2006年9月30日

いろどり

重なり合って延びて行く沢山の層が、地球のあらゆる物語を相対化してしまう。人類がどの様に暮らそうと、そんなのは大世界の展開にとってどうでもよいことだ。小説は人間(ジンカン)を描くのに四苦八苦した。だがそれは、作家の人生観を読者とを対話させるような文字列の遊びだったに過ぎない。
 近代人は自由の権利を社会的に拡大するに応じ、生活において多様な選択肢を余儀なくされる。小説、幻想を排した物語はこの様にして需要に当たり、複数の主体がその生産消費へかかづらって来た。
 歴史は時代という層を透かして数知れない劇を観せてくれる。彼等はそこに登場人物の一員として置かれている。
 僅かに数十億年の合間、一個の恒星が誕生して死滅する。近くの惑星では偶然に奇妙な有機体が明滅するかもしれない。だが、それが何だというのか。
 地球が太陽の周りを地動するのと同じく、太陽は天の川銀河の中央にある重力点を中心に天動している。
 両者に詩的隠喩を適当させるのは、いうもおろか文士にはさほど困難ではない。宇宙は両者が戯れる歯車という、非常に単純な構図で理解できる。そして人は明らかな文を彩為す。色とりどりに紙面を濡らし、心象を冒す風景を画く。まるで一夜の夢らしく。
 何れにせよ、文学がもしここにあるならば、の話だが。

建築論

窓のある乗り物に入るとは、移動の主体を交換したという事。相対性原理。
 建築にガラス窓を設けるという行為も又、その様な等価交代を可能にした点で風景の相対化。

2006年9月29日

素養

芸術品位を高める土壌は文化的教養のみ。

約束の船

天空は自由の音楽に開かれた形態を以て、地に這う様にして暮らす人類達を馴らして行く。彼らは幸福と悲惨とを食べ物にして日を暮らす。何の為に現れたか知らず、いずこへ朽ち果てるか判らぬ。日々が廻るのに合わせて社会という舞踏に戯れる。
 花は咲き、萎れ、入れ換わる。波は打ち、退いては返す。林はなびき、清流はせせらぎ、森はわななく。湖が満月を映し込み、沼地が遥かに霧を呑む。滝が轟々と大地を揺らす。
 砂漠は嵐を含んで静寂を湛える。それでも答えは見えない。自然はあるがままで、全てを一因ののりのもとに開陳している。虚ろな精は幽幻の縁に漂って、確からしきもの、建築を探求している。
 それはだが、今世の物象のうちに在りはしない。永久を慧眼し得る神格の名残りとしてのみ、理想の宵のまじわりに游んでいる。

2006年9月28日

朋

聖者の他に朋を待つなかれ。

処世学

あらゆる既得権益層は死亡する。

草子

地上を幾重にも仕切る境界線、国境を乗り越えて、人心の襞を織り為す文章が在る。或いは誰が望まぬ共に、この一文がそうかも知れない。文学と時代が与える名称はこれを云った。
 人間の如何を問い、世界の秩序を触り、言の葉が華やかに散る様を丁寧に拾いあげる希有な順列。併しそうして構築された世界も、現象界の出来事と実際何ら相変わる事は無い。無形の本質は常に我々の内にのみ孕まれている。実存にではない。思念を絶えず再生成しては消費する情報処理機関としての自然知能に由来した反省的特性にだけ、理性は見つかる。
 文芸も又然り。混沌と膨張し続ける大迂の漸進が、事物の間に一定普遍のさだめを流し尽す際に、あわれを憶えて彩の組み合わせに心象を記録する仕事が構想される。嘗て沢山の学士がその召命を果たして来た。止まれ今日の僕も彼等の一因であり、根拠の存さぬ仮面を截って人類の儚きを滔々語り、待たれぬ時の畳みに情状の様を折り込む。先代風に文法を踏み、型を僅かながら破格した厳かな新種の一行を遺して後代の参照に付す。虚心は夢中に舞って遊びの瞬を浸す。
 喚起される理想の凪が高尚の風景を塗り替えていく。

