通知つけたら土浦人が発狂してた。港区に通ってる土浦女が港区女子って報道されたから、港区在住者以外は門地差別しますって感じのいかにもな東京系中華ツイートに憲法たねに説教したら、土浦人が発狂した。港区中華思想なんてどんどん批判した方が東京都民側としても都合がいいと計算できるでしょ。港区中華思想に都合がいい人って港区民だけなんだから、都民全体からしたらごくごく一部な上に、成金が威張ってるだけなんだから普通に考えて批判する方が全体の公益じゃない?
まあ東京中華思想自体が門地差別とか色んな観点で批判対象になるべきだけど、その中でも港区中華思想は都民自身にさえ鬱陶しい最も先に退治できる部分なんだから、多分土浦女子云々言ってた人もおのぼりさんかなんかの銀行に新卒採用になってた人ぽかったし、簡単に倒せる差別主義者の弱点じゃん。京都の上京区と、東京港区が日本の二大門地差別の震源地なんだから、機会があったら差別はいけませんよっていって驕りの芽を潰していくべきだと思う。
2019年5月11日
資本主義者は利益が主な行動原理なので外部不経済の内部化や公益事業の助成で社会的な善に仕向ける必要がある
(利益で動かない人は危険、とするツイートへ)
戦争商人(死の商人)も同じくらい危険だといえますね? 金の為にいまなお大量虐殺してますもんね、イラク、シリア。戊辰戦争だって日露戦争以後の日帝だってそうだったと思う。
勿論、宗教観念だか自分の正義の観念で殺人に及ぶのも大変危険である。
結局、危険度は個人のサイコパスさですね?
或るノルウェーの人が「最高刑は自由を奪うので十分」といっていた。死刑廃止国からみると、日本人も条件つき殺人肯定論者でしかない。
旧連合国民(米英仏中露人等)一般は何らかの理由をつけ戦争肯定し、殺人も肯定している。
命より何か(金や正義)を重視するのは人類の一般的愚かさといえる。現時点で中東が巻き込まれているのは、イスラム教の信念と、資本主義教の信念が衝突し、宗教戦争として殺人しあわされている現象ですね。私は資本主義教側の邪悪さの方が激しいと思っているから、最初のツイートをした。米軍有志が先に弱小国を侵略し徹底的に破壊工作してますからね。「スズメバチの巣作戦」としてスノーデンが暴露したとされる情報では、イスラム国は米英イスラエルの諜報機関が共同で捏造したもので、特にシオニスト国家(イスラエルのことだろう)を守るため周囲に国際的な非難の的を作り出すことが目的だったとされる。つまり資本主義教側は、素朴な信仰、又は別の宗教をもつ集団の一部を挑発し、テロリストとして汚名を着せる世界的冤罪にかけることで、戦争屋(軍事企業、主に米英企業)の懐に公金を注ぎ込む陰謀に加担している。これが危険でなくてなんなのか。私は現代商人の原罪と思うが。日本の資本主義信者が、別の宗教全体に何らかの濡れ衣を着せ、米軍傘下で米軍産複合体に公金を貢ぎ、あまつさえ安倍政権下で米軍の悪意ある中東侵略(イラクに大量破壊兵器すらなく、またシリアへの内政干渉に過ぎない侵略)に加担しているのが事実だから、他教への冤罪は看過できない禍々しい言説だ。
金のために人殺しするのと、例えば殺人罪人を正義の為に死刑にするのと、どっちが健全なの? 拝金主義者の中ではもしかしたら金のほうが人の命より重要なのかもしれない。しかもその人が法や正義、宗教上の何らかの倫理的な信仰(罪の観念)より金を至上価値だと思ってたら、余計そうなのかもしれないけど、日本であれ他国であれ、一般的には金のための殺人は容認されてないですよね? 私は拝金主義を否定してるのではなく、単に「金の為に行動するのが正義」だとする思想を、他思想より至上のものと主張するのは見苦しいといっているの。自文化中心主義というかただの傲慢でしょ? なぜなら世界の過半数はキリスト教かイスラム教の信者なのですから?
なお私はある人が拝金主義者だろうと自由至上主義者だろうと、それどころかイスラム過激派だろうと、無政府主義の極悪テロリストか何かだろうとどうでもいいけれど、金で買えないものが無数にある上に、伝統的な世界宗教では寄付や喜捨が優越してたので資本主義信者の傲慢は見苦しいといったのです。
「他人を制御」することと安全性には何の関係もない。金で殺人命じたらいいのですから。ここでいう安全性を他人に対する危害の度合いとし、危害を減らす制御の仕方を外的制御と内的制御に分けるとすると、先ず金は危害を増す方向に使えるので単なる道具にすぎず外的制御に該当するとは限らない。つまり拝金主義者の様な私利で動く人物の危害を減らすには金では足りないことになる。
資本主義(拝金主義)はただの宗教で、そこでは金が神に置き換わっているだけの話で、自教を理由に殺人する危険度は変わらない。つまり、何らかの自分の信仰対象(或いは法律信者なら法体系、何らかの宗教信者ならその教義、特に資本主義教の商人なら金儲け教義)の為に特定の行動をとるが、この危害度を外的・内的に制御しなければならないが、少なくとも利益追求の教義も他教の教義と変わらないだけの有害さがみいだせる。
因みにカネって法定通貨のことでしょう? 政府が発行している銀行券(及びその価値)を偶像崇拝する教義の為に殺人している人は、嘱託殺人か何かだとしても日本国の法律では死刑の対象で、動機自体も他の殺人の動機(宗教心とか恨みとか)と変わらない審理で裁判的には判定されるはずでしょ? 例えば全米ライフル協会は既にある程度のカネは持ってますけども、反論もあるかもしれないが、殺人の道具を色んな言い訳つけて売る為に活動していますよね。軍需産業もそうでしょう。どっちかといえばロッキードマーティン社の大金持ちの株主は戦争起きたら儲かるとしか考えてないと思いますよ。
まあツイートの最初の人は要するに聖戦思想を否定してるのだろうと思う。しかし金儲けの為の戦争も一種の聖戦なのは変わらないだろう。資本主義教の偶像崇拝の対象が法定通貨に置き換わってるだけで神は神だ。カネという神と、別の神との戦い、何れも罪悪は変わらないのだから、理由如何に関わらず邪教は邪教である。つまりは何らかの教義のために何でもさせようという時点で、その宗教(資本主義教も)は信じるに値しないのだ。因みに、資本主義の追求している「利益」も、人間社会が提供するものを超えている概念だといえますよ。だって抽象概念であって幾ら蓄財しても足りないのだから。まあこの最初のツイートの人も資本主義教徒なんでしょ? 私は資本主義信者ではない。だからカネという偶像を信じてないし、利益追求も公平だと思ってない。そしてどっちかというと、資本主義を倫理原則だと思ってない人の方が世界では多いというか約半数以上を占めてるので、この人が特殊な信仰の持ち主なんですね。テロという意味でいえば、日清戦争や日露戦争、満州事変以後の大陸拡大も日帝による資本主義教に基づいた一種の侵略戦争といえるし、ご存知の通り欧米列強もかなり長期に渡って同様の金儲けの為の侵略戦争を世界中で起こしてきましたね。今もその余波で中東侵略していると。
「カネへの好み」も好悪感情の一種で、カネほしさに家族を嘱託殺人する保険金詐欺の殺人犯みたいなのも居る以上、宗教テロとしては資本主義教の邪悪さは甚だ大きい。カネがあろうがなかろうが、キリスト教だのイスラム教だの仏教なら金持ちは寄付しろというだけで何の落ち度もないけど。
一つの教義をこうと思い込む傾向、狂信が、そもそも他者への危害行為にまで至る第一の原因と思いますね。勿論、カネへの執着として資本主義だの拝金主義だのでは教義が植えつけられているのだけど、資本主義教徒の中ではこの金儲けが救いだという狂信を、疑い様がないのではないでしょうか。『資本論』での唯物史観以後、近代の新興宗教として資本主義が分析されてきたというのに、或いはイスラム金融世界は既に莫大な規模で成長しているというのに、社会構造と信仰に関係がないだなんて、マックスウェーバーですら資本主義が脱清教徒の新信仰だと定義していたのに遅れること何年でしょうね?
ある時代の凡人は、その時代の宗教観念を自明の前提としていて、自らの信仰を抉り出して分析の俎上にあげることができない。平成から令和初期の一般日本人にとって資本主義教や裏の顔としての国家社会主義教、神道は封建制以後の大衆宗教として大人気で、彼らはそれらを疑ってみることをしなかった。
孔子「小人は利にさとり、君子は義にさとる」
イエス「金持ちが救われるのはラクダが針の穴を通るより難しい」
利益の為に命を奪って平気な人間を安全とし、幾らカネを積まれようが決して殺人やら死刑に肯首しない人間を危険とする。認知バイアスに気づくだけ知能があれば資本主義教義も疑えたろうに。
死の商人を正当化し、イスラム過激派だの神道極右だのキリスト教原理主義者だのを差別的に扱いたいのは分かるけど、資本主義信者側の理屈を応用すれば、私に1円も渡さずなぜその教義をひいきしてもらえると? 因みに私は10兆円もらおうが、良心に従うだけのことで殺人にも戦争にも反対しますがね。そんなの当然の話で、大抵の人類の中で金儲けを倫理規範にしてるはずもないんだから、資本主義者が比較的安全な根拠になんてなりようがない。外的制御の方法の1つにカネが大きな価値を占める集団(孔子のいう小人)がいるというだけで、それ自体は大昔からいたわけで、商人の中では別の戦争だの悪事の理屈をみいだしてるだけの話だな。
カネ儲けと良心なんて全く無関係といってもいい要素を無理やり結びつけて論じていた最初の人の論旨に問題があっただけの話だ。往々にしてその様な考えをもってるのは欲深な悪徳商人くらいで、そもそもカネをもらっても悪いことをしないのが善良な商人である。
私が共産主義者ならなぜ安倍政権が日本企業の国有化(既に時価総額にして半分以上が日銀保有だが)を進めてるのに反対で、私有財産をなくす預金封鎖を避けさせようと思うのだろう? どちらかといえば資本主義信者が多いことを前提に生きている、そしてそれを狂信してないただの現代人だと思うが。
ここまでの議論をまとめる。
1.或る個人の他人への危害度を下げるには外的・内的制御いずれかが有用
2.思想信条(広義で資本主義等の社会制度についての思想も含む)は外的・内的制御の正当化をはかる
3.いずれの思想信条が最も安全かをはかる客観的データが足りない
4.資本主義(狭義で拝金主義と呼ばれる私利を善とする考え)が相対的に安全な思想信条とするには死の商人や保険金目当ての殺人など例外が多いので俄かには信じがたい
5.未知、又は他の思想信条がより安全ならそれを採用するべきであり、現世利益と関係あるとは限らない
6.資本主義の追求する利益は抽象概念なので現世利益と直結していない
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」西郷隆盛(『西郷南洲遺訓』)
カネで動かせれば、政治家だの皇室だのにとっては法定通貨を刷って簡単にその人達を動かせることになるわけだから、機械みたいなもんで、これが安全だとするのは単なる愚民政治だといえるでしょう? 良心のない機械人間を意味している。良心の方が金銭より大事だといえないとおかしいよ。
因みにですね、最初の人が言おうとしてたのは、次のことだと思います。苫米地英人氏がどこかで書いてた気がしますが、オウム真理教は来世を語って聖戦を正当化していたと。で、私が思うにこれはイスラム教の教義の中でも、或いは靖国の英霊など神道教義も同様の構造をもっていると。聖戦思想の中で、輪廻の観念、生まれ変わりの教義は何らかの殺人罪など重大犯罪を命じる為に、便利な理屈として使われていると。
しかし石田梅岩の町人道以来、近現代の資本主義商人は現世利益に最適化しようとしたから生まれ変わりは信じないのだと。自分が罰を受けるなら罪を犯さないだろうと。
私が上で述べた通り、ところが資本主義は逆に現世利益の為なら侵略戦争で軍需企業に公金を流し込んで自分の株価を上げ、金儲けまでしていると。だから聖戦思想の中には危害の正当化が含まれるとしても、資本主義だってそうなんだというわけです。現世利益or来世利益が危害度の根拠じゃないんですね。原発は現世利益に最適化し過ぎた負の遺産といえますよ。次世代にとっては汚染された環境で、何万年も我慢しなければいけなくなった。しかし赤字が垂れ流される一方と。つまり現世利益に最適化すれば罪を犯さないだろうというのは、単なる利己にすぎず、罰されねば他人や次世代には危害をなすんですよ。
因みにこの議論の核心は、カントの次の概念で説明できるかもしれません。
カントは条件つきの善行(罰されたくなければ善行せよ)と、無条件の善行(自己犠牲であれ善行せよ)を区別した。前者を仮言命法、後者を定言命法と呼ぶ。カネがもらえるなら善行せよ、は仮の善、偽善に過ぎないのです。真の善行は、カントの説によればカネ含む何らかの報酬とは無関係に行わねばならない義務です。つまり現世利益、来世利益、いずれも単なる条件ですから、これらを動機にする限り真の善行にはなりえません。この意味で資本主義の利益追求であれ、神道、イスラム教その他の宗教の教義であれ、無意味です。「危害度」として反転して考えれば、条件つきなら悪行する、無条件で悪行するの2つが考えられますが、確かに条件次第で悪行しないことがありうる前者(いわば悪しき仮言命法)の方がより危険度が少ないかもしれません。恐らく最初の人は資本主義者の一部はカネで悪行を踏みとどまるといおうとした。
いいかえれば、資本主義の外的制御が有効なのは、この条件つき悪行をしがちな人達、いわば露悪者に対してだけなのではないですか? 同時に彼らは偽善者なので条件つきなら善行もするかもしれません。
また最善人と極悪人のいずれも条件に依存しないことが以上で論証できました。
資本主義の市場は何らかの善意で動いているものではなく、需給で動く。だからカネになるなら悪事(高い危害度の行動)をする類型も多くみられます。即ち市場における財とサービスの交換以外の目的で、倫理目的で外的制御をするなら、法律等で悪い商いの需給を減らし、善い商いの需給を増やすべきです。いわゆる外部不経済の内部化という経済学用語は、この種の目的をもっているものですが、資本主義信者の行動類型を利用した、社会的功利性(幸福の最大化)を目指した知恵といえるでしょう。他にも公益度の高い善い商いに助成や寄付を行うなど、もっと資本主義市場を改良していくべきでしょうね。
戦争商人(死の商人)も同じくらい危険だといえますね? 金の為にいまなお大量虐殺してますもんね、イラク、シリア。戊辰戦争だって日露戦争以後の日帝だってそうだったと思う。
勿論、宗教観念だか自分の正義の観念で殺人に及ぶのも大変危険である。
結局、危険度は個人のサイコパスさですね?
