2005年10月31日

天の川

美しき時空の上の天の川

2005年10月30日

都会

時間が経過するに従っていくらかの風景が流れ、ちょっとした空間の変化があった。君はその中に含まれている。どんな終わりもなく始まりもない。とにかく君は実存している。それが全て。
 東京のどこかを君は歩いている。空は赤紫色に光り輝き、破壊された自然の表象を物語っている。辺りには匿名的な大衆が蠢いている。そして目指すべき当てもなく君は歩き続けている。構築された世界は確かに、以前よりずっと不満の少ないそれかも知れない。どんな意味合いに於いても経済的合理性を指向した近代都市がここにある。君はその緻密な部分だ。
 数え切れない通行人に向けられたきらびやかな広告看板があでやかな律動を生み出している。だからといって特にどうなるでもない。無意識に刻まれる伝言の他には何もない。どうということはない。それらのまたたきは抽象化された町の一部。君は現れて消える対象物を繰る冒険者になっている。止めどない想像群の奔流、はっきりした思考が観想を深めて行く。
 時計の数字は22時を過ぎている。君の体は新しい栄養素の摂取を要求している。蓄えられた限りの働きは消費され、次の力動は別の燃料を要求している。
 君はふと、小学生の頃好きだった少女について思い出す。ピアノが巧かった。あれから随分経つ今は何をしているのだろう。誰と知り合い何をしている。君に、少なくとも今の君にはそれを知る術はない。幾つかの記憶は想像力の構造に依存しなければならない。
 名も無きファミリー・レストランに入る。マニュアル対応の店員に気の抜けたハンバーグ・ランチを頼み、食前に運ばれて来たサラダをほうばる。私は隣り合わせて座った家族連れの低俗な会話に嫌悪感を催す。ポケットから取り出したウォークマン・スティックのイヤホンを耳に突っ込み、何も聞こえないふりをする。現実を生き抜く手法として。私は運ばれた出来合いの物を栄養価にだけ気をつけて口に運ぶ。誰も知らない外国の機械化された農場から旅して参った貴重な豚の、あられようもない姿に目をつぶる。食べることは生き抜くこと。
 店を出ると時間は23時を回っていた。君はまたこの荒野を歩き続けて行くだろう。どんな理由もない生活の物語を。

2005年10月29日

学ぶ事は学ぶ為にある。

2005年10月24日

学習動物

老いても学び続ける者だけが称賛に値する。人間は学習動物で、向上に終わりは無い。

自制

今日の平均的人生が百年近い寿命を持つ事を考えれば、生きる行為はその範囲を上手に計画する様に為されるべきだろう。即ち、若い内によく学び働き、蓄えを以て老年の体力の衰弱に備えるべきだ。しかし自然の流れはしばしばこれに逆らう。若者には体力が漲っているから。合理的行動は動物的欲求の昇華に因ると悟らなくてはならない。自らを抑え切れない分だけ行動しても、それは一般の若者にとって過剰すぎる。

2005年10月22日

無恥の恥

無恥を恥じよ。

絶対的知性

宇宙に実存し得るあらゆる生命体の内で、我々が相対的に知的か否かは大した問題では無い。なぜなら人間は、哲学を自己目的の楽しみとして見いだせる。これが絶対的知性の他ならぬ証明である。だから論理的には、我々に理解できない何物もない。そして我々が生存する限りつまり無知であり続ける限り、知性は増進して行く。文明の希望というものもそこにある。

