2006年10月8日

建築論

反合理主義者が如何に芸術史学的業績を非難しようと自体は無視されねばならない。建築の目的は合理である。

建築論

建築を美へ導く唯一の法則は合理性である。

建築史学

表層的な華々しさを競うだけの物ではなく、建築史的に刷新をもたらす達成を同時に実現する物だけが充分な考察に値する。そういう作品を見抜くまなこを以て最新の情報を選り分けねばならない。

2006年10月7日

労役

大人はなぜ働かないと暮らしていけないのか。環境的要因、食糧生産能率。土地柄とそこへ適応した人々の性格の比。
 文明創発の土壌如何。地球人類の必然性。何が彼らを生み出した? 数学的確率、天文学的解析、生物学的原因。労働と遊戯、奴隷と主人、大人と子供。知能啓発が呼び出す影響、種内競合の合目的性。

物理学

宇宙秩序はなぜ存在しているか。物理・倫理・合理法則はなぜ見いだせるのか。精神はnatureとして如何なる自律なのか。宇宙膨張自体の訳。世界が始まったのはどうしてか。理想的真空状態に何があったのか。

月

男は何より世界の構造が嫌いであった。とるに足らない何かを奪い合って競争を余儀なくされる法。その輪廻に巻き込まれた理由を独り、問わない訳にはいかなかった。どうしてわざわざこの世に産み落とされたのか。
 男の親は平凡な現代の中流階級にあって、何らそんな哲学的な問題を拠り所とはしていなかった。だからこそ彼は特別に知的な由なく育まれたのであった。
 男は俗物を徹底して嫌悪していた。倫理学は彼らを尊重していたが、彼には猿にしか思われなかった。それだから男が自分の身の置き所をこの世のどこにも見いだせなかったとしても不思議ではない。
 朝日が昇り、また沈む。男は年中の繰り返しにくくりつけ貶められ、辱められていた。屡々彼には死という、遥かにぼんやりした運命だけが身近であった。
 世間の駒達は、己の権益を全うすることに必死で、目を持っていなかった。ややもすると男は肉だけこの世に住まいながら、地上の何物でもなかった。なぜ彼は生まれた。
 空模様は移り変わり、うつくしいものをなべて押し流してしまう。陰影は深まり、輝かしい世界をますます遠ざける。場所の知れないどこかへ墜ちた一個の命は、やがて再び宇宙の姿見のうちに融け出していく。しかしそこにはどんな理由もないのだ。

2006年10月6日

都市論

都市環境を改善する方法的実践、文明見本の為。
 暫定法規と個別建物の複合的啓発。技術という証拠。それを通じた実証的な公論の啓蒙。専門家向けの学術研究を大学研究室で、その伝播普及としてのわかりやすい作文を雑誌に寄稿、公演で完成する事、論証。
 福祉民主世論にしか再開発の方途はない。独創的芸術家として都市へ可能なのは抜群の傑作による啓蒙の影響だけである。

秋雨の匂い

アスファルト降り頻る秋雨の匂い

2006年10月5日

建築論

何もない空間を至上とせよ。整理の美学。

2006年10月4日

芸術論

人工物は抽象的操作。つまり、自然の現れを調整して彼ら固有の構想力を遊ばせる様な形態変形。そこでは自律理性に由来した多様さと、幾何的普遍性とが協業する。あらゆる人工造形はこの範囲にのみある、と仮定していい。それ以外の芸術は科学技術の部類に入る、としよう。それなら多様と法則の関係性を、ある趣味の発現の元に総合する様な遊びを美術と呼ぶ。そして美術におけるうつくしさとは、この芸を遊ぶ才能のものであり、それは理論と実践を媒介する技術的処残。形相として象徴化された芸術は作家本人の思想に他ならない。だから天才とはその思想であり、技巧は優れた思想のもとに存在する。

建築論

芸術美に目的があるとすれば、自然の最も内在的な目的と等しい。建築の技法は一つだから。しかしその表象・外在性は凡そ最大限懸隔激しいものに違いない。抽象と我々が呼ぶ姿見は自体、自然精神の指揮下にある。精神が建築の現象であるのは疑えない。理性は自己生成したのではなく、制作されたのだ。問い、しかしこの様な先覚を純粋理性のイデアと調停するには如何にすべきか。
 実用的な仮説としてすら理性の建築は反自然であることで歴史上の同一性を確保して来たのだ。とはいえ具体的建築物象を取るに足らない形相の戯れとして軽閑するのは正しくない。寧ろその真実に理論はある。よって、自然と人工との間に明確な対称線を引くことはできない。両者は形こそ違えど共に建築故。