或るノルウェーの人が「最高刑は自由を奪うので十分」といっていた。死刑廃止国からみると、日本人も条件つき殺人肯定論者でしかない。
旧連合国民(米英仏中露人等)一般は何らかの理由をつけ戦争肯定し、殺人も肯定している。
命より何か(金や正義)を重視するのは人類の一般的愚かさといえる。現時点で中東が巻き込まれているのは、イスラム教の信念と、資本主義教の信念が衝突し、宗教戦争として殺人しあわされている現象ですね。私は資本主義教側の邪悪さの方が激しいと思っているから、最初のツイートをした。米軍有志が先に弱小国を侵略し徹底的に破壊工作してますからね。「スズメバチの巣作戦」としてスノーデンが暴露したとされる情報では、イスラム国は米英イスラエルの諜報機関が共同で捏造したもので、特にシオニスト国家(イスラエルのことだろう)を守るため周囲に国際的な非難の的を作り出すことが目的だったとされる。つまり資本主義教側は、素朴な信仰、又は別の宗教をもつ集団の一部を挑発し、テロリストとして汚名を着せる世界的冤罪にかけることで、戦争屋(軍事企業、主に米英企業)の懐に公金を注ぎ込む陰謀に加担している。これが危険でなくてなんなのか。私は現代商人の原罪と思うが。日本の資本主義信者が、別の宗教全体に何らかの濡れ衣を着せ、米軍傘下で米軍産複合体に公金を貢ぎ、あまつさえ安倍政権下で米軍の悪意ある中東侵略(イラクに大量破壊兵器すらなく、またシリアへの内政干渉に過ぎない侵略)に加担しているのが事実だから、他教への冤罪は看過できない禍々しい言説だ。
金のために人殺しするのと、例えば殺人罪人を正義の為に死刑にするのと、どっちが健全なの? 拝金主義者の中ではもしかしたら金のほうが人の命より重要なのかもしれない。しかもその人が法や正義、宗教上の何らかの倫理的な信仰(罪の観念)より金を至上価値だと思ってたら、余計そうなのかもしれないけど、日本であれ他国であれ、一般的には金のための殺人は容認されてないですよね? 私は拝金主義を否定してるのではなく、単に「金の為に行動するのが正義」だとする思想を、他思想より至上のものと主張するのは見苦しいといっているの。自文化中心主義というかただの傲慢でしょ? なぜなら世界の過半数はキリスト教かイスラム教の信者なのですから?
なお私はある人が拝金主義者だろうと自由至上主義者だろうと、それどころかイスラム過激派だろうと、無政府主義の極悪テロリストか何かだろうとどうでもいいけれど、金で買えないものが無数にある上に、伝統的な世界宗教では寄付や喜捨が優越してたので資本主義信者の傲慢は見苦しいといったのです。
「他人を制御」することと安全性には何の関係もない。金で殺人命じたらいいのですから。ここでいう安全性を他人に対する危害の度合いとし、危害を減らす制御の仕方を外的制御と内的制御に分けるとすると、先ず金は危害を増す方向に使えるので単なる道具にすぎず外的制御に該当するとは限らない。つまり拝金主義者の様な私利で動く人物の危害を減らすには金では足りないことになる。
資本主義(拝金主義)はただの宗教で、そこでは金が神に置き換わっているだけの話で、自教を理由に殺人する危険度は変わらない。つまり、何らかの自分の信仰対象(或いは法律信者なら法体系、何らかの宗教信者ならその教義、特に資本主義教の商人なら金儲け教義)の為に特定の行動をとるが、この危害度を外的・内的に制御しなければならないが、少なくとも利益追求の教義も他教の教義と変わらないだけの有害さがみいだせる。
因みにカネって法定通貨のことでしょう? 政府が発行している銀行券(及びその価値)を偶像崇拝する教義の為に殺人している人は、嘱託殺人か何かだとしても日本国の法律では死刑の対象で、動機自体も他の殺人の動機(宗教心とか恨みとか)と変わらない審理で裁判的には判定されるはずでしょ? 例えば全米ライフル協会は既にある程度のカネは持ってますけども、反論もあるかもしれないが、殺人の道具を色んな言い訳つけて売る為に活動していますよね。軍需産業もそうでしょう。どっちかといえばロッキードマーティン社の大金持ちの株主は戦争起きたら儲かるとしか考えてないと思いますよ。
まあツイートの最初の人は要するに聖戦思想を否定してるのだろうと思う。しかし金儲けの為の戦争も一種の聖戦なのは変わらないだろう。資本主義教の偶像崇拝の対象が法定通貨に置き換わってるだけで神は神だ。カネという神と、別の神との戦い、何れも罪悪は変わらないのだから、理由如何に関わらず邪教は邪教である。つまりは何らかの教義のために何でもさせようという時点で、その宗教(資本主義教も)は信じるに値しないのだ。因みに、資本主義の追求している「利益」も、人間社会が提供するものを超えている概念だといえますよ。だって抽象概念であって幾ら蓄財しても足りないのだから。まあこの最初のツイートの人も資本主義教徒なんでしょ? 私は資本主義信者ではない。だからカネという偶像を信じてないし、利益追求も公平だと思ってない。そしてどっちかというと、資本主義を倫理原則だと思ってない人の方が世界では多いというか約半数以上を占めてるので、この人が特殊な信仰の持ち主なんですね。テロという意味でいえば、日清戦争や日露戦争、満州事変以後の大陸拡大も日帝による資本主義教に基づいた一種の侵略戦争といえるし、ご存知の通り欧米列強もかなり長期に渡って同様の金儲けの為の侵略戦争を世界中で起こしてきましたね。今もその余波で中東侵略していると。
「カネへの好み」も好悪感情の一種で、カネほしさに家族を嘱託殺人する保険金詐欺の殺人犯みたいなのも居る以上、宗教テロとしては資本主義教の邪悪さは甚だ大きい。カネがあろうがなかろうが、キリスト教だのイスラム教だの仏教なら金持ちは寄付しろというだけで何の落ち度もないけど。
一つの教義をこうと思い込む傾向、狂信が、そもそも他者への危害行為にまで至る第一の原因と思いますね。勿論、カネへの執着として資本主義だの拝金主義だのでは教義が植えつけられているのだけど、資本主義教徒の中ではこの金儲けが救いだという狂信を、疑い様がないのではないでしょうか。『資本論』での唯物史観以後、近代の新興宗教として資本主義が分析されてきたというのに、或いはイスラム金融世界は既に莫大な規模で成長しているというのに、社会構造と信仰に関係がないだなんて、マックスウェーバーですら資本主義が脱清教徒の新信仰だと定義していたのに遅れること何年でしょうね?
