2006年7月30日

遊園地化

単なる繁殖以外を文明の目的地とする限り、その究極の姿は安寧な繁栄にある。理想の幸福は繁栄の果。環境の適度な合理的調整によって生活のなかに多くの遊びをもたらすものこそ文明。自然の促進ですら彼らのrecreativeなあそび。
 人類は自然をつくりかえる。そうすることで宇宙を遊園地化する。

2006年7月29日

詩学

教育の理由は生活の文明的な優等化にだけ見いだされる。野蛮を脱し、暮らしの仕方は洗練・安寧・清潔化されずにはおかない。
 Liberalismは最大の寛容が目的ではない。それは最大の寛容による自発的な競戯飽和作用に従う、啓蒙の合理化が目的。つまり、自由は文明の繁栄への仮に名づけられた近代環境で生きるべき理屈だった。
 自由は文明への道具でしかない。同じく、政治や経済ですら、福祉行為の自発的な模索を誘導する事で試行錯誤を省力化する生態秩序内で考案されなければならなかった体系のみ。それらは目的とはならない、なぜなら、繁栄の為には類内秩序での市民的整列による種の数的中庸が理想になる可だったから。学問が対外的に芸術制作となる事でのみ、人は人自身が形成する精神に発育した偉大な善法に則り、あらゆる不条理から超越し得るだろう。ある不合理の群れは解決する為に現れる課題でしかない。人はある世界演劇で問題解決を行う役者ともいえる。

立派さ

例えばサルどもの巣を創る事を建築と人は呼んでいる。そもそも全て、芸術は二足歩行のサルの為に企てられたお遊びだ。繁殖活動、究極では文明としてのに程あれ協調以外に、どんな生活もできない。政経と学術。あらゆる人類の偉業ですら、繁殖の合理化へ寄与するべく設らえられた機能に過ぎなかった。
 人類の大部分はお愛想程度の理性を担わされたサルに他ならない。理想、我々にとって最高幸福としてのそれですら、思想的伝播、教育により類内競戯を効率化する方便に数えうるだけだ。君が偉大なる理知に突き動かされ宇宙の原理を科学的真理の認識というカタチで獲得したと確信できて尚、理性は君自身をサルの一部から精神の究極へ向かって高める。政治による実践福祉の善の幸福も名誉も、経済活動による趣味的それでも、全て、我々はrecreationに興じる動的個体でしかない。もしも唯一、偉大なる精神の至高性に駆られた君が哲学で得られる結論に応じてサルどもを社会参加的に啓蒙教育し、それらが地球型の生命体群に宇宙への創造的適応に一定の有利を与えられるものなら、それ以外にどんな立派もない。そして只の偶発的寄せ集めたる者が立派たりうる可能性はそこにしかない。君が人間原理をどれ程採用するかに求問の範囲はよるが。

2006年7月28日

建築論

文明環境を経年優化するにあたって必要なのは風情である。それは建築的自然空間の追究による。

神聖さ

人間が、神聖たりえる為に必要なのは、精神価値である。

2006年7月25日

Hellenism

Hellenismの根本には哲学精神がある。

建築論

計画の基本的定義は、構造と設備とを美学的合理のもとにまとめることである。その究極では、人工と自然とを調和のもとに置かなければならない。

建築論

普遍空間と自然空間の建築的差異を問え。普遍空間の基準は構造によって開放された可能な限りの等質時空にある。その究極の姿は、自然空間として解しうる環境適応的な文化組成である。もし人間原理に基づくなら、普遍空間は地球文化の枠組みに属する。

2006年7月24日

環境技術の市場

環境負荷軽減の為に、途上国の経済発展を抑圧するのは先進国民の恣意だろうか。エネルギー問題を解決しながら、彼らの自由な開発を許すような方策は見つけられないのだろうか。
 最も先進的な科学技術は、環境コストを最低化しながら最大限の合理性を指導する。ならばその応用は、先ず途上国の為にこそ適用されるべきだろう。環境技術は商業戦略に乗せられる事で、途上国における最大の利益をもたらすものだ。

建築論

建築家の根源は棟梁の気質にある。それは様々な職人の先頭に立って、全権に渡る責任を取る為の決意である。棟梁は文明の全ての技術を、最も優れた判断による指揮の元にまとめるのでなければならない。

