2009年10月24日

朝起きると、お下劣なお笑い芸人が勝ち組だ、勝ち組だとテレビで吠えまくる。福祉よ福祉よと意味もしらんくせほざく女だてらの馬鹿がその下賎な子供を殖やしまくる気だって。子育てって、動物園ではタダだって。太宰治万歳! 大東亜万歳大阪人万歳! 品性下劣下等人種大阪人万歳!
 で? と僕はおもう。だから? 生きててなにがたのしいの? ビオラでも宮廷で弾いてりゃすべてが解決しますか? 僕はたった独り、世界の隅で、今にも落ちそうな崖っぷちの端っこで着のみ着のまま、君らが汚い金儲けと下卑た繁殖劇場に励むのを見た。君ら俗物が、人間は最高だ、楽しんだもんがちやとほざくのを冷めた目でみつめる。
 多摩川でホームレスが見る夕日でさえもお前らの目に見えないのか? クリスマスのバカップルが、映画館でハリウッドばりの演出に泣けましたよぉと言う。悪人仕立てたイスラム教徒を殺しまくる会社に泣ける泣けると言う。
 人間はたのしい? 永遠のくりかえし。神道万歳! 神道万歳! 芸者ジャップの犯罪天国。自由だ、自由だとヤクザが言う。なにせ世界一ど偉い万物の聖霊ジャパニーズテンノー殿のご命令であーる。福祉だ、子供なら誰でもいい。なら豚を飼うがいい。
 
 そして血みどろの首をちょん斬り、毎朝の食卓でベーコンに据えよ。僕は貴様らの繁殖劇場などには一銭の価値も認めないが、殺して喰らうくらいならそれで十分だ。殖えるしか能のない豚どもよ、食物連鎖の末に炙肉祭のにえとして因果応報の理を知るがいい。そして高い知性の栄養価となれ。僕は朝食を終えると、その皿を洗った。

美徳の批評

私は脱構造主義の意味を適宜踏まえて、正義のみならず美徳は脱構築不能であると考える。その理由は、おそらく趣味の道理というものが我々には未だ十分には開示されていない普遍的で厳密な規則、言いかえればまなばれるべき宇宙性あるいは秩序を数え切れないほど隠し持っているからなのだろう。自然現象の後学としての形而上学、アリストテレス以来の哲学的伝統を最も理に適った手順で実践的社会生活と結ぶには芸術への注意深い批評というものが、意味の積算によって文化の様々に異なる地域毎に営まれる自由が必要だろう。これはいわば批評の自由と考えられ、自由権の一つに数え上げられる。古代ギリシアでの文芸の共同体、いいかえると仲間(パレーア)又は仲介(パレイサクトス)の権利は現代での集会と結社の自由に対応する。そしてそれらの間でつかうに適した共通券はこの批評の権利だと言える。先進国際的な表現規制への先例または常識としての所謂明白かつ現在の危険の原則とは、実際にはこの批評の自由の例外規則、つまり誤解に基づく非難の場合にのみあてはまる、刑法下の名誉毀損罪と一致する。事実の有無にかかわらずという現行法文言のありうべき正確な解釈は、確実な悪行への正当な批判ではなくていわれのない中傷、たとえば事実無根の偽装工作によって濡れ衣を着せられた様な場合、名誉にかかわる冤罪の原則にこそ当たる批評悪用への防止規範だった。
 もしこの原則に反して道徳性の欠陥を公に批判された個人がつよすぎる自負心の反動からきた怒りにまかせてありえない訴訟をしたとすると、かれは世界中の笑い者になるばかりだろう。だから批評権とは表現の自由への監査的制動機として働く、正義の応報による社交美啓蒙の機能であり本性である。
 悪徳がみな醜であるということは自業自得からの返答の遅さから小さなことなら見逃される機会も俗習では少なくはないが、悪徳だけが脱構築できる、つまり公的欠点を指摘し他の長所と引き比べて正当に内心か表現上で批判可能である。

2009年10月21日

政府公報の資本経済内原則

何らかの緊急時に、政府広報の直轄機関というものを民営のテレビ局とはべつに確保しておくことは有徳だとも考えられる。もしこれがまったくないと、ほぼ損得勘定に左右されざるをえない‘民放集中の弊害’によって、確実に最重要情報が伝達できないおそれがある。

たとえば突如として国内にテロリズムが起きた場合、この政府による避難や勧告の精確無比な報道に民放をつかうことには限界がある。
当然、「公共情報の精確さ」より後先かえりみない話題性に曳かれてその場限りの誤報や速報へと内容はかたよりがちになり、世論や民心のムダなあおり立てと混乱状態がいやましに起こりそうだと言える。
かつてまずしい情報網しかなかった危急時にデマが起こした唯ならぬ悲劇を覚えておかねばならない(関東大震災時の在日朝鮮人虐殺事件)。

 しかしまた同時に、官営状態だと各種の官僚主義の退化によって不経済や上意下達組織特有の悪習が堂々とまかり通る傾向も免れない。つまり平穏時には決して公報機関の‘純粋な’官営は、最善の手だてとはいえない。

