2016年12月5日
聖俗
貴風は自体に価値がある。世俗的な事は意味がない。同時代的俗人らは単に、道徳的に低劣なのである。彼らは意味内容がない。彼らは動物に丸で等しい。天皇と呼ばれてきた存在は、その時代において最も低劣な形態である。天皇が最低の俗物である。俗衆の認める権威は、それ自体、俗悪さの表彰だからだ。
JリーグCSの継続
2016年12月1日
業領域
業が領域と無限の両面をもつ事が、来世代に関する仮言命法と定言命法、両分の動機である。遺伝的近縁性は来世代の意識を、肉体的に定義している。また来世代の置かれた文化素は、この近縁性を環境抵抗中の生活形態において補完する。無限定な普遍性は業の本質を内容するが、返報性が遠い時、人は仮言的に振舞い易い。しかしこの返報の遠さ、遅さは、結局の所、返報の影響度が薄い時と濃い時に分かれる。前者について人は罪悪感を持ち辛い為、旅の恥は掻き捨てという諺が存在するのだろう。無論この諺は悪徳である。旅の恥は掻き捨てるべからず、飛ぶ鳥あとを濁さずが善といえる。そして共有地側は記録性によるフィードバックによって、ただ乗りや悪意ある有害行動者を排除するか、少なくとも前世代を見分ける事がある。歴史は共有地の徳である。
力と善
2016年11月27日
2016年11月25日
内閣暴走反日政府
安倍内閣薩長藩閥暴走で米国裏切り中国敵にす
反日の自民党閥我が国を汚染し償いせず暴走
天皇家天下の小沢氏いじめつつ安倍氏を裏切り職務放棄す
都民
自称テレビ芸能界
中で行われているのは馬鹿騒ぎだけ
自称大企業の金持ち共が食い漁る下民
救い様がなく腐りきった東京関西
自称大都会のスラムでびくびくしながら
ろくでなしの集まりで悪口を言い合う
愚にもつかない連中と群れて自称安心を買う
徹頭徹尾俗物
果てしなく下賎な天皇家
暴力団員にかつがれて有頂天
自称日本人の単なる中国移民
救い様がない悪業の衆愚と馴れ合い
狭いごみ袋で捨てないでくれと蠢く都民
2016年11月24日
2016年11月23日
2016年11月22日
2016年11月21日
2016年11月20日
2016年11月18日
2016年11月17日
2016年11月16日
2016年11月15日
手記
生存価値とは何か。生きている価値とは何か。死ぬまでの間、我々は何を追い求めているのか。金? 命が得る快楽とは何か。
誰かの為に時を費やす意味は? 金にならない生命とは何か。同時代の他人から求められている人は、彼らに何らかの快楽を提供する。快楽を与えられる人は金を得る。与えられない人は死ぬ。同時代人の欲望に合わせた人は金を得る。未来人にあわせた人は、死ぬ。同時代人とは尊いものか。なぜ同時代に適応しなければならないか。
絵は写真ではない。写真的な絵は失敗した絵。
絵の写真的側面は、勿論意味がない。絵の写真的面は単なる露悪趣味。リヒターの試行錯誤は、何を示しているのか。芸術、技とは何を達成しようとしたのか。写実性? それによって記録した物は、誰かの主観を映す。映された主観、勿論それが伝達以外の何かを示すでもない。伝達する人の主体性が映されたもの、人は人をしる事しかない。
人の目的は何か。なぜ人は仕事をするのか。学問の意義とは何か。
死の前で意義をもつものは何か? 永遠に残る生命があるか? 絵の本体は思想であり、偶像崇拝を禁じた宗派も究極のところ思想を、想いを伝えるものにすぎない。ではこの想いとは何か。哲学する事の意味、そもそも人は利他的な集合意識をうみだす。ではこの集合とは何か、ある仲間が目的としているものは何か。
絵の写実面はどこまでも現実の現象的側面を映す。写実性の目的は記録だ。主観を写す為に、この写実性は意味をなさない。写実性が可能なのは表現ではなく記録、ちょうど文芸で人がrealismでそうする様に。
楽しいと思う事は何をめざしているのか。楽しさとは感覚の活動である。
