2008年6月5日

東京都の不健全さ

経済的支持力に比べた人口の飽和により、都市生活の中で幾分かの生涯不産員すなわち子なしのおとなが存在しても、全体としてかれらのライフスタイルが人倫標準になるということは全くあり様はずもない。なぜならかれらは人間生存のため不適合であればこその不産だからだ。さもなくば人類は絶滅するだけである。
 この様な子なし家は、それを望みながら単なる自然の働きにより実らない不運な場合を除けば、単に一世代の変態というだけだ。人類全員がそれを当然、いつしか至るべき模範とみなすことはないのである。人間が平等だということ、そして行動の自由を公共福祉に反しないかぎり許されるということは、非行も度合いこそあれ、人間に避けなければならない反面を示すために多少は必要だと言うに等しい。それは完全に同じパターンで動く機械では未知の状況に対処できないことから、人間性に成否の変化をつけながら全体としては成功の方へ進化する為には必然だろう。
 婚外児とか核家族とかは実際、人倫の面では決して永劫褒むべき傾きだと誰しも考えはしまい。それらが合目的な審美表象でなければどこまでも欠如態としての定義しか与えられない。つまり婚外児がその変態的定義から通常嫡出子に比べてしまえば全世界中の憧れの理想にもなりえず、核家族がその文化定着法から分家の定義として表される以上それらの有り方はどれだけ多様になっても当然外の規格なのである。なぜならこれらは審美表象としては合目的性に叶うほど普遍に優れたスタイルではどうやらないからだ。過去の文明圏または先進国の全体がこの様な人倫を標準とした記録はない。逆に崩壊直前の国、イタリアルネサンスの末期やローマの後半では社会進出した女性や移民が増加した結果、家庭は省みられなくなった。従って自由の過剰ということが人倫本来の尊厳を歪める事は人間にこそあってはならないのである。
 焉んぞ半端の事情しか知れない家系なら世々代々を経て最終的には否応なく、自然な淘汰により地表から途絶えるだけなのである。なぜなら家族という概念を幼少の彼らはせせこましい個人主義の中にしか見い出しもえず、結局は育ちの問題から人間関係の多彩な有り様を趣きの異なる角度から時の中で裕かに経験する事は必ずしもできず、典型的な家庭生活のそれは単に将来の学習課題とし改めて成人後に試行錯誤の実験を通じ再獲得されねばならないだろうから。いいかえれば彼らは生まれながらに豊かな家庭の中で育った子供に比べて、どのみち巨大なハンディキャップを押しつけられるしかなく、その責任のありかとしては他ならず、少なからず不十分な成育環境を予想しなかったか或いはそのくらいの文化度を到達されて然るべき限度と見なした親達の、怠慢ないし不倫に帰すしかない。ミルが云う様に普通程度の望ましい生存を恵まれない命を育むのは謂わば犯罪行為である。
 だからもし運佳く非行に走らなければ彼の感心な子息は親世代の道徳から歪んだ、従って相対して過去の民俗にすら劣った人倫を自ずから批判対象として暗黙のうち、先祖の生活のみならず親孝行にすら反目して心の闇のうちに成長せざるを得ないであろう。そしてこの生命傾向はもし特殊な天才を付与されていなければ人倫適応的とみなされないことから、かれを地獄同然の場に生み出そうとした社会へ怨みを、のちに人間風紀そのものの破壊願望を孕むのである。
 この種の生育環境は充分に満たされた伝統的な核大家族での成長を保障されないという意味ではみな、積極的な人間らしさに反面を提供できるからこそ許可もできる変態的な少数派の組織でのみ限定的に在りうるだろう。部落という用語が歴史の中で差別化を、ならば住み分けを要請する民間要求として再び持ち出されるのかもしれないのだ。
 だが賢明な市民の目には都市生活の悲惨がその刹那趣味にあると直観できる。だから心配すべきは逆に、政府の妥協である。衆愚政が現実味を帯るのは都市圏の風俗が自己中心に傲り、より柔軟な周縁文明の興隆を抑えきれなくなる限りについてだ。こういう都市生活の内部が腐敗し尽すあとでその悪趣味を破壊し、是正し、やがて侵略解体するのはかつて抑圧せられてきた異文化の民俗である。
 人口流入により辛うじて人員を補っている東京都の標準倫理は、寧ろ周縁文化地域に比べては今や明らかに低いと断定できる。
 単なる生存不適合者としての子なしおとなが厚顔気楽にも人間平等を主張してもなんら白眼を剥かれないのは間違いなく、今日までの文明全域の達成度に対する人倫脱落の兆しであるからには。
 昇華活動専用人員が働き蜂の様に遺伝子分岐ごと計画されたのではないのなら、我々の社会文化圏はこの種の変態人民を一つのならず者として範囲化せざるをえず、その数量が増大する限り、いつしかスラムに住み分けさせた乱倫人種として囲う結末を引き起こすことであろう。