――この利害両面を天秤にかけて将来をおもんばかると、おそらく公報機関としてもっとも賢い方法というのは今日において、まずいちど公共放送事業を民営化してその株式会社化をすすめてのち、『国営株主構想』によって政府がその税収からくる財産によって、公報機関の過半の株式を保有してしまっておくことだ。
こうすればいわゆる民間の投資家とおなじ立場にたって、株主総会という多かれ少なかれおおやけに経営へ口を出せる立場から普段は民営セクター同然の高効率の運用を施しうる一方で、いざというときは主要株主たる会社の支配権を援用して緊急の公共放送を流すことができる。
 この結果、もし度々の小さな政府の段階にあって放送局の規模が一時的に縮小しようと株式の過半支配を超えないままに運用していくつもりなら、内容がどれだけ細々とでも最低1chの公共化は果たせるはずだ。
おそらくそのための新しい放送権の調整も要るかもしれない(放送の自由と、政府の税収経営機関としての立場のすりあわせがうまくいくよう、まだ民営局が乏しかった時代につくった反福祉的な法的摩擦力の調整)。

2009年10月20日

原罪の啓発効果について

なぜ人類が同類項について、死刑を正当視するのか。この極めつけに重い命題は数々の暗黒裁判の人類史が、裁判制度を持つ様になってからその極刑をも過ちで埋めてきた理由を原罪の観念で示し合わせる。絶対善の理解不能さが当段階に実在している同類項の法的理性の限界から超出する時、人類は競うが如くに自己正当化の恐怖に囚われて超善人を犠牲にする。だが総合して看返すと、この苛酷な判決をした集団は含まれた悪意の故に良心の呵責に襲われて自壊を速めるか、又は他の隣接か内蔵した相対して良識的な集団から強く敵視される事でいわば自業自得の結末、つまり終局での破滅に至る。無論、絶対善はそれが同代の総合知識、教養の池からの超出が過ぎるほど理解されるのが遅くなる。多くの諸子百家時代の理想論者がどうして同時代の行政権力に余り召し迎え入れられなかったかの理は、この善意の程度に是政者毎千差万別の現実状態との格差があるからだと言える。そして一般に歴史が教える所では聖者の程度が高ければ高いほど、その崇高な理想は現実に属している宗教団体の意向とから隔絶した教学をも意味し、結果いわゆるのちの世界宗教規模の道徳観を達成した個性は確実に、同世代の社会的裁判制度という法規遵守をのみ原理とした現世処理系依存派にとっては覆いきれるものではない。則ち政相互の主として党派的な啓蒙活動の余地が生まれる。語族間の変異を原型とする文化間競走の動機づけも又その了見間の知識総量を問う民族間の闘争か互恵を原理とする。
 だが又同時に、どの道徳行動も決してその不合理性を合倫理性よりも重く視ることはないので、さもなくば偽善と呼ばれるが、殉教の故に若しくは殉教的であればあるほど、その死者の瓦礫の山は当該行動型を神聖化するのに一役買うことになる。絶対善の現世内実現不能さを省みると、また幕末志士一般がそうであった如く善意志を命拾いよりも高く見積もる傾向は、某道徳観を大袈裟な演技それそのものの悲劇的精神によって否が応にも強調し見物客や歴史家の眼差しへ誇示するのに十分なのだった。要するに極刑は不名誉の証でもない限り所謂志士の類へはその決死の覚悟を寧ろ強化こそすれ、決して極端な道徳行動、つまり極道の仁義遂行に抑止力をもつものではない。これがおよそ原罪なる法的負債の前提を、どうしてユダヤ教徒という砂漠周縁圏の流浪を余儀なくされた極めて先覚的な民族が工夫せねばならなかったかの訳あいである。そこではすでに道徳心について到達された高度の純血主義を保守するのに、この種の無謀な企ての一切を生来の臆病さ及び深慮を期した怜悧さで補うほかの手はみいだせなかったのだろう。もし原罪観念が刷り込まれていさえすれば、その個人は負債返還への潜在的畏れの為に自己犠牲を思い止まることが多かった筈で、結果としてこの観念は流浪の文化素としては最も価値の高い被保存形質を誘なったのだった。
 我々が以上の道理を理解すれば次の事は合理的であると認めるに至るだろう。もし原罪観念を導入しさえすれば、その人間集団では生得的負債感情の芽生えによって自己犠牲を伴う数々の道徳行動は理性ある人格の間では、全生命の父祖への感謝と並々ならぬ畏怖の為に自動的に抑止され、結果として極刑を度々執行せずとも志士的な決死の抑圧者へはその思い詰める先にいちずな信仰への脱出口がおのずと啓けるだろうと。
 これがどうしてキリスト教の広まった国では死刑廃止が妥当とされるほど文化段階に高級な倫理慣習上の寛容性が観られるかの一般理由であり、且つ反証ではあるが、論理的には納得できる冒頭の命題への便宜的解答だと思われる。神官階級の独占物として原理主義、原典合致至上思想が適法強制力をもっていた世界でその心理的緩和を謀ったこと、すなわち当時の学識を弁証法的に逆手にとって一選民の決定的な長への待望でしかなかった救世主概念を選ばれざるはず全民族への救済へと向け変えた決死の演技力こそがジーザスの志士的功績である。そしてその成果に本来の意図たる一宗独裁体制への批判を超えてみるべきものがあったことは、彼の福音信仰を欠かさない地域の人々が、元々の原典の神話性を検証し直した結果さらに強化されることになった原罪観念の延長にして生まれ持たされた負債感情の負い目から、極刑を不条理の設計として自主廃棄している、高度の道徳あるいは良心に結晶してもいる。こういう配慮の結果、暗黒裁判、致命的誤審の確率はきわめて低まり、その穏健派の地域では一切の極道じみた悲劇は程度の強い道徳的即ち知能行動の変異への同情からきたる保存欲求つまり正義漢の英雄主義とあわせて自然解消していく。命懸けで暴力よりも理屈に訴えるキリスト教精神極北の尊さがここにある。
 がいいかえると、政宗一致の慣習のある我が国ではそのつくりっぱなしの原典が原罪の高度な道徳観をもたざるかぎり、永久に右翼と言えば必ずあしき手段に訴えるギャングやマフィア或いはヤクザの名義でありつづけるだろうし、その暴力団体の抱え込みに伴うあらゆる悪徳の渦というものは、元来保守派、つまり現状維持の擁護というにすぎないはず右派全員の倫理行動を自己否定の感情で襲い来るのだろう。なぜなら債権がないのに借金取りをする感情は必ず自己否定に、その最高段階でも悪意の誤魔化しに繋がるほかない。切腹という極端な慣習が、自殺率の極端な高さと共にこの長年大陸から隔離されてきた十分知られざる国でよく近代化された政治と素朴なままの宗教をいまだに混同している歪みの根底に横たわっている、その論拠はここにある。

