2021年8月16日

なにゆえ三浦瑠璃氏の皆兵論は誤った前提に立ち誤った結論を導いているか、その解読

三浦瑠璃氏の主張のうち、過去の英米イスラエル諸国(以下、英米以諸国)の少数例を根拠に民衆の良識に期待するだけでは戦争を防ぎ切れるとは限らないという論旨は性悪説的な平和法制に新たな前提を与えるのが一定の事実だが、これはそれらを反証する証拠、つまり多数支配のもと反戦派が多数か、少数支配のもと反戦派が優越か、単独支配のもと反戦派が指導者か、それら以外でも実際に反戦派が政権から何らかの開戦に消極的か禁止を命じる場合、つまり性善説的な場合をさもあり得ないかの如く語っている点では単なる非科学的謬説にすぎない。反対側の証拠を挙げて事柄の信憑性を程度として保証しうるという反証性を持たない仮説、反証されざる仮説は単なる信念にすぎない。いいかえれば、三浦氏個人が近世から現代まで(以下、近現代)の一部英米以諸国での少数例で、多数支配の体制に、それらの国々の民衆への性悪説的な良識懐疑をおこなっている、という点しか、彼・彼女(以下、彼女による彼女個人の人格とは別分類可能なものとしての単なる論旨を、のち女性論客としての社会的性差の文脈から切り離し、その論旨内容だけを公平にみるため或いは記法省略のため、三浦瑠璃氏を人称代名詞上で「彼」と記述し、この論考内では性別・性差を示さない)の基本主張は意味するところがない。
 東大がこの論旨に博士相当という評価を下したのは、東大の学術水準がその政治学に於いて十分低いことを示している。なぜなら、上記のよう、この論説は科学的な研究の基本水準を到底満たしていないからだ。繰り返すが、ある仮説が反証されていない間は、それが実験などで検証しうる科学知識だとは認めえず、単なる信念と呼ぶべきものである。つまり或る信仰の提出者でしかない場合、それは過去・現在・未来の客観的事実分析にあたる戦争論上の政治学の対象ではない。尤も、社会科学の対象としての政治については或る社会の歴史が過去の実験として機能するのを超えれば現在進行形の政治界を後づけで分析できるにとどまり、それ以外にできることは仮想条件下の模擬にすぎないので、精々、ある政治学は常に過去になり続けていく現在も続けられる歴史としての政治の諸相についての系統的分析にとどまるだろう。だがこの調べうる全過去(現在も認識を照射した時点で常に過去になるため、ここでは過去とまとめる)の分析にあたっても、また未来を仮想条件とした模擬実験についても、常にその趣旨は最初の論旨を否定する反対側の仮説によって再検証されえる必要がある。つまり、三浦氏と彼の担当教授らは、彼の仮説が、実際に性善説的戦争反対勢力または別状況下で反戦派の支配により或る想定される戦争をしなかったり押しとどめたり撤退したりした場合を過去の実例から公正に拾い上げ、それら前者の場合と、彼の信じている性悪説的な民衆が特に近現代の一部英米以諸国にかぎって戦争賛成の民意を示した証拠を後者として照らし合わせ、後者の信憑性が前者とのなんらかの矛盾によっている、と自らの仮説の信憑性を提示していなければならなかった――例えば前者の近現代かつ多数支配下での実例として、結果として泥沼化したがゆえとはいえ米国の一般民衆世論のもとでの米軍のベトナム戦争撤退がその実例にあたるかもしれない。