2021年8月15日

ツイッター民一般の分析による、中から中の下程度の一般言語知能の持ち主らの興味を惹く効率的人工無能の考察

日本語ツイッター民(ツイ民)一般は、短文の短さを異様なまでに称揚しつつ、その範囲で、当人に理解できる言説をする相手を賢者とみなす異様な確証偏見を殆ど一様にもっている。そしてこの種の明らかに賢愚についての一般的事実と反する、愚かな上に彼らのなかでは信念となっていて甚だ堅固な思考回路は、なるほどその様な信念や感触を一度も持ったこともなければ同様の信仰を持つつもりもない、おそらく大多数の類型にあたる一般知能の人々にとっては、まことに意味不明である。

 しかしこの事柄は次のことを示している。ツイ民なるものは反知性主義の一類型として、上述の様な、後真実をすきこのんで賢さ全体とかなりの悪意で公然とすり替えようとしている、ある種の反文明勢力なのである。

 ツイ民なるものに言語障害者が混じっていた場合をそこから除くと、おそらくかれらは既存の日本に於ける年齢別学級制の公的義務教育などで、普通学級で落ちこぼれの部類であったろうことは、想像に難くない。すくなくとも、かれらの読解力の水準は到底、まともな成績で国語や英語といった一定長さの文章読解が必要な試験に合格する様な類のものではない。端的にいって、一般的に低言語知能の人々であるばかりか、特に読解力が、甚だしく日本国民の平均水準以下の人々であると考えていいだろう。
 だがかれらが著しく愚かな、そして悪徳に満ちた言動をくりかえすのは、単に低言語知能だけに由来した傾向ではない。
 むしろかれらはつねづね、ツイッターという低言語知能の者にとって卑怯な匿名での荒らし行為をおこなうのにふさわしい場を見つけたと感じつつ、はっきりした意図に基づいて、上記の様な長文嫌悪に伴う高い知能への蔑視という、自己欺瞞の言説をしているのである。

 もっといえば、学校社会で下層扱いされ、同世代から迫害されてきたと感じている人々が群れを成し、特に高言語知能とみなされる言語流暢性が高い者をことさら標的に集団虐殺しようと、ツイッター米国本社の定めるツイッタールールを悪用し、集団通報などでぬれぎぬを着せる排他的な荒らし行動をとっている。その前座として大概に於いて、1つは「言葉が短くなければ賢くない」というラベル(短文主義)、もう1つは「自分にとって分かりづらければ知的ではない」というラベル(主観主義)をつぎつぎでたらめに貼り始める。無論、これらはどちらも底抜けに間違った命題である。これ以外にも、かれらは色々理屈の通らないラベルを駆使して相手を加虐による自己正当化かつ群衆との同調目的に貶めようとするが、ここではもっぱらこの2つについて分析をおこなう。

 前者の短文主義について。どちらかならば高い言語知能を持った者ほど、長い言葉の連なりにも短期・長期記憶を働かせ全体の趣旨を文脈などを含めまとめて理解することができるし、また、自分自身が何事かを語るにあたっても、箴言や短詩の様な特殊な類型にあてはめている場合や目的を外れて無駄口にあたる詭弁を弄している様な例外的場合を除けば、一般に、長い言葉の連なりに深く哲学的あるいは複雑な文学的含意などを込めうるばかりか、低い言語知能の持ち主らには用意にできない芸当なのが事実であろう。実際、論旨の全体が無矛盾と仮定して基礎的な論理による長さだけを省みても、その長さが長ければ長いほど伝えうる情報量は多い事になるだろう。またところどころに矛盾があった場合でも、単なる乱雑な言語使用にすぎないのでなければ、言語の連なりによって複雑さをつくるという観点からみれば、特定の体系性をもつ長文執筆あるいは長話をする能力は、言語知能の高さを意味していると言ってまず間違いがないであろう。
 いいかえれば、短文制作や、趣旨をまとめて結論から手早く話す能力とは、それ自体が単独で評価されるべき言語知能であり、言語に関わる全体の知能とさほど関係がない。
 よって、短文主義は単なる形学であり、ツイ民一般が信じている信仰にほかならないし、それは甚だ限定的な意味に於いてしか正しくないため一般化して語りえない事でなければならない筈だ。たとえば短文制作の能力が甚だ高い人物であっても、長文で立派な物を書く能力が甚だ欠けているばかりか、中くらいの長さの文についても陸な能力がない様な人物が実在しえ、その様な人はツイ民一般にとってはすくなくとも荒らしの際にもちいる詭弁の建前上、理想的な知性を兼ね備えている事になるだろうが、端的にいって、コピーライターを含む短詩人または警句家として以外の場面では現状ほとんど役に立たない文芸能力というしかないだろう。すなわちツイ民一般がもっている短文主義が導く知能像とは、第一に誤った前提に立った知能全体のうちごく一部の能力への過剰評価または異様なきりすてによる知能の個性差別を含むひいきによっており、しかも、この主義が実際には単なる抽出・まとめの能力を超えて言語使用時の潜在的複雑さを拒絶している様な傾向をもっているので、かれらの信念のなかで反知性主義の正当化と不即不離に結びついているのである。

