知能の出来が相対でしか測れないかぎり、絶対聖者はあり得ない。故に修行をつづける先にしか聖の姿ない。それは到達点ではなく、つね賢明な姿勢である。
2006年4月30日
2006年4月29日
文明
文明しか人類の目的が見当たらないとすれば。絶滅した恐竜たちは何を思いどんな生活をしていたのか知れない。それは我々の後に来る生き物にとっても同様だし、ならば、我々の生涯が同じ一過性の原理に則っていないと主張できうるのは理想主義者だけであろう。
文明は我々のつくる人間的環境であり、それが他の生命にとっても有効であるという証拠が果たしてあるだろうか。もし無いなら、我々は利己主義を功利主義に引っ掛けて合理化しているだけではないのか。実際のところ、文明が脱人類的段階に飛躍するといった例があっただろうか。我々は絶えず考える葦として我々の環境を建設して来たし、凡そ人が生き物である限り、幸福の追求という方法を以て同じ様であるだろう。だから我々の文明が人間中心主義に基づくのは確かであり、それは我々の限界が肉体を有した思考である限り完全には逃れられない仮定であるだろう。
こうして過去に有名な西洋あるいは東洋哲学についてであれ、この思考の宿命から逃れられていないのだ。我々には脱人間的に思考できない。
文明思想の限界はここにある。尤も、文明の究極地点に於いては人間の相対観が根付くだろう。
文明は我々のつくる人間的環境であり、それが他の生命にとっても有効であるという証拠が果たしてあるだろうか。もし無いなら、我々は利己主義を功利主義に引っ掛けて合理化しているだけではないのか。実際のところ、文明が脱人類的段階に飛躍するといった例があっただろうか。我々は絶えず考える葦として我々の環境を建設して来たし、凡そ人が生き物である限り、幸福の追求という方法を以て同じ様であるだろう。だから我々の文明が人間中心主義に基づくのは確かであり、それは我々の限界が肉体を有した思考である限り完全には逃れられない仮定であるだろう。
こうして過去に有名な西洋あるいは東洋哲学についてであれ、この思考の宿命から逃れられていないのだ。我々には脱人間的に思考できない。
文明思想の限界はここにある。尤も、文明の究極地点に於いては人間の相対観が根付くだろう。
2006年4月28日
2006年4月22日
前衛
前衛芸術家として生きることは同時代による無視という大きな困難を伴うし、或いは自らの直観の他には未来の名誉を保証する具体的確証もない。芸術史に見いだせる連続した進展の論理を考慮すれば、多少なりとも客観的な視座は得られるが果たしてその理論があらゆる批判に耐え得るほどに厳格であるかどうかの証明はない。それでも才能は、豊かである程に、則ち、抑圧の昇華に向くほどに先進をこなす。彼らの孤独を知るのはただ、神だけである。
2006年4月21日
芸術論
あらゆる市場価値は同時代の消費者の需要寡多に依存する以上、個人の自由な判断力に依存する芸術的価値は、時代精神の如何によって価値尺度としての金銭的価値に還元されていく。故に、同時代に於ける芸術的評価を期待する者はこの時代精神をどれだけ掴む作品制作行為をしうるか、という一点に集中しなければならないだろう。
では、そのような時代精神とは一体何なのか。乃ち共通の社会基盤に基づく一般的世論である。人間が生活する社会の文明段階にとってどの程度適切か、という観点で作品に対する個人の思想は変容し、漸次的に評価される。これは物史観的にあらゆる時点において変質していく。
けれども、希少価値の問題はどうなるだろうか。欲しがる人が少ないのに極めて高価な金銭的価値を持つ芸術作品もありうるのではないか。それは以上の時代精神による芸術的価値決定の理論に関する例外と見なすべきものだろうか。然り、あらゆる作品に対する価値判断は根本的には個人の自由に依存するかぎり、単なる物好きな場合は勿論ある。そしてこの様な例外のありうる寛容な原理こそが、我々の芸術を常に発展させていく可能性の原因となっている。