2009年10月18日

問ひ来るわが道ふりかえりて思ほふは只静かなりし浪
よに独り返す返すも漣のつらなる空にことわりを問ふ
うまれきて消えゆくいのちの声に似し浦波の音にとわの痛みよ
通り道なにごともなく咲き誇る糺の百合にも歌の調べよ
先駆けの志高く青空に一筋見ゆる晴れ間の光

2009年10月17日

借用の現代

推敲される文字種が既存のものでなければならない根拠はなく、和語ないしヤマトコトバの音と声とが仮名文字の単音接化にともなってほぼ一致していった例は、複合および重畳という言葉の系統論に必然の消費的進化がその既存語彙池からの借用の慣れにとって経済的整理の順列の規則で一元化されつつある文化的段階のものであると示すにとどまる。ヤマトコトバが唯一の日本語成文法の凡例であると言うことは、もし充分に人類学とか比較文化論とか民俗学とかいわれる分野からの知識流入を免れないどこのアカデミズムでもいずれためらわれる様になるだろう。尤も国学か皇学専門の場所、その種の独自の適所では例外の余地もあるが。
 つまるところヤマトコトバへの一語一句のあてはめという近代化の原典か原理主義はいずれ批判的に検証されきって、文芸思潮の上でも支配力をもたなくなるだろう。朝鮮語に於けるハングル文字の、或いは英語に対する発音記号の、もしくは中文へのピンインの夫々の表記的可塑をみよ。蓋し仮名と漢字読み下しの関係は、もしもこれらのどれもよりずっと高い可塑性、加之つよい借用の利便性を解釈界に確保できねば国際的な生き残り競争にその芸術面で遅れてしまうだけだ。
 語学、特に漢字の使用に於ける経済的整理の法則はその最終段階で仮名という草体の採用に至った。だが文字そのものへの一体一対応の仮設性は決して最適でもなく不動でもあるべきでないし、その本質的意図として、発祥が助詞や助動詞の注釈であったことは仮名とは漢文への補佐語か補意語として有用さをもつべきであったと教える。これらの分析は、和文の将来がヤマトコトバへの依存から抜け出し、また仮名の本旨たる漢文注解という表音特性以外からの借用も当然に影響力を高めるべきなりと指導し教え諭している。
 そのとき仮名使用法の変形にあわせて我々の、また日本人の言葉づかいもより自由度と推敲の品質について変わるだろう。漢語を全面的にとりいれることにした判断は、古代政治の初段の時点で開明的であったとこれで益々理解できるだろうし、全面英語化しなかった明治維新時の方針も和漢洋の語法が混在する独特の体系へ、それをつかいこなす国民的巧みさの比類なき雑食文化としたたかさへ溜め息をつかせるたぐいのそれだろう。あまつさえ、めくるめく文法交通網の地下鉄路線図的混雑加減の放置を解せない第二外国語学習者以上にとっていい意味かは不明だ。
 日本語とは存在しないところにある、と考えられるべきだろう。そのことが純粋な日本語系統論のごく賢明なる血統主義なのだから。梵我一如を全論説の中央に引いた岡倉天心の慧眼は、その国粋主義的アジア盟主思想への転用という痛ましく悲しげな傷痕を美術と和睦を茶道と関連づけたこともなかった破廉恥きわまる邪悪な売国明治政府薩長同盟クーデター乗っ取り近視眼妄動的軍部独裁組からのいわれなき暴力事件がかったいわば時代モノな虚実被膜の濡れぎぬ紛いの沙汰として差し引けば、わが国の伝統文化上のまさに借用的な核心だったのだ。