2006年10月3日

建築論

現代都市を一目標ある全体像へと設計しうると考えた主民の一員は悉く欺かれる。では都市計画学は何の為の学問なのか。
 建築は都市という形によってのち総合的。
1. 多元な発生であることでしか街ができる余地はない。
2. 法規は単に、生成する自由形態に常識を付与するのみ。
3. 断片の繋ぎ遇わせとしての建築計画すら当世論に依存している。
 つまり、近代都市を形成するには如何なる主体も相対化されざるを得ない。
 建築家という輝かしくも古めかしい称号が20世紀に担った人道観、人工主導権は、現代において大道芸の一種にまで落ち込んでいる。しかしこの状況は音楽や文芸といった分野においても同様。ポストモダンは疫病であり、その観念に毒された以上、使命感という生命力は根刮(こそ)ぎ駄目にされる。丁度、帝国主義に触れた植民地の様に。

2006年10月2日

建築家論

強用美を越境しての計画、アカデミズムに偏った建築家にはこれができない。彼らは途中から工学を伝達する側の都合によって分割学習を余儀なくされるから。
 時代の最も偉大な匠は常に、その様な錯誤から自由な場所より生まれる。

芸術家論

人間の芸術家が神の造物即ち宇宙以上の何を創作しうるものか。彼らは只、造化法則の掌に乗って趣味にあそぶ子どもたるのみ。
 彼ら固有の理性が到達できる限界としての純粋抽象芸術ですら、単なる創造の象徴的真似事、謂わば積み木に似た形態遊びでしかない。
 それでも芸術家は己が作風の審美的洗練を続けるべきである。なぜなら宇宙は末端の一枝に独特な掃除人を置いたのだから。
 芸術とは造形の整理である。

技術論

私は理論が目的だとは信じない。だからプラトンやアリストテレスら古代ギリシャの哲人とは違う思考法則のもとに生きていると言える。
 理論は実践と縁起して初めて存在する概念。そして両者を媒介する力が技術。最も生産性の高く、しかも理論実践双方にわたる最高度の教養を要領とする技術こそ、人間が目指すべき最高の理想であると私は信じる。
 理論は実践への手段であり、実践は理論へのfeedback。その間で繰り返し鍛錬を積んだ者だけが創造の秘密を身につけるだろう。

工学

空中を飛行する自動車をつくる法。その為に要請される法律。及びその敷衍仕方。実施時期について。
 建築形態の事前調整、遺産に限る。空中交通網。
 重力解除装置による、或いは軽薄空気封入のtube構造による空中都市。
 地下へ自然光を導く模範法。

2006年10月1日

芸術論

現世俗衆に迎合するより浅ましい芸術家はいない。自然を無闇に破壊して為した醜くも罪深い作品の群はそれほどなく捨て去られる。当然だ。愚か者の記憶を地上に留める必要は一切無い。
 美学文脈への記帳をなせる少数の傑物がもつ輝かしい聖跡だけが貴重なのだ。

デリダ批判

Metaphysicsのresetを合理化する思考様式としてのみdeconstructionはあり、哲学的組積はその範囲に限らない。喩えれば、pyramidを建設する坑人が誤って不条理な石を積み上げた際、それを仕方ない誤解として取り上げる行為が脱構築に値する。そして自体は巨大なconstructionの一部の出来事にすぎない。哲学における形而上学は言語を道具として弄ぶことにしか基礎を持たない、と今更ながら確認して何になる?
 善悪の彼岸は実存と構造の倫理学として課題を突きつけている。哲学の主題は実践善の構築にある。それは理性による時代環境の改良に他ならない。

宇宙学

神、Energieが宇宙を創作した原理を知らねばならない。全知を追究することが悟性の命令だから。

ある日

飛び交う船が貿易の空線を示す。近未来都市を歩く一個の影が地球の秩序を描いていく。秋の空は変わりやすく、乙女心はそこに落とされた画龍乃睛の様。月に棲む兎が跳ねるのに合わせて、地表の文化は次第次第に転回する。諸命は恰かも夢現の隙を惑う非常のはためきに有る。
 大地の抗争は社会を築く詳解を示さんが為、図像群を試行しては嘗玩す。あたかも地上絵をもてあそぶ子ども、快闊しては瓦解す。昼夜は男女の游に似て、色々の日常非日常をくるくると入れ替える。世界史は総てを一矢の跳躍に返還する。それは個々人の生涯を単なる点へと集約し、いつかは形而上に向かって省略してしまう。
 青年は語る。僕は時を駆けて来た。日月は止まず、活動は絶えなかった。星晨は震えて明日を煩った。秘密は知れた。
 いまや夜闇は僕を怖がらせない。だが、もう東雲に心を響かせられる事も無いのだ。宇宙の夕立は果てなく明るい世界を暫く蔓延らせた、尽きせぬ文明の遊興によって。
 一台の空中自動車の助手席に座った女性は、唯、それに頷いた。まるで私たちの今日がいま、終わったみたく。