2009年8月31日

神のみこころ

台風の近づく頃に暑さ散る
静かに近づく秋への読書を蓄える
学ぶほど知り得ぬ神のみこころよ
疲れても眠れば起きて夏と働く
東京は暑さに堪えぬ石場かな
朝ぼらけだけ過ごしよく鳥の囀る

現代政治について

我々が現代政治を行うには一本筋の通った根本哲学がなければならない。その場限りの遊説だけで多様化した人間の心理を省察しつくすことはできない。セネカや徳川慶喜が如何に忙殺の中でも深い内省の習慣を疲れたその身からさえ遠ざけることがなかったか、現代の国際商人化した高官は絶えずおのれの非力な理性を反省し、まず第一に自己批判しなければならないだろう。

News

Today is something new.
Next day is not but, older.
Next next day is newer than yesterday.
I can't find it. the
Day after tomorrow I've dis-got news
Why be able to you, to accept new journals?
Today I missed to promise for
pre-catch this Virginian rain
Why you can enable to that
Will, to get some arts? If not to old
Two days after tomorrow
Maybe to miss match for your delicate felt
But some news has got in
My empty post box

2009年8月28日

嗜みについて

芸術の主眼がその形式または様式だった、ということは十分に認知されるべき命題である。そしてこの意味や内容とは係わり合いの本質的にはない、純粋形式論の上でのみ芸術が語られないかぎり、結局技術的にますます複合化されてくる現代美術はどんどん一般に理解不能になるだろう。批評家あるいは造詣ある人と考えられている階層の人格が上述の、形式論への教養に欠けていそうなら、そういうひとの批評には十全な価値はない。対して、科学そのものを職業や生業とする専攻者がこういう形式論へ精通している場合はとても少ない。というのも、科学知識的学問それ自体は、形式を問わず、言語の記号がもたらす意味または内容への哲学だから。
 最も確実にこの「学」と「術」との間の分裂の問題を考究した哲学者に、カントが居た。かれの属した中世の軌跡のこる時代と地域なりの晦渋な文体でではあれ、カントは芸術の問題が形式論であって、決してその他の学問とはおなじ原則でいとなまれるものではない、と明らかにしようとも著述につとめた。そしてこの点で現代の目からみても、思慮深くもカントの哲学的達成は、古代ギリシアの賢人らの地点を超えていたのである。プラトンが「理想(イデア)の写し」に過ぎない、として芸術のいとなみを批判したことに対して、「現実(エイドス)の姿」である個物はそれ自体が合目的でありうる、とかえした弟子はやはり師への追随に留まったのだった。比べてカントによって西洋史上の哲学的古典の考察が綿密に行われ、この根本的な形式と内容との二元論化への反省が一つの総合認識へまとめられたとき、我々は彼の理性がいわば学術という考え方を生み出したのを見るのだ。そして学の問題と術の問題とは相互にことなる原則で処理されるべきだ、と考えたとき、古代ギリシアの精神があと曳いていた普遍性と個別性との間の相互いに好ましくない不調和は解消された。なぜならば、理想をつかさどる学者はその意味や内容を純粋な理知に基づいて考究すればよく、現実とみわざの範囲で格闘する芸術家はそれと係わり合いになるかならないかは別に、単なる作品形式やその時代様式の問題だけを集中して解決すれば済む様になった。尤もこれらの職名も効率性を重視して分業が普通だったひまのなく貧しかった文化段階の用語方法であり、未来の世界ではかれらの職業間に区別はなくなる。だが上述の批判的基礎の観点だけはいきのびるだろう。
 芸術を批評するのにもっとも適当なのは、これらを鑑みれば、できるかぎり幅広い形式論上の知識をもっている、いわば嗜みのある人になる筈である。そして必ずしも専門のある科学者ではなく、自由教養人的哲学者となるだろう。こういう目利きは一般に大層な暇人である場合がほとんどであり、ほぼ実用性とは無関係な多くの技術上のこまかい手間隙を、ただ自らの趣味を満足させたいがために理解しきっていることが多い。だがそういうひとは大抵、現実問題についての無用の用を為し、貴族、趣味人、高等遊民、或いは実用主義の目からは道楽者、好事家、物好きとも云われる。多色刷りと職工的分業のくみあわせを工房制度の確立というある安定した富豪の時代背景と共に追っていった経験のある文化教養人でないかぎり、なぜ浮世絵や漫画などという庶民のいやしいなぐさみものが西洋人からだけ特異的に、かれらのルネサンス的個人芸術家の独創力思想以来の伝統をゆらがす逆理的独創性の高い製品なりなどと彼らの衒学的流用には使い勝手のいい外来風物として持て囃されたかも認識できない。要するに彼等はその幼稚な内容などではなく、極東の文化的野蛮人が粗野で垢抜けない感覚で独自につくりあげた技法の珍しさを、おのれらの洗練の度が過ぎた歴史的飽和の中性化へ洗浄剤として利用したのであった。だがこの自認された洗練が地球文化史上どの程度中央的かはいまや疑わしいものだが。
 こういう訳だから、長い芸術様式上の展開の史実やその技法の銓明に無知なしろうとが流行に後れまいとして様々に経路をとる学と術との間の命脈をとりちがえることは、彼ら自身の価値観の失敗を最終責任としたにせよ、危険なのである。職能の背景も分からない侭、単純にマリリンモンローのスターダムっぽいあれこれを血色のいろいろな形にとどめたその意味論や内容論だけで、商業作家だったアンディウォーホルが彼の手に入れていたシルクスクリーンの技法をゴシップの援用という知的ではない装いでなぜ飾ったか、彼と同時代的なダダイズムや概念芸術その他の西洋コンプレックスの裏返したる選良主義風評論重視的美術観への大多数の同調ムードにかけて評価するのは不毛である。そこではもっと実用向けだったただの版画の技法を純粋な造形絵画史脈の中へ堂々もちこんだ、漁夫の利式あざとさだけが本質なのだ。一方そういう新大陸美術の中心軸のない歴史的空虚さを穿った芸術は、文化史上での宗教的根拠、その聖像という意味の決定的喪失について独特の展望としては追認的分析がなされていい。そういう性質は近代主義の潮流がアメリカの風土でのみ花開いたことの結果だったからだ。いいかえれば芸術家あるいは芸術表現を行う者が意味や内容論の達成をつねにもとめているものではかならずしもなく、そういう観点は大衆への解説を込めてもともと批評家の後付けで求めるべきものなのであり、おもとして純粋な形式的達成のみを命題としてきたという点で鑑みれば、嗜みのある人の目には単に技法の変遷が各純粋芸術の枠組みのなかで徐々に鑑賞できるだけとなる。そして本来は学問の問題である意味や内容についての援用を図る場合、それは芸術の本質にとっては、単に余計な装飾である。そういう装いは歴史ではなく、流行と呼ばれていい。ある芸術様式に同時代性がみられる根拠はこの学識援用に一定の文化系背景があるからだ。画家の曾我簫白や詩人のブレイク、建築家のガウディなど時代を経てもある種の特異さ、異様さを伴ってみえてくる超個性的奇手は、同時代の平均的教養体系から孤立して身を遇した経歴からこの流行に乗っていなかった訳がある。忙しい世人は一本筋の通った歴史よりも周りより目立ったその場まぎれの流行に騙されやすいものなのだから、真実味のある誠心な批評家にとって功績となるのは、こういうきわめて除去されやすい遠心的突然変異についての懇切丁寧な一風変わった趣味の擁護、となるだろう。

A beauty

I had found it
La beau I had never beloved somebody else.
Because everything was decay.
Everywords were empty, because
I had never found, et your like woman.
Some ages, human believes
Our situation is the perfect
Some ages, you would never see
That imperfection.
But I found it
Yet, we aren't a loneliness being.
So you will find more beautiful one. At in an age
That's early natural. Youthful time ever be-loving
Of Romeos face tends to perfume someone's blonde?
But, of but, I'll never forget her. Really
Charming, Grateful Graceful, purified nurse angel
In prefabricate sculpture on the icy music. Stylish
Didn't it who are in the country, virginity, our both entry
These resemble paragraph, who? Conveniently chatting
Not that yet, You didn't to get my confusing. Confused.

Worlds ends is in
La beau of the fundamental Arts. If
I could catch your thoughts, about this
Disagreed able personal our living! Did not beloved
This to perfect falling days, For the nothing taught,
Socialized
Personal undivided one of the earth quaking,
Tremendous, futuristic classical, philosophical renewable
However platonic all of, the first of
A beauty

2009年8月27日

阿君

和知和知和知 井井已相和弥
午後和飲茶也 艸艸木林鳥鳴
乃乃斗間母奈 眠日明月民眠
晴礼晴礼春礼 綿毛礼野菊和
石石阿牛毛毛 艸艸走双子艸
風風風气厶厶 丁丁汀歩風侖
大大孔子和知 歹戸亘个門儿
人愛儿合休予 本愛兄示尓有
阿九和久牙弓 后宮好求小灸
命名石冖乂奈 迩好儿好阿君

2009年8月25日

NHK狂犬病

[先日、公営法人NHKが都内で民間人への訴訟へ及び、裁判官のあやまった判断による勝訴を得た。
自主的な放送料契約の辞退をのぞむ国民存在から、受信機があれば契約を結べるといういわゆる‘プログラム規定’の一種である放送法条文を根拠にし、愚かなことにその条令をつくった国民自身の意志に背いて無理やりに金銭を絞り上げて恥じぬ気負いをみせる。
 だが「義務」と「権利」のちがいすら知らない当該裁判官は現時点で職能さえ持たないと言える。そして権力的弱者を擁護する立場にある弁護士の批判が正当だと一般に認められれば、かれは最終的職権を喪失するだろう。]

上述の内容への詳しい注解。
…カネ欲しさに養ってもらっている国民自身へ共食いに及んだNHKは近い将来、自己崩壊するだろう。

ちょうど主人へ噛み付いてその肉をちぎりとった自慢げな飼い犬が大層愚かなことに、翌日保健所で窒息する運命と同じだ。

 多くの善意からの忠告を無視し、あきらかな組織の官僚主義化の腐敗にもかかわらず経営権をみずから放棄する勇気もなく、悪に気づいていながら主権者へ罪を重ねた責任は自分自身の衆目下での自殺で取るしかない。
又カネ目当ての犯罪集団が今後永久に国民からの公益事業としての信任を回復することはないだろう。