この様な反証がおこなわれていない段階では、彼の性悪説的な民衆懐疑論は、単に近現代の且つ一部の英米以諸国のそのまた一部の例にかぎっての事例にすぎず、彼のこれらの論旨を発展させ形容してのちいう「血の費用」すなわち、「職業軍人と一般民衆の間に、戦争の具体的悲惨さが我が身の事と感じられる程度が異なるがゆえ、一般的好戦性を特定場面で一般民衆が示しうるのだ」という特定好戦性の理由づけは、それ以外別の要因が働いているが偶然少数例ではその様にもみえなくもない単なる疑似相関で、純粋な因果関係ではないのではないか、と言われてもその非統計学的(ここでは一定の有意性を一定以上の信頼区間のもと、一般的好戦性と血の費用の無自覚とがすべての国すべての民衆かつすべての政治体制で普遍的または一般的にに正の相関を示している、と示す、多岐な時代かつ多岐な国々を異なる体制間で十分あまねくまとめた抽出標本での統計手法を用いた論理的証拠づけが欠けている、または、限定的前提条件を置いてして近代の多数支配の形をとる先進国間とした場合ですらその様な統計手法をとっていないの意)かつ非反証的な論理の不備からいって、科学的に反論のしようがないはずなのである。もっといえば、三浦氏の「血の費用の無自覚(以下略記してしばしば血の無自覚とも記す)」と「民衆の好戦性」には因果関係がある、という信念、いわば、反戦の理由とするだけ職業軍人や他国民の命へ共感しない民衆の戦争他人事信念は、科学的仮説ではない。さらに一段深めていっても、この因果関係は一部の確証偏見を集めればさもそうかのごとく見えるかもしれない、といった程度に過ぎない疑似相関な可能性がはなはだ高く、それというのも、彼が集めた実例は統計学的相関性を示す有効な検証を経ていない単なる彼の信念に有利となる少数のかぎられた場合の証拠あつめにすぎないだからだ。仮にその様な詭弁目的なら、どの立場であっても例外的場合をさも一般例かのごとく集めてくれば、世界政治史の事例は多岐にわたるため、およそいくらでもおよそどんな自説でも正当性を有するかのごとく、特定論旨のために特定の証拠をこじつけることができるのである。単なる無知や愚かさを悪意のせいにすべきではないとすれば、研究不正といいうるかは定かではないにしても、この箇所について、我々の批判的思考に照らし合わせてみれば三浦氏による論旨の内容は、少なくとも知性かその為に必要な誠実性に欠いた論理展開といわざるをえないのである。辛うじて、時代や政治体制のほどちかい近現代の先進国およびそれに類した国々の戦争史のうち、英米以の3国の5戦例を持ってきた事で、その様な知的不誠実さを補えると考えているとすれば、端的にいって教育された文民に値しないというだけ子供だましな話でしかない。また、彼が論旨の一部につかっている非軍人一般民衆にとっての戦争他人事信念なるものを、血の無自覚と民衆の好戦性のあいだに確かめられる実際の統計学的相関性を持ってきておおかれすくなかれ証左したとしても、それらが、多数支配以外の政治体制の場合を含んだものでなければ、あるいはまた、近代の少数の英米以諸国が置かれた多数支配体制が置かれていた国際状況その他の別の共通性や、偶然の一致の可能性の検討を抜きに、過度の一般化をおこなっているのではないか、という批判に耐えられるだけの十分な理科学的証拠を、これら人々の真の内心を単なる開戦に関する世論調査や国民投票という支持・不支持の二択または少数の選択肢しかないアンケートなどで示される外部化された側面から究極までも臆断しかしえないかぎり、示し得ているとは到底いいえない事例を三浦氏は強いて自説内にもちこんで論じている筈なのである。

 こうして、三浦氏の論説の前提条件になっている彼の東大博士論文の趣旨は、 科学的仮説の水準に達しえているとは到底いいえない稚拙な思考過程や、そこから導いたろう誤っている可能性が全く否定できない結論に基づいている。「血の費用の無自覚」と、その自覚とに仮に区別があったとして、実際には職業軍人が民衆から選ばれ、又は志願し、或いは徴兵制の元で無作為に全国民が巻き込まれている場合もあれば、進んで義勇軍など民兵を組織することもあり、あるいは世襲や養子縁組を含む襲名などで職業軍人の階級が相続していることもあり、またなんらかの家庭的あるいは個人的事情とか経済徴兵などで不可避に軍人になっている人々もいるなど、軍人そのものの立場が個々人で微視的にみればみるだけ相当以上に多様かつ見方によっては網羅しきれないほど複雑で、さらには軍人自身でも勇気と呼ぶべき大胆さ・臆病さ・無謀さなどに個々人で差がありもすれば、敵・味方の被害が異なる実戦・模擬経験によって正義感や国防の義務意識など従軍のさまざまな動機を加味しても好戦性の程度など現場の状況次第ですら参戦前後あるいは最中ならびに従軍忌避後に個々人単位でしばしどうとでも変わり得るものでもあり、単純に血の費用の自覚・無自覚を二分法でわけえないのにもかかわらず、仮に血の費用の無自覚なるものがあったとしても、精神病質性のうち良識の欠如のある者とか、それ以外のなんらかの訓練や信念、行動原理によって悲惨な状況下でも戦争遂行が必要と判断している者があるために、この血の費用の無自覚が死や痛みを恐れて軍人一般又はその全体が戦争を忌避しがちになる論拠にはまずもって到底なりえないのである。
 実際に、米調査機関ピュー・リサーチ・センターによると2010年時点で世界の16億人が信じているイスラム教の聖典『コーラン』によると、聖戦への参加を称賛される条件がある、というムハンムドの信念が語られている。具体的には最高神アッラーを冒涜する者とか、イスラム教徒へ不義の戦をしかけてきた者などは、改悛改宗すれば許してやれとはいうものの徹底して歯向かう様なら遠慮なく殺害込みで応戦すべきで、しかも臆病な者よりこれらの聖戦で勇敢に戦って命を落とした者の方が来世でアッラーがお恵み下さる、といった特定の正当防衛に該当する場面での戦死(討ち死に)を含む参戦の正当化・美化の趣旨が語られており、元々中世の中東でユダヤ教やキリスト教その他の勢力への最終的戦勝で確立されたと言ってもいい教義体系であるからには、これらの来世思想を含む正当防衛的布教活動の信念には開祖にして最後の預言者ムハンムドの生涯のなかで彼の生きていた当時の中東の諸宗教勢力間の勝ち残りのため或る種の必然性があった、そしてそれは彼個人のなかで決してのち過激派と称し恐怖主義(テロリズム)のレッテル張りで9.11後の米国有志の大多数側からビン・ラディンらイスラム原理主義者について汚名を着せられている様な悪意に基づくものではなかった、と推定されるべきであろう。実際、史実としてのムハンムドは、聖地奪還時はさておき、いわゆる帝国主義的な無際限の侵略主義を語ったのではなく、単なる自らの宗教集団に於ける正当防衛論を語っているに過ぎないというべきである。そしてアッラーの教えがムハンムドという最後の預言者を通じて下されたと信者らは考える、この根本教義のもと、イスラム聖戦士(ここではイスラム教の聖戦教義のもとで民兵を含み軍人になった者)なるものは究極のところ、潜在的に全信者の民兵組織が信仰の前提条件ともいえるのだから、実際にはイスラム教徒の命やアッラーならびに聖なる預言者の尊厳がおびやかされたときそのうちの世俗派らが良心参戦拒否をおこなう場合がありえたとしても、総じて、血の費用無自覚論では説明できない面、ここでは正当防衛という公的正義を帯びた戦闘性(彼らに限らず全ての国々の政府組織や一般国民間で、単なる正当防衛が被害防止目的で反戦的である通常の場合も、ここでは仮に戦闘性の一部としている。よってこの戦闘性に法的・倫理的善悪の価値づけはおこなっていない)が、敬虔なイスラム教信者あるいはその過激派といわれしばしば多方面から汚名を着せられているイスラム教原理主義者らには、不可欠の自集団の生き残りのために内在されている事が確かなのである。この種の、特有の徳目に則る計16億人以上の、全人類で最低でもキリスト教徒につぎ2番目に多い宗教集団の自己防衛本能に他ならない避け得ないだけの正当防衛的な戦闘性を、巨視的にみればキリスト教圏にあたる米国による世界の警察と称する全世界支配願望、あるいは米国的価値観の布教者としての役割をかえりみて、過激派による恐怖政治(テロ)だと、自由圏あるいは西側諸国における反イスラム扇動のたぐいで汚名を着せにかかっているのが現代国際政治の現状であればこそ、我々は好戦性・反戦性・それらの中間に位置づけられる戦闘性というラベル貼りのその名目と内実の乖離には批判的あるいは懐疑的とならざるを得ないだけの十分すぎる現場の証拠がありあまっているというべきなのだ。なぜなら、真に反戦的であるがゆえに自集団を武力防護しなければならない勢力を一方の侵略勢力が好戦的だと無理に名義づけして公然と国政府あるいは一部・一般民衆の単位で非難したり、中立的な戦闘性すら放棄している完全な非戦勢力(例えば日本では自衛隊破棄論者。あるいはガンジーら非暴力不服従運動の指導者とその従事者ら。その他、各地でなんらかの政治勢力や武装勢力に武力で支配されている全ての絶対非戦者)を国とか武力組織とかが一方的に蹂躙しながら、その占領区を国・地域・自治体あつかいしてまるごと悪質な好戦勢力かのよう善悪の価値づけをおこなうのが底抜けに野卑な一般人類の現在及び過去に於いての日常茶飯事なのである。別の言い方をすれば、イスラム勢力に限った話ではないにせよ、米国有志連合によるイラク戦争で防戦に回った被害国側が好戦的であったというラベル貼りや価値づけの一例をとってみても、大量破壊兵器が見つからなかった時点で、この戦争が9.11を引き起こしたビン・ラディンと彼の組織アルカイダを処刑する目的での、それにしては一般市民や無関係なイラクの国全体をも余りに邪悪な風貌にみせ悪の枢軸あつかいした大規模な単なる侵略戦争であり、そこに被害国側の好戦性があったとすれば正当防衛以外なにものでもないのであるから、民衆一般の好戦性・反戦性・戦闘性・非戦性その他の戦争に関する態度価値や思想形態なるものをあまねく雑なラベル貼りで一律で定義すること自体が仮の形ですら容易にしがたいものだ、と我々は、各国各地で個々人の置かれている複雑多岐で一筋縄でいかないだけでなくかつ根本的に良心の命ずるところそれ以外の選択肢をとれないなど避け得ない場合を含んでいる状況のもと、人間性とそのほとんど全ての面がおのおのの生育して暮らしている文化の段階から濃密に異なる多くの社会群の理解として十二分に知り、それすらできねば謙虚にそれぞれの違いを調べて知っていこうとするべきなのだ。
 同様に、単なるイスラム聖戦士にかぎらず、他の一般的職業軍人らのなかでも、例えば敵を殺める事に罪悪感を覚えない様な前提のもと訓練されるのが基本であり、その際、捕虜や一般市民の取り扱いなどに軍や軍人らのあいだで各国法律上、また彼らの準拠すべき国際法上、もしくは個々の部隊・状況・個人の倫理などで差があったとしても、根本的になんらかの参戦理由下で敵兵をみなされる相手を遠慮なく行動不能にし、時にまた容赦なく抹殺していくのが、この軍人という生業の基本的秩序で職能ですらあるのである。そうであれば、血の費用無自覚論が一般民衆のあいだでは通用しうるが、職業軍人のあいだでは通用する、という論説そのものが矛盾をきたしてはいないだろうか。これら職業軍人らはなんらかの形で徴兵され或いは志願してその状況にあるのだが、彼らがもともと血の費用に無自覚だったとしても、職業軍人になればその費用を自分の命にかかわるものとして認識し、必然的あるいは一般人同士に比べればかなりの人数あたりの相関性をこの自覚と反戦性とのあいだに伴って参戦に消極的になる、という理由づけが、三浦氏のなかで、一体どこから生み出されてきたというのだろうか。これは単なる恣意的な理由づけというべきではないか。なにしろ、「民衆一般は血の費用に自覚的なら反戦的になる」という単純すぎる命題がもし真であったとして、正真正銘、一般的な職業軍人らがこの例外として目の前に、あるいは人類間で戦争がはじまってからの時代ほとんどどの国にもあまたいるではないか。彼らこそ、仮に志願制その他の自主的に組まれた民兵以外であったとして、血の費用を最も身近に感じ取り得るにもかかわらず、実際には兵役・参戦拒否などで反戦性をほとんど示していない最たる実例であるからには、三浦氏の上記命題は完全に偽だというほかない。さらに、のち三浦氏は、自らの当該命題こと血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説の趣旨を含む博士論文の論理を展開させ、憲法に定める拷問の禁止を踏み誤る国民皆兵論を同様の趣旨を演繹させ或いは同一論旨を直接延伸させ公然と唱えはじめることになるが、もしこれら血の費用無自覚論と好戦性に正相関や因果関係があるという仮説を彼の論文審査にあたった東大教授らに提出した時点ですでに、暗にこの血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説を単なる民衆一般の性悪説に求めるとするならば――当時からもうそのつもりであったかとは別にのちに彼自身が演繹的に展開させたとおり民兵に論理を限定して使うつもりであったとして――これは、全ての職業軍人らが全民衆からなんらかの仕方でえり抜かれているという自明の前提を無視している論説であり、いいかえれば職業軍人だけに特殊な例外という前提を置いて心理的別枠に置き、一般民衆の場合だけ無理に自分の信念を補完する論理をあてはめて使っているという意味で、科学的誠実さに欠けた確証偏見集めの一種にすぎないのではないか、と指摘されうるために十分すぎる論理的瑕疵というべき部分なのである。そして、この瑕疵が私以外おそらく誰からも指摘されないまま、またはすでにどこかで指摘されていたとしても彼のなかで正当化・合理化・正当性を帯びた論旨として肯定されつづけた結果、少数の自説に有利な証拠でしかない実例をあげつらいつつ、性悪説で他人の死ならば平気で容認するのが全ての民衆であるかのよう多少なりとも過度の一般化をほどこしたのであろう持論展開の末、一般民衆全てを潜在的に戦争に巻き込みうる皆兵令の方が、血の費用無自覚論と好戦性の必然的因果説という誤った前提に立った彼固有の信念のもとでは、単なる良心的兵役拒否権を含む志願兵の制度による国防より、さも反戦目的には優れているかの様な、極端に歪んだ、また前提も結論も間違った論旨を彼自身に導かせ公言させるに至ったのである(『三浦瑠麗「日本に平和のための徴兵制を」豊かな民主国家を好戦的にしないために、徴兵制を提案する 』文藝春秋SPECIAL 2014年季刊秋号、アーカイブなど)。

 また、この決定的な論理的瑕疵以前に、そもそも民衆一般のなかでも、例えば2017年時点の日本国民一般のなかで戦争放棄を謳う憲法9条が少なくとも直接的参戦を防止してきているという点で有効だったと認識している者が多数派を占め*1 *2、こうして民兵以前に、仮に近現代の一部英米以諸国では決してそうでなかったとしても、血の費用の自覚があって単なる他人の死を悼むために反戦を唱えている一定より高い共感的倫理性をもつ良識的一般民衆も現に日本国内で多数いるのである。但し彼らがベトナム戦争、イラク戦争、シリア騒乱などで後方支援の立場を示した各国内政権を各時代の地点での国民多数派が人道主義の観点から公然と与党を非難し、政権の座から即座に引きずりおろさなかったなかった醜態もしくは同盟国を頼った間接的好戦性についても、単なる絶対反戦の良識をあてはめうるかは大いに疑問があるとして。なおかつ、仮にこれらの他人の死を悼むがゆえに反戦的でありうる人々が、特定の国の特定の良識派にかぎった人類全体では少数派としてしか存在しえないとしても、実際これら自国と同等以上に他国尊重の反戦良識派の人々が、なんらかの限定的又は無限定的な好戦性をもつ単なる政治勢力均衡による冷たい停戦を超えた、真の例外なき究極的永久相互不可侵状態を導きうる唯一乃至随一の人類勢力であり、寧ろ我々文明人が頼りとすべきは性悪説によらなければ戦争を少しも防止しえないがゆえいつでもその脅しあいが崩されうる勢力間均衡状態を何とか作り出そうとする便宜的・戦術的工夫の方というよりは、無条件相互不可侵権を国連やその上に立つ普遍的国際外交上の国際人道原理として全国連加入国に例外なく要求・確立し、またそれを国際法制度として外交しうる全ての国々へ適用するこれら絶対反戦良識派自身から導かれる、主権の相互尊重にあたる最たる人道性の方なのである。なぜなら、この種の人道性ぬきに、いかに血の費用無自覚・自覚論を用いた所で、結局、その民衆が自他すべての人々の命に万事を超えた至上価値を認めない何らかの意味・理由で人命軽視をする人々であった場合、功利主義的(ここでは、人命を最大多数の快苦に還元できる定量的なもの、計量可能な価値と見なそうとする傾向の)損得勘定のもとで、軍事的・政治的・経済的その他の文脈でそれら血の費用を個々の場合で程度あれ容易に濫用するだろうことは明らかだからだ。裏を返せば、三浦氏の血の費用無自覚・自覚論を、好戦・反戦性とおのおのなんらかの因果又は相関関係で結びつけたければ、第一にそのための一定以上の信頼が置ける統計学的証拠づけが必要であるのに加え、それ以前に、国または地域など集団間の相互攻撃の応酬である戦争自体の参戦・撤退・忌避またはそれらの意思決定主体にとっての当費用の自覚・無自覚にかかわらず、想像できるかぎり収奪か征服同化などの悪意による他国侵略で不条理に先制攻撃された側の正当防衛まで条件つきで武力行使を容認する場合を戦争なるものの前提条件に含んでいるがゆえに、これら血の費用そのものがなんらかの理由の元での好戦・反戦性と特段無関係といってもいいのである。こうして、血の費用なるものを人類間の戦争行動に際して好戦・反戦性の区分のための論理構築上の基礎に置いているかぎり、単にその種の性悪説的な利己的かつ場合によっては害他性を省みない個人主体にかぎっての功利主義的経済戦争の損得勘定を、便宜的に快苦の原理で定量化した、全戦争の動機のごく一部にかぎって説明できる仮初めかつ信憑性のない信念の企てに、血の費用無自覚・自覚論とそれと非統計学的に好戦・反省性を関連させた三浦氏の論説はすぎないのである。そこではいわば定性的に人命を至上価値とみる良識的主体が、無条件の戦争拒絶を当然視する良心にとって自由かつ自律的な気高い人道主義的文明人らと共に、自明に思考の前提から排除されているのはいうまでもない。だがこの人道主義的文明人、すなわち一般論的文民こそが、我々が無条件の戦争回避の為に最も必要とする、したがって常に主体となって最高権力を握り続けていなければならない第一勢力であって、その様な主体を抜きに、全ての人々を性悪説的な相互不信とそこから導かれる異なる集団間の利己かつ害他性のあいだにいるものとした場合には、究極で、冷戦的な仮の小休止以外、停戦自体がどこまでも不可能となってしまうだろうことが想定されるかぎり確かなのである。だが、幾ら先進国と称する少数の国々で好戦勢力やなんらかの面の皮を被ったその種の侵略犯なるものが、他国の主権侵害による馬乗りや相互均衡状態を使った大小の利益享受あるいは単なる差別の正当化など嫌がらせの害他を目的にした獣類同然の不道徳な社会を作っていたとして、実際に人道主義的文明人の最たる証であるところの無限定に消極的な反戦およびその究極としての絶対的非戦の良識を我々がまぎれない自然法(ここでは人類が人類であるかぎりぬぐえない自己規律)の命ずる主権者あるいは主権が侵害された体制のもとではの潜在的有資格者としてかかえているかぎり、単に権謀術数によった暴力すなわち権力のやりとりというずるく邪悪な側面だけで、人類なるものがこの世界に生きていないのもまた客観的事実なのである。

 よって、命題「民衆一般は血の費用に自覚的なら反戦的になる」を全論説の最終結論「民衆政治(democracy)下の文民主義(civilianism)でも、政治指導者による軍掌握と高い軍事力、正義や損得計算などの動機に基づく文民(civilian)による戦争が起こってきた」に至る前提条件に置いている彼・三浦氏の下記に挙げる博士論文も、結論にとって有利な証拠をどう民衆政治的文民主義を採用した近現代に於ける英米以3国の5戦例をとりあげ結論を補完したとしても全体として虚偽の論説というべきで、その様な稚拙な論旨をさも十分な研究能力の証明かの如く評した教授らも、国立大学という名のつく公的費用を投じている学術研究機関にふさわしくない程度の思考能力しか持ち合わせていない人物らの集まりであった、と断言せざるをえないほど、議論の質と次元の低いありさまなのである。最低でも、東大大学院法学政治学研究科で三浦氏の『シビリアンの戦争 : 文民主導の軍事介入に関する一考察』の主査にあたった教授ら、具体名を挙げれば田中明彦氏、藤原帰一氏、久保文明氏、浅香吉幹氏、高原明生氏らは、この点で精々ことを早まって誤った判定を下したと類推せざるを得ないであろう。さもなければ、思考力が十分なかったために、三浦氏の論旨のうち、少なくとも上述した様なあまたの矛盾を指摘しえず、同時代的な学術研究の担い手としては我々の基本的思考水準にとって、論文や主張を科学的かつ批評的に読みとるだけの能力をもっていなかった、と言わざるを得ないのである。

―――

*1
共同通信社が2017年4月29日憲法施行70年を前に。2017年3月8日から2017年4月14日に全国の有権者へ郵送方式によって、層化2段無作為抽出3000人を対象に、1944人を有効回収数としておこなった世論調査。層化2段無作為抽出法とは、行政単位(都道府県・市町村)と地域によって全国をいくつかの区域に分類し(層化)、各層に調査地点を人口に応じて比例配分し、国勢調査における調査地域及び住民基本台帳を利用して(二段)、各地点ごとに一定数の標本抽出を行うもの
 日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由は「憲法9条があったからだ」が75%、「9条の存在とは関係ない」は23%。 

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/79306
https://www.shikoku-np.co.jp/bl/digital_news/article.aspx?id=K2017043000000009400

*2
NHKの「日本人と憲法2017」調査。全国18歳以上の国民を対象に2017年3月11日(土)から26日(日)にかけて行われた住民基本台帳から層化2段無作為抽出4800人(400地点×12人)への個人面接法による、計2643人を調査有効数とした単純集計結果。
「第11問 憲法第9条は、戦争を放棄し、戦力を持たないことを決めています。あなたは、この第9条は、日本の平和と安全に、どの程度役に立っているとお考えですか。リストの中からお答えください」
1.非常に役に立っている 29.4%
2.ある程度役に立っている 52.6% 
3.あまり役に立っていない 11.1%
4.まったく役に立っていない 2.3% 
5.わからない、無回答 4.7%

https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20170509_1.pdf