ある時代の凡人は、その時代の宗教観念を自明の前提としていて、自らの信仰を抉り出して分析の俎上にあげることができない。平成から令和初期の一般日本人にとって資本主義教や裏の顔としての国家社会主義教、神道は封建制以後の大衆宗教として大人気で、彼らはそれらを疑ってみることをしなかった。
孔子「小人は利にさとり、君子は義にさとる」
イエス「金持ちが救われるのはラクダが針の穴を通るより難しい」
利益の為に命を奪って平気な人間を安全とし、幾らカネを積まれようが決して殺人やら死刑に肯首しない人間を危険とする。認知バイアスに気づくだけ知能があれば資本主義教義も疑えたろうに。
死の商人を正当化し、イスラム過激派だの神道極右だのキリスト教原理主義者だのを差別的に扱いたいのは分かるけど、資本主義信者側の理屈を応用すれば、私に1円も渡さずなぜその教義をひいきしてもらえると? 因みに私は10兆円もらおうが、良心に従うだけのことで殺人にも戦争にも反対しますがね。そんなの当然の話で、大抵の人類の中で金儲けを倫理規範にしてるはずもないんだから、資本主義者が比較的安全な根拠になんてなりようがない。外的制御の方法の1つにカネが大きな価値を占める集団(孔子のいう小人)がいるというだけで、それ自体は大昔からいたわけで、商人の中では別の戦争だの悪事の理屈をみいだしてるだけの話だな。
カネ儲けと良心なんて全く無関係といってもいい要素を無理やり結びつけて論じていた最初の人の論旨に問題があっただけの話だ。往々にしてその様な考えをもってるのは欲深な悪徳商人くらいで、そもそもカネをもらっても悪いことをしないのが善良な商人である。
私が共産主義者ならなぜ安倍政権が日本企業の国有化(既に時価総額にして半分以上が日銀保有だが)を進めてるのに反対で、私有財産をなくす預金封鎖を避けさせようと思うのだろう? どちらかといえば資本主義信者が多いことを前提に生きている、そしてそれを狂信してないただの現代人だと思うが。
ここまでの議論をまとめる。
1.或る個人の他人への危害度を下げるには外的・内的制御いずれかが有用
2.思想信条(広義で資本主義等の社会制度についての思想も含む)は外的・内的制御の正当化をはかる
3.いずれの思想信条が最も安全かをはかる客観的データが足りない
4.資本主義(狭義で拝金主義と呼ばれる私利を善とする考え)が相対的に安全な思想信条とするには死の商人や保険金目当ての殺人など例外が多いので俄かには信じがたい
5.未知、又は他の思想信条がより安全ならそれを採用するべきであり、現世利益と関係あるとは限らない
6.資本主義の追求する利益は抽象概念なので現世利益と直結していない
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」西郷隆盛(『西郷南洲遺訓』)
カネで動かせれば、政治家だの皇室だのにとっては法定通貨を刷って簡単にその人達を動かせることになるわけだから、機械みたいなもんで、これが安全だとするのは単なる愚民政治だといえるでしょう? 良心のない機械人間を意味している。良心の方が金銭より大事だといえないとおかしいよ。
因みにですね、最初の人が言おうとしてたのは、次のことだと思います。苫米地英人氏がどこかで書いてた気がしますが、オウム真理教は来世を語って聖戦を正当化していたと。で、私が思うにこれはイスラム教の教義の中でも、或いは靖国の英霊など神道教義も同様の構造をもっていると。聖戦思想の中で、輪廻の観念、生まれ変わりの教義は何らかの殺人罪など重大犯罪を命じる為に、便利な理屈として使われていると。
しかし石田梅岩の町人道以来、近現代の資本主義商人は現世利益に最適化しようとしたから生まれ変わりは信じないのだと。自分が罰を受けるなら罪を犯さないだろうと。
私が上で述べた通り、ところが資本主義は逆に現世利益の為なら侵略戦争で軍需企業に公金を流し込んで自分の株価を上げ、金儲けまでしていると。だから聖戦思想の中には危害の正当化が含まれるとしても、資本主義だってそうなんだというわけです。現世利益or来世利益が危害度の根拠じゃないんですね。原発は現世利益に最適化し過ぎた負の遺産といえますよ。次世代にとっては汚染された環境で、何万年も我慢しなければいけなくなった。しかし赤字が垂れ流される一方と。つまり現世利益に最適化すれば罪を犯さないだろうというのは、単なる利己にすぎず、罰されねば他人や次世代には危害をなすんですよ。
因みにこの議論の核心は、カントの次の概念で説明できるかもしれません。
カントは条件つきの善行(罰されたくなければ善行せよ)と、無条件の善行(自己犠牲であれ善行せよ)を区別した。前者を仮言命法、後者を定言命法と呼ぶ。カネがもらえるなら善行せよ、は仮の善、偽善に過ぎないのです。真の善行は、カントの説によればカネ含む何らかの報酬とは無関係に行わねばならない義務です。つまり現世利益、来世利益、いずれも単なる条件ですから、これらを動機にする限り真の善行にはなりえません。この意味で資本主義の利益追求であれ、神道、イスラム教その他の宗教の教義であれ、無意味です。「危害度」として反転して考えれば、条件つきなら悪行する、無条件で悪行するの2つが考えられますが、確かに条件次第で悪行しないことがありうる前者(いわば悪しき仮言命法)の方がより危険度が少ないかもしれません。恐らく最初の人は資本主義者の一部はカネで悪行を踏みとどまるといおうとした。
いいかえれば、資本主義の外的制御が有効なのは、この条件つき悪行をしがちな人達、いわば露悪者に対してだけなのではないですか? 同時に彼らは偽善者なので条件つきなら善行もするかもしれません。
また最善人と極悪人のいずれも条件に依存しないことが以上で論証できました。
資本主義の市場は何らかの善意で動いているものではなく、需給で動く。だからカネになるなら悪事(高い危害度の行動)をする類型も多くみられます。即ち市場における財とサービスの交換以外の目的で、倫理目的で外的制御をするなら、法律等で悪い商いの需給を減らし、善い商いの需給を増やすべきです。いわゆる外部不経済の内部化という経済学用語は、この種の目的をもっているものですが、資本主義信者の行動類型を利用した、社会的功利性(幸福の最大化)を目指した知恵といえるでしょう。他にも公益度の高い善い商いに助成や寄付を行うなど、もっと資本主義市場を改良していくべきでしょうね。
武士道は日本独自の歴史的又は伝統的な道徳規範で、今日では参考先の一つになる徳目の体系
(生麦事件を例にとると、中学生の道徳科目において今日の目からは狂人にしか見えない武士道の「忠義」を教えるのは如何なものか、とのツイートへ)
まあ薩摩藩自体が外様大名だったこともあり、生麦事件の1つの例は武士道全体からいうとかなり例外的というか、極端な例ではあるけど、大名行列を横切るのは主君への無礼にあたるから斬り捨てたという例ですね。つまり忠義が極端な形をとっている。忠義という徳目をどう扱うかの議論になるわけです。
例えば平成の会社員、秘書が、お客さんが社長室に入ってきて社長に謙譲語を使うと。これも一種の忠義だと思いますが、例えばアップル社でジョブズに敬語使ってたかといえば、気は使ってても忠義ではないかもしれないです。ジョブズも一種のクレイジーですがもっとフレンドリーだったじゃないでしょうか。
武士道って具体的な形(剣道、柔道みたいなの)のことじゃなくて徳目のことですね。主に新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』が最も代表的な参考書で、それ以前の文献だと『葉隠』とかも含まれる。要するに道徳論です。したがって倫理学の議論にすぎず、具体的なスポーツとかと関係ないでしょう。倫理学の議論って或る徳目を「これは正しいのだ」といって押し付けるの(宗教教育といいましょうか)とは正反対で、寧ろ「これは本当に正しいのだろうか?」と問い直す作業だといえますから、『武士道』を子供に教えるといっても、教え方次第では反武士道論者を大量に生み出すこともできますよ。
新渡戸によると、「武士道とは日本の象徴である桜と同じよう国土に咲く固有の華で、歴史の標本室に保存されている古めかしい道徳ではなく、今なお力と美の対象として私達の心の中に生きている。一言でいえば高き身分の者に伴う義務で、弱きを助け強きを挫く勇猛果敢なフェアプレーの精神」だそうです(新渡戸稲造著『武士道』(原著 "Bushido -- The Soul of Japan")の第一章「武士道とはなにか」より)。多分、文科省が検定教科書で使ってる武士道の概念って、新渡戸の同著を引用してると思うので、同著の概念の議論なのじゃないでしょうか?
忠義という徳目は同著9章があてられ、公を私より優先した例として西洋個人主義との違いが比較され、「愛する者の為に死ぬ」自然愛の一種と分析されている。
生麦事件でいうと、幕末当時の鹿児島の侍は、島津家という主君に忠義(つまり主人への愛)のあまり無礼者を即座に斬り捨てたけれども、それがたまたま外人だったので国際問題に発展し、攘夷論と絡んで薩英戦争になったわけでしょ? つまり道徳に起因し或る行動が起きたわけだから議論の余地があると。「愛する者の為に死ぬ」とはいっても、わざわざ主君だか主人のために命捨てて守らなくていいだろう、というのがドライな西洋個人主義の立場でしょうけど、日本人一般って伝統的にはそう考えてなく、最大の場合、一億総団結とかいって天皇陛下万歳で戦争いってしまうわけですよ。忠義で。あと東京渋谷駅にハチ公の像ってのありますが、あれもまさにここでいう武士道の概念であるところの忠義のモデルとして偶像化されていて、主人が戦死で帰ってこないのにいつまでも侍みたいに駅前に馳せ参じていて哀れだというので残っていると。類似はあっても、海外に忠義の徳目ってないわけです。
なお儒教だと、忠って正しい心、主君への誠心という程の意味で、自己の意志または利の反対の義という概念もですが、日本人の哲学の中で変容して用いられていて、忠義になるとまた別のより高次な理念になっている。これは新渡戸の同著でもかなり分析されてて、まあ国学のかなり重要な部分だと思います。
小中学生に倫理学の初段の部分を教えるという意味で、儒教と武士道における忠や義、それらを組み合わせた忠義の概念の違いとか、そういうのも例示と共に考えさせるのは、昔から寺子屋や藩校でやってきた話であり、自然科学が主になった明治以後、学の最終段階としての形而上学を教え忘れてただけでしょう。
あと、海外の各国に色々な道徳規範(共通規範としては法、或いは宗教)があって、それらは各国民がどの道徳律を採用してるかによるわけだけど、倫理学としては全世界の道徳を網羅し、自分の参考にする所まで進まなければいけないので、武士道は日本独自の倫理規範というだけで歴史的なものでしょう。
私は「武士道は歴史的なもの」といいましたが、新渡戸は上に引用した部分で「武士道は歴史標本の類でなく、今なお力と美の対象として私達の心の中に生きている」といっていて、矛盾する。同著の最終章で新渡戸は武士道は独立した道徳体系としては滅びても、その栄光は生きながらえると予言している。新渡戸がいいたいのは、「日本人は昔から継承してきた観念に訴えられると即座に応答する」なぜなら「それぞれの国民の道徳的発展になじみのある言葉で説かれれば、人種・国籍を問わず(ある教えは)人々の心にすんなり宿る」(同著16章)という話で、各徳目は伝統的観念として残るだろうという話です。
私達は過去の国民が受け継いできた或る徳目を言葉としてもっていて、忠義という概念は、現実に漢字文化圏で使ってもほぼまるで日本人の使う意味ではないと。ゆえ新渡戸がいう伝統的な解釈学が今後も続く筈という意見は正しいと思います。ただ私は徳目が廃れたり、忘れ去られたりもするだろうと思います。現に、あなたの中では忠義の意味がもう殆ど廃れて理解されていないわけですよ。生麦事件でなぜ侍が奮起したか、単なる狂人じみた武官が外人を斬り殺したと解釈してしまっているわけです。過去の民衆の中でも忠義を理解していない町人ならいたかもしれませんが、廃れてきたのは確かじゃないでしょうか?
もし薩摩の侍が、生麦事件の時に馬にのって土下座しなかった外人を斬り殺さなかったら、皆そうしている民衆に示しがつかないのに加え、現実にその外人が主君を討ち取る為に急襲してきた敵兵の場合もあるから、当時の感覚としては天皇陛下の御用車の前に躍り出てきた危険マリオカートみたいに見えたと。もしあなたが薩摩の侍の先兵を任されていて、或いは今日でいえば皇宮警察の先頭車両で、忠義を信じていたならば、目の前に主君に害をなしかねない危険人物が躍り出てきたとき、真っ先に職務遂行を選択しその危険人物なり危険車両なりを打ち払わないか? という話です。狂人の蛮行ではないのです。勿論、私の立場では忠義を「正義」と認めるとは限りません。それが倫理学的に考えるということです。生麦事件も別に英雄的事件とも思わないし早まったと思うし、現代で天皇陛下の御用車両にマリカーがぶつかってきて天皇皇后共に崩御なんて事件があったとしても、忠義が廃れたんだなあと思うだけです。
武士道を教えては成らないとか、武士道なんて野蛮な道理だ、というのは実に誤った見解といえて、寧ろ日本史での事象の動機を解釈する為にも最低限必要くらいで、単に倫理学の一種だといえるのではないですか? 現代の我々がそれをそのまま、中世や近世のよう即実践せよとは言っていないのですからね。
まあ薩摩藩自体が外様大名だったこともあり、生麦事件の1つの例は武士道全体からいうとかなり例外的というか、極端な例ではあるけど、大名行列を横切るのは主君への無礼にあたるから斬り捨てたという例ですね。つまり忠義が極端な形をとっている。忠義という徳目をどう扱うかの議論になるわけです。
例えば平成の会社員、秘書が、お客さんが社長室に入ってきて社長に謙譲語を使うと。これも一種の忠義だと思いますが、例えばアップル社でジョブズに敬語使ってたかといえば、気は使ってても忠義ではないかもしれないです。ジョブズも一種のクレイジーですがもっとフレンドリーだったじゃないでしょうか。
武士道って具体的な形(剣道、柔道みたいなの)のことじゃなくて徳目のことですね。主に新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』が最も代表的な参考書で、それ以前の文献だと『葉隠』とかも含まれる。要するに道徳論です。したがって倫理学の議論にすぎず、具体的なスポーツとかと関係ないでしょう。倫理学の議論って或る徳目を「これは正しいのだ」といって押し付けるの(宗教教育といいましょうか)とは正反対で、寧ろ「これは本当に正しいのだろうか?」と問い直す作業だといえますから、『武士道』を子供に教えるといっても、教え方次第では反武士道論者を大量に生み出すこともできますよ。
新渡戸によると、「武士道とは日本の象徴である桜と同じよう国土に咲く固有の華で、歴史の標本室に保存されている古めかしい道徳ではなく、今なお力と美の対象として私達の心の中に生きている。一言でいえば高き身分の者に伴う義務で、弱きを助け強きを挫く勇猛果敢なフェアプレーの精神」だそうです(新渡戸稲造著『武士道』(原著 "Bushido -- The Soul of Japan")の第一章「武士道とはなにか」より)。多分、文科省が検定教科書で使ってる武士道の概念って、新渡戸の同著を引用してると思うので、同著の概念の議論なのじゃないでしょうか?