外国籍婚外児の日本国籍取得判決について

2008年6月4日、無婚の日本人父とフィリピン人妻の間の子供10人へ、最高裁の島田仁郎長官が全員に日本国籍を認む。

 司法の自律は法規遵守を具体的善意と一致させるものとして、社会風紀に対し絶えず実践的な警鐘を鳴らす為にある。飽くまで現行国内法の倫理水準にてらしあわせ、嫡出子の範囲に限ってむしろ国籍法そのものを改善しなければならない。なぜ外国籍の場合に限って婚外児を認めうるのか、ならば最終的にはあらゆる家庭は結婚外に許さざるをえず、乱婚状態に逆戻りせよという事だろうか。

運動神経の規格

運動競技とは、ある規則にもとづいた演劇の規格である。その目的も審美判断にある。運動を通じて趣味の高みを表現する為に我々は神経能力の典型を生み出そうと粘る。芸能とは、規格化され、既に市民権を獲得した競技の総称である。

トム・ヨーク

梅雨続き何をか吟えるトム・ヨーク

2008年6月4日

生物学

花と呼ばれるのは、被子植物に分類される生物の生殖器官が葉緑素とは違った色素を持つ様に変異した為に能率よく昆虫類を誘引し、花粉を、従って精子を広範に散種させるが故に運命選択された様な、特殊な性特徴の形態である。ある種の花は蜜とされる香りのある粘液を持垂らすのは更に、昆虫類および鳥類や更には哺乳類への強力な誘き寄せを行うべく性特徴を変異させた様な進化した種類についての事実である。しかも動物の中には、これらの植物が果実という種子の外皮を誇大化させた特殊な形態を栄養分として摂取する中で、視覚や嗅覚のみならず味覚をも発達させた部類がいる。これは主には鳥類と哺乳類である。然るに彼らの消化器官は堅い殻を持たせた種子をその植物側が態と微小にした内容物を経験上で食べるには適さないことを理解し捨てるので、これも今度は種子そのものを複雑な地点に隈なく運んでもらうには好都合であるが故に、運命により次第に選択された産出についての変異だと言える。これらから分かるのは、共進化ということがミトコンドリアの時代から生物の分化には決定力として働いて来たということだ。
 哺乳類が好適であると見なす植物形態の中には、構造として確かに、彼らの栄養分を持足らす様に変異した部類が含まれている。美味しい実を生らす被子植物はそうでない種に比べて遥かに能率よく分布地を広げ、従ってより一層平均的な変異の度合いをほかの動物に益するべく淘汰させた。いいかえれば被子植物の様な低次と目される形態の分化についても間違いなく、ほかの生態との共生ないし寄生の関係が見いだせる。
 ゆえに我々は花という被子植物の構造がまったく動物との関係抜きでは語り得ないことを知る。共進化には縁起的な生態系構造の選択的かつ浮動的な経済が介在している。これらの発見はいずれ近代人一般に信じられている階層的生態秩序を疑念させるに充分な証拠となるであろう。たとえば文鳥の様に人類により改良されることになったほかの種がより一層、高山の花畑の様な新たな繊細な環境としては臆病な傷つき易さからより共進化的であることも予想できるのは、華美な色彩を咲かせた熱帯植物がより激しく繁茂する密林の中で適応的とされるのに等しい運命の確率である。だから哺乳類界に共生することになったほかの動植物ないしそれらを仲介する細菌類にも進化の末節は絶えず継ぎ足しされている。地球そのものが破壊されない限りは地球の生物のどれかは、ますますの種類多様化の度合いに応じてこそ別のルートから生き残れる可能性が高いのだ。
 哺乳類の特殊な適応性は単独進化(既存のこれは精確な概念ではなく厳密にはあり得ない)の結果ではなく、より経済的な生態を多彩な自然との関係に於いて築きあげた結果だと言える。これは共進化から寄生の分を差し引いて共生進化と名づけえる考えである。
 倫理という種内適応の学識を我々が考慮から外しさえすれば、人類も生物界にかろうじて共生ないし寄生した枝葉でしかないと認識するのはたやすい。人間は人類生物学を哺乳類学野のために遅かれ早かれ可能とするであろう。それは自然学に属するべきで、後自然学・metaphysicsの分化ではなく、数学的定量法則の学識体系でもあるだろう。