面白い文章、面白い絵画。美しい女性、勿論これらは性や好適さの別形態に過ぎず、この快適さは合目的性の形だ。リアリズムの目的が合目的性の表現にすぎないのなら、人類は何を作っているのだろう。よい環境、よい健康、よい生命、よさ。道徳性と善さは一致し、美と生命の目的性は一致する。環境も。人類の環境としての建築都市、目的としての美も、自然のそれと一致する。
我々は許されようとして描くのである。我々の目的とする絵も、描かれている形象の向こうに救済を求めて色彩を与えられた。見返りのない試行錯誤、挑戦、しかしどれも唯の悪あがきの様、色彩を作るにすぎない。
人間は何に価値を与えているのだろう? どれほど努力しても、何の価値も作り出せない。世俗的価値は私の手から離れて作られる。聖なる価値を私が作り出したとしても、人々はそれを認めない。
私はどれほど困窮しても、何一つ得ようとはしない。私達にできる事の全ては、価値から離れている。芸術というもの全般は、価値の外にある。どこかの人が高いカネを払って特定の芸術を購買した所で結果は同じ。技は価値をもたない。技は無償で、単なる技だ。換金された技は既にそれ自体ではない。
学問によって救済される魂。記録。美しいといわれる対象は、何らかの意味をもつ情報の束だ。行動の記録。情報価値をもつ体系。自分の情報を写す。自分の思考原理、思考、つまり言葉の順列によって把握された何らかの概念を写す行為。なぜ? 何の為に写すのか。挑戦者の仕事。学問の定義とは何だろう。人が学ぼうとする、他人から。他人の知恵を借りる事。目的として、借りる。
2016年11月14日
2016年11月13日
生まれ
善良な人、幸福な人に子孫がいないとすればそれは人生の悲劇であり、悪質な人、不幸な人に子孫がいるとすればそれは人生の喜劇である。
雨降りお月さん Ms. Rainy Moon
2. 破片 Particles
3. 海岸にある電話 Telephone on the shore
4. 雨降りお月さん Ms. Rainy Moon
Release date: 2016/11/13
2016年11月12日
克己
無欲で強欲に打ち勝て。競争でなく克己で勝利せよ。功徳や報償の為でなく、習性として慈善せよ。
最高の寄付とは、相手の徳を増す奉仕である。貧者は慈善で心が富むであろう。清貧の方が、金持ちより最高徳に近い。小欲は幸福の素。
恨みは捨ててこそやむ。彼彼女に勝ろうと思うな。敵に憎しみでなく、憐れみで接せ。誰をも敵にするな。自らを低くする者は魂において高められる。
2016年11月11日
にせものの国
求めているもの
欲しいもの
群れて悪口を言う
陰口以外が生まれない仲間と
卑しい利己主義者を貶めあう
全員が偽物
自称皇室の俗物
政府は悪事を好んで侵略テロを正当化
勿論生まれてくるほど悪い
それでも子供を産む衆愚
理由は空っぽ
誰一人真実を知ろうともせず
ひたすら金を儲ける国
自足
2016年11月9日
功徳と因業の大きさ
善人が善人に善行する。最善。
善人が悪人に善行する。大善。
悪人が善人に善行する。中善。
悪人が悪人に善行する。小善。
善の大きさは、最善>大善>中善>小善。
因業の大きさについて。
悪人が悪人に悪行する。最悪。
悪人が善人に悪行する。大悪。
善人が悪人に悪行する。中悪。
善人が善人に悪行する。小悪。
悪の大きさは、最悪>大悪>中悪>小悪。
ここでいう善は利他性一般であり、悪は利己性一般。
仕事は、功徳の大きさに比例しておこなうほどよい。つまり最善、大善、中善、小善の順で、行うほどよい。裏返せば、因業の大きな行動ほど、仕事としてふさわしくない。つまり最悪、大悪、中悪、小悪の順で行うほど悪い。
仕事で、利他的な人(善人)が得を、利己的な人(悪人)が損をしあうほど、その社会は優れた状態に達する。仕事と功徳は一致されねばならず、善人が相利な時に最善。つまり聖なる仕事がありうる。
2016年11月7日
2016年11月6日
作品
対して立派な作者の手に成る偉大な芸術は、いつまでも忘れられず大事に保存されている。偉人が道徳的に尊ぶべき要素が多い程、事情は同じ経過をたどる。