借用の古典的基礎

既存人種がすでに作られたどれかの文字か音符を黙読か音読用の声に割り当てて使う慣習、いわば借用の慣れはその思考能力を大幅に削減や合理化してしまった。この借用の規則が語学と呼ばれる中間的学野の全領分であり外にない。そして分析哲学が試行錯誤している理性認識の限界は、言葉の借用法則の相当部分が創作行為による偶然性を含むというまた解釈のみならず執筆か講話も含める主観の論理をその伝統の帰結とする。カント哲学(純粋理性批判)に於ける主観の根拠は、時間についての直観がその格律であるという少なからぬ便宜上の立場を思索者の自己統一に与えてくれてきた。物理学者アインシュタインがこのカントの主観の立場を晩年の寄稿論文で批判できた私の知る唯一の哲学徒だが、彼の論拠は、空間や時間が巨視的物理系では説明の上で分離的かつ各々のパラメーターが可変であると業績上定めたことから、それら時空間の論理を理性認識という中世以来伝統の立場から少なくとも、若しくは多からずとも巨視観のもとでは分かち得るという言ってみれば神の理性の直観に由来している。
 だが仮にこれが仮説できるところで、我々にとっての時間直観が唯一の主観の根拠だというカント的基礎は決して理性的な偽ではない。きのうの自分ときょうのそれとがおなじであるただ一つの訳は、庸視的な時間に単純な順列の規則が一貫して見いだせるからだと説明づけるのがいまなお妥当だ。さもないと時間旅行者は、一貫した自己同一性を証明するのにわざわざ遺伝情報を書き出すしかなくなってしまい、目覚める度日々大変に煩わしい。神の理性というものの正体は、終局の認識論拠として時空の間に不即不離性を見逃して考えた通俗科学趣味のあったアインシュタイン個人の仮想物ないし宗教的混同ではないだろうか。創造主というものを人格化または擬人化して考えることがなければ、理性認識を飽くまでも知能行動の自己組織的図式からはみ出して捉えようとする様な嘗て不可侵性の誇示である呪術信仰の対象としてあった神話段階への退行は、戒められる筈だ。
 超理性的認識は存在しない。仮にそれが仮定されるとすれば、哲学の営みの停止による潜在化された知能行動の退化それそのものか宗教的唯一神の超越性を設ける必要のある倫理問題の前での方便としてだけである。たとえ物理的巨視系についてですら、宇宙の諸理性が夫々の営みを十全な最高目的への部品計画として、言ってみれば謙虚な道徳学徒として世界各地から集めた智恵を致すならその法則はすべて理性的である。合理化の規則は森羅万象を包み込む(汎神論の本質)という古代哲学以来の真理探求の信念が他のどの惑星系のもとで営まれた教養劇団の上でも真、なかんづく善ですらしばしあるならば、その究極の理由はやはり神慮とでも思われるもの、つまり創造論的摂理の中にある。
 今更には、哲学可能な理性認識の拡張は各種の啓蒙の効き目によって超理性的認識の偽装による占いやまじない、いわゆる異端宗教の衣を着て卒なく大乗部から金銭や迷信を誘うといった悪意寄生の徒を一人のこらず峻然と暴き出す、積極的な科学知識度批判の公開された常識的正当化なる役名をその信教相互の倫理的系統論に関する知識の豊富さからあてがわれて然るべき立場に儘ある。要するに、専門用語に於いてのカント的な超越論的仮象なるものはその徹底した否定媒介性、いいかえれば登り詰めることの永久にできない梯子として理性的究極意図誘引の方法に関して有用なのである。そしてありうることだが、その有用性をか弱き人の為には特有の思考内抽象性を伝承向けに簡略化した信仰の助けを借りずにとも強壮に思索できる自己の歩みで確信させるに至る、一部に存在する決定力ある理性的変異大脳新皮質、特に前頭前野の一層の誇大傾向を導く教師とはのちに聖哲きわまり一大宗派を形成するにせよ、哲学者そのひと自身でなければならない。
 分析哲学議論の概説である借用の慣れの批判や論理的ないし学的基礎付けとはこの信仰外有用性の絶えず回帰される理性認識の立場、すなわち直観の論拠を根本理由とする。因みに、日本語では感の字と観のそれとを使い分けて音声以外では使い分けもみられる。おもに生物学上は感覚器官への想起をよびやすいという利点から直感の語が好まれまたそれには合理性もあるが、ギリシア語テオーリアの訳語から観想と翻案されてきた経験から哲学語としては直観の語が好まれまたそこに必然性がある。なぜならただ観るという見物客の立場は、ただ感ける主体より自由人にとって純理論的考察の条件として好適なのだから。どうして感情が芸術家たちの才能なのか、ここから率直に理解できるだろう。度合いこそあれ手仕事に携わる場合は一所懸命その生業へかまけるに間違えない。
 そして借用が重要であればあるほど、その直観認識は単に語学の知識だけでなく哲学的な深度をも的確に持っているであろう。古典を引けば記すまでもないが、書家を含めて言葉をつくりだす文芸の才能に於ける感情の良さはこの趣味についてのすぐれた判断のもとにこそ初めて推敲されることとなる。

武蔵

くさるほどカネを余した卑猥な老人たちが
きみを見下して言う。ほら、結婚しろ
そして日本を繁栄させろ。ところが
きみには120円のジュースを買うカネもない。
それは猥褻物頒布罪極悪都知事に媚びをうった
女流の猥褻物頒布罪極悪小説屋の手の中だ。
そしてまた淫奔な極悪女をはべらせ
威張りくさった悪徳老人連合が言う。
これが東京なんだよ。悪の天皇家を敬え。ギャハハハ
気がくるったみたいな高学歴お笑い芸人だけが儲けまくる
派遣村で集団になって蟹工船をよみあさる漫画ジャップ
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
老人に死ぬ気はまるでない。証拠に、
日々の勤行はすべて金儲けだ、そして
まったく役立たない古臭い情報をはきだし、
全人間を学歴差別し、
若者からの搾取を自己正当化する。ただ吐き気がする。
日本という老廃物でうずまった糞づまりの大獄。
テンノーをうやまえ! テンノーをうやまえ!
なにもわからない黄色い帽子の小学生のときから
何億回怒鳴られてきたかわからないその文句の中身は、
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
ゲイシャジャップ京都土人の末裔が支配する
腐敗した地を洗うのだ!
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
代わりに、そこを一面に咲くゆりの花畑にしてみせよう。
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
黒塗りのベンツから様子を伺いうかがい
通うのは犯罪ゲイシャ屋だけの
腐敗したソドム人種に粛清を!
ところがそれは風のあいまにきこえた
いつかの戦のあとの草刈りの音だった。
のこされたのは、一面に広がる武蔵野だ。鴇の架かる
多摩川の合間でしずかに息をつく、名前のない
浜木綿の吐息を聞いた。
もしこの地に静穏が訪れるなら
そのとき僕はやっと東京を愛せるだろう。今は未だ
あまりにすべてがうるさすぎる。あふれきった
雑魚どものおかげで、大阪から随分遠いここにも
きがしれない損得勘定のみやびとがやってきて、僕の
大人しく寝ている街にサイレンを鳴らすのだ

