2021年8月15日

なにゆえ平成・令和日本では国政が多数派の横暴または国会での審議拒否をくりかえす寡頭政治・独裁権力によって紊乱されているか、その原因解明を通じた議会主義復興論

日本国民一般は、対話による公的社会づくり、国造りを完全に拒絶してしまっている。特にこの傾向が甚だしくなったのは安倍晋三政権の元でであった。

 安倍氏は国会でまともに対話をおこなわず、相手の質疑に直接こたえようとせず意味の通らない論点ずらしを容易に繰り返すばかりか、官僚作文の読み上げに終始するといったそれまでの自民党議員の官僚主義に従順な面も見受けられ、これらの議論に際しての不誠実さに加え、公的に118回もの虚偽答弁をおこなっていた。いうまでもなく偽証罪で嫌疑され、検察の公訴にあうべき全国会議員でも世間にしられるかぎり第一の犯罪者だが、その悪事が余りに常軌を逸して甚大すぎるので圧倒され、さもナチ政権の連呼する正義が本当にそうであったかの様に思い込んでいた一時のドイツ国民らのよう、多くの民衆が暗示状態にかかっている。
 安倍氏の人格が良心の異常な欠如により平気で嘘をつく精神病質(サイコパス)の部類にあるのは既に公的証拠があまたつみかさなり、多くの人々の衆目が一致するところだが、その様な悪い方への人格異常者に最長期政権をあけわたしてきたという日本国民一般の公的判断に関する異常または良識喪失の方にも、我々は注意を向け、徹底分析をつづけねばならない。
 しかしこの論考でまず問題にしなければならないのは、そもそも安倍氏がおこなってすでに国民一般へ蔓延させたたぐいの議論拒否、対話拒否の暴力政治・暴政の方にある。

 これは明白に議会主義の否定である。よって多数支配も根本的には否定しているといっていいだろう。多くの人々の民意を拾いあげる体裁すらとらなくなったことを、安倍政権とその姿勢を受け継いでいる以後の自民党・公明党連立政権の、国会での虚偽答弁による対話拒否の姿勢は示しているからだ。
 安倍氏がおこなおうとしたのは、この意味で、寡頭政治か、独裁政治(僭主政治)か、いづれかである。すくなくとも自民党員間での多数支持がなければこの独裁がおこなえないという意味で、正確にいって、寡頭政治と独裁政治の中間状態にある「党首独裁政治」と呼ぶのがふさわしいであろう。よって、安倍氏は自民党員の多数派の動向にはかなりの注力を払って無視できない場面があるものの、かれの政策やかれ個人へ反対・反発する国民の一部や、その代議士である野党の批判的意見に対しては、「こんな人達に負ける訳にはいかない」などの言説であからさまに攻撃的かつ排除の態度を示す場面が、演説中のかれ自身の内面感情の発露で恐らくかれ自身にも思わず散見されたばかりか、実際の国会審議中でも野党側の質疑をほとんどヤクザじみた上から目線の横暴な態度で無視したり、実際に嘘を含んでいる到底論理的に成立しないはぐらかしでかわす場面が日常的かつ随所にみられたのである。
 要するに、安倍氏はかれの最後の長期政権下でみずからの党首としての地位を絶対化するのに集中しており、一方で、少数派を含む国民全体の民意の方は軽視しつつ、全体の奉仕者としての公務員職権違反を公然と繰り返す形で、その政権基盤を安定軌道にのせていたのである。

 議会主義はイングランド議会で国王の専制権力に対抗する文脈で生じてきた政治の形であり、すくなくともイングランド人らはこのやり方で、一度は共和革命による国王処刑までおこなっている。
 結局、イングランドではクロムウェルという新たな独裁者(僭主)と目される専制権力の出現によって、西洋大陸のオランダからドイツ人系の王侯を自分達の名目上の王として招き入れることで、議会が国政の主導権を握ったまま、同時に独裁者出現を防ぐ方途として、議会主義的な名目王政という今に続く統一王国(United Kingdom、UK)独特の政治の形をつくっていった。

 日本は薩長土肥の藩閥が寡頭政治を敷いていた明治政府が、その一員である山口県出身の伊藤博文のドイツ留学を受けて、専制君主による支配体制を布いていた帝政ドイツ(プロイセン)をまねた、大日本帝国憲法(日帝憲法)を樹立させた。
 この形は天皇が専制君主として全権をもち、国の議会(国会)の権力は飽くまでその下に置かれていた。
 一方、第二次大戦の敗戦と国連軍のGHQからの間接統治を受け、戦後日本では天皇の全権が削除され、かれに国政権能がない事にした。いいかえれば、GHQは日本政府とのやりとりのなかで、日本の国政を、戦勝国側にあたる統一王国風の、議会主義的な名目王政の形に近づけようとした。こうして、我々が象徴天皇制と呼んでいる、国政の決定に於いてよろずに議会が天皇に優越すべき今の皇室と議会の形が、年号でいう昭和、平成前期の両時代を通じて、続いてきていた筈だった。

