2021年8月11日

なぜ日本が地獄と感じられるか

自分にとってなぜこの世、或いは日本が生きていくに値しない国かは、次の様な理由があるのが分かった。

 それは自分に比べ、この世の人間一般や日本の一般人らが、余りに悪質すぎるからだ。

 これは単なる事実で、自分がうまれて3歳児あたりで物心がついてから、37歳になった今まで一貫して続いているこの世のありさまで、恐らく自分が死ぬまで変わらない筈だ。それが一般的な人類の、また日本国民や日本に暮らしている者ども一般の傾向なのが真実で、かれらの平均的道徳水準を自分自身の良識や良心と比べるとまさにそうだからだ。つまり、総じて自分にとってこの世、あるいは日本国の一般人達は、余りに性悪すぎるのである。経験的に自分と比べてのこの性悪さの傾向は大都市部ほど高く、かつ、東日本より西日本でより一層その傾向が激しい。自分にとって関西地方の人々のうち特に、京都市界隈の女性との相性が著しく悪かったのは、この京女と呼ばれる一般的な人々はイケズと呼ばれるおそろしいほどの意地悪さ、性悪さをほとんど文化気質の様に体現しており、著しく性善的な自分にとっては、その種の他人を陰険な悪意で傷つけてあざわらう京都の風習が、地獄の様子にしか感じられなかったのである。
 また、自分にとってこれら一般人類と自分の良心のあいだにおどろくほどの差があるという事実が不動であればこそ、自分はこの世を生きていくに値する場とは到底思えないのである。この世で自分をとりまく、建前上あるいは生物学上同類とされる連中が、悪魔の様な性格のひとびとで埋まっていた場合、それは自分自身の良心がはなはだ完成度の高い状態で生まれ育っていれば当然ありうる話だが(『カラマーゾフの兄弟』でいえばアリョーシャの様な性格)、その世界になんらかの好感をいだくことはまず絶対にできないだろう。寧ろひたすら不愉快で、無際限にひとなるものに失望させられ、ますます絶望的な経験ばかりが積み重ねっていくはずだ。だから聖人にとってこの世はなにもしていなくとも、絶えざる悲劇で自己犠牲の現場なのである。

 自分が芸術に惹かれていた時期が長くあったのも、単純にそれら虚構のなかでは現実の邪悪な人間がしばしばいきておらず、主人公が良心をもつ英雄として描かれるRPGの物語や絵のなかでは程あれ理想化された善人や聖人といった、自分と少しは似た人々がさも生きている様に見えたからなのだ。思うに、ノンタンの絵本をみていた3歳の頃から、ドラクエ7の仲間の絶望的な性格の悪さにうんざりしている37歳の今まで、この世界構造そのものは何の変化もない。当然、今後も変わらない筈だ。

 結論としてこういえる。生まれ育ちが一定より良くて、性格がよく産まれついた人間は、人間界あるいは日本国に居つかない方がよい。ガウタマがいうとおり可能ならば何らかの仕方で解脱しなければならない。なぜなら人類なるもの、日本国に暮らしている人々は、かれらの自己がなしうるあらゆる行動に照らした想像をはるかに超えて根が悪い生物で、確実に、主人公その人をしいたげ痛めつけ、ぬれぎぬを着せ虐待し、場合によってはイエスを実際に葬ったとおり適当な難癖をつけ虐殺して平気でいる、ならず者の集団に違いないからだ。