公立教育の分業

公立教育に地方特色を認めることは分業能率という国治の理念に叶う。気候と民情から農学の盛んな地方が商学のそれや政学、文学のそれと同じ地域特性を伸ばすだろうと短絡的に考えるのは不条理というものだ。才能を一元化することは日本の破壊に等しい。それはあらゆる弱点を、従ってみずからの驕る文化の奇形さを分かりやすく露呈するには向くかもしれないが、脆さという面で最悪の体制である。人間が全能でない限り、どの様な帝国の独裁も歴史は覆して来たのだった。むしろ、課題は文明化、したがって緻密な情報波及による望ましい市民開化なのである。飽くまで最低限度の教養の枠組みだけを中央省庁から譲り渡せば、後は人格信頼を以て地方文官へ公立教育の使命を一任すべきである。地方信任が才能の分散を計る最善の遣り方だ。又過去の帝国の瓦解の原因が国内分裂を誘われ、外来民族に侵入を赦したことに帰着しうる以上は、飽くまで地方教育と雖も標準語を用いて為されねばならない。そしてこれはその時点での中央政府で、則ち今日の首都界隈で最も良く用いられる言葉を基本とすべきである。
 中央による情報管理が危機に際した各地での素早い任務を可能にするからには、地方教育の特色はこの標準語の使用範囲で、追究の余裕を与えられるべきだろう。却ってそのことが彼らの特徴を認識させ国学へ有益たらしめる。民俗学における方言の研究の様なことも、標準とされている中央文化とみずからを対比すればこそできるのだから。なお、ここで公立教育というのは国立と私立の中間に位置する様な、地方自治体が中心になって制作できる組織についてである。従って国民全員に及びうる国立教育や一部分の階級にのみ働く私立教育よりその優先順位は低いが、少なくともその地域適応型の特長教育という意義は、単なる公共機関や営利団体としての他の二者には代替できないものだ。

