いつものことだが、日本人って議論できないよね。本当に。英語圏の人と会話した限り一度もそんなことなかったんだけど、日本語で日本人とする限りきちんとした議論になる確率って尋常じゃなく低い。すぐ感情論にしたり、詭弁を使ったり、喧嘩と受け取ってしまう人が殆どなので、議論の習慣がない。福沢諭吉が自伝かなんかで言ってたけど、この「議論できない民族病」って日本の文明化を妨げてきた最大の要因の一つじゃないだろうか。恐らく和を至高原理とした聖徳太子の17条憲法あたりに遡れる、深刻な致命的障害だと思うよ。だって哲学や個別科学を専攻してる人達ですら往々にしてそうなのだから。
国内でよく聴くのが、「口だけか」という挑発の言葉で、これは陽明学の文脈で言行一致が必要とする妄想なのだが、日本人一般は理論単独の価値を認めない傾向がある。口語なり文字だけだから理論なのだが。「科学技術」という謎の言葉も応用科学としての工学にしか理論の価値を認めない文脈で使われる。
恐らくメタ認知の能力の低さと、議論のできなさには密接な関係があると思う。イギリスの人と会話するとメタ認知を頻繁に使っていわゆるジョークをいうと思うけど(大阪のお笑いの風習はそれと似て非なるものな気がする)、自分にその種の習慣がないから面食らってしまってうまく受け答えできない。科学的なり哲学的な理論って、或る人格の外にある対象だから、それを反証し続けることでしか真理に辿りつけないわけだが、某細胞はあります発言みたいにこの逆の型をもっていると自分の理論の正しさを疑わなくなってしまう。メタ認知の能力が鍛えられることが科学的思考力にほぼ等しいのではないか。
議論とは或る主題を巡って様々な観点から対話術(いわゆるdialecticの訳語で弁証法)として行われるもので、典型的にはプラトンの『国家』みたいな対話篇がそれにあたるわけだけど、その種の知的伝統が日本には内在されていないのではないか? 逆に愚民化教育で黙って暗記する様しつけられたのでは。
後自然学的理論という意味では、自分の人格を構成する信念としての道徳も、客観的な考察対象になる。しかし自分がみたかぎりこれを理解している人は、少なくとも国内には凄く少ない。それで相手の信じている道徳を助産術的に否定すると発狂してしまうことが多い。ソクラテスの頃も同じだったのだろう。
ごく本質的な話をすると、日本の教育は科挙を踏襲していて、中華皇帝(天皇)に好都合な官僚を再生産する方法論になっているといえるだろう。それで東大が権威をもっていて現役で入ると偉いみたいな進学・予備校界があると。そこには個々の科学を含む哲学的な目的は何もないといえるだろう。自分が今言っている「議論」は、純粋に哲学的な目的の為に甚だ有益であり、寧ろ真理に到達する過程では一人でも或る仮説へ反論を考え証明をくり返すしかないので、究極では唯一の研究の仕方といってもいいと思うが、これを国内教育課程でほぼ全く教えていないのだろう。その最終形が偽統計なのだろう。
「考える力を奪う」「重要な問題を民間人に議論させない」「民衆を無知にしておく」「天皇を狂信させ、命令には従順に従わせる」この種の中華皇帝政治を官僚主導で、現役で続けてるのは、世界中で日本だけではないか? しかも自民党員という民間から選ばれた議員側が、愚民化教育に媚を売っていると。
「自ら考える」「重要な問題は民間でも十二分に、議論を重ねる」「民衆にできるだけ知恵を与える」「天皇は制度上の人として扱い、寧ろ全国民の総意である議会に従わせる」これらが本来あるべき国の姿と思う。出発点は自ら考え、国民同士で議論を重ねることにあり、学術も報道もそれで発展するのでは。