 しかし明仁氏(今上上皇、平成天皇)は、平成の代の天皇だった頃、退位法という名で議会に自らの望む法律を通させようとした。それは宮内庁を通し、内閣と内密に謀って、公でない裏の場でおこなわれた議論であったらしく、国民やその代理機関である国会へはいわば後づけの形でビデオメッセージにより知らされ、およそ全く公の議論がおこなわれないままで国会議員が全会一致という戦後政治史的に疑義しかありえない暴挙とも呼ぶべき異常な採決をおこない、遂に明仁氏は生前退位とかれらが呼ぶ譲位行為を現実におこなってしまった。
 我々一般人のうち憲法学や戦後憲政史に少しより覚えがある者は、この国会専横と呼ぶべき明仁氏の馬乗りに、心底おどろいた。なぜならこれが通るのは、本来、日帝憲法に於いてである筈で、戦後憲法のもとでは国政の権能が天皇にはない筈だったからである。よって国会議員の多数派がこの明仁氏からの退位要求に反対し、憲法に定める皇室典範の規定どおり、摂政を置くべきことは明らかだったのである。最低でも、退位法を国会が成立させたければ、明治以後は終身在位としていた皇室典範の改定か、さもなければその制度の本質的内容の議論が必要となり、国民の多数派がそれを容認するかどうかについて、国会でおおやけに質疑・答弁が議員間でおこなわれていて然るべきだったのである。なぜなら、さもなければ、皇位継承順を何らかの政治勢力または皇族自身が、自分達の都合次第で操作しうるいわゆる皇族政治利用にあたり、皇室悪用・乱用での国権(国政上の権能)侵害の余地があきらかに生まれてしまったからだし、まだ明白たる証拠をともなった政治勢力としては京都府京都市長・門川大作氏ら京都府・京都市の首長らによる皇族の京都移住への働きかけ以外でははっきりとはしていないものの、実際に皇室を国民全体の公益を損ないつつ、一部の政治勢力の私利に皇族に付随していないともかぎらない、必ずしも実定法の範囲では目に見えないが確かに暗に働いているだろう国権が悪用可能になったままだからなのである。例えば、幕末に於いて攘夷論者かつ親徳川の孝明天皇は、幕政改革路線から途中で倒幕路線に転向後は徳川氏からの政権簒奪を狙う薩長両国や、同様に権力簒奪を志向していた岩倉具視らからみて、これらの武力革命という名の国討ち(クーデター)にとって邪魔な存在となっていた。実際にこの政争のあいだに天然痘で孝明天皇が崩御したことで、まだ10代で成人していない明治天皇の名のもとに、小御所会議で弱腰だった摂関家による親政を専横し、薩摩国の西郷隆盛や大久保利通、そして岩倉具視の3名は、政権簒奪の為に前将軍の徳川慶喜へ、特に小御所会議以後の少数者による議会政治から排除の悪意以外の目的や理由がない冤罪(朝敵の濡れ衣)を、一方的に着せる事が可能になったのである。つまり一部の寡頭政治勢力、さもなくば僭主または衆愚化した国民多数派など悪徳政治勢力が、または同様の政治志向をもつ皇族自身が、かれらに不都合な皇族を退け、かれらに都合のいい皇族を持ち上げる形で、みずからの悪政を皇室の権威で正当化することができる様になる。あるいはそれが政治上の公益という形でもたらされれば後づけで、天皇の権威・権力を諸国民のあいだで強化する形になる。これが退位法を含む、皇族の政治参加や皇族自身による全権ならびに国権乱用あるいは皇族政治利用の甚だ公害または反国民主権的な点である。
 したがって明仁氏の真意がどこにあったか我々には定かではないにせよ、かれが立法府の国会という姿をとっている国民主権の行使機関に馬乗りする形で、天皇の専制権力、いわゆる全権を戦前回帰で発揮し、それについて、国会議員のうちただ一人ですら公益の為に指摘しあるいは天皇による越権行為を防止する者がいなかったという一点に於いて、戦後日本の象徴天皇制は、この退位法の可決という歴史的な堕落のできごとによって、根本的に倫理崩壊したというべきだったのである。明仁氏と次代の天皇・徳仁氏その他の皇族のあいだになんらかの政治意図があったかどうかは一般国民の目には不明であるが、少なからずこの退位法を通せてしまったという自ら招いた事実上の脱法かつ倫理崩壊の悪行によって、天皇を含む皇族なるものは、憲法に定める国民主権への裁かれざる公然たる侵害者、いわば公訴以前の、もしくは超法規的な犯罪者となったままなのである。