 後者の主観主義について。こちらはいうまでもなく、ある面で短文主義より一層、極めて稚拙な観点であり、要するに子供のわがままといったたぐいの、しかも高尚さ一般へ反動的な反逆でしかない。いわばどんな下衆にもわかりやすく低俗であればあるだけかれらツイ民一般にとっては親しみやすいことになるのだし、仮にかれらの間に少しの品位の差があったとして、実態的には当時の主観に読解が困難で分からない事のうちに有限な知性しかもちあわせていない自分にとって未知なうえに甚だ高い知力を示す事柄が潜在的にありうるのは当然なのだから、要するにかれらは大衆向けサブカルチャー商品の消費者的な自堕落さに慣れきってしまい、弱知化されていない諸々の高文化的言説に汚い言葉を投げつけ、その高尚さを自分達の低知性と同程度まで堕落させようとしているにすぎないのだ。
 また、実際に相手がかれらツイ民と同程度の低知性まで下りてこようものなら、逆により一層悪意を込めたそしりを卑しい言い草で全方位から重ねるといった具合で、つまり、相手にしかわからない事柄を語っているとの自己認識をいいわけするために、傲慢さから相手が自分より賢い前提を排除して適当にその場で相手が愚かなことにしたてあげ、相手の語る事柄の趣旨を理解しようという努力を放棄したまま相対的に無知でありうる自分の方が賢者なのだと思い込む、酸っぱいブドウの論理による阿Qよろしくの合理化に、まるでどこかで習ったの如く、ほとんど一様に耽っているだけのことなのである。これが意味しているのは、根の卑しい人達には共通の行動様式があり、それは下衆の行動原理の研究として法則だてて体系化できる筈だ、という事実である。

 我々はツイ民一般が衆愚だと認識している。それというのも、かれらは上記の様な愚劣な言動をほとんど法則的にあらゆる場面でくりかえしているばかりではなく、さも型枠にはまった様なオウム返しの言動を飽きもせずくりかえしするものだからであり、それらの型枠には一定の分類があって、各言い分をツイ民型枠として一つずつ丁寧かつ科学的にかれらの愚かさとそれに伴う一般利用者づらをした荒らしという悪意・悪行をうみだしている理論背景から考察を加えていきさえすれば、最終的にはツイ民の一般行動法則は人工無脳化できる筈なのである。
 既にその様な試みをした人々がいるかどうかにかかわらず、ツイッターなる有限オートマトン内で行われている一般的なツイートならびに返信・引用リツイート方式は、確かに人類としてもさほど立派な言語知能を持たない人々の巣として特定の型にはまった単純さに片寄りをみせているため、それらは飽くまで言語の置き方として有限であってかつ幾つかに分類しきれるものであるからには、我々は近い将来、機械学習をつかってそれらのツイ民なるものを再現しうる筈である。私が挙げた2つのかれら固有の信念の型枠は、それらツイ民人工無脳の最も基礎的な部分にあたる基本言説といえるだろう。そして、SNSとしてツイッターを使っている人々がいまだに相当数いる事の真実といえば、それらの型枠による返答方式だけで、ツイッター利用者の殆どが広告クリックをするだけの情報価値を認め得る、という点にある。つまり、ツイ民人工無脳に一定の多彩さを伴わせた機械的反復だけでも、その先に人がいる様な振りさえさせておけば、ツイ民なるものと同程度の言語知能の持ち主達は飽きもせず仲間を作って質的例外者を通報BANで迫害できていると勘違いして、十分に時間をそこで費やし広告その他の方式で金を落とすだろうということだ。そして事実、ツイッター社やその他のマイクロブログが存続するつもりならば、その様なしくみをつくりだし、余り言語知能の高いまたは極端に言語知能の低い変異を除く、正規分布でいう±2σ内の一般人類にとって不愉快となりうるほどの多様性の表示を省いて、かれらの主観にウケがよくかつもっと効率のいいクリック率を、型枠に応じた短文をツイート・返信・引用リツイートなど一定の変異幅のもとで無限につくりうる人工無脳の調整によって達成することになるだろう。

