博愛は諦めに似ているか、少なくとも諦めとの類比である。慈悲、慈善、慈愛等のアガペー類は、どれも諦念の部分集合である。闇雲な自己肯定は諦念の中にみられる幼稚な自己愛にすぎず、現実の人は許されたりもしていないし他の全てのものと等価値でもない。つまり博愛は幻想だ。極論によって人を慰めようとした人々が聖人、仏、僧侶、神の子、預言者等としてありがたがられた時代があったにせよ、そして実際に絶望をいだいた人々の信仰として全てが等しいという汎神論的極論に有効性があるにせよ、価値という体系から逃れられたわけではない。
価値をうみだしているものは希少性、有用性、そして快楽性をもたらす性愛であり、これらエロス類に取り憑かれた人が諦めの中にある人々を蹂躙していく。勿論それは野蛮なので、眉を顰められながら。
博愛的、慈善的な人々が聖人君子として仰がれ、仁徳ある高い人格とみなされるのは、まことに不思議な事だ。彼らは諦念という虚無主義によって現世代及び前世代、次世代の価値等級とそこからくる社会闘争から逃避しているにすぎないのだから。博愛は慰め、というのが正しい表現だ。アガペーは現実の全てではない。だが人は慰めなしに生きてはいけないし、いかなるエロス、美、完全性に近しいとその時点でみなされるだろう特徴の持ち主でもますます悲劇的な宿命にまきこまれるものでもある。つまり性愛における競争は悲劇をもたらし、博愛における慰めはそれを喜劇に仕立て直す視座をもってくる。性愛が自然界における悲劇の原理である事は、モンドリアンがとうに看破していた。他方、イエスやブッダといったアガペーを説く人々はこの原理を批判し、最も劣った人、最も恵まれない人の為に慰めの理論を作り上げた。ニーチェは聖人格への反動に過ぎず、悲劇の原理自体をのりこえられなかった。
資本主義秩序の社会ダーウィニズム的側面、優勝劣敗の合理化はますます原理としての悲劇をもたらすだけである。性愛や優越は多数派からのねたみ、うらみ、そねみ、ルサンチマンの原因となり、結局その価値ある人をこそ犠牲にする目的に完結する。人間的な優秀さは、実践的には中庸の程度として求まる。博愛という考えは、自然界に対する天上界、或いは宇宙界における、喜劇の原理の提出だった。そして博愛的である事は、必ずしも人格の目的ではない。性愛と博愛の中庸が仁愛なら、仁愛的である事が中庸の程度といえるから、平常の人は仁愛的である事が最も望ましい。なぜなら性愛のみも博愛のみも、自然界の悲劇、天上界の喜劇の性質として、それぞれ或る極論だからだ。