2010年8月30日

現代経済学

資本経済が阻まれない社会系列は、その需給が自動化される所に特徴ある。他の社会では必ず需給は手動かそれに類した多くの全体施策で行われる。
財政に携わる様になった自由主義諸国は、需給一致の原則をこの個々人や社会系列毎の自動化からそれさせた。いわば全体施策へ半ば足をふみいれたので、実は財投を含む自由主義は「自由社会主義」とでもよべる中途半端なものになった。

本質からいって、ケインズという経済学的著作をのこした者はこの厳重な注意を欠いていた。単位とみなした政府、つまり国家資本を需給の循環内へひきいれようとしたのは当人の思想にどこかしら社会主義や共産主義の理念に靡く処あったのだ。

 私は自由主義が、財政投融資の範囲を含まない単位でしか厳密でないことを啓発したい。それ以外の似て非なる思想は、自由社会主義でしかない。この思想はケインズという扇りびとによってつくりあげられた一顧の惑いであり、もし銀行と投資の間に好ましい循環が行われないとすれば、それは有効需要の低減の為にではなく、単に事業者の怠慢の為。
この自由主義を少なくとも日本語でより正確にいいあらわすに、本来の直訳語に近い寛容主義といいかえてもいい。この寛容主義な経済こそ、その場で需給を最も合理にみたす最初で最後のきっかけで、政府からの介入はいわゆる公共福祉の旨についての倫理面でのものに限るべき。

慢性的不況や高い失業率は、もともと新しい需要の開発へと鬱屈した労働層を駆り立てずにおかないものなので、無駄なばかりか自然や文化破壊につながるしか効果のない時代遅れになった基盤施設への過剰な財投は資本の必然的にして自然な高度利用を害するもの。
 だから寛容主義経済の場では『最低限度の文化的生活保障』の為だけに累進課税、及び人倫から導かれる法を市場での取引での行いを含め守らせるを得るが、その他の全ての税金投融資の効果は逆に産業の後進化を被らせ不調を長引かせる。