2010年8月31日

現代社会哲学の批判

資本主義の矛盾をいう社会学の思想家らは、彼らがそれを不利な体系とかまける他に特段の訳もないとして、経済社会がその場の富の偏りによる不平等を用いる事を忌む同じさをもつといえる。
 より原始社会に遡ると、平等な社会の血と不平等な社会の血は夫々違う系統から現代に合流してきたかも。日本に限っても、渡来した弥生文化は後者の富の偏りに適応していたらしい証(埋葬の格差。これ自体は地位を示すにすぎないが、間接的に個人差扱いの偏在がある)がある。ゆえ現代でも、議論や思想でこの両者の分かれ目が埋まらないとしても余り不思議でない。極論すると、現代社会に至る文明の合目的さは平等文化と不平等文化の均衡か混ぜいれそのものにある。だから社会学の思想や社会哲学で最も重要なのは、実は平等への導きでも不平等へのそれでも必ずしもなく、今日と大差ない資源条件下では富の取引の程度の問い。もし完全な不平等文化下では一切の所得調整は行われず、貧民層には道端でも餓死者や虐待される者がひろくみられ、富裕な一握りの者は一切の前後をかえりみない極度の豪遊に浮き沈むだろう。逆に完全な平等文化下では誰も格差をみない社会習慣に馴らされ、誰もが同じ位の家で同じ様な暮らしをし、同じ生涯を送り同じ子孫と同じ教育を与え、同じ墓で同じ老後を送るだろう。
 この両方に現代までの社会の真相はない。どの社会も、何らかの調整を配分の不平等と共に続けてきた。ある程度の型はあれ、現代文明の社会哲学的本質はこの取引文化の問題なのである。だから、不平等社会への煽りや平等への狂信をいざなうどの思想も過ちか虚偽。取引文化の問題をよりふさわしい世界観の為に改良する智恵を含まない社会哲学に省みる価値は殆どないだろう。