換言、前衛を運よく評価したがる物好きがいるからこそ、我々の芸術には史的進展がみいだせる。でなければ前衛的芸術家は常に作品がまったく売れずに、生活費を得られることなく生存が確保されないに違いない。
よって我々は考えることができる。前衛的芸術家と呼ばれる者たちは時代精神を進取することで未来の評価のために現在のそれを多少あれ犠牲にする。後衛的芸術家は過去におもねることで成功の代わりに確実な評価を重視する。又、同時代の芸術家というものはすべて、その両者のどこかの間にふらついた実存なのだ。
前衛と後衛は相互依存的で、ある面では互恵的である。古典がなければ近代もなく、近代がなければ古典もないのだから。
では、そのような時代精神とは一体何なのか。乃ち共通の社会基盤に基づく一般的世論である。人間が生活する社会の文明段階にとってどの程度適切か、という観点で作品に対する個人の思想は変容し、漸次的に評価される。これは物史観的にあらゆる時点において変質していく。
けれども、希少価値の問題はどうなるだろうか。欲しがる人が少ないのに極めて高価な金銭的価値を持つ芸術作品もありうるのではないか。それは以上の時代精神による芸術的価値決定の理論に関する例外と見なすべきものだろうか。然り、あらゆる作品に対する価値判断は根本的には個人の自由に依存するかぎり、単なる物好きな場合は勿論ある。そしてこの様な例外のありうる寛容な原理こそが、我々の芸術を常に発展させていく可能性の原因となっている。
換言、前衛を運よく評価したがる物好きがいるからこそ、我々の芸術には史的進展がみいだせる。でなければ前衛的芸術家は常に作品がまったく売れずに、生活費を得られることなく生存が確保されないに違いない。
よって我々は考えることができる。前衛的芸術家と呼ばれる者たちは時代精神を進取することで未来の評価のために現在のそれを多少あれ犠牲にする。後衛的芸術家は過去におもねることで成功の代わりに確実な評価を重視する。又、同時代の芸術家というものはすべて、その両者のどこかの間にふらついた実存なのだ。
前衛と後衛は相互依存的で、ある面では互恵的である。古典がなければ近代もなく、近代がなければ古典もないのだから。
2006年4月18日
2006年4月15日
2006年4月9日
2006年4月8日
人材主義
労働者への人間阻害から個人を救済するには、人材主義という考え方を採用すべきだ。これは個人の現在の能力や短期的成果ではなく、人物の成長率を評価基準にするものである。日本社会に終身雇用が有効なのは、会社との間にそのような信頼関係が築かれて来たから。忠義という志を以て社員をまとめることができたからだ。教育において資本経済の闇雲な導入と残存する封建的道徳の枠組みによって生徒が抑圧される場合も同じく、人物主義という形で個人にとっての成長度を評価の基準に置くことでのみ、偏差値教育による人間阻害から生徒を救済できる。またそれらは当然社会全体の効率にも寄与する。
2006年4月6日
深海
君は無数の星明かりが照らす静かな湖畔に立っている。辺りに人影はない。獣の気配もない。自分は宇宙の自然と生まれたままで向き合ってある。
君は水のなかに入っていく。少しずつ少しずつ、まるで地球の命の退化をなぞらえるみたいに、穏やかに。水面下では星の瞬きが滲んで浮かんでいる。何匹もの魚たちが輝かしい鱗に覆われた身体をあちこちくねらせ、泳ぎ回っている。君は彼らの仲間になる。銀色の流線型になって、水のゆっくり流れるままに身を任せている。
やがて我々を包み込んでいる枠組みも壊れ散ってしまうだろう。分かってる。所詮、生き物たちは命ある星の欠片なのだから。いつか君は死ぬ。
見上げると月明かりが水面を白亜色に染めあげている。無数の波形が再生されては費やされ、消えていく。君の吐く息は薄い水色の球体となって遥か頭上にのぼっていく。君はずっと深い水の底へと潜っていく。美しい貝殻が話しかける。
「もし、そこのお魚さん。こんな遅くