護貿易を含む外国人排斥をさし、当時として望ましい事だったと、ポルトガル(葡)、スペイン(西)、オランダ(蘭)、イギリス(英)など当時の近隣国らが侵略主義のもと植民地化を進める西洋でありえたかぎりの良心をおそらく込めて、認めていたのだ。カントはこれらの植民地主義の時代の現場に即し、相互不可侵を目的とする全国家間の協定、のちの国連を構想した。この組織が一部の列強、のちの連合国や常任理事国だけに牛耳られ、実際には持たざる国への不利益を押しつける形になっていってしまったのは、それらの国家間の想像を超えた利己的あくどさについて、彼としてはまだ想定外だったはずである。

……だから中国と日本が、そのような(極悪非道な)客人たちを試した上で、以下の措置を取ったことは賢明であった。すなわち中国は来航は許したが入国は許さなかった、日本はそれどころか来航さえもオランダ人というただ一つのヨーロッパ民族にしか許容しなかったし、しかも日本人はそのオランダさえ捕虜のように扱い、自国民との共同関係から排除しているのである。……
――イマニュエル・カント『永遠平和のために』

 こうして、単に日本だけでなくはやく近世ドイツでも攘夷論の一起源といえる平和外交主義による保護貿易や、侵略主義への正当防衛的警戒、自国民保護を目的とした移民政策に対する消極的態度を、嘗ても今も各国各地へ、有志連合などと銘打って侵略戦争をしかけつづけている米英仏蘭葡あるいは日独、イスラエルなどはじめ、主要先進国と称し途上国に比べ武力にまさっている事実上のヤクザ国家間の抗争のあいだでは、一定の合理性があると認めるしかないのが植民地獲得戦争なるものがおこなわれはじめた嘗てから今までの現場のありさまであり、国際協調主義とか移民国家あるいは多文化包摂といえば聞こえはいいし、途中の形はどうあれ実際その向きに進んでいくしか地球全体の協働の単位ではどうみてもありえないだろうとしても、過去のすべての時点でその方向性以外のあり方が議論や政治的実践の実験をされたということは、単にひとびとが多様な考え方や行動をおこなっていた証拠にほかならず、それ自体として、文明国が文明国でありうるための一つの必要不可欠な条件ともいえるのである。なぜならば、我々は余りに複雑でいわばどうとでも変化しうるかもしれない未来を完璧に予知できないため、後づけで今は常識とされている価値観に照らして過去いづれかのもろもろの観念論や政策論のうちどれかが正しいといったとしても、それは別の形でよりよくありえた未来を否定したあとでの自己正当化の自己中心的自分史にすぎないのだから、過去当時の人々のうち別の未来を探っていた人物らを辱めるに足る根拠とは到底なりえない。過去の思想家あるいは志士らがより望ましいと見て、実際にありえたその別の未来の方がより正しいと信じていたからこそ、彼らの一部は身を挺してまでも自らの信じる正義に殉じようとしたのに違いない。大抵の思想家あるいは志士らが、当時としての単なる悪意でより望ましくない未来を全人類や自分達の不幸の為に手繰り寄せようとしていた、と考えているとすれば、過去の人々に実際に人類全体あるいは特定人類への差別的憎悪が目的と見なせるだけの悪意の証明でも見つけ得ないかぎり、それはそう考えている人達が浅はかなだけというべきだろう。事実として、幕末の攘夷論者らは外国人を異邦人であるがゆえに陥れようとしていたのではない。例えば『弘道館記』で尊王攘夷を定義し、攘夷論をはじめに唱えた徳川斉昭(烈公)は、みずから進んで米国留学をおこなおうと江戸幕府に依願していた自筆書簡が残っており、ペリーに貰った銃を即座に模造するなど、貪欲に欧米列強含む諸外国人へ親しみかつ彼らの長所から進んで学ぼうとしていた。つまり、幕末でいう攘夷とは国防目的の専守防衛論にほかならず、のち和魂洋才や富国強兵などの言い方でいわれる様になるところの、先進工業国からの侵略防止と、そのための武力・経済力・政治力で優る相手国からの技術習得が目的の理論だったのである。もしも単なる種族主義による外国人蔑視の様な趣旨がそこに心底まで含まれていたとすれば、烈公は進んでそれらの種族が異なるといえる外国人らの国々へ進んで向かい、技術や制度を学ぼうとすることは決してなかったであろう。また、そもそも、これら日本に於ける水戸学派にとって幕末攘夷論の理論的援用元となっているのは、中国春秋時代の合従連衡策として知られる尊王攘夷論にある。この尊王攘夷の語で歴史学の文脈上かたられうるのは、外国人蔑視とか種族主義の趣旨などでは毛頭ありえず、端的にいって、周の王室を奉る事で諸侯がまとまる呉越同舟的な侵略防止戦略の趣旨であって、この諸侯の連合を幕末日本列島が欧米列強という植民地化を狙う外国人侵略犯に囲まれている状況下でも同様の趣旨で適用できるがゆえに、令制国を幕藩体制下で治めている諸大名間の連帯を天皇という旧王室を奉ることでおこなうべし、という意味にすぎなかったのである。よって、この意味での尊王攘夷論をそのうち攘夷論だけに分解しつつ悪意のある解釈で誤読して、さも、外国人嫌悪とか外国人排斥運動と結びつけて理解しているひとびとは、端的に、水戸学の教養が不足していると称するほかない。なにしろ、この学派と学問体系の起源として、朱舜水というほかならず外国であって異邦人(別の国からきた移民)である明の遺臣を学者として招いた、徳川光圀(義公)の歴史哲学がある。その後も、義公は朝鮮通信使と儒学や国政に関して親しくやりとりをするなど、また今に至るまで、水戸の徳川家やその臣下の侍らが外国人差別を具体的におこなっている場面を、その統治圏にあった我々は、水戸学のおぼえがあるものですら、一度も知らないのである。いいかえれば、そこでいう尊王攘夷、尊攘の文字面が、一体どの様な高文化的文脈を込められている語彙なのか、中国史、世界史、日本史、ならびに儒学、国学、水戸学すべてに十分より通じている者にとっては自明であり、今でいう「天皇のもとにまとまっての外国からの侵略からの正当防衛」という意味に他ならないのである。その様な学識を持たない無知な民衆のうち、例えば原田伊織や関良基といった後世の浅学者らが、この尊攘の語の意味を全く誤読し、悪意から義公烈公ら水戸学者の系譜にあらぬぬれぎぬを着せ続けている事は、実際のところ、カントを援用するまでもなく、水戸徳川家の者のみの専用墓地である瑞竜山に、当の外国からの移民であって種族が異なるというべき朱舜水が、水戸の徳川家が統治していた江戸時代前期から変わらず学者先生、尊ぶべき教師として厚く祭られている事からも、世界史上の動かしたがたい真実かつ事実として、水戸を含む常陸国あるいは茨城県でのこの史実が、水戸市と重慶市の友好交流都市を通じての平和的かつ文化的な日中交流の懸け橋となっている今の今まで、完全に証左されるものなのである。
 こうして、尊攘論弾圧の例を挙げるだけでも、いかに無知で悪意ある人々が思想の内容を殆ど全く認識しないまま、適当な難癖をつけて、平和外交と国際協調を前提にした祖国防衛論に違いない攘夷の語を、さも外国人差別を目的にした憎悪演説か恐怖主義の扇動かの如くに品性下劣な論旨で公然活動道と恥知らずにも吹聴するなど、本来、ある思想自体の理解はいうまでもなくその正否について議論を様々な角度から深め続けていくべき事柄について、とにかく危険思想というラベルを貼りつけ弾圧してしまえばいいなど、文明人と称するのもおこがましいというだけでなく、永久に学術界を進んで退陣すべきなのはその様な罪深く、また己の無学と無思慮さについてまことの無恥ぶりにすら気づく事がない、悪解釈なり、己の浅ましく卑しさきわまりない悪意の無作法な投影での、検閲目的の言論統制者の方なのである。

 またこれ以外でも、代表的な思想警察の例として、始皇帝による焚書坑儒や、ポルポトによる学者虐殺、あるいはヒトラーによる近代主義芸術家への弾圧と迫害、そして明治・大正・昭和天皇による反天思想や左派(進歩・革新その他の傾向をもつ諸論・諸学問)と疑われる思想への魔女裁判を含む検閲・弾圧・冤罪での死刑を含むあまたの処刑の実例がある。
 こうして、過去の実例ひとつひとつをとりだし、かえりみても、思想警察やそれによる処刑は、内心の自由を当時の権力の臆断によって侵害するもので、本来、不可能なはずなのである。この趣旨で、内心の自由を外部者が特定の推定で決めつける形でしか成立しえない共謀罪に関わる規定も、安倍政権が無理やり憲法学の良識を無視して押し通した悪法であるが、根本的に人権侵害にすぎない冤罪を当時の検察機関や司法権力濫用で公認させる規定であるため、即時廃止しなければならない。
