2016年11月12日

克己

克己が真の勝利である。
 無欲で強欲に打ち勝て。競争でなく克己で勝利せよ。功徳や報償の為でなく、習性として慈善せよ。
 最高の寄付とは、相手の徳を増す奉仕である。貧者は慈善で心が富むであろう。清貧の方が、金持ちより最高徳に近い。小欲は幸福の素。
 恨みは捨ててこそやむ。彼彼女に勝ろうと思うな。敵に憎しみでなく、憐れみで接せ。誰をも敵にするな。自らを低くする者は魂において高められる。

2016年11月11日

天気雨

俗物どもに殺されていく
最低最悪の日本国
海外よりましだといいながら君を殺す集団だ
通り雨
天気雨
俗物どもを殺してくれ

にせものの国

誰一人真実を知らずうずくまる
求めているもの
欲しいもの
群れて悪口を言う
陰口以外が生まれない仲間と
卑しい利己主義者を貶めあう
全員が偽物
自称皇室の俗物
政府は悪事を好んで侵略テロを正当化
勿論生まれてくるほど悪い
それでも子供を産む衆愚
理由は空っぽ
誰一人真実を知ろうともせず
ひたすら金を儲ける国

自足

足るを知る者は辱められず。無欲は最上の快楽なり。他人をおしのけたり、競争するな。他人の上に立って喜ぶな。他人にもちあげられれば自ら降りよ。他人に勝ろうと思うな。自省によって充足せよ。自足に留まり、何かを求めるな。自足以上の幸いはない。人に勝ろうと思う者は必ず自他に不幸をもたらす。誰とも勝負せず、自らが最も必要とされる場所に居れ。勝利は幸福でなく、敗北は不幸でない。能は無能に仕え、無能は只で楽しむ。競争を避け、自由をえよ。死は災いでなく、生が救いではない。名誉は虚栄であり、威信は負担である。

2016年11月9日

功徳と因業の大きさ

功徳の大きさについて。
善人が善人に善行する。最善。
善人が悪人に善行する。大善。
悪人が善人に善行する。中善。
悪人が悪人に善行する。小善。
善の大きさは、最善>大善>中善>小善。
 因業の大きさについて。
悪人が悪人に悪行する。最悪。
悪人が善人に悪行する。大悪。
善人が悪人に悪行する。中悪。
善人が善人に悪行する。小悪。
悪の大きさは、最悪>大悪>中悪>小悪。
 ここでいう善は利他性一般であり、悪は利己性一般。
 仕事は、功徳の大きさに比例しておこなうほどよい。つまり最善、大善、中善、小善の順で、行うほどよい。裏返せば、因業の大きな行動ほど、仕事としてふさわしくない。つまり最悪、大悪、中悪、小悪の順で行うほど悪い。
 仕事で、利他的な人(善人)が得を、利己的な人(悪人)が損をしあうほど、その社会は優れた状態に達する。仕事と功徳は一致されねばならず、善人が相利な時に最善。つまり聖なる仕事がありうる。

2016年11月7日

波のくりかえし

波はくりかえし
夜はしずむ
旅ゆくひとよ
はじめからなにもなかった
嘘もまことも
夜にしずむ
君は理想から生まれ
宇宙にかえっていく
旅ゆくひとよ
はじめからなにもなく
嘘もまことも
海にしずんでいる
宇宙にかえっていく
波のくりかえし

成功

成功する人は普段からしている。

2016年11月6日

作品

拙劣な創作者と、人格が完成されていないのに子供を産み育てる人達には共通性がある。まずい作品という意味で、たちの悪い子供も人々から邪険にされ悪所に住まわる。酷い作品がすぐに忘れ去られ、どこか悪い環境におしこめられ、早速葬られるのも、あしき親から生まれ育った子供と一緒である。
 対して立派な作者の手に成る偉大な芸術は、いつまでも忘れられず大事に保存されている。偉人が道徳的に尊ぶべき要素が多い程、事情は同じ経過をたどる。
 拙速は巧遅に劣る。巧速が拙遅にまさるとしても、人格の完成した若者がまれな様、早熟な天才も折れやすい。周りの嫉妬や無理解、清貧に耐え抜く心根は、凡その天才にとって体験的に得られる為だ。もし伝記や物語で未経験の苦難を頭で知っていても、実施にあたって諦め、挫ける者がいかに多い事か。そして彼らが果せぬ夢として子孫に託そうとした何らかの希望さえ、親の人格に応じた程度にしか教育できないのだ。悲劇は続く。凡愚の輪廻はそれ自体、克服すべき課題を先送りしているに過ぎない。だから天才の作品のみ偉大だとして、彼らは凡愚に想像もつかない苦難を、精神力、心身の努力によってのりこえてきたのだ。