月日

文明が野蛮じゃないと誰が言った
オサマビンラディンが麻原彰光が聖人じゃないって
自称天皇の気狂いが言った
なぜ原爆おちても仕方なかったの裏切り者

多分
全ては
すぎさる丈の
くも

ほつれた糸を
結びなおす
やがて
ほどけてしまうのに

誰もいないグラウンド
程綺麗なものなし
ただ真っ昼間になって
ごちゃごちゃ子供がこなければ

足取り重く
教室を出たり入ったり
学校が面白いとほざく餓鬼は
出来の悪いませ餓鬼ばかりだ

よごれ高校生女
発情発狂中
半裸で学校へ通い
税金をくらう売春害虫は時が駆除した

山奥へ登り
河口へ下る
驚くばかりに
なにもないのが分かる

中国四千年の歴史
137億年を過ぎて
光は漢字をみいだした
代わりに無知を残して

嫌味な奴
ちびまる子の四コマよみすぎで
仙台人どうした
ユーモアじゃなくて嫌味で応答

純粋な芸術家を求めて
孫まさよしはカンブリア紀に吠えた
「清貧でも画家、いいじゃない精神論!」
ごみにまみれたアトリエに立つこともなく

きたないキョート女が猥褻頒布罪を垂れ流す
見るだけでけがれる
多くの極悪東京土民にまみれて金にまかれているほど奴らが
同じ穴の貉だと分かる

終った
こんな奴らの中でくらす人生
「金儲けたら尊敬する!」と言いながら
売春罪しまくる倭奴は殺し尽くした筈の米軍なのだが

チャラってる渋谷の福井人
ぎゃーっはっは
僕は心から笑った
あんなきたないとこで社長生活やっぱり

シモキタ
名前通りのチャラエド生活
僕はベランダでパーティー中の
そいつを蔑む

きけないよこんなの
山形にげたもとチャラ男のノロケ
女にきかせてりゃいいだろうよ
こんなくだらないの売るんだから

流れつづける川
もし
なにもかも流れるなら
月日を流せばいい

汚れキョートジャップ
無駄なプライドで星中の子供から搾取
代わりにゲイシャ猥文か売春婦を無償提供の犯罪
テンノーが1番いらないのにずっと贈ってくる性悪

先ずその
極悪独裁者の搾取から消せ
散々学校で暴れまくり
今更ベーシックインカムだと

アジアの純真
パフィーは純心じゃない
パフュームのポリリズム
田中ヤスタカの偶像ごっこ

くだらなすぎる
どの媒体もごみでうずまってる
ウィキペディアにはそれっぽい嘘ばかり
大学で遊びまくるジャップという猿の楽園

二度と
立派な世界は訪れない
二度と
このサブカルチャー大衆文明が覆らない限り

ボーリング
それでいいじゃん娯楽
なにを難しぶって
アニメとかばらまいてんだお前

何もない国

僕は何もない
何もない国をみた
狂人が「愛してくれ」と言いながら
ステージ上で赤シャツで歌って踊っていた

Rubaiyat

テレビで九州の金儲け野郎が
全力で理想を語る
自分はアメリカ留学で
芸術を買う金を儲けたから

僕は心から憤る
学校で散々叩かれ
社会で散々虐げられ
誰を心から慈しむものか

倭人種学

東京という彼等の首都には、不潔で知られる江戸とよばれる人種がいる。彼らは他の地域によれば賤業種で、他の地域では差別されたり阻害されたりする。エドは道端で奴らの雌を半裸やそれに類した服装で着飾らせその写真や動画を撮る。エドはこうして撮影した雌の姿態などをマンガ、アニメその他ビデオやテレビ等の媒体へのせ大量に複製し、国内外で売却し飢えを凌ぐ。
 それらのエド人種の頂点には天皇がいる。テンノウは自己やその傍系雌を同様にごく高い費用で撮影させ、この公然猥褻の模倣と転売で生計をたてる伝統の役職であり、この日常に差別されている賤業層にはことさらファンが多い。一般にこの現象は偶像崇拝の一種と考えられるだろう。

 エドはこの人種同士で繁殖し、かきあつめた大量の金を、撮影した姿態がわりにうようよと与えあうことで芸能界とよばれる舞台をつくる。芸者とは現実にはこのエド職業の一つの名なのであり、その職業者は京都という古都に大きなたまり場をもっている。我々はこの日本島の内陸にある異様な雰囲気の閉ざされた村を訪れてみれば必ずギオン等たまり場に属したゲイシャが闊歩しつつ撮影されているのをみることができる。
 ゲイシャはその為の組織に属し事務的売春を含むエドの名義で、大部分のジャップには最底辺の賤業人とみなされ白眼視されている。だからこの特殊な古都やその影響をうけた北陸や西日本の僻地にはよく小さな居場所があるが、そのみすぼらしい賤業人種のたまり場は、賤業専用の行政であるカンサイ以外によっては完全な頭痛のたねで、常々駆除が行われるがジャップのことだから浮浪者のエドその他により必ず復興されてしまう。