2005年10月21日

磯原海岸

僕は海辺をゆっくり歩いている。波間には重力が生み出す微妙な均衡が見え隠れする。太陽と月が交互に天空を支配し、雲と雨と雪とみぞれが水の惑星、地球を表現する。僕はたった1人だ。他には取るに足らないテトラポットの後ろ姿以外何もない。何も見えない。潮騒だけが穏やかな雰囲気を醸している。
 風の色が変わる。青の音が響く。僕の形が消える。波の描くカーブの空間が変質する。そして時が止まる。
 アジアの極東で太平洋を眺めていたという前提で或る世界の枠組みは展開し、宇宙は適切な秩序を構成し始める。ラジオが鳴り、テレビが映り、草原では馬が駆け、地中ではもぐらが掘った。海底には不気味な生物が潜み、街なかでは明朗な喧伝が聞こえた。あとには混沌だけが残された。僕はどこにもいない。ただの音頭だけが体感されていた。祭りが行われている。我々を含む何ものかの踊り。
 繰り返される戯れが超常的な現象を喚起する。お化けがコンクリートの厚い壁を難なくすり抜けるかと思えば、御飯が二次元に平面化され消化できなくなった。旅立つ山頭火の足元を群れになった和冦が取り囲み、パスカルとデカルトの会合をワシントンが指揮した。ナスカの地上絵が地上波から放映され、飛び立つ雁の一匹は作り物だった。マイナスとプラスが交互に入れ替わり、視聴覚は味覚や触覚と一致団結した。
 僕は波間によって現れては消える、砂浜に描かれる神妙な図形の上を歩いている。秋の、少し肌寒いくらい涼しい空気が、無限に透き通った水色の空を見せてくれている。
 もうすぐ冬が来る。そして暗い闇が訪れてあらゆる意味を覆い隠してしまうだろう。僕はそれまでの間、鮮やかで細かい砂の音を耳に感じながら散歩を続けよう。
 犬がいた。のど元を撫でてやる。犬は元気に尻尾を振り回し、喜んでいる様だ。きっとこの場所から時空は穏やかに見えるわけなのだ。

2005年10月20日

名誉

現世での名誉を自ら棄てる程、死後の栄光は高まる。

創造論

創造するには先ず、充分に模倣する事。

独創

独創は独立から生まれる。

偉人

偉人に不遇はあり得ない。あるのは、行動能率だけ。

効率

天才の謂われとは学習効率にある。

人間

都会を歩く人を追う。視野は上空にあり、1人の若い女性に照準が合っている。超高層ビルの谷間を抜け、やがて雑多な商店街に着く。
 視点は近づく。女は灰色のパーカーを羽織っている。ポリエステル製のそれは、歩みを進めるたびに擦れ、独特の音を出す。彼女はアジア人らしく、長いまつげを持っている。背は150くらい。比較的痩せている。
 彼女は、とあるドラッグストアに入る。視点が入り口前に固定する。暫く経つと黄色い手提げ袋を抱え女が出てくる。我々は目的もないまま、再びその行き先を追う。
 交差点を抜け歩道橋を渡り、駅の地下に降り、雑踏に紛れる。我々は彼女を見失ってしまう。あとにはただ、匿名の人波だけが残された。
 時が過ぎ、深夜になる。空には綺麗な半月が浮かんでいる。絶えない人通りが地球に暮らす二足歩行の生命体の日常を物語っている。我々はただ静かに、その内容に耳を澄ませている。

探検

君は名前のない空隙を歩いている。ここは時の裂け目だ。何もが起こり得る。そして次の一歩を踏む。
 どうしたって超えられない壁を抜ける。
 最も単純な数式が現れて消える。君にはその答えが分かる。だが、何事も世界構造に含まれている。君の行動範囲はシステム内にしかない。どう足掻こうとも仕方ない。新しい光が期待外の空間に審美法則に関する図形を描くのが見え隠れする。うずきが生じる。何もない。
 私は星と出会う。時が溢れ満ちる。それから川に流れ出し海へ着く。太陽光に温められ空にのぼって雲になる。やがて冷えて雨になる。山はそれを蓄え、少しずつ、少しずつ漏らして行く。岩清水は渓流になって川を造る。まるで我らの脈動みたく循環して行くたましいの営み。花が咲いては萎れる。命は生滅のリズムを刻む。刻んできた。刻んでいる。どんな疑問もなく。最早すべては正しい秩序を構築しているのだ。
 では新しい時へ行こう。
 そこには自由がある。彼らを縛る何ものもあり得ない、完全な宇宙の上。我々は働きそのものとして実在しているだろう。どんな部分でもあり、欠くべからざる全体でもある。欲求は力動でしかない。延長され続ける時空間を歩いて行く力になる。
 そこで事物は終わり、始まる。彼らは生死の枠組みを超えている。肯定も否定もし得ない普遍の下でお遊びしている。