2016年11月5日

他人と比較して幸福になろうとする限り絶対に誤る。他人を気にしないしか幸福になる方法はない。他人本位、他人志向である限り、人は多数派に流され低俗化し、或いは別の意思にあおられ失敗するからだ。
 汚い生き方をする人間は、汚い人間になる。清らかな生き方は清らかな人を作る。
 生あるものは死んでいく。汚い行いをなして生きる人は、彼らの汚い子孫からも蔑まれ死に、すぐに忘れ去られる。それは彼らが、子孫にとって一刻も早く忘れたい人だからだ。清らかな生に子孫がいなくとも、彼らの行いは清らかな人々から賞賛される。
 繁殖は幸の目安ではない。功徳が幸の目安である。子孫にとっても同様に、前世代や先祖の功徳が直接、遺伝子や文化、歴史をはじめとした生存状況に反映されているのだ。過去の因業が現世代を作った。現行の悪事は来世代、次世代にとって抗えない不幸の原因である。今の業は次世代からは前世代にみえる。これ故に、人は道徳性によってのみ幸を得ると結論できる。

2016年11月4日

繁殖主義者と幸福主義者

悪人や性悪が繁殖する事は、不幸を増やす結果になる。性悪の遺伝子はさらに不幸を拡大し、周囲のみならず子孫自身が不幸になる。悪人にとって死は救いであり、子供がいない事は幸運である。彼らを繁殖主義者と呼べる。
 幸福主義者、即ち哲学的な善人は子孫繁栄によって周囲にも当人らにも幸福を拡大しうる。
 両者は利己による有害と利他による有益という別の道を辿っており、繁殖主義者の好む金儲けは有害、幸福主義者の好む慈善が有益な証明である。繁殖主義者の目的は不幸の拡大に過ぎず、その子孫もまた不幸を得る為だけに生きながらえているのだ。この意味で繁殖主義者は世の反面教師で悪例である。子供を増やすことが目的な繁殖主義者は不幸をふやし、哲学が目的な幸福主義者は幸福を増やす。

匿名厳罰体制

ウェブ上で有名な人々への主に匿名でのあらゆる犯罪行為を政府と警察は徹底的に取り締まるべきであり、これら2chやニコニコ動画、ユーチューブ、ツイキャス、あらゆるマスメディアを経由した衆愚犯罪は常に警察の捜査側が厳に対応する形でしか解決しえない。匿名犯罪取締法を作り、匿名犯罪一切へ専用窓口を設け即座に対応するべきだ。
 またやくざ化した都内マスメディアやブランド総合研究所(代表・田中章雄)等の不良な調査企業が悪意で特定自治体や特定個人、集団への、集団虐めとメディアスクラムによる実質的な集団虐殺を企てる事例が頻発しており、これら恣意的な偏見流布へも、新たな厳戒厳罰体制を敷く必要がある。

2016年11月3日

反米反日安倍内閣

米大統領候補の全員が反対するTPPをごり押しする安倍晋三氏は、単に反米の核であるばかりか反日のきわみである。反米反日安倍内閣を即座に解体するべきだ。

旧電力会社本社自治体最終責任法

原発負担をクリーンエネルギー主体の新電力会社に負担させるのは極悪政としか言い難い。原発処理の負担は全て、東電分を東京都庁へといった風に、旧電力会社の法人税収を(東京都の場合は株主利益をも)得ていた、本社立地(原発立地自治体ではない)の都道府県に背負わせるべきだ。また放射性廃棄物の最終処分場は、旧電力本社立地の法人税収益を得てきた自治体(東電なら東京都)内に新法制定で必ず立地させ、これまで得てきた法人税収からの転嫁を義務づけるしかない。
 これらの法を旧電力会社本社自治体最終責任法(旧電法)と仮にし、今国会中に成立させねばならない。既に廃炉が常識となった限り、最終処分場をこれまで原発から99%以上の莫大な利益を得てきた都内及び各旧電力会社の本社立地自治体に立地させ、新電力のクリーンエネルギー転換の負担を最小化する公正なる行政処断が絶対に必要である。