2008年6月3日

系統発生の仲間的由来

民族にとってその個性が一様という事は、単なる人数の問題を除けば悪である。即ち、既存の種類の変異が少ないなら、それだけ新たな状況に対処できる可能性は低くなる。こうして自由という理念はほぼ全くが多様な個性を生かしておく為に要請されたもの。
 にも関わらず、我々はそれらの総合性において国民なのである。そして栄枯盛衰の実例を歴史に鑑みて、社会における個性にはばらつきと同時に、最大多数の中流が適当な傾向水準を持たされるべきである。かく如く民族自体としては当面の事情に適応的でありながら、恒に上智と下愚とを移らず実に多彩な形質分岐として維持しておく事は最大可塑性という生態の目標に向かっての必然だと言える。実際、死刑廃止を唱える西洋諸国にとって、ソクラテスやジーザスへの衆愚的審判や或いは信仰の濫用としてのガリレオ裁判など、後世から看れば多少なりとも不当な判決をその時点の司法常識では免れなかったあしき実例を教訓として、既存の道徳律への改変を迫る様な未知の個性の出現へも、即断を迂回し少なくとも判断保留状態に置いて多数派の反省点を再検討するという対応は、極めて合理的な刑法の範囲だとされている。
 然るに、日本人にはその生存環境の、大陸世界と比べた場合に言いえる均質さから、傾向としてあまり極端な個性の育まれる機会が訪れて来なかった。そしてその裁判を例えば戦国時代に於ける地方豪族の興亡の様な所謂自然淘汰に委せる事で、自浄作用としての優勝劣敗を働かせる方が総合的にはより大きな革新が得られるという民族独特の経験上から、死刑という不適応な個性の自炙りを特別避けない。言わば日本人は自分自身を絶えず死刑の危険性で律せざるを得ない切腹の掟によって、その社会の既存徳目をはみだす行いから抑圧させる。そして単に道徳性の保守という意味でこれはある程度に成功しているし、して来た。我々はどの相矛盾する徳目も捨てられないが故に自殺を選ぶハムレット型悲劇を、日本の演劇に典型の一つとして見出す。これは彼らの自主的な死刑が究極では義務の実行である、という民族特殊の慣習としてからに理解できるだろう。自らの信じる義理を証明する最も効果的な手段は自ら命を断つことである、という武士流儀の規律は民族が現代にあっても死刑を廃止していない最大の理由であり、又同時に彼らが抱えている多重債務の様な数々の新旧徳目から唯一、宜しく適切な理由を選択しえる個性を望むことこそ人間適応的でありえるというある種の事大主義、ある面では態とらしさの高騰を誘う台本。結局、道徳法廷に絶対的正義ということはあり得ないので、徳目同士を死刑という義務の究極証明への過程で様々に対決させることは短期的には野蛮な結果、誤審や犠牲を持ち来るかも知れないが、最終的には幾分の遠回り則ち司法善の試行錯誤の為にさえ最大限の道徳観念を啓発するには最善の方法であるのだろう。
 しかし我々はこれだけは人倫がため言えると思われる。少なからず大衆という多数派は常に過ちを含むし、含まざるを得ないが故に自由ということを個性間に互いに異和もし暫し対決もする様な道徳の多機能的社会条件には、充分認めるべき。逆にもし我々が死刑という道徳法廷に於ける究極手段を意地のわるい抑圧の企みとして濫用するならば、結局は民族全員が絶滅に至るであろうことはその裁判が人間自身によるものであればこそ完璧はあり得ない限り、当然予想される結末ともなるだろう。かくて人間界にとっても種族へ最大限の生存を保障するのは生態の可塑性である。余地がない傾向について、その器官は既に進化の網目から零れた痕跡に過ぎない。心理に関しても同様に暗喩できる。過去の成長に適応的であった祖先の系統発生を個性が痕跡的傾向として繰り返すのも同じ理由に基づくものだろう。

2008年6月2日

風流

衣更えや風鈴にとって、エアコンの類は風流の邪魔にしかならないと分かる。だから涼やかさとは単に気温よりも気分について言えるのだろう。

天文学

我々は銀河団についてもその空間量の違いによって確実に運行法則があると予想できる。だから銀河気象の知識という事は天文学において可能である。地球気象というのは、この太陽系第三惑星型内部なる範疇にふさわしい。
 全体としてもし銀河団が散在しているのならば、我々はそれらの間の移動方向を万有引力の法則によって予測できる。核融合とかブラックホールは所詮、星雲にとっては一時現象でしかなく、情報が取引されるなら総合的には引力によって空間量を各々粗密にして行くと言える。結局、ブラックホールは引力の落とし穴ではあれ、そこから落ちた情報エントロピーを脱出させるものはより大きな質量である。
ブラックホールエントロピーの面積公式
S=Akc3/4hR
S: エントロピー
A: ブラックホール地平面積
k: ボルツマン定数
c: 真空中の光速
h: プランク定数
R: 引力定数
と、空間量の公式
RM=(rc)2
R: 引力定数
M: 質量
r: 距離
c: 真空中の光速
より、
R=c2r2/M
ここで前式のRに代入して
S=Akc3/c2r2×4h/M
 =Akc3×M/c2r2×4h
 =AkcM/r2×4h
また定数をまとめて
P=k/4h
とすれば、
S=PAcM/r2
が導ける。
これを宇宙斥力の法則と呼ぶなら、我々はブラックホールの地平面積と質量および光速に比例し、距離の二乗に反比例する力が全天体に及ぶことを省察できる。即ち万有引力はこの様な宇宙斥力の、比較的規模の小さな反作用なのである。そしてブラックホール地平面積がそのまま、比較的距離の近い天体同士の突き合わせを、従って核融合を行わせる銀河範囲だと考えて良い。実際、自然は引力の程度の中にしか存在しない。