国土経営内での余分所得運用方針

同じだけの労働量を、国民が賄える国際分業内での労働の種類についてどう配分するかがその国民所得の単位能率を意味するとすれば、土地生産性がより高い生業を選り好みするのは経済勘定から言って賢い知的行動だと考えていい。
一国民のもつ技術水準が他国との連環の中でどこへ位置づけられるか、この自然的秩序は実質的にはより希少価値の高い製品を生産できる系が周辺支配競争の上では有利だと教える。
そういう品物は他国の設備投資によっては代替品を儲けづらいので、(情報を含めれば)おもに時間の中では、相対して高水準の取引価格を新品係数上たもちつづける。

だから汎用品への製造業上での深入りは、それが母市場(いいかえれば輸出可能な範囲)での最終的需要規模をみずからの流動資本量が他の産業または投資主とくらべて十分に満たし続けられるどうか、へ全面的に依存して決定されるべき「副業」向けの進路なのだ、と言えるのである。
又なぜならもしこの母市場が十分な購買力(ナイシ有効需要)を維持できる見込みがなければ、そこへ汎用品を継続して供給しようとする業者は、ほかの進出してきた大規模な輸入業者に比べて基礎的資本力差の面で生計をなりたたせていくことはまず無理と言えるので。
 仮に総合して自由圏の資本力が、共産及び社会圏のそれへ最終的な経済征服を可能にする迄の貿易制限での摩擦得失分を考慮しても、その中途段階で起こる社会現象はすべてこの副業の配分に関する朝三暮四の順序だけだろう。
つまり先進国の独占はさきに高度な知的産業を開発し自己配分を自由主義的に進めるが、他方乗り遅れて部派へ分かれたしつこい反抗と――頑固で旧式な土着産業への執着によるその精一杯の調整策ということは、後進的諸国の複合観念に充ちた国連監査的持ち分といずれなる。

前述の様に背景とした市場規模へ汎用品(日用と――それに類した製造技法が比較的普遍的でたやすい便宜との品)の供給可能性は依存するので、より大きな購買力を職種細分化の担保とした大陸国家はその産業の高度へ向かう展開の上で輸出入による貿易差額を差し引かれない分だけ各部の専門化に伴う経済効率に有利である。
逆に購買力が一定の余剰人口限界として制限されている島国では、いくら住居やワークシェアの工夫から人口過密を進めたところで、結局はるかに多大な人口を養える天然資源の甚大な国と同等以上へかれらの所得水準をたもとうすれば必然に、「汎用品の安価さ」を元とし他国から日常的にそれらを輸入しなければならない。
 即ち、現状で先進国であるかそうでないか、その産業の技術水準とは別に、単なる人口支持の面でのみ判断してどの産業が国家の規模にとって有利となるかは事前に予測できる。

私がここで贅沢品と呼ぼうとするのは、非汎用の一切の、自然と社会両方による製造物のことである。
この小論の冒頭で示した‘希少価値のある品物’はほぼすべてがこの贅沢品に分類される様な、特定の地方産業構造が独特の技巧と資源を有するかぎりで認められる高級品目に関している。
…ロスチャイルドがダイヤモンドの加工方法の発明の機運に聡ってただ溢れた単なる煤けた石の転売を高級宝飾品目へすぐさま転用できると確信したとき、原産地であるアフリカの鉱山と本土の加工場および職人の定期的選抜を独占支配することで、とある企業的資本家が市場へ贅沢品の供給可能性をはじめてつくりだすことに成功したのだ、こう考えられる。
 しこうして貿易差額の本質はその他の汎用品の投げ売りと決定的な贅沢品の囲い込みとを儲けの的としているものだ。

そして我々が、少なくとも先進性のある技術的科学へ一定の興味と投資の準備とを運びよく持ち、或いは国土に限定のある国民が彼らの生まれもった天然資源の域内で経済地位をなんらかの目あてから確立しようと願えば、まず汎用品については安全がその場でゆるすだけ最大限に輸入へ切り替えるべき也といえる。
(この種の比較的容易にいとなみうる生業はいずれ国内から自然に絶滅するか、又もしも一帯を自治する政府が輸入できる質量での不安定への保健として便宜的に行っている‘関税保護措置’をひきあげれさえすれば市場の競争原理により漸近的に潰滅するだろうが、どちらにせよ我々にはこれらの結果が成員各々の福利の面からみれば寧ろ望ましいと理解できるだろう。
結論として趣味・リクリエーションの分野でしか既存の汎用品製造業は中小の島国では生き残ることはない。農産物ばかりでなく加工の度合いが比較的低い全工業ナイシ単純情報品目も含む)
 つぎに贅沢品については、これが希少価値を付加できればできるほど所得獲得の面から有利であるから、その狭い国土へ散らばった地域ごとへ想像できるかぎりの高度に独創的な分業を推進すべき也といえる。
(現在でもいくらかの工芸品では見受けられる様な特産性を、一切の科学技術的製造の部品と完成品とへ力の及ぶだけ拡げることが必須となるだろう。一つの考え方として、次の産学連携術は有効な手段になると思われる。
我々の社会固有の既存の特殊条件としての、私立大学の地方分散という社会資本的基盤がある。
この維新の副産物というなにかの事情をわれさきに援用して、一般教養への折衷を免れない国立大学の運営とはことなって、あきらかな短期間での応用的発明と実践工学についての企業との応答成果が学生回転率を報酬とした地域産業への徹底的な適応で図られるなら、地域社会にとって得はあり損というものは考え難い)