拙速は巧遅に劣る。巧速が拙遅にまさるとしても、人格の完成した若者がまれな様、早熟な天才も折れやすい。周りの嫉妬や無理解、清貧に耐え抜く心根は、凡その天才にとって体験的に得られる為だ。もし伝記や物語で未経験の苦難を頭で知っていても、実施にあたって諦め、挫ける者がいかに多い事か。そして彼らが果せぬ夢として子孫に託そうとした何らかの希望さえ、親の人格に応じた程度にしか教育できないのだ。悲劇は続く。凡愚の輪廻はそれ自体、克服すべき課題を先送りしているに過ぎない。だから天才の作品のみ偉大だとして、彼らは凡愚に想像もつかない苦難を、精神力、心身の努力によってのりこえてきたのだ。
2016年11月5日
幸
汚い生き方をする人間は、汚い人間になる。清らかな生き方は清らかな人を作る。
生あるものは死んでいく。汚い行いをなして生きる人は、彼らの汚い子孫からも蔑まれ死に、すぐに忘れ去られる。それは彼らが、子孫にとって一刻も早く忘れたい人だからだ。清らかな生に子孫がいなくとも、彼らの行いは清らかな人々から賞賛される。
繁殖は幸の目安ではない。功徳が幸の目安である。子孫にとっても同様に、前世代や先祖の功徳が直接、遺伝子や文化、歴史をはじめとした生存状況に反映されているのだ。過去の因業が現世代を作った。現行の悪事は来世代、次世代にとって抗えない不幸の原因である。今の業は次世代からは前世代にみえる。これ故に、人は道徳性によってのみ幸を得ると結論できる。
2016年11月4日
繁殖主義者と幸福主義者
幸福主義者、即ち哲学的な善人は子孫繁栄によって周囲にも当人らにも幸福を拡大しうる。
両者は利己による有害と利他による有益という別の道を辿っており、繁殖主義者の好む金儲けは有害、幸福主義者の好む慈善が有益な証明である。繁殖主義者の目的は不幸の拡大に過ぎず、その子孫もまた不幸を得る為だけに生きながらえているのだ。この意味で繁殖主義者は世の反面教師で悪例である。子供を増やすことが目的な繁殖主義者は不幸をふやし、哲学が目的な幸福主義者は幸福を増やす。
匿名厳罰体制
またやくざ化した都内マスメディアやブランド総合研究所(代表・田中章雄)等の不良な調査企業が悪意で特定自治体や特定個人、集団への、集団虐めとメディアスクラムによる実質的な集団虐殺を企てる事例が頻発しており、これら恣意的な偏見流布へも、新たな厳戒厳罰体制を敷く必要がある。
2016年11月3日
旧電力会社本社自治体最終責任法
これらの法を旧電力会社本社自治体最終責任法(旧電法)と仮にし、今国会中に成立させねばならない。既に廃炉が常識となった限り、最終処分場をこれまで原発から99%以上の莫大な利益を得てきた都内及び各旧電力会社の本社立地自治体に立地させ、新電力のクリーンエネルギー転換の負担を最小化する公正なる行政処断が絶対に必要である。
2016年11月2日
2016年11月1日
森の奥、林の音
美しい幻想を追いかけていた。全てが正しい場所に落ちつくのを待っていた。だが、その時はいつまで経ってもやってこなかった。形は崩れ海は鳴る。林の奥で鳴く鳥は、向こう両隣なんの変哲もないビルの地下で永遠にしまいこまれてしまう。
二 森の奥、林の音
悪い時代、悪い国、日本の平成。勿論、私達の目の前にあるものすべて。
かといって我々はそこからぬけだすすべもない。ひたすら落ちこんでいる人みたいに。儚さ、むなしさを両手に、或いはそれすらなく、死に絶える。森の奥、林の音。
あの朝の池袋
僕はその頃、十八だった。
僕は何にでも成れる気がしていた、そして表現しきれない大きな鬱屈や、不思議なほど大きな空しさを抱えていた。誰もがそうだと思うけど、僕もまだ未完成で、その不完全さは示しのないやじろべえの様だった。右から左へ、左からあらぬ方へ、僕の心はゆれうごいていた。
そのとき、芸大受験におちて椎名町のウィークリーマンションの一室でひとしきり泣いたり予備校の始まりがあって、僕はあまりまわりが見えていなかったのだろう。というより、みえすぎていた。人生で初めて行かされた飲み会という儀式のあとで、我々は同年だろう同期だけでカラオケに入り、出てきた。細かい所を全部書くには、いま時間がたりない。かいつまんでいうと、その朝の池袋の暗さについて語ろうと思う。
