2007年7月31日

衆愚淘汰論

適応格差は民族内淘汰を厳格に遂行する。衆愚は救済の道を世界宗教の門にまさぐる他なく、その居場所をさえ見つけられなければ地上から永久に血筋を絶やす。人口抑制の手段として、生存競争の便宜に格差社会ほど好ましい智恵は無い。均質社会はひとえに人口増殖の方便に過ぎなかった。
 同種同類を奴隷として使役し地獄へ釣り込み社会保障を断ち切り過労死へ追い込む。老獪は揚棄され遂には賢明な種族だけが建義を全う繁栄する。その様な必然経過を通じてすら優等種内にも格差は存在するものだ。配分格差と均質調整とは適宜時勢に応じてバランスされねばならない。

 少なくとも現代日本においては衆愚を淘汰することに何一つためらう事は無い。我々は凡そ思い付く総ての肩書きをresetし、代わりに生存実力のみで人間を評定しなければ道を誤る時代を経なければならない。

2007年7月30日

才能論

科学の天才は意味の上で正確な意味での天才、つまり生得的な才ではない。それは大衆より遥かに知性的な知能というものに過ぎないし、かかる才能は学習による以上、能率に格差はあれど飽くまでも或る認識型の模擬の延長にある。もし新たな認識型を創造するような思考を展開した個性があれば、彼は追随の求道を旨とする科学者ではなく、むしろ哲学者と呼ばれる。哲学すなわち形而上学の範囲には、未体系であるべくして幾多の批判と思想の二つの側面そのいずれかが存在する。批判は道徳を構成し、思想は思想潮流つまり思潮を形成する。前者は純粋形而上学つまり道徳哲学と呼ばれ、後者は応用形而上学つまり派生哲学と呼びうる。前者だけが哲学の文脈であり続け、後者は一旦成立すれば切り離されて新たに科学の分野へ編入される。つまり科学は確立された派生哲学思潮に対する学習の延長である限り、生来の天才による独創ではなく、模擬の秀才。生来の感性にのみ適用しうる天才の概念は、芸術の才能にしか用いてはならない。
 では、哲学は天才の事業だろうか。それは単なる学識の誇示ではないし、教養ある暇人達の娯楽というものに言い尽されないだけの社会的必然がある。乃ち、学識の軌道修整を行う事こそ哲学の正しい方法なのだ。そしてこのような観想的思索を行う事のできる才能は、科学的秀才と芸術的天才とは異なる、生来および習得的な実践理性の深度に由来しなければならない。たとえば、哲学的な思索の才に欠ける個性は慣用表現しか使えない文筆家の如く、理性の疑義に耐えうる強度を遂には持ちえない。
 我々は理性の才を充分に発揮せしめる為には、思索の道具としての教養がある程度必要となる事を承知している。それは幼児の思索がいずれも無稽たらざるを得ない事で知れよう。とは言え、単なる百科辞書を最善の哲学者と見なす訳にもいかない人々は、秀才と天才の相克的才能、つまり哲学の才能を英才と呼んでも構うまい。それは閑暇の環境と観想の習慣とがなければ育ちえないものだろう。

美術論

美術館は審美論の見本市。それは丁度、趣味を鍛える為の道場に等しい。
 人々は現代様式の選択の為に美術館を廻る、博物館で古代のそれを参考にする如く。都市とは、全て美術館で構想的な型として試みられ、鑑賞を通じて択ばれた審美観の実践的延長な丈。

2007年7月29日

数理学

純粋な体系的学識に値する唯一の学問は数学だけだ。自然および社会の学はみな多少あれ認識を洗練させて行く事のできる様な仮説の全体に過ぎない。数学では、その数学体系の内部に限ってにせよ証明されない仮説は存在し得ない以上、あらゆる学識が十進法の方式で永遠に有効な知識を構築する。
 我々は先ず数学を学ぶべきであり、次にその認識方法を援用して諸科学へ進まなければならない。この逆では如何なる知識といえども確実な認識には到達しない。
 帰納法は自然・社会両学の仮説提出の方法論として演繹の道具である。

俗物は名誉の為に盛衰し、賢者は真理の為に生活する。

サッカー学

攻撃力増強と、組織的サッカーの追求が必要。フォワードへ世界的に極端な高給を与えてJリーグ全体の前衛レベルを引き上げるべき。ジーコ監督において試みられたバックラインの厳格な統率を専らの基準とし、中盤の高いパス精度からストライカーへの繋ぎを変幻自在になるまで鍛え続ける事。

時代

平和は実現し得ず、進化迄の僅かな間を漸近しうる已。

国体改造論

国家地政史的闘争が人間の理念に及ぼす影響は進化速度への期待已。全ての科学は、知性の分で人類を一定の知能傾向へ啓発する役に立つ丈。それは貴族的な幸福主義。然しここへ統一された世界市民が万丈の文明に帰するとはいいきれない。奴隷制度は否応なく世襲の弊害を含まざるをえず、アリストテレス型幸福主義には自滅の計画が基底されている。
 体制は循環構造をえる、乃ち相続税徴収。
 官僚養成学校という通弊を除くには私学を助成せよ。

2007年7月28日

概念

理性の低いものに正義他、複合観念高級概念の類皆目理解できぬ事甚だ普通なり。生態に興味の別あり。

2007年7月27日

工学

自然型エアコン、冬と夏について季節と日々の推移に併せて温湿度を自動緩和する。過ごしづらいと感じる季節の代わり目にその変化を身体の負担を軽減するように微妙にセットされ、季節のピークに向かって徐々に力を弱めて夏冬の緩和を目的とする。決して強すぎる冷暖房となることはなく、真冬や真夏のピークでは寒さや暑さを室内に居ても感じるが、少なくとも極度に過ごしづらくはない。
 サーモスタットと機構の改良が必須。

近未来国家論

国際的疎外を免れる唯一の方便は、国家を美術館にする事。
 いずれ時勢に由来した経済的事情に従って、必然に導かれる余暇の哲学の結果、学識についてすら世界史上での多くを達成してしまっている時が来るだろう。美術館国家から遊園地国家へ、という社会的移行が照らさねばならない近未来の展望。前者は結局資本の自動に還元されざるをえないが、後者はそれを人間前提に復興してattractionへ利用するから。都市は無料の福祉を基底的媒介としたtheme parkへ向かう。それは文化風土を昇華した仮想場としての装いを日々益々深めて行くだろう。美術館としての国家は外国人を鑑賞させるが、遊園地としてはrecreationさせる。そして後者は前者より観光参加の度合いを高める様な積極性である限り、より未来文化の養生に寄与するところ多大。彼らは異邦に必ずしも進んで住むとは限らないが、凡そ誰もが普く感銘を受けて想い出に残すだろう。世界遺産としての国家運営は人類にとっての財宝に数えられるだろう。産業向け技術を専ら実用から解放すること、乃ち理論科学のTheseに対する工学のAntitheseは現代民間にとっての均衡命題と見なされる。
 総合は芸術。それは学問を手段として止揚する。

2007年7月26日

数理史学

数字によって考案された思考体系と幾何学とは、極めて文化的に結合された。デカルト代数学は西洋文化の栄華である。それは極めて注意深い秀才の生業で、我々皆に根拠はない。ユークリッドの証明体系やピタゴラスの定理の導き方がそうである様に。

人生観

俗物の人生観には毫も譲る必要はない。

2007年7月25日

労働者の淘汰

自由主義連合国の現代人は婚前交渉の放置によって比較動物的な個体を放し飼いにして彼らの自然な増殖を誘ない、教養の低い労働者数を増強させる方便をとっていた。
 しかしながら先進国内で現に出生率が抑制されている如く、この人口淘汰法は有効性がなくはない。比較的応用理性に劣る個体群は自らの明らかな社会的不利益を世代間の教育本能で次第に自覚し、何らかの手掛りに訴えて地位を向上しようと多少あれ欲することは上記の率の統計から明らかだ。実践では妥協が付き物なのにも関わらず、十分に計画されない建築が堅固明朗な構成を伴って実現された試しは希なように、偶然の機会を伴って不完全な教育投資を前提として育った子供も又、その最終的結果における未熟は丁度不毛な土地の作物同然であるべく原則されてしまう。
 なおもこの不条理は凡そ有り得る限りの世代内階級闘争を誘引しさえする。もし、実力主義の分野が交替制であれ社会から絶えたら、我々の社会不安は窒息した恐怖政治に流される他ないだろう。
 抑圧の昇華が卓越の基礎である限り、応用理性の高い種類は何れ貴族としての道を迷いなく歩むだろう。幾らか過保護に過ぎて反抗期の至りに自己責任から転落する世襲の弊が観察されるにせよ、彼らの歩みはその利他性に於いて先ず以て正しい。充実した生育環境は優等生を養う土壌に最適化するから。