 特に後者の贅沢品の製造にあって、秩序化にさまざまな偏差のある原材料の輸入とくみあわせる産業成立の可塑性を持たせるために、「みなと」を有する着湾地域以外では主としては空輸という発着点をいまより功利的とする幸先があるだろう。
こういう空輸を経由しないのならば原材料の仕入れには陸路を使用するしかないので、遠隔運送の費用高またそうでなければ国内からの原料は定量的にも種類的にも限られることから、予想外のまれな製造業態成立及びその取引の勃興へはどちらかといえば不利な侭に留まるだろう。
よって、もし彼の県民もしくは地方民が技術的に進歩した生活形態を欲するのならば(そしてこれは決して地方の地政学に詳しくない粗雑な中央統制によるのではなく郷士共の任意でなければならない。なぜなら保守的な生活様式の方が却って伝統工芸品の保存された独創性には手短な既得の場所柄もあり得るので)、彼らは自らの位置した内陸のどこかへ『空港』を建設すれば結果的に、そのわずかなりとも持てる財産を活かした将来の所得を増幅させることになる確率は地続きより余程高いだろう。

2009年8月24日

芸能界の母系的特質

審美的社会淘汰によって確保できる最大の性格は、その生殖系統の総合性だと思われる。一般にこれは演劇の才能として評価される節がある。経済系とは演劇的団性、政治系とはその群性のことだから、それら以前の純演劇系すなわち芸能系とは個性についての総合された形質淘汰の場のことになる。
 人類がその成長と変化との連続した歴史のどこかで総合的形質を突如必要としなくなる、とはもし新種が全く次元のちがうある感覚器を成立させないかぎり考えづらい。その有利さを省みれば、個性をどれかの感覚特質について極端化しつづけるべく適当な圧制にとある進化場で駆られたとしても、なお総合的な基礎は維持されゆくだろう。

 一つ以上の感覚特質をはるかに前人より進歩させることに成功した個性が出現したとき、彼が母系として選ぶに最も適当なのはおそらく演劇系であり、またその中では形質の先進性がよりよく総合されている芸能系である場合が殆どではないだろうか。ある天才人が特徴ある芸能人を配偶として選ぶのはこれらの進化に必勢の道理からも合理的な方針だといえる。
 もしも特徴に於いて多かれ少なかれ改良に遅れる、一般人と言われるところの中流商業以下の形質とこの感覚的天才性が混ぜ合わせられれば、その偶然に依るところの大きい本質的配列が崩れる確率の方が高い筈である。