二 この世の終わり
よのなかの殆どの人は、僕ほど暗い社会をみたことはないだろう。僕がその朝みた池袋の街ほど、僕の心を暗くし続けたものはないほどだ。その暗さは深く、深く、僕の魂に染み込んで離れない。それほど暗かった。
僕はもっと美しく綺麗な町、清潔な磯原で生まれ育っていたから、その朝みた池袋という都会もどきの街の暗さは衝撃的だった。カラスは僕の故郷で観るかわいらしいものでは全くない。化け物か魑魅魍魎の類が跳梁跋扈し、手のつけようがなくなった景色というものをはじめてみた。
でも僕はあの朝に染みついていた空気、救い様がない絶望と希望の入りまじった光景、大気の冷たさを、僕自身の一部にしてしまった。勿論宿命だろう。もっと詳しく説明する事もできる。カラスが散乱するゴミ袋をあさっていた。僕のふるさとのカラスはそんな凶悪な生態ではなかったし、『七つの子』を歌ってた地元であるから恐ろしくもなかった。みやまからすとハシブトガラスといった、田園と都会の種類の違いがあったのかもしれないが、とにかく恐ろしい、冷たい、ひえきった社会だと誰もに分かる感覚。世界の終わりを表現したらこうなるだろう、といったまざまざとした現物が、僕と田中君があのカラオケボックスの前あたりのマクドナルドだかなんだかから出てきたら広がっていた。あなたに伝わるべくもない事実だ。でも、僕の脳内に残っているそのときの光景の暗さ、冷たさといったら甚だしいもので、いつかちゃんと表せたらいいと思っている。今の僕には、ダミアン・ハーストの絵に描かれてるカラスみたいなものしか伝えられない。でもいずれ語れるだろう。
竹林の音
僕はその頃、小さな草むらの脇にいるみたいな場所で、ねこんでいた。そこはとても小さな草むらで、ぬけだす方法もわからない。だから訳も分からないまま、小さな奥ゆきのない草むらの奥にいた。
きっと僕はこの世に生まれる理由もなく、生まれたのだろうと思った。僕は自由になる為に生まれたと信じていたけど、実際は草むらからぬけだす道さえわからない。意味がわからないかもしれないが、そうだ。つまり僕の存在はばらばらになった星屑か、それに類したごみ箱の散乱みたいなもので、価値をもたない。もし、価値をもっていたら沢山の人が僕のいる、この草むらにやってきて、ちやほやしながら何かをくれたろう。でもそんな事はどれほど待っても、全然なかったし、今後もないだろう。要するに、僕の存在は古典的な優雅さからはるか遠く、単なる面倒くさがりのついたため息みたいな感じで、実際、誰もかも僕の目の前を通り抜けて行った。なんだ、君は僕を人間だと思っている事だろう。でも、僕はねこだ。これでわかったろう。
僕は草むらの奥にすてられた、勿論だれから望まれたかもしらない、小さな子猫だ。
君はね、だまされたと思ったかもしれない。でも、別にだましたわけじゃない。僕はただ、このだれからも葬り去られて、忘れられたまま死んでいく様な小さな草むらで、神さまに救われないかな、という真剣なまなざしで、何かを待っている。何度も説明して申し訳ないけど、確かにだれもこない。だってここは誰からも遠いのだ。
二 僕の生い立ち
僕のおいたちなんて、多分だれも興味がないから語らないでおこうと思ったんだけど、この際だから説明してもいい。僕は一歳で、たしか木枯らしのふく秋ごろ生まれた。といっても別にブッダみたいに森羅万象を悟ってもないから、どこで生まれたかなんてしらない。気づいたら生まれていたのはみんな一緒だと思う。僕の生家はこの草むらのすぐとなり、いわゆる野口雨情の生家ってよばれてる、あの立派な家だ。建物の立派さからいったらまあまあかもしれないけど、それはこの際いわないことにしてほしい。だって僕の生家なのだ。
そしてね、僕はその生家で産声をあげた。うぶごえっていっても、なにしろ僕は猫だ。だから、話すたびに「にゃあ」という。当然のことだけど、あえていっておいた。人間語と勘違いされると困ると思ったんだ。