2005年10月19日

CM

川を遡る魚になる。泳ぐ為に泳ぐ小さな生命力となって前へ、前へ。摩擦と重力の抵抗が筋肉を鍛える。取るに足らない食事が活性酸素の発生を抑えつけていく。君は地球の律動の一部になって、空間と時間の、太陽と地上の軋轢アツレキを細かく、細かく、細かく調停する。自分自身の限界との競争だ。
 突如終点に着く。川は途切れ、流れ出す滝だけがそこにあった。壮大で、巨大な滝。君は偉大な自然の理力に感銘し、涙をこぼす。魚にはまぶたが無いから瞬きもできない。崩れ落ちる滝としてなみだは川になる。川はやがて海に着く。
 君は海上を渡っている鳥になる。飛ぼうが飛ぼうが、終わる事のない冒険だ。始まりしかない。やがて満月が昇り、少し空気が冷える。しかし問題はない。飛び続けるカロリー消費の故に全身は程良く火照ほてっている。まるでかもめのジョナサンみたく自由だ、自由だ。自由だ、空を泳ぐ魚、風を切る馬。
 君はを駆ける馬になる。どこまでも、どこまでも走っていける。走り続けていける。風景が切り替わっては消え去っていく。吐く息が白い効果になって空中で暫く留まって大気に融和する。設計通りの画像だ。
 僕は渋谷の交差点で大ヴィジョンを見上げていた。自分が創作した映像が街へ流れ出す。滝みたく圧倒的に。鳥みたいに、只で。馬みたくダイナミックに。このCMは成功した。

行進

規則正しく整列した人たちが兵隊みたいに行進してく風景だ。ここには疑問に付される何事もない。どんな迷いもない。悩まない。君はとどのつまり、目の前を歩いて行く名前も知らない誰かの後ろ姿を眺めていれば良い。歩き続ければ、問題は無い。
 型どおりの人生が日本に産まれた僕には染み着いていた。授業中はできる限り目立たない様に大人しく振る舞い、成人したら誰とも衝突しない様に気を付けた。それだけで良かった。少なくとも、それだけで良いと信じていた。
 足並みが崩れ始めた。前線が混乱しているのだ。停滞ができた。少し休もう。けど、なんだか物心ついて以来、初めてゆっくりと憩うゆとりが持てたみたいだ。朝日が昇り、正午を周り、夕日が沈む。その間ずっと、今までの自分とこれからの世界について考えていた。
 どうして歩かなければならないのだろう。
 そう思い至る。結局、理由も知らないままで歩み続けて来た僕がいる。もしまた行列が進み出したらお前は着いていくのか。それとも誰が何と言おうが自分の意志通りの道を行くのか。

2005年10月18日

散歩

僕は単純明快な呼吸を繰り返しながら地球を歩いている。答えはない、けど問題もない旅路だ。あるのは生きていく必要だけ。死なないでいる使命だけ。空には雲が浮かび、街には灯がともっている。秋の澄んだ空気が美しさについて冗舌な演説を行う。それを聴く。どこへ向かっているのだろう。何を探しているのだろう。どうにも無く、ただ単に歩いている。全て、それが。透明な時間を繰る。空間が五感へ訴える。間違いなく今日は今日だ。そして僕は歩いている。どんな話もないこの冒険が、明日の予感を設計する。僕は施工者だ。行き着く果てのない建設、歩行。落ち葉の噴水とベンチの律動、野良猫の昼寝に自転車籠のごみ箱。何度となく組み換えられては立てられる風景が上手な絵を描く、また消す。作り壊す。ささやかな植物が足元で踏みつけられる。小さな生き物たちが死に絶えて行く。それでも歩く。歩き、歩く。ある日、そんな散歩にも終わりが来る。我々は土に還り、自然を耕すのだろう。

