皐月雨
さみだれよ
町の庭
月の音
海還す
躑躅咲く
川生まる
水貯まり
山静か
一人泣く
朝来たる
車行く
鳥元気
雀来ず
流れ来る
時過ぎし
回る月
廻る月
磯香れ
2009年5月30日
趣味主義の思想史的経路
知性的集団の勝利という現実は、個性の多様さが保障された群れの方が形質の均質なそれより勝負強い、という経済的分業の法則と根本で一致していると言えるだろう。もし個性を尊ぶ一群と、和を貴ぶかれらが勝負すれば、どちらも協力行動上では一定の規則を持つとすれば既に結果が出ている。単純な機械は複雑なそれよりもたくみであることは殆どない。キリスト教の抗議派倫理は、普遍派のそれに比べて個人主義を徹底させたところに勝因があった。信仰を信念と合わせた時に先ず功利主義が、次に実用主義がそれぞれ英米からあらわれた。
こういう道理で、もしも趣味主義に必然性があるならそれは個性を和よりも尊ぶ本音の領域へと、協力的ではないながらも求道的な生業を持つところに見出だされるだろう。趣味の領分ならば大勢の方針と和する必要はない。
こういう道理で、もしも趣味主義に必然性があるならそれは個性を和よりも尊ぶ本音の領域へと、協力的ではないながらも求道的な生業を持つところに見出だされるだろう。趣味の領分ならば大勢の方針と和する必要はない。
漢文学と倭文化
悉く書を信ずれば書なきに如かず、孟子。尚更、批判的に吟味するとか真理を目指して議論を重ねるといった習慣はごく最近まで目立たなかった。これは十七条の憲法時代に和の精神を優先し、民衆を馭しやすい農奴としてみち引いた一つの弊害でもあるらしい。
特に漢学を経路として自らの文学を発展させざるをえなかった倭文化では支配階級や公家が古く文物を独占していた、といった有職故実の政治学がほとんどの漢語文化圏で学問の王道とされる理由をも、また己の偏りとして身に着けるしかなかった。つまり「漢学」はものめずらしい外来文物としてのおもむきとは別に、実質上、支配者のみの文学だったのだ。
朝鮮民族では儒学が国教としてつよく寡占されていた。世宗大王がハングルを制作させたのは民間人を無文無学のままにしながら必要なコミュニケーションだけはさせるための手段であった。そこでは科挙の遣り手である文人君子を崇めるところはまるきり現代へ引き継がれ、文を信じる傾向はいまだ途轍もなく強い。朝鮮語学会が日本の植民統治時代でも最後まで抵抗を試みたのも文士を貴ぶところの漢学の余波なのである。
宗教原理主義という思想潮流はこういう文の魔力へ巧妙に付け入って勢力を広げだした支配者文学の魔法である。
単純に文を読むのを奨励すればいい、という質朴すぎる段階はとうに追い越して識字率になんの問題もない幾つかの近代文明圏では、こういう訳で、なにを読むか或いはどう批評できるか、といった評論の奨励の方が民度にずっと適っていると考えられる。一般に、自営農民や小売商人は勤勉を妨げるといった意味で考える事を良しとしない。考え過ぎだよ、とかつべこべ言わず働かんかいと彼らは述べてつくられたまことへも盲目に従う。ほとんど誰でも文章を書ける時代にあれば取るに足りず、まったく価値というもののない文もいくらなりとも氾濫してくる。はっきりとしていること、こういう時代に読書の奨励などはなんら不要。
なにもかもを頭から鵜呑みにしがちな発達段階の初期にある子供にとって有害としか言いようがない図書を支配者文学崇拝の余弊から推奨して誉めるなどという異様な現実、も未熟な文明社会の負のありさまだろう。文人無行、文人相軽んずという。すべて批評の精神が欠如した無議論社会の融和反応として、なんの尊重も要らない自称文化人の跋扈がもたらす弊害である。評論の重視は全くこの片寄った趨勢へ対して、絶え間なく考え方の冷静さを導くための趣味平衡の原理として、民衆の努力義務へあてがうべき今様の憲政か。くだらない大巻の書物よりは遥かに聞いて為になる一言の方がすぐれている。
特に漢学を経路として自らの文学を発展させざるをえなかった倭文化では支配階級や公家が古く文物を独占していた、といった有職故実の政治学がほとんどの漢語文化圏で学問の王道とされる理由をも、また己の偏りとして身に着けるしかなかった。つまり「漢学」はものめずらしい外来文物としてのおもむきとは別に、実質上、支配者のみの文学だったのだ。
朝鮮民族では儒学が国教としてつよく寡占されていた。世宗大王がハングルを制作させたのは民間人を無文無学のままにしながら必要なコミュニケーションだけはさせるための手段であった。そこでは科挙の遣り手である文人君子を崇めるところはまるきり現代へ引き継がれ、文を信じる傾向はいまだ途轍もなく強い。朝鮮語学会が日本の植民統治時代でも最後まで抵抗を試みたのも文士を貴ぶところの漢学の余波なのである。
宗教原理主義という思想潮流はこういう文の魔力へ巧妙に付け入って勢力を広げだした支配者文学の魔法である。
単純に文を読むのを奨励すればいい、という質朴すぎる段階はとうに追い越して識字率になんの問題もない幾つかの近代文明圏では、こういう訳で、なにを読むか或いはどう批評できるか、といった評論の奨励の方が民度にずっと適っていると考えられる。一般に、自営農民や小売商人は勤勉を妨げるといった意味で考える事を良しとしない。考え過ぎだよ、とかつべこべ言わず働かんかいと彼らは述べてつくられたまことへも盲目に従う。ほとんど誰でも文章を書ける時代にあれば取るに足りず、まったく価値というもののない文もいくらなりとも氾濫してくる。はっきりとしていること、こういう時代に読書の奨励などはなんら不要。
なにもかもを頭から鵜呑みにしがちな発達段階の初期にある子供にとって有害としか言いようがない図書を支配者文学崇拝の余弊から推奨して誉めるなどという異様な現実、も未熟な文明社会の負のありさまだろう。文人無行、文人相軽んずという。すべて批評の精神が欠如した無議論社会の融和反応として、なんの尊重も要らない自称文化人の跋扈がもたらす弊害である。評論の重視は全くこの片寄った趨勢へ対して、絶え間なく考え方の冷静さを導くための趣味平衡の原理として、民衆の努力義務へあてがうべき今様の憲政か。くだらない大巻の書物よりは遥かに聞いて為になる一言の方がすぐれている。
2009年5月28日
炭素循環の藝術的本質
低炭素社会なる意味不明の筋が通らないプロパガンダは罠でもあり、我々が彼らより相対的に高い科学民度を保っている限り本気にする必要はないだろう。
マスコミは売上を伸ばしたいが為に扇情の手段に墮し勝ちであったし、正反両面からの批評を載せて良識ある市民への参考に書すといった常識誌は総中流と呼ばれる文化幅の狭まった現況では生き残るのがよほど困難なので、おもとしては個人主体のインターネットだろうがやはりこの異常な喧伝術に向けては殆ど機会費用のかからないメディアを通じて政策通側からの啓蒙活動も折節必要となってくるだろう。
教養において中流以下の大衆がこの用語をまともに受けとって、たとえば我々の今の主要燃料源である石油の節制などを下手な市民運動じたてにでも仕出せば、これは世論の大勢について当然後退を余儀なくしよう。
低炭素社会など絶対にありえない。それは全生物が絶命すれば成功するとしても、むしろ重要なのは循環型社会のとりあえずの効用、つまり過剰温暖化への適切なブレーキ効果の方にあるので、その中途ではどれほど大量豊満な炭素転化がよのなかにあっても一向に困る生命体はない筈である。
もし二酸化炭素が酸素よりも化石エネルギーの燃焼で割合として高くなりすぎると批判したいなら、如何にして温室効果を打破できるか、と積極論から高技術文明を擁護できる。それは地球全域で見た呼吸商を適正な比率へ保ちながら皆が発展する、といった動植物共生の観点から植生の栄養源であるCO2をも巧く消費させるべきと、説得すればよいことに過ぎない。
マスコミは売上を伸ばしたいが為に扇情の手段に墮し勝ちであったし、正反両面からの批評を載せて良識ある市民への参考に書すといった常識誌は総中流と呼ばれる文化幅の狭まった現況では生き残るのがよほど困難なので、おもとしては個人主体のインターネットだろうがやはりこの異常な喧伝術に向けては殆ど機会費用のかからないメディアを通じて政策通側からの啓蒙活動も折節必要となってくるだろう。
教養において中流以下の大衆がこの用語をまともに受けとって、たとえば我々の今の主要燃料源である石油の節制などを下手な市民運動じたてにでも仕出せば、これは世論の大勢について当然後退を余儀なくしよう。
低炭素社会など絶対にありえない。それは全生物が絶命すれば成功するとしても、むしろ重要なのは循環型社会のとりあえずの効用、つまり過剰温暖化への適切なブレーキ効果の方にあるので、その中途ではどれほど大量豊満な炭素転化がよのなかにあっても一向に困る生命体はない筈である。
もし二酸化炭素が酸素よりも化石エネルギーの燃焼で割合として高くなりすぎると批判したいなら、如何にして温室効果を打破できるか、と積極論から高技術文明を擁護できる。それは地球全域で見た呼吸商を適正な比率へ保ちながら皆が発展する、といった動植物共生の観点から植生の栄養源であるCO2をも巧く消費させるべきと、説得すればよいことに過ぎない。
2009年5月23日
天皇制の水戸学からの擁護
実質的に、天皇の権威は飽くまでも報本反始の実践に基づく政の象徴に限られるべきで、彼の実在自体を決して神格化すべきではない。水戸学の実質的帰結は天地祖先の恩に報いるというまつりごとの根本が貫かれている限りで直系の皇孫を仰いでも何の異論もない、という大義名分にあるとする。その系統論の意義はやはり政治哲学の上にあるのであって、必ずしも或いは多くの場合は、古代からの自然崇拝をも引き継ぐ神道の思想を国教化させようとするものではない。
一神教の教義は偶像を厳禁か又は極力回避するので、生けとし人間としての天皇を直接崇拝せよ、と教えることはいわゆる偶像崇拝にあたる。神という全知全能の理念に比べれば如何なる被造物もはるかに卑小かつ無力なので、その結論は神を擬態した末孫が人間と堕する他ないだけに邪教信者ら最高の徳律も彼と同程度に限定させられざるをえない。皇族を宗教的に神格化して崇拝する、という連中は生き身を持たされた人間でしかありえない彼らと同程度の現世的道徳観しか身に着かない以上は常に、他の全知全能の神の理念へ信仰を捧げる集団よりは卑しく、悪辣な暮らし方の侭だろう。この様に唯一絶対神としての理念以外に向けた偶像崇拝が、天皇制を宗教化することのつねなる比較的な頽廃の理由なのだ。抑、神道の原理は自然崇拝にある。聖典から正統づけられた日本列島の創造主としての神やそれに類する集団の一末孫としての天皇という思想はその本質も大和王族の系統論にあるのであって、結局は偶像としての生き身ではなくて擬人化された造物神への忠孝という人間自身の祖先復礼を、祭りの上で古来からの自然畏怖と一致させる為だけに、神道は道徳的正当性を持っている。
連綿たる国民政権の代表としての天皇の権威は、それが全体意志の象徴である限りに於いて担がれるべき御輿の上の世襲権威であり、よって日本民族の先祖代々を祭るという根本原理の為にのみ彼をその活ける犠牲として仰ぐのは正当化されてよい伝統の手段なのである。こういう經緯のゆえに、天皇を行政的に排斥する、ということは倫理として言えばありえない。ただ必ず許されねばならないのは、政治以外の領域へと一歩なりとも天皇家の権威を濫用すべからず、という名分と実質のけじめである。学術や経済の領域へと天皇家の権威を悪用することは報本反始を行政上で象徴化するための大義名分の手段としてのみ許可されるべき世襲特権の越権であって、独裁者は絶対に悪さを免れないので腐敗した自民族中心主義としてのこの兆候を見出だし次第、国民は主権在民の元で堕落した皇統を即座に解体する義務を要するのである。そしてより緻密に考え詰めると、政治に於いて三権分立を鑑みれば天皇家が保障されるのは飽くまでも「行政」のみの上であって、立法や司法の上ではない。例えば万が一にも皇族の一種が民間へ犯罪行為に及んだとか、国民を害する不合理な立法へ働きかけたとあればこれは行政権威の行き過ぎであって、飽くまでも厳格に裁かれねばならない。
こうしてはっきりと示されるのは、象徴天皇制度は謂わば憲法の枷を行政権力の直接の長へ科する為の上位者通告制度である、ということだ。だから天皇へ直に行政の腕を振るわせる訳には歴史の恒を念えば行かないが、比べてこの直接の長がなんらかの巧妙な抜け道を通じて憲法の根本目的をすり抜けた合憲の悪行に及んだ場合、天皇は憲法最後の信託者としてそれを誡め、時に及んでは国事行為を己の義務感に基づいて拒否できねばならない。これは国民の総意に則る天皇の権威が行政府の最終的長であるという象徴制度の真実の定義であって、その世襲の擁護が国内での無償生存を保証する事と引き替えに大義名分に基づく最終的犠牲心の責務を負う事の帰結であると説明するものだ。生まれつき最高の行政権威を保障された者は彼を養う国民永年に渡る全労役の血潮の為に、即ち一切の衆目と全生命の国民依存という条件の為に絶対に彼ら国民の総意を裏切ることはできないから。
一神教の教義は偶像を厳禁か又は極力回避するので、生けとし人間としての天皇を直接崇拝せよ、と教えることはいわゆる偶像崇拝にあたる。神という全知全能の理念に比べれば如何なる被造物もはるかに卑小かつ無力なので、その結論は神を擬態した末孫が人間と堕する他ないだけに邪教信者ら最高の徳律も彼と同程度に限定させられざるをえない。皇族を宗教的に神格化して崇拝する、という連中は生き身を持たされた人間でしかありえない彼らと同程度の現世的道徳観しか身に着かない以上は常に、他の全知全能の神の理念へ信仰を捧げる集団よりは卑しく、悪辣な暮らし方の侭だろう。この様に唯一絶対神としての理念以外に向けた偶像崇拝が、天皇制を宗教化することのつねなる比較的な頽廃の理由なのだ。抑、神道の原理は自然崇拝にある。聖典から正統づけられた日本列島の創造主としての神やそれに類する集団の一末孫としての天皇という思想はその本質も大和王族の系統論にあるのであって、結局は偶像としての生き身ではなくて擬人化された造物神への忠孝という人間自身の祖先復礼を、祭りの上で古来からの自然畏怖と一致させる為だけに、神道は道徳的正当性を持っている。
