人は自分の知能が認知できる範囲から一定距離までしか見渡せず、しかもその範囲は極めて限られているので、他人の賢愚を正しくはかれない。それどころか賢愚を含む或る事物の全価値もこの観測範囲に依存していて、世界を普遍的に理解できない。教養と呼ばれる語彙系も、観測範囲の限定的展開に留まる。
自然は人類より多くの要素を含んでいるのに、人類は自然側の持つ価値観をほぼ尊重しないので、常に卑小な文明の中で競争に明け暮れている。だから我々は動植物や無生物が人類全般と全く無関係に、何らかの素朴さ、或いは巧みさを示しているとしばしば自らの属する俗了された価値観との落差に感動する。
我々は常に、より我々自身になる為に学ぶのだ。だが大抵の人は、自分以外の何者かを目指して学ぶ結果、邯鄲の歩み宜しく西施の顰みに倣って目的を見失う。
自分以外の者になろうとして、誰かを真似る。一体何の為に? どうせ自分以外になれないのに。はじめからその人自身である者を信用すべきだ。自分が欠陥を抱えている、当然ながら人は欠点なしに存在しえない。なぜなら長短は他人の主観に依存しているからだ。見る人の偏見が或る個性を褒め、別の人は貶す。ではなぜ自分に固有の長短があるという妄想に耽るのか。単に自分が、周りの評価者に依拠し、自己改変しているだけではないのか。
国、地域、個人が違うのは相互作用の中に自然の巧緻があるからだ。バベルの塔の説話は、古代人の中で既にこの認識があった印になる。国粋主義や、地球主義はいずれも単一で正しくない。多様性という名の混沌も、厳密には何らかの小秩序を含むので、エントロピーと同じ入れ子構造になっている。国の自慢をしていた人達は、いわば自分は取るに足りない存在だと周りに喧伝していたのだ。抑その種の愛国心は『文明論之概略』で福沢諭吉が植民地侵略への対策としたものであり、明治以前の枠組みではない。既に植民地主義は過ぎ去った以上、帰属集団が自らの空虚な自己同一性の根拠にされたのだろう。
私は弁証法的に、全体、個人の間に地域集団を想定し、中道の論理展開を試していた。それで都道府県や地方の単位を使い国家主義者に反論していたのだが、彼らは自身の全帰属集団を差別の根拠にしているので無効だった。右翼にとって自分の組織は全て他を差別し、自画自賛する目的の単位だった。自己中心性が右翼一般の目的とする考え方であり、福沢の愛国心の体制はこの手段にされていた。いいかえれば自らの属する組織群の単位に関わらず、それらの相補性を華夷秩序抜きに評価できる人は、文化多元論など複眼的思考を含め利他性に価値を認めている。文明にとって自己中心性は後退的なものだ。
中華皇帝の模擬者である天皇が中華思想の一原因なのが事実なので、天皇が移住した京都や東京にいまだに小中華思想があるのも間違いない。奈良では大分薄れたかもしれないが。そしてこれら天皇所在都市は国内的にも華夷秩序を主張しはじめる。そこには自文化中心主義が含まれ、都鄙差別を公然と述べる。
不満を政治にぶつけている連中は、自分の無能さを全体のせいにしているだけである。もし善政する人が政権に就いていれば最初から非難する必要がないし、また改善の余地がないなら自ら政権を執るしかないのだから。他人が公職を代行してくれている、それなら既に最善の者を選んでいなければならない。
有限の資源をより多く寡占した、と自慢する人は、純粋に愚かなのだ。彼らもその取り巻きも自らが集団全体を挑発していることに気づかないのだから。
ところが清貧を自慢する人がいかに少ないか。だがそれこそ聖なる徳目であり、集団全体に最も害の少ない処世をしている証なのである。
知ったかぶることが最も知性から遠い態度なので、特定の学位なり入試合格を種に他分野をも後光効果で既習かのよう振舞っている人達も、それだといえるだろう。学歴主義はこの種の詐術を目的にしている。シグナリングも同趣旨で企業側が自ら詐欺にあっている。これが学歴馬鹿を容易にみいだせる理由だ。