忠義という徳目は同著9章があてられ、公を私より優先した例として西洋個人主義との違いが比較され、「愛する者の為に死ぬ」自然愛の一種と分析されている。
生麦事件でいうと、幕末当時の鹿児島の侍は、島津家という主君に忠義(つまり主人への愛)のあまり無礼者を即座に斬り捨てたけれども、それがたまたま外人だったので国際問題に発展し、攘夷論と絡んで薩英戦争になったわけでしょ? つまり道徳に起因し或る行動が起きたわけだから議論の余地があると。「愛する者の為に死ぬ」とはいっても、わざわざ主君だか主人のために命捨てて守らなくていいだろう、というのがドライな西洋個人主義の立場でしょうけど、日本人一般って伝統的にはそう考えてなく、最大の場合、一億総団結とかいって天皇陛下万歳で戦争いってしまうわけですよ。忠義で。あと東京渋谷駅にハチ公の像ってのありますが、あれもまさにここでいう武士道の概念であるところの忠義のモデルとして偶像化されていて、主人が戦死で帰ってこないのにいつまでも侍みたいに駅前に馳せ参じていて哀れだというので残っていると。類似はあっても、海外に忠義の徳目ってないわけです。
なお儒教だと、忠って正しい心、主君への誠心という程の意味で、自己の意志または利の反対の義という概念もですが、日本人の哲学の中で変容して用いられていて、忠義になるとまた別のより高次な理念になっている。これは新渡戸の同著でもかなり分析されてて、まあ国学のかなり重要な部分だと思います。
小中学生に倫理学の初段の部分を教えるという意味で、儒教と武士道における忠や義、それらを組み合わせた忠義の概念の違いとか、そういうのも例示と共に考えさせるのは、昔から寺子屋や藩校でやってきた話であり、自然科学が主になった明治以後、学の最終段階としての形而上学を教え忘れてただけでしょう。
あと、海外の各国に色々な道徳規範(共通規範としては法、或いは宗教)があって、それらは各国民がどの道徳律を採用してるかによるわけだけど、倫理学としては全世界の道徳を網羅し、自分の参考にする所まで進まなければいけないので、武士道は日本独自の倫理規範というだけで歴史的なものでしょう。
私は「武士道は歴史的なもの」といいましたが、新渡戸は上に引用した部分で「武士道は歴史標本の類でなく、今なお力と美の対象として私達の心の中に生きている」といっていて、矛盾する。同著の最終章で新渡戸は武士道は独立した道徳体系としては滅びても、その栄光は生きながらえると予言している。新渡戸がいいたいのは、「日本人は昔から継承してきた観念に訴えられると即座に応答する」なぜなら「それぞれの国民の道徳的発展になじみのある言葉で説かれれば、人種・国籍を問わず(ある教えは)人々の心にすんなり宿る」(同著16章)という話で、各徳目は伝統的観念として残るだろうという話です。
私達は過去の国民が受け継いできた或る徳目を言葉としてもっていて、忠義という概念は、現実に漢字文化圏で使ってもほぼまるで日本人の使う意味ではないと。ゆえ新渡戸がいう伝統的な解釈学が今後も続く筈という意見は正しいと思います。ただ私は徳目が廃れたり、忘れ去られたりもするだろうと思います。現に、あなたの中では忠義の意味がもう殆ど廃れて理解されていないわけですよ。生麦事件でなぜ侍が奮起したか、単なる狂人じみた武官が外人を斬り殺したと解釈してしまっているわけです。過去の民衆の中でも忠義を理解していない町人ならいたかもしれませんが、廃れてきたのは確かじゃないでしょうか?
もし薩摩の侍が、生麦事件の時に馬にのって土下座しなかった外人を斬り殺さなかったら、皆そうしている民衆に示しがつかないのに加え、現実にその外人が主君を討ち取る為に急襲してきた敵兵の場合もあるから、当時の感覚としては天皇陛下の御用車の前に躍り出てきた危険マリオカートみたいに見えたと。もしあなたが薩摩の侍の先兵を任されていて、或いは今日でいえば皇宮警察の先頭車両で、忠義を信じていたならば、目の前に主君に害をなしかねない危険人物が躍り出てきたとき、真っ先に職務遂行を選択しその危険人物なり危険車両なりを打ち払わないか? という話です。狂人の蛮行ではないのです。勿論、私の立場では忠義を「正義」と認めるとは限りません。それが倫理学的に考えるということです。生麦事件も別に英雄的事件とも思わないし早まったと思うし、現代で天皇陛下の御用車両にマリカーがぶつかってきて天皇皇后共に崩御なんて事件があったとしても、忠義が廃れたんだなあと思うだけです。
武士道を教えては成らないとか、武士道なんて野蛮な道理だ、というのは実に誤った見解といえて、寧ろ日本史での事象の動機を解釈する為にも最低限必要くらいで、単に倫理学の一種だといえるのではないですか? 現代の我々がそれをそのまま、中世や近世のよう即実践せよとは言っていないのですからね。
皇統は国民自身には直接関係がない天皇家自身の問題
(西洋王族の様、女系含めた継承に皇室を移らせるつもりなのか、と問うツイートへ)
1.男系断絶で皇統終焉
2.男系男子の皇籍復帰
3.女系で皇統が続く
4.皇室廃止(民間化)
今の私は4の立場です。民間化してから皇室自身が皇統の概念を家の方針として決定してくれればいいと思います。
1.男系断絶で皇統終焉
2.男系男子の皇籍復帰
3.女系で皇統が続く
4.皇室廃止(民間化)
今の私は4の立場です。民間化してから皇室自身が皇統の概念を家の方針として決定してくれればいいと思います。
自衛隊の海外派兵は武力行使やその後方支援を拒否し、個別自衛を除けば武力行使しない医療部隊に限定しなければならない
(安倍安保法下で新設された国際連携平和安全活動や、小沢氏が合憲と述べる国連協定に基づいた自衛隊の海外派兵を認めるのか? いずれも米軍の意向は働くのでは? と尋ねるツイートへ)
私個人の意見は
1.自衛隊の海外派兵は武力行使に該当しない医療部隊以外では認めない
2.国連の要請でも武力行使やその支援を含む海外派兵は違憲
3.米軍の意向と基本的に無関係に自衛隊・首相が判断しなければならない
小沢氏は国連協定が憲法に全面優越する立場なんだろうけど私はそう思わない。私は国連協定を各国が憲法に基づいて一部否定できるし、米国など現に国連自体に従わない政府もあるから、日本でも自国の憲法に合致した部分以外では国連協定に従わない自由があると思う。つまり9条で戦争放棄してる以上、国連軍(多国籍軍)や同盟関係の米軍の要請を受けても、武力行使やその後方支援を含む海外派兵を、日本政府は固辞しなければならないと思います。
私個人の意見は
1.自衛隊の海外派兵は武力行使に該当しない医療部隊以外では認めない
2.国連の要請でも武力行使やその支援を含む海外派兵は違憲
3.米軍の意向と基本的に無関係に自衛隊・首相が判断しなければならない
小沢氏は国連協定が憲法に全面優越する立場なんだろうけど私はそう思わない。私は国連協定を各国が憲法に基づいて一部否定できるし、米国など現に国連自体に従わない政府もあるから、日本でも自国の憲法に合致した部分以外では国連協定に従わない自由があると思う。つまり9条で戦争放棄してる以上、国連軍(多国籍軍)や同盟関係の米軍の要請を受けても、武力行使やその後方支援を含む海外派兵を、日本政府は固辞しなければならないと思います。
市場における総投資額の増大は必ずしも消費増に繋がらない
(国民・政府・企業の投資を基盤にした二次的消費を増加させる仕組みづくりが、個人消費主導の一次的消費より国家経済の強大化に重要とするツイートへ)
>企業の事業投資が増加→企業の利益率上昇
これはなぜ起きると?
企業の利益率って、事業投資額となんらかの関係というか、比例関係あるのですか? 例えば大金を使っても利益率が低い業態(このサイトの主張では機械、菓子、化学が低いみたい?)もあれば、IT(ソフトウェア)みたいに小資金でも利益率が高い業態もあるのでは?
>個人投資家に還元→個人支出or投資額がさらに増える
個人投資家の個人支出は伸びるかもしれないですが、一般消費者って投資してないし、相当高い確率で今後もしないじゃないですか? その上、積み立てNISAは途中で下ろせないですよね(後述に補足あり)。積み立て投資でも基本的にそうなので個人支出は減るのでは?
「個人、企業、政府の投資を基盤にして、そこから二次的に消費が生まれる仕組み作りが重要」というのは、例えばアメリカは個人投資が普及し(保有世帯率は50%)、年金運用もGDP比12%、企業も株主資本主義的でそれに近い状態だと思います。
村上世彰さんの『生涯投資家』を読んだのですが、彼は米国風のコーポレートガバナンス導入などで日本企業の慣行的な株式持合いなど、内部留保されている余剰資金の滞りを市場に還流しようとした(後述に補足あり)ら、東京地検から逮捕されてしまった。それで改革成らず、株主資本主義は浸透しなかったみたいです。日本企業、或いは日本の市場って独特の情実で話が進んでいて、米国と文化が違って株主中心の企業統治に改革はできない。社員出身の経営者が会社を自分の持ち物だと考えていて、しかも株主還元を保身より後回しにする。政府も、労働者・経営者一般もこれを正義と考えていて投資家を金の亡者扱いする。
日本政府が個人投資を煽ってるのは確定拠出年金や子供NISAをみればわかるとおり福祉支出を自己責任の範囲におしこめ減らしたいからで、決して投資家の利益を図っているわけではないと思う。現に仮想通貨税制をなかなか改革しない。個人投資普及の目的があなたと政府では大分違うのではないですか。
(細かい補足。
1.積み立てNISAは途中で下ろせない→途中で売却することを前提にした制度ではない。投信の売却は可能。
2.株式持合いなど、内部留保されている余剰資金の滞りを市場に還流しようとした→厳密には株式持合いは内部留保ではない。事業投資または自社株買いで株主還元させようとした)
私がいいたいのは、個人投資の普及はある程度スマホ等で手軽になって米国に近づくかもしれないけど、1.日本政府は福祉をけちりたいだけ 2.日本企業は保身が株主より優先 の2点は先ず不動なので株主資本主義になりづらそうな上に、消費が企業の主な利益なので投資家以外にも消費させた方がいい。
一般消費者が消費しないのは家計に余裕がないからで、米国流株主統治を導入すると人件費圧縮したがるから或る意味で逆行するともいえる。個人投資家の多さと消費性向の高さは恐らく擬似相関で、米国人は楽観的で貯蓄したがらないしリスク選好度も高いんでしょう? 日本文化で投資即消費拡大ではない。
前少し政治広場でいってた話に戻ると、もし日本が社民主義的に基礎収入を保障したら多少は楽観的になって消費する意欲が起きるかもしれないけど、日本人の低セロトニン脳の性質からいって不安がって依然として貯蓄性向は高いままだろうし、そもそも労働信仰があって実現しないからこれも十分ではない。あなたは投資を煽れば消費拡大する、といっている。本当にそうなのだろうか。少なくとも論理的整合性はない様に思うけど、政府がそれを煽ってるから「政策に売りなし(官の仕事は確実なので該当の株は値上がりし易い)」の立場はわかるが、証券会社に踊らされて安倍退陣後に大凋落するのを煽るとしたら恨み買う。
>企業の事業投資が増加→企業の利益率上昇
これはなぜ起きると?
