資本主義の矛盾をいう社会学の思想家らは、彼らがそれを不利な体系とかまける他に特段の訳もないとして、経済社会がその場の富の偏りによる不平等を用いる事を忌む同じさをもつといえる。
より原始社会に遡ると、平等な社会の血と不平等な社会の血は夫々違う系統から現代に合流してきたかも。日本に限っても、渡来した弥生文化は後者の富の偏りに適応していたらしい証(埋葬の格差。これ自体は地位を示すにすぎないが、間接的に個人差扱いの偏在がある)がある。ゆえ現代でも、議論や思想でこの両者の分かれ目が埋まらないとしても余り不思議でない。極論すると、現代社会に至る文明の合目的さは平等文化と不平等文化の均衡か混ぜいれそのものにある。だから社会学の思想や社会哲学で最も重要なのは、実は平等への導きでも不平等へのそれでも必ずしもなく、今日と大差ない資源条件下では富の取引の程度の問い。もし完全な不平等文化下では一切の所得調整は行われず、貧民層には道端でも餓死者や虐待される者がひろくみられ、富裕な一握りの者は一切の前後をかえりみない極度の豪遊に浮き沈むだろう。逆に完全な平等文化下では誰も格差をみない社会習慣に馴らされ、誰もが同じ位の家で同じ様な暮らしをし、同じ生涯を送り同じ子孫と同じ教育を与え、同じ墓で同じ老後を送るだろう。
この両方に現代までの社会の真相はない。どの社会も、何らかの調整を配分の不平等と共に続けてきた。ある程度の型はあれ、現代文明の社会哲学的本質はこの取引文化の問題なのである。だから、不平等社会への煽りや平等への狂信をいざなうどの思想も過ちか虚偽。取引文化の問題をよりふさわしい世界観の為に改良する智恵を含まない社会哲学に省みる価値は殆どないだろう。