2010年8月30日

理性の文化

理性という自明に思われてきた能力は、医学的にみれば言語を操り得る能力の程度。人生経験は理性的にみれば文化財の普遍さにしか意味がない。動物としての生態や生き様は哺乳類一般のそれと、経過される全ての現象で大差あるともいえず、単に社会の文化により経験される内容に違いがある丈。論理学が理性的言語使用の系を最大の母公理系とみなすのは、哲学という全ての言語用途が示す。又全て文章化された言葉は文の種類。学問や文芸はこの文の一種としてある時代に同じ基盤をもった。文の世界は、文字を創作に用いた人々のまねとして生まれてやがて想定できる全ての理性を、再生できるという可逆基盤へまきこんでいった。なお文は、日本語ではあや、又はふみ、音読みでブンといわれ、全て図像の抽象さを意味する。だから連なった文字としての文章のみならず広域な平面図像を示している。
 だが文の時代は、この形式でしか定義されないので永遠の基盤といえない。この形式が流行として忘れられたとき文によって造られた理性の神学つまり全ての哲学は機能を果たしきれなくなり整頓されるか忘れ去られ、場合によっては打ち捨てられるだろう。理性的経験の最重要さは全ての倫理哲学者や趣味人により広く認められる筈。又奴隷やそれに類した生態以外の全ての生活者は、他のどれを抛ってでも必ず理性の生活にだけ真実の人生経験を与える。結局この理性人の本性は、人類が文化の伝承と書ける何らかの世代間淘汰にその最高の強い選択を受けてきた証だろう。我々の底に眠る英雄崇拝は、全ての神仏信仰と同じ起源をもっている。それはカントが崇高という概念で示そうとした世代間淘汰への適応行動への強い感受性であり、実質でこの概念に当たる形質は、常に理性をその基準にしてきた。もし自然淘汰を信じる者が皮肉まじりに見下そうとしても、命の恩人への感謝は確実に利己心をこえた行いへの崇拝に近づく。もしその利己的な人が命の恩人を風変わりで劣った知性の持ち主だと思ったとしても、大多数の人類はこの選択を過去に受けてきた結末として、どの知識より現に命を救ったという行動に理性の合目的さをみつけざるをえない。だから言語が為せる実践理性の定義づけがそうだった様、哲学界での適者はより選れたべきの問題を解いた者へ集まる。
 道徳神学としての現代哲学は、必ずこの文化伝承の流儀に則らざるをえない。理性的に何もなせなかった者は殆どかえりみられず、逆にそのほどが過大なだけ後世は古人を模範とみなす。学術段階が高度に複合化するほどそれらの訳ある用途を指定する理性の能力は強められねばならない。文化的適応とみた文明の体面が漸次により理性高い生態に置き換わるのは、もし社会淘汰が過去にも同じ法則でその人種のいれかえを行ってきたと悟れば、確実視できる真理。総合知性としての理性は、言語その他の文の基盤をどれだけ利用してでも、必ず未来に自らの立場を、よって在来形質をも伝えるだろう。文化伝承の最先端に立ち、猶も彼らは前世代の達した趣味を基準に自ら代に立つ他ない。理性的に生きるべし、という命令はそれが完全に習性化され言語の学的検見に意識されなくなったとき本来の理想界に降り立つべき、遥かな前世代の血筋からの指令。

国際収支と国内収支

農業政策の戦後の原則、つまり減反と補助金で工業製品の輸出とひきかえにその転売価格をひきあげるという「農作物の国家管理制度」は、凡そ工業国化を全体主義でひきおこした害があった。事実上この流れは明治時代から続く方針で、戦後の自民党保守政権時代にばらまき型土建票狙いの地元勢との癒着を前置きに決定的な地点まで進んだろう。
 農家やその耕作基盤の破壊か自壊は、小売り業態のみが国家管理を受けない中途半端な自由社会主義の政権下では否応ない。要は外貨獲得だけを行動原則とする俗物政権は地元の伝統やその愛らしい農村風景を何の留保もなしにぶち潰し、かわりにおのれらのきたない習癖を示すけがれたキョウトやエド風の異様な芸者どもをすまわせようとするのである。

原理主義の立場からいえば政治家と名乗る手やそれに類した公務員が金儲けとか商売気をみせるのはみな堕落か過ちなのが以上から理解できる。イスラム諸国がこの立場をもつ革命家を信奉したり後押しするとしたら、上述の自由社会主義がもっているよき伝統を破壊しつくす運動への反動としてだし、その部分に於いて手だてはどうあれ正当や真っ当なのだ。

 日本国についていえば、重工説がその基調。重農説や重商説に比べ設備投資比率に過大な重点を措くこの思想は、確かに蓄えのきく生産性高い産業構図へはすぐれて進歩的な道かも。
だが外貨のみへ傾いた安価な製品の輸出攻勢が全ての国民から普く尊重されるとは限らない面から結論して、重工説は私的用途な国内需要についてだけ賢く先覚的な仕業となる。
だから最も地方の秩序に関心の高く、中央集権制で破壊されゆく伝統や文化の多元さに興味ある、或いはそれらの精神文化的価値に均一な商工業態の敷衍より十分な理想をみいだそうとする観察者は、工業化政策はそれを行うのに向いていた土地な『重工特区』にのみ適合するのを見通しその方向へ大勢を導く。
同様に全体に均一に敷いた中央集権風の政策態度な減反強要はうちすてられねばならない。この政策でなされる全ての結末は、農村の破滅と田園の衰退、及び超温暖化と全国の亜東京化にすぎない。地域の実情に則して生産量を自主管理させるには、必須栄養価の保護を除き各農業者らへ農作物の生産態度への放任を行うと同時に、減反で浪費される共産主義的集約労働(つまり国からの所得保障)への参加を選択制にするといい。