2006年7月23日

建築論

人類の生活は次第に地球化されていく。というより、地球化された生活が我々の中に発生する。普遍文明の理想は地域風土個別性の脱出を志向する。にも関わらず自然空間は個別性を要求する。ここに現代建築計画にとっての、大きな矛盾がある。
 近代合理主義は究極的に、完全な均質空間を創造するよう導く。一方で、合理主義の更なる現代的展開の果ては自然空間の異質性を適度な範囲に利用する所に行き着くのではないか。為らば、建築の未来の方向性は何処にあるのだろうか。地球生態系の持続を促進する必要から、ある程度の期間、地球の各文明では自然主義的な個別空間を形成するよう要請され、またその潮流が支配的になるだろう。しかし、最も広遠にして偉大なる理想の建築が為には、あらゆる個別的性格を限界に至るまで抹消した普遍空間の必然が自覚さるべきである。それは宇宙船としての実現を要求している未来建築の基本理念である、と理解されるべきだ。地球の土地に根ざした創作物に関してのみは、自然空間の性格こそが地球的生活の証明になる。

建築論

地球生態系が太陽との適当な関係のもとにのみ、暫時的に成立しているものであるのは疑えない。それは永久不変の絶対なる核でもない。環境学が持続可能性と云う理念ですら、仮設の一時的関係に過ぎない。即ち、生態系は目的ではなく方法であり、地球の生存を永久的なものへ高めるために用意された土台でしかないのだ。これは生態系への調和指向を翻すことを意味しない。寧ろ、我々はそこから理想的な循環、理想的な生活環境の関係を学ばねばならない。
 生命が生存を目標とするのは宇宙の膨張に由来した多様さを維持・促進する為の仕組みである。人類における文明創造による永久繁栄の理想は、このような文脈から導かれた生物の本性に根付いている。
 地球の体系ですら、上記の宇宙的事象の普遍性に基づいている。従って、生態系は地球形態を可能なかぎり維持しようと努める運動量的な意志に合致する。そして究極的なその意味は、地球形態の維持という以上には無い。地球生態系が理想性を持っているとすればそれが多様な生命体の生存を養護するような循環の関係を仮設的にであれ、実現しているからである。我々は太陽と地球との関係性から学ばねばならない。

教育と伝達

自己教育の限界はあり得ない。それが他律的で、受動的な義務付けの範囲に置かれたならば、はじめて過剰の問題が生ずる。個人の自由権を侵すから。基本教育が国家によって現代なお義務付けられている理由は、知能格差の極端化を防ぐ為に全体統制による福祉が、私民により世論として容認されているからだ。
 以上を鑑みるならば、理想の応用は常に、学習を適切に伝承することに還せる。それは生存競戯を合理化する為に個人生活の自由選択の範囲へ帰せられるべきである。すなわち、教育の受容も授与も、自由競戯の原理のもとで成熟させられなければならない。

教育の用途

人類個体の学習の伝承を教育と云う。研究が彼等に益をもたらすとすれば、それが人類の知的水準を向上させ得るからだ。則ち、理想の結果は疑問あたわず、教育に用いられるべきである。教育によって民度は上昇していく。

2006年7月22日

友

猿の戯れに混ざるべからず。神のそれをこそ求めよ。

建築論

地球が奇跡的な現象なのは驚くに値しない。それは人生の現実に驚くのと同じ程度の奇妙でしかない。驚異なるのは時空間に関する法則的関係であって、それは自然の最奥で支配的に振る舞う意志である。かつて人々はそれを神と呼び崇めた。今は、我々によってエネルギーと名づけられている。生態系の循環性が道具たるべきを憶えるならば、有限の地球星に対して人工的に再現された自然循環が必要なことは考慮されなければならない。それは新しい星という船を創るだろう。
 或いは我々を含めて、地球の生命体はいつか人工的なそれか、既に地球に似た環境に移住する必然のもとにある。太陽系は構造ではなく、現象だから。これをかんがみれば、我々を取り巻く自然環境が絶対不変なる対象たり得ないと分かる。則ち、自然は目的でなく、方法であって、少なくとも理想のなかで、人工的な環境統制を経られるべき平野である。