企業の利益率って、事業投資額となんらかの関係というか、比例関係あるのですか? 例えば大金を使っても利益率が低い業態(このサイトの主張では機械、菓子、化学が低いみたい?)もあれば、IT(ソフトウェア)みたいに小資金でも利益率が高い業態もあるのでは?
>個人投資家に還元→個人支出or投資額がさらに増える
個人投資家の個人支出は伸びるかもしれないですが、一般消費者って投資してないし、相当高い確率で今後もしないじゃないですか? その上、積み立てNISAは途中で下ろせないですよね(後述に補足あり)。積み立て投資でも基本的にそうなので個人支出は減るのでは?
「個人、企業、政府の投資を基盤にして、そこから二次的に消費が生まれる仕組み作りが重要」というのは、例えばアメリカは個人投資が普及し(保有世帯率は50%)、年金運用もGDP比12%、企業も株主資本主義的でそれに近い状態だと思います。
村上世彰さんの『生涯投資家』を読んだのですが、彼は米国風のコーポレートガバナンス導入などで日本企業の慣行的な株式持合いなど、内部留保されている余剰資金の滞りを市場に還流しようとした(後述に補足あり)ら、東京地検から逮捕されてしまった。それで改革成らず、株主資本主義は浸透しなかったみたいです。日本企業、或いは日本の市場って独特の情実で話が進んでいて、米国と文化が違って株主中心の企業統治に改革はできない。社員出身の経営者が会社を自分の持ち物だと考えていて、しかも株主還元を保身より後回しにする。政府も、労働者・経営者一般もこれを正義と考えていて投資家を金の亡者扱いする。
日本政府が個人投資を煽ってるのは確定拠出年金や子供NISAをみればわかるとおり福祉支出を自己責任の範囲におしこめ減らしたいからで、決して投資家の利益を図っているわけではないと思う。現に仮想通貨税制をなかなか改革しない。個人投資普及の目的があなたと政府では大分違うのではないですか。
(細かい補足。
1.積み立てNISAは途中で下ろせない→途中で売却することを前提にした制度ではない。投信の売却は可能。
2.株式持合いなど、内部留保されている余剰資金の滞りを市場に還流しようとした→厳密には株式持合いは内部留保ではない。事業投資または自社株買いで株主還元させようとした)
私がいいたいのは、個人投資の普及はある程度スマホ等で手軽になって米国に近づくかもしれないけど、1.日本政府は福祉をけちりたいだけ 2.日本企業は保身が株主より優先 の2点は先ず不動なので株主資本主義になりづらそうな上に、消費が企業の主な利益なので投資家以外にも消費させた方がいい。
一般消費者が消費しないのは家計に余裕がないからで、米国流株主統治を導入すると人件費圧縮したがるから或る意味で逆行するともいえる。個人投資家の多さと消費性向の高さは恐らく擬似相関で、米国人は楽観的で貯蓄したがらないしリスク選好度も高いんでしょう? 日本文化で投資即消費拡大ではない。
前少し政治広場でいってた話に戻ると、もし日本が社民主義的に基礎収入を保障したら多少は楽観的になって消費する意欲が起きるかもしれないけど、日本人の低セロトニン脳の性質からいって不安がって依然として貯蓄性向は高いままだろうし、そもそも労働信仰があって実現しないからこれも十分ではない。あなたは投資を煽れば消費拡大する、といっている。本当にそうなのだろうか。少なくとも論理的整合性はない様に思うけど、政府がそれを煽ってるから「政策に売りなし(官の仕事は確実なので該当の株は値上がりし易い)」の立場はわかるが、証券会社に踊らされて安倍退陣後に大凋落するのを煽るとしたら恨み買う。
ツイッター独裁者は自分に有利な世論誘導が目的
ツイッター上でみた人物の類型。フォロワーに追従者を大量に携えた独裁君主みたいな人達が、当人の信念、思想を含む意見に何らかの矛盾(学問的誤りを含む)を指摘されると大発狂しブロックしたり、フォロワーを焚きつけ(いいね、リツイート連打、反論等で)批判者を総攻撃させ、炎上させようとする。
仮にこの類型をツイッター独裁者と名づけると、この人達は反証的思考ができていないか、できていても詭弁術を使い、ツイッター政治を優先して追従者を集め批判者を排除する手段にしている。逆に茂木健一郎氏や堀江貴文氏のいう非ブロック主義は、ツイッター独裁者化の一つの自己防止策といえる。
そもそも諸科学(科学とはラテン語まで辿れば知scireや知識scientiaを語源に持つscienceの訳語だから、広義では形而上学も道徳科学(道徳知識)といえるだろう)は反証過程を経なければ真理探究できないのだから、ツイッター独裁者は批判的思考を外注しているだけだが、当人は政治術を優先してしまう。サイバーカスケード(ネット上では集団極性化によって意見の極端な先鋭化が起き易い現象)を利用というか乱用して、阿諛追従フォロワーを自見の糊塗に使うべく掻き集める。こうして日本語が主なアカウントなら最大1千万人くらいを集めつつ、世論を特定の恣意的方向へ誘導するわけだ。
より深く考えると、そもそも知性の度合いと、批判的思考力には相当密接な関係がある。というか反証性の無限連鎖をどこまで辿れるかが学問的知性の相当部分を占めている(反証主義や弁証法の範囲だが)といえて、この点でより賢い人は批判的思考をつねづね内製しているわけだ。政治的知性とは違うけど。
ツイッター独裁者は、ソクラテスと対極の知的特性をもっている。衆愚を煽って自己のツイッター言論界での権力を最大化することが目的で、真理ではない。それで自分はこれに昨日までぼんやりとしか気づいていなかったので、学問的知性を期待した人に何らかの反対証明をわざわざ親切心で提供していた。今日いえるのは、ツイッター独裁をめざす人達はそもそも真理を求めていないので、学問的知性がある人からも寧ろ政治的に扱った方がいい。いいかえれば人として見限る必要がある。当然だが学歴等の指標はこれに役立たない、反証的知性と厳密に相関していないからだ。有名な即ブロッカーに学者も多い。政治的知性という意味では、大衆一般の中から追従者をとりあげ、信者に仕立て上げる手法がツイッター独裁者の求めているものだ。具体的には批判的さえずり者を即ブロックしたり、反証に激怒し信者に感情論で迎撃させたり、賞賛ツイートをリツイートしさも独裁王国が栄華を極めているかの様な演出など。
仮にこの類型をツイッター独裁者と名づけると、この人達は反証的思考ができていないか、できていても詭弁術を使い、ツイッター政治を優先して追従者を集め批判者を排除する手段にしている。逆に茂木健一郎氏や堀江貴文氏のいう非ブロック主義は、ツイッター独裁者化の一つの自己防止策といえる。
そもそも諸科学(科学とはラテン語まで辿れば知scireや知識scientiaを語源に持つscienceの訳語だから、広義では形而上学も道徳科学(道徳知識)といえるだろう)は反証過程を経なければ真理探究できないのだから、ツイッター独裁者は批判的思考を外注しているだけだが、当人は政治術を優先してしまう。サイバーカスケード(ネット上では集団極性化によって意見の極端な先鋭化が起き易い現象)を利用というか乱用して、阿諛追従フォロワーを自見の糊塗に使うべく掻き集める。こうして日本語が主なアカウントなら最大1千万人くらいを集めつつ、世論を特定の恣意的方向へ誘導するわけだ。
より深く考えると、そもそも知性の度合いと、批判的思考力には相当密接な関係がある。というか反証性の無限連鎖をどこまで辿れるかが学問的知性の相当部分を占めている(反証主義や弁証法の範囲だが)といえて、この点でより賢い人は批判的思考をつねづね内製しているわけだ。政治的知性とは違うけど。
ツイッター独裁者は、ソクラテスと対極の知的特性をもっている。衆愚を煽って自己のツイッター言論界での権力を最大化することが目的で、真理ではない。それで自分はこれに昨日までぼんやりとしか気づいていなかったので、学問的知性を期待した人に何らかの反対証明をわざわざ親切心で提供していた。今日いえるのは、ツイッター独裁をめざす人達はそもそも真理を求めていないので、学問的知性がある人からも寧ろ政治的に扱った方がいい。いいかえれば人として見限る必要がある。当然だが学歴等の指標はこれに役立たない、反証的知性と厳密に相関していないからだ。有名な即ブロッカーに学者も多い。政治的知性という意味では、大衆一般の中から追従者をとりあげ、信者に仕立て上げる手法がツイッター独裁者の求めているものだ。具体的には批判的さえずり者を即ブロックしたり、反証に激怒し信者に感情論で迎撃させたり、賞賛ツイートをリツイートしさも独裁王国が栄華を極めているかの様な演出など。
日本経済は安倍国家社会主義体制から一刻でも早く脱出し自由放任市場に復帰しなければならない
日本の上場企業の過半以上を日銀・年金機構が寡占してるし、国民一般も皆労働の信者だし、国家社会主義の国だと定義していいね。自民政治自体がそうだったけどね。違憲な退位も可能な邪教祖が世襲で独裁人治する、国家社会主義の寡頭政の国ですね。預金封鎖で私有財産も否定されたら共産主義国ですね。日本共産党より寧ろ自民党がマルクス主義を地で行くなんて、第二次安倍政権までは誰も想像していなかったけど、彼を操縦した人はある種の天才なんだろうね。幾ら裏で糸を引いていたとしても、ここまで破滅的施策を実行させまくるなんて、まあ多分米国の人なんだろうけど。アーミテージとナイ以外で。
日本国民自身で、安倍という権力亡者を唆して共産化を実行の徒につけた人がいたとして、それもある種の御用学者たる天才だけど、結果はほぼ計画経済の不能さを露呈しつつ国家経済の凋落を招くわけだから、馬鹿でなければ悪意だな。日本共産党に期待するより世襲のぼんくらを教唆した方が早かったのだ。アメリカ人その他の中で日本を共産化して潰そう、という手の込んだ悪意をもっていた人が本当にいたかは歴史が検証するだろうけど、現時点では完全に成功している。出口ないとか黒田総裁がいってる通り、三流企業が競争力なくしても居残っても海外企業に潰され、ETF売り飛ばしたら日経暴落で不景気と。万一MMT論者が正しければ、この国が際限なく国債乱発して赤字財政を積み重ねていっても(日本円の価値が電子ごみ以下になっても)、ひたすら中央銀行が全企業を国有化しきればいいことになり、最終的に国民の預金封鎖を終えればマルクス主義国の完成になるが、一体その状態って本当に経済成り立つの? マルクス主義国状態の日本を想定し、預金は全て国有、企業も全て国有、国債は全て通貨発行権で無限償還となった場合、その国って他国からみたら国際競争力0の国じゃないの? 企業については生産力は最弱化して国が資金いれないと1円も外貨稼げず、国民も福祉に完全依存して自立できないんでは? 「健全な資本主義経済」であるところの米国や、市場放任で追随する中国に圧倒され、日本という共産経済の国は徐々に先頭争いから脱落する、というシナリオなんだろうけど、安倍退陣後に後始末に追われる側は、恐らく責任の全てを押しつけられるから愚民から火の車になろう。しかし日銀からやらないと。
今後のわが国の予定
1.日銀保有分の日本株ETFを市場に漸次放出(緩やかな不景気)
2.安倍違憲法の審査、新法上書きで議会・裁判の停滞と混乱
3.移民導入の本格化を進めた結果の治安悪化・テロ対策
4.北朝鮮・中国の発展から取り残され米経済凋落の後始末(米国債の低金利と米資本の受け入れ)
安倍礼賛してた右翼と日本株投資家らは憎しみを買いすぎてるから令和期、国民一般から何らかの復讐対象になるかもしれない。小泉父と安倍晋三の2人が日本国を駄目にしたことは誰の目にも明らかになり、平成末に狂乱していた御用学者や御用商人、御用芸人、ネット右翼らは全部、戦犯の烙印を押される。