連綿たる国民政権の代表としての天皇の権威は、それが全体意志の象徴である限りに於いて担がれるべき御輿の上の世襲権威であり、よって日本民族の先祖代々を祭るという根本原理の為にのみ彼をその活ける犠牲として仰ぐのは正当化されてよい伝統の手段なのである。こういう經緯のゆえに、天皇を行政的に排斥する、ということは倫理として言えばありえない。ただ必ず許されねばならないのは、政治以外の領域へと一歩なりとも天皇家の権威を濫用すべからず、という名分と実質のけじめである。学術や経済の領域へと天皇家の権威を悪用することは報本反始を行政上で象徴化するための大義名分の手段としてのみ許可されるべき世襲特権の越権であって、独裁者は絶対に悪さを免れないので腐敗した自民族中心主義としてのこの兆候を見出だし次第、国民は主権在民の元で堕落した皇統を即座に解体する義務を要するのである。そしてより緻密に考え詰めると、政治に於いて三権分立を鑑みれば天皇家が保障されるのは飽くまでも「行政」のみの上であって、立法や司法の上ではない。例えば万が一にも皇族の一種が民間へ犯罪行為に及んだとか、国民を害する不合理な立法へ働きかけたとあればこれは行政権威の行き過ぎであって、飽くまでも厳格に裁かれねばならない。
こうしてはっきりと示されるのは、象徴天皇制度は謂わば憲法の枷を行政権力の直接の長へ科する為の上位者通告制度である、ということだ。だから天皇へ直に行政の腕を振るわせる訳には歴史の恒を念えば行かないが、比べてこの直接の長がなんらかの巧妙な抜け道を通じて憲法の根本目的をすり抜けた合憲の悪行に及んだ場合、天皇は憲法最後の信託者としてそれを誡め、時に及んでは国事行為を己の義務感に基づいて拒否できねばならない。これは国民の総意に則る天皇の権威が行政府の最終的長であるという象徴制度の真実の定義であって、その世襲の擁護が国内での無償生存を保証する事と引き替えに大義名分に基づく最終的犠牲心の責務を負う事の帰結であると説明するものだ。生まれつき最高の行政権威を保障された者は彼を養う国民永年に渡る全労役の血潮の為に、即ち一切の衆目と全生命の国民依存という条件の為に絶対に彼ら国民の総意を裏切ることはできないから。
2009年5月20日
公共事業体の民営化上の経験談
JR東日本では、改札口の自動化を勘違いするあまり途中下車をできなくしてしまった。
その駅員は、機械と同じ口調で「昔はできたのだけれど今はできません」と繰り返して、当人の意思とは無関係に不当に得た差額を平気でポケットへ入れたのだった。
だが、よくプログラムされた機械よりも劣る人情の機敏すらない人間は労働力としても極めて悪辣なのだから、彼は彼の属する集団のシステムによっていずれ再構築されるだろう。
我々は資本主義の合理的な性格を人員整理を含むサービス競争についても当然期待していい。消費者の利益よりもそのための手段にすぎない機械的設計を優先するような不良な会社組織は、かならず他の優良な鉄道事業体によって最後には駆逐されるだろう。それは時間の問題でしかない。
“JR東日本の倒産”という今の時点では想像しづらいように思える将来でさえ、我々は組織風土の荒廃といった資本主義秩序の厳格な淘汰圧の許で十分に勘案できるのである。
事実上の独占市場はこれほどまで早期に腐敗しやすいものなのだ。ならば、当面の間では他の民間経営体には追い着けそうにないほど‘寡占状態にある公共事業’については、なんらかの投融資を優先して民間の競争力を底上げするなどしてやはりよっぽど慎重に民営化を図らねば、結局は国民自身が資本主義システムという両刃のやいばに傷つけられることとなるらしい。
のどかな農村地帯をぶらり旅で渡ることさえ「ムカシハデキタノダケドイマハデキマセン」という情緒のない無意味な勧告で不可能にさせるのは、観光利便を目的とした公共性の大変に高い鉄道事業をただの人畜運輸装置へはるかに低落させるものであり、Japanese Railwayという堂々たる名称の上である限り日本文化そのものの健全さ、また人間らしい余裕のある商道徳の養生の面からも憂慮すべき奉仕の公害で後退だ。
切符を鉄製のハサミで一つ一つ切ってくれていたころ、駅員さんは子供用の切符の赤い印を正確に打ち抜いて渡してくれた。その同じ人が機械よりも冷たく、人間らしい過ちを手銭欲しさに跳ね退けてなんの済まなさも覚えないということが鉄道会社の進歩であるとは誰にも思われまい。
その経営哲学の退歩は回り回って彼ら自身の首を絞める。我々はもう二度と発声する機械としての駅員を感情ある人間だとは考えないだろう。
その駅員は、機械と同じ口調で「昔はできたのだけれど今はできません」と繰り返して、当人の意思とは無関係に不当に得た差額を平気でポケットへ入れたのだった。
だが、よくプログラムされた機械よりも劣る人情の機敏すらない人間は労働力としても極めて悪辣なのだから、彼は彼の属する集団のシステムによっていずれ再構築されるだろう。
我々は資本主義の合理的な性格を人員整理を含むサービス競争についても当然期待していい。消費者の利益よりもそのための手段にすぎない機械的設計を優先するような不良な会社組織は、かならず他の優良な鉄道事業体によって最後には駆逐されるだろう。それは時間の問題でしかない。
“JR東日本の倒産”という今の時点では想像しづらいように思える将来でさえ、我々は組織風土の荒廃といった資本主義秩序の厳格な淘汰圧の許で十分に勘案できるのである。
事実上の独占市場はこれほどまで早期に腐敗しやすいものなのだ。ならば、当面の間では他の民間経営体には追い着けそうにないほど‘寡占状態にある公共事業’については、なんらかの投融資を優先して民間の競争力を底上げするなどしてやはりよっぽど慎重に民営化を図らねば、結局は国民自身が資本主義システムという両刃のやいばに傷つけられることとなるらしい。
のどかな農村地帯をぶらり旅で渡ることさえ「ムカシハデキタノダケドイマハデキマセン」という情緒のない無意味な勧告で不可能にさせるのは、観光利便を目的とした公共性の大変に高い鉄道事業をただの人畜運輸装置へはるかに低落させるものであり、Japanese Railwayという堂々たる名称の上である限り日本文化そのものの健全さ、また人間らしい余裕のある商道徳の養生の面からも憂慮すべき奉仕の公害で後退だ。
切符を鉄製のハサミで一つ一つ切ってくれていたころ、駅員さんは子供用の切符の赤い印を正確に打ち抜いて渡してくれた。その同じ人が機械よりも冷たく、人間らしい過ちを手銭欲しさに跳ね退けてなんの済まなさも覚えないということが鉄道会社の進歩であるとは誰にも思われまい。
その経営哲学の退歩は回り回って彼ら自身の首を絞める。我々はもう二度と発声する機械としての駅員を感情ある人間だとは考えないだろう。
2009年5月19日
あつまり
個性の桎梏へ向けて最大の憂さを晴らすという東洋的な反逆は、にも関わらず必ずしも合目的な形質ではない。結局は團性とでもいうべきもの、群性と個性の中庸にある様な適度な集団適応形質が最終的には優勢となる一族を形成する。形質を保存するのにあるまとまりを持った単位が保証されていなければならない、と生物から学ぶ者がかんがえたのにも一定の真理がある。余りに広いので遺伝子順列の煩雑な交代はある特有の配列を弾き出すのには十分な荒野ではなく、袋小路でなくとも最低、隠れがが用意されねばならない。その隠れがの大きさが適度なほど、選好のよい側面は集積され易くなる。
だから当面の戦闘によって被捕食者が増減させる数量よりは、進化自体の決定的な条件は隠れがの性質を問う事で測れる。隙間やnicheと云われているものの種類が本質であり、経済的浮沈は形質の特徴を選好するという進化の法則よりはずっと重要度の低い場の在り方である。
専ら進化それ自体が自然の命ずる生物本性の目的であると考える根拠は見つからない様に思う。もしそうならこれほどまでに多彩を極めた生物群集のだれかれがなぜ他の経済化された形態に侵略されていかないのか。あまりに軽視されてきたダーウィン思想の側面は、共生的秩序の部分にある。適者生存の強調は生物学上の分野を為すに過ぎず、おもうに環境抵抗による種内遷移を除けば如何なる生物群にとっても生態上での主眼ではないのである。東洋圏でよく信じられているところに、生物は無駄な殺生をしない。もしそうする特徴のある形質なら警戒を喚ぶか、自らへ恵まれる生々流転の内で余裕ある飼料の絶対量をおのずと減らすのは疑いない真実なので、淘汰されなければ最低でも希な適所を除けばこの寛大さの少ない恐れられる生物種は他の生物からの多くの場合は相互的に予想外の公益を受けづらくもなる。インドでヒンズー教徒が牝牛を貴ぶところは、蚊を通じたマラリアの感染から人への被害を相対的に避け易くするという生態的相互依存の関係が、共存共生の思想としてその習性の殆ど土着本能化の経過へ、見出だせるかもしれない。或いはイスラム教徒やユダヤ教徒が砂漠の中で廃物利用を兼ねていた豚を飼い馴らす事は水の希少なところの衛生的にずっと不利になる結果にも、逆内容ではあるが同等の住み分け関係史が、その不浄感の理由へ仮説からややも帰納できるか分からない。
いわば適者生存の規則は限定的真であって、この場合の適者はいつも場の性格へ依存している。弱肉強食の場も、共生共栄の場もある。
何が進化にとって有益なのかという観点のみが形質の特徴からさえも、無機環境の物理的遷移も生物の有機連鎖と無関係でないばかりか却って進んで隠れがの微積や集散の経過史を通じての系統分析、いいかえれば変化の規則を抽出させるのに選れて雄弁である。展開やevolutionは唯一の生物目標ではないのだ。それは種と場の変化を一定の着眼点に基づいて順序立てて紐解こうとしたときに導かれる人間理性にとっての道具的規則でしかなくて、自然の有している莫大な知性を網羅できるほど全能の概念ではない。何匹も産まれきては漁師に捌かれる蟹の子は、人々の舌やその美食眼を充たす目的を意図して磯や沢を戯れるのではないとしても、我々の注意深い観察力がその甲殻類に特異な形態や個別の種が夫々に微妙な生育条件の違いから形質の変異を伴うという事実を捉えるなら、どうして美味を好まない民族集団ではその一々の活きのよさを一目で見分けられるだろう。ズワイガニとタラバガニを異ならせている深因は又、観察力にも変異を設けた自然の互恵性に依る。要するに一般に信じられているより遥かに、自然の合目的性は変化に対して寛容なのである。この素晴らしい変化の法則がなければ、化学的組成であれ単純な幾つかの原理を基にした宇宙の隅々までを、更に相異ならせる多様化の仕組みは築けない。多様性に対する信頼は自由という理念の法則からさえ個別的な変異としての個性を保存か擁護させる人間なりの変化の法として盛んに取り立たされる近代固有の概念であるけれど、同時にその奥行きは汎神論というときどき宗教段階に現れる思想上の溜まりを唯一回性の概念との対比によって修正させるだけ果てしない。山奥で誰からも省みられることなく神々しい荘厳な落水を打ち続けている大きな大きな滝壺は、観察者の有無にも係わらずやはり極めて厳かな住みかとしてそこに生じている。人が住まずとも深い清流に潜むヤマメや岩蔭でじっと瀧の音を聴いて座すイワナが、草蕨の生え揃う霧たちこめた渓谷を飛び交うキジや吹き荒ぶ冷ややかな風に揺れ仕切る蓑虫がその冷気を供えていく。では、都市という固有の適所のみに住み着いている限り人が俗物さより峻厳さを身につけるのにはおそらく彼らよりも環境誘因に不足するであろう。人間的美はその世間単位の淘汰では決して、人間らしさの強調以外の変化を辿り得ないだろう。
同様に、團 りは新規な隠れがを見つけ出すのに必要最小の単位であって、このあつまりが群れや個 りよりも有利なのは日々生じている自然界の数限りない場所柄を変化を通じた習性と選好の世代間集積によって占め治すといった適応放散について、今までのどの血統よりも気高い生態を羽含む為の最適者の条件たることに等しいと思える。
だから当面の戦闘によって被捕食者が増減させる数量よりは、進化自体の決定的な条件は隠れがの性質を問う事で測れる。隙間やnicheと云われているものの種類が本質であり、経済的浮沈は形質の特徴を選好するという進化の法則よりはずっと重要度の低い場の在り方である。
専ら進化それ自体が自然の命ずる生物本性の目的であると考える根拠は見つからない様に思う。もしそうならこれほどまでに多彩を極めた生物群集のだれかれがなぜ他の経済化された形態に侵略されていかないのか。あまりに軽視されてきたダーウィン思想の側面は、共生的秩序の部分にある。適者生存の強調は生物学上の分野を為すに過ぎず、おもうに環境抵抗による種内遷移を除けば如何なる生物群にとっても生態上での主眼ではないのである。東洋圏でよく信じられているところに、生物は無駄な殺生をしない。もしそうする特徴のある形質なら警戒を喚ぶか、自らへ恵まれる生々流転の内で余裕ある飼料の絶対量をおのずと減らすのは疑いない真実なので、淘汰されなければ最低でも希な適所を除けばこの寛大さの少ない恐れられる生物種は他の生物からの多くの場合は相互的に予想外の公益を受けづらくもなる。インドでヒンズー教徒が牝牛を貴ぶところは、蚊を通じたマラリアの感染から人への被害を相対的に避け易くするという生態的相互依存の関係が、共存共生の思想としてその習性の殆ど土着本能化の経過へ、見出だせるかもしれない。或いはイスラム教徒やユダヤ教徒が砂漠の中で廃物利用を兼ねていた豚を飼い馴らす事は水の希少なところの衛生的にずっと不利になる結果にも、逆内容ではあるが同等の住み分け関係史が、その不浄感の理由へ仮説からややも帰納できるか分からない。