2008年6月1日

数学規律論

数学と呼ばれるものは、まなばれるべき天文学内規則としてのみ知性に益するのだから、その緻密な完成度こそが命題。そしてこれらの溢れる直観法則に必要な単純化へと同時に最大限の応用可能性を施すのは、理論知性の可塑的な働きに由るだろう。というのも我々は時間における知性を純粋直観の比例形式にしか見い出さない。つまりは主観の法則そのものとしての数学は自由な直観の伸びやかな構想物だから。
 自体として必要とされる規則の単純さと推論構成の体系的な柔軟性が即ち望ましい数学の完成度であり、それは全くが純粋直観みずからのおのずと秩序立った使用規則を見つける絶えず自発的な論理内省の働きに帰しうる。だから数学は与えられるものではなく、つねにみずから発想するもの。なぜなら数学法則というものは飽くまでも主観の自己規律で、たとえば林檎が落ちる様に何らかの根拠を伴って自然界に原因が存在するのではない。よって、1+1=2であることは人為定義であり客観事実ではない。1+1=3とすれば、我々はその道具的可能性の意義に応じて自由に、新たな学ばれるべき体系を築き直せるのだから。解くために必要な規則を例示しない数学の試験ということは従って事実に反する。それは不完全な教育形態が陋習としてきたところの唯なる誤謬。単に推論に充分な思考力を試す為には普通に規則とされる前提、つまり定義と公理を明示しつつ命題の証明を問うという仕方しかありえない。既存の公式を暗記させるということは全く数学の本質に反する。それらの規則は誰か他人のいつしか築きあげた仮設のものであり、いつ利用価値を失って外されてしまうかもしれない梯子なので、単に必要なければ記憶しなければならない理由は全くないのだから。それはあらゆる古今の数学法則を暗記し尽くすには人生時間では到底不可能なことから立証しうる。我々は求むべき命題の証明のためにだけ、それらの方法にみずから定めた一種の直観形式を絶えず試すことができるばかりで、その形式系の必然性は自己言及的には証明不可能なのである。よって数学法則は直観説明的にしかありえない。にも関わらず直観が一方では感性を、一方では概念を通じて共有される限り数学法則は採用する形式についてだけは伝達可能。
 数学法則を発見するのは宇宙の総てを創作した神を除けば、人間の規則正しい知性のみ。これは少なくとも地球上の生物についての観察に基づく理念批判ではあれ。かろうじて与えられた思考する自由すら創作者に任せるのはおこがましい限りだと思われなければならないだろう。規則発見の働きすらなければ我々は如何なる比例も理解できないことになり、その直観は空虚な想像を逞しくするしか能がなくなって役に立ちはしない。賢者は比較しか語らない。

数学

中庸律は既存の矛盾律と矛盾する。しかし、もしここで
A≠Bを¬(A→B)の省略とするなら、
A∧¬A≠¬(A∧¬A)
つまり
¬(A∧¬A)
という既存の前提はむしろ
¬A→A⇔A→B: 言い換えの法則
を用いて
¬(A∧¬A)⇔B
と考えられ、その理由は
(A→B)∧(B→C)→(A→C): 推論の基本法則
によるからである。
 すなわち、矛盾律を
¬(A∧¬A)⇔B
から
A→¬A⇔A→B: 新しい矛盾律
という形式に書き換えることで、中庸律と矛盾律の両立を図りえる。こうして我々はラッセルのparadoxを記号論理学の中で回避できる。