東京の終わり

よに降るしじまの声のうちききとどける価の少なさよ
潰えゆく東京都の中核で税収をもとめる宮家の傲慢が信仰心をこぼつのみ
都知事の猥褻趣味なりとてわが観照せし東京の終わりよ
生きて行く意味のない暗黒世界の中心で皇室のみひとり財産にしがみつく

2009年10月16日

専門教育の道理

政権を奪った高揚感の所為か、宣言書に記した分を越えた政策を打ち出して国民からの公正な支持を無為に帰す傾向が民主党内に現れだしている。専修学校まで一律無料化を進めるという政策は、計略的な検討が十分なされないまま勢いに乗って考えついたその場のがれの方針だと言われていい。なぜなら、すべての教育機関を原則無償とするという大目的があるのではないなら、私立学校という発祥をその元来とする専修学校およびもと専門学校令に基づいて建学された各校を、国立大学という帝国大学系の施策と同列に論じることはできない。
 そもそも現行専門学校のほとんどは、明治時点で矢継ぎ早に建設された帝大での講義が外国人のお雇い教師に頼って英語をおもとするものであった通弊をわたくしにかんがみ、当時の高等教育を受けた日本人教育者自身が日本語によって、国立大学におけるがごとき外交可能な精鋭層ではなくて、純朴な国内に便を持つ技研者的な中堅層を固める意図を以って創設した史的経緯がある。いくつかの専門学校は大学令と専修学校令の分接時点で名義を鞍替えするかどうかの選択を迫られ、かなりの規模を確保できた専門学校は私立大学へと転身し、そうではない元々の態度で甘んじることにしたものは専修学校という名分を保って現在に至る。つまり、およそ専修学校というもの本来の私学発の土壌を鑑みるかぎり、その国費や政策からの変わりやすい干渉を受けない自主訓練の部分にこそ、安定した業界需要という民生福利に密着した理由がある。それは急ぎ足で当時の先進文明からのつぎはぎの知識を、上位下達の輸入学問としてとりいれた各帝国大学とはまったくことなった意義と将来性とをもっているものだ。たとえば天下りの様なあしき慣習は、国立ならぬ専修学校では結局ついぞ根差しえない。成立の時点からすでにお上の世話にならずにやってきたのだから。ともあれ逆にいえば、政府が干渉を正当化できるのはよかれあしかれ帝国大学系の文部科学省管轄下にある国立教育機関に限る、とここに理解すべきである。
 もしもこういう教育史の系統論を軽視していまの民主党の行き過ぎの政策をまま推進すればどうなるだろう。自然に咲いた私学でしかありえない専修学校という植木は無理な栄養分注入を強要されるべく、その大局最優先的政策干渉という暗愚な方針で根っこから一度ひきぬかれる結果、べつの肌の合わない土壌へなんだかんだと移植されるなかで根腐れを起こしてやがてはすべて枯れきってしまう。間もなく工業という根幹産業も同様の経過を辿るだろう。こういう不自然な改造による失政の例はすでに、エコール・デ・ポリテクニクスなどフランス教育界の一連の近代化改革において、一律の官僚主義的方法による国民活力の退化の中に実際しているのである。そこではほとんど民間人の自発的な創意工夫の発芽がみられなくなってしまった。我々は現代人のなかで圧倒的に優位な成果をみせているアメリカ教育界の方針、つまり教育権の独立と学園の自治つまり原則的な放任主義を、技術訓練面に関しても上級者にとっての私学にまつわる養生方針だと認めざるをえない。
 さらにいうと、市立や県立ふくむ公立教育というものはいわゆる教育基本法で管理されるに留まり、現文部科学省ないしその時点での教育関連の省庁からそれをあきらかに越権したその場限りの干渉を受ける謂われはない。なぜならば、予算編成時点での配分如何は政権与党に任されたものなのだからどうあれ、教育の自由は憲法に明記されたわが国法の認める人権なのだから。そして地方の事情にかえりみて詳細は、各市町村議会の条令規則でこまやかに微分化される方が美しい。これを踏み越えた教育干渉は地方の人民相互の協和と自助の精神を東京人の恣意と強権でぶちこわし、おそるおそる軍隊じみた上官からの一方通行のおしつけがましい国粋主義の鼓吹をみたびふきこむ危険性がある訳だ。その実例は、教育の権限をあからさまに干犯してとち狂った天皇崇拝の現人神思想の狂信を全国全員一律に強要した、棍棒片手に幼弱男女を虐め尽くす軍部独裁の昭和中期の史上最悪の各公立教育状況へ照らせる。以上から結論できるのは、私学という発祥をもつ専修学校への政府からの寄附などはまったく有り難くないどころか迷惑千万であり、この裏の手を返せば内心見下した態度でもって、明治維新以来日本社会のうちで黙々と働いてきた中堅組の自活自習の権限を柔弱公家の策謀に過ぎぬ国立大学府によって飼い馴らされた身売り同然たる西洋思想寝返り組の権化どもといまさら同列化させて扱おうとするなど言語道断、かつ失礼きわまる。道理のない税金ばらまき政策などまことに余計なお世話であり、資本市場の一大壊乱騒ぎに過ぎず、またこの種の非エリートと揶揄された中でも与えられた身代に甘んじて国土再建へ寡黙な奉仕をつづけてきた中堅層の国民感情とわが国の教育史の複雑な経緯に無知な自称教育関係者は、新設ならぬ重用省庁の長となるにあいふさわしい人格や権威とは考えられない。教育とは国の要である。
 民主主義を重く見る一国民として現政権与党におもわくば飽くまでも公約としてかかげた宣言書にしるされた内容を実直に遂行し、それをこえた内容は要々穏健に国民監視の意義へ透明な公開議論の末さっそくあらためるに粗相なきよう、上意下達による一方通行の大上段に構えた旧態幕権の通弊を一新し、おのが一身上の我意でなく現況民意からの公正な支持にこそ率直に則られることを暗黙にねがう次第だ。