いわば適者生存の規則は限定的真であって、この場合の適者はいつも場の性格へ依存している。弱肉強食の場も、共生共栄の場もある。
何が進化にとって有益なのかという観点のみが形質の特徴からさえも、無機環境の物理的遷移も生物の有機連鎖と無関係でないばかりか却って進んで隠れがの微積や集散の経過史を通じての系統分析、いいかえれば変化の規則を抽出させるのに選れて雄弁である。展開やevolutionは唯一の生物目標ではないのだ。それは種と場の変化を一定の着眼点に基づいて順序立てて紐解こうとしたときに導かれる人間理性にとっての道具的規則でしかなくて、自然の有している莫大な知性を網羅できるほど全能の概念ではない。何匹も産まれきては漁師に捌かれる蟹の子は、人々の舌やその美食眼を充たす目的を意図して磯や沢を戯れるのではないとしても、我々の注意深い観察力がその甲殻類に特異な形態や個別の種が夫々に微妙な生育条件の違いから形質の変異を伴うという事実を捉えるなら、どうして美味を好まない民族集団ではその一々の活きのよさを一目で見分けられるだろう。ズワイガニとタラバガニを異ならせている深因は又、観察力にも変異を設けた自然の互恵性に依る。要するに一般に信じられているより遥かに、自然の合目的性は変化に対して寛容なのである。この素晴らしい変化の法則がなければ、化学的組成であれ単純な幾つかの原理を基にした宇宙の隅々までを、更に相異ならせる多様化の仕組みは築けない。多様性に対する信頼は自由という理念の法則からさえ個別的な変異としての個性を保存か擁護させる人間なりの変化の法として盛んに取り立たされる近代固有の概念であるけれど、同時にその奥行きは汎神論というときどき宗教段階に現れる思想上の溜まりを唯一回性の概念との対比によって修正させるだけ果てしない。山奥で誰からも省みられることなく神々しい荘厳な落水を打ち続けている大きな大きな滝壺は、観察者の有無にも係わらずやはり極めて厳かな住みかとしてそこに生じている。人が住まずとも深い清流に潜むヤマメや岩蔭でじっと瀧の音を聴いて座すイワナが、草蕨の生え揃う霧たちこめた渓谷を飛び交うキジや吹き荒ぶ冷ややかな風に揺れ仕切る蓑虫がその冷気を供えていく。では、都市という固有の適所のみに住み着いている限り人が俗物さより峻厳さを身につけるのにはおそらく彼らよりも環境誘因に不足するであろう。人間的美はその世間単位の淘汰では決して、人間らしさの強調以外の変化を辿り得ないだろう。
同様に、
因果応報の物哀しさ
世界は呆れる程広いので、優れた賢人を活かさずに劣悪な境遇に押し込めておき、代わりに醜悪窮まる娼婦を溢れる大金と共に厚遇している本性の歪んだ民族がどこかに居たとしても笑い事にすらなりえまい。
優れた判断で次々に賢者の血統を選良している紳士集団は当然、これらを同一の遺伝子を含む人類の末路とも感じない。
この様な奇形民族に属する場合、人は進んで殉死するか、又は亡命する以外では宿世の救済ということも決してありえないであろう。
辛抱強い説得と啓蒙が民族の本性をいつかは叩き直すと信じる者は自然淘汰の法則が如何に広域に渡って奇種変種を絶滅させて来たか、至誠なる神がごく僅かな隙間を除けば、なんら跡を残さないほどいかに厳密に遺伝的系統上でそれらの変形を切り捨て、全体の進化を整理整頓させて来たかを省みよ。
我々にとり確実な真実として、浅ましき東京および京都人種へは少なくとも「淘汰する」という積極的な社会還元が相応しいのである。これには倫理学上の根拠として、血統の剪定という名目が与えられるであろう。
――海外から渡航してきた正しい血筋の若き旅人へ聖書ならぬ“源氏物語”などという皇族猥談集を市長が臆面もなく勧む。トルコ風呂などと銘打った異様な頽廃の風俗を気違いじみた理性の変性にかえりみて護っておきたいが為にソープランド等と名を代えさせた中央政府ありし。
キリストが色目の在りかすら不徳とした真っ当な理由を永久に、この劣悪な奇形人種は理解も共感もできないに違いない。民族全体の実践的な理性状態を任じるべき政府の程度がそうなので、生れつき文明人と同等の理性という特徴を持つには不足する人種も、この地表にはやはり悲しくも存在しうるのではないかとまで思わせる。
それら野蛮品種の血統を繁殖禁止のため徐々に隔離する以外の方法では永遠に、生まれながら良心に劣った種集団の汚れた血が地球内、どこそこへ感染するのも避けられまい。まるで治癒不能な伝染病の様に。
――或いはこれが危険思想だ、狂信だ熱狂だ、ナチズムだと批判する者も(理性に悖る奇形人種の実質的集合である京都か東京の特定一族には)あろう。だが私としても容易に肯首し難い檄論なのだが、今日まで至る人類学上の冷徹な理性的反省力で今後の人類間風俗の改良をおもいみる限りでは、その様なほとんど『物哀しい結論』を引き出すしかなかったのである。
業というものは厳密に宿命を支配するのだから、我々には全滅待望の志だけでも十分すぎるほどと思われもしようが、寧ろそれらの穢多人種が一刻も早く地表から消滅する方が美観の面からも、倫理風紀の面からもやはりより望ましいものではある筈だから、東京および京都人種という野蛮な血統への具体的な聖戦は人道の正義にきっと叶うと思えるのだ。
いうまでもなく常識的法律や国連憲章の人権宣言はこの聖戦を「和平的な闘争」以外の領域では許可しない。
我々は性根の歪んだ野蛮人、東京人らと京都人らを最大の悪徳を地球中にばら撒く悪魔血族であると専ら任意に見なして、それら国民にとって獅子身中の虫なるものどもを可能な限り巧妙な殲滅戦争で文明の高徳と高潔を信じるこの惑星の人間界から退治、亡ぼさねばなるまい。
もし、それは徹底した人格批判によって東京人種と京都人種とを人類内の穢多品種として定義する工夫次第であろう。実際「小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と孔子が云う様に、悪行の憶えがある人間にとってはどれほどの被迫害でも絶対に反論する事ができない。その因果は自業自得なのである。(唯一の改心はこころの底から反省の意を述べて神の前で懺悔することで果たされる。)
そしてこの試みが人類内のどこでもあまねく成功すれば、社会淘汰の当然の流れに従って、罪悪感や羞恥心の存在しない退化した理性の持ち主である特有の東京・京都人種というものは各種の文化圏から駆除ないし排除される事で、漸次にそれらの汚れた繁殖流路を立ち消えさせる事も可能だろう。
――正統の世界宗教はどれも姦淫を生業とする悪人を一度も擁護していない。「なぜ日本の首都に限ってはいつも退廃風俗が蔓延するのであろうか」。ならば必ずその中心に鎮座しながら堕落の連綿をのみ絶好の適所として悠々と生き延びている悪魔の王もひとりでに地表から居場所をなくしてしまうだろう。
この最果ての地にさえも清教徒精神の尊さが根付くというならその結末は当然の応報として、民族の良心を税金搾取の為おおやけへかこつけた利己心から永年痛ましめてきた傀儡的偶像、悪魔の親玉を合法的かつ冷静に追放か改宗させる議決征圧的な名誉革命に至る筈である。
優れた判断で次々に賢者の血統を選良している紳士集団は当然、これらを同一の遺伝子を含む人類の末路とも感じない。
この様な奇形民族に属する場合、人は進んで殉死するか、又は亡命する以外では宿世の救済ということも決してありえないであろう。
辛抱強い説得と啓蒙が民族の本性をいつかは叩き直すと信じる者は自然淘汰の法則が如何に広域に渡って奇種変種を絶滅させて来たか、至誠なる神がごく僅かな隙間を除けば、なんら跡を残さないほどいかに厳密に遺伝的系統上でそれらの変形を切り捨て、全体の進化を整理整頓させて来たかを省みよ。
我々にとり確実な真実として、浅ましき東京および京都人種へは少なくとも「淘汰する」という積極的な社会還元が相応しいのである。これには倫理学上の根拠として、血統の剪定という名目が与えられるであろう。
――海外から渡航してきた正しい血筋の若き旅人へ聖書ならぬ“源氏物語”などという皇族猥談集を市長が臆面もなく勧む。トルコ風呂などと銘打った異様な頽廃の風俗を気違いじみた理性の変性にかえりみて護っておきたいが為にソープランド等と名を代えさせた中央政府ありし。
キリストが色目の在りかすら不徳とした真っ当な理由を永久に、この劣悪な奇形人種は理解も共感もできないに違いない。民族全体の実践的な理性状態を任じるべき政府の程度がそうなので、生れつき文明人と同等の理性という特徴を持つには不足する人種も、この地表にはやはり悲しくも存在しうるのではないかとまで思わせる。
それら野蛮品種の血統を繁殖禁止のため徐々に隔離する以外の方法では永遠に、生まれながら良心に劣った種集団の汚れた血が地球内、どこそこへ感染するのも避けられまい。まるで治癒不能な伝染病の様に。
――或いはこれが危険思想だ、狂信だ熱狂だ、ナチズムだと批判する者も(理性に悖る奇形人種の実質的集合である京都か東京の特定一族には)あろう。だが私としても容易に肯首し難い檄論なのだが、今日まで至る人類学上の冷徹な理性的反省力で今後の人類間風俗の改良をおもいみる限りでは、その様なほとんど『物哀しい結論』を引き出すしかなかったのである。
業というものは厳密に宿命を支配するのだから、我々には全滅待望の志だけでも十分すぎるほどと思われもしようが、寧ろそれらの穢多人種が一刻も早く地表から消滅する方が美観の面からも、倫理風紀の面からもやはりより望ましいものではある筈だから、東京および京都人種という野蛮な血統への具体的な聖戦は人道の正義にきっと叶うと思えるのだ。
いうまでもなく常識的法律や国連憲章の人権宣言はこの聖戦を「和平的な闘争」以外の領域では許可しない。
我々は性根の歪んだ野蛮人、東京人らと京都人らを最大の悪徳を地球中にばら撒く悪魔血族であると専ら任意に見なして、それら国民にとって獅子身中の虫なるものどもを可能な限り巧妙な殲滅戦争で文明の高徳と高潔を信じるこの惑星の人間界から退治、亡ぼさねばなるまい。
もし、それは徹底した人格批判によって東京人種と京都人種とを人類内の穢多品種として定義する工夫次第であろう。実際「小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と孔子が云う様に、悪行の憶えがある人間にとってはどれほどの被迫害でも絶対に反論する事ができない。その因果は自業自得なのである。(唯一の改心はこころの底から反省の意を述べて神の前で懺悔することで果たされる。)
そしてこの試みが人類内のどこでもあまねく成功すれば、社会淘汰の当然の流れに従って、罪悪感や羞恥心の存在しない退化した理性の持ち主である特有の東京・京都人種というものは各種の文化圏から駆除ないし排除される事で、漸次にそれらの汚れた繁殖流路を立ち消えさせる事も可能だろう。
――正統の世界宗教はどれも姦淫を生業とする悪人を一度も擁護していない。「なぜ日本の首都に限ってはいつも退廃風俗が蔓延するのであろうか」。ならば必ずその中心に鎮座しながら堕落の連綿をのみ絶好の適所として悠々と生き延びている悪魔の王もひとりでに地表から居場所をなくしてしまうだろう。
この最果ての地にさえも清教徒精神の尊さが根付くというならその結末は当然の応報として、民族の良心を税金搾取の為おおやけへかこつけた利己心から永年痛ましめてきた傀儡的偶像、悪魔の親玉を合法的かつ冷静に追放か改宗させる議決征圧的な名誉革命に至る筈である。
不健全サイトの是正啓蒙
猥褻漫画広告のケータイサイトとして有名な出会い系サイトの最大手であるmixiという会社は、行政指導が入り込まなければ決してみずからの‘猥褻物陳列罪’という法外悪行を改めようとしないほど経営陣の愚劣さ、下品さ、下等人格ぶりが際立つ新興ネット業者であって、この様な社会的責任感に薄い不良商社へ投資する愚株主の末路もおなじ倒産を迎えるに違いない。
見つからなければ悪が蓄積しないとでも考える経営者は外部不経済の意味から、教科書に復習するがいい。
猥褻漫画サイトへ健全な青年、青少年を誘導して稼ぎだした悪銭は絶対に身に着かないと断言できる。それは善良な市民への“たかり商法”を無料のサービスを装って繰り返した体質から、行政の目の届きにくいケータイサイトのみに猥褻物陳列罪の裏の手を限った悪徳からも、また当事者であるやくざ社長周縁の来るべき逮捕からも。
見つからなければ悪が蓄積しないとでも考える経営者は外部不経済の意味から、教科書に復習するがいい。
猥褻漫画サイトへ健全な青年、青少年を誘導して稼ぎだした悪銭は絶対に身に着かないと断言できる。それは善良な市民への“たかり商法”を無料のサービスを装って繰り返した体質から、行政の目の届きにくいケータイサイトのみに猥褻物陳列罪の裏の手を限った悪徳からも、また当事者であるやくざ社長周縁の来るべき逮捕からも。
2009年5月18日
社会学
抑、社会が持っている知識の総量が実質上はその民族集団の相対的秩序だとすれば、道徳もこの総量の一つだと考えるのが穏当だろう。文明、とはこの社会秩序の単位なのである。
文明度が比較相対比でしか量れない訳はその社会学概念の本質が常に偏差値に基づくからだと言える。文明の概念には市民化を意味するcivilizationの訳語としての発祥が込められている。ふみあきらか、という呼び声には知性の度合いがおもとして文の、literatureの修養に於いて測られてきた史脈がみいだせる。
市民開化の度合いをこの面から、社会集団の持っている知識の総量から計測するのはやはり妥当な分類法になると思える。偏差値である限りその上下動は自然だし、尚且つ当面の成果型が理解できる範囲では経済力の各種の指数よりも長期間に及ぶ社会変化の法則を見つけ出すのにこの指標は有効である。文明度を関数として定義すると、
Civilization Level=(Literacy class/Population)×50%
