2021年8月14日

自己愛を補完する目的で異質な他者を排斥するネトナチやネトウヨの分析、並びにかれらと祖先崇拝の神道教祖の反面教師性から逆算した、真の愛国行動について

自分と違う考えをもつ者を馬鹿、無知あるいは国賊、売国奴、朝敵、反日などその場で適当なラベルを貼りつける冤罪により自明の敵とみなし、かつ、自分と似た考えをもつと認識された者を自明に味方とみなし、自分と同質の者とばかりつるみたがるネット結束主義者・ネトナチは、自分の同調・排他行動を正当化する名目で、愛国・保守などと称する事が殆どである。こうして結束主義者は自分自身と似た部類の人々と群れ、個性や価値観の多様性全般を憎悪する。

 だが、自分にとって未知で、又は既知であっても実は自分やその愛顧する対象にさえ自分の既存の信念より一層有益で、かつ、今の自分と違和している思想など無数にあるだろう。
 その様な場面が一度もありえない人は既に完成された全知全徳に達しているが、その種の神格に完全に一致していて、もはや何事も学んだり考え直したりする必要がない人物は、後でも先でも得られないだろう。ある人が同時代の全地球人より優れた知徳をもっていても、より知識や倫理上の進歩や革新がなしえた後世からみれば、既に過去には最高位と思われた人々がそれに劣っている事が当然だからである。
 だからといって、過去の聖人を外道扱いしている人々は、当時の人々の間では最も優れた知徳をもつ者がかれらであったとき、当時の圧倒的多数はそれより酷い知徳状況だった可能性が著しく高いことについても自明に民衆側を免罪している場合は、時代をとりまく学習環境や価値観の状況的な違いを省みず、単なる宗教史学的な訴求処罰を誤った形でしているというべきなのである。

 ネトナチなるものは著しく狭隘で、恐らく恨みや強者妄想などに起源をもつ憎悪に満ちた排他性によって、自分達と同程度に暗愚か悪徳の集団から外に出てこれなくなり、結果、社会全般から不良集団の烙印を押され、遠からず文明界を駆逐されていくだろう。だがその淘汰までの期間が長く、且つはびこり方が甚だしい領域があり、いわばウェブ上に仮想的なネトナチ連帯を一定期に自己増殖的につくり、その集団が自治体を乗っ取ろうとする場面も散見される。ネット右翼(ネトウヨ、ネウヨ)はこれらネトナチ極右団体に比べれば少しばかり過激さが低いものの、蛸壺内で同類を集めつつ不条理な排他原理に耽って同士討ちしがちな同根の集団というべきであり、ネトナチとネトウヨ間で抗争もしばしみられる。