世界宗教の方便

衆愚にとっては世界宗教が必要である。

封建政治家が愚考した如く、生計と娯楽において愚民化した市民を飼い馴らすといった官僚主義は極めて不条理でしかなく、国家運営を斜陽に誘う他ない。
その破格には「教育の自由」が独立した私立権限として確保され、直も「言論の自由[限度基準含む]」が明文化された当然の命題であれ。

世界宗教と教育と研究の自由とは、文明を向上させる為に自明の組成である。
末端労働者足らざるを得ない愚衆を救済する為に、世界宗教は必須と考えられねばならぬ。
彼らは信仰の為に生きる事によってのみ、同時代社会不適応個性からの制約を便宜的に脱し、福祉的使命感について救いを得るだろう。

賢衆民主政

昇華された個体においてしか卓越した能力は見出しづらい。
それは究極のところ彼らの応用理性のレベルに還元されてしまうだろう[応用理性は後天性を含む]。

彼らの分業は個性が命ずるところ多大である。


 あらゆる世代交代は社会内血統の循環を要求する。
世襲制度から実力主義に到る分業精度は時代状勢に関して適当でなければならない。

リベラリズムは物質文化の為の手段であり、必ずしも精神文化の目標とはならないだろう。なぜなら和気は競争に反するからだ。
極端な自由主義は国家にとり致命的錯誤であると認識しなければならない。
 もし精神文化の興隆を目指せば我々は適度の社会的制限を科する義務を負う。
それは且つ最低限度の法律的な制裁措置という「限度基準」として現れるだろう。

自由主義は退廃した精神文化しか結局のところ、産み出せないだろう。
衆愚に傾かなければ多数決の原理は成立しないのだから――貴族は常に少数派足らざるを得ない。
 文明は世論を目次とする。
従って、我々は大多数の大衆のうち賢衆層を新たな文化標準と見なさねばならない。
中流ではなく、中上流の最大多数化が大衆民主主義の次段として普く認識されるべきだろう。

現代版奴隷制

自由主義は過当競争によって敗残者を揺する。我々は資本主義的序列に応じて人々を労働価値の為利用する。それ丈では足らず、過労や心中は現実的。それは「社会という宗教組織からの制裁」。
 匿名衆愚の堕落はnet巨大掲示板等に明らか。それはかつて人類が育み得たあらゆる悪徳の温床となっている。こうして全て、うらぶれた労働者は手段から次第に転落するだろう。それは益々間接奴隷制度の様相を呈する他ない。

 人権思想および人格主義からの主張は悉く退けられる、少なくとも社会的調整の枠外で。経済の事情は最低限度の文化的水準を推移させうる。結局、民主主義Ideologieとは偽装された奴隷制度の謂いに違いない。

2007年7月22日

仕事

我々はいずれも否応なく文明の建設員、資本家であれ労働者であれ。仕事とは文明の建設にある。

2007年7月21日

常磐沖

人は海辺に座って、はるかな未来を夢想している。波が繰り返し打ち寄せ、地上の権威をことごとく洗っていく。何の為に産まれたか、何の為に死んで行くか。空は運動する光の魔法みたいで、だけど、雲は形を与えてくれない。くすんだ手元の認識、とりあえず向こう側の、特に意味という意味のない、少しずつ展開して行く社会。ハンドルは操作した通りの場所へ連れて行ってくれる。約束は遠ざかる。人類の名義を取った理想の音程。退屈をまぎらわす、時代の流れ行きに泳ぐ、魚。去る為に繰り返し押し寄せる波。ひたひたと、けど、須らく。汲み尽くし得ない泉みたいな、海。