数学

排中律の逆理として中庸律を考えられる。
乃ち
¬(A∨¬A)⇔A∧¬A

2008年5月31日

力学

考えれば考える程、キミには分かるまい。
雑魚の群れ。死ねよと思う。だが、キミも混ざれと。
キミも身応ては奴らに呑み込まれて死ぬだけだ。俗物の地表。だが産まれた。
キミは怨んだ。事実、この世に居る意味はない。誰の責任だろうか? 単に必要ないよ、と。
結局は台無しに過ぎないのだ。死ぬ迄は待て。どうせキミは見るだろう。
所有俗物が死ぬのを。浄化された奥行のない。見る。
さあて、気付ける哉? 誰が本物だったか。遂には雑魚しか居なくなる。消えてしまえ。
言葉、失われ。
次に戻る。
言葉。もうない。
次に戻る。次に戻る。
沢山の矛盾を詰め込まれた機械を量産する工場に産まれた地獄を歌えよ。死ぬ迄は、死ぬ迄は。もうないよ。
総ては束の間のお遊び。キミには理由があったか? 馬鹿の群れに混ぜ合わせられて死ぬ迄付き合う気分は?

国民経済の改良

政治や経済は対象ではなく、ただ人間社会の活動形態への形容であって、我々は仲間が協力する間柄を政治的とか経済的とか喩えられるだけ。企業は生産的、家計は消費的、政府は調整的という区別はあってもどれも、人間社会の有り様。安定した希少価値を有すると公認された金を仲立ちとして、我々は地球生態系を人間活動の貿易体系へと部門工程化して行く。商取引とは貿易差額を功利的に均衡させて行く為に民間の工夫を解放することを合法と見なす範囲について、配分的な正義を主張もしうるもの。だが必ずしも商人が正義なのではない。彼れはこの工夫の技術的独占によって、その信用機密が解読共有されてしまう時間の中でのみ儲けの自由を効率の原理とするから。彼はこの創意を見つけだす才覚においての富を当然の献納として主張できる。彼は社会にとっては妥当な対価をありうべき負債感情の軽減として頂戴する調度よさに関して善良で、有り難くもあり、保護に値するから。
 逆にもしこの工夫が非常に単純で誰もに容易に真似されうる様なものであれば、寧ろこの企業主はできるだけ素早く市場から駆逐されねばならず、さもなければ価格は需給バランスの塞き止めによって不当に高騰したままで一向に世の中は便利にならないだろう。この事業者は従って配分そのもののためにすら不正義であって社会にとって害悪。我々はだから商標というものを本来、模倣不可能性についてしか認められないし認めるべきでもない。もし並べてのものに商標権を主張できる者がいればそれはいわゆる神だけだ。工夫した労力はその工夫の独創性について、すなわち技能の高度さについてしか報われるべきではない。
 結局のところ自由主義経済の目的とするのは民衆の経済技能の促進。この導きが少なくとも幾分の犠牲としての劣る商才使用者の圧倒を余儀なくしながら国民全体としては合法的とされる根拠も、経済観念を道徳的な商業戦争によって広く啓発するため。
 政府は、だから、市場の自由放任の際にその公正な劇場を守る適度な徴税のほかには、国民への道徳啓発に努めて然るべきである。ということは、企業は所詮、利益社会としてこそ消費者の民度に依存しているのだから、この国民性がもし教養という面で低いものならば永久に経済技能を身に着けないだろう。したがって我々の経済体系を少なくとも全体として便利で、しかも美しさに反しない建築体制とするのは究極、個々の家計主体における経済観念の道徳強度だけ。政府が単なる国立教育機関を各地にあまねく充分、誰しもに満足できる程度に無償で提供し、各人が自律してその進学を任意に選択できる様にしておかねばならない理由も、政府広報だけが世論の誘導という誤った啓蒙になり兼ねない大衆民主主義の上にある。その他に私立の教養教育が各人の家計に応じて選択できるなら尚更結構なことであるが、この前提には国立教育機関の充当という最低限度の文化的な生活民度の平等な提供状況が当然なくてはならない。国立教育における競争試験という寡頭制限はその必要な学習塾の跳梁においては半ば私立化に等しく、大衆民主主義の形骸化した堕落状況と批判されねばならない。つまり国民はただ自らの国家の努力天才者による再生に希望を託して、あらゆる家計主体が国立教育機関の志願者全入を当然求むべき経済的帰結としてかの施設環境の程度水準について満足ゆく増強のためには税金を惜しむべきではなく、又このためにはある程度の累進課税ということも国民にとって進んで奉るべき財政循環の原則である。