 例えば日本第一党の桜井誠氏と、男系論者で五輪強行論者の竹田恒泰氏とが、桜井氏による「竹田氏は今上天皇の叡慮(エイリョ、天皇の意思。おおみこころ)を無視している点で真の尊王ではなく、五輪応援団が俗に染まった金目当て」云々との指摘が名誉毀損かを、ユーチューブ動画上で公然と言い争っている事案などがこれにあたる。
 しかしながら、かれらはいづれも異質な他者の包摂を含む多様の尊重という自由派の基本論理を欠く自民族優越論や、日本全体主義(ここでは日本全体が一つの目的に従うべきとする考え)をその宗教的核心にもつ神道と共に信じている点では同質の政治思想分類にあたり、結局のところ、差があったとしても異質な他者への包摂性をどの次元まで容認するかの政治的な態度価値に本の微差があるにすぎない。竹田氏は五輪強行論や男系論に際し叡慮をさも戦後典型憲法学上の政教分離の趣旨から機会主義的に無視するが、一方で事あるごとに自由かつ恣意的に天皇の権威を引き合いに出し(例えば明仁氏の行動を遵法精神の例示とするなど)みずからを含む男帝男系血統の至上性を優生学的に強弁しつづけるなど、確かに論理的自己矛盾を含んでいるものの――もし天皇の男系遺伝子に至上価値が宿っているならそこから発せられる叡慮に省みる価値がないとするのは、その遺伝の正統継承者とやらに属する者の至上価値を自ら祭政一致を否定することで損なっているので、政治・宗教いづれにあっても矛盾しているからである――彼個人のなかでは、戦後天皇の憲法上の地位がなんら国政の権能なく扱われるべし、とする趣旨のもとで、退位法を今上上皇こと明仁氏が平成天皇をしていた時期に国民やその代理機関である国会及び内閣へ求めたという越権行為については、一国民としてなんの非難も加えない事について、天皇権力(ここでは実際に終身在位を前提にしていた戦後憲法違反の可能性がある立法に影響を及ぼしたかぎり単なる権威ではない)の超法規性を認めているとしか解釈できないかぎり、やはり、単に、竹田氏個人の政治的主張に適合し都合がいいかどうかで、各論者の人物や政治的言動その他に、戦後天皇の地位の合憲・合倫理性への一貫した評価ともども、えこひいきな裁断をしているというほかない。すなわち、桜井氏の古武士的な正直さは、竹田氏の中途半端で公家的な天皇政治利用論と、天皇を巡って根本的に相容れないものでもある。今とは欧米列強による植民地支配への対抗を急場で迫られていた状況や、体制・反体制派の別が違うものの、それは幕末に於いて前者の純粋尊王に属する水戸学派から出た最後の将軍・徳川慶喜やその従者である松平容保らと、大政委任論に属した井伊直弼および政権簒奪を狙う薩長両国の西郷隆盛・大久保利通ら下士や下級公家・岩倉具視らなりあがり目的の天皇政治利用とは、結局、純粋尊王派(祭政一致派)・天皇利用派が違和なしに一つの調和的政体へ合体しなかったのと一緒なのである。明治政府は後者の系譜に属する天皇の政治利用者らが専横し、有栖川宮の前で皇太子は憐れな操り人形だと述べた(『ベルツの日記』)長州閥・伊藤博文を最初の総理大臣とした時点から、昭和の途中で皇道派の国討ちを挟みつつ、戦後の今に至るまで国の政体の建前を超えた本質におおかれすくなかれ変更がないだろう部分なのである。なぜなら、天皇がいかに全権を発揮しようとしても、幕末で薩長藩閥ら具体的武力を行使していた西軍勢や徳川勢ら、また戦前憲法下で総理大臣や軍部らの実権力を完全に無視できたわけではないのだし、戦後憲法下でも同様に首相や世論の権力を完全無視できないからこそ、天皇は西軍勢の冤罪処刑論を退け前将軍慶喜に公爵位を与えたり、統帥権干犯問題や石原莞爾ら関東軍の暴走に際しても完全に軍事権力を掌握しきなかったり、退位法構想についても密かに手を下して内閣と合意をえつつ国民世論へは後づけの形でビデオメッセージを公開するなど、いづれも単なる強権的独裁・或いは専制王権とは言い難いまたはそれをおおかれすくなかれめざしながらも手の込んだ手法を、幕末の孝明から平成の各天皇らが使ったといえるのである。
 現時点で具体的に韓国・朝鮮人への憎悪演説をおこなってきた現実のネオナチというべき桜井氏が、仮に、言動上は同時に純粋尊王派に属するとしても、また竹田氏が現実の右翼としてそれよりは幾らか脅迫罪に触れる度合いが低いがより狡猾な仕方での同様の韓国・朝鮮民族または中国政府高官らへの憎悪表現をくりかえしてきた人物にあたるとしても、神道信仰は別として、今上上皇(明仁)による桓武天皇の母方が百済移民の末裔であったとする発言、或いは今上天皇(徳仁)によるコロナ禍と戦う諸国民への慈悲深い言動からもうかがい知れるとおり、かれらより少なくとも寛容な傾向をもつだろう現上皇・天皇と、純粋尊王を信じている桜井氏の強度に排外的なほかの側面も、また国益また国体論と建前では称しつつ女帝間相続の歴史を日本国民の一般知性を低く見積もってなし崩し的に女系相続につながるのでいけないなどと自らの血統を神格化すべく男尊女卑的な男系論に耽るなど旧宮家の一末裔としてお家大事に天皇政治利用をご都合主義でおこないがちといえるだろう竹田氏も、現上皇・天皇の政治思想とはだいぶ質の異なる政治論をぶっているのは、客観的にみてとれる単なる事実である。すなわち、いまの天皇・上皇と、かれの支持者らは、心から敬っている者とそうでなく天皇の権威を自らの為に利用している者も含め、それぞれ異なる政治思想をもっている。
 だがそれにもかかわらず、かれら神道集団を支持母体とする皇室や、ネトナチ・ネトウヨ一般もまた、上記のよう異質な他者の排斥・迫害による自集団ひいきの蛸壺づくりに盛んな徒党を組んでいる政治勢力であるからには、かれら自身にとっての善意や正義論・正義感とは別に、究極で、多様の統一による強く健全な国づくりにとっては、根本的に公害のある邪魔者勢力でしかありえないであろう。よって、時の経過とともに、不可避に各国との国際競争にさらされているわが国民の間に、かれらネトナチ・ネトウヨならびにその唱道者らへの反感が高まり、かれらの存在は歴史のみにくいいちページとして、大部分の人々の記憶から抹消されていく。