 脱構築をかんがみるとそもそも筆者自身がそれを書いた意図を確定もできないものゆえ――例えば真の本心とは違うものを意図せず或いは意図して書いてしまったこともあれば、技術力の不足で十分に内面表現ができていない事もあるいは期せずして自らの本心として思ってすらいない事まで筆の滑りで書けてしまっている場合もあり、思考しながらいろいろな可能性を探っているにすぎず当面の筆致が自分の真の意見や本心ではない事もあれば、あるいは一瞬でも過去の時点の考えと今のそれがすでに違う事も常に生じており、究極で、自分の内心が思っている事を文章によって自他が正確に知る事は筆者自身を含め誰にもできない――最低でも文章によっては、人の思想信条を完全に窺い知ることは単に他人のみならず当人によってすら、決してできない。そうであれば、動画という時間的に固定した形での言論についても、幾らでも筆者自身の本心以外の何事かを語っている場面もあれば、別の解釈もできる余地があるなど、決して人の内面を深層までうかがい知れる者はなく当人にすらその様な自己の内面が全般的に定かではない、つまり戦後憲法に定めるとおり自白かそれに類した証拠によって刑を決めることはできないという意味で、思想警察のたぐいは我々の国の自由権を認める社会下で、厳格に拒絶されねばならない。あまつさえ、全て我々の文明に進歩をもたらしてきた思想形態は、過去のいづれかの時点では圧倒的大多数の人々、或いは初めてそれに到達した当人以外すべての人々にとっては理解しがたい未知のもので、それを口にした途端、狂人扱いで同集団から魔女裁判にかけられ実際に死刑になる傾向のものが幾らでもあったのである。しかもこの思想形態が単なる社会や倫理に関する、当時の圧倒多数または当人を除くすべての人々が信じていた価値転倒を含む革新的なものである場合ですらなく、単なる地球は回っているという客観的事実を述べた地動説の様な類のものですら、真実と異なる天動説を信じていないという一点からイタリア現地でこの事実の第一発見者ガリレオ・ガリレイが死刑に遭うだけ、人類なるものの思想的不寛容の愚かしさは、まことに底が抜けたしろものだったし、おそらく現にありつづけているのである。

 過去の優生学は今から見返せば問題点が幾つも指摘できるものだったからといって、未来の優生学まですべてがそうであり続けるわけでもないかもしれない。また、DaiGo氏が今も昔もこの種の考えを持ち合わせていたともかぎらないし、どこかで拾った別の考え、具体的には当該発言をした動画内で示していたとおり、社会心理学上の不都合な個体への集団排斥がいじめの原因とする特定仮説の様なものと足しあわせ、彼独自の見解として、浮浪者蔑視という考えを、なかば徳川綱吉的な動物愛護の行き過ぎからきたそれと対照的な無価値と彼が見做した人間蔑視の仮の形で、偶然表現するに至っただけにすぎないかもしれない。
 実際、彼は有料動画その他での収益が一個人としては図抜けて甚だ大きいとされ、それら大金を稼げている自分の能力への過信から、その様な能力を持たない人々のうち、なんらかのわけで単なる稼得能力が低い人々へ自分の支払った税金での公的福祉を与えるのは不合理だとの趣旨の発言を、諸々の場所でしばしばしてきていた。そしてこれは特に彼にかぎらず、純粋な慈善精神や経済弱者への同情の念を一定よりもちあわせていない世の中の金持ちの一部がときにいだきがちな共通見解であるらしく、上述の麻生氏だけでなく、所得再配分(所得調整)を意味する累進性の税金を払い渋るほぼすべての人々が、やはり口に出して表現しているか否かに関わらず、ほぼ共通して言動してきている或る事実としての人間感情の一種なのである。例えば、竹中平蔵氏は、新自由主義を米国の大学で習ってからというものトリクルダウン失敗を認め基礎所得論者に転向するまでの期間、ほぼDaiGo氏と類似文脈で、

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
――竹中平蔵
『竹中平蔵(下)「リーダーは若者から生まれる」』佐々木紀彦によるインタビュー、2012/11/30 6:03、東洋経済オンラインアーカイブ

など弱肉強食的な市場原理主義の主張を公然としてきていた。ここにみられる考え方を、コロナ禍のなかでの世相の変容にそれほど実感もないままも安穏と踏襲的に主張しつづけていて、公然とほとんどの国民が支持して、かつ小泉政権と安倍晋三・麻生太郎政権以後の自民党政権下で実行されてきた新自由主義的弱肉強食観が、国民自身が負け犬確定となった今になって急に噛みつかれたに過ぎない、というのが、今度のDaiGo氏炎上の真相であり実態なのである。すなわち、彼に今更かみつく気になった国民自身が、いざ命の危険とか不条理な職業上の赤字とか失職の憂いにあってはじめて、自分達がこれまでさまざまな経済弱者の生きる権利を進んで踏みにじってきたその悪業のほどへ反省的に思い至るまでもなく、自分がいざ同じ目に遭う側に立った途端、攻撃的本性を露わに、嘗ての自分達が召し仕えていたこの現代日本社会をうみだした自公連立政治下での所得格差拡大に伴う弱者圧殺の原理に、汚い罵声を浴びせかけているだけのことなのだ。自分達国民一般が、障害者、生活保護者、引きこもり、非正規雇用者、無職、その他の低賃金労働者、あるいは原理主義的な僧侶ふくむなんらかのわけでの労働拒絶者、金にならない芸術家の様な名誉職にある者を含めた経済弱者らへ同様の生きる権利侵害の罪を、小泉・麻生・安倍政権下で十何年も犯してきていた事はまるきり棚に上げて、である。端的にいって、これらの一般国民は、自分達が可愛いだけ、自分達自身の命をほかの人達の命より優先させたいだけにすぎない。さもなければ、とっくの昔に、全国民にあったはず生活保護受給権侵害の水際作戦での嫌がらせなどやめていたまたはやめさせていた筈であり、自ら進んで不正受給のぬれぎぬを着せながらあまたの人々へ所得制限などをかけた福祉を受ける権利の侵害などを長々と純粋な悪意からつづけてきたわけもないのだし、実際、生活保護の捕捉率をみるかぎり、この点で、統計上もまぎれなく日本が格差から受ける自死圧力という意味では、地球で相互交流している国連加入国を主とした人類界で最も対外純資産が多い富のありさまからいって、世界最悪級の国なのである。そしてそれは、この国民一般が主たる先進国の世界でおそらく最もといっていいだけ経済弱者に冷たい人達であることを完璧な形で、示してきている*1。彼ら一般国民の言い分だった「不正受給」の掛け声は、彼らが憲法に定める文化的最低限度の生活保障を義務教育その他でほぼ全員が目にした事はある筈なのに少しも憶えておらず、乃至、仮に憶えていても性根の悪さによってその権利を侵害しようとしてきた人道犯罪行為の、今や動かぬ証拠なのである*2

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*1

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatuhogo_qa.pdf

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 そしてこの点で、もはや彼ら一般国民には、具体的にコロナ禍に伴う労働者経済について停滞のしわ寄せが襲ってきそうもないDaiGo氏への、彼ら自身が動画視聴権の購買その他で大金を払っていた過去の業からなにかしら恨みかそれを転化させた攻撃的言動を今更述べた所で無駄であり、事実、彼の発信を好んでみる信者層がいるかぎりで、その種の恨みごとにはなんの効き目もない。しかもDaiGo氏が発言した浮浪者蔑視の思想形態が、もっぱらいづれの法に触れている訳でもない為、優生学的な命の選別による新自由主義下での格差社会肯定論の代弁にすぎなかったとしても、その政経体制をみずから参加してつくりあげてきているのが一般国民や彼らの選んだ自公政権、あるいは市場経済の元で彼らの勤める会社その他であるかぎり、もしDaiGo氏の表現の一部に解釈次第では浮浪者一般への憎悪演説と受け取れる節があったとしても、コロナ禍まで国民一般が浮浪者一般を含む経済弱者全体へみずからすすんでおこなってきていた事を一般雇用者や相当部分の事業者に於ける経済状況の急激な悪化で自らがブーメラン打撃状に受ける事になっただけの話で、まことに自業自得でもある。よって、ここで思想警察をおこなってみても悪質な消去文化劇の一端を演じるにすぎず、実際には炎上商法でますますDaiGo氏の動画閲覧数や注目度があがり、結果として彼の株があがる面もあるのだから、その様な視聴回数や注目度による人気稼得経済をインフルエンサー業として散々もちあげてきたのが一般国民でもあるからには、全ての面からみて、私はDaiGo氏の今回の発言が、それまで弱者圧殺を具体的に小泉・麻生・安倍らの自公政権下でおこなってきた一般国民よりなにかしら悪辣だとは到底感じられないし、どちらかなら、そういう言動を悪意なく正直に公言しているだけ、DaiGo氏の方が一般国民より遥かに素直な人物だ、といえるにすぎないのである。無論、彼のその種の優生学が、福祉政策や人権思想、あるいはそれに伴う過去の歴史的経緯の理解についてまことにつたなく、いわば無教養をさらけ出したばかりか、特定の経済弱者へ倫理崩壊した異常人格の側面を不可避に示しているとしても、その種の或る稼得至上主義的さがを示す人格が成功者と仰がれるだけ、日本の拝金主義化は、彼の母校などの立地となっている東京都の港区近辺を国内で最も平均所得水準の高い地域の筆頭として、深刻かつ急激に一般国民の精神構造を人でなし化しているのもこの様な事件を有名人の炎上案件としてこれまた人の不幸を喜んで下衆な群衆からの閲覧数稼ぎのために押し出す下卑た都内一般報道・媒体界の文化背景にある事実なのである。この格差社会のひとつの極みである東京圏に属する人々の一部が主導する人でなし政策の加速は留まる事を知らず、安倍に続くスガ政権下でも、民主党のカン政権の頃から公然とおこなわれていた棄民政策もどきの延長戦が、コロナ禍五輪強行として実行された直後の、またかというべき大炎上事件。しかしその実態は、日本の、少なくとも大都市部で所得の相当以上に高い部類の人達が、こぞって、DaiGo氏と同然の経済弱者蔑視に耽り、能力主義の幻想によって、生まれ育ちいづれかのなかで金儲けやその絶対量保持以外の側面になんらかの長所をもった人達を無能かつ無価値とみなし、カネがなければ人でなしといった大都会一般の現場のありさまを肯定するのは、何も今に始まった話ではない。明治時代も江戸時代もそれ以前も、都市部ではその様な現場があったからこそ、商人が散財による或る種の羽振りの力をもっていたのだ。明治期の『金色夜叉』とか樋口一葉『たけくらべ』とか、江戸期の井原西鶴『好色一代男』とかは、その様な金次第な町人根性の現場をおおかれすくなかれ批判的または肯定的に描いたものだが、現代の東京も世界最大規模の商業都市江戸という町人集住社会の成れの果てであるからには、その根本精神で、経済的弱肉強食の思想が相も変わらず内部の実力者から信じられていたとしても、特に驚くべき事とは私には到底思われない。寧ろ、DaiGo氏がここで炎上させられているのは、この意味で、商業化が十分に進んでいないか進むつもりもない都外各地の一般国民が、東京都内部との雰囲気の落差に驚き、慌てているにすぎないと思われる。そしてなにゆえDaiGo氏以外のほかの都民らが同様の言動で炎上してこなかったといえば、それらの人々は、大部分が似た様な考えで浮浪者を都政上ながらく放置するばかりか、行政の命令で都内各地で公園や橋げた、なんらかの建造物の軒下などのすみかからの追い出しさえ頻繁におこなってきているのに、それらの際にもそれ以前にも特に、生活保護を与えず実質的に生殺しの形で経済弱者を虐殺しているのに福祉政策をなんとかやらずに済ませようとするザ・お役所仕事をしてきている都庁あるいは区役所・市役所の非人間的な怠慢ぶりへ声をあげてこなかった都民、ならびに大多数の日本国民は、DaiGo氏と根底でなんら変わる事のない優生学の持ち主で、要するに経済弱者となった人々の見殺しによる集団虐殺加担者でありつづけてきていたのである。見てみぬふりをしてきた人々も含め、浮浪者の見殺し主義者は、自らが進んで同様のおこないを唱導しているのと事実上、完全に同罪というべきなのだ。

 私は都内に住んでいる間、うまれてはじめて浮浪者の人をみて驚き、周囲の都民らへどうして彼を助けないのかと尋ねた。すると彼らは口々にDaiGo氏と全くそっくりの事を述べていた。いわくだってあの人たち臭いじゃん、などと言いながら、エホバの証人の勧誘にきた男性ですら、すぐ近くに浮浪者が橋げたに住んでいるのにみずから人道的救済のために助けにいこうとはせず、あるいは浮浪者の人が転んで集めた空き缶を散乱させてしまったのにもかかわらず、それを目の前でみていた東京都調布市を自転車で通りすがっていた都民の母子は、足元のふらついている彼をみてみぬふりし通り過ぎていった。自分は郷に入れば郷に従えとは知っていたが、これらの都民の人でなしというしかない振る舞いの数々と、同時に、彼らが神の如くに崇め奉って大金を貢いでいる毎夜の晩餐会やら明治天皇を祝う会やらで出される贅を尽くした料理にみられる皇族の非人道三昧ぶりを目の当たりにし、この様な人でなし社会は完全に我々にとって異文化であり、しかも、その異文化がやってきたのは、歴史的に大阪商人を江戸に集めた家康、あるいは天皇を京都から連れてきた薩長の侵略以来、さらには弥生系移民の一群として中国大陸からまだ天皇と名乗っていなかった彼らの先祖が自称宮崎経由で奈良まで侵略してきて以来、まさに人を人とも思わない身分差別の権化として、関西圏の渡来系豪族のなかで発生した大量殺人鬼信仰の邪教祖であった天皇一味が縁もゆかりもない東日本の南端に定着するに至った全過程をかえりみると、我々にはその悲惨さは到底うかがいしれない、想像を超えて差別がはびこりきっていて底抜けに野蛮だった関西や西日本、そして中国や朝鮮半島のくにぐにからであるのは明らかだったのである。その様な場での生活は、女性や障害者蔑視発言をくりかえしていた私の住んでいた当時の都知事の石原慎太郎を含め、まるでなにからなにまで異星人の如くに異なる、最たる不道徳を是とする野蛮きわまりないひとびとに囲まれて生きねばならないこの世の地獄の様なもので、私の道徳観からは全く適応もできない、すべきですらないし、私にとって東京都は、どこまでも同胞あるいは仲間として受け入れがたい野卑な連中のあつまりであった。このたびDaiGo氏が炎上発言をしたのは、何も驚く事はなく、いつもの都民の本音が見れた、というだけの事なのである。そしてその本音を政治的正しさで覆い隠して生きているのが、心のすれきっていなければ一秒でも生きていけない大抵の都民が生活している文化環境であり、事実として、私が都内に暮らしていた間でも、すぐ近くの府中市の高速道路の高架下で、ホームレス狩りなる蛮行をしていた子供が浮浪者への殺人容疑で捕まる事件があったのだった。私はその高架下をジョギング中によくとおっていた。それで事件があって自分の恐怖心が治まってしばらくしてからそこを再びみにいってみたところ、以前からそこにみられたブルーシートやダンボールでつくられている高架下の生活の場そのものが、跡形もない様な状態であった気がする。多摩川の方々に点在しているのだが、相変わらず川の方には、その府中の河川敷空間でも浮浪者の人が住んでいるのだろう場がみられたが、こちらの方は都内の子供から襲われていなかったのか、変わりがなかった様に思う。尤も、再び同じ高架下の場に移動してきた別の浮浪者がでてきても、なんらおかしくはない。東京都調布市であれ東京都府中市であれ、或いは23区その他都内のどの自治体であれ、都の公務員らは、この浮浪者と称される人々へ、進んで福祉を与えるつもりがないのだ。それは彼らが福祉の文化的生存権の意義を理解していないからであり、端的にいって、東京都とは平均的な公徳民度のおどろくほど低い自治体なのである。
 私自身は住民票を移さなかったのでずっと茨城県民のままだったが、この東京都という不良自治体に私が暮らしている間に、私は何度も都庁に都民の声という意見を投書する場所から、調査では浮浪者は知的・精神障害者が過半と示されているので、行政人が民生委員などと協力して、生活保護の手続きを代行して最低限度の衣食住を行政の責任で与えるべきだと忠告したが、結果として全て無視されてきた。年越し派遣村とか炊き出しをおこなっている良心をもちあわせた民間人はあの冷酷無慈悲な都内とはいえいたものの、DaiGo氏の炎上で、浮浪者への人権侵害あるいは命の軽視が公然と罷り通るのが東京都という不良自治体なのは我々にとって公然の事実であることがさらに世界中にあからさまとなり、この件を通し、実際にひとりでも浮浪者とされている人々の生活状態が改善する事を、飽くまで東京以外の地方自治権をもつ人間の一人としてだが、心から願ってやまないものである。学生あるいは芸術家としてみずからの生活費も到底稼ぐ能力をもたない、カネにならない作品しかつくることのできない私個人が、当時、彼らに貢献できたこといえば、それらの都行政へのくりかえしの諫言でしかなかった。その後、みずからの自治権をもつ茨城県内で、自分のブログでの提案がきっかけになったかは不明だが、フードバンクの試みが実行されたのは望外の喜びである。