2009年10月15日

詩歌

おのれの身かわいさにキリスト教をさんざん迫害し
貧民から搾り取った税金で贅沢を極めてつくった自分の
家は人身売買の店で囲って多妻を勧める人間の屑が
王座に座ってきみを見下す島国にあって僕は
うめき声すら上げられず、ただ息を殺す

ゴミの山だ

この社会という腐りきったゴミ老廃物ども
僕が一言でも発言すれば、奴らはあらゆる手管で潰してくる、マスゴミの渦の中でうめき声を押し殺すしかない
年功序列偏差値順位、ほら合理的だろ
豚とおなじで、繁殖数ごと統計され管理されている

カネあさりの為に生きている南蛮虫ジャップども
殺してもころしてもあとからあとから沸いて出るウジ虫

糞のような歪みきったゲイシャジャップが山ほど
大金を貪る。そんだけ。
漫画をよんで笑い転げる首相。
で? だから何なんだ?
まったく生きて行く価値のない、極東の理想郷
だったんだろ? ここが。

僕は静かに潜行し
ものごとが整うのを待ち続けるだろう。かならず、
そして状況がまるで揃えばその時は、
今まで見てきたあらゆる悪業に蹴りをつけるつもりだ。
邪悪なる人種よ、一匹のこらず滅ぶがいい。
世界の栄えの光の為に

2009年10月14日

服従

語られた物語のなかで、その王様はありとあらゆる悪徳をつみかさねた。人間は王様が偉いものだ、なにか彼らには悟りえない立派な理由をしっているものだとおもいこんでいた。現実には正反対だったし、王様は人間をただの奴隷だと考えていた。しかし、だれひとり知るよしはない。王様は生まれつき他人より恵まれているので、どんな努力もいらないしどんな競争もない。その先祖が地方の豪族を平定し、自身を唯一の権力としたことがうまくいった。

 あるとき海外から突然敵がやってきた。そしてその威張っていた王様を取り殺し、万人に平等なるものを教えてくれた。王様は二度とこの世に復活しないだろう。その筈だった。

 ところが王は島のすみに隠れていて、外人が出て行くのをいまかいまかと待ち構えていた。殺された親玉はダミーで、ほんとうの権力はかくれた岩蔭に秘められていたのだ。そして外人が言葉もわからず、島民の穏やかさに騙されて平和を確認して出港してすぐに、やっとすべてが穏やかになった島には今度こそ絶対支配者になろうとする以前とおなじ王座が設けられた。

 この世ではなに一つ変わらない。あなたは秋の訪れとおなじ様に、王がのさばる光景をくりかえし見た。だがすべての暴力を支配したその王は、かならず地獄におち、またわるだくみを組んだ暴力団に再建される。

 島のなかではその工程がくりかえされ、ほかになにも起きない。それを平和とよびたいならそうするがいい。人々は弱者を虐げる強者を見るだろう。そしてその強者がさらなる強者に虐げられ、一度きずいた秩序を崩壊させるつくりなおしの経過だけ目の前にある。無知なる野蛮人どもよ。貴様らにも世界の広さが知れたなら! 尤もそんな注意書きもムダになる。貴様らにはどんな世界でも服従の習慣があるだけなのだから。

2009年10月13日

信仰

聖者に濡れ衣を着せる者は今度はおのれが悪魔から氷った衣を着せられる。これは輪廻といわれる。

神はただ一つたりとも間違いを起こさず、すべてを世界に真理の筆で記し賜れり。

業は矛盾を起こさない。誰もが一本道の上をゆく。

2009年10月11日

中世美意識の批判

伝統的にみた場合、日本という国家の大きな特徴はおそらくその感性を研ぎ澄ませやすい季節風土の特殊さからくる「美への寛大さ」かもしれない。現代人の知る地球中でこれにもっとも近いフランスという国でも、それと同等付近の美的寛容性しか見当たらないらしい。
 芸者という専用の接客業種、いわば阿婆擦れの性質者を迫害しもせず関西民族が認知していることそのものからも知れよう。だが殆どの国柄からいえば、この様な理性的に好ましくない職種は目の敵にされる。