僕は小さな体を、母ねこのとなりに横たえていた。そして別段不思議なこともなく、しばらくお乳をもらいながら成長し、大きくなった。にゃあにゃあ鳴きながらね。この辺の詳しいところは省略させてください。
そしてね、僕が生まれて半年ほど経った頃、突然大きな津波がきたんだ。うん。そう。僕のねていた生家の草むらに、なんだか突然おおきな揺れがきたなと思ったんだ。きっと僕の脳の勘違いで、目の前を通ってる国道のトラックが「ぶう」とかなんとかいったんだろうと思ったから、お母さんがくるまでの間まっておこうと瞳を大きくしながらじっとしていたらね、突然、津波がきた。僕の目の前にだよ。その波はあらゆるものを覆うみたいに大きくて、びっくりしちゃった。単にびっくりしただけならいいんだけど、僕はまるで突然の大嵐で住処から飛び出した殿さまばったみたいに、いえの塀にとびのってね、いえの右にある脇坂を、中ほどまで、電光石火でかけのぼっていたんだ。気づいたら。だってびっくりしたからね。それからあふれた水が、急にこっちに向かってやってきたもんだから、ますますびっくりして、僕はすぐ隣の畑の茂みに隠れた。うん、隠れたんだ。なんで隠れたかって? 勿論こわかったからさ。
それからどれほど時がたったろう。僕はその茂みの奥でぶるぶる震えていた。誰も来ないのかなと思って。それが今なのさ。
三 孟宗竹
それでね、僕はこの草むらから出る方法はないかって、ずっと考えているんだ。でも僕の両足は硬くふるえて少しも動かないし、みんなはなんか近くだか遠くだか分からない距離でわあわあとか、きゃあとか言っていてとても怖い。何かおきてるのかなとは思うけど、外を見る勇気はないんだ。えっ、勇気がないなんて臆病だって? そう思うなら思ってくれて構わない。でもね、僕は本当は勇者なんだよ。真の勇者は蛮勇をもたないんだ。だって無駄死にするのは匹夫だからね。こんないかめしい武士道を説いたところで、資本主義の現代社会では意味をもたない。君はそう言う。実際ね、この磯原町のどこでだって、僕の存在なんて誰からもしられてない。だっておかねもちの家のねこでもないし、といったら失礼だけどさ、お金っていうより名誉を重んずる武士、の末裔の家の小さなね、子猫の一生なんて、別にいまどきだれも興味をもちやしないのさ。
それはそうと、外から声がするから、僕はやっと、こんなに冷えちゃった白い手でそっと茂みをあけてみた。するとね、そこには手にカメラをもった変なおじさんがいた。きっと近所の人だ。お母さんはどこにいったろう? 僕のくりくりした目はあたりをきょろきょろ見渡した。自分でくりくりとかいってるくらいだから、よっぽど丸くなっていたんだろう。近所の人はね、津波がどんなに恐ろしいかを記録しようとしているみたいだ。
僕の目の前には随分とはっきり、孟宗竹の林がみえた。その林は、普段僕のお気に入りなんだ。だって僕はね、竹が好きなんだ。そして竹林に入って、どっかから生えてきたたけのこを探したり、それにつまづいたり、はたまた自在に駆け巡ってさやさやとそよぐ風の音に耳を済ませる。僕の趣味だ。
でね、その竹の音がそのときばかりは、とっても怖かったんだ。竹の音っていうのも変なら、竹林の葉っぱのね、鳴らす音。風の音さ。僕の耳はしゅんと閉じてしまい、あんまり物音がきこえなくなってたから、そのせいかもな。今にして思うと。でも、僕はそのとき、大好きなはずの竹の音をきいて急にね、怖くなって茂みから手を引っ込めたんだ。それでも竹林の音はした。さわさわさわ、ざざあ、ざざあ。僕は目を硬くつぶる。そして竹林が普段はあんなに僕に優しいのに、今は怖い、とてもこわくて、何かばけものみたいな巨大な城になっちゃって、僕の耳をふさいでいるのだろう、と思った。波の音は、僕や竹林の近くを出たり入ったりしていた。きっといま、僕のねていたあの生家の庭まで、ものすごい真っ黒の波がわりこんで、お母さんなんかも僕が死んじゃったと思ってるんだろう。僕はそう思うと、涙がすこし出てきて小さくにゃあ、と鳴いた。
四 次の日
次の日、僕は表彰台にのっていた。表彰台って何って? 何で急に? ここまで聞いたのに、何もしらずに帰るなんて、無理そうだ。