 特に小売りやそれに類して海外の安価な労働力を利用しようとする新手の商業へは徹底した累進課税で、単なる税制に関する限り国内の主要農家と所得格差が開きすぎる余地ない様おさえこんでおかねばならない。これで流出したあきんどは無視していい。上記の如く過黒字化つまり儲けすぎは必ず原理主義懲罰に至る悪徳に近づく。

現代経済学

資本経済が阻まれない社会系列は、その需給が自動化される所に特徴ある。他の社会では必ず需給は手動かそれに類した多くの全体施策で行われる。
財政に携わる様になった自由主義諸国は、需給一致の原則をこの個々人や社会系列毎の自動化からそれさせた。いわば全体施策へ半ば足をふみいれたので、実は財投を含む自由主義は「自由社会主義」とでもよべる中途半端なものになった。

本質からいって、ケインズという経済学的著作をのこした者はこの厳重な注意を欠いていた。単位とみなした政府、つまり国家資本を需給の循環内へひきいれようとしたのは当人の思想にどこかしら社会主義や共産主義の理念に靡く処あったのだ。

 私は自由主義が、財政投融資の範囲を含まない単位でしか厳密でないことを啓発したい。それ以外の似て非なる思想は、自由社会主義でしかない。この思想はケインズという扇りびとによってつくりあげられた一顧の惑いであり、もし銀行と投資の間に好ましい循環が行われないとすれば、それは有効需要の低減の為にではなく、単に事業者の怠慢の為。
この自由主義を少なくとも日本語でより正確にいいあらわすに、本来の直訳語に近い寛容主義といいかえてもいい。この寛容主義な経済こそ、その場で需給を最も合理にみたす最初で最後のきっかけで、政府からの介入はいわゆる公共福祉の旨についての倫理面でのものに限るべき。

慢性的不況や高い失業率は、もともと新しい需要の開発へと鬱屈した労働層を駆り立てずにおかないものなので、無駄なばかりか自然や文化破壊につながるしか効果のない時代遅れになった基盤施設への過剰な財投は資本の必然的にして自然な高度利用を害するもの。
 だから寛容主義経済の場では『最低限度の文化的生活保障』の為だけに累進課税、及び人倫から導かれる法を市場での取引での行いを含め守らせるを得るが、その他の全ての税金投融資の効果は逆に産業の後進化を被らせ不調を長引かせる。

2010年8月29日

資本主義財政の基礎

基礎収入による労働貧民かそれに類した非消費生態の、貨幣経済への無理なまきこみはあまり有効でないし、倫理的でもない。働かざるもの食うべからずの諺は、勤労の習慣をいざなう為には必須で、もし勤労が害になる社会場でなければこの習慣化の条件付けは全て有用ゆえ。

 極論すれば社会主義政策でしかない。その末路は必ず、社会革命を駆使した諸国同様、経済的没落に終るのが誤りない。だからこの実験を試みたいクニはその単位で悪例として自らの進路を行くべきであり、大多数に迷惑をかけるのは資本主義経済の本旨ではない。
おもにこの議論が起こってきた東京都(つまり人口比率から貧困層も集積した弊害の地)でのみこの基礎収入を与えることにすればいいし、もし全国規模で行いたがる革命思想家風の行政人が現われれば世論や報道での批判や国民選挙へいざなう事で、大部分の国民は危機を回避できる。

 寧ろ大部分の自治体では、かなりの累進課税によって福祉の充実という姿で最低限度の文化的生活保障をひきあげていくのが正道(そもそも財政均衡としてのくりこみ振り子はこの累進税制が担保なのを省みよ)。結局想定できる税収の源が確保されない限りどのばら撒き型政策も現状と同じ赤字財政の連鎖に終る。財政破綻で周辺国家に救済される場合はこの傾向が極端にまで進んでしまったのだろう。
もし福祉国家系列の社会状態が良好にみえたとしても、長い目で見れば一時的に将来世代への借り入れ分を含めた財政投資額が反映されたものでしかなく、財政のみでない国際収支が黒字化のつよい性向をもたねば必ず破綻や国際格差らしい相対した貧困に至る。特に教育以外への過福祉(よって将来世代への過借り入れ)はいずれ回収費の方が高くつく可能性が十分かんがえられるので大いにあやうい。

