2016年11月15日

手記

 我々は生きる為に思索するのであって、死ぬためにするのでない。生存中の利益がえられなければ、思考は無意味。生存中にえようとするものが本体。では何を? 生存利益とは何か。
 生存価値とは何か。生きている価値とは何か。死ぬまでの間、我々は何を追い求めているのか。金? 命が得る快楽とは何か。
 誰かの為に時を費やす意味は? 金にならない生命とは何か。同時代の他人から求められている人は、彼らに何らかの快楽を提供する。快楽を与えられる人は金を得る。与えられない人は死ぬ。同時代人の欲望に合わせた人は金を得る。未来人にあわせた人は、死ぬ。同時代人とは尊いものか。なぜ同時代に適応しなければならないか。
 絵は写真ではない。写真的な絵は失敗した絵。
 絵の写真的側面は、勿論意味がない。絵の写真的面は単なる露悪趣味。リヒターの試行錯誤は、何を示しているのか。芸術、技とは何を達成しようとしたのか。写実性? それによって記録した物は、誰かの主観を映す。映された主観、勿論それが伝達以外の何かを示すでもない。伝達する人の主体性が映されたもの、人は人をしる事しかない。
 人の目的は何か。なぜ人は仕事をするのか。学問の意義とは何か。
 死の前で意義をもつものは何か? 永遠に残る生命があるか? 絵の本体は思想であり、偶像崇拝を禁じた宗派も究極のところ思想を、想いを伝えるものにすぎない。ではこの想いとは何か。哲学する事の意味、そもそも人は利他的な集合意識をうみだす。ではこの集合とは何か、ある仲間が目的としているものは何か。
 絵の写実面はどこまでも現実の現象的側面を映す。写実性の目的は記録だ。主観を写す為に、この写実性は意味をなさない。写実性が可能なのは表現ではなく記録、ちょうど文芸で人がrealismでそうする様に。
 楽しいと思う事は何をめざしているのか。楽しさとは感覚の活動である。
 面白い文章、面白い絵画。美しい女性、勿論これらは性や好適さの別形態に過ぎず、この快適さは合目的性の形だ。リアリズムの目的が合目的性の表現にすぎないのなら、人類は何を作っているのだろう。よい環境、よい健康、よい生命、よさ。道徳性と善さは一致し、美と生命の目的性は一致する。環境も。人類の環境としての建築都市、目的としての美も、自然のそれと一致する。
 我々は許されようとして描くのである。我々の目的とする絵も、描かれている形象の向こうに救済を求めて色彩を与えられた。見返りのない試行錯誤、挑戦、しかしどれも唯の悪あがきの様、色彩を作るにすぎない。
 人間は何に価値を与えているのだろう? どれほど努力しても、何の価値も作り出せない。世俗的価値は私の手から離れて作られる。聖なる価値を私が作り出したとしても、人々はそれを認めない。
 私はどれほど困窮しても、何一つ得ようとはしない。私達にできる事の全ては、価値から離れている。芸術というもの全般は、価値の外にある。どこかの人が高いカネを払って特定の芸術を購買した所で結果は同じ。技は価値をもたない。技は無償で、単なる技だ。換金された技は既にそれ自体ではない。
 学問によって救済される魂。記録。美しいといわれる対象は、何らかの意味をもつ情報の束だ。行動の記録。情報価値をもつ体系。自分の情報を写す。自分の思考原理、思考、つまり言葉の順列によって把握された何らかの概念を写す行為。なぜ? 何の為に写すのか。挑戦者の仕事。学問の定義とは何だろう。人が学ぼうとする、他人から。他人の知恵を借りる事。目的として、借りる。