2005年10月17日

新しい人生への経過

そう言えばいつも同じだった。駅前改札を出たところにあるキオスクの看板、バス停の雰囲気、少し淀んだ人波。けど、もうすぐすべてが変わってしまうと分かって、少し淋しい気持ちがする。君は改修計画想像図の貼られた掲示板の前で佇んでいる。休日の駅前は普段より人影も疎らだ。
 カシオのデジタル時計を確認すると昼過ぎ。そうと知ると急にお腹が空いてくる。君は名前を知らないファーストフード店に入り、コーヒーとサンドイッチのセットを頼む、560円。お釣りは450円。野口英世が印刷されている千円札に十円玉を添えて出した。そして比較的中央の、壁際の席に座る。心理学的に端かつ壁に寄りかかるのに安心するという動物の習性を多少意識して裏切り、完全な落ち着きではない適度な緊張感を得たいと思ったのだ。そして一口、珈琲を飲む。
 特に問題はない。だが、解答もない。
 君は食べ終わった。モバイルで掲示板にアクセスして情報交換に参加する。胃が食べ物を程良く消化したら立ち上がり、ごみくずを籠に入れてトレーを所定位置に納める。大丈夫、今日も世界は動いている。
 御馳走様のサインにレジのウエイターに目配せして店から出る。雨だ。君は傘を持たない。
 仕方なくちょっと走って駅構内に戻ってキオスクで100円のビニール傘を買う。青い色のそれを選ぶ。今の自分の気分に合うから。女の子が青い傘をさしても悪くないだろう。
 しばらく歩くと私のアパートが見えてくる。部屋のドアを開いても誰もいない、愛しい我が家。ちょっと考えると惨めだけれど、よく考えれば高貴な城だ。都心住まいには知恵がいる。要は考え様なのだ。私は畳んだ傘を何度か振り、滴をよく落として、取り出した鍵を穴に入れて回す。かたりと音がして入場可能になる。
 私の家の匂いがする。昔から思っていたのだけれど、各家庭には独特の個人の匂いがある。文学的比喩や象徴ではなくて、単純で純粋に、嗅覚を刺激する物質構成に違いがあるのだ。それは多分、生活様式や体臭の種類による個性の発露なのだろう。私は部屋の昼光色蛍光灯をつける。
 窓の外には午後三時の普通の風景がある。真向かいのマンションのおかげであまり見晴らしはよくないが、少なくとも自分がこの街に暮らしていると判るだけの景色が見える。観葉植物が渇いているように感じられたので、渇いた土へコップに注いだ水道水をやり、残りを自分が飲み干した。綺麗な街だ。私は新しく生きている。

2005年10月15日

愛好

単純明快な正解を求めて何度も何度も問題を解くんだけれど終わらない。まるで難しいパズルみたいに入り組んでる。二匹の猫は雨が上がったあと、奇跡みたいに晴れた青い空を見た。

秋月

薄雲透かす秋月

2005年10月13日

人間の想像力に無以外の限界がない以上、文明の発展にも終わりはないだろう。人類の生存が確保される限り。

役者論

代表的人間にならなければならない。

苦難

生きることが死ぬことより苦難だとすれば、我々はなぜ生きるのか。

今日

繰り返す戯れをずっと眺めていた。世界の果てにいる。ここではあらゆる音が聞こえる。すべての形が見える。けれどもたった1つだけ手に入らないものがある。命令しなくても勝手に働き続ける機械みたいに、世の中が今を奪い去ってく。けど、どうしようもない。立ちすくんだままでいる。踏み出せないままでいる。どこにも辿り着かない想いが生まれては消え、死んでいく。
 そして明日がやって来て、飲み込んでしまうだろう。まるで何事もなかったかの様に、いつもの世界は動き続けて行くのだろう。地球が回り、命が暮らす。そんな毎日に順応してゆくのだろう。そこに救いはあるか。未来の栄光は降り注ぐのか。分かるのは、きのうはもう、過ぎ去ったということだけだ。

2005年10月12日

文芸論

生きる物を幸福にする、美しい文章。

2005年10月10日

生命体

人を含めて、生命体はなぜ生きているのか。何故に対する解答は一般的に「~だから」という形式になる。生命体は宇宙の動的形態。それは有機性を持ち、盛衰のパターンを伴いつつ生存という基本目的を追求する。と、そういった「どの様なものか」という問いに対する回答は可能なのだが、「なぜか」という問い、つまり哲学的な懐疑に対し科学は役立たない。事実の分析が対象科学の仕事であって、批判ではないからだ。
 そして生存する為という根本因を無碍にした先では最初の質問自体不適当なものに思える。生きる為に生きるから。それ以外に適当な一般解があるか。けれども、私の疑問符を納得させるだけの解答として、それでは不完全。生きる為に生きるものとして、人間だけが独自に持つ生存の普遍的論理を明らかにせねばならない。考える理由はそこにあるから。

理由

充実を探しているけれど、どうにもならないな。人間でしかあり得ない僕らが毎日葛藤するわけを求めるが、辿り着かない。努力しても努力しても限界が目の前に立ちふさがる。そして明日も、もがいてく。繰り返し、繰り返し。それでも何を欲しがるのか。何に向かうのか。どこへ死にに行くのか。
 動物としての生活が悲劇に思えるよ。けど、神様だって虚しいのか。じゃあ君の理由とは何なんだ。教えてくれ。命の理由とは何なんだ。
 海から爽やかな風が吹いてきて、あらゆる疑問を水に流してしまうだろう。解けるものと未だに解かれないものとが穏やかな波間に見え隠れする。僕は小さな子供みたいに、そんな綺麗な光景を眺めていた。空には無数の星が光り輝いていた。幾つかの時が流れて星を形作った。地球は回る。どんな困難も乗り越えて行こうとしながら。未来を描く為に生きている。