政府が金融(投資)市場になぜ国民貯蓄を流し込みたいのだと思いますか? 答えは1.アベノミクスの延長(株高での見かけの好景気の演出)、2.福祉財源の節減。
一方で国民全般が消費せず投資にお金を回すと? 答えはますます景気が悪化します。政府の都合に合わせていると経済も下火になると。日本株投資家は、国民全般に消費を煽りながら、自分は最も有利な株の保有率を上げている方がまだ有利です。というより個人が投資を煽る意味はないです。あるとしてもパンプ(煽り)というやつですし、日本企業の市場規模からいって我々個人では動かせません。風説流布に近いです。
現政権は年金支給年齢を繰り上げたり、生活保護や障害年金をきりすてたり、政府支出の殆どを占めている福祉財源(社会保障費)をなるだけ圧縮したいのです。財源が足りませんから。
NISAは消費を冷えさせる原因ですね。官製株高の次の演出策のつもりなのです。社会保障を自己責任に矮小化している。
日本国民自身で、安倍という権力亡者を唆して共産化を実行の徒につけた人がいたとして、それもある種の御用学者たる天才だけど、結果はほぼ計画経済の不能さを露呈しつつ国家経済の凋落を招くわけだから、馬鹿でなければ悪意だな。日本共産党に期待するより世襲のぼんくらを教唆した方が早かったのだ。アメリカ人その他の中で日本を共産化して潰そう、という手の込んだ悪意をもっていた人が本当にいたかは歴史が検証するだろうけど、現時点では完全に成功している。出口ないとか黒田総裁がいってる通り、三流企業が競争力なくしても居残っても海外企業に潰され、ETF売り飛ばしたら日経暴落で不景気と。万一MMT論者が正しければ、この国が際限なく国債乱発して赤字財政を積み重ねていっても(日本円の価値が電子ごみ以下になっても)、ひたすら中央銀行が全企業を国有化しきればいいことになり、最終的に国民の預金封鎖を終えればマルクス主義国の完成になるが、一体その状態って本当に経済成り立つの? マルクス主義国状態の日本を想定し、預金は全て国有、企業も全て国有、国債は全て通貨発行権で無限償還となった場合、その国って他国からみたら国際競争力0の国じゃないの? 企業については生産力は最弱化して国が資金いれないと1円も外貨稼げず、国民も福祉に完全依存して自立できないんでは? 「健全な資本主義経済」であるところの米国や、市場放任で追随する中国に圧倒され、日本という共産経済の国は徐々に先頭争いから脱落する、というシナリオなんだろうけど、安倍退陣後に後始末に追われる側は、恐らく責任の全てを押しつけられるから愚民から火の車になろう。しかし日銀からやらないと。
今後のわが国の予定
1.日銀保有分の日本株ETFを市場に漸次放出(緩やかな不景気)
2.安倍違憲法の審査、新法上書きで議会・裁判の停滞と混乱
3.移民導入の本格化を進めた結果の治安悪化・テロ対策
4.北朝鮮・中国の発展から取り残され米経済凋落の後始末(米国債の低金利と米資本の受け入れ)
安倍礼賛してた右翼と日本株投資家らは憎しみを買いすぎてるから令和期、国民一般から何らかの復讐対象になるかもしれない。小泉父と安倍晋三の2人が日本国を駄目にしたことは誰の目にも明らかになり、平成末に狂乱していた御用学者や御用商人、御用芸人、ネット右翼らは全部、戦犯の烙印を押される。
政府が金融(投資)市場になぜ国民貯蓄を流し込みたいのだと思いますか? 答えは1.アベノミクスの延長(株高での見かけの好景気の演出)、2.福祉財源の節減。
一方で国民全般が消費せず投資にお金を回すと? 答えはますます景気が悪化します。政府の都合に合わせていると経済も下火になると。日本株投資家は、国民全般に消費を煽りながら、自分は最も有利な株の保有率を上げている方がまだ有利です。というより個人が投資を煽る意味はないです。あるとしてもパンプ(煽り)というやつですし、日本企業の市場規模からいって我々個人では動かせません。風説流布に近いです。
現政権は年金支給年齢を繰り上げたり、生活保護や障害年金をきりすてたり、政府支出の殆どを占めている福祉財源(社会保障費)をなるだけ圧縮したいのです。財源が足りませんから。
NISAは消費を冷えさせる原因ですね。官製株高の次の演出策のつもりなのです。社会保障を自己責任に矮小化している。
資本主義は貧民搾取の言い訳に過ぎない
1.資本主義で最も金を儲けているのは不労所得を得ている「働かない人達」(トマ・ピケティ『21世紀の資本』)
2.最初から他人の稼ぎをあてにしている人達には主婦・主夫、宗教家、皇室、政治家、会社全体の利益に寄生する経営者や労働者など無数の人達があてはまるので生存権と関係がない
3.税の起源は暴力団(天皇家等)が贅沢をする為なので単に強制的に収奪されていたもので、公共の用に使われるのは当時の政治体制の福祉志向次第
4.資産の偏り等の不公平に対する政治的調整は、より恵まれない立場の人の利益を最大化すること(ロールズの第二原理)なので、労働意欲等と関係ない
5.金儲けと税収の再配分を誤認するのは、配分的正義と調整的正義の混同によっているのであり、無知の一種
6.労働並びに勤労の努力の中には金の儲かり方と正相関していないものがある(NPOや芸術、宗教活動、公務など)ため、商業的価値観のみで利益の出づらい生業者への福祉を軽視してはいけない
労働信仰もってる人は、恐らく貧民だった家族か先祖に影響されている。資本家または皇族華族等の貴族側に属していればその種の考えの正反対の思想(暇があるほどよい)が普通だったろうし、貧しければ貧しいほど勤労以外によっては富を得られないのが労働階級(旧町人)の真実なのだから。貧乏性だ。誰かが貧乏性なのはいいとして、他人全体にまでそれを強要し始めると話が違う。何しろ資本家側、有閑貴族(今日でいえば皇族や無業者)側からすれば自らの生業や私生活に干渉される原因になるからだ。貧民間のみに労働信仰を蔓延させ自分の首を絞めているのに気づかせないのが資本主義の要諦だ。
2.最初から他人の稼ぎをあてにしている人達には主婦・主夫、宗教家、皇室、政治家、会社全体の利益に寄生する経営者や労働者など無数の人達があてはまるので生存権と関係がない
3.税の起源は暴力団(天皇家等)が贅沢をする為なので単に強制的に収奪されていたもので、公共の用に使われるのは当時の政治体制の福祉志向次第
4.資産の偏り等の不公平に対する政治的調整は、より恵まれない立場の人の利益を最大化すること(ロールズの第二原理)なので、労働意欲等と関係ない
5.金儲けと税収の再配分を誤認するのは、配分的正義と調整的正義の混同によっているのであり、無知の一種
6.労働並びに勤労の努力の中には金の儲かり方と正相関していないものがある(NPOや芸術、宗教活動、公務など)ため、商業的価値観のみで利益の出づらい生業者への福祉を軽視してはいけない
労働信仰もってる人は、恐らく貧民だった家族か先祖に影響されている。資本家または皇族華族等の貴族側に属していればその種の考えの正反対の思想(暇があるほどよい)が普通だったろうし、貧しければ貧しいほど勤労以外によっては富を得られないのが労働階級(旧町人)の真実なのだから。貧乏性だ。誰かが貧乏性なのはいいとして、他人全体にまでそれを強要し始めると話が違う。何しろ資本家側、有閑貴族(今日でいえば皇族や無業者)側からすれば自らの生業や私生活に干渉される原因になるからだ。貧民間のみに労働信仰を蔓延させ自分の首を絞めているのに気づかせないのが資本主義の要諦だ。
天皇統治は共和政や武家統治より遥かに歴史が短い
縄文時代以前は、現時点の考古学によると、砂原遺跡から12万年、特定の身分差もなく世襲されない共和政をとっていたといえる。天皇は2800年前の弥生時代頃に中国等の外国から侵入したと称し、1400年前の大化の改新から数えても、全日本史において極めて歴史が浅い中華皇帝の模擬に過ぎない。
1.日本に太古(約12万年前)から存在したのは身分差のない共和政
2.外国から入ってきたのは皇室の先祖であり天皇制(中華皇帝を模した教祖兼暴力団長の世襲。天皇とは中国の神話上の君主、三皇の一人の名乗り)
3.外国由来か日本由来かの度合いは、大切さといずれも比例しない
元ツイートは「主権在民」を根拠として生まれ・血統・身分差別及び政教一致の皇室を民間宗教法人化すべしと述べているのであり、そもそも鎌倉時代以後は断続的参政(南北朝期など)を挟みつつも、かなり長期に渡って皇室は実権を持たず、それに近い単なる宗教家の立場だったし、外国由来と関係がない。
全日本史を約12万年とすると、天皇の先祖にあたる特定の弥生人が中国等から渡来してきた称・約2600年前以後、大化の改新で中国の律令制をまねた皇帝制の実在が確認できてから約1400年間ほどをとっても、各地で天皇が必要なかったのは明らかでは? 特に150年前まで共和政のアイヌや、王国としての琉球は別の体制下で存続していた。具体的にいうと、古墳時代以前に卑弥呼の邪馬台国や、倭奴国があったり、各地に明らかに大和王朝と無関係な大豪族の国々が確認できますし、平安時代~明治時代まで先住日本人(縄文人(蝦夷)、アイヌ)は渡来人らの大和王朝と無関係に暮らしていましたよね。戦国時代を通じて各大名も独立していた。徳川家(特に水戸の徳川家)と、毛利家は皇族(有栖川宮等)と親戚関係で、幕末に共通の主家として天皇家を仰ぎ新体制を実現したに過ぎず、厳密にいえば鎌倉時代以後、特に室町時代には足利将軍家が反天皇体制(北朝)を布いていましたよね? つまり統治上、必要なかったので寧ろ内乱の原因でしたね。
天皇が日本に渡来してくる以前、約12万年の日本では、各地に大規模な古墳も見られた上に、土偶や土器、勾玉みたいな装飾品から、大きな都市遺構を含む遺跡もたくさん出土していますし、邪馬台国や倭奴国など、大和(奈良)以外の国々が実在したのは魏から送られた金印の存在でも分かっていますよね。日本の誕生という虚構は、奈良時代に『古事記』『日本書紀』という2つの宗教書兼歴史書で神話として捏造されたものだ、というのが現時点の考古学に照らして分かることです。実際、その時期にあたる約1300年前(712~720年)以前の遥か長い期間(砂原遺跡から約12万年)日本人は暮らしていたからです。
上述の将軍や武士らは、天皇が受領を通じた国司(地域統治権)の売買など腐敗政治を行っていると判断し、天皇の権力を制限した人達も混じっている。飛鳥期以後の日本史は、関西地方や東京を牛耳る天皇権力と、各地の日本人主権の間の争いだったといってよく、殆どの期間、天皇は宗教家に過ぎなかった。
或る程度大まかに分類すると、天皇自身が権力(法の制定を含む暴力)によって統治行為をしていたのは、飛鳥時代から平安時代の初期(平将門の乱、或いは藤原政治)までの約300年間ほど、明治時代から昭和中頃までの約100年ほどで、この1400年中の1000年ほどは武家統治といえるのではないですか? 縄文時代以前の約12万年を勘定に入れると、12万年中のほぼ11万年8600年ほどのほぼ全期間は、先住日本人の民衆による共和政治(民主主義)であり、このことは150年前まで同体制を続けていたアイヌの存在が証明しています。まとめると、
共和政(民主主義)11万8600年>武家統治1000年>天皇統治400年
1.日本に太古(約12万年前)から存在したのは身分差のない共和政
2.外国から入ってきたのは皇室の先祖であり天皇制(中華皇帝を模した教祖兼暴力団長の世襲。天皇とは中国の神話上の君主、三皇の一人の名乗り)
3.外国由来か日本由来かの度合いは、大切さといずれも比例しない
元ツイートは「主権在民」を根拠として生まれ・血統・身分差別及び政教一致の皇室を民間宗教法人化すべしと述べているのであり、そもそも鎌倉時代以後は断続的参政(南北朝期など)を挟みつつも、かなり長期に渡って皇室は実権を持たず、それに近い単なる宗教家の立場だったし、外国由来と関係がない。