 問題は、かれら政教未分離の皇室(象徴天皇自らが神道という宗教団体の祭司長でありながら、少なくとも名目的な世襲王権の座に居座っている)、また排他主義に耽るネトナチ・ネトウヨ勢の世間的退陣時期が早ければ早いほどより一層、日本が地球文明界の近未来をみずからが模範として指導する国際競争最前線へ堂々復帰するときも早まるにもかかわらず、自民党ネトサポ(ネット・サポーターズ・クラブ)やその周囲に渦巻くビジネス右翼、御用学者から、それら右派の現状維持という名の他国と比べた比較退歩性がおおかれすくなかれ政権運営の補佐役あるいは名誉職じみた地位その他にまきこみつつ擁護されてしまい、国として、いづれにせよなさねばならない進歩的な版更新の時期を我々一般国民が、かれら自称保守派から先送りさせられつづけている事である。
 例えば男女同権に則れば即座に皇室の女系相続も性差別否定の論旨で容認されねばならないし、しかも人権平等であれば身分制度の残滓で厳然たる門地差別でしかない皇室制度そのものが国政府から廃止されねばならない。これらはいうまでもなく避けがたい時代の要請としてなすのが早ければ早いほどいい上に過去の関西圏・東京圏の一部世襲権力者による行き過ぎを糺す目的で手っ取り早く実行しなければならない断然たる事務事項に過ぎないが、余りにネトナチやネトウヨに擁立される自民党右派らならびに皇室自身の頑迷さも甚だしいので、国として到底模範にならない過ちが政府のあちこちで頻発する。政府がそうであれば、国際人権規約を批准済みの法制度にも整合性がとれないし、民間人にとっても皇族および自民党に従う一般公務員らが遵法精神ならびに人権尊重の念、そして人倫そのものにあまたの悪例をなしつづけているのはいうまでもない。単なる男女同権に限ってさえその次元であれば、いますぐ法制化されて然るべきな性差平等(社会学上の性差は社会の文化的風習がとある性に期待する役割、その性らしさの慣習上の偏見の事。この文脈で、性差の平等とはそこから延伸し、LGBTなど多様な性を、既存の性別に関わらず等しく認めるべきとの考え)の趣旨など、いわゆる一般的異性愛による婚姻と生殖を自明の前提にした皇室含む自称保守派の世界では到底うけいれられないものでしかなく、要するに中古代から中世・近代に居残ってきた奈良発の宗教権力者であった皇室とその権威に委託した右派の体現している諸々の差別論やそれに伴う不条理の数々は、今及び未来に比べれば随分と野蛮だった過去にそれでも権限を独占・寡占できていたという誤った強権的な専横のかれらのなかでは成功体験、被害者や抑圧者にとっては反感を呼ぶ思い出したくもない奴隷体験を、加害者側として少しも自己批判的に修正できないという固陋さによって、わが国の前途にとってもはや一瞬でも早く外さねばならない重いくびきとなっているのである。なぜなら、ここで挙げた皇室ひいきを巡る国民差別などはかれら右派のなしてきているあまたの不合理な政策論の本の序曲で、その背後で現に行われてきている不正の山は、それだけで甚大な規模の図書館がつくれそうなほど膨大な量にわたり、しかもとんでもなく低い質にあたるので、負の遺産として我々の母国の現代史を未来永劫、汚名で満たすのに十分すぎる程なのだが、それらすべてを隠蔽しようとする右派全般からの横暴や悪意ある集団圧力が国内の全方位で激しすぎる為、それらの政治的事実にまつわる全記録は、実際のところ一部の臆病であるが賢明な穏健派史学者の胸底から殆ど一歩も出ないまま、永遠に歴史の闇に葬られかねない状況なのが我々の、いま直面している現実なのである。

 我々が啓蒙に頼むのは、迷妄を打ち破り、理性の光で誤った見解を正し、当然なすべきことを本来の姿で浮かび上がらせる人々による文明社会への貢献だが、その種の啓蒙の力が、魔女裁判を通じた推定有罪下でネットリンチ(ネット私刑)の検閲暴徒となった荒らし、およびそれをさもネット全体の意見かのごとく炎上商法でとりあげるマスコミに扇動された多数派によって著しく阻害されているために、この国の停滞が少しの推進力も持たないままで延々と続いている。その間、経済成長力その他で他国のなかには多岐にわたる飛躍的進歩を遂げている場所と国民性が、実際のところ、かれらナチや右翼が無駄に敵視する中国はいうまでもなく、韓国のひとりあたりGDPさえもとうに日本を超えているとおり、アジア諸国、中東諸国の一部都市その他いくらでもあるのにである。

 我々は一文明人として、むしろネトナチやネトウヨと逆に、あるいは飽くまで弥生時代の宮崎県ならびに奈良県への侵略犯の末裔と称する祈祷師兼帝国主義的世襲権力者一族にほかならない皇室の祖先崇拝から離れて、なしうるだけみずからの既知と異なる特徴をもった、異質な他者について学ばねなならない。そして理解を深めた異なる個性から、自分の国ならびに自分自身の欠点を改善する為の色々な気づきやきっかけを反省的に習い取る事、それを用いてわが国内外で以前より、ひとびとすべて、ことさら最も苦しい立場にいる最も恵まれない人類が、よりしあわせに暮らせる様になる社会をつくりなおしていくことこそ、真に愛国的な行動であり、その様な人だけが、まぎれなく国の誉れとして、本来のぬぐいがたい道徳的権威をもち、かつ末永く全国民の仰ぎ見る手本として心から顕彰されるべきなのである。