の数値間比較で与えられる。すなわち
CL=0.5L/P% の値が相対的に五十からどれほど推移しているかが実質的な文明度の値である。
流率で示すと、tを各系に共通の時間と置いて
ΔL/ΔP∫[0→t]d(0.5f)%=ΔCL
よって、このΔCLつまり文明流率が高ければ高い程、その社会集団は相対的に進歩している国民なのである。
かつ、更に詳細に計測する為に読書層を微分し、
ΔMathematical Literacy Class/ΔLiteracy Class Population∫[0→t]d(0.5f)%=Mathematical Literacy
は、数理読書流率を示す二重積分演算で計算できる。
∴ ΔML/ΔP∬[0→t]d(0.5f)%=MCL
の関数に於いてMathematical Class Literacyは、実質上の文民偏差値を示すものと言っていいだろう。
我々はこの数値を比較検討して、どの社会集団が将来的には進歩に秀でるかを予想できる。この変数は当面の産業情勢の移り変わりに左右されない分だけ、ある国民の中に潜在する国力の長期的指標として各種の経済偏差値より有効だと考えていいだろう。
文明度が比較相対比でしか量れない訳はその社会学概念の本質が常に偏差値に基づくからだと言える。文明の概念には市民化を意味するcivilizationの訳語としての発祥が込められている。ふみあきらか、という呼び声には知性の度合いがおもとして文の、literatureの修養に於いて測られてきた史脈がみいだせる。
市民開化の度合いをこの面から、社会集団の持っている知識の総量から計測するのはやはり妥当な分類法になると思える。偏差値である限りその上下動は自然だし、尚且つ当面の成果型が理解できる範囲では経済力の各種の指数よりも長期間に及ぶ社会変化の法則を見つけ出すのにこの指標は有効である。文明度を関数として定義すると、
Civilization Level=(Literacy class/Population)×50%
の数値間比較で与えられる。すなわち
CL=0.5L/P% の値が相対的に五十からどれほど推移しているかが実質的な文明度の値である。
流率で示すと、tを各系に共通の時間と置いて
ΔL/ΔP∫[0→t]d(0.5f)%=ΔCL
よって、このΔCLつまり文明流率が高ければ高い程、その社会集団は相対的に進歩している国民なのである。
かつ、更に詳細に計測する為に読書層を微分し、
ΔMathematical Literacy Class/ΔLiteracy Class Population∫[0→t]d(0.5f)%=Mathematical Literacy
は、数理読書流率を示す二重積分演算で計算できる。
∴ ΔML/ΔP∬[0→t]d(0.5f)%=MCL
の関数に於いてMathematical Class Literacyは、実質上の文民偏差値を示すものと言っていいだろう。
我々はこの数値を比較検討して、どの社会集団が将来的には進歩に秀でるかを予想できる。この変数は当面の産業情勢の移り変わりに左右されない分だけ、ある国民の中に潜在する国力の長期的指標として各種の経済偏差値より有効だと考えていいだろう。
2009年5月16日
2009年5月15日
信教権の自由化命題
希少でないもの、有り余るほど豊富なものはその場では貴ばれないので、どうして熱帯や亜熱帯に属する東アジア諸圏ではキリスト教の厳格な教義が根付きづらいのかという道理にもその面から幾つかの仮説が立てられる。
第一に彼らには道徳感に強固な偏見があって、それには既にキリストの説く徳目を超える部分すらあるので敢えてあらたな信教に頼る必要を覚えないという可能性。
第二には、極めて希少な形質がキリスト教の人格者像とは異なるという可能性である。
危険ある寄生虫への未然対策として熱帯圏では小数の高免疫力形質への集中投資が行われやすく、この点で厳格な一妻制を妥協点とする世俗的キリスト教信者がその場へ多数派の勢力を確保するのが難しいという意見には、医療の発展が免疫負荷軽減からやはりその必然性を次第に蓋然化するのを当然視させるものだと説得できることとなる。
だから、世界宗教としての権利を瞥見して徳律間の倫理性が比較的に劣る思想は他の一派が改良された習性をもちこむ限りで場を譲るのを義理とも義務とも任じざるを得ず、またつとめてそうすべきですらあるのだ。
その時点での政府が国教化の偏りをみせるのは長期の道徳観にたてばすべて、人倫弱体につながりその国勢をも衰亡させる深因となるだろう。さらに短期間で眺めても特有に凝り固まった宗派はほかの総合的な思想潮流に比べればつねに何らかの盲点を有する筈であるから、かれらの勢力は他国との習慣的善意に関する違和感を増幅させずに置かない。たとえば普遍的見地からすれば世界観の歪んでいた独裁者倭一族の長年のすみかであった京都の市民はジーザスが艶のある目を蔑む意識もその恥ずべき柔弱すぎる習慣上には理解できず、旅の若いキリスト教徒へ平気で姦淫罪の源氏物語とやらを奨めても文化のやむべからざる相違からくる悼ましき羞汚の念を恬として感じない。誠に憐れむべきことだ。斯くが如く二重の意味で国教には不純さがある。執着と偏りと。
日本にかぎれば争点は既得政権に深くかかわりあいをもつ新興宗派が現に存在するという事実、及び王権神授説を未だに信奉する土着の信教説が原理的に批判検討されていない事情へ専ら還元されるだろう。君臨すれども統治せず、と自ら獲得した清教徒以来の節度ある権威を誇る知的民族の長は、神とおのれを混同した幼稚な議論で国統自慢に終始する賎しい政治操業屋の自己充足感とは永久に同列に唱えられはすまい。政教癒着の内憂をなんらかの工夫で唾棄できれば、我々の国土は大方の迷信的錯誤から少なくとも文化上での欧米からの遅れという面では、いくらか回復もできることになるだろう。江戸時代の鎖国を最大の基点として一気に坂を転げ落ちたらしき、特有の思想を国家政府が恣意的に排除した傷痕はこれほどまでに長く、民族人倫の障害として残ってしまうものだ。そうはっきり過去のあやまちを反省できるなら、致命的戦敗の悲惨を幾度もくりかえすおろかしさだけは、文民について、暴力団と一体化してつるむ悪徳政治家の空威張りを意に介さぬ啓蒙の及ぶ範囲ではやがて回避できる筈と信念させる。
然るにもとより殉教の覚悟ある聖人君子はさておき、人々に亡命権がなければならないのは特に可塑的に完成された共和制とは言い兼ねる構造を残すいずれの政体でも、そこでの権力濫用が狂信から生じる余地をも意味するかぎり、どの文化圏においてですら希少な才能は保存すべきという不偏不党の人道の見地からして真ではある。そして信教の自由が徹底して遵守された国家へ宗教革命下の亡命者をその既往の利害を越えて受け入れるのは、教派闘争よりずっと博愛と慈悲の理想を尊ぶ一つの寛大な宿屋主の規範に違いない。自由の女神に刻まれた文言は決して特有の神へ限定さるべきでない、自由圏の人間宣言であると思える。
第一に彼らには道徳感に強固な偏見があって、それには既にキリストの説く徳目を超える部分すらあるので敢えてあらたな信教に頼る必要を覚えないという可能性。
第二には、極めて希少な形質がキリスト教の人格者像とは異なるという可能性である。
危険ある寄生虫への未然対策として熱帯圏では小数の高免疫力形質への集中投資が行われやすく、この点で厳格な一妻制を妥協点とする世俗的キリスト教信者がその場へ多数派の勢力を確保するのが難しいという意見には、医療の発展が免疫負荷軽減からやはりその必然性を次第に蓋然化するのを当然視させるものだと説得できることとなる。
だから、世界宗教としての権利を瞥見して徳律間の倫理性が比較的に劣る思想は他の一派が改良された習性をもちこむ限りで場を譲るのを義理とも義務とも任じざるを得ず、またつとめてそうすべきですらあるのだ。
その時点での政府が国教化の偏りをみせるのは長期の道徳観にたてばすべて、人倫弱体につながりその国勢をも衰亡させる深因となるだろう。さらに短期間で眺めても特有に凝り固まった宗派はほかの総合的な思想潮流に比べればつねに何らかの盲点を有する筈であるから、かれらの勢力は他国との習慣的善意に関する違和感を増幅させずに置かない。たとえば普遍的見地からすれば世界観の歪んでいた独裁者倭一族の長年のすみかであった京都の市民はジーザスが艶のある目を蔑む意識もその恥ずべき柔弱すぎる習慣上には理解できず、旅の若いキリスト教徒へ平気で姦淫罪の源氏物語とやらを奨めても文化のやむべからざる相違からくる悼ましき羞汚の念を恬として感じない。誠に憐れむべきことだ。斯くが如く二重の意味で国教には不純さがある。執着と偏りと。
日本にかぎれば争点は既得政権に深くかかわりあいをもつ新興宗派が現に存在するという事実、及び王権神授説を未だに信奉する土着の信教説が原理的に批判検討されていない事情へ専ら還元されるだろう。君臨すれども統治せず、と自ら獲得した清教徒以来の節度ある権威を誇る知的民族の長は、神とおのれを混同した幼稚な議論で国統自慢に終始する賎しい政治操業屋の自己充足感とは永久に同列に唱えられはすまい。政教癒着の内憂をなんらかの工夫で唾棄できれば、我々の国土は大方の迷信的錯誤から少なくとも文化上での欧米からの遅れという面では、いくらか回復もできることになるだろう。江戸時代の鎖国を最大の基点として一気に坂を転げ落ちたらしき、特有の思想を国家政府が恣意的に排除した傷痕はこれほどまでに長く、民族人倫の障害として残ってしまうものだ。そうはっきり過去のあやまちを反省できるなら、致命的戦敗の悲惨を幾度もくりかえすおろかしさだけは、文民について、暴力団と一体化してつるむ悪徳政治家の空威張りを意に介さぬ啓蒙の及ぶ範囲ではやがて回避できる筈と信念させる。
然るにもとより殉教の覚悟ある聖人君子はさておき、人々に亡命権がなければならないのは特に可塑的に完成された共和制とは言い兼ねる構造を残すいずれの政体でも、そこでの権力濫用が狂信から生じる余地をも意味するかぎり、どの文化圏においてですら希少な才能は保存すべきという不偏不党の人道の見地からして真ではある。そして信教の自由が徹底して遵守された国家へ宗教革命下の亡命者をその既往の利害を越えて受け入れるのは、教派闘争よりずっと博愛と慈悲の理想を尊ぶ一つの寛大な宿屋主の規範に違いない。自由の女神に刻まれた文言は決して特有の神へ限定さるべきでない、自由圏の人間宣言であると思える。
経済学
人類内ででさえ、ある地域はその気候から来たる特徴ある形質を過剰価値という暴落作用によって省略する傾向がある。殆ど自明の事柄として、差額は小売商が意を得る利益の法則であり目の付け所といえる。
こうして、国際貿易にとっては資本投機の最終目的が特産品を通じた円滑な価格平衡を達成すること、更にはその自己目的な作用から及ぼされる分業率の完成にある、と論を結んだとして新古典派経済学者もよすがなしに構うまい。より安いところに豊富にある資材を別の加工場へ移転する、というのが差額分を寡占する骨なのである。消費が又、自然全域にとっては一つの秩序形態の生産である事を鑑みるべきだろう。
だから、人類の誰かがある文化場で生産や生成される過剰価値の物事を、それを時空間的に異なった地域へ運輸させる間に生じる小売差額から邪魔にならない程の利潤を受け取ったとしても、なんらかの多数派のたくらみから敵意を抱いたり堰き止めたりしない方がずっと賢い。いわゆる道義感の観点、共感的優位を傍観者の立場からみて必須の行為是認条件と考えていたスミス的徳律は結果としては、最大多数への貿易をより有効に進めようとした場合に限っての、限定的真であると言える。この種の小売競争は至る所で示されざるをえない一つの経済的普遍場面であるが、その際に被供給者にとってより優先度の高いのは急速に価格平衡の原理にしたがって資材が現に多く易く手に入る事の方であり、決して彼ら商人の同業組合内での同士討ちや足の引っ張り合いで無駄な費用を損失させられることではないので、この点のみで和平的な競争者の側を、結果的には選好するに過ぎない。道義感は小売競走をしている側の得失点差に関わる有効さであり、必ずしも享受する被奉仕側の要求ではない。我々はスミスの古典派経済学の根本に対して主客の混同を指摘し、その理論的修正を要求できる。結局、同業組合を出し抜くまで狡猾な生業者は単に法的な制限を差延する先見の分だけ他の篤実な古典的経営より実用的に有利なのである。傍観者が明白な事業観察者と違うところは、彼ら商務同業組合が演ずる一挙手一投足が生産と消費者にとってすれば近所で通り掛かったサッカー場で縁もゆかりもない草プレイヤーが七転八倒しているのを面白おかしく見て自身にはなんの痛痒をも覚えないのに等しく、外部不経済のごときはた迷惑な乱闘騒ぎをその演ずるフィールド外へと持ち出さないかぎりでどんな商業上の荒業偉業が出たところで、公式法規と突き合わせて審査する政府や一喜一憂のスポンサーでもなければ関係がない。どうせ負ける正義感ぶったチームへ同情はしても共感しないことができるのだ、それは応援するか否かともかかわりないゲーム視の客体法則である。
この様にしてリカードの主張する国際分業仮説について、文化が気候や民度に関する特殊な資材生産能率を持つという文化間価格差額がその根本的なよりどころであったと知れる。実質上、生産や消費者には分業の微積分がもたらす情勢浮沈は関係がないのである。寧ろあらゆる観点からみて安価で容易に需要が満ちるのは経済体制上の望ましい変化でもある。そして特産品というものが流通業を盛んにするほどそれらを交換する双方の利益である事はやはり職人間の専門性が高まるほど効率化する製作合理化の要になにも変わりがない。貿易制限は最終的には完全に崩壊する好きずきな仮囲いに過ぎず、どの郷国でさえ人類間文明を理由とする上では絶えず迫り来る飢饉と気候変動の台風を前にそのお気に入りのやわな藁屋に居座って痩せ我慢し続けるのはいずれ不可能であると知れる。