2016年11月2日

奉仕

他人に、人類に、己の能力の限り奉仕する者を罵る人は、不幸である。その人にはねたみと怠惰、そして驕りしかない。

侵略罪人たち

侵略された国々、地域や民族は、侵略したそれらより幸福である。罪なきものは幸いである。

2016年11月1日

低俗と高尚

低俗な人間は高尚を軽蔑する。

森の奥、林の音

一 ビル

 美しい幻想を追いかけていた。全てが正しい場所に落ちつくのを待っていた。だが、その時はいつまで経ってもやってこなかった。形は崩れ海は鳴る。林の奥で鳴く鳥は、向こう両隣なんの変哲もないビルの地下で永遠にしまいこまれてしまう。

二 森の奥、林の音

 悪い時代、悪い国、日本の平成。勿論、私達の目の前にあるものすべて。
 かといって我々はそこからぬけだすすべもない。ひたすら落ちこんでいる人みたいに。儚さ、むなしさを両手に、或いはそれすらなく、死に絶える。森の奥、林の音。

あの朝の池袋

一 池袋

 僕はその頃、十八だった。
 僕は何にでも成れる気がしていた、そして表現しきれない大きな鬱屈や、不思議なほど大きな空しさを抱えていた。誰もがそうだと思うけど、僕もまだ未完成で、その不完全さは示しのないやじろべえの様だった。右から左へ、左からあらぬ方へ、僕の心はゆれうごいていた。
 そのとき、芸大受験におちて椎名町のウィークリーマンションの一室でひとしきり泣いたり予備校の始まりがあって、僕はあまりまわりが見えていなかったのだろう。というより、みえすぎていた。人生で初めて行かされた飲み会という儀式のあとで、我々は同年だろう同期だけでカラオケに入り、出てきた。細かい所を全部書くには、いま時間がたりない。かいつまんでいうと、その朝の池袋の暗さについて語ろうと思う。

二 この世の終わり

 よのなかの殆どの人は、僕ほど暗い社会をみたことはないだろう。僕がその朝みた池袋の街ほど、僕の心を暗くし続けたものはないほどだ。その暗さは深く、深く、僕の魂に染み込んで離れない。それほど暗かった。
 僕はもっと美しく綺麗な町、清潔な磯原で生まれ育っていたから、その朝みた池袋という都会もどきの街の暗さは衝撃的だった。カラスは僕の故郷で観るかわいらしいものでは全くない。化け物か魑魅魍魎の類が跳梁跋扈し、手のつけようがなくなった景色というものをはじめてみた。
 でも僕はあの朝に染みついていた空気、救い様がない絶望と希望の入りまじった光景、大気の冷たさを、僕自身の一部にしてしまった。勿論宿命だろう。もっと詳しく説明する事もできる。カラスが散乱するゴミ袋をあさっていた。僕のふるさとのカラスはそんな凶悪な生態ではなかったし、『七つの子』を歌ってた地元であるから恐ろしくもなかった。みやまからすとハシブトガラスといった、田園と都会の種類の違いがあったのかもしれないが、とにかく恐ろしい、冷たい、ひえきった社会だと誰もに分かる感覚。世界の終わりを表現したらこうなるだろう、といったまざまざとした現物が、僕と田中君があのカラオケボックスの前あたりのマクドナルドだかなんだかから出てきたら広がっていた。あなたに伝わるべくもない事実だ。でも、僕の脳内に残っているそのときの光景の暗さ、冷たさといったら甚だしいもので、いつかちゃんと表せたらいいと思っている。今の僕には、ダミアン・ハーストの絵に描かれてるカラスみたいなものしか伝えられない。でもいずれ語れるだろう。

竹林たけばやしおと

一 草むら

 僕はその頃、小さな草むらの脇にいるみたいな場所で、ねこんでいた。そこはとても小さな草むらで、ぬけだす方法もわからない。だから訳も分からないまま、小さな奥ゆきのない草むらの奥にいた。
 きっと僕はこの世に生まれる理由もなく、生まれたのだろうと思った。僕は自由になる為に生まれたと信じていたけど、実際は草むらからぬけだす道さえわからない。意味がわからないかもしれないが、そうだ。つまり僕の存在はばらばらになった星屑か、それに類したごみ箱の散乱みたいなもので、価値をもたない。もし、価値をもっていたら沢山の人が僕のいる、この草むらにやってきて、ちやほやしながら何かをくれたろう。でもそんな事はどれほど待っても、全然なかったし、今後もないだろう。要するに、僕の存在は古典的な優雅さからはるか遠く、単なる面倒くさがりのついたため息みたいな感じで、実際、誰もかも僕の目の前を通り抜けて行った。なんだ、君は僕を人間だと思っている事だろう。でも、僕はねこだ。これでわかったろう。
 僕は草むらの奥にすてられた、勿論だれから望まれたかもしらない、小さな子猫だ。
 君はね、だまされたと思ったかもしれない。でも、別にだましたわけじゃない。僕はただ、このだれからも葬り去られて、忘れられたまま死んでいく様な小さな草むらで、神さまに救われないかな、という真剣なまなざしで、何かを待っている。何度も説明して申し訳ないけど、確かにだれもこない。だってここは誰からも遠いのだ。