 一般に美観というものは非常に高い中庸性について当たり、さもなくばそれは奇観を呈するといわれる。だからつねに移り変わる社会情勢や時代の流行にあわせてそのちょうど中間色を穿つ必要性はものごとへの敏感さを望む。そしてこの種の敏捷性や機敏さはどちらかといえば機会主義的なので、決して不動さとか誤りなさとかなんらかの雄々しさ又は「理知」の痕跡をしらせしめない。いいかえると審美的な感情はいずれにあれ背後にあるだろう理知のちらつきをことさら教えないところにある。だが、同時にこの性格がおもとして京都という都市国家の世界ではぐくまれた、中世の倭人らしさであったなる批評の観点を失うべきではないだろう。原則として審美的な形質はそれが偶有の適所にあわなければ他の多数派を占めるより極端な形質に浸蝕される。京都が大変暑く多湿な盆地であるという現象こそ女々しい情緒をそうでない形質よりも被保存的とした特殊条件だった。なぜならその様な閉じられた世界へ外来種が侵入するのは比較的困難なので、もし変移が主要な競争状態で重要なものよりずっと異様で弱体化したそれでもいやおうなく保存されてしまうことになったろう。

 日本人が、さらに成人男性でも幼児的である行動形質がみうけられるとすればこの女々しさなる中世の陋弊あるいは功罪をなんらかの具合で倭人が引きずっている証拠である。美への寛大さを倭がおのれの誇りとするのは自由だが、それを心底侮蔑し、むしろ貧相きわまる奇形への前兆として破棄する理知に長けた、勇ましい世界観を我々は東国の勝利の伝統的必然性の中に見通すのである。
 万一この様な威厳に従う意思のない中世の情けない怠惰と頽廃の生活を愛顧する王権なるものが実在するとするならば、この根性の曲がった退廃京都人の末裔をすでに汚れきった弱体種として叩き直すか、それすら不可能なら尊崇すべき日本国の本旨に於いて不名誉の愚なる偽の長として本土から追い出す必要がある。

 奴隷的芸者と遊びつつ退廃源氏物語しか読めないゴミの様な王族など存在するだけ邪魔であり、かくある社会は破壊した方が世界の威厳にとって有益であるのが間違いない。頽廃と害悪の巣ならその末裔ごと隔離し、かりそめにも我々がほかの剛健にして尊敬すべき諸部族と今後も先の世界へ歩みを進めるつもりなら全員を、腐敗した邪悪なる異教の徒なるものとして破滅させる使命を負う。

 美への寛大さなるものは少しも褒められた性癖ではない。芸者に一度でもその一見した物珍しさから引き寄せられた者は、おのれの愚かしさ理性的自制心の欠落をあとから反省して恥ずかしく思うばかりであり、精々売春罪人にすぎないなよなよした人柄などなれ親しむべきでないばかりかこれを将来の品性没落の助長とし、尊崇すべき宗教心に背く犯罪者として文明国の王座が命じ人の名に於いて裁き極刑してなんら問題もない程である。そしてもしこの汚らわしい慣習を続けようとねがう女々しい王者とやらが存在するとするなら、我々は過ちに沈んだ東京人のあつまる城を徳川家の魂やどる勇猛たけだけしい豪族の営々と築きせし精神いまわす城に泥を塗る輩として実権ごと奪取するしかない。

 従って厳格な侍の美意識は峻厳の感情に於いて、中世のいやしい女性化しきった麿の世界観よりはるかに尊重すべきであって、この趣旨を理解しない人物は我々の霊感あらたかな国土のかみながらの価値をひきさげる不邁の土民として侮蔑批判して何一つ問題はないのである。
 一切の世間人間並の感情を超越した神格へ近づけばちかづくほど、その芸術はいかなる厳めしい学問とも並ぶ以上の尊敬すべき対象となる。もしイタリアというルネサンスの遺跡がバロックを擁したにすぎないイギリスの本国などよりも芸術の格に於いて圧倒的に上等なら、単なる市場競争を超越した神意への寄進という天才共を突き動かした歴史精神についてどう見ようとも勝っているからだろう。

2009年10月9日

徳川の計略

守りを固めるのは国家経営の前提だが、いかんせん関東軍人の後腐れは日々芸者遊びなどの悪徳悪行悪業に暮らすうえ勉学を好まないので知力が乏しく、簡単な計算を見誤る機会がきわめつけに多い。
たとえば満州を策謀で侵攻した時、もしそれが軍人風情でなく真実の知慮に優れた文官参謀のもとに行われていれば、各種の軍隊式の下賎きわまる欺きや常道的悪行の罪によってではなく「講和と商策」という文人外交の王道によって、当時の国連からも正当な支配関係と黙認されたかもしれない。文民統制の決定的だったイギリスが一体いつまで植民した香港から利益と尊敬を受けつづけただろう?

 これらをもし敗戦によって得た原爆ドームの慰霊碑の真上に立って真剣に反省し、自分どもより遥かに賢い国家が現実に存在していたと先見の明ある政治家が目覚めるなら、いつ転化して狐の皮を剥き出しに侵略戦争へと現地で暴走してもまったくおかしくない“防衛省”なる奇形な組織をかの二の舞を踏むものとして自主廃棄し、それを警察庁と一括して『警察省』と面目を改めるだろう。
もしそうすれば国内の武力がすべて内閣総覧のもとに運用されゆく習慣が自明となって、万一この元々防衛省と呼ばれていた悪魔の集団が戦場で以前と同じくあらゆる悪為を発狂したとしても我々は「警察権力」の行き過ぎだとしてその責任を、現職内閣総理大臣の失政へと求めることができる。すなわち最悪でも総辞職によって平和主義国民自身の責任ではなくなる。
そうなればいかなる命令外の暴力も、国外のどこで働いたにせよ単なる国賊行為でありテロリストの暴走なのである。公務執行妨害の国内法で裁けばよい。
 仮にそうしないままで防衛省と名乗った悪人たちによる侵略行動が暴走すれば、日本政府は国連から当然その内政干渉や政治的不当行為の批難を受ける。そのとき責任を取る建前がいまの段階ですら存在しない以上、防衛省が警察庁あるいは警察権力と分離している現在の国家国防体制は策士からの‘揚げ足取り’をいざなっているのに等しい。