僕はまえからこう思ってた。僕はいつか偉くなるんだって。だからねこはくわねど高楊枝、我慢にガマンを積み重ねて、今に世の為になる大仕事をしてやるんだって。僕が夢を叶えた顛末を話そう。
僕の手が茂みから引っ込んだのと時を同じくして、孟宗竹の林の向こうから、お母さんの呼ぶ声がしたんだ。それはにゃあ、とかにゃーんとか、そんな感じ。みんなにはただのにゃあにゃあにきこえるんだろうけど、ねこ語では「私のかわいい子猫ちゃんや、どこにいるの」ときこえる。だからここではにゃあ、と書いた。ねこ語の講座を聞く為には、どうか雨情生家に煮干しをもって来てほしい。たまたま僕がいたらだけど、講義してあげるかもしれない。でもね、それは物語のわき道だ。
僕が茂みから、あらん限りの勇気をふりしぼって外に飛び出してみると、といっても、この丸い目をね、そっとしげみから外に出して、ぎょろぎょろ周りの様子をみてたんだけど、そこではなんと、さっきの隣の家の人が、そう、近所の人だと思ってたら隣の家のおじさんだったんだけど、そのひとが僕にね、助けを求めてたんだ。これは厄介な表現だから、ちょっと言い方をかえないといけない。正確にいうと、そのおじさんは足がわるくて、自由に動けない人だったんだ。僕は最初気づかなかった。当然僕も動けない。でもそれは、僕に勇気が足りなくて動けないんだ。おじさんは違う。もともと足がない人だった。なんでも交通事故とかで、足がなくなったらしい。ねこに交通なんてないし、あったとしてもただの散歩だから、よくわからない。とにかくジコってやつで足がなくなったらしい。僕はその場でね、涙目で叫んだ。
「ここにおじさんがいるよ! 助けて」
でも、その声は、人間語だと「うにゃーん」ってきこえるみたいだけれど、ねこの世界だとそれは、緊急の合図なんだ。ねこたちにはきっとわかる。そしてね、お母さんが僕の声に気づくと、急いで坂の上の方に走っていって、あのおっかない犬のいる家の前でにゃあにゃあ鳴いた。犬がほえて、中の人が出てきた。勿論、地震があってテレビで情報をみてたから、犬のほえる大騒ぎに驚いて出てきたんだけど、お母さんの活躍で、放し飼いになっていた犬がどんどん僕の茂みの近くまで走ってきたんだって。出来過ぎな話だと、僕だって思う。でも本当なんだよ。
そうしてみんながおじさんを見つけて、坂の一番上までうんうんと引っ張り上げた。次の大津波がくるまでの一瞬の事だった。
あのほえる犬が助けたみたいに、みんな思ってるんだけど、違うんだ。おじさんを助けたのは僕。でも、そのことは僕しか知らない。表彰台というのはね、生家の隣の塀の上にある、僕の特等席なんだ。茂みまで駆けのぼると、あの足のないおじさんが助けられた、坂道がある。この坂を一杯にするくらい、大津波がのぼってきたなんて、誰も知らない。
2016年10月31日
2016年10月29日
2016年10月27日
2016年10月26日
2016年10月24日
2016年10月23日
2016年10月21日
科学と哲学の違い
科学だけで十分だと考える人はいかに生きるべきかを知らず、そのため幸福にもなりえない。いかに生きるべきか、つまり義務は徹頭徹尾、その人個人の哲学に求まる。そして哲学の程度、あるいは種類に応じてのみ、その人が幸福になりうるのだ。
博愛の慰め
価値をうみだしているものは希少性、有用性、そして快楽性をもたらす性愛であり、これらエロス類に取り憑かれた人が諦めの中にある人々を蹂躙していく。勿論それは野蛮なので、眉を顰められながら。
博愛的、慈善的な人々が聖人君子として仰がれ、仁徳ある高い人格とみなされるのは、まことに不思議な事だ。彼らは諦念という虚無主義によって現世代及び前世代、次世代の価値等級とそこからくる社会闘争から逃避しているにすぎないのだから。博愛は慰め、というのが正しい表現だ。アガペーは現実の全てではない。だが人は慰めなしに生きてはいけないし、いかなるエロス、美、完全性に近しいとその時点でみなされるだろう特徴の持ち主でもますます悲劇的な宿命にまきこまれるものでもある。つまり性愛における競争は悲劇をもたらし、博愛における慰めはそれを喜劇に仕立て直す視座をもってくる。性愛が自然界における悲劇の原理である事は、モンドリアンがとうに看破していた。他方、イエスやブッダといったアガペーを説く人々はこの原理を批判し、最も劣った人、最も恵まれない人の為に慰めの理論を作り上げた。ニーチェは聖人格への反動に過ぎず、悲劇の原理自体をのりこえられなかった。
