文章が内容をもつのは、或いは発音が内容をもつのもやはり主観原則に戻る。意味はその主観にとっての意味しか持てない。辞書という共有道具も主観定義の鞍替えにしか使われない。
倫理規定はどの主観にも一定の理解を与えなおす。この規定は様々なてだてで伝えられるが、倫理規定さに鑑みると単に主観の捉える内容を導く効果しかないか、又はその用途がわに幅広い価値を見出されている。つまり理解の基礎が倫理規定には任されている。どの脱構築論も主観の、よって倫理規定の議論。一般にこの趣味観は何らかの合主観さを問うのみ。
言葉の不確定さや認識毎の意味異なりは定義が煩雑すぎる言語を用いる限り生まれる差延の基。故もし言葉を特に哲学とよばれている種類に属するだろう、規則のある程度以上の煩雑さを回避しない侭での方法で用いて何事かを伝えるに、主観さを定義から導くのは必然。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』はこの試みだったが、既存論理学説の解説か少なくとも補説を大幅にこえられていなかった。脱構築論をこえた学説は、この主観定義を規則の単純化で果たした所に生まれえる。だが定義を以前の日常語や学術語に限った侭では論理学の不完全定理、自己の補集合系でしか母公理系は定義できないから、凡そこの目的をはたすのは無理。意味論の前提には論理定義の要素に亘る徹底が要る。