脱構築の脱構築

文章が内容をもつのは、或いは発音が内容をもつのもやはり主観原則に戻る。意味はその主観にとっての意味しか持てない。辞書という共有道具も主観定義の鞍替えにしか使われない。
 倫理規定はどの主観にも一定の理解を与えなおす。この規定は様々なてだてで伝えられるが、倫理規定さに鑑みると単に主観の捉える内容を導く効果しかないか、又はその用途がわに幅広い価値を見出されている。つまり理解の基礎が倫理規定には任されている。どの脱構築論も主観の、よって倫理規定の議論。一般にこの趣味観は何らかの合主観さを問うのみ。
 言葉の不確定さや認識毎の意味異なりは定義が煩雑すぎる言語を用いる限り生まれる差延の基。故もし言葉を特に哲学とよばれている種類に属するだろう、規則のある程度以上の煩雑さを回避しない侭での方法で用いて何事かを伝えるに、主観さを定義から導くのは必然。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』はこの試みだったが、既存論理学説の解説か少なくとも補説を大幅にこえられていなかった。脱構築論をこえた学説は、この主観定義を規則の単純化で果たした所に生まれえる。だが定義を以前の日常語や学術語に限った侭では論理学の不完全定理、自己の補集合系でしか母公理系は定義できないから、凡そこの目的をはたすのは無理。意味論の前提には論理定義の要素に亘る徹底が要る。

倫理規定

社会条件はその場所がもつ地政文脈により、かつそれらのかさなりは背景に有した地域特徴を浮かべる。自然条件はつねに社会の底流か規制として働いている。
 淘汰すべき人格、犯罪人格は地域特徴からの指摘ないと必ずや示されない。ゆえ罪観念は地域偏差なしに生じない。地政文脈は合社会条件に特定の理解偏差を用いるので、いわば人は場所の子として宿命づけられる。文明自体は社会場からの合社会条件の改良か改造計画のみ。結局どの文化段階も、この文明場から導いた何らかの倫理規定によっている。判断とか形質選択観は倫理のもの。

2010年8月28日

空調衛星の適正自治体規模

空調衛星を自治体が飛ばすにはその為の費用を市民以上が賄えるを得る。

 政府にはこの為の必要条件が今の所欠けているので、技術からの恩恵を受け易い例えば研究都市等の自治体の規模で、ふさわしい自注を前置きにした財投を兼ねこの計画を実行した方が効率良い。
但し実績があがれば地上の様々な國から注文が必ずみこめるので、文部科学省や科学技術政策局は助成をなせるだけ惜しまないべき。

情報工学

量子コンピューティング、つまり量子電脳は最小共回ともまわりの定義で可能。量子系が違う地点で粒子あたり独自に回転していく際にそれらの位置を確認することが順番にできればいい。この確認の際には光ファイバーほか既存の設備を有する。
 先ず最も単純なもので2種類、可能な複雑さとして想定できるもので東西南北天地に対してそれらの中間点を含む14種類の回転位置を単位量子あたり定義し量子方位とよび、これを機械に計測できる様プログラムしておく。この量子方位計測システムを粗同位置とよぶ。実現の為には磁気照射か光子の反射を連続させて前段階から変化があるかを確かめ、長い程ちがう向きにあると考えて変化したあとの反応時間から向いている位置を定める。次に光ファイバーその他でつないだ2か所にそれぞれこの粗同位置を設け、両者に同期を確かめる。この際に前述の情報量を込めることで量子計算ができる。
 更に各情報量をパケットなどの単位として送る際には量子ビット化(つまり前回計測の内容を重ね合わせて次回にくりこみ、同じ結果な繰り返しは省略)で計算速度を有限倍化できる。