資本主義秩序の社会ダーウィニズム的側面、優勝劣敗の合理化はますます原理としての悲劇をもたらすだけである。性愛や優越は多数派からのねたみ、うらみ、そねみ、ルサンチマンの原因となり、結局その価値ある人をこそ犠牲にする目的に完結する。人間的な優秀さは、実践的には中庸の程度として求まる。博愛という考えは、自然界に対する天上界、或いは宇宙界における、喜劇の原理の提出だった。そして博愛的である事は、必ずしも人格の目的ではない。性愛と博愛の中庸が仁愛なら、仁愛的である事が中庸の程度といえるから、平常の人は仁愛的である事が最も望ましい。なぜなら性愛のみも博愛のみも、自然界の悲劇、天上界の喜劇の性質として、それぞれ或る極論だからだ。
2016年10月20日
2016年10月19日
極東史
極東の概略史
1.30000年以上前から、日本列島に最初に暮らしていたのは純日本人であるアイヌ・沖縄・縄文人(Y染色体ハプログループD)であり、70000年前頃に他集団から分化している。
2.約8000年前頃に、朝鮮半島にもこの縄文人系統の民族が暮らしていた。
3.約7000年前頃に、鬼界カルデラの火山噴火で、西日本側の縄文人はほぼ絶滅した。
4.約2800年前頃から、中国の江南地方あたりから、天皇の先祖を含むであろう弥生人(Y染色体ハプログループO1b2)達がほぼ無人だった西日本に、朝鮮半島を経由しながら移民してきた。
5.約1300年前頃までに、朝鮮半島に弥生人達は定住しており、内紛によって新羅のみが残り、その他の百済・任那・高麗の弥生人達は西日本側に亡命してきて、一部が関西地方の奈良で天皇と共にヤマト王朝と名乗った。
6.約150年前頃までに、弥生人の末裔としての天皇は、縄文人の末裔と考えられる徳川がそれまでに統一していた日本の全領土を奪い、アイヌの暮らす北海道や沖縄の領土までを手にした。
7.約70年前頃、天皇ら弥生人の末裔は朝鮮半島に再び侵入し、中国の江南地方あたりを含めかつて暮らしていた界隈に領土を拡張したが、アメリカによって阻止され、再び日本列島のみに領土が限定された。
天皇と日本人について
天皇や弥生人は、遺伝的共通性のあるY染色体O1b2の広まり方からみて、中国江南地方界隈に北アジアから降りてきたある集団が、狭い海峡だった朝鮮半島を主に経由して西日本に入ってきたものであって、仮に直接船で中国江南地方から西日本に入ってきたとしても、その集団は朝鮮半島に現在いる集団との遺伝的距離はほぼ近接している。この際の水稲の技術の伝播については、彼らに付属しているものだといえる。いいかえれば、中国江南界隈から朝鮮半島に留まった人々と、そこを経由するかまたは直接西日本に入ってきた北アジア人の集団が2800年前までにあったということだろう。この人たちの末裔から、天皇が奈良で王朝を作ることになった。それが1300年前頃のヤマト王朝と呼ばれているもの。この王朝はご存知のように、全国各地の縄文人、九州の弥生人などを未開人もしくは異民族とみなし、先住民族の権利を弾圧し、その歴史文化を証拠湮滅しながら徴税を義務づけていった。そして今の天皇家に至る。
アイヌや、沖縄人、縄文人といった最低でも30000年以上の歴史がある純日本人に比べ、天皇は実質1300年の歴史しかない、新参者の転入生である。そういう意味で皇族も旧華族も新参者の弥生人文化。所詮2800年前頃に中国から朝鮮半島経由で入ってきた侵略者だから、底が浅い。