しののめの山のほうから蝉の声

2007年7月20日

人の普遍性

文明でも自然でもない道について。人間の普遍性。何故彼らは存在するか。

審美論

美学は存在しない。文学は存在しない。美術だけが存在する。

2007年7月18日

新自由主義の一端

北九州市で餓死同然の死者。生活保護普及に逆風の追い討ちをかける開放経済政策。

2007年7月17日

大衆

大衆に対するにはその偏見の真逆を進め。

仮説について

ある理論を仮説として提出するのは議論回避の為だけであり、自体に確実性がないからでは必ずしもない。自明ではない説得に係る時間対費を節約するには、未体系の論考を何らかの意図で小間切れに発表しなければならない時、その対象に便宜的仮面を被せるべき。そして後輩乃至は同時代人は閑暇に応じて適当な検証を兼ねてくれようから。

2007年7月16日

避難

俗物集会には努めて近寄らぬ事。万が一必要あらばそれを素早く退く事を前提に参観要。

2007年7月13日

新自由主義の悪

高学歴化の弊害は思想の均質化と階層固定化。前者は学術における、後者は社会における不条理抑圧として鉄筋コンクリートへ徐々に亀裂をもたらし、やがては爆裂する。
 この弊害を避けつつ単なる知識度ではない文明度の向上に努めるには、教育および社会体系の複線化と階級差別、階級格差自体ではないをもたらす文化的土壌の養生が必修となる。複線化定義と差別撤廃とは同一の改革傾向や脱構築に帰する事ができる。既存体制は均質教育の底上げとして産業・政界との自民族中心実用的な癒着を深めた新自由主義の擬態で、それが現代世界史に不均衡をもたらす根源である限り先進国の自由主義偏重は相対悪行に違いない。

国民大学論

公論の場は高尚論を目的とする文面疑義の主体的提出に期待される。独裁制への退化を回避し、仮設的貴族制を回復する為には論述の名文化が要求される。そこには称号制度が利用されるべきで、単に言論を放置してはならない。つまり、少なくとも見識において上等な人々へは言論波及力を保障するような賞与を社会公認に設けるべきである。これは私設であったり利潤目的であったりせず、また単なるソフィスト的弁論術を貴ぶでもなく論述自体には具体的敵対象や勝敗はない、唯の公的批評の土俵があるのみ、普段の民間啓蒙度において優れた個人を表彰すべきだった。
 我々の国民大学において学外への学位の授与が一般的でない事は後進的と呼ばれる他ないだろう。就職予備校としての大学組織には資本企業として以外なんら教育的価値を持たない。

航空的文明論

批判体系は説明の過不足なさにより樹立される。
 ならば、それは標語の様なものであれ、又格言や、極度に抽象的なら概念自体でも構わない。過去において優れた哲人ほどに理念の抽出に努めた。そしてそれらの成果は後生の日常に浸透した。我々がideaとか大丈夫とか、loveとか慈悲とか言うなら、それらは既に聖人の徳をcriticalに摂取したに等しいと考えられる。なぜなら度合いあれ理解されざる概念は使用すらできない。
 政経中道説と、学術的航海の喩え、つまり三元論批判は少なくとも現代道徳の根幹を為すべき体系的整理だろう。ここに伝承の為の蒸留昇華を加えるのは哲学の方針と云える。私は航空の喩えを提出する。
 文明論に是非とも必須なのは、左右両翼の平衡を保った飛行と、コンパス・地図・舵とによる航海。当座の知性である地図は精度を増す為に改良を加えうる已であり、舵の手腕は技術的であり必ずしも理論的・実践的ではなく生来の才覚に待つところ多大。形而上学で涵養された理性とはこのコンパスによる指針の役割をはたす総合的教養からの周辺状況理解能力なのだろう。

現代哲学論

哲学は非科学的とは定義できないにせよ、科学的ではない。それは建築術としての批判であり、科学的認識を目的にしない。
 哲学が目指す所は総合体系。それは現行の知識に対しての羅針盤を意味する。航海において科学は地図を、哲学は羅針盤を、芸術は舵を執る。分類の源はギリシアに由来するにせよどれもなくてはならず、相互に縁起して現代学術組織を形成している。
 人々はこれら三類の学術的建設が全く異なる方式の元、運営されるべきな事に日々益々自覚している。文化の合理化の為にはそれらに体系的批判が必然となる。
 少なくとも学園的には、カント的分類体系が一般化される迄に間はない。後生は新たな、全社会的建築術を目指すべき。政経中道説の体系づけは学術的建設に合流できる。

