数学と呼ばれるものは、まなばれるべき天文学内規則としてのみ知性に益するのだから、その緻密な完成度こそが命題。そしてこれらの溢れる直観法則に必要な単純化へと同時に最大限の応用可能性を施すのは、理論知性の可塑的な働きに由るだろう。というのも我々は時間における知性を純粋直観の比例形式にしか見い出さない。つまりは主観の法則そのものとしての数学は自由な直観の伸びやかな構想物だから。
自体として必要とされる規則の単純さと推論構成の体系的な柔軟性が即ち望ましい数学の完成度であり、それは全くが純粋直観みずからのおのずと秩序立った使用規則を見つける絶えず自発的な論理内省の働きに帰しうる。だから数学は与えられるものではなく、つねにみずから発想するもの。なぜなら数学法則というものは飽くまでも主観の自己規律で、たとえば林檎が落ちる様に何らかの根拠を伴って自然界に原因が存在するのではない。よって、1+1=2であることは人為定義であり客観事実ではない。1+1=3とすれば、我々はその道具的可能性の意義に応じて自由に、新たな学ばれるべき体系を築き直せるのだから。解くために必要な規則を例示しない数学の試験ということは従って事実に反する。それは不完全な教育形態が陋習としてきたところの唯なる誤謬。単に推論に充分な思考力を試す為には普通に規則とされる前提、つまり定義と公理を明示しつつ命題の証明を問うという仕方しかありえない。既存の公式を暗記させるということは全く数学の本質に反する。それらの規則は誰か他人のいつしか築きあげた仮設のものであり、いつ利用価値を失って外されてしまうかもしれない梯子なので、単に必要なければ記憶しなければならない理由は全くないのだから。それはあらゆる古今の数学法則を暗記し尽くすには人生時間では到底不可能なことから立証しうる。我々は求むべき命題の証明のためにだけ、それらの方法にみずから定めた一種の直観形式を絶えず試すことができるばかりで、その形式系の必然性は自己言及的には証明不可能なのである。よって数学法則は直観説明的にしかありえない。にも関わらず直観が一方では感性を、一方では概念を通じて共有される限り数学法則は採用する形式についてだけは伝達可能。
数学法則を発見するのは宇宙の総てを創作した神を除けば、人間の規則正しい知性のみ。これは少なくとも地球上の生物についての観察に基づく理念批判ではあれ。かろうじて与えられた思考する自由すら創作者に任せるのはおこがましい限りだと思われなければならないだろう。規則発見の働きすらなければ我々は如何なる比例も理解できないことになり、その直観は空虚な想像を逞しくするしか能がなくなって役に立ちはしない。賢者は比較しか語らない。