明日香

やがて夜明けがやって来る。写し世の暗い喩えが熱を帯びた土地に降り注ぎ、草の子を次第に捲る。所へ旅の中途に在る役人が行き先を尋ねる。何処へ行く、太陽は答えない。只、雨中に魔法を照らすのみだ。
 命は理由を持たず漂う、儚き御霊に過ぎず、世界は彼等を遊覧する揺り篭の如し。空模様は暗湛自然、東京の姿を降り注ぐ陽光のもとに順々曝き出して行く。待つ人は知れない。いつ解放が訪れるのかを。
 月日は往く。気づく間にか二人は離ればなれ、美しい旋律はあわれ萎れて大空の隙に溶け込んだ。今はもう、誰も居ない。静かに回る球体の運動だけが虚構の淵を覆っている。

2006年9月26日

夢見

朝焼けが眩い。世界を浸す静かな音は、夢中の内に溶けて幾多もの念願を揺らす。地球は廻り続ける。
 空は太陽の照りつけを写してまほろばの合間を繰り返しふらつく。海沿いのテラスに遊ぶ一対の影が体現する法は、宇宙の塵舞を尽くして流転に続く。踊り、狂う。秩序は崩れ、反り、退屈を浸す。去りし時は覆す事能わない。地表の戯れを見送る雲往は展開と縮集を反復して後果てる。
 行人は砂浜の隅々に住まう生き物の様子を眺めて、旅程の成就を祈る。過ぎゆく世相を鑑みるにあたって、やるせなき発現の潮汐を反省するに如ず。夜が過ぎ、朝が来る。
 だが対象の因果は不変の体で時空を充たす。遂に仕舞うのは季節の要を縫う光だけだ。
 魂が闇雲を進む宵に、都市の姿が彩やかに見える。天は赤紫に瞬き、妖しくも際どい世紀全容の気色を為す。私はその何処かに在って、会えない誰かの心を探し求めている。何の為に。日々を繰る両手には血しぶきが笑う。己の血である。生きる度に必須とされ、新陳代謝を余儀なく搾取廃棄され、次第に大宇のエーテルと馴れていくもの。すべては夢でしかないのに。

建築論

建築が芸術と呼ばれうる為に要請されるものは何か。それは全体構成がひとつの美学的理念の暗喩として貫かれ、対伝統批判性を保っている場合に限る。建築芸術の高邁さはすなわち、多主体の協働作業力が一個の理想的目標へ向けられた時に発生する。
 建築家の美学理念、建設原理はこの為に必須なので、すべて彼の天分が由する職能は、建設原理に対する習熟知の度合いに依る。そしてこの原理こそは、時代の工学が有する空間構想の極致に因む。
 もし建築家に偉大の名、巨匠の名誉が冠されるとすればその作風に対伝統批判の模範が示されている高らかな証の連綿さによるだろう。

秋風

涼しげな秋風に香る夕暮れ

カントの人間中心さ

私は、カントの猛烈な人間中心主義が道徳的だとは信じられない。もし人間より遥かに理性的で、ずっと善い生き物が宇宙のどこかに居たらどうするのだろう。
 我々は新たな道徳標準を彼らから見習うべきであり、それがあたかも我々自身の本性に基づいたものであるかの様に振る舞わねばならぬ筈だ。

2006年9月25日

秋葉原

秋葉原昔の姿今はなし

長袖

長袖を着ている人が増えてきた

2006年9月24日

史学

文明へ向かう伝統批判の精確さが文化的建設の基となる。文明と文化とは矛盾せず、両立駆動する。丁度、handleが文明であり、実地を走るtireが文化だと暗喩してもよい。基底を崩しつつカタチを変えながら進行するのが文化であり、文明は不変な目的=操作指標である。従って、文化は常に脱構築される土台に過ぎず、目的ではない。人類は世界史的抗争に準じて社会秩序を展開させて来たが、その際にひとつの典型構造として、湿潤の文化が乾燥の文明に侵略されたことを多分に経験してきた。この被抑圧側の不条理の記憶が文化的郷愁としてしばしば、独風化の反動昇華として現れる。これが地域文化独特の大観だった。
 だがいずれ、そうして築かれた新たな社相も違う文明からの事情としての干渉によって揺らがぬ事はない。無常の民族感覚はここにある。それは地理的な不利を被った少数民族が体感として遺伝づけられた無意識本能に近い。従って、地球人類において無常観は民情の中心に常にある。人類世界の展望とは、文明の世論や幸福主義に対して文化の民情が脱構築されていく様な歴史体系である。