こうして、国際貿易にとっては資本投機の最終目的が特産品を通じた円滑な価格平衡を達成すること、更にはその自己目的な作用から及ぼされる分業率の完成にある、と論を結んだとして新古典派経済学者もよすがなしに構うまい。より安いところに豊富にある資材を別の加工場へ移転する、というのが差額分を寡占する骨なのである。消費が又、自然全域にとっては一つの秩序形態の生産である事を鑑みるべきだろう。
だから、人類の誰かがある文化場で生産や生成される過剰価値の物事を、それを時空間的に異なった地域へ運輸させる間に生じる小売差額から邪魔にならない程の利潤を受け取ったとしても、なんらかの多数派のたくらみから敵意を抱いたり堰き止めたりしない方がずっと賢い。いわゆる道義感の観点、共感的優位を傍観者の立場からみて必須の行為是認条件と考えていたスミス的徳律は結果としては、最大多数への貿易をより有効に進めようとした場合に限っての、限定的真であると言える。この種の小売競争は至る所で示されざるをえない一つの経済的普遍場面であるが、その際に被供給者にとってより優先度の高いのは急速に価格平衡の原理にしたがって資材が現に多く易く手に入る事の方であり、決して彼ら商人の同業組合内での同士討ちや足の引っ張り合いで無駄な費用を損失させられることではないので、この点のみで和平的な競争者の側を、結果的には選好するに過ぎない。道義感は小売競走をしている側の得失点差に関わる有効さであり、必ずしも享受する被奉仕側の要求ではない。我々はスミスの古典派経済学の根本に対して主客の混同を指摘し、その理論的修正を要求できる。結局、同業組合を出し抜くまで狡猾な生業者は単に法的な制限を差延する先見の分だけ他の篤実な古典的経営より実用的に有利なのである。傍観者が明白な事業観察者と違うところは、彼ら商務同業組合が演ずる一挙手一投足が生産と消費者にとってすれば近所で通り掛かったサッカー場で縁もゆかりもない草プレイヤーが七転八倒しているのを面白おかしく見て自身にはなんの痛痒をも覚えないのに等しく、外部不経済のごときはた迷惑な乱闘騒ぎをその演ずるフィールド外へと持ち出さないかぎりでどんな商業上の荒業偉業が出たところで、公式法規と突き合わせて審査する政府や一喜一憂のスポンサーでもなければ関係がない。どうせ負ける正義感ぶったチームへ同情はしても共感しないことができるのだ、それは応援するか否かともかかわりないゲーム視の客体法則である。
この様にしてリカードの主張する国際分業仮説について、文化が気候や民度に関する特殊な資材生産能率を持つという文化間価格差額がその根本的なよりどころであったと知れる。実質上、生産や消費者には分業の微積分がもたらす情勢浮沈は関係がないのである。寧ろあらゆる観点からみて安価で容易に需要が満ちるのは経済体制上の望ましい変化でもある。そして特産品というものが流通業を盛んにするほどそれらを交換する双方の利益である事はやはり職人間の専門性が高まるほど効率化する製作合理化の要になにも変わりがない。貿易制限は最終的には完全に崩壊する好きずきな仮囲いに過ぎず、どの郷国でさえ人類間文明を理由とする上では絶えず迫り来る飢饉と気候変動の台風を前にそのお気に入りのやわな藁屋に居座って痩せ我慢し続けるのはいずれ不可能であると知れる。
2009年5月13日
科学の理解
自然界から数理的な比例を抽出し、且つその法則を社会学と矛盾しない様にまとめるという学問上の更新は、古代宗教が持っていた計画と根本的に異なる営みではおそらくない。法則知に対する信仰は近代文明という一つの宗教段階の、民族間思想基盤の特徴を為す。だがそれを終局の思想状態だと述べるのは根拠薄弱であると言わねばならない。近代化は文化であり、文明の完成そのものとも限らない。
この方針から客観すると、科学信仰もある倫理段階の経過であったと知れる。知識に向けての非常な期待感は明治以来の人が科学技術と呼ぶもの、いわゆる工学の発展が極めて急速であったという一種の歴史的真空での慣れに基づく偏見である。つねに、ガウダマの昔から「あるものは知れてもほかのものは知れない」のであるから、いいかえれば知識は相対的でありつづける星の下にあるので、知識信仰がすべてを隈なく解決し尽くすという結果は多分に漏れずないのだろう。科学は科学に止どまり、それはいくら合理化を推し進めてみても芸術は芸術であり続けるのに同じく、結局は科学知識が人類へもたらした恩恵とは理由ある比例を法則知として思想乃至文芸の手本に示したことであった。
聖書と呼ばれる詞書きが存在する。そして注釈が成立するのはそれを先代の模範として更に滋味深く要領よくまとめられた文章へと清書する事、つまり書き直すことがさらに選れた聖書を書き上げる場合に限ると云える。そうでない文書類は捨てられなければ整理整頓されて蠹た古書庫へ至る。
科学にとって本質的なのは、今までよりもすぐれて比例が尽くされた合理的建築型応用への転用なのではなくて、この聖書の注釈を根気よく続けるという文学的かつ思想的な意図の方だ、と考えることができる。転用は一過性かもしれないが注解のほうはとても長く世代間に伝承されるから。こういう広域に亙る歴史学上の思想史脈を夫々緻密になぞると、西洋地域で運よく発酵した科学という果実は、真にはキリスト教(ヘブライズム)、古代ギリシアの哲人思想(ヘレニズム)、そして古代エジプト文明周縁のユークリッドやピタゴラスから中世に至るアル・フワーリズミら中東思想家の流れを汲むような測量術的な数学を西洋化して昇華したものであったと確認できる。この成果はのちに地球中へ伝播され役立つことになる、主としてガリレイ、デカルト、ニュートンらを起爆とした一つの文化的酵母であった。だがその果実が上述の理論支流を利用して、さらに古代ユダヤ思想の批判というジーザス的個性の思想の鋳型を換骨奪胎示されたという部分に、西洋風の根本原則と理論上の欠陥も内在されている。知恵の実の摂取に対する原罪観念の抑制を、西洋文化圏の学者たちは栄養の原材料としてそれら科学的な急進をやってのけた。
しかしながら、もし神の国がありうるのならなぜ我々は選民を自称する者をも引き入れてはならないというのだろうか。移民の商圏に向けての潜在的脅威観からのキリスト教の博愛の強調とその理論化の徹底を事とする道義心の底には、一抹の邪心が忍び込んでいる。要するにユダヤ教の教義は決して無力化されるべきではない、人類間に於ける文化史上での記念すべき路程標である。汝の敵を愛せと述べる者は、たとえ裏切り者へでさえも慈悲の面目を改めなかったと見るべきだろう。ここから、科学的探検にかかわらず道徳哲学の上では、我々は決してユダヤ教の信仰を単に押し潰したり断章取義の上、抹消しようとしてはならない。どの弁証法上に於いてさえ、以前の未だ不十分だった理性の見解は否定媒介としてであれどもそれ相応の存在意義を有している。たとえば世界の果てにある孤絶された島国に土着した一族の王がもし彼らの自然崇拝の帰結から万が一にもその神格を擬装する偶像性によってすでに大きく啓蒙された海外国民の誹謗の的になった暁にさえ、なんらかの熱狂に駈られた革命の事情から裸で鞭打たれる彼を磔刑へ処した裁判官や周囲の人間の煽情行為はやはり、土着の民にとっての主人公を否定するという比較的な悪業の先例によって、かれらの野蛮さなりの人格度を汚名で塗り固めたという自然本来の制裁意図を十分満たしているに違いない。勿論最低の判定から鑑みて凡その民族で非難の的だった偶像崇拝の民俗因習化の結末は、それ相応の因果関係によって、神理念そのものへの純粋無垢な信仰を維持発展なしえた高等民族に較べれば当然ながら、彼ら土着民の道徳的な劣位程度にありうべき不遇を用意して待っている筈ではあるとしてもだ。
同様に、科学の否定は将来、場合によっては十二分にありうる、又はなければならない思想及び文学上の転回となるであろう。その後におよんで原罪観念を引き合いに出し、知恵の実を食さざる以前の理想郷へ回帰する信念を主張する一派が機に乗じて勢力拡大の目論見に出たとしてもなんらかかわりなく、世の中に自由権の擁護を高貴な者の義務感から責任する賢明な人が最も多い知識階級の統治権が立派に確立している文明圏に於いてのみ、脱科学的思想への進歩は見られることになるだろう。煩雑で入り組んだ科学史を考究するのに十分な意欲のあって、しかも既存の思想潮流へ特別な考慮を払う必要をば極力少ない有閑層的な社会集団にとってのみ、その先見の明は不安定な政治的事情からも独立した私権を保ち得るであろう。且つ予想されるだけでも、この科学史家を兼ねた学究の士についてしか、当面の重要度に大幅な相違がある移り気な発明発見の連続した投機市場じみた思想変容情勢から、冷静で批判的でありつづける距離感を保った位置取りを期待も希望もできないだろう。実際、ノーベル賞などという地方商事による私家版の罪滅ぼし的な栄典授与が最高の達成なり誉れなりと俗に囁かれる学問情勢はまったく常軌を逸した、比類なき真理探求精神にとっての低俗化、子供染みた陳腐なお遊戯化と述べられねばならない。仮に科学史の立場から指導権をおのずと任じるべき英国立科学協会の最高権威でさえ通俗書の書き手と同列に並ぶに羞恥や自尊の心を失くしたのだとすればその有様たるや、人気や売上以外で信頼に足る導きの糸は権威ある本来有り難い号や肩書よりもずっと、科学知識売買の非道で長期化した氾濫戦場からどれだけ批判的な優越感を痩せ我慢式に保っていられるかという逆理的な認識領域へ集中せざるを得ない程だ。
現代人が批判的な言論をなんとなく説教臭くて真面目なこころみをがっかりさせるものとして嫌悪し、安価かつ案外で簡単に答えを与えてくれそうな口先のうまい通俗書へ頼る傾向は余りに過度であって、いうまでもなく批判それ自体は矢面に立つ演技派そのひとにとってすれば一般に不快でしかも耳に逆らう苦い薬ではあるけれども、確かに、過剰情報社会という未経験の事態にとって未然に対策できる自己免疫あるいは言論検疫の機能としてこれより有効な既存の製薬はどこにも見いだせない。真理と呼ぶに値するほど確実な知識は的外れな批判を寄せ付けないという汎用的な能動性を、すなわち実験によってくりかえし検証できる実証性を持つものであるのだから、我々は宗教と今は名のつく生まれ育ちのよい真理を意味もなく非難して科学と呼ばれる仮装の擬態をけばけばしい化粧にも関わらず世界最高の自然な整形なのであると見なす近代的偏見だけは戒めねばなるまい。イスラム教圏で女性へのベールを義務づけている事を浅薄な興味で迫害する者は、己が如何に科学的真実をのみ凝視し道徳感を置き去りにしていたかを、その明晰な知見に基づき不幸で不穏な家庭生活という人間生活にとっての最も根源に近い足元から崩壊するバベルの塔へも科学の狂信という思想上の壊乱騒ぎの兆候から、必然に演繹できることだろう。
この方針から客観すると、科学信仰もある倫理段階の経過であったと知れる。知識に向けての非常な期待感は明治以来の人が科学技術と呼ぶもの、いわゆる工学の発展が極めて急速であったという一種の歴史的真空での慣れに基づく偏見である。つねに、ガウダマの昔から「あるものは知れてもほかのものは知れない」のであるから、いいかえれば知識は相対的でありつづける星の下にあるので、知識信仰がすべてを隈なく解決し尽くすという結果は多分に漏れずないのだろう。科学は科学に止どまり、それはいくら合理化を推し進めてみても芸術は芸術であり続けるのに同じく、結局は科学知識が人類へもたらした恩恵とは理由ある比例を法則知として思想乃至文芸の手本に示したことであった。
聖書と呼ばれる詞書きが存在する。そして注釈が成立するのはそれを先代の模範として更に滋味深く要領よくまとめられた文章へと清書する事、つまり書き直すことがさらに選れた聖書を書き上げる場合に限ると云える。そうでない文書類は捨てられなければ整理整頓されて蠹た古書庫へ至る。
科学にとって本質的なのは、今までよりもすぐれて比例が尽くされた合理的建築型応用への転用なのではなくて、この聖書の注釈を根気よく続けるという文学的かつ思想的な意図の方だ、と考えることができる。転用は一過性かもしれないが注解のほうはとても長く世代間に伝承されるから。こういう広域に亙る歴史学上の思想史脈を夫々緻密になぞると、西洋地域で運よく発酵した科学という果実は、真にはキリスト教(ヘブライズム)、古代ギリシアの哲人思想(ヘレニズム)、そして古代エジプト文明周縁のユークリッドやピタゴラスから中世に至るアル・フワーリズミら中東思想家の流れを汲むような測量術的な数学を西洋化して昇華したものであったと確認できる。この成果はのちに地球中へ伝播され役立つことになる、主としてガリレイ、デカルト、ニュートンらを起爆とした一つの文化的酵母であった。だがその果実が上述の理論支流を利用して、さらに古代ユダヤ思想の批判というジーザス的個性の思想の鋳型を換骨奪胎示されたという部分に、西洋風の根本原則と理論上の欠陥も内在されている。知恵の実の摂取に対する原罪観念の抑制を、西洋文化圏の学者たちは栄養の原材料としてそれら科学的な急進をやってのけた。
しかしながら、もし神の国がありうるのならなぜ我々は選民を自称する者をも引き入れてはならないというのだろうか。移民の商圏に向けての潜在的脅威観からのキリスト教の博愛の強調とその理論化の徹底を事とする道義心の底には、一抹の邪心が忍び込んでいる。要するにユダヤ教の教義は決して無力化されるべきではない、人類間に於ける文化史上での記念すべき路程標である。汝の敵を愛せと述べる者は、たとえ裏切り者へでさえも慈悲の面目を改めなかったと見るべきだろう。ここから、科学的探検にかかわらず道徳哲学の上では、我々は決してユダヤ教の信仰を単に押し潰したり断章取義の上、抹消しようとしてはならない。どの弁証法上に於いてさえ、以前の未だ不十分だった理性の見解は否定媒介としてであれどもそれ相応の存在意義を有している。たとえば世界の果てにある孤絶された島国に土着した一族の王がもし彼らの自然崇拝の帰結から万が一にもその神格を擬装する偶像性によってすでに大きく啓蒙された海外国民の誹謗の的になった暁にさえ、なんらかの熱狂に駈られた革命の事情から裸で鞭打たれる彼を磔刑へ処した裁判官や周囲の人間の煽情行為はやはり、土着の民にとっての主人公を否定するという比較的な悪業の先例によって、かれらの野蛮さなりの人格度を汚名で塗り固めたという自然本来の制裁意図を十分満たしているに違いない。勿論最低の判定から鑑みて凡その民族で非難の的だった偶像崇拝の民俗因習化の結末は、それ相応の因果関係によって、神理念そのものへの純粋無垢な信仰を維持発展なしえた高等民族に較べれば当然ながら、彼ら土着民の道徳的な劣位程度にありうべき不遇を用意して待っている筈ではあるとしてもだ。
