民族にとってその個性が一様という事は、単なる人数の問題を除けば悪である。即ち、既存の種類の変異が少ないなら、それだけ新たな状況に対処できる可能性は低くなる。こうして自由という理念はほぼ全くが多様な個性を生かしておく為に要請されたもの。
にも関わらず、我々はそれらの総合性において国民なのである。そして栄枯盛衰の実例を歴史に鑑みて、社会における個性にはばらつきと同時に、最大多数の中流が適当な傾向水準を持たされるべきである。かく如く民族自体としては当面の事情に適応的でありながら、恒に上智と下愚とを移らず実に多彩な形質分岐として維持しておく事は最大可塑性という生態の目標に向かっての必然だと言える。実際、死刑廃止を唱える西洋諸国にとって、ソクラテスやジーザスへの衆愚的審判や或いは信仰の濫用としてのガリレオ裁判など、後世から看れば多少なりとも不当な判決をその時点の司法常識では免れなかったあしき実例を教訓として、既存の道徳律への改変を迫る様な未知の個性の出現へも、即断を迂回し少なくとも判断保留状態に置いて多数派の反省点を再検討するという対応は、極めて合理的な刑法の範囲だとされている。
然るに、日本人にはその生存環境の、大陸世界と比べた場合に言いえる均質さから、傾向としてあまり極端な個性の育まれる機会が訪れて来なかった。そしてその裁判を例えば戦国時代に於ける地方豪族の興亡の様な所謂自然淘汰に委せる事で、自浄作用としての優勝劣敗を働かせる方が総合的にはより大きな革新が得られるという民族独特の経験上から、死刑という不適応な個性の自炙りを特別避けない。言わば日本人は自分自身を絶えず死刑の危険性で律せざるを得ない切腹の掟によって、その社会の既存徳目をはみだす行いから抑圧させる。そして単に道徳性の保守という意味でこれはある程度に成功しているし、して来た。我々はどの相矛盾する徳目も捨てられないが故に自殺を選ぶハムレット型悲劇を、日本の演劇に典型の一つとして見出す。これは彼らの自主的な死刑が究極では義務の実行である、という民族特殊の慣習としてからに理解できるだろう。自らの信じる義理を証明する最も効果的な手段は自ら命を断つことである、という武士流儀の規律は民族が現代にあっても死刑を廃止していない最大の理由であり、又同時に彼らが抱えている多重債務の様な数々の新旧徳目から唯一、宜しく適切な理由を選択しえる個性を望むことこそ人間適応的でありえるというある種の事大主義、ある面では態とらしさの高騰を誘う台本。結局、道徳法廷に絶対的正義ということはあり得ないので、徳目同士を死刑という義務の究極証明への過程で様々に対決させることは短期的には野蛮な結果、誤審や犠牲を持ち来るかも知れないが、最終的には幾分の遠回り則ち司法善の試行錯誤の為にさえ最大限の道徳観念を啓発するには最善の方法であるのだろう。
しかし我々はこれだけは人倫がため言えると思われる。少なからず大衆という多数派は常に過ちを含むし、含まざるを得ないが故に自由ということを個性間に互いに異和もし暫し対決もする様な道徳の多機能的社会条件には、充分認めるべき。逆にもし我々が死刑という道徳法廷に於ける究極手段を意地のわるい抑圧の企みとして濫用するならば、結局は民族全員が絶滅に至るであろうことはその裁判が人間自身によるものであればこそ完璧はあり得ない限り、当然予想される結末ともなるだろう。かくて人間界にとっても種族へ最大限の生存を保障するのは生態の可塑性である。余地がない傾向について、その器官は既に進化の網目から零れた痕跡に過ぎない。心理に関しても同様に暗喩できる。過去の成長に適応的であった祖先の系統発生を個性が痕跡的傾向として繰り返すのも同じ理由に基づくものだろう。