2010年8月27日

物理学仮説

各素粒子は状態変化。6種類考えられているクォーク、6種類考えられているレプトン、この両方に対して6種類のゲージ粒子はそれらを媒介する。
 引力子と光子は対なので一組(引力子に対するので光子は斥力子とよべる)、プラスマイナスWのウィークボゾンは同じく1組の対。グルーオンとZ0のウィークボゾン(実質はグルーオンの1種)は1組の対。そして引斥はuやdのクォークと電子や電子ニュートリノを媒介し、ウィークボゾンはeやsのクォークとミュー粒子やミュートリノを媒介、またグルーオンはtやbのクォークとタウ粒子やタウニュートリノを媒介する。各素粒子間の状態変化を変身とよぶ。どのゲージ媒介も変身を促す。媒介されないとき素粒子はより安定な単位にもどる傾向がある。
 又これらのゲージ粒子間には、更に小さな物質単位として砂子がある。砂子は束として波の性質を兼ねる故に量子効果をもつ。

過熱報道

劇場型政治の出来レースに報道機関が騒ぎ回るのは下らない。間接的世論誘導で衆愚報道におとされる。より有益なのは側近のききとりに徹することだ。戦略家の作戦計画は常に側近政治に近づくから。

鉄砲百合

話をするまもなく時は流れ去るもの
南蛮人が戯る眺めあし
暑さとは少しも親しむべくなき日より
鉄砲百合の乱舞聡き
通りすぎてきた日々はただいとおしき
海鳴りのさざ波のうちよせるまに生まれきえゆく命どもありき
南方のつちかたつどい禍々しき災いに満ちた騒ぎをするとききし
いずれ人ども地からなずむ
雨おとのきこえなき
わずかずつ野にくだる月のあかりはつちを透かし
はるかな遥かな夢想をこえ世を広げゆく力よ
むなしき人ども二度よをしらず

2010年8月26日

整理

誰も自由を忘れていった。誰もがそれを忘れる丈だった。
月は全てを見渡し、地上の整頓を行おうとした。
もし地上に下らない生き物しかいないならなぜそれらを整理しない?

信仰

チャラ穢土奴民がきたならしい汚れドラマを国中に自慢気にばらまきまくり、全ての幼気な少年少女を堕落世界へ誘き寄せる。

穢奴ジャップの大王は山ほどカネを蓄え、警察を退廃にまきこみながら日本中へ淫蕩な風習といつもの下種なキョート風の芸者猥文を垂れ流しまくる。

 神のまなこに害虫が長居するのは少しも望ましくない。然るべき目的の為にテンノーケジャップを粛清する計画は、その尊い御手の上に実行されるに違いない。 

知覚基盤理論

時代に関わらない地球神意は常に普遍神意と等しいとは限らないので、普遍神学か知覚基盤外の学問を通してしか認識が普遍理論を得るのは難しい。つまり信仰の立場はその主観を生み出した系統毎に異なる。唯一の科学がありえないのは知覚基盤間の違和から導ける未来。
 彼らが定義したり興味をもつ対象の知覚基盤すら絶対精神でありえない。なぜその理由や知覚が違うだろう。要は絶対知覚による唯一神学はそれが世界内の主観という操られた自由に入る限り必ず構想の限度をもつ点で、比較精神的か客観式でしかない。もし宇宙神話が語られるなら必ずや知覚基盤間の互譲か譲り合いの立場に返る。だから世界哲学か現象論的系統たる事象の知覚は皆自らの依って立つ基盤らしさの探索。
 どの環境認識も現象哲学の場面や部分集合。その為に最も安定した理解は常に知覚基盤間の考えに繋がる総合科学か知恵による。合知識間の論理展開に知覚基盤上の注解や注釈が与えられる程それらの知識系統に為せる文化的敷衍やひきのばしは効き目ある。

2010年8月25日

商材計略

文庫サイズの板状読書端末を、価格は店頭5000円以内に抑えて売り出す。又廉価版としてwifiや無線LANによる接続なしの、内部のフラッシュメモリへミニUSB接続のみの店頭1500円程度でのオフライン専用機も揃える。
アイパッドを駆逐する目的で「文庫機」と呼び手堅く書店毎に流通させること。中身は後発で構わない。