簡易設計論

美が相対的なものであるとはそれのもっている希少さが量感とも関係することだ。だから量的に稀すぎる種は奇観を呈するが、時代や状況のうつろいでそれが適切な量感のもとに示されれば美しく見える。
 審美性を至上視すること、とりわけ、ある一種をそうして目的視するのは以上から危険でもある。訳は自然の目的論が確定しない間は、量感の粋がとある一種を選び出すとは限らないのだから。人類が審美的かどうかは次の比喩で理解できる。もし嗜みのあるペリカンがダビデ像を眺めて人類らしいと呟いたら、その普遍性が神の像の設計面ではなく、模造された精神の形相へ様式論として語られているからだ。つまりはペリカン社会にとってリスやムササビの神像がペリカン自身のそれよりも審美的かどうかは確定できない。人類自身にも同様。無論そうはいっても、チンパンジーとか人類とかが彼らの神格化を施すために模擬した審美観とは、そのらしさ、写実的設計にしかやがて求まらない。故に人類が唯一の審美的対象となりうるのではなんらない。審美的意図を自然の設計論の上へおしひろげてみるがいい。
 我々は宇宙あるいは時空間に、実に多様な形相が広がっているのを見る。そしていつしか色彩の面でであってもこれら極彩の無償性は積極的な中庸を益々捉え難くする知覚撹乱の現象也と認むるに至るであろう。知的あるいは理性の設計の面からだけ神格の理念を表現しようとした古代ギリシアの精神にはかれらが抱え込む擬人化の弊害も限界として聳えているのである。
 我々は未来の芸術世界が理性の設計以外をも試みるのを知るべきだ。市場主義現代化の通弊として欧米思想潮流の王道視が万国を覆いつくそうとしているのを観察できるが、たとえ極小の勢派であっても、それに本格的反撃を加える、また加えつづけることは道徳的である。なぜなら理性以外の性特徴が審美的でないと確定する理論が存在したことはない。この種の趣味観のずらしは結局生態論上ではその可塑性を補償する。例えば同系列が突然変異によって未知の形質を生じてなおその有用さが理性の面からは不明だとする。この系統枝を単に以前の形態とちがうという理由で処分すれば、将来の恩恵か遺伝的浮動の機会をうしなう。博愛或いはagapeの理念はこの面から未だに評価できる。訥弁すぎる子供が悟りの深い思慮の聖でない、とは従来の議論前提の土壌では確認できない。そういう変異のきっかけは微小なものでも、ごく注意深い選良の仕手に係れば多くは新種の発見、少なくとも個性とひとしい。いまで言われる障害の対象は現実には環境土台との違和にしか理由をもたない。条件者または事情ある者という、より緩和された博愛主義呼称用語が普段に通る社交美の未来が必ず訪れるだろう。
 だから知的設計至上思想から適者生存の原則的圧制があるにも関わらず我々がそれとはことなった無用の用につらなる一連の文化とこれを羽含む趣味を有することは、結果として未知の環境変異への実に思慮深い心くばりである。設計者は夥しい形態の繁茂に関係なくして、この障害の除去を行うのが自然の理想であると信じるに至る。乃ち知的設計者の根本目的と慈悲、或いは慈愛の理念とは何かしら通底するところがある。環境の理念というのは生態的可塑性を福祉と矛盾しない程度に中庸へ順次漸近させる技巧の上にあり、それはいわば面白味の方法であって、この面白味のあるなしがその場が将来に亘ってもより審美的な創造性を維持できるかの鍵概念となる。調度適合の過度、流行好みの個性至上主義気風はこれゆえに生態の構造的固定化を意味し、多くの場合は後退的宿命の土地として置き去りにされゆく不毛の設計方針なのであると知るべきだ。
 我々が永久性を建築表現と一致させようとすれば一切の個性を犠牲にするに如くはない。それでも面白みがあらわれなければ彼は天性の感覚に不足する。そういう場合、必要なのは知的設計者へ習うこと、則ち自然の主というべき地霊あるいは精神が模範になって教える土地の構造へ能動的に順応することだ。郷に入れば郷に従えという諺は知的設計論の根本原則を簡潔にいいあらわしている。例えそれが一種おかしな計画でもまさにそうだ。設計につき特異点はありえない、それは時間的空間的に相対的にのみ成り立つ様計画されている。
 我々がこれらの審美的偏差から悟ることができるのは、宇宙では無限につらなる変化が期待されているということだけである。唯一絶対の美という概念は、創造計画の意図が設計を通じてあらわれてくるその個物間の調和へ一々理想してみつけだすほかない。だからそれは各々主観の、裏返してみれば完全な客観間の原理であって、幸福一般と同じ様に趣味主義の頂点をのみ到達点とする。芸術性についての直感が美観を覚えさせる理由は、感情の合目的性が、医学の言葉を借りれば自らの有する脳幹を、理知の枠組みを外さない侭でさえ十分働かせるから、といった本能の愉悦への予期せざる奇跡的回帰に由来するのだろう。それは大脳或いは新皮質の瞬間的痺れによる感激を斉す。なので芸術はなんらかの抜け道を通じた生態的体制固定化の脱構すなわち社会脆弱性の回避であり、及ぼすところ誘惑か威嚇いいかえると驚きの作用とほぼ同一である。これが我々をもふくめて社会生物の群生を同系配偶の連続的癒着による弱体化から救う。
 奥深い創造計画の根本理想を芸術性による調和の比喩法を借りてさえ最も適当な最短音節の理念語で確立しようとしてきた古人は、にも関わらず文明間の隔たりにか基づいていた地方党情もあってその究極の言葉を様々に言い表すしかなかった。ある者は超越概念を延伸させて神と言い、西洋では血縁を超えた愛と唱え、東洋では無限遠を空想させる道に喩える。だがいまやそれが一神教の文化的信仰段階の先にある普遍計画の理性のことであるとは認識可能な進歩を、文明の知能は達しつつある。そして我々がより良い数学的論理表現を哲学へ十分に適用できたとき、この計画の完璧さは諸々の詳細図と共に、学者の掌へ科学による自然認識の貫追を通して明らかになってくるだろう。我々の精神、すなわち知能が神学の段階を抜け出して宇宙工学へ進めるのならこのすぐれた知性存在は、真に理性と呼ばれるべき神々しいまでの深慮に関する注釈、その本質を合理的社会建設の規則性ある理論体系へとより簡潔に論理式へ圧縮しつついずれも納めゆくであろう。善という未だに曖昧な理念が規則性へ高められる時も、政治学が確立されるはず諸社会学の後駆りに伴って訪れるだろう。

夕立

真夏哉
人歩く
日差し刺す
揺らぐ
黄色いプールの歓声は
風鈴与
エアコンの底冷え
アスファルト毎
水走る
日傘すら
消尽くす夏は
融けた路面
蝉慚愧
水色のイルカ浮輪
だけ溶けず
我ながら外に凝りし
休みでも子供おらず
炎天下車道凝りず熱す
ジャングルならね
呆れるほど打ち放し夜中に放熱さす
呆れるべき森烏
熱帯建築
生ゴミども行き場なし
伐られても一年ごとに咲くムクゲ
鈴虫泣けり
夏はつとめて
いつか見し
那智浦静か
氷売りテレビゲームのなかで生き延びし
ノースリーブだけ生き延びし
ブルーハワイまだありし
海水浴場は汚される
夕立や街鎮まる
団扇は持つ
水平線を灰水色に染めてしまう
カモメの飛び立ちて海風を残す
一色になれ

