2021年8月13日

文人らの流儀

二流以下の文人は、確かに二流以下の物書きを一流だと思い込んでいるものだ。そういう人と接したかぎりで、かれらは元々、読んでいるものの真価を知らずにいる。なぜならかれらは自分の頭でなにも読んでいないのである。かれらが信用しているのは他人の風評で、他人がよいと言っているものを自分も同調してそうと言説しているにすぎず、したがって下らない作品、言論、批評のたぐいを、属人的に崇めているだけなのだ。

 飽くまで姦淫小説にほかならない『源氏物語』を少しも読みもせずほめちぎっていたり、実際に読んでいても極めて片寄った物の見方で不道徳礼賛に陥ってしまったり、これらの系譜に属する人達が、二流以下の文人、文学者なのは語るまでもないだろう。しかもそれらの人々は、頽廃主義の文脈としてこれらの悪徳賛美を受けとるのですらなく、心から純粋な悪意で、自民族中心主義の獣的利己性によって、舞台中の中世京都界隈の人々の乱倫模様をすきこのんで賛美しているのである。
 これが中世京都界隈の皇室近辺の性差別的な価値観を示すものだとしたところで、あまたの一夫多妻下での乱れた性交・情交劇が演じられてきた劇中で最後のヒロインが強姦されたのを儚んで自殺未遂、それにも失敗して出家、さらにはそこへも強姦魔の皇族たちがつきまといをし、誘惑にくるところで全劇の幕が閉じるなど、それは倫理崩壊しきった地獄の演芸としか言いようがないのは、仮に身分差別下で人権の存在しなかった中世京都の時点でも、当然というべき話なのである。
『源氏物語』は飽くまで虚構の話だろうが、現実に一夫多妻制下で皇族には今に至るまで治外法権あるいは超法規性が認められているのが事実であり、そういった姦淫小説を愉しんでいた中世京都の皇族界隈で現におおかれすくなかれあった性倫理の完全に崩壊した野趣ぶり、悪趣味ぶりを近世・近現代にまで時代錯誤でひきこんで礼賛してきた系譜にある文人墨客の実名を挙げてもいいところだが、現世に生きている人物もこの系譜に含まれるので、敢えて読者の想像にお任せする。わざわざ調べなくとも端的に中国その他の外国への悪意と自己愛妄想の偏見にみちた民族主義者の起源として、自然に出てくる部類もその一部にいるだろう。

 三流以下の文人とくればもっと酷く、俗世の受賞の有無で作品や作家の質を見極めたとばかり思い込んでいる。だからかれらはろくでもないものを、なんらかの権威を捏造する機関や権力者の意のままに崇め奉る。かれらも、自分の頭ではなにも判断していないのはいうまでもない。
 尤も、このたぐいの人物とくれば、仮にかれら自身の頭でなにかを判断させたとしても、もっと悪い判断をすると自分の知能をはなから諦めていることが多く、それも事実な場合が多いので、賞とか売り上げ、有名さ、人気とかは、こういったおろかな人々にとって外部的属性によって、物の真価が分からないまままんまとむさぼりの相手にされる絶好の標的となっている。しいていえば文芸の商業市場とは、この三流の人々以下を対象にしている社会である。
 いまでは動画市場の勃興によって、これらの人々は新興宗教に類したインフルエンサーと呼ばれる教祖らから、さも皇族を崇め奉る人々が日本政府属の皇室から収奪されるのと同様のむごい態を示している。 

 ではまともな文人がどうしているか。このひとは自分の読んだものを自分の頭で判断している上に、その判断が正確なので、批評に際し、いう事に誤りが少ない。さらにいえば広範な比較文学を基本にしているから、特定の著者あるいは学派へ信仰の形で肩入れする場合も少なく、理解と価値づけの分別もあまねく懐疑的・脱構築的に、常識の如くできる。
 しかしそもそもそんな文人がこの世にいる場合がまずないことで、少なくとも私は現世でそんな人々をみた試しがない。一流の文人は、超時代的かつ普遍的に、ほとんどいない。つまり、そういった文人による重要な古典の中でもえり抜きの成果というものがいかに出現率が低いか、はかりしれないものがある。