 また、次の事も言える。日本国ではくりかえし冤罪や暴力を受ける。少なくとも自分はこどものころから周りの子供は無論、大人らからさえ何度も似た様な目にあった。それは北茨城だけの事かと思っていたので磐城や東京に行ってもおよそなにもかも同じであった。
 その理由は、上記のよう人類あるいはこの国民一般の根っからの性悪さに加え、特にこの国民一般には善悪の認識能力が少しも、或いは微弱にも存在していないのである。かれらがおおよそ無信仰で宗教教育をろくに受けていないのはその一因だが、この国民一般が善悪の判断時に使うのは、自らの判断能力や良識ではなく、周りの人間達への哺乳動物的あるいは類人猿の集団行動的な同調なのである。無論かれらは現生人類であるが、まるで猿かなにかの集団が、群れる事で自分達の安全を保ったままで、理由を問わず少数者をしいたげる様ないじめ行動を常態的に、まるで本能のごとくにとるのだ。しかも、かれらの同調する相手が堕落した人々であったり、悪人あるいは愚か者の集まりであったりするとき、かれらは確信犯で冤罪をおこなって少しも恥じない。おそらくキリスト教やイスラム教といった罪悪感を啓発する宗教の影響を受けていない事によるのだろうが、罪の意識もなんらもっていないように見える。単に、日本国民一般が恐れるのは具体的に警察権力などから強制力で制裁を受けることだけであり、良心が痛むといった仕草は、一般人の次元ではほとんど見られないのである。この点で、日本は少なくとも一般人の次元では魔女裁判が普通の、底抜けに前近代的で、中世同然の国なのである。
 理由として、これは戦後のかれらのあいだでの道徳教育の欠如あるいは不足と密接な関係がある。日本では道徳判断に関する教育を殆どおこなっていない。私の県では国に先駆けて道徳の教科を設けたが、県や国がこれをした途端、特に県外の日本人一般は猛烈な勢いで道徳教育を迫害しだしていたほどだ。かれらの理屈では倫理、道徳は存在してはいけないらしいのだ。これは科学主義に片寄った戦後教育が、いかに日本人一般の精神を毒し、人でなしばかりを量産してしまったかのいい証拠といえるだろう。道徳の存在しない人間とは、獣類より悪辣な何者かである。韓愈がいうとおり弱肉強食が恋しいならかれらは動物界に帰るべきなのだ。
 しかも単に道徳教育に失敗している或いは道徳教育するつもりが一切ないこの国の大人一般自身が上記のごとく、かれらが「和」と呼ぶ衆愚的判断を多数派の圧政として正義と混同しているので、大人であれかれらをまねるこどもであれほとんどが例外なく、多数論証を乱用し、匿名群衆に混じって悪事を進んでおこなうのが当たり前というありさまなのである。これほど野蛮な国がどこかにあるのだろうか。いづれの国でも人々は一般に、個人の単位で良心を多少であれもっていると思う。だがこの国ではそうではないのである。世襲独裁者の天皇一味や、その手先をしてきた薩長藩閥、自民党ら寡頭政治屋が、政府権力を収奪や差別目的に悪用し、危機的状況下でくりかえし棄民とそれに伴う保身を図ってきたのは決して偶然ではない。多数派が善悪の判定能力をもちあわせていない衆愚集団では確実に、暴力のみを信仰する悪役が支配者を占めてしまうからだ。

 結束主義(ファシズム)と日本の「和」は、前者はナチやイタリアのファッショ、天皇制をそれぞれ一つの典型例としていて、後者は『礼記』と『論語』の語彙を『十七条の憲法』で誤用あるいは換骨奪胎した聖徳太子の援用が直接の起源となっているが、ほぼ同一のものをいいあてた語彙だ。この意味で日本は結束主義が根底にある衆愚の国で、その一般的衆愚制度が地獄さの一つの必然的な層として、我々そこで暮らしていて良心をもつ人間達を、冤罪地獄として絶えず襲い続ける。だからここは紛れなく、道徳心をもつ人々が、多数派の暴力で同調圧力に押しつぶされ、衆愚の動物的自己保身欲を神道などの差別を目的にした宗教で洗脳して権力をもつに至った悪意の人々から進んで死滅あるいは排除されてしまっている、悪魔の列島というべき場なのである。その構造の根本的なありかたが生じている原因とは、善悪をもたない衆愚が多数派を占めており、しかも、政府などの権力装置を天皇ら悪意ある寡頭政治屋がほぼ独占しているからなのだ。
 周辺諸国や北海道・沖縄、会津はじめ東日本や新潟がそういった寡頭帝国主義の暴徒、西軍から侵略被害をうけたのは、決して偶然ではない。今も昔もそれらの暴徒が、関西地方で天皇と称する座から帝国主義権力を掌握してきていた。今その悪魔の巣はかれらが侵略済みの東京にある。この悪魔の権力は、全体主義的目的の為に国全ての思想・信仰・良心の自由を政府を乗っ取る事で公然と侵害し、天皇を奉らない者は朝敵だなどと卑劣なラベルを貼って絶え間なく冤罪をくりかえす魔女裁判の極悪装置となっている。だからこそ、結束主義や国民社会主義(ナチズム)といった邪悪な思想が、同じく邪悪な差別を目的にしている奈良発の関西民族宗教・神道及びその政治権力である天皇制と結合し、飛鳥時代以来、かれらが「和」の全体主義と呼ぶ、天皇権力による問答無用の少数派弾圧の最悪の政体をなしているのである。この政体のもとにいる全ての民衆が、いじめをこのうえなく好む様になるのは決して理由がないことではない。最上位者がその種の朝敵あるいは国賊・反日・売国奴あつかいでの弱い者いじめを最悪政体の主要活動としているので、かれら天皇一味に乗っ取られた時期が長かった京都市では、今でもいじめの発生率が日本で最も高いままなのだ。

 性善的な人間が勇者であれば、この地獄の巣で苦しむ人間を救うには、まず悪魔の核である天皇とその邪教・神道を、完全にこの列島から退治しきるしかないだろう。天皇打倒と神道根絶の政治・宗教同時革命、祭政分離革命のみによって、日本国なるもの、また、邪教祖天皇に洗脳され善悪を失った、魔術「和」の狂信奴隷状態の人類なるものが、侵略虐殺・差別・強盗犯一味を逆にあがめたてまつる歪んだ悪魔崇拝からようやく救われることになるのだ。