二 僕の生い立ち

 僕のおいたちなんて、多分だれも興味がないから語らないでおこうと思ったんだけど、この際だから説明してもいい。僕は一歳で、たしか木枯らしのふく秋ごろ生まれた。といっても別にブッダみたいに森羅万象を悟ってもないから、どこで生まれたかなんてしらない。気づいたら生まれていたのはみんな一緒だと思う。僕の生家はこの草むらのすぐとなり、いわゆる野口雨情の生家ってよばれてる、あの立派な家だ。建物の立派さからいったらまあまあかもしれないけど、それはこの際いわないことにしてほしい。だって僕の生家なのだ。
 そしてね、僕はその生家で産声をあげた。うぶごえっていっても、なにしろ僕は猫だ。だから、話すたびに「にゃあ」という。当然のことだけど、あえていっておいた。人間語と勘違いされると困ると思ったんだ。
 僕は小さな体を、母ねこのとなりに横たえていた。そして別段不思議なこともなく、しばらくお乳をもらいながら成長し、大きくなった。にゃあにゃあ鳴きながらね。この辺の詳しいところは省略させてください。
 そしてね、僕が生まれて半年ほど経った頃、突然大きな津波がきたんだ。うん。そう。僕のねていた生家の草むらに、なんだか突然おおきな揺れがきたなと思ったんだ。きっと僕の脳の勘違いで、目の前を通ってる国道のトラックが「ぶう」とかなんとかいったんだろうと思ったから、お母さんがくるまでの間まっておこうと瞳を大きくしながらじっとしていたらね、突然、津波がきた。僕の目の前にだよ。その波はあらゆるものを覆うみたいに大きくて、びっくりしちゃった。単にびっくりしただけならいいんだけど、僕はまるで突然の大嵐で住処から飛び出した殿さまばったみたいに、いえの塀にとびのってね、いえの右にある脇坂を、中ほどまで、電光石火でかけのぼっていたんだ。気づいたら。だってびっくりしたからね。それからあふれた水が、急にこっちに向かってやってきたもんだから、ますますびっくりして、僕はすぐ隣の畑の茂みに隠れた。うん、隠れたんだ。なんで隠れたかって? 勿論こわかったからさ。
 それからどれほど時がたったろう。僕はその茂みの奥でぶるぶる震えていた。誰も来ないのかなと思って。それが今なのさ。

三 孟宗竹

 それでね、僕はこの草むらから出る方法はないかって、ずっと考えているんだ。でも僕の両足は硬くふるえて少しも動かないし、みんなはなんか近くだか遠くだか分からない距離でわあわあとか、きゃあとか言っていてとても怖い。何かおきてるのかなとは思うけど、外を見る勇気はないんだ。えっ、勇気がないなんて臆病だって? そう思うなら思ってくれて構わない。でもね、僕は本当は勇者なんだよ。真の勇者は蛮勇をもたないんだ。だって無駄死にするのは匹夫だからね。こんないかめしい武士道を説いたところで、資本主義の現代社会では意味をもたない。君はそう言う。実際ね、この磯原町のどこでだって、僕の存在なんて誰からもしられてない。だっておかねもちの家のねこでもないし、といったら失礼だけどさ、お金っていうより名誉を重んずる武士、の末裔の家の小さなね、子猫の一生なんて、別にいまどきだれも興味をもちやしないのさ。
 それはそうと、外から声がするから、僕はやっと、こんなに冷えちゃった白い手でそっと茂みをあけてみた。するとね、そこには手にカメラをもった変なおじさんがいた。きっと近所の人だ。お母さんはどこにいったろう? 僕のくりくりした目はあたりをきょろきょろ見渡した。自分でくりくりとかいってるくらいだから、よっぽど丸くなっていたんだろう。近所の人はね、津波がどんなに恐ろしいかを記録しようとしているみたいだ。
 僕の目の前には随分とはっきり、孟宗竹の林がみえた。その林は、普段僕のお気に入りなんだ。だって僕はね、竹が好きなんだ。そして竹林に入って、どっかから生えてきたたけのこを探したり、それにつまづいたり、はたまた自在に駆け巡ってさやさやとそよぐ風の音に耳を済ませる。僕の趣味だ。
 でね、その竹の音がそのときばかりは、とっても怖かったんだ。竹の音っていうのも変なら、竹林の葉っぱのね、鳴らす音。風の音さ。僕の耳はしゅんと閉じてしまい、あんまり物音がきこえなくなってたから、そのせいかもな。今にして思うと。でも、僕はそのとき、大好きなはずの竹の音をきいて急にね、怖くなって茂みから手を引っ込めたんだ。それでも竹林の音はした。さわさわさわ、ざざあ、ざざあ。僕は目を硬くつぶる。そして竹林が普段はあんなに僕に優しいのに、今は怖い、とてもこわくて、何かばけものみたいな巨大な城になっちゃって、僕の耳をふさいでいるのだろう、と思った。波の音は、僕や竹林の近くを出たり入ったりしていた。きっといま、僕のねていたあの生家の庭まで、ものすごい真っ黒の波がわりこんで、お母さんなんかも僕が死んじゃったと思ってるんだろう。僕はそう思うと、涙がすこし出てきて小さくにゃあ、と鳴いた。