つまり、もし外国人がこの脆弱な理性を国際的に孤立させ潰そうとすればまず武力で挑発し、防衛省から出てきたいつもの馬鹿きわまる関東軍人をどこかの囮の内地へ引き込み、これを手玉に取るべく様々に裏をかくおちょくり威嚇で暴走させればよい。
武士道なる古代の陋弊を神武創業無敵復古などとあたまの狂った狂信状態で思い込んでいるこの以前のままで進歩のない武官の血筋は、いうまでもなく感情に激しやすい女々しい情緒的国民のことだからまちがいなくほぼ侵略行為同然の、政府からの命令無視の暴走をはじめる。
こうなればねずみ捕りと同様で、本土であたふた慌てふためく大王家周縁とやらを“ネオナチズムの巣”であるとして国際的なテロリストの親玉へと事情に薄い各国民営報道局を懐柔利用して仕立てあげればよい。
国連軍は世界的扇動状態で日本本土を即刻占領し、今度こそ某の在来宗教ごと解体し、大悪土民の汚れた血統書つきの過半数は生化学装置で安楽死させるか奴隷とし、王をそのための事後暗殺前提の傀儡とし、結果としてあふれる大馬鹿者の土地を連合国の総合的民意によるすぐれた外来新種の平和主義文明軍で支配完了できる。

 もしもこういう貧相な算段知能しかもたない‘軍人幕府の末裔という劣った伝統’というおそるべく又あしき宿命を変更や改良、改心さえしたければ、守りとはべつにできるかぎり和平をもとに発展共栄への攻めの道を全力で考え尽くすような『計略省』を新設されるとよい。
仮にもその人員へは文官の命令に背く確率のたかい武官の分派ないし末裔を、きちんとした照査のすえ決して編入すべきでない。さもないと(秀吉の天下人時代のごとく、出自をわすれて)再び知恵の足りない無謀な侵略戦争方法としての計算式を考えだす危険もあるので。
一般に、ひとたび戦闘をおしえこむとその軍事階級は死ぬまでいやでも戦いつづけてしまう習性をもつ(西郷王国の自壊的滅亡をみよ。逆に、西南戦争の真っ最中の同時代から学問の習性をつづけた福沢王国あるいは義塾の先行きある展望をみよ)。

そして遠い将来にはこの理科を本旨とする省庁が、むしろ国連軍への形式や義理の参加を除いては後進地化して国際戦略的には失敗と見做されるようになった軍事演習や国費で雇う専門武官などなどへの悪評をまねく無駄な予算を充てるのに適当なだけ、国家経営方針決定の中枢となるだろう。
 特に、帝大の血統を引く東京大学府が各地から科挙的に集めたアジア最高峰の勉学向き知性を蔵して身近にあるという好適な機会を活かして、一直線の高級官僚への道ではなく、内閣府の中の頭脳班出身をめざす道もことさらに空けておくならば、後のちの政権交代時に政策与党による大変に学理的な質の高い情報を民間の研究家へ普及させるといった「戦略開発」の民生福利へも、一石二鳥の功績が期待できる。

2009年10月8日

何もない都

なつかしき扇子のことも忘れつつあるのも過ぎる時のおと
おそろしきことかまことか台風の足音だけが世にも降るなり
沖縄の上を過ぎゆく足早な大風のあとに青空の色
忘れゆく昔の出来事もみな走り抜けてしまった風音
形だけ整うばかり何もない都のどこも洗い流す雨よ

信仰

神の名をみだりに口にする者は本来名前を持たないものへの呼称という嘘つきによる因果応報を受ける。

神の代わりに偶像を用いる者はそれが人々を勘違いさせる程度に応じて因果を受ける。

神聖政治の敬遠

皇帝が王族と異なるのは、その世襲や世継ぎが前提となっているという神聖支配の正統化にある。だから皇族は、他のいかなる王や族とも権威の正統性に於いて比類がない。一般に、どの王侯もどれほど長く維持されてきたかという伝統の確かさによってのみその真価が問われるので、地球の帝という正統性を永年主義するに皇室ほど崇高なる権威は存在していない。
 但し、政治の実務に皇帝権力の専制が最適かという疑問には世界史のあらゆる悲惨な実例が雄弁すぎる解答を出している。絶対権力の腐敗は絶対的。
 この面で、至尊なる皇統を祭りごとの側面、いいかえれば大義名分論の範畴へ飽くまでも限定して国民奥深く内蔵することが、その宗教祖への唯一の敬意あるいは論語の意味での敬遠である。この祖先復礼という宗教形式を民族独自の祭りごととして保存することは、世界の中の季節風土に於ける希少な文化的系統を、発生初期の儀式の記憶毎ごく素朴な侭に保つ、ある種の伝統芸能の保全に値するだろう。
 全宇宙の最高権威たる全知全能の神からの命令を自然崇拝からつづく一系統の上で実践する、この神聖支配の方式を少なくとも地球の上に於ける代表者として象徴する役割こそ、天皇が大義名分を貫き通す伝統的正統性である。

2009年10月6日

ある朝日社説の本末

議会制民主政を任じる国民が、是政者へ実行してから言い訳せよとねがうとは本末転倒である。

2009年10月4日

商品開発

一枚板状の、A4サイズのネットブック端末を発売すること。キーボードは無用。できるかぎり操作を簡略化してシニア層も標的とする。