同様に、科学の否定は将来、場合によっては十二分にありうる、又はなければならない思想及び文学上の転回となるであろう。その後におよんで原罪観念を引き合いに出し、知恵の実を食さざる以前の理想郷へ回帰する信念を主張する一派が機に乗じて勢力拡大の目論見に出たとしてもなんらかかわりなく、世の中に自由権の擁護を高貴な者の義務感から責任する賢明な人が最も多い知識階級の統治権が立派に確立している文明圏に於いてのみ、脱科学的思想への進歩は見られることになるだろう。煩雑で入り組んだ科学史を考究するのに十分な意欲のあって、しかも既存の思想潮流へ特別な考慮を払う必要をば極力少ない有閑層的な社会集団にとってのみ、その先見の明は不安定な政治的事情からも独立した私権を保ち得るであろう。且つ予想されるだけでも、この科学史家を兼ねた学究の士についてしか、当面の重要度に大幅な相違がある移り気な発明発見の連続した投機市場じみた思想変容情勢から、冷静で批判的でありつづける距離感を保った位置取りを期待も希望もできないだろう。実際、ノーベル賞などという地方商事による私家版の罪滅ぼし的な栄典授与が最高の達成なり誉れなりと俗に囁かれる学問情勢はまったく常軌を逸した、比類なき真理探求精神にとっての低俗化、子供染みた陳腐なお遊戯化と述べられねばならない。仮に科学史の立場から指導権をおのずと任じるべき英国立科学協会の最高権威でさえ通俗書の書き手と同列に並ぶに羞恥や自尊の心を失くしたのだとすればその有様たるや、人気や売上以外で信頼に足る導きの糸は権威ある本来有り難い号や肩書よりもずっと、科学知識売買の非道で長期化した氾濫戦場からどれだけ批判的な優越感を痩せ我慢式に保っていられるかという逆理的な認識領域へ集中せざるを得ない程だ。
現代人が批判的な言論をなんとなく説教臭くて真面目なこころみをがっかりさせるものとして嫌悪し、安価かつ案外で簡単に答えを与えてくれそうな口先のうまい通俗書へ頼る傾向は余りに過度であって、いうまでもなく批判それ自体は矢面に立つ演技派そのひとにとってすれば一般に不快でしかも耳に逆らう苦い薬ではあるけれども、確かに、過剰情報社会という未経験の事態にとって未然に対策できる自己免疫あるいは言論検疫の機能としてこれより有効な既存の製薬はどこにも見いだせない。真理と呼ぶに値するほど確実な知識は的外れな批判を寄せ付けないという汎用的な能動性を、すなわち実験によってくりかえし検証できる実証性を持つものであるのだから、我々は宗教と今は名のつく生まれ育ちのよい真理を意味もなく非難して科学と呼ばれる仮装の擬態をけばけばしい化粧にも関わらず世界最高の自然な整形なのであると見なす近代的偏見だけは戒めねばなるまい。イスラム教圏で女性へのベールを義務づけている事を浅薄な興味で迫害する者は、己が如何に科学的真実をのみ凝視し道徳感を置き去りにしていたかを、その明晰な知見に基づき不幸で不穏な家庭生活という人間生活にとっての最も根源に近い足元から崩壊するバベルの塔へも科学の狂信という思想上の壊乱騒ぎの兆候から、必然に演繹できることだろう。
2009年5月12日
仏教の知性
仏教思想が縁起説を通じて、また古代インド哲学に斯くある如く神の仮定を巧妙に回避したことには選れた慧眼が見いだせる。梵我一如と呼ばれるインド哲学の伝統的真似は特に、他の諸文明圏で神という唯一絶対の理念をもちだす以外では畏怖の念を生じさせがたかったのに比べれば際立って、知性的な側面を有している。
特に信仰よりも解脱を目指す、という面でインド哲学の宗教化には西洋および中東圏での思想的伝統とは異なった個性があると云えるだろう。
悟った者としての仏陀は、ガウダマの遍歴初期の素朴な口説を通して孤立人の理想を追い求めるところに特徴がある。そして説き伏せる相手を要する布教に比べれば、解脱を目的とした修行はずっと神理念を前提とはしなくて済む。理解不能な出来事にであえばこれを縁起説に則って解釈し、因果律上の答えを見つけ出せばいい。この点で、他のどの信教よりも仏教思想は知性啓発の面では先んじている。進化論と創造説の衝突の様なできごとも神理念を主眼として自然解釈する慣習があるかぎりは決して癒えないだろう。
特に信仰よりも解脱を目指す、という面でインド哲学の宗教化には西洋および中東圏での思想的伝統とは異なった個性があると云えるだろう。
悟った者としての仏陀は、ガウダマの遍歴初期の素朴な口説を通して孤立人の理想を追い求めるところに特徴がある。そして説き伏せる相手を要する布教に比べれば、解脱を目的とした修行はずっと神理念を前提とはしなくて済む。理解不能な出来事にであえばこれを縁起説に則って解釈し、因果律上の答えを見つけ出せばいい。この点で、他のどの信教よりも仏教思想は知性啓発の面では先んじている。進化論と創造説の衝突の様なできごとも神理念を主眼として自然解釈する慣習があるかぎりは決して癒えないだろう。
神の分析
神と呼ばれる文化的まねごとは様々な地域で伝えられており、凡そ言葉を有する以上の民族では殆どつねに存在する思考様態の一つらしい。神という理念には様々な内容が宛がわれるが、普遍なのはそれが唯一絶対の真似であることだ。
この言語模倣は世代間の伝達を初期化し直す意図に最もよく適合するが故に、最小の摩擦内で保存的だった。神理念の現実的根拠はその時点で理解不能な出来事を棚上げして世代間伝達系を延長できる思想上の効用にある。つまり究極の暗箱性が神の真似の本質。
人知が知能容積に依存する未熟な獲得形質に過ぎない限り、人類はまた神理念を保存せざるを得ないだろう。
この言語模倣は世代間の伝達を初期化し直す意図に最もよく適合するが故に、最小の摩擦内で保存的だった。神理念の現実的根拠はその時点で理解不能な出来事を棚上げして世代間伝達系を延長できる思想上の効用にある。つまり究極の暗箱性が神の真似の本質。
人知が知能容積に依存する未熟な獲得形質に過ぎない限り、人類はまた神理念を保存せざるを得ないだろう。
神の回復
世間が愚か者を厚遇し、聖を不遇で処する様に見えても怨むな。
もし真に劣悪な所なら生き延びる価値がないからそうして聖者を遠ざけるのだし、万が一それらの愚か者どもが生き延びたにせよ、地獄での来世は絶えず悪くなりゆく以上だれも困りはすまい。
――田舎の僻地で育てられた奇形的人間が、血縁を権威化する方便にみずからを神に仕立てたところで決してその能力は全知全能にはるか及ばぬ。
偶像崇拝する狂信者らがおろかな戦争で大量死したり、神の喪失から普段に野蛮窮まりない不幸を多く経験したにせよ、それらの地獄巡りはやはり自然の英知の観点からすれば堕落相応の報いなのである。
もし真に劣悪な所なら生き延びる価値がないからそうして聖者を遠ざけるのだし、万が一それらの愚か者どもが生き延びたにせよ、地獄での来世は絶えず悪くなりゆく以上だれも困りはすまい。
――田舎の僻地で育てられた奇形的人間が、血縁を権威化する方便にみずからを神に仕立てたところで決してその能力は全知全能にはるか及ばぬ。
偶像崇拝する狂信者らがおろかな戦争で大量死したり、神の喪失から普段に野蛮窮まりない不幸を多く経験したにせよ、それらの地獄巡りはやはり自然の英知の観点からすれば堕落相応の報いなのである。
2009年5月10日
法哲学
中国故事にある如く、法律の条文が煩瑣になると人々は安心して行動できなくなる。このために法三章は本来の理想的法秩序である。悪法もまた法なりと俗に言われることもある。空文になりつつある条文を維持する為の社会的損失がその慣習から来る期待できる善意を上回ったとき、法律は様変わりした現実へ再適合させられるという文脈を背景に持つ意見だろう。普段には法律を思案する時、社会秩序をできるかぎり合理化しようと試みることになる。従って社会が理想状態と異なる部分に対してその慣習の是正を促す方便としてのみ、法案は正当性を持つ。
もし誰かが新しい法律で空文化した現実社会への妥協を謀ろうとしても、それはこれらの道理を省みれば結局すべて失策に終わるだろう。例えば実際の訴訟で裁かれるには申告によってのみ罪とされるという場合での親告罪という概念は、元々守るべき法文の内容が空疎で、かなり現実に犯され易いことから生じる誤って借りられた法的負債の症状であり、その罪が人倫の間で許容されるに足るだけ社会秩序が堕落した事を誇るなど以っての外である。人口過剰の地域に存立した江戸幕府の後釜にありがちな東京政府の現況を分析するにつけ、特殊な公的意図を持たない猥褻物頒布の罪、公務に関する善悪の批評を除けば一般人に対する誹謗中傷の罪は看過されることならない退廃の兆候あるいは現実であり、それらの自由の退潮に併せて烏合衆議に迎合した判決を事とする裁判官には職権の濫用以下いかなる仁徳の尊厳も見いだせない。告げられなければ罪とはならない領域が存在するなどと信じるのは古典的宗教以前、禽獣の性質であると言わざるを得ないだろう。即ち、親告罪は法的にも存在すべきではない。その様な空理空論と化した劣悪な条文に関しては更に厳しい罰則規定が、警察官の現行犯逮捕の権利と共あらたに設けられるべきなのである。総じていえば法律はより体系的に整理されていればいるほど望ましい。だから法文が煩瑣また繁雑で、一般衆議の直接の対象にならないほど専門的で回りくどいというのは法律家および立法議員の能力不足に帰着さるべき奇癖かつ害毒であり、これをつねづね批判吟味に於いてその倫理的欠陥や論理の綻び、過剰装飾、いわゆる巧言令色のありかを是々非々堂々と指摘するのは文民としての、民間や社団の法学徒に託されたいやましに尊い使命なのである。
脱構築と呼ばれる華奢なフランス哲学の概念が流行するのを世間並みに見聞きするのに及んでは、言語に関する分析の哲学が自律と反省の心を失った穏やかならぬ知恵の徒にふりまわされた揚げ句、デリダリアンと述べたてる奴らと来るなり法律を空疎な名分に過ぎないものとする暴利暴論を意中の我が物としてなおも傲るおもむきがある。その中には最高法規としての憲法をプログラム規定に過ぎない等と御託を並べ立てた上、第一の実践を努力義務の範疇に閉じ込めて措いてはかの人類恒久普遍の理想を解釈のうえならと日々貶めながら口先喋々、浅ましき政権闘争の道具に明日は改正が必要だなどと述べる無知蒙昧のお世継ぎ売名政治屋先生さえ混じっている有様だ。しかし「正義は脱構築不可能である」という当該哲人の一語を差し引いても、数式ならぬ法文がいやおうなしに持っている曖昧さを人倫の至上命令である義務の理念の前に悪用するなる狂気の沙汰は、決して世の法学者の努めではないと知れる。
我々はやはりふるきをたずね、法三章を述べて作らず、理想の法律状態であると見做さねばならない。そしてこの為には絶えず厳格な理念から隙あらば逃れようとこころみて現し実をどうせ仕方のないもの、もはや諦めるべきものへ退行させようとするあの詭弁屋どもの誘惑から飽くまで狷介なまで身を引き、良心の根底を堅く保ちては至善に止まり、怜巖に事態を客観視した万古知新なる法整備をこそ生業とせねばならない。だからこの当然が、古来長続きした試しがなく政治学をかじったアリストクラティックな少年輩には天使の政体とまで不当に低く呼ばわれてきた民主政治にあってさえ遵守されゆくのなら、新しく改良される法律は絶対常にそれ以前の文面より簡明でも厳しい内容になるはずである。無論そうでない条文は、甘言で民衆を愚鈍化へたぶらかそうとする海千山千の悪魔によってつくられたまやかしものに決まっているから。
もし誰かが新しい法律で空文化した現実社会への妥協を謀ろうとしても、それはこれらの道理を省みれば結局すべて失策に終わるだろう。例えば実際の訴訟で裁かれるには申告によってのみ罪とされるという場合での親告罪という概念は、元々守るべき法文の内容が空疎で、かなり現実に犯され易いことから生じる誤って借りられた法的負債の症状であり、その罪が人倫の間で許容されるに足るだけ社会秩序が堕落した事を誇るなど以っての外である。人口過剰の地域に存立した江戸幕府の後釜にありがちな東京政府の現況を分析するにつけ、特殊な公的意図を持たない猥褻物頒布の罪、公務に関する善悪の批評を除けば一般人に対する誹謗中傷の罪は看過されることならない退廃の兆候あるいは現実であり、それらの自由の退潮に併せて烏合衆議に迎合した判決を事とする裁判官には職権の濫用以下いかなる仁徳の尊厳も見いだせない。告げられなければ罪とはならない領域が存在するなどと信じるのは古典的宗教以前、禽獣の性質であると言わざるを得ないだろう。即ち、親告罪は法的にも存在すべきではない。その様な空理空論と化した劣悪な条文に関しては更に厳しい罰則規定が、警察官の現行犯逮捕の権利と共あらたに設けられるべきなのである。総じていえば法律はより体系的に整理されていればいるほど望ましい。だから法文が煩瑣また繁雑で、一般衆議の直接の対象にならないほど専門的で回りくどいというのは法律家および立法議員の能力不足に帰着さるべき奇癖かつ害毒であり、これをつねづね批判吟味に於いてその倫理的欠陥や論理の綻び、過剰装飾、いわゆる巧言令色のありかを是々非々堂々と指摘するのは文民としての、民間や社団の法学徒に託されたいやましに尊い使命なのである。