 さらにはこの人工無脳は、一定より言語知能が低いためかぎられた型枠でしか言動しない荒らしらに最適化した版を開発できるため、もしやりとり道具の運用主体がそれをよい目的に使えば、荒らしの総量はへらす事になるだろう。
 ただし、この人工無脳は、大量資料の蓄積次第で一般的な人々をほとんどすべて包含するだけの凡庸な興味深さに最適化した言語的能力を獲得しうるため、それ自体が人気影響者の様な役割を果たしだすだろう。このため企業や個人或いは政府その他が独自に開発するとしても、この人工無脳が完成度を最も高めた段階で、その人工無脳の属している言語共同体では、人間のほとんどの会話自体が、事務的なものを除き無意味化することだろう。こうして、この型枠の学習と拡張を応用した効率的人工無脳の開発は、最終的に、人々から毒にも薬にもならない毛繕い的な言語上のやりとりの機会、すなわち雑談の機会を相当に奪うことになるだろう。けれども、内向的な人々にとって雑談は一般に不愉快といわれることがある*1ため、この人工無脳の完成は、かれらにとって煩わしい上に不安を掻き立てる退屈な対人接触の機会が激減することで、今よりずっと好ましい愚痴激減社会、特に機械とのツイッターバトル風のやり取りを除いて、人権をもつ他人への悪意ある無駄口を叩かない社会の到来を意味することになるだろう。又その環境下では、これまでおもとして定型発達と違うというだけの理由で、異常者または一般社会にとって不適応者扱いで差別され自閉症帯域などの米国精神医学会による属性分類にあてはめられてきた異能たちを、より広範な分野で既存の才能を活かして活躍させる様々な文明環境を提供し、結果、その社会で生きる人類全体にとっては精神医学上または一般的偏見からくる差別がへるので、福祉状態が改善するだろう。
 これらの貢献に加え、この人工無脳の最も優れた点は、大部分の人々が単なる暇潰しで甚だ悪意ある人々、ダークトライアドやテトラドら荒らしに紛れた極悪人らをまきこみつつ無駄に会話しあう機会を大幅に減らす事で、社会全体の生産性を向上させる。かれらが実際の人と会話するより合目的に興味をみたすこの人工無脳、但し背後に人がいると期待される一定の揺らぎがありつつ型枠的な短文の連打による会話で、理解しがたい過度の揺らぎが不愉快さに繋がる人間同士によるそれより、かれら自身にとっての実感としては満足する表層的かつ活発な形で会話できたのに深く満足することになるのは確かであり、しかもそれを行うたびに独り言をしているのと同じだけの人的資源しか浪費しなくなるので、最低でも対話相手一人分の時間が空くのである。
 内向的な人々は深い会話を好むとされるが*2、そういった哲学性・文学性をもつ人々を除けば、このツイ民人工無脳の方が、雑談好みの外向的な人々一般を、人的資源を無駄にさせず効率よく満足させるのである。

 これらの人口無脳は最初から一定より高い一般言語知能の持ち主や、一定より低い一般言語知能の持ち主らには退屈なものと感じられ、またはついていけず飽きられてしまうが、それらの人々は少数派なので、全体として、この人工無脳の魅力に夢中にならざるをえない、その言語集団で多数派を占める中から中の下程度の一般言語知能の持ち主達は、これらの例外的であるがゆえにかれらには理解しがたく、またそれゆえ彼ら一般言語能力について凡人・俗人らが心卑しく排他的であればあるほど狂人かなにかとみやし易い天才的な人々と、無益に接触する機会も随分とへらせることになるだろう。そしてそれは、特に差別的虐待を受けやすい低言語知能の人々や、凡人・俗人らの浅ましい偏見によってはなはだ不愉快な目にあったりあらぬぬれぎぬを着せられたりしががちな高言語知能の人々にとって、大いなる救いとなるだろう。

*1 *2
https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/24/11-ways-introverts-would-prefer-to-start-a-conversation_n_17279348.html

https://www.huffpost.com/entry/introvert-signs-am-i-introverted_n_5a2ae103e4b073789f6982f4