思索技法と時代内建築体系の批判

哲学は言葉を用いる啓発であり、且つその限界は言葉に規定されている。よって言葉の用法つまり修辞術に哲学の範囲は規定されるか。否。哲学は修辞術の啓発的応用で、文学とは別の言語表現方式。両者の差異は内容にのみ存する。なぜなら用いられる言語自体は、少なくとも過去において民族語でしかないからだ。
 文学自体は修辞美術に過ぎない。哲学は文学をも批判する、それは文学にとっての補集合。
 我々はカントの三元論に対して真ないしは善美の定義が形而上学的でしかありえない事をも脱構築できる。乃ち、両者の文字形相は文面上の差異に過ぎず、我々は適宜それらを生活行動の傾向に応じて使い分ける已。尚且つ、哲学にできるのは形而上学。我々は形而上学批判そのものを移行できる丈。哲学は非持続的体系で、飽くまで仮設建築術でしかありえない。その意義は伝統遺産にある。乃ち、ある洗練された特殊な技法が世代を超えて絶えず可能態として抽象的に用いられるなら、それこそが哲学の達成する唯一の真理なのは疑えない。哲学は思索技法の啓発。独創的批判体系への邁進はこの時代内建築様式の確立に役立つ已。

哲学の基準

全て既成思想の痕跡は思索の具に為うる丈で、自体は哲学ではない。読書は哲学ではない。自らの思索の経過だけが哲学の結果たりえる。

2007年7月12日

ミートホープ社豚肉混入事件について

問題は混ぜたものを表示しなかった事および保健期限に不誠実な素材にある。自給率の底上げの為には向かい風になる、と考える事はできない。我々は食品の安全を安定と共に重視すべきであり、現保健体制の異分子は慎重かつ抜本的に淘汰し続けねばならない。
 もし正しい健全な革新を行いえる業者なら、決して破産する事はない。又、業界の模範として却ってブランドになるだろう。

2007年7月9日

適応

半開文明は堕落をも可能にする。文明はいずれ万能の体系ではあり得ない。我々は人間の精神性への抑圧を通じて自然を回復する。抑圧に対する解約を通じて人間は自然状態を社会内へ仮設する。理性は本能を予防する為の徳。それは自然状態から文明状態へと遡る為に締結される社会契約書にある。
 自由主義は思想振幅を広げる。乃ち、半開文明における知能に格差を設けて、社会内分業を合理化する。自由主義は擬態された間接奴隷制度と呼ぶべき。なぜなら最低限度の人権以外には何一つ保障されてはいない、高度資本主義を合理化する為の大衆民衆政治なのであり、世論そのものは決して政治的主体ではない。世論が役立つのは結局の所、国民選挙について已。しかもそれすら殆ど役立たせらる事はなく、最後の鍵であるに過ぎない。
 文明に価値があるなら、それが行動の組織性に対する誘導に働くという所だ。個人の独創、社会内思潮の脱構築がしばし種外適応方向についての先駆け進化となるのは確かに。尚且つ、ある特定の組織は同胞感情を作り上げ、種内競争に複雑な構想をもたらす。文明とはある知能の類型の集団適応の事である。もし地球文明が協業の理想を掲げるならば、我々は集団を分解再構築する必要を負う。
 文明に向上の理由があるなら、それがある普き進化にかなう適性な場合にのみ妥当でなければならない。道徳には、カントの考えた絶対的理性を超えて相対的度合いがあるのだ。より良い、より悪いという裁判しか善の形相を取り得ない、だからその道徳質は形而上と形而下の統括を求める。相対哲学は形相的たる事を要する。
 目的の王国すなわち理想文明は当為たらざるを得ない。我々はそれを仮設し続ける経過にのみ在る。