政治学

民主政で哲人政治は不可能に等しい。なぜなら大衆の総意は中庸策に集まるし、寧ろ抜群の為政者を危険人物として排除する傾向にある。
 現代の政治哲学は世論の量質を問うものでなければならない。

審美論

高級な芸術を志向する試みだけが工人を美学者へと誘なうもの。美学は学問としてない。単なる人文教養の批判的総合としてのみあり、工人に不可欠の素質として芸術の入口となる。
 そして考えうるかぎり最高峰の美学的基礎を伴った工人の手になる作品だけが、少なくともその時代を画する芸術となる。而して審美は智徳へ対する構想の天分に由来する。
 それが美術史として体系化される背景には、厳とした文明がある。完璧なお祭りではないにせよ、全く気まぐれとも言えない運命の連綿として審美論はある。

民族主義の自己破壊性

国際外政は常に多少干渉の関係にある。それはunited statesの内部構造がやはり国家同様なのに等しく、苟も地球に建国する限り永久に逃れられない村原則である。孤立した社会主義国群が遅かれ早かれ、干渉の道理に従って民主化されざるを得ないのは自然だ。それは直接的奴隷使役が国際法治によって禁止されるのと同様の文民化・civilizationに応じる定め。しかし、大多数の人民がそれ故、総意としての世論が心配するのは維新摩擦を加速させるような政治悪意なのだ。
 先進連合国際高級官僚諸群は彼らの多分を信念づける現代的な価値観に基づく功利体系・pragmatismに依って、程度はあれ破壊をお祭り騒ぎ化しなければならなくなるだろう。なぜなら必ず勝つ戦争は唯の八百長試合であって、弱い者虐めの大袈裟化にすぎない。彼らの最悪意は国際関係の道具的援用にある。これが現代政治悪意の病根である。とは言え大衆民主世論に可能な批判が、殆ど絶望的に無力なのは疑えない。それは世間一般の常識を反映するに過ぎず、自由主義を標傍する近代国家では必ず自我と自他の区別の前提を要するのだから。だが、実践的に社会改良を施しうるのは常に政治活動である。現代の文民は民族主義・nationalismの極度徹底的排撃によって背理的に国家=nation=言語を文化的に存立させ続けると共に、その実際政治的な転回を促す公衆世論の大導を面前と働くだろう。それは多民族共栄関係へ人間を整え、かつ国籍・nationalityを交換可能なfashionにまで還元できる指向だろう。

維新の悪

人々は生の限り地球社会環境を優化しようとたとえ無知による悪を積極的に為す反作用によってすら務める。それは彼らの目的化した種内競争の定式であり、文明と呼ばれる。
 人知最高の性質である理性は、文明建設の為にのみ働く。しかしこの様な建設的な認識がいずれ批判に価するのは免れない。それは世界の多元的かつ多彩な形態を抑圧するような神的統視を前提としているからだ。乃ち、人間の力の均質志向を含む。もし文化と呼ばれる、飽くまで差異を主張する土着的試みに、巨視規模ではちっぽけな差分にすぎないとしても一種の経世済民の事情を見つけるならば、それは脱構築を多種共存のうちに位置づけるような義に根差す。
 西洋史文脈の構造が存在しない周縁圏で倫理を用いる仕方は、構築を文明の為に、脱構築を文化保守の批判の為に用いる事である。模範ではない。創発としての働きかけが地上には必要である。本来すべての国家において決して西洋化ではなく、自発的な成熟を催させるような維新がなければならなかった。

2006年9月21日

都市論

物語は想像において築かれた都市である。そしてこの中についてのみ、都市芸術は可能。
 建築は彼様な形式を擬似的に仮設する現実態である。だがこれは批判ではあるが、建築芸術の価値を幾分なりとも貶める認識ではないだろう。建設再編体系の仮代表制は文字通り民主的ではあるから。