2005年10月8日

海原

静かな風が吹いている。君はそれを聴く。丘の上に立ち、地表を見下ろす。何世代かの交代があり、何度かの戦争があった。その度に築いては壊された都市が、今は輝く光の中で滔々と恍惚を語る。そして恐らくは、いつかまた瓦礫の山に帰り、自然の営為へ宇宙の塵に還るのだ。君は切なさにも似た情感を以て、繰り返される世界の戯れへ共鳴して行く。
 空には雲が浮いている。足元には草花が茂っている。鳥のさえずりと虫の鳴き声が聞こえる。そして、生きている。物語が始まりそうに感じる。だが、時間は当たり前の速度を維持し、星々の運行と合わせゆっくり陽光を傾けていく。そこにはどんな出来事も起こりそうにない。生ぬるい初秋の風に寄り添って、ささやく草花。歌声は地球の律動に乗り、街の天空を通り抜け、風の曲になった。
 僕は浜辺に居てそれを聴く。終わりなき音楽が甘美な死について能弁に語る。きっと僕らは死ぬが故に生きる。しかし、生きる為に生きなくてはならない。海の奏でる旋律は目的も理由も掻き消してしまう。残るのは波の、複雑でしかも単純な形跡だけ。さらに反復される次の、次の波。まるで命の鼓動の様に規則正しく、寄せては返す。僕は悲しみと安心とを持ち、そんな海原を飽きる事なく眺めていた。

2005年10月7日

私事

幸福になるのを恐れる事はなかった。もしそれが公共のものなら。

天体流動説(天流説)

天道説、地動説という分類は相対的かつ便宜的に数値の上下を測ってから仮定されるべき前提だろう。なぜなら太陽系そのものは銀河系の中を恐らくは公転と自転によって流動している。また銀河系も天の川銀河の中を、天の川銀河もこの宇宙の中を流動しているのだから。

物理学

私達の暮らす宇宙の外側が無(物理学的には、エネルギー0、時空間の概念の消滅した場所)だとすれば、便宜的に社会学をも含む自然科学という営みは、その内側、有における法則性を発見構築する作業だと考えられる。
 数学はここから自立している。それは抽象性において時に非対象的思考であり得るから。

呼吸

反復される律動に対応して世界を形成する主体が、穏やかに微笑んで君の遺伝子に潜んでいる。
 地球が回転に関する魔法をかけて、地表に生息する数無き数の命に、改めた息吹きを注ぐ。産まれ、変わる。散々展開して刷新される。つぼみが開き、閉じる。
 君は街中を何食わぬ顔で歩いて行くだろう。自重を利用して、滑らかに、小気味よく。雲が移動して雰囲気を代える。生存の為に生存する。言葉にすると簡単だけど、最低限の原則が示された文章。ちょっとした諧調のずれが尽きない多様性を語りかけてくる。

小さな生き物

君は小さな世界に産み落とされた小さな種だ。そこからどんな花が咲くのかは知れない。しかし、その種は静かに時を待っている。静かに、静かに。
 何度か雨が降り、雪が降り、太陽光が降り注ぎ、みぞれが降った。春が過ぎ、夏を迎え、秋を送り、冬が来た。台風と地震があり、津波と火山の噴火があった。地盤が隆起し陥没した。海面の上昇と下降が訪れた。幾世代かの動物達の盛衰があった。強い故に驕れる者は滅び、弱くても変化に対応し自分自身を改めて行った者は生き残った。そして種は芽を出した。
 朝日が地表面を等しく照らし出すとき、二つの葉っぱが風に揺れて動く。まるで奇跡かと見紛うばかりのすみやかさで、重心の揺れに合わせた正確な速度で。海からの潮風が新しい草に生気を与える。山から下ってきた栄養豊かな水が成長を促進する。雨にも風にも負けず嫌いな草は、次第に力をつけ、立派な背丈にすくすくと伸びる。人間の子供のいたずらも意に介さず、運動不足を太陽の向きに対したストレッチで解消する。
 そしてある日、花は咲いた。あのちっぽけな種は今や、植物として一人前に成熟したのだ。
 しかしすぐに君は切られてしまう。人間の大人が、美術にする生け贄の為に取り去ってしまう。首から上が無くなった世界で最も悲劇的なヒロインになる。
 やがて命の目標を失った草は萎れ、足元に生息していた微生物に分解され、土に還る。誰も褒めない。誰も責めない。誰も気がつかない。地球が鼓動を刻むのに併せて、種は花を咲かせては枯れるのだ。私達の人生はそんな営みに喩えられるかもしれない。