教育と革新について

大学乃至は学校はある時代情勢に対する知性傾向を啓発する役に立つもの。従ってそこに原理的基軸は存在しない。我々は絶えざる改良亦は組織的脱構築においてしか教育を存立すら出来ない。若し君の教師が既存潮流の狂信者なら、方便を取って熱を冷ますべきである。学習が労働化するのはすべて錯誤の為、相対的無知の為、組織的搾取の未熟の為。その行為付けの集積が大学の実態であり、我々の創造的知性にとっては最たる抑圧に働く。しかしこの抑圧自体は必修である。なぜなら構造は装飾にとってのなくてはならないものであり、仮に構造さえ不定なら我々は学問に接近する道さえ持たないのだろう。我々はやはり革新を天才に待つ。それが当人にとって如何なる不条理を秘めていたにせよ、抑圧そのものが集団的理性によって世論を形成する限りつまり我々が政治人である限り人類は福祉的であらざるを得ない。それは丁度、群れと指導者の関係に類推為える。

遊戯界

人間すら居なくなれば問題はなくなるだろう、と主張する者の為に考えるべきは、我々が自然の子どもであるという事だ。人類非ずと云えども別形態は別種の秩序を構造する。その中で理性の役割は、理性的秩序という丈。自然は理性を創った。理性は自然の仮設建築。理性は自然を否定するのではなく、その定義によって新種の自然を造る。もし知能が理性を育むなら、理性とは人間適性の別名となるべきもの。理性の実用的な範囲は地球文化の生存確率に依存する。我々はその単純な適性、功利的進化によって再創造的に適応する。我々が知る事を通じてすら世界は対象たる事を辞めない。いわば遊戯界として世界はある。

講義

衆愚は無視する事。おろかな講義に出ない事。単位の為なら特化せよ。

2007年7月2日

精神

衆愚は動物と何一つ違いはない。彼らが言葉を話す事以外。裸で街を出歩き、欲望を満たす。そういった家畜を大量に養う我々の牧場は社会と呼ばれる。その運営の為に必要な唯一の資格は精神だ。

地球適性

衆愚は利用すべき対象である。
 衆愚の退廃は搾取の為に堕落する。衆愚自身はその悪行によって地獄へ堕ちる。宗教とは体系化された地球適性であり、反すれば自然から手痛い制裁を受ける事だ。

搾取

人類は人類を利用対象にした時、搾取的になる。

人類界に女がいる限り我々の種が途絶える事はありえない。

君の種が世界から消滅した所で人類が愚かな限り繁殖する。

文章

人間としての人生に一体、どのくらいの価値があるというのだろう。彼らは生態系に含まれた個に過ぎない。それでも彼らは何かしらの価値を目指している。
 人生が生態系の末端に偶々ある経験であることに誇りを持つ彼らに、意味はない。何の為に彼らは産まれて死ぬのか。それすら知らずに栄えて行く。
 生命の理由を与えるものよ。けれど人間はその名前すら忘れてしまった。寒々しい世に墜ちた、羽を失った鳥。孤独の為に産まれ落ちた。辺りにいるのは黒い鳥だ。彼らにも名前はない。
 君は彼らの名前のない一人として声を潰されてしまった。君には答えがない。救いはない。ただ、黒い鳥の群れに混ざって、なんとか苦笑いで済ませるしかない。既に返り咲く方法はない。彼らは地獄の鳥だ。彼らの鳴き声だけが渦巻き管に響き渡る。
 意識を失って行くのだ。そして彼らの仲間になれ。輪廻する生命は自体で完結している。人生と我々が呼んだ経験は、自体が何の価値も保ち得ないことによって人生の為だけの遊びとなる。それは生に対する幸福しか目的にしない利己的生存本能を終局迄引き擦る。死を択べ。動物は産まれ来る。だが、人間は死ぬことができる。死ぬ為に生きる自由にしか命の大観はない。貴様達が解脱した神格たりうる唯一の道は動物を去る事だ。本能を破壊しろ。あぁお前がただの機械だったらな。けだものどもの愚劣極まりない習慣から離脱しうるのに。
 動物の一種に産まれる事はすべて過ちだ。衆愚にはこの意味が永久に解らないだろう。奴らには頭がないから。人間、私は人間ではない。