 さらなる問題点も、退位法成立はもたらした。明仁氏はこれによって議会主義をも否定している。なぜなら摂政を置く終身在位を是とし、または天皇の全権・国政権能を戦後憲法の正統解釈どおり否定し、あるいは差別の否定・人権擁護・国家経済の合理化等を目的とした皇室廃止などさまざまな立場からの問題提起として、退位法成立への全会一致の幻想を拒絶または疑義する国会議員が、ただのひとりもいなかったという事は、既に、叡慮全体主義・大御心全体主義が日本国民一般を心理的・精神的・宗教的に毒しており、戦前憲法と同様の悪魔崇拝に陥ったまま、という殊更な事実をも公然とあからさまにしているからだ。
 別の言い方をすれば、天皇自身が国政に法に定めない何かを脱法的に求めた時、それが自分達国民ひとりひとりの人権や尊厳を守る為の主権をもはっきりと侵害しているのにもかかわらず、また、首相ら国民が職権違反の趣旨で罷免しうる公務員を過半数とする皇室会議を通し摂政を置く事で皇族の政治利用を謀るさまざまな勢力や、その他の国討ちを計画している皇族による議会軽視をも事前に退けられたのにもかかわらず、明仁氏からの退位法要求については国会その他の国内議会で十分な審議をおこなわず、実質的な安倍専制政治のもとで全議員が素通りさせてしまった、という失態は、間接的に、天皇という宗教的教祖が全ての主権者の上にまたは裏に立って超法規的権限を働かせている事を自己証明してしまったからである。

 安倍氏が議会軽視、それどころか無視をして恥じなくなったのは、その倫理崩壊の一部として、天皇の地位にあった明仁氏によるこの蛮行もたしかにその不可欠な要素として含まれている。まともな議員がまともに議論をおこなえる場があったなら、安倍氏も明仁氏も、そこまで違憲・違法で甚だ危険かつ公害な振る舞いの数々をほしいままにはできなかった筈だからだ。明白に憲法に定める戦争放棄や、内心の自由を逸脱している戦争法や共謀罪、あるいは国民の知る権利を侵害している秘密法を通した安倍氏は、反国民主義者だという事が明らかだが、同時に、かれの悪政を私用する形で、戦前退行の譲位もどきを実在しない全権乱用で実行してしまった明仁氏もまた、同様の反国民的罪人だという事が、わが国史に於ける同時代的真相である。そしてかれらの深層心理の奥にある考えは、議会によって一般国民らに権力を明け渡すのが面白くない、むしろ自分達のおもいあがりからくる虚栄心から国権を専横した方が望ましいという脱法的でなりふり構わぬ傲慢さであり、結果、これら一連の安倍氏・明仁氏らの自堕落かつ倫理崩壊したしぐさの数々は国民全体の遵法精神やそれに伴う人倫秩序を損ない、今となっては対話そのものを拒絶しつつ、個人の良心や少数民意を多数派の横暴で踏み躙って罪や恥を感じない、自称保守の神道ネオナチ勢力、神道国民社会主義勢力をあちこちでほとんど支配勢力になるまでの致命的規模でうみだし、のさばらせてしまったのである。
 安倍氏や明仁氏の脱法行為はあまりに公然とおこなわれ、特に安倍氏のそれにかぎってはあまりに数が多すぎるので、各地の検察すらそれらすべてを把握するのを億劫がりあるいは仕事の膨大さの前でためらっている。だが、かれら安倍氏や明仁氏は正真正銘、国権の侵害者、国民主権への悪意からきた憲政破壊者であり、その増長段階として、国会という公の場での議論を事前の根回しや詭弁術その他で煙に巻くという反国民主権的な最悪行為を、自分達の私利私欲の為に謀って恬として恥じていない。しかもこの悪疫がはびこるところ、今では若者一般ですら、大抵の部類が、余りに専制的な権力の現場とそれが未成年のあいだじゅう長らく続くさも永遠と感じられるかの如くの中世状態の強権のありさまをまのあたりにし、かれら安倍氏や明仁氏を絶対的強者または皆が共通してあがめたてまつるべき模範で、さもなければいかなる過ちも犯し得ない神聖な象徴などと誤って考えている傾向にも保守信仰の一部に内在されてある為に、自らの道徳的遵法能力で意識して守らねばいつでもかれらの様な悪意あるあるいは犯意はありつつも実の責任転嫁を含んだ反国民勢力から奪われ根絶さえされうる主権を、安倍氏や明仁氏その他のかれらの人権・国権侵害の悪事を擁護する悪徳勢力から蹂躙されて喜んですらいる。そのうえ状況がわるいことには、かれら安倍氏、明仁氏、その他の反国民主権的かつ自称保守の自民党員大多数やその支持者勢力は議論を深める事を拒否し、内容を吟味せずその場の勝敗を決めるべく公事に関する論理を私利を図る目的で恣意的に操って不誠実におこなってあまたの詭弁やごまかしによって論破したなどと称し、多数派の圧政でなんらかの少数意見やその意見者らへ検閲・言論弾圧・魔女裁判による冤罪行為をおこなっておしつぶしたり、対話自体を拒絶することさえ平気でおこなうことが実に多い。すなわち安倍氏や明仁氏が現にやっているではないか、何が悪いのかなどと反議会主義的、反対話的、反議論的、かつ断章取義の上げ足取りによる論破目的な悪意と集団暴力による蛮行の数々に、安倍氏や明仁氏の脱法行為は、おおやけの開き直りの口実を与えてしまっているのが救えない現実なのである。