2006年7月21日

哲学の構造

単に生物の多様性を促進する為に生き延びるべく使命づけられた個体が君の実存だ、と言わなければならない。その自由の限界は精神と呼ばれる脳の働き方に依存する。サルトルやハイデガーの論考はすべて、その様な生物構造に依存するものにとどまる。
 では、人々が文明生活を指向し、種内多岐性と生物の地球種を富ませるべく働くのも又、同様の原理に導かれたものにちがいない。もし人間という条件において高等な生と下等な生とが善における質的差として見い出されるとすれば、その基本的定義は活動の福祉性に求められなければならない。乃ち、理想の自己目的幸福を最上とした福祉的生は多少なりとも高等な知的活動であり、それ以下、快楽、さらに有用さの順に下等な利己的成果に留まる。
 だがもし理想に生きる個体を最上の善の結晶だと見なすならば、我々は一様な生へ向けて生物構造の本義に反することにはならないだろうか。知的多様性はそれ自体が人類における生存の別性とも謂われる。人類の猿類との最大な差異は知能の顕著な発達の事だ。ならば、順当な発展の順序はやはり、理知性の開発にあると言わなければならないだろう。それは善なる個体と以外とを選り分けるほどにもなり兼ねない仕業ではあるが、かつて、知恵の実として旧約聖書に考慮された如くもっとも、悪なる個体、獣的・非理性的な人物を徐々に除去するような仕組みに文明はある。哲学は知能における福祉性を養成することで種内秩序を最大多岐と寛容な突然変異可能性のもとに置こうとする体系。

2006年7月20日

言語論

文学における目的美としての言葉と、哲学における思索の道具としてのそれとは、違う様相のもとにみいだされる同じ体系の組み換えなのだ、と知るべきだろう。
 もし異言語間の差異が強調されるべきならばそれは文学による。何故なら、文化的観念のちがいは表現の多彩を誘い、個性のために重要な演出装置となるから。ある言語の慣用の微妙を他の言語で充分にあらわせるだろうか。それが不可能なら不可能なだけ、文学同士には競戯と発展の余地がある。差異を無際限なまで微細に分接化していくなら、文章の意義は自体が固有価値を帯びる。
 だが哲学において概念の為に、異言語間の文化的ずれがあることは決定的な不都合ではないのだろうか。どうしてかと言えば、ここで言葉は道具であって、観念の到達と伝播を巧むために使用される様な合理的な体系であるべきだから。ならば人は、哲学用の言語を創案し、それを全人類に共通の規則で回転させればよいだけではないだろうか。そうすれば翻訳とか通訳とかにまつわる誤解の不条理は消滅するし、或いは、あらゆる言語構成の責任は、ただ個人の知的実践力だけに帰着しうるかもしれない。
 しかし、これは現実味がない。思索が文化を抜きにして不可能である由。我々はとりもなおさず、文化的理念に基づいて考える。
 言葉は文化を本質に持つ。それは文法・語順・用法・語彙などの語学的な違いである以上に、言葉のなかに有する思索の仕方にまで言語を取り巻く生活様式からの影響が多大であるからだ。しかし、哲学こそは言語における文化を手段に用いる。普遍性は異言語間のずれを許容するような次元にのみ、確定される。

言語論

哲学が言語の使用という手段に基づくものであることは現実で、又そこで試される観念の組み合わせからのみ、理想は図りうる。人類が今より遥かに知的に進化した未来、言語は今と元通りの構造を保っているだろうか。恐らくそうではない。言語は不変でなかったし、可変であるべく意志伝達の媒介として用いられる基礎にあるから。
 それにも関わらず幾人かの哲学者たちは言語の構造に哲学の問題解決の鍵をみつけようとする。もしかすれば言語使用のうちに確かならぬ事情が見受けられるに違いない。思索は曖昧のうえで踊らされた、不毛な観念の遊戯かもしれない。だが、それにもかかわらず、我々は考える本能、乃ち理性に宿命づけられているし、それは言語の用法を暫近的に改造し、communcationを改良せずにはおかない。いわば、哲学にとってことばは絶えざる変容のなかにある様な道具であるしかないだろう。たとえ口語であれ文語であれ、思索のために用いられることばたちは普遍的な観念を要求して改変されていく。
 我々が対立概念に見出すのはその試行ではある。男と女、白と黒、天と地、生と死、善と悪、真と偽、美と醜などの語彙は、普遍的な定義の為に利用されるべき根源に近い概念故。

生について

様々の個体が独自の生活を経る。彼らは一様に種内多様性の媒介。理想人も死の事情を免れ得ず、また免れないべき所以は、彼らが有性生殖を生業とする哺乳類である所に還元しうる。或いは今日に最適化した個体よりもずっと、明日は今日の落ちこぼれが最適な環境が生ずるかもしれない。
 ならば、生きることは自体が善。そして生きることの普通の善は、文明の創作、生産に合理的な環境のrecreationへ貢献する事。
 もし君が人類という種の進化の先において最良の模範たる個体ならば、理想を最高善とみなさないわけにいかないだろう。それは知能の啓発を目的化するなかで善の実現を図る生活の仕方に他ならない。