2009年8月22日

象徴の形式性

政権闘争の議論中、民主党の日本新生を象徴するマークを示した旗が、日本国旗を切り張りしてつくられたことへの批難あり。現首相、自民党代表もこれへ梃入れす。
 象徴はすべてそうだが、意味の方が尊いのであって偶像がそうなのではない。だからもし高が旗でしかない国旗を斬切るだけで日本国が救済できるなら遠慮なく、何億枚でも切り刻むがいい。姑息な枝葉末節への批難をもって闘争の為の闘争に熱中してはならない。すべて政治的議論は、より良い公共福祉の立場をみちびくための手段である。だから小手先の論鋒をくじくにはいっそ「国旗を燃やす」ことほど効果的な煽情方法はないだろう。
 旧体制を打破する意志を明確に出すのに遠慮はいらない。高が旗なのだから。
 国民の総意を象徴よりも尊ぶ者を民主主義はあたかも救世主の如くに遇するだろう。かたちだけの崇拝は虚飾にすぎない。ただの布とインクで染み抜かれた日の丸の印が尊いのではなく、志を以て大国に抗う一つの理想としてそれを掲げる国民の魂そのものが、彼らの万国公平を望む東洋の高貴な精神のために尊いのだから。

2009年8月21日

業の分析

主に江戸、下町と呼ばれる東京都の地域では以前も今も、また今後も、ある種の頽廃を免れないだろう。その地域一帯は、積極的には温帯へ属するが為にまた消極的には武家社会末裔の下請けを生業とするが為に快適性についての独特の変形を生れつき被る。
 大阪と呼ばれる地域がそうなったのと類似して、下町は人口過密の極端に進んだ姿としてまた日本的類型の最も下落した面を示すことになる。要するに、彼らは倭人種の下層を占めるのに適当な性格を共通してもつのである。それはある方面では武家・政権社会への搾取的適応たる売笑婦の性格となり、ある方面では異常に劣等感の裏返った型として義侠心の持ち場となる。
 我々がこの地域一帯へ行い得る改良は殆どない。つまり放任し、見捨てるか商利用するほかない。なぜならば、そこを実質的に支える政治社会が山の手一帯から消滅しない限り、一切の状況は人口過密から動かないだろう。土地あたり価格の面で、西東京の様に新興開発されたのではない官庁街界隈へ住みつくには、細分化された雑然たる地区が有利だからだ。

 倭人の伝統的民族性に於いて、朝鮮民族と非常に類似したオリエンタルな点に、性奴隷の売買を行う業を、それは国家内でも公然とした犯罪だが、大都市部ではほとんど阻害せずに愛好する所がある。しかし一般にはどの国民もこの性格を普通には忌むし、特に宗教の力を借りて精一杯除去するものである。対して姦淫する勿れという文言を古くから持たない朝鮮、日本の両民族はかれら独特のアジア的頽廃を生来愛顧する。創造説との軋轢から遅々として進まない人類生物学の微々たるが一応の知見によれば、亜熱帯以南の免疫力淘汰の原理にもとづくこの乱婚制の擁護という習性は、かれら極東人種が如何なる工夫に則ってかれら独特の歪んだ宗教観を堅持しているかを雄弁に説き明かすのだが。

 神道という日本土着の民族宗教態は、江戸時代にはじめて接触したキリスト教思想への封建的ではげしい禁忌感情とあわせて、極東によりあつまってきた憐れで貧弱な理性の民族がいかに自然崇拝の宿命を長引かせているかを、我々へ説得する。いいかえれば極端過ぎて適度さを失った雄性の適所である暴力団とか、その逆の雌性による遊郭とかなにかその種の人口過剰を背景にした文化習性の奇形化は、寧ろかれら遅れた立場にあるアジア人が自然界の合理性を直感的に信仰する延長にあって、おのれどもの「業」からの応報に結果を待つべきものとなるのである。
 だから我々が、少なからず西洋的理性の修養者が彼らの救い様のない堕落を放置するならば、彼らの業に応じて乱門からの悪意をこうむるであろう。それと同時に、この政治社会へぶらさがって成立した悪徳と奇形化の地域育ちが禍々しい習性を地球中へばらまくのを覚悟しなければならなくなろう。

 神道の頂点に位置する天皇への帰依を訴える狂信的愛国主義者が彼らの業のあしきを自覚する反省の気負いなく、このまま彼らなりに系統立てて説明した民族の自然崇拝を助長しつづけるなら、その末路はかれらに必然の致命的敗北となるであろう。これらの知見は、日本民族がその自然状態の侭でなら他の寒冷帯に属する人種より理知的展開へ劣るのみならず、その知識文明化への道を辿る由すらもないので、政治的血統ごと地上からキリスト教文化の細部へ解体除去または殲滅、乃至併合される劣等生的将来図を確信させるに十分であろう。この経過にあって暴力革命か戦争が避けられないとすれば、キリスト教連合軍は日本民族の神道連合軍を実際の東洋系野蛮人群生と考え、その方向へ志気を煽動せざるを得ないだろう。だがもし議論と説得によってこの征服が可能なら、第一に天皇制を解体しなければならないだろう。
 一帯へ土着した倭人の郷原的狂信は第二次世界戦で実証済みなのであり、それは彼らの血統が純系を主張するかぎりますますそうだろう。よって、後者よりも前者の武力征服が起こる確率の方が高い。