全日本史を約12万年とすると、天皇の先祖にあたる特定の弥生人が中国等から渡来してきた称・約2600年前以後、大化の改新で中国の律令制をまねた皇帝制の実在が確認できてから約1400年間ほどをとっても、各地で天皇が必要なかったのは明らかでは? 特に150年前まで共和政のアイヌや、王国としての琉球は別の体制下で存続していた。具体的にいうと、古墳時代以前に卑弥呼の邪馬台国や、倭奴国があったり、各地に明らかに大和王朝と無関係な大豪族の国々が確認できますし、平安時代~明治時代まで先住日本人(縄文人(蝦夷)、アイヌ)は渡来人らの大和王朝と無関係に暮らしていましたよね。戦国時代を通じて各大名も独立していた。徳川家(特に水戸の徳川家)と、毛利家は皇族(有栖川宮等)と親戚関係で、幕末に共通の主家として天皇家を仰ぎ新体制を実現したに過ぎず、厳密にいえば鎌倉時代以後、特に室町時代には足利将軍家が反天皇体制(北朝)を布いていましたよね? つまり統治上、必要なかったので寧ろ内乱の原因でしたね。
天皇が日本に渡来してくる以前、約12万年の日本では、各地に大規模な古墳も見られた上に、土偶や土器、勾玉みたいな装飾品から、大きな都市遺構を含む遺跡もたくさん出土していますし、邪馬台国や倭奴国など、大和(奈良)以外の国々が実在したのは魏から送られた金印の存在でも分かっていますよね。日本の誕生という虚構は、奈良時代に『古事記』『日本書紀』という2つの宗教書兼歴史書で神話として捏造されたものだ、というのが現時点の考古学に照らして分かることです。実際、その時期にあたる約1300年前(712~720年)以前の遥か長い期間(砂原遺跡から約12万年)日本人は暮らしていたからです。
上述の将軍や武士らは、天皇が受領を通じた国司(地域統治権)の売買など腐敗政治を行っていると判断し、天皇の権力を制限した人達も混じっている。飛鳥期以後の日本史は、関西地方や東京を牛耳る天皇権力と、各地の日本人主権の間の争いだったといってよく、殆どの期間、天皇は宗教家に過ぎなかった。
或る程度大まかに分類すると、天皇自身が権力(法の制定を含む暴力)によって統治行為をしていたのは、飛鳥時代から平安時代の初期(平将門の乱、或いは藤原政治)までの約300年間ほど、明治時代から昭和中頃までの約100年ほどで、この1400年中の1000年ほどは武家統治といえるのではないですか? 縄文時代以前の約12万年を勘定に入れると、12万年中のほぼ11万年8600年ほどのほぼ全期間は、先住日本人の民衆による共和政治(民主主義)であり、このことは150年前まで同体制を続けていたアイヌの存在が証明しています。まとめると、
共和政(民主主義)11万8600年>武家統治1000年>天皇統治400年
知とは観測範囲を広めること
人は自分の知能が認知できる範囲から一定距離までしか見渡せず、しかもその範囲は極めて限られているので、他人の賢愚を正しくはかれない。それどころか賢愚を含む或る事物の全価値もこの観測範囲に依存していて、世界を普遍的に理解できない。教養と呼ばれる語彙系も、観測範囲の限定的展開に留まる。
自然は人類より多くの要素を含んでいるのに、人類は自然側の持つ価値観をほぼ尊重しないので、常に卑小な文明の中で競争に明け暮れている。だから我々は動植物や無生物が人類全般と全く無関係に、何らかの素朴さ、或いは巧みさを示しているとしばしば自らの属する俗了された価値観との落差に感動する。
我々は常に、より我々自身になる為に学ぶのだ。だが大抵の人は、自分以外の何者かを目指して学ぶ結果、邯鄲の歩み宜しく西施の顰みに倣って目的を見失う。
自分以外の者になろうとして、誰かを真似る。一体何の為に? どうせ自分以外になれないのに。はじめからその人自身である者を信用すべきだ。自分が欠陥を抱えている、当然ながら人は欠点なしに存在しえない。なぜなら長短は他人の主観に依存しているからだ。見る人の偏見が或る個性を褒め、別の人は貶す。ではなぜ自分に固有の長短があるという妄想に耽るのか。単に自分が、周りの評価者に依拠し、自己改変しているだけではないのか。
国、地域、個人が違うのは相互作用の中に自然の巧緻があるからだ。バベルの塔の説話は、古代人の中で既にこの認識があった印になる。国粋主義や、地球主義はいずれも単一で正しくない。多様性という名の混沌も、厳密には何らかの小秩序を含むので、エントロピーと同じ入れ子構造になっている。国の自慢をしていた人達は、いわば自分は取るに足りない存在だと周りに喧伝していたのだ。抑その種の愛国心は『文明論之概略』で福沢諭吉が植民地侵略への対策としたものであり、明治以前の枠組みではない。既に植民地主義は過ぎ去った以上、帰属集団が自らの空虚な自己同一性の根拠にされたのだろう。
私は弁証法的に、全体、個人の間に地域集団を想定し、中道の論理展開を試していた。それで都道府県や地方の単位を使い国家主義者に反論していたのだが、彼らは自身の全帰属集団を差別の根拠にしているので無効だった。右翼にとって自分の組織は全て他を差別し、自画自賛する目的の単位だった。自己中心性が右翼一般の目的とする考え方であり、福沢の愛国心の体制はこの手段にされていた。いいかえれば自らの属する組織群の単位に関わらず、それらの相補性を華夷秩序抜きに評価できる人は、文化多元論など複眼的思考を含め利他性に価値を認めている。文明にとって自己中心性は後退的なものだ。
中華皇帝の模擬者である天皇が中華思想の一原因なのが事実なので、天皇が移住した京都や東京にいまだに小中華思想があるのも間違いない。奈良では大分薄れたかもしれないが。そしてこれら天皇所在都市は国内的にも華夷秩序を主張しはじめる。そこには自文化中心主義が含まれ、都鄙差別を公然と述べる。
不満を政治にぶつけている連中は、自分の無能さを全体のせいにしているだけである。もし善政する人が政権に就いていれば最初から非難する必要がないし、また改善の余地がないなら自ら政権を執るしかないのだから。他人が公職を代行してくれている、それなら既に最善の者を選んでいなければならない。
有限の資源をより多く寡占した、と自慢する人は、純粋に愚かなのだ。彼らもその取り巻きも自らが集団全体を挑発していることに気づかないのだから。
ところが清貧を自慢する人がいかに少ないか。だがそれこそ聖なる徳目であり、集団全体に最も害の少ない処世をしている証なのである。
知ったかぶることが最も知性から遠い態度なので、特定の学位なり入試合格を種に他分野をも後光効果で既習かのよう振舞っている人達も、それだといえるだろう。学歴主義はこの種の詐術を目的にしている。シグナリングも同趣旨で企業側が自ら詐欺にあっている。これが学歴馬鹿を容易にみいだせる理由だ。
自然は人類より多くの要素を含んでいるのに、人類は自然側の持つ価値観をほぼ尊重しないので、常に卑小な文明の中で競争に明け暮れている。だから我々は動植物や無生物が人類全般と全く無関係に、何らかの素朴さ、或いは巧みさを示しているとしばしば自らの属する俗了された価値観との落差に感動する。
我々は常に、より我々自身になる為に学ぶのだ。だが大抵の人は、自分以外の何者かを目指して学ぶ結果、邯鄲の歩み宜しく西施の顰みに倣って目的を見失う。
自分以外の者になろうとして、誰かを真似る。一体何の為に? どうせ自分以外になれないのに。はじめからその人自身である者を信用すべきだ。自分が欠陥を抱えている、当然ながら人は欠点なしに存在しえない。なぜなら長短は他人の主観に依存しているからだ。見る人の偏見が或る個性を褒め、別の人は貶す。ではなぜ自分に固有の長短があるという妄想に耽るのか。単に自分が、周りの評価者に依拠し、自己改変しているだけではないのか。
国、地域、個人が違うのは相互作用の中に自然の巧緻があるからだ。バベルの塔の説話は、古代人の中で既にこの認識があった印になる。国粋主義や、地球主義はいずれも単一で正しくない。多様性という名の混沌も、厳密には何らかの小秩序を含むので、エントロピーと同じ入れ子構造になっている。国の自慢をしていた人達は、いわば自分は取るに足りない存在だと周りに喧伝していたのだ。抑その種の愛国心は『文明論之概略』で福沢諭吉が植民地侵略への対策としたものであり、明治以前の枠組みではない。既に植民地主義は過ぎ去った以上、帰属集団が自らの空虚な自己同一性の根拠にされたのだろう。
私は弁証法的に、全体、個人の間に地域集団を想定し、中道の論理展開を試していた。それで都道府県や地方の単位を使い国家主義者に反論していたのだが、彼らは自身の全帰属集団を差別の根拠にしているので無効だった。右翼にとって自分の組織は全て他を差別し、自画自賛する目的の単位だった。自己中心性が右翼一般の目的とする考え方であり、福沢の愛国心の体制はこの手段にされていた。いいかえれば自らの属する組織群の単位に関わらず、それらの相補性を華夷秩序抜きに評価できる人は、文化多元論など複眼的思考を含め利他性に価値を認めている。文明にとって自己中心性は後退的なものだ。
中華皇帝の模擬者である天皇が中華思想の一原因なのが事実なので、天皇が移住した京都や東京にいまだに小中華思想があるのも間違いない。奈良では大分薄れたかもしれないが。そしてこれら天皇所在都市は国内的にも華夷秩序を主張しはじめる。そこには自文化中心主義が含まれ、都鄙差別を公然と述べる。
不満を政治にぶつけている連中は、自分の無能さを全体のせいにしているだけである。もし善政する人が政権に就いていれば最初から非難する必要がないし、また改善の余地がないなら自ら政権を執るしかないのだから。他人が公職を代行してくれている、それなら既に最善の者を選んでいなければならない。
有限の資源をより多く寡占した、と自慢する人は、純粋に愚かなのだ。彼らもその取り巻きも自らが集団全体を挑発していることに気づかないのだから。
ところが清貧を自慢する人がいかに少ないか。だがそれこそ聖なる徳目であり、集団全体に最も害の少ない処世をしている証なのである。
知ったかぶることが最も知性から遠い態度なので、特定の学位なり入試合格を種に他分野をも後光効果で既習かのよう振舞っている人達も、それだといえるだろう。学歴主義はこの種の詐術を目的にしている。シグナリングも同趣旨で企業側が自ら詐欺にあっている。これが学歴馬鹿を容易にみいだせる理由だ。
2019年5月10日
教師は一般に愚か者に苦労して教えてくれている
自分より知性が低い人を説教だか説得する時間って本当に人生で最も無駄な時間に思えるのだが、それがよい学習になるといっても、お金もらって教えてる教師らは本当に大変だね。私は教師になる苦痛を我慢できないな。
自分より愚かな人の方が往々にして傲慢なんだから、どんな苦行かと思うよ。
自分より愚かな人の方が往々にして傲慢なんだから、どんな苦行かと思うよ。
自ら考え、国民同士が議論を重ねることが日本を進化させる
いつものことだが、日本人って議論できないよね。本当に。英語圏の人と会話した限り一度もそんなことなかったんだけど、日本語で日本人とする限りきちんとした議論になる確率って尋常じゃなく低い。すぐ感情論にしたり、詭弁を使ったり、喧嘩と受け取ってしまう人が殆どなので、議論の習慣がない。福沢諭吉が自伝かなんかで言ってたけど、この「議論できない民族病」って日本の文明化を妨げてきた最大の要因の一つじゃないだろうか。恐らく和を至高原理とした聖徳太子の17条憲法あたりに遡れる、深刻な致命的障害だと思うよ。だって哲学や個別科学を専攻してる人達ですら往々にしてそうなのだから。