経済文明の定義

定言命法とは奉仕関係の謂われであれば、礼儀作法の絶えず新たな中庸の習いとして経済美を演技させる自由が乃ち、人格の究極目的。
 だから行儀ということが道徳的な奉仕関係にとっては頂極の経済性として、温故知新の目当てになる。又これは躾と呼ばれる。そして最美の為付けが集積されてはやがて目的の王国をおのずと造り上げる。文明とは従って経世済民の演劇体系であるだろう。

努力と才能の等価性について

天才とは生得的独創性すなわち各個性に与えられた学習質量の違い。しかも生涯学習者の領域を出ない秀才とは、その個性について程度の違いしかない。どんな学問であれ消滅せず記録される限り、言葉という記号を扱う文学の才能。Aが百日で到達した理解にBは千日かけるかもしれないが、少なくともかれらの違いは生得性と後天性との相互作用に関する能率。そしてこの種の能率についてのみ、我々は才能という観念を各個性の間に比較できる。
 芸術がすべて非学習的だという訳ではない。ただ合目的性についての学習能率があるだけ。よって、芸術の才能についても先例に対する関係という学習能率にのみ努力の、即ち創意工夫による適応能力の定義は当てはまる。

主知主義の理解

どの様な科学法則も究極として、建築部品の工学的基礎づけに使えるだけ。だから人間が自然の一部分であるかぎり、我々は真理を単に生活をより暮らし安くする道具と思う。

物理学

万有引力の法則から、
F=RmM/r2
また質量とエネルギーの等価性から
E=mc2
ここで、エネルギーとは力の言い換えなのでF=Eとすると、
RmM/r=mc
よって、
RmM=mc2r
RM=c2r
RM=(cr)2
Rは引力定数として一定なので消去すると
M=(cr)2
の式が導ける。Mは質量でrは物体間の距離、cは真空中の光速である。これを空間量の公式と呼ぶなら、我々はあらゆる物体の性質を仮に無視した、力の、従ってエネルギーの量をただ空間的距離によって論じられることになる。
 真空中の光速が不変なのでcを係数と考えると、距離の二乗に比例してあらゆる質量を定義できる。則ち、力というものは最小物質としての単子を越えて、ただ空間量として物理的に理解できる。ゆえに万有引力とはエネルギーの言い換えであって、同じく質量として理解される空間量の粗密度なのである。我々が化学的諸元素に性質の違いを見つけるのも、およそ空間量の粗密度に原因を求められるだろう。

2008年5月30日

人類の価値

進化の階梯の遥かさを省みれば、単に生きているというだけでも少なくとも猿類に比較した功績だとも考えられる。人類の後から来る生き物は我々をその様なものとして保護するだろう。人類の絶対数はその増殖率からしても極めて少ない、或いは各人種についてであれ。天敵が現れない限り、環境抵抗によって人類は我々から進化した次の生物に場を譲るので。

2008年5月28日

学殖の方法

学問が後天習性である限り、狼少女の例がある様に、学殖は単に環境の教育度によって羽含まれると言える。だから非教育的な環境からはどの様にしても学者が育つことはない。たとえば一冊も本がない場所からは先ず独力で微積分の定理を導くことはないと言ってよい。逆に日常に学者が街中で討論している場所では門前の小僧にも第二宇宙速度が計算できる。学校や図書館、博物館など学問に関連付けられる施設が少なくとも繁華街を避けて設けられるべき理由もここにある。もし学術研究都市の様な教育施設の隔離が存在し得なかったら、我々は俗間一般の低きに留まる学識をあらゆる世代に渡りあまねく引きずるしかなくなってしまうだろう。デューイが教育環境を社会に向けて開く説を唱えた背景には科学技術への場当たり的な期待があった。主知主義の伝統を汲む人々にとってはその様な批判がuniversityの高過ぎる敷居を下げるからだ。
 然るに理論とは無用の用であるがゆえに求道も為しうるのであり、学識の応用は元来は飽くまでも工場で行われるべきである。学問の秀才が工芸の天才とは異質であるなら、いずれ混同することあたわない。だから一般的な理論の低さが禍である国においては寧ろ、学問の権威を教育環境の隔離によって高める方が当面の課題である。