神道とは、中国江南から朝鮮経由で2800年前までに移民してきた弥生人である天皇が日本古来の土着信仰である自然崇拝を大陸風の多神教で覆い隠した洗脳。時期的には1300年前(700年代)頃から始まった奈良地方発の新興宗教。目的は純日本人に天皇の先祖と天皇を崇拝させる事。天皇は中国江南から朝鮮経由で入ってきた北アジア人として、南アジア人の暮らす純日本人空間に入ってきて、日本人を奴隷化する際、その純日本人たちが信仰していた自然を偶像化した。このやり方は、中国や大陸側で普通だった多神教の手段をとったもので、それが~ミコトだのといった人間の姿をとった人格神の概念だった。そして天皇は奈良から洗脳部隊を派遣して、日本各地の民間信仰を偶像化で天皇の祖先だと誤認させる宗教改造をはじめた。その拠点が神社。大体1300年前からはじまったこの新興宗教は、今日、神道といわれている。
2800年前~1300年前(前784~716年)頃に帰化した天皇の男系遺伝子、天皇家は神武天皇の即位年である前660年から始まったと神道側はしている。なお天皇とは、中国神話における三皇の一であり、中国神話の物真似、模倣そのものであって、全く独創ではないどころか、中国思想そのものに過ぎず日本のものではない。その名義は中国から侵略してきた非日本人としての天皇家を物語る。
2016年10月18日
生物学、ミーム学
2016年10月16日
野蛮国
2016年10月15日
2016年10月14日
利己と家庭
優れて善良な資質をもつ人々は、衆愚からも寡頭者からも世襲君主(天皇家)からも離れているだろうから、そもそもが資本主義者ではありえない。善意をもつ人々のみ、よりよくなっていく明るい社会に生き残る価値があるのだ。
秋の庭
君ははじめから美しく
君がもしどうなってもやはり
私が求める唯一の人だろう
君は貞淑で善良な性質だ
私は君より貴い人をしらない
世界は私を洗い流し
のこるものは祈りだけとして
一つだけ思い出してほしい
君はいつまでも美しく
君がもし全てを忘れていても
私の愛する唯一の人だろう
秋が近づいて庭に咲く花の香は
あますことなく私を襲う
おもい
どこにもいない
ありうるものもなく
さがしていたひと
どこにもいない
あのとき
きみはとわに
このてをのがれた
さがしていたひとは
このまちにいない
ふりそそぐほしぞらにまぎれ
くだけちるかいがらにまぎれ
どこにもない
このおもいをのぞいては
対話
沈黙のひととき
コーヒーを淹れて
君は正義派ぶる
死んでしまった男
救われない地上で
母親の慟哭がウェブに響く
誰もを殺戮し尽くし
君は功利派ぶる
ありうる夢と希望を壊され
死をえらんだ若者よ
救われない社会で
死をえらんだ男よ
俺は必ずかたきを討つだろう
2016年10月13日
性愛について
2016年10月12日
2016年10月10日
清貧の幸
清貧の幸と、下賎な成金の快楽とを比べると、前者の方が尊い。清貧の幸は下賎な富に勝る。後者は不道徳の故に将来の破滅を意味し、前者は救済を意味するからだ。
2016年10月6日
2016年10月5日
2016年10月3日
幸福論
物質的充足は限りなく、肉体の満足度は一定程度からあまり向上しない。生活の満足度について物質的充足、代価としての金銭的な補償は最低限度基準をつくるにすぎない。いわば満ち足りた物質の中でも幸福でない事がある。
幸福は道徳に由来し、道徳からもたらされる。幸福は利他性であり、他者からの好意、愛、或いは敬意の集積である。ひとからうらまれ、憎まれている人々は、幸福になる条件を失っている。彼らの不道徳性こそが彼らの不幸の原因だ。尤も、幸福を得るには心術や考え方を代えるだけでは十分でない。他者に与えた影響下において、人は良心の満足を得る。最高幸福は全て、良心の満足の度合いとしてはかられるだろう。しかもこの満足は生前にはかられるものだから、道徳性を極めた程度としてのみ自覚できる。このため道徳性と最高の幸福さは同値である。人生の目的とされるだろう人間の幸福、しあわせは、所詮かれらの道徳性の追求過程であり、そして普遍的にか個別的にか現された彼らの状態が、客観的には人格と見なされるのだ。つまり人の目的の形は人格、性格、人徳という人の表現的傾向であり、いわゆる最も良識的な個性であろう。