国内でよく聴くのが、「口だけか」という挑発の言葉で、これは陽明学の文脈で言行一致が必要とする妄想なのだが、日本人一般は理論単独の価値を認めない傾向がある。口語なり文字だけだから理論なのだが。「科学技術」という謎の言葉も応用科学としての工学にしか理論の価値を認めない文脈で使われる。
恐らくメタ認知の能力の低さと、議論のできなさには密接な関係があると思う。イギリスの人と会話するとメタ認知を頻繁に使っていわゆるジョークをいうと思うけど(大阪のお笑いの風習はそれと似て非なるものな気がする)、自分にその種の習慣がないから面食らってしまってうまく受け答えできない。科学的なり哲学的な理論って、或る人格の外にある対象だから、それを反証し続けることでしか真理に辿りつけないわけだが、某細胞はあります発言みたいにこの逆の型をもっていると自分の理論の正しさを疑わなくなってしまう。メタ認知の能力が鍛えられることが科学的思考力にほぼ等しいのではないか。
議論とは或る主題を巡って様々な観点から対話術(いわゆるdialecticの訳語で弁証法)として行われるもので、典型的にはプラトンの『国家』みたいな対話篇がそれにあたるわけだけど、その種の知的伝統が日本には内在されていないのではないか? 逆に愚民化教育で黙って暗記する様しつけられたのでは。
後自然学的理論という意味では、自分の人格を構成する信念としての道徳も、客観的な考察対象になる。しかし自分がみたかぎりこれを理解している人は、少なくとも国内には凄く少ない。それで相手の信じている道徳を助産術的に否定すると発狂してしまうことが多い。ソクラテスの頃も同じだったのだろう。
ごく本質的な話をすると、日本の教育は科挙を踏襲していて、中華皇帝(天皇)に好都合な官僚を再生産する方法論になっているといえるだろう。それで東大が権威をもっていて現役で入ると偉いみたいな進学・予備校界があると。そこには個々の科学を含む哲学的な目的は何もないといえるだろう。自分が今言っている「議論」は、純粋に哲学的な目的の為に甚だ有益であり、寧ろ真理に到達する過程では一人でも或る仮説へ反論を考え証明をくり返すしかないので、究極では唯一の研究の仕方といってもいいと思うが、これを国内教育課程でほぼ全く教えていないのだろう。その最終形が偽統計なのだろう。
「考える力を奪う」「重要な問題を民間人に議論させない」「民衆を無知にしておく」「天皇を狂信させ、命令には従順に従わせる」この種の中華皇帝政治を官僚主導で、現役で続けてるのは、世界中で日本だけではないか? しかも自民党員という民間から選ばれた議員側が、愚民化教育に媚を売っていると。
「自ら考える」「重要な問題は民間でも十二分に、議論を重ねる」「民衆にできるだけ知恵を与える」「天皇は制度上の人として扱い、寧ろ全国民の総意である議会に従わせる」これらが本来あるべき国の姿と思う。出発点は自ら考え、国民同士で議論を重ねることにあり、学術も報道もそれで発展するのでは。
国内でよく聴くのが、「口だけか」という挑発の言葉で、これは陽明学の文脈で言行一致が必要とする妄想なのだが、日本人一般は理論単独の価値を認めない傾向がある。口語なり文字だけだから理論なのだが。「科学技術」という謎の言葉も応用科学としての工学にしか理論の価値を認めない文脈で使われる。
恐らくメタ認知の能力の低さと、議論のできなさには密接な関係があると思う。イギリスの人と会話するとメタ認知を頻繁に使っていわゆるジョークをいうと思うけど(大阪のお笑いの風習はそれと似て非なるものな気がする)、自分にその種の習慣がないから面食らってしまってうまく受け答えできない。科学的なり哲学的な理論って、或る人格の外にある対象だから、それを反証し続けることでしか真理に辿りつけないわけだが、某細胞はあります発言みたいにこの逆の型をもっていると自分の理論の正しさを疑わなくなってしまう。メタ認知の能力が鍛えられることが科学的思考力にほぼ等しいのではないか。
議論とは或る主題を巡って様々な観点から対話術(いわゆるdialecticの訳語で弁証法)として行われるもので、典型的にはプラトンの『国家』みたいな対話篇がそれにあたるわけだけど、その種の知的伝統が日本には内在されていないのではないか? 逆に愚民化教育で黙って暗記する様しつけられたのでは。
後自然学的理論という意味では、自分の人格を構成する信念としての道徳も、客観的な考察対象になる。しかし自分がみたかぎりこれを理解している人は、少なくとも国内には凄く少ない。それで相手の信じている道徳を助産術的に否定すると発狂してしまうことが多い。ソクラテスの頃も同じだったのだろう。
ごく本質的な話をすると、日本の教育は科挙を踏襲していて、中華皇帝(天皇)に好都合な官僚を再生産する方法論になっているといえるだろう。それで東大が権威をもっていて現役で入ると偉いみたいな進学・予備校界があると。そこには個々の科学を含む哲学的な目的は何もないといえるだろう。自分が今言っている「議論」は、純粋に哲学的な目的の為に甚だ有益であり、寧ろ真理に到達する過程では一人でも或る仮説へ反論を考え証明をくり返すしかないので、究極では唯一の研究の仕方といってもいいと思うが、これを国内教育課程でほぼ全く教えていないのだろう。その最終形が偽統計なのだろう。
「考える力を奪う」「重要な問題を民間人に議論させない」「民衆を無知にしておく」「天皇を狂信させ、命令には従順に従わせる」この種の中華皇帝政治を官僚主導で、現役で続けてるのは、世界中で日本だけではないか? しかも自民党員という民間から選ばれた議員側が、愚民化教育に媚を売っていると。
「自ら考える」「重要な問題は民間でも十二分に、議論を重ねる」「民衆にできるだけ知恵を与える」「天皇は制度上の人として扱い、寧ろ全国民の総意である議会に従わせる」これらが本来あるべき国の姿と思う。出発点は自ら考え、国民同士で議論を重ねることにあり、学術も報道もそれで発展するのでは。
内容の興味深さは自分の主観との対比
(自分の文章は文法や構成が非常に整えられているが、内容が面白くない、とするツイートへ)
1.君の定義する内容の面白さとは何か?
2.内容の面白さは人によって違い、共通部分がある(最も共通部分が多い面白さが最も普遍的といえる)以上、君個人の面白さと違うだけではないか?
3.もし2の論理が正しければ、君個人の面白さと違うにすぎない内容が他人につまらないとはいえないのでは?
上述の議論は趣味論としてカントの定義した共通感覚(全ての人が持っている筈の感覚)や、彼のいう良い趣味が万人の同意を求めるもの、という立場を逸脱しているので、君の趣味論の立場とも違うのかもしれないし、私自身も厳密には前ツイートの立場ではないのだが、内容の興趣は多様なのでは?
いいかえれば、君個人の知能においては興味深さを感じない内容かもしれないが、その内容が他の知能にとっては非常に興味深いものかもしれない。よって「私は面白いと感じない内容」と個人的にいうべきだったのでは? さもなくば誤解を招くと思いますがね。私は自他に面白い内容しか書かないので。
現時点の私自身の立場を参考までに、厳密に述べておくと、或る知能の感じる興味はその知能の趣味や理解力に近く、少しそれを優る場合に興味深いと感じられるのであり、そこから非常に遠い場合には仮に普遍的に極めて重要な内容でも面白く感じない。つまり主観的興味は或る思想の普遍的重要性ではない。分かり易くいうと、全人類は思想の大世界の中では小さなヘッドライトをつけて冒険している様なもので、ほぼ暗黒の大宇宙で自分に見える目先の興味を探っているのだが、それはいわば洞穴の中を無限にさ迷っている状態である。内容を宇宙全体だとすると、個人的興味(明かり)とはあまり関係がない。
1.君の定義する内容の面白さとは何か?
2.内容の面白さは人によって違い、共通部分がある(最も共通部分が多い面白さが最も普遍的といえる)以上、君個人の面白さと違うだけではないか?
3.もし2の論理が正しければ、君個人の面白さと違うにすぎない内容が他人につまらないとはいえないのでは?
上述の議論は趣味論としてカントの定義した共通感覚(全ての人が持っている筈の感覚)や、彼のいう良い趣味が万人の同意を求めるもの、という立場を逸脱しているので、君の趣味論の立場とも違うのかもしれないし、私自身も厳密には前ツイートの立場ではないのだが、内容の興趣は多様なのでは?
いいかえれば、君個人の知能においては興味深さを感じない内容かもしれないが、その内容が他の知能にとっては非常に興味深いものかもしれない。よって「私は面白いと感じない内容」と個人的にいうべきだったのでは? さもなくば誤解を招くと思いますがね。私は自他に面白い内容しか書かないので。
現時点の私自身の立場を参考までに、厳密に述べておくと、或る知能の感じる興味はその知能の趣味や理解力に近く、少しそれを優る場合に興味深いと感じられるのであり、そこから非常に遠い場合には仮に普遍的に極めて重要な内容でも面白く感じない。つまり主観的興味は或る思想の普遍的重要性ではない。分かり易くいうと、全人類は思想の大世界の中では小さなヘッドライトをつけて冒険している様なもので、ほぼ暗黒の大宇宙で自分に見える目先の興味を探っているのだが、それはいわば洞穴の中を無限にさ迷っている状態である。内容を宇宙全体だとすると、個人的興味(明かり)とはあまり関係がない。
成人後の通学者も世帯所得等に応じて奨学するべき
生涯学習の観点からいって、なぜ卒業後の再入学者(或いは成人後の再入学者)が除外されるのか? OECDの国際成人力調査(PIAAC、2012)でも、日本の30才以上の通学率が最下位なのだが。視野の狭い大学観、就職予備校観に基づいて無償化の範囲を子供に限定する意味がわからない。現役東大卒官僚はこのデータを知らないの?
集団自衛権行使は違憲なので安倍安保法の上書き除去が必要
国連憲章43条によると、平和維持活動の為の国連安全保障理事会による特別協定を加盟国が憲法上の手続きに従って批准しなければならない。したがって小沢氏が2007年11月『世界』でいう合憲論は、この範囲では正当になる。
論点は集団自衛権の行使を日本政府が自ら容認するかで、これは違憲である。
安倍氏は日本国憲法9条を無視し、新安保法によって存立危機事態において集団自衛権行使を可能とした。いいかえれば米軍が他国から攻撃を受けた際に、当時の内閣が自衛隊を海外出兵させてしまえる。これは違憲だが違憲立法審査が事後的にしか行えないので、早く別の法律で除去するしかないのでしょう。
論点は集団自衛権の行使を日本政府が自ら容認するかで、これは違憲である。
安倍氏は日本国憲法9条を無視し、新安保法によって存立危機事態において集団自衛権行使を可能とした。いいかえれば米軍が他国から攻撃を受けた際に、当時の内閣が自衛隊を海外出兵させてしまえる。これは違憲だが違憲立法審査が事後的にしか行えないので、早く別の法律で除去するしかないのでしょう。
一生
この世では優れた人も、劣った人も、それにふさわしい一生を得る。
優れた人に学べばより優れた一生を経るが、劣った人になじめばより劣った一生を経る。配偶者の遺伝子もそうである。
道徳より優れた人の特徴はなく、あらゆる知識も富貴も、不徳な人にとって諸刃の刃になる。
優れた人に学べばより優れた一生を経るが、劣った人になじめばより劣った一生を経る。配偶者の遺伝子もそうである。
道徳より優れた人の特徴はなく、あらゆる知識も富貴も、不徳な人にとって諸刃の刃になる。
自己中心性という狂信
関西人達は自分が世界の中心だと思っていた。今も思っている人達が京都と自称している。しかし彼らを独裁していた殺人教祖が引っ越すと、彼らの言葉は方言に格下げされ、彼らの住みかも一地方とされた。結局、近畿と呼び関西人達の信じていた自己中心性とはその邪教祖にたかる、自らの狂信だったのだ。