脱構築と呼ばれる華奢なフランス哲学の概念が流行するのを世間並みに見聞きするのに及んでは、言語に関する分析の哲学が自律と反省の心を失った穏やかならぬ知恵の徒にふりまわされた揚げ句、デリダリアンと述べたてる奴らと来るなり法律を空疎な名分に過ぎないものとする暴利暴論を意中の我が物としてなおも傲るおもむきがある。その中には最高法規としての憲法をプログラム規定に過ぎない等と御託を並べ立てた上、第一の実践を努力義務の範疇に閉じ込めて措いてはかの人類恒久普遍の理想を解釈のうえならと日々貶めながら口先喋々、浅ましき政権闘争の道具に明日は改正が必要だなどと述べる無知蒙昧のお世継ぎ売名政治屋先生さえ混じっている有様だ。しかし「正義は脱構築不可能である」という当該哲人の一語を差し引いても、数式ならぬ法文がいやおうなしに持っている曖昧さを人倫の至上命令である義務の理念の前に悪用するなる狂気の沙汰は、決して世の法学者の努めではないと知れる。
我々はやはりふるきをたずね、法三章を述べて作らず、理想の法律状態であると見做さねばならない。そしてこの為には絶えず厳格な理念から隙あらば逃れようとこころみて現し実をどうせ仕方のないもの、もはや諦めるべきものへ退行させようとするあの詭弁屋どもの誘惑から飽くまで狷介なまで身を引き、良心の根底を堅く保ちては至善に止まり、怜巖に事態を客観視した万古知新なる法整備をこそ生業とせねばならない。だからこの当然が、古来長続きした試しがなく政治学をかじったアリストクラティックな少年輩には天使の政体とまで不当に低く呼ばわれてきた民主政治にあってさえ遵守されゆくのなら、新しく改良される法律は絶対常にそれ以前の文面より簡明でも厳しい内容になるはずである。無論そうでない条文は、甘言で民衆を愚鈍化へたぶらかそうとする海千山千の悪魔によってつくられたまやかしものに決まっているから。
建築哲学
古い建築物が我々を屡々極度に落ち着かせ、深く感心させるのは経年優化という作庭手法の上手さに関わらずそれらが時代の淘汰を承けてなお生き残ってきた希少性の起源が、絶妙さにあるからだろう。実際、経済学の理論は新しさを器の用件として当然視する。『書経』(盤庚の上)にある様に、古人も道具は新しい方が良いとみとめていた。先端工学は日々更新されるので設備と機能の面はほぼ絶対に新品の方が良い。そうならなければ製作者がモデルチェンジする筈がないのだから。
骨董収集は老子でいう「無用の用」を日常の器へまで応用か越権した習性であって、旧体字を趣味とするのは自由だが便利さの前では実用主義の側に勝利を認めざるを得ない。汚いという言葉が未整理の事物の前で思い浮かぶとすれば、その理想は恒に使いづらさの自覚の上に、したがって改良可塑性の中にある。建築物に限っては他の容器とは別格の美術性が古風のなかに見つけられるとして、その本質は用途を超越した理念の表象にあると思える。そこにある絶妙さは風土または風景のなかにあるもので、単独の意図としての個別的土地定着物の建設を超えて自然の形を作りかえて漸く露にされた構造形態らしい。もし古典建築と称される建造物に特別な審美性が存在するのなら、既に風化してしまった用途の為にではなく、それが有する歴史的構造が我々の想像力を励起するが為にだろう。つまり、建造物の史的本質は構造形態の側が持つのであって、機能設備がではない。
建築物の絶妙さはたくみさそのものの中にあって、時の経過にも変わりなく人造基盤を保っている建築者の設計意図の的確さを第三の自然へ投影できる為に生じる。我々が道具視できる用器は代替可能な人工物の趣を免れないが、既に文化へ定着したこの種の建造物は絶対唯一な風景の一部となっており、万が一崩れるようなことがあれば急いで後生の人間たちはできるかぎり元通りに建て直すのである。建築する者の誠心誠意さ、有する精神の高貴が際立つ程その意図する理念は時代をのりこえる趣を取る。掛け替えの効かなさは総合美術としての完成度に由来しているので、芸術作品一般がそうであるように近似的模倣つまり複製はできても完璧な再現はできない。唯一個であるという性質は極めて微妙な判断の隅々まで染め切った天才的独創性に基づいている。だから建築家ないし棟梁、建主の名義が科せられるという作品性は、頻繁にスクラップ&ビルドされる仮設の上ならいざ知らず、人目を引かずには置かないまことに珍しい歴史的建造物に限っては相応に適当なのである。
そして工学的な芸術を創造神学の結果であると定義すれば、神の建築計画が第三の自然を貫いている根拠はこの唯一回性にあると云える。故にその本質は比類なき崇高と一致するだろう。
骨董収集は老子でいう「無用の用」を日常の器へまで応用か越権した習性であって、旧体字を趣味とするのは自由だが便利さの前では実用主義の側に勝利を認めざるを得ない。汚いという言葉が未整理の事物の前で思い浮かぶとすれば、その理想は恒に使いづらさの自覚の上に、したがって改良可塑性の中にある。建築物に限っては他の容器とは別格の美術性が古風のなかに見つけられるとして、その本質は用途を超越した理念の表象にあると思える。そこにある絶妙さは風土または風景のなかにあるもので、単独の意図としての個別的土地定着物の建設を超えて自然の形を作りかえて漸く露にされた構造形態らしい。もし古典建築と称される建造物に特別な審美性が存在するのなら、既に風化してしまった用途の為にではなく、それが有する歴史的構造が我々の想像力を励起するが為にだろう。つまり、建造物の史的本質は構造形態の側が持つのであって、機能設備がではない。
建築物の絶妙さはたくみさそのものの中にあって、時の経過にも変わりなく人造基盤を保っている建築者の設計意図の的確さを第三の自然へ投影できる為に生じる。我々が道具視できる用器は代替可能な人工物の趣を免れないが、既に文化へ定着したこの種の建造物は絶対唯一な風景の一部となっており、万が一崩れるようなことがあれば急いで後生の人間たちはできるかぎり元通りに建て直すのである。建築する者の誠心誠意さ、有する精神の高貴が際立つ程その意図する理念は時代をのりこえる趣を取る。掛け替えの効かなさは総合美術としての完成度に由来しているので、芸術作品一般がそうであるように近似的模倣つまり複製はできても完璧な再現はできない。唯一個であるという性質は極めて微妙な判断の隅々まで染め切った天才的独創性に基づいている。だから建築家ないし棟梁、建主の名義が科せられるという作品性は、頻繁にスクラップ&ビルドされる仮設の上ならいざ知らず、人目を引かずには置かないまことに珍しい歴史的建造物に限っては相応に適当なのである。
そして工学的な芸術を創造神学の結果であると定義すれば、神の建築計画が第三の自然を貫いている根拠はこの唯一回性にあると云える。故にその本質は比類なき崇高と一致するだろう。
2009年5月9日
2009年5月8日
数学
基本演算記号は四つの対へ整理できる。
+-×÷は、それぞれ加減乗除(カ ゲン ジョウ ジョ)。
→¬∧∨は、それぞれ是非且又(ゼ ヒ ショ ユウ)。
おもな和文に訳し、たやすい英語と適宜その日本語読みを付け加えると
+ 加える、足す plus;プラス
- 減らす、引く minus;マイナス
× 乗せる、掛ける times;タイムス
÷ 除く、割る by;バイ
→ 是は、なので because;ビコーズ
¬ 非ず、でない no;ノー、not;ノット
∧ 且つ、と and;アンド
∨ 又は、か or;オア
これらを用いて計算式を進行させるのが理にかなう。特に解析的操作にとってはこの八個が最も基本的である。加減乗除は数式にとって、是非且又は論理式にとっての規則化に有効である。
+-×÷は、それぞれ加減乗除(カ ゲン ジョウ ジョ)。
→¬∧∨は、それぞれ是非且又(ゼ ヒ ショ ユウ)。
おもな和文に訳し、たやすい英語と適宜その日本語読みを付け加えると
+ 加える、足す plus;プラス
- 減らす、引く minus;マイナス
× 乗せる、掛ける times;タイムス
÷ 除く、割る by;バイ
→ 是は、なので because;ビコーズ
¬ 非ず、でない no;ノー、not;ノット
∧ 且つ、と and;アンド
∨ 又は、か or;オア
これらを用いて計算式を進行させるのが理にかなう。特に解析的操作にとってはこの八個が最も基本的である。加減乗除は数式にとって、是非且又は論理式にとっての規則化に有効である。
あの虹
湿り気を帯びた空気が
私を子供の記憶に返す
だれであれ消えてしまうだろう
どこそこへうがたれた雨と
なにもなくなる前に
なにもなくなる
すべては昔そこにあった
昔そこで遊んだ
それだけの場所が消えてしまう
ただ漣 の前には
山奥で見つけた巻き貝
今では野菊が咲く岡の上
見渡せば海だ
もう居なくなってしまった転校生
つぎの世代へ引き継がれてく机
だが代わらない音楽もいまは
ただ心の底をかなでる海のおと
私はその為にかわりゆくでしょう
水芭蕉の咲く夕べに
すこしずつ流れゆく小川に
生ぬるい風がまちを
一色の絵の具で浸して行くよ
どこか遠い都会で
知らない人達が悪さをしていたって未だ
世界は一つ残らず夜を
壊してしまったのではない
すでに忘れられたよぞらの星屑
待っている私はだれもいない校庭で
真っ暗な夜空の中にいる
一粒の流星が
地球の底で空を切るのを聞く
だがそれを語ることばでさえ
誰のものでもないや
雨が上がれば街が動きだすだけで
真っ青になったあじさいのそばを
這うかたつむりが
時を止めている間に
コーヒーを炊く
雨は窓の向こう
降るままになっている
あの虹が昔の歌をうたうのに
どうだろう
かれらにしたところで梅雨の
合図を捕らえ損ねたなんて
言わねばならないなんて
あっという間に過ぎ去ってしまえる
この世の思い出が隠された
宝箱の隅で眠ったお姫様をいつも
私を子供の記憶に返す
だれであれ消えてしまうだろう
どこそこへうがたれた雨と
なにもなくなる前に
なにもなくなる
すべては昔そこにあった
昔そこで遊んだ
それだけの場所が消えてしまう
ただ
山奥で見つけた巻き貝
今では野菊が咲く岡の上
見渡せば海だ
もう居なくなってしまった転校生
つぎの世代へ引き継がれてく机
だが代わらない音楽もいまは
ただ心の底をかなでる海のおと
私はその為にかわりゆくでしょう
水芭蕉の咲く夕べに
すこしずつ流れゆく小川に
生ぬるい風がまちを
一色の絵の具で浸して行くよ
どこか遠い都会で
知らない人達が悪さをしていたって未だ
世界は一つ残らず夜を
壊してしまったのではない
すでに忘れられたよぞらの星屑
待っている私はだれもいない校庭で
真っ暗な夜空の中にいる
一粒の流星が
地球の底で空を切るのを聞く
だがそれを語ることばでさえ
誰のものでもないや
雨が上がれば街が動きだすだけで
真っ青になったあじさいのそばを
這うかたつむりが
時を止めている間に
コーヒーを炊く
雨は窓の向こう
降るままになっている
あの虹が昔の歌をうたうのに
どうだろう
かれらにしたところで梅雨の
合図を捕らえ損ねたなんて
言わねばならないなんて
あっという間に過ぎ去ってしまえる
この世の思い出が隠された
宝箱の隅で眠ったお姫様をいつも
自然の原理
直観的な把握は無用ではない。又それは論理と齟齬するとも限らない。世界と呼ぶ体制が直観的にのみ第一に現れるのは偶然ではなく、人知は感覚を使ってしか環境情報を認識できない。蝶は触覚を用いて蜜を求め、犬は聴覚や嗅覚を通じて仲間と群れ集い或いは餌を探り当て環境を自己秩序化へ使う。自然概念を含む理念的世界は直観から得られた素材を加工してなりたつ。もしこれらが真なら、直観を研ぎ澄ます為に尚更、理念界は役立つ。 芸術の巧妙さが季節風土にあって最たる特産形質であるのなら、感覚を冴え渡らせることは他の気候にあってよりずっと、かれら国風の焦点と成り易い。えりすぐりの感性はもし最大の理知を背景に持てば、その感情表象をほかの如何なる気候風土にあってよりも更に微妙な趣を採らせるだろう。
かれらにとってすれば学問の強調や政治経済的保護はいわばこの感覚の芸術化の養生にとっての親切さなのである。たしかに芸術性の過剰評価は決してそれ自体が普遍化への唯一の道ではない。そして学問と政経の状況がわるければ、季節人の写す作風はかならずしも最美ともいえなくなるだろう。だが特徴の強調はつねに自然界が命じている適応放散の、散乱と淘汰との原理であって、花散る効果は一層のこと精選された世界を生じさせるのには欠かせぬ生物観の総体である筈だ。紫陽花は向日葵より劣る華なのではなく、単に適した時や土壌が違うのである。地方文化も斯くの如くだろう。
かれらにとってすれば学問の強調や政治経済的保護はいわばこの感覚の芸術化の養生にとっての親切さなのである。たしかに芸術性の過剰評価は決してそれ自体が普遍化への唯一の道ではない。そして学問と政経の状況がわるければ、季節人の写す作風はかならずしも最美ともいえなくなるだろう。だが特徴の強調はつねに自然界が命じている適応放散の、散乱と淘汰との原理であって、花散る効果は一層のこと精選された世界を生じさせるのには欠かせぬ生物観の総体である筈だ。紫陽花は向日葵より劣る華なのではなく、単に適した時や土壌が違うのである。地方文化も斯くの如くだろう。
狂言
人類の本性にとって、原因のない事はない。人は夢にさえ因果律のテンカイを見る。回っては戻る大鷲の羽ばたきにも。
第一、説明づけられない事柄さえ見つけられないのなら何が不能だろうか? 巻き戻し、再生されゆくいのちの映画へ擲たれたリアリティを飼い馴らして人生を合理化していく様に、だれであれ驚きのない経験をこの世と思う中で。
第一、説明づけられない事柄さえ見つけられないのなら何が不能だろうか? 巻き戻し、再生されゆくいのちの映画へ擲たれたリアリティを飼い馴らして人生を合理化していく様に、だれであれ驚きのない経験をこの世と思う中で。
2009年5月6日
資本主義論