四 次の日

 次の日、僕は表彰台にのっていた。表彰台って何って? 何で急に? ここまで聞いたのに、何もしらずに帰るなんて、無理そうだ。
 僕はまえからこう思ってた。僕はいつか偉くなるんだって。だからねこはくわねど高楊枝、我慢にガマンを積み重ねて、今に世の為になる大仕事をしてやるんだって。僕が夢を叶えた顛末を話そう。
 僕の手が茂みから引っ込んだのと時を同じくして、孟宗竹の林の向こうから、お母さんの呼ぶ声がしたんだ。それはにゃあ、とかにゃーんとか、そんな感じ。みんなにはただのにゃあにゃあにきこえるんだろうけど、ねこ語では「私のかわいい子猫ちゃんや、どこにいるの」ときこえる。だからここではにゃあ、と書いた。ねこ語の講座を聞く為には、どうか雨情生家に煮干しをもって来てほしい。たまたま僕がいたらだけど、講義してあげるかもしれない。でもね、それは物語のわき道だ。
 僕が茂みから、あらん限りの勇気をふりしぼって外に飛び出してみると、といっても、この丸い目をね、そっとしげみから外に出して、ぎょろぎょろ周りの様子をみてたんだけど、そこではなんと、さっきの隣の家の人が、そう、近所の人だと思ってたら隣の家のおじさんだったんだけど、そのひとが僕にね、助けを求めてたんだ。これは厄介な表現だから、ちょっと言い方をかえないといけない。正確にいうと、そのおじさんは足がわるくて、自由に動けない人だったんだ。僕は最初気づかなかった。当然僕も動けない。でもそれは、僕に勇気が足りなくて動けないんだ。おじさんは違う。もともと足がない人だった。なんでも交通事故とかで、足がなくなったらしい。ねこに交通なんてないし、あったとしてもただの散歩だから、よくわからない。とにかくジコってやつで足がなくなったらしい。僕はその場でね、涙目で叫んだ。
「ここにおじさんがいるよ! 助けて」
でも、その声は、人間語だと「うにゃーん」ってきこえるみたいだけれど、ねこの世界だとそれは、緊急の合図なんだ。ねこたちにはきっとわかる。そしてね、お母さんが僕の声に気づくと、急いで坂の上の方に走っていって、あのおっかない犬のいる家の前でにゃあにゃあ鳴いた。犬がほえて、中の人が出てきた。勿論、地震があってテレビで情報をみてたから、犬のほえる大騒ぎに驚いて出てきたんだけど、お母さんの活躍で、放し飼いになっていた犬がどんどん僕の茂みの近くまで走ってきたんだって。出来過ぎな話だと、僕だって思う。でも本当なんだよ。
 そうしてみんながおじさんを見つけて、坂の一番上までうんうんと引っ張り上げた。次の大津波がくるまでの一瞬の事だった。
 あのほえる犬が助けたみたいに、みんな思ってるんだけど、違うんだ。おじさんを助けたのは僕。でも、そのことは僕しか知らない。表彰台というのはね、生家の隣の塀の上にある、僕の特等席なんだ。茂みまで駆けのぼると、あの足のないおじさんが助けられた、坂道がある。この坂を一杯にするくらい、大津波がのぼってきたなんて、誰も知らない。