農業政策の戦後の原則、つまり減反と補助金で工業製品の輸出とひきかえにその転売価格をひきあげるという「農作物の国家管理制度」は、凡そ工業国化を全体主義でひきおこした害があった。事実上この流れは明治時代から続く方針で、戦後の自民党保守政権時代にばらまき型土建票狙いの地元勢との癒着を前置きに決定的な地点まで進んだろう。
農家やその耕作基盤の破壊か自壊は、小売り業態のみが国家管理を受けない中途半端な自由社会主義の政権下では否応ない。要は外貨獲得だけを行動原則とする俗物政権は地元の伝統やその愛らしい農村風景を何の留保もなしにぶち潰し、かわりにおのれらのきたない習癖を示すけがれたキョウトやエド風の異様な芸者どもをすまわせようとするのである。
原理主義の立場からいえば政治家と名乗る手やそれに類した公務員が金儲けとか商売気をみせるのはみな堕落か過ちなのが以上から理解できる。イスラム諸国がこの立場をもつ革命家を信奉したり後押しするとしたら、上述の自由社会主義がもっているよき伝統を破壊しつくす運動への反動としてだし、その部分に於いて手だてはどうあれ正当や真っ当なのだ。
日本国についていえば、重工説がその基調。重農説や重商説に比べ設備投資比率に過大な重点を措くこの思想は、確かに蓄えのきく生産性高い産業構図へはすぐれて進歩的な道かも。
だが外貨のみへ傾いた安価な製品の輸出攻勢が全ての国民から普く尊重されるとは限らない面から結論して、重工説は私的用途な国内需要についてだけ賢く先覚的な仕業となる。
だから最も地方の秩序に関心の高く、中央集権制で破壊されゆく伝統や文化の多元さに興味ある、或いはそれらの精神文化的価値に均一な商工業態の敷衍より十分な理想をみいだそうとする観察者は、工業化政策はそれを行うのに向いていた土地な『重工特区』にのみ適合するのを見通しその方向へ大勢を導く。
同様に全体に均一に敷いた中央集権風の政策態度な減反強要はうちすてられねばならない。この政策でなされる全ての結末は、農村の破滅と田園の衰退、及び超温暖化と全国の亜東京化にすぎない。地域の実情に則して生産量を自主管理させるには、必須栄養価の保護を除き各農業者らへ農作物の生産態度への放任を行うと同時に、減反で浪費される共産主義的集約労働(つまり国からの所得保障)への参加を選択制にするといい。
特に小売りやそれに類して海外の安価な労働力を利用しようとする新手の商業へは徹底した累進課税で、単なる税制に関する限り国内の主要農家と所得格差が開きすぎる余地ない様おさえこんでおかねばならない。これで流出したあきんどは無視していい。上記の如く過黒字化つまり儲けすぎは必ず原理主義懲罰に至る悪徳に近づく。