商いが経済感情の合目的質であると考える事に客観した矛盾は覚えられない。商は経済活動そのものを目的視した場合、群生の最も活発な調和を奏でるのに適した理念だとおもえる。だから、昔ながらの農本思想であれ、いわゆる近代化のための重工業思想であれそれらを媒介するのに適宜な商の基礎付けがない限り、どちらも自体として完成の域へは載せられない。
道徳の立場からは、けれども、商務の有する独占支配の側面を合理化できないのである。流通の円滑というそのなりわいには決して肯首しきれない卑劣さの芽生えがつねに付き纏う。掠め取る能率へと取引差額の効用は還元され易く、したがって一般に、商業集団へは何らかの政治的調整がなければその上前が他の生産者が斉す実質の価値容量に較べて不利を被る例がない。非生産的仲介者という商人蔑視の根底にある考え方には社会集団が生産的であればあるほど、その売買をつかさどる群がぶら下がるほかない、というあきらめの空気が欠かされない。実際に、純粋な取引商は希少と豊富との時場価格差をのみ利用して、財貨の流通経路を資本流動性の増大という大目的に逸ることを最も得意とした形質の持ち主である。そして彼らにとっては群生の過不足を見分けてそれを仕事へと援用するのが返礼を省く盛業の骨なのだ。経済感情、或いは経済感覚の発達という面から観察すれば、人は取引商より鋭敏な群生の長者を見つけ出せないだろう。彼は情報の調和以外には何も生産方法を持たないが、代わりに最大の利益を享受することにかけては如何なる欠点も見出だしえない能力を維持している。長期的な文明史の潮流は、にも係わらずこの集合または場合によればその階級を最も先に不幸な運命で処する筈である。社会学の教えるところに基づくなら人は、群生にあって中間的な形質というものはその極度の完成度という一部例外を除けば、普通には保存されないのだと経験的に帰納できる。中庸は淘汰の規則にとっては希である、というが為だけに真、乃至もっとも完全な意味で美なのであって、もし中庸が多数派になればそれば凡庸に堕するのだ。
だから、仮に現代という形がどうそのあからさまな差別化や不平等を装飾の華美として誇示していてあれ、経済的合目的性は必ず被淘汰をへるべき、絶滅する未然の前兆なのである。というにも、群的中庸の最たる特徴は社会集団が商取引を盛んに行っているという仲介層の自己欺瞞を派手派手しい看板で宣伝するに過ぎないのである。かれらの目立ちかたは多くの観衆を、通り過ぎゆく旅人の足をしばし止めずには置かない。だがそれも束の間だ。住む為には困難を極める非生産的仲介者の街は、十分な才能を持った特殊な形質の持ち主をかれらなりの価値意識に則り、役立たずの穀潰しと銘打ち排除するだろう。資本主義はこの長期の見解に立てば、固定資本となりがちな幾つかの共通財を物好きの忙事に委せて効率よく処理させる為に工夫された過渡期のシステムだったと見なせる。かれら資本家は取引商、小売商、卸売商、という生産者の上に乗りかかる媒酌員を流動資本の装飾業者として雇い殖やす牧場主であって、その終局の方針は組織だった活動を効用の面から功利化すること(使用者思想、utilitarianism)であった。
学究的な個性にだけは先に啓かれる風景は、社会の福祉全般という審美的群生の増大が射利か名声を求める卑屈な社会階層の犠牲者の心情を以て巧妙に、大幅に過剰評価させた利益を示して特有の価値観を持たない社交的集団を極度な合同労働ディスプレイへと尋常に導き、忙殺という極めて安寧で非・革命的なルートを辿って徐ろにその野育ちらしい余分な精力を削ぎ落とす知恵の産物である。この点でも資本制はかんがえうる限り流血を見ないで済む維持された漸進的社会変革の思想であり、他のどの社会思想、共産主義、社会主義、自由主義、原理主義、福祉主義すらよりも優れて、ということは他の群生に先んじて、公共の福利厚生を助けるのに有効だろう。
商権の擁護、商務の倫理性は正にこの観点から今日主張されるのであって、必ずしも万世に全面的な肯定ではない。現実には邪心のかけらを含まない商いということは決して見当たらないであろう。もし誰かが善意からあきないを営むなら、彼は嘗ての聖者の言を入れて慈善を業としただろうから。
道徳の立場からは、けれども、商務の有する独占支配の側面を合理化できないのである。流通の円滑というそのなりわいには決して肯首しきれない卑劣さの芽生えがつねに付き纏う。掠め取る能率へと取引差額の効用は還元され易く、したがって一般に、商業集団へは何らかの政治的調整がなければその上前が他の生産者が斉す実質の価値容量に較べて不利を被る例がない。非生産的仲介者という商人蔑視の根底にある考え方には社会集団が生産的であればあるほど、その売買をつかさどる群がぶら下がるほかない、というあきらめの空気が欠かされない。実際に、純粋な取引商は希少と豊富との時場価格差をのみ利用して、財貨の流通経路を資本流動性の増大という大目的に逸ることを最も得意とした形質の持ち主である。そして彼らにとっては群生の過不足を見分けてそれを仕事へと援用するのが返礼を省く盛業の骨なのだ。経済感情、或いは経済感覚の発達という面から観察すれば、人は取引商より鋭敏な群生の長者を見つけ出せないだろう。彼は情報の調和以外には何も生産方法を持たないが、代わりに最大の利益を享受することにかけては如何なる欠点も見出だしえない能力を維持している。長期的な文明史の潮流は、にも係わらずこの集合または場合によればその階級を最も先に不幸な運命で処する筈である。社会学の教えるところに基づくなら人は、群生にあって中間的な形質というものはその極度の完成度という一部例外を除けば、普通には保存されないのだと経験的に帰納できる。中庸は淘汰の規則にとっては希である、というが為だけに真、乃至もっとも完全な意味で美なのであって、もし中庸が多数派になればそれば凡庸に堕するのだ。
だから、仮に現代という形がどうそのあからさまな差別化や不平等を装飾の華美として誇示していてあれ、経済的合目的性は必ず被淘汰をへるべき、絶滅する未然の前兆なのである。というにも、群的中庸の最たる特徴は社会集団が商取引を盛んに行っているという仲介層の自己欺瞞を派手派手しい看板で宣伝するに過ぎないのである。かれらの目立ちかたは多くの観衆を、通り過ぎゆく旅人の足をしばし止めずには置かない。だがそれも束の間だ。住む為には困難を極める非生産的仲介者の街は、十分な才能を持った特殊な形質の持ち主をかれらなりの価値意識に則り、役立たずの穀潰しと銘打ち排除するだろう。資本主義はこの長期の見解に立てば、固定資本となりがちな幾つかの共通財を物好きの忙事に委せて効率よく処理させる為に工夫された過渡期のシステムだったと見なせる。かれら資本家は取引商、小売商、卸売商、という生産者の上に乗りかかる媒酌員を流動資本の装飾業者として雇い殖やす牧場主であって、その終局の方針は組織だった活動を効用の面から功利化すること(使用者思想、utilitarianism)であった。
学究的な個性にだけは先に啓かれる風景は、社会の福祉全般という審美的群生の増大が射利か名声を求める卑屈な社会階層の犠牲者の心情を以て巧妙に、大幅に過剰評価させた利益を示して特有の価値観を持たない社交的集団を極度な合同労働ディスプレイへと尋常に導き、忙殺という極めて安寧で非・革命的なルートを辿って徐ろにその野育ちらしい余分な精力を削ぎ落とす知恵の産物である。この点でも資本制はかんがえうる限り流血を見ないで済む維持された漸進的社会変革の思想であり、他のどの社会思想、共産主義、社会主義、自由主義、原理主義、福祉主義すらよりも優れて、ということは他の群生に先んじて、公共の福利厚生を助けるのに有効だろう。
商権の擁護、商務の倫理性は正にこの観点から今日主張されるのであって、必ずしも万世に全面的な肯定ではない。現実には邪心のかけらを含まない商いということは決して見当たらないであろう。もし誰かが善意からあきないを営むなら、彼は嘗ての聖者の言を入れて慈善を業としただろうから。
2009年5月4日
経済学
情報に対して低い値段しか付けない習性のある国民は、それに如何なる制限も設けない民に比べれば次第に、情報産業化の上で遅れを取るだろう。資本主義の建設は生活の為の便宜品を人々の射利心に頼んで円滑に浸透させることにかなり成功した他方で、主たる需要を物質に限定させるという一時の習慣をほとんど自明の理とする作為を否定しきれていない。いいかえると、物質文明の迅速な建設作業には役立った資本財の効き目は、第三次産業以降の社会的福利厚生にはどの程度有効か、いまだ未確定なままだ。
実際、人々はもし暮らしに十分な便宜品を取得すれば、装飾のための奢侈品を求めなければならない。情報という概念はむしろこの為に有効なものであって、たとえば料亭での店員のもてなしのこころ、態度、物腰といった奉仕産業としての側面は専らこの情報の度合いとしてのみ数量的に測定できる。ケインズがかれの経済学体系の実質的な結論として主張する様に、一国の資本財がすべての流動的需要を円滑に満たす方法として十分潤沢となった暁にその期待収益が徐々に低減し、福祉の理念にとって、という意味で準定常的社会があらわれるとすると、こういう経済文明にもっとも先に到達できるのは、従って最も富裕な厚生設備を社会資本へ蓄積できるのは資本主義の理念を生活財のすべての面へ価値化できた様な文明系となるだろう。つまり、価値尺度としての資本を我々が現在知っている限り最高の社会資本概念である情報の全体集合へさえ適用しきれた系、ということだ。
この斟酌が妥当なら、情報への課金は極めてゆっくりとしかその価格化が進まない様な出遅れた物質主義の社会でよりも、いち早く精神文明の側面をも一定の定量的価値尺度で売買しうるシステムを構築できた系での方が遥かに有利な経路を辿って福祉もろとも増大する筈である。
物質にしか価格を宛てない習慣は既に廃れ出した過渡期の陋弊であり、モノを売買する商業がコトのそれよりも次第に産業的地位をおちぶれてしまうのにも決して理由がないのではない。物質交換に実体があったとすれば、それが古代人の物々交換の際に巨大な石を以て替えたのと同じ価値尺度の偏差が共通需要の考えに関して真だったという近代化の象徴に過ぎないのだから。我々は純粋に感覚的ではない理念価格を認めている。同様のことは寄付財とか銘柄とか多くの物質文明的側面にも知らずしらず忍び込んでいた産業価格の転換だった。よって、一方で工業適応を至上命題としてきた物質文明的近代化はそのままの推移は不可能と見るべきだ。株を守っていくら兎を待ったところで、途上国への投資を除けば一切の便宜品需要が完済されてしまえば先進国内の産業形態上は、工業社会は消えてなくなるに違いない。我々は炭鉱跡を探検する情報にいまなお価値を認めるがすでに石炭を主要な財源とは目さない。では工場に関しても、果てはオフィスワークに際してもそうなるだろう。
工業文化はひとりでその担い手に回収される費用の低減とともに衰微するであろう。代わりに、第三次産業以上の流動性は増大し、社会の多くの場面もその資本投機を主業として営まれるだろう。無駄の制度化という概念はよって、工業文化の側面のみへ資本財が集中されるという偏見にもとづいて勘違いされた誤解である。装飾品は実用性をもたないところに特徴があるのだから。
実際、人々はもし暮らしに十分な便宜品を取得すれば、装飾のための奢侈品を求めなければならない。情報という概念はむしろこの為に有効なものであって、たとえば料亭での店員のもてなしのこころ、態度、物腰といった奉仕産業としての側面は専らこの情報の度合いとしてのみ数量的に測定できる。ケインズがかれの経済学体系の実質的な結論として主張する様に、一国の資本財がすべての流動的需要を円滑に満たす方法として十分潤沢となった暁にその期待収益が徐々に低減し、福祉の理念にとって、という意味で準定常的社会があらわれるとすると、こういう経済文明にもっとも先に到達できるのは、従って最も富裕な厚生設備を社会資本へ蓄積できるのは資本主義の理念を生活財のすべての面へ価値化できた様な文明系となるだろう。つまり、価値尺度としての資本を我々が現在知っている限り最高の社会資本概念である情報の全体集合へさえ適用しきれた系、ということだ。
この斟酌が妥当なら、情報への課金は極めてゆっくりとしかその価格化が進まない様な出遅れた物質主義の社会でよりも、いち早く精神文明の側面をも一定の定量的価値尺度で売買しうるシステムを構築できた系での方が遥かに有利な経路を辿って福祉もろとも増大する筈である。
物質にしか価格を宛てない習慣は既に廃れ出した過渡期の陋弊であり、モノを売買する商業がコトのそれよりも次第に産業的地位をおちぶれてしまうのにも決して理由がないのではない。物質交換に実体があったとすれば、それが古代人の物々交換の際に巨大な石を以て替えたのと同じ価値尺度の偏差が共通需要の考えに関して真だったという近代化の象徴に過ぎないのだから。我々は純粋に感覚的ではない理念価格を認めている。同様のことは寄付財とか銘柄とか多くの物質文明的側面にも知らずしらず忍び込んでいた産業価格の転換だった。よって、一方で工業適応を至上命題としてきた物質文明的近代化はそのままの推移は不可能と見るべきだ。株を守っていくら兎を待ったところで、途上国への投資を除けば一切の便宜品需要が完済されてしまえば先進国内の産業形態上は、工業社会は消えてなくなるに違いない。我々は炭鉱跡を探検する情報にいまなお価値を認めるがすでに石炭を主要な財源とは目さない。では工場に関しても、果てはオフィスワークに際してもそうなるだろう。
工業文化はひとりでその担い手に回収される費用の低減とともに衰微するであろう。代わりに、第三次産業以上の流動性は増大し、社会の多くの場面もその資本投機を主業として営まれるだろう。無駄の制度化という概念はよって、工業文化の側面のみへ資本財が集中されるという偏見にもとづいて勘違いされた誤解である。装飾品は実用性をもたないところに特徴があるのだから。