 私の一国民としての実感として、主に日本の西から南に土着した倭民族は決して理知の優秀な品種ではなく情緒的雌性的形質を普通としている。かれらは科学知識や近代の理性を失われゆく外来的風物としてしか顧みず、大和魂と呼ばれる東洋世界の頽廃した生活態度へ土着的愛着をもっている。よって多くの善意ずくの宣教師の理想とはことなって、直接の説教がかれらへ大いなる感化を与えるよりはずっと、アメリカの土人を駆逐した際の粗野なみせしめの要領の方がかれらの教化へは合法的で理由あると認められる。

2009年8月20日

くらげ

くらげの子が
ゆーらゆらゆれゆれゆれる
波のうえをお日さまがにげてく
ゆれゆらとただようヨロイ
夜になった
くらげの子が
そらをみたらまん丸のぽっかりと
お月さまが見ていた
ねていたらお月さまは逃げた
あさになったらきがえてつぎは
よろいのかわりにお日さまになって
てらてら照らすんだろう
くらげの子がみていたらあさとよるはならんで
波のままにすぎていった
波のおとだけが夢のあいまをひたしていた
きこえるのはくらげの子の耳にだけよ
その音はお日さまとお月さまのかなでる歌だから
へんなやつだなとアンコウのおじいちゃんがおもった
そんでねお月さまとお日さまにくらげの子がなった
その音はやがてこの星のすべてをつつみ
うその声を波のおとで消していった
消してしまった

伝説

航運順調指針指沖南海贅贅郎党船
府中付議豪胆海神冒険家散策令名
乗船則天去私説得有文献説島扶桑
人員充實満倉廩轟轟四海前進不屈
一行僥倖発見也遙幃線昇醸元陽光
船員形相爲血相金印互角紺碧宮嶼
歓迎詣遇爲魚貝穀豊不肉食倭如州
世襲忘却後亡勿深山御影石碑記憶
徐福安穏雖背航程歴代楽園想故信

Sleeve

Oh didn't you watch the movie?
If not, you'll be in lost in your age
I will talk about it now
At there cottages, everything was duty
And they did to bold every worlds at once at a glance
At a granza, in the beauty, they attracted to accept there
Older manner than this time. In the country of
Stop
Why has you done that a
Summer soldiers in the too hot shore, too sweaty
Face? What a sorrows?
Don't worry
Hey young man, the world is heavy so
You'll never talk with others about an
Avoid of every you're nothing. Of course
We are the God status not having. And
You will know that however felt off like a
Falling scene corner, downtown court on a
Sleeve of movie shows

伝達

もしも世界が十分に広ければ、人間は永遠に広がりつづけることもできたろう。それ以前に、地球環境への適合性が彼らの本質的条件だったとしてもなおだ。
 だが我々は学識の積み重ねで益々すべてが然るべく適所への変形をへているのを知る。この為に、人は人類がすべての面で汎用ではないのを見るだろう。空を飛ぶ為には十分ではない肩甲骨は退化による、空中圏への不適応を実証している。我々は学問によって賢くなるのではなく、学をつなげることでのみ賢さを保てる。而して学識という外部化された伝達記号系列群は、一体、量的に観測できるのみである。文化が学習方法の改良を行わなければ、膨大に及ぶ全秩序立った法則は遺伝されない。
 だから、学者が折角の努力を無駄骨に終らせないために注意深くなるべきは、積算した知識を効率よく他者へ伝達することだ。詰まるところ恒常的に社会が保有する伝達可分量だけが、民族の賢さの証となる。そして忘れられた知識には本としての重みしかない。
 もしも人類がこの宇宙内での知的生命たる名義を重く受け取るのなら、できうるだけ賢者の多い社会環境をつとめて志すがいい。さもなくば決してかれらが以前より偉くなったり、進歩した文化を構築することはない。

ぼくは冬が好きだ
理由は家の中でおとなしく勉強してても誰からも怒られないから
夏にそうしていると
大人がやってきて引きこもりだとかニートだとか言って
無理やり外に引っ張りだしかねもうけか
いやな女ときもちわるいことしながらウハハと言ってテンノーゲームさせられる
トウキョーというところだとテンノーゲームがはやってて
源氏ものがたりとか言ってちゃらちゃらした衣装で
歌っておどって女がきゃーきゃー言ってかねをもうけている
そしてばかみたいなタレント知事がどんどん出世して
ウハハといいながらゲイシャとならんで働け働けという
テンノーゲームはくだらないのでぼくはやらない
そうするとぼくが好きな科学の勉強の本をとりあげて
ばかみたいな首相がまんがを読め読めと言う
売れるから
ぼくはこんなばかの国は全員切腹したらいいとおもう
そしてぼくは家の中で
冬のようにしずかに
いつものように血まみれで死んだばかなジャップが土に還ってく外を
雪見障子からながめられるだろうから
そして春がきたら表でせのびをして悠然と息をつくのだ

