2021年8月10日

哲学的精神とその対極にある自己奴隷化

哲学の根本的な宗教との違いは、それが徹底的な批判精神による絶えざる正義の脱構築で、教義や信者づくりから最も遠いところにある、またその基本運動が、過去の自分の認識を疑い直す自己批判を前提に含むという懐疑精神にも求まる点である。
 ここでいう哲学的批判とは、ことがらの正否に関わらずその論旨をなんらかの形で否定するという意味ではない。実証科学にあたる対象を含め、事柄の正否を厳密に問い続けることを指す。この点で、哲学的批判は、単なる御用学者の政権浮揚目的または売名目的でのお座敷芸の類ではまったくない。あるいは詭弁を連打しモブうけをねらう論破芸を目的にしたソフィスト(知恵者)の芸当でもまるでない。
 徹底的な懐疑精神は、究極の所、この哲学と呼ぶ活動の本質に属している。我々を全ての宗教上の教義、即ちときに相対主義を含む善悪その他に関わる信仰や、科学主義(例えば根拠主義を含む。ここで根拠主義とは実験で再検証できる根拠に基づく論理を真とみなす考え方、など)上の何らかの知識から一旦きりはなしてなにもかもを全て疑い直し、自我・主観や思考する主体・意識を含め、まったく疑い得ないものがない、という状態に置き直すことができるのは、この哲学と呼ばれる活動の役割である。そしてその認知領域に踏み入れる者は、プラトンや孔子らがすでにみぬいていたとおり、国民あるいは人類全体でも一部の人々に限られる――プラトンは『国家』で哲学者になれる才知のある若者は限られるとか、孔子は『論語』で中人以上には以て上を語るべし、とか語っている。だから哲学とは選ばれた学問であり、さも間口が広くみえるがそのまったく根底的な活動領域では、一般人達にはまったく理解も、ゆえに共同もしがたい議論が自由に展開されてしかるべきである。なぜなら、そこではすべての常識そのものが一旦、懐疑の俎上にのせられ、真偽・善悪・美醜・聖俗などなんらかの価値づけから一切が問い直されるからだ。

 ところで、現代人のうち、ツイッターなどのSNSに戯けている匿名衆愚は、そのほぼ全員がこの哲学領域にまったく入り込むことがないし、できないし、もとからするつもりもないのである。
 かれらは既に決まっている筈のかれらの信仰や認知領域の内部で、その信念をさらに強化してくれる証拠あつめをし、事柄の正否にかかわらない詭弁術に耽ってこれらの信念、観念論の自己正当化に耽る。いいかえれば確証偏見の宗教集団をつくりたがる。健全な自己懐疑の精神をまったくもっていないのはいうまでもなく、その種の哲学的発想そのものをここではかれら固有の悪意による狂気扱いで排除したがってしまう。この現象は弱知化の一種であり、いわばかれらは自己奴隷化をはかっているのだ。

 この自己奴隷化を利用したがる人々にとって、なるほど、かれらは好都合な衆愚である。だからツイッター社などSNS企業は進んでかれらを囲い込んでいるし、実際、収奪対象として広告収益の家畜状態に置いている。また、広告や月額課金などの収益を目的にした企業は、同じ自己奴隷たちを一般大衆とみなし囲い込みたがる。同様に、政府も帝国主義的な収奪目的から、これらの収奪に力を貸しがちである。こうして、自己奴隷全般は、自分達が自称普通の主役だと思い込みがちである。だが、実際にはこれらの人々は飽くまで企業や政府から囲い込みでの収奪対象にされているにすぎず、決して人間としてその暗愚な人格が尊重されているのではない。
 全体結束主義(集団全体が一つの目的の為に結束すべきだ、とする観念論)、その具体化としての国民社会主義(Nazism、ナチズム)が生じるのは、この種の囲い込みが成功している人民のなかで、だろう。つまり自称愛国でありながら最も反国民的・非人道的な衆愚・暴徒が、無際限な自己崇拝とその裏腹の差別的暴挙に耽るナチ(国民社会主義者)とは、はじめは弱知化からきた自己奴隷化の最終形態として現れている社会病理で、その姿が現れた時にはすでに外部の強制力で解体せずには手遅れとなっている倫理崩壊集団の証なのである。

 最初にナチの起源となっているのは、こうして、遠因としてその集団全体の弱知化の前提にある確証偏見教、またそれに伴う、哲学的精神の放棄だといえるだろう。裏を返せば、とある集団で一人以上の哲学者が、詭弁術の流行やはびこりに対抗し、飽くまで倫理や真理について厳格な考究をつづけ、その集団をひとりでも多く決定的に啓蒙しつづけていれば、最終形態としてのナチに辿り着く前のどれかの時点で、自己奴隷たちがなんらかの誤った行動(例えば魔女裁判による集団虐待、私刑など)をしているのを制止できる可能性がある。要するに批判的思考や懐疑精神がとある集団の成員、特に権力上の意思決定にどれだけの量と質で残存しているか、が、その集団の暴走が修正される素早さ、的確さと綿密かつ直接に関係しているのである。