2005年10月6日

社会学

政治と経済に関する主義の分類が必要である。しばしば両者を混同させる事が曖昧さや混沌をもたらす。
 政治と経済は理念上では分離され、別々の文明活動と認識されねばなるまい。

動物性

知徳の愛究を怠る者は自分が下等動物であると証明するに過ぎない。

訳語

Competition(競合、競戯)

大学者

教育の究極の目的は、各人に自己教育の契機を与える事にある。従って、この姿勢が真に身に付いた者こそ、大学者と呼ぶにふさわしい。

2005年10月4日

独行

学術的な独行主義は最善の合理性を持つ。

学術論

学術は自由である。

目的としての偉大

全ての生き物は産まれて生きて死んでいく。人間が我々自身が思うほどに偉大だとすれば、それ本来の目的を達した場合にいえる。

秋風

秋の風新宿御苑渡り行く

2005年10月2日

一石多鳥

一つの石を多くの鳥に当てることを喩えに、ある行動で沢山の利潤をもたらすこと。

ベンチ

時が残酷さの代弁者となる。届くはずのない想いを重ね、連ねては幾つかの後悔を飲み込む。
 世界が変わった気がした。退屈で仕方なかったはずの毎日が、キャンディをばらまいた部屋みたいにすごく愉快だった。どうしてなのだろう。不思議だけど、答えはいらない。後は何もない。なにもいらない。
 都会の片隅に置かれたベンチに座った。互いの関係はやさしさの為だけに用意されたオードブルになる。そして地球は回った。
 もし運命と呼ばれるべき何かがこの世に存在するとしたら、それは、このベンチだろう。避けられないし避けたくもない。ただ単にある。そして人を、あらゆる時空を飲み込む。吐き出すことなく消化する。

2005年10月1日

六本木の猿

都市は時たま林みたいな表情を浮かべて君たちを見下ろしている。ビル風がスカートやかつらを鮮やかにめくるのを眺めるほどに、人類が造り上げた工芸品としての総合的環境を感得する。そこに適応して行く都会人はまるで新しい種類の猿だ。君たちは、二本足で日本に立つ日本国民なのだ。
 あるカフェ。通りに開かれた席。
 あなたは簡単な飲み物を傾けては、古めかしい命題を思考する数学者みたいな顔をして自分史に浸っている。街のざわめきが楽しいことや悲しいことをみんな取り去ってしまう。ゆえここへよく通う。さて、待ち合わせした予定もないのに、あなたの隣に座る誰かがいる。彼はアイスコーヒーを頼んだ。そしてほっと一息ついた。それから何が起こるのか。その雰囲気は完璧に自然だったので、あなたも不思議には思えない。周りのお客さんは間違いなく知り合いか何かだと信じている筈。しばらくして冷たいコーヒーが運ばれてくる。結露した水気がひたひたとテーブルを湿らしていく。運命なのだろうか。あなたはようやくそう気がつく。どうあがいても避けられない定めがある。それは個々人の非力な意志を遥かに超えたものである。だが、彼はコップ一杯の薄暗い液体を飲み干すと静かに立ち上がってその場を離れる。軽い間がある。それからあなたは過去となった事態を理解する。繋がれていなければならないはずの糸はどこかでもつれてしまったのだ。今や全ての後悔は、単純明快な事実の前ではただの遠吠えに過ぎなかった。
 そこで夕立がある。六本木の歩行者用交通性を構成する通りは一瞬、戦場となる。けどすぐに霧雨の支配下に落ちて平和になる。しばらく間が空く。それから天はからりと晴れ上がる。そこであなたはこれまでにない充実感で満たされていることに気がつく。名前も分からない人と秋雨が、疲れと傷を癒やしてくれたのだ。命は充電を完了し、体中は青空のような爽やかな渇きを湛えている。もう恐れるべき何物もない、そう直観するに充分だ。林は君たちを囲む。そこでは独特の法律に則って人というさるの戯れが続けられている。僕は森ビルの展望室から地上を見渡す。