2009年8月19日

コオロギ

社会環境へ期待する
ものがあるとでも? そこは
ほぼ隙間なく埋め尽くされた滑稽な
生命体ぶった蠢く何かが
きみを貶めるだけの
一体、本気で教師の言う
嘘八百の物語を信じてた? それは
ただの、政治屋さんがつくりあげた小話
たとえば特攻隊とかほざいて
飛んで火に入る夏の
もういい。聞き飽きた。だから
私は庭の隅でなげうたれたポリカーボネートの下から
見つけだしたそのぴょんぴょん虫でもいいから
コオロギとまちがえて、
潰す
人間どもが一人のこらず
地表からすり潰される
仮にそれが
かれらへあらゆる悲劇を与えるとしても
私が見たいのは
あの嘘ばかりついて私たちを騙した教師を
税金から搾り出した高給を食んで
私達こどもへ
悪意の許すあらゆる暴力を尽くした野蛮人を
一人残らず地上
からみなごろしにすること
その教師は、痛みで金切り声をあげる子供を
竹刀で叩きながら、天皇を崇拝しろ! と叫んだ
そして私たちは泣きながら無理やり何度も殴られるため
何倍もある図体の目の前へ立たされ、
「お前は人間の屑だな」と言う体育教師から
私は、その様な虫が
親の狂信のと違ってまったく話すに足らないどころか、
この世で自称民主政治のおままごとへ寄生した
サイアクの害虫だと思った
ヨーロッパ人でもなく
そこのクラシックを間違った意図で、号令がわりに流す
気違いの運動会で、発情期のメスへこびるため
全速力で走らされる。苦しみで黄変した
変な息を嗄らしても
もし嫌がれば命はない。子ジャップのラットレースよーい
だれひとり救い手はいない
しゃべれば殴られるか精神病院へ連れていかれる
「屁理屈を言うな」と、竹刀を持った体育教師が
彼の何倍も小さな少年をたのしそうにぶち叩く
赤く爛れた血まみれの肩の辺りを、たのしそうに叩きまくる
私の足元でその虫は
汚い液を出しながら潰れている。死ぬべき
人間は死ぬべきなのだから。馬鹿すぎる虫は
勝手に進路へ踊り出してきたのだ。
閉じられた教室で子供を相手に暴力すればどうせ
だれも覚えていないと信じていたんだね
もう遅いが、虫よ。腹わたを己の中へ詰めるがいい
無邪気な子供にはそれが
悪魔にふさわしい因果だと判る

天皇国際化論

日本語の適用範囲が、いわゆる天皇制の及ぶうからに限られるという前提には、その言語圏が持つ人口支持力こそ決定的に日本という同系群生集団の進退と一体不可分である照合をなすことわりがある。結論からいえばその人口支持力が僅少なら他の民族及び状態集団との駆け引きでは不利なので日本語と天皇制はいずれ社会淘汰の自然によってきえゆくであろう。だがそれが他の系と同等以上ならば、吸収と同化の作用によって同力をもたらし得る程度に応じて当該国際に於いて社会進化を試みる再適応の効果に準じた生存率を維持できるだろう。
 つまり、我々は日本語による生活圏をその社会が有する人口とかれらの持つ総合的生産性に依存していると結論できる。これは日本語がながらく隔離的に他国侵略から離れて成立した経緯から極めて規則に於いて煩瑣であり、同様の不文律は当社会が数多く持つものであって、この文化の特殊さがさらに国際化を妨げる致命的遠因であると教えている。
 より国際的な民族は言うに及ばず、最も世界化できる民族と民族間体制とは文化の普遍さにとって最適であるからだと言える。だからその特殊さを大幅に伴った日本語文化圏という所は、明らかに世界的展開へ向けては今の段階では不利なのである。勿論ほかに更に特殊化してしまった文化もある。アマゾン奥地で他の文明との接触を断った場合などはもう我々が辿っているのと共通の進化はできないだろう。しかし急激に急進展を欲するあまり一切の血統主義を排する左傾には統一化を困難とする弊害も生ずる。アメリカの州相互の激しい抗争や敵対などは半面教育に足る部分もなきにしもあらずだろう。
 結果として世界化する為に自己の特殊な体制を多少あれより望ましい姿へ改良させて行くことは、そこでの不文律を含む否応ない趨勢でも進路でもある。天皇制の祭政一致的土着さ等は批判の矛槍で自由主義論手から攻撃されて然るべき特殊さの焦点でもある。すぐれた外来者の目に、その野蛮人の宗教と混同させた政治様式は未開の社会で野生の暮らし方をしていた太古の先祖が、同然の狂信への扇動を行っていた記録を示すことになる。日本に於ける王政が天皇家の世襲という祭政一致方式を維持しているという点は、おそらくその国の特殊さを示す最深部である。假にこの家系を解体すれば他の王政を執るか儲けておき温存する民族と殆ど違いはなくなるだろう。
 そうすると、日本人にとって最も賢明な自己進化の方法とは、天皇家の世襲による政治的狂信の土壌を中和や浄化するべく血族の国際化を図ることだろう。例の一つとしての現イギリスの王権の起源が元フランス王族の征服にあり、後に王家のオランダ並びにドイツからの輸入で再樹立された史実はかれらが西洋圏といったより人口支持力の大きな母体を相互補完できるほど中和的かもしれないと教えている。我々が皇族というもの、また彼らの傍系が世俗化していく過程で形成されゆく旧華族の血族へある面では慎重な、また積極的な国際選良化をのぞむなら、その流行は意味のないばかりか害である特殊な伝統の保守よりは遥かに優れた長期計略へ叶うだろう。祭政一致への土着民の迷妄を冷まさせるのにはおよそこれしか今打つ手は考えにくい。