 そればかりではなく、ツイッター社を含むGAFAMなど、米国カリフォルニア州などに本社を置く日本での治外法権を含んでいる米国企業、ビッグテックらは、単なる検閲・言論弾圧にすぎないネットリンチ(ネット私刑)の暴徒に、広告収益その他をもたらす利用者として一定以上の擁護をはかりつつ、それと矛盾した良識を代理する少数意見の弾圧BAN、および少数者・良識派永久凍結のための排他主義的荒らしからの冤罪に、単なる金儲けの為の多数派擁護目的にお墨つきを与え、ますます日本での議論軽視、対話拒否の反国民主権的かつ全体結束主義の衆愚政権醸成に、ただ私企業の営利を目的に意図して力を貸しているありさまである。
 ここでは、ビッグテックらに、他国での治外法権を国会が認めない必要があるのだ。なぜなら、それは国を跨ぐ情報政経に際しての、他国に属するなんらかの勢力からの主権侵害にほかならないからである。同様に、ドイツ首相のメルケルが指摘したとおり、米国政府と米国内司法もまた、各州法の解釈をもちいた狡猾な脱法行為によって、米国憲法を逸脱した権限を米国内の私企業が主張し始めた際には、断固として憲法の倫理規定を各裁判に於いて適用し、これらビッグテックによる、企業収益に依存している州の権限をたねにした私利を公益に優越させる反憲法性を、堂々と可罰しなければならない。国連や各地の多国間の地域連合も、同様の観点で、ビッグテックに各国或いは各国民主権を逸脱した絶対権力を付与しないよう、司法の良識維持の論点から最大限の注意力を今後とも注ぎつづける必要があるだろう。これは過去もEUなどで議論されてきたかれらの単なる脱税の企てを超えて、言論・表現・良心の自由と不可避に付随した、最たる人権擁護および公の社会的正義を堅持する義務の為にである。

 他方これら安倍氏や明仁氏の主導してきた議会主義の逸脱は、最終段階としては必ずや全体主義(全ての人々が和によって一つの目的に従うべきとする考え)的な国民社会主義(国社主義。国民全体の生活の隅々まで政府が支配権力を働かせうるべきとする考え)こと、全体ナチズムに辿り着くことだろう。日本ではその既往の形で天皇制ファシズム、天皇結束主義(天皇の命令に全国民が結束して従うべきとする考え)が典型例である。
 自民党ナチ、自民党国社主義者は、実態的には神道原理主義者の別名義でしかない。かれらの究極目的は、図らずも自民党議員・稲田朋美氏が講演内で吐露した事があるとおり、国民主権をとりあげ、自民党憲法草案で元首と定めた天皇主権におおかれすくなかれ舞い戻す事で、大和王朝よろしく天皇結束主義の独裁国家を、中古代から中世関西地方への懐古趣味的に再現させるつもりに他ならない。そして明仁氏ら皇族も、みずからの権力や権限を最大化しうる点でやはりこの懐古趣味へさほどの反感や不満をもたないからこそ、退位法で国民主権へ平気で馬乗りし、いまだに脱法行為へなんの謝罪の念も示そうとしない。むしろかれらはそういった三権未分立の戦前天皇の姿こそ、世襲専制君主として一先進国を好き放題に動かせる証拠として、自国民のみならず諸国民に威を張るみずからの箔をつけるいい振る舞いだとでも、倨傲のあまり思い込んでいるのである。

 我々が国政に正義を取り戻す大前提は、安倍氏や明仁氏といった脱法勢力を完全に国権の場から駆逐しきる事にある。なぜならかれらこそが国政の現場で戦後憲政を戦前同然の人治主義によって現に侵害しつづけている大悪党だからだ。それすらできねば、誠意を持って少数意見の尊重によって全国民の福利を最大化しようと試みるべき議会主義による国民主権の維持も、したがって国民全体の良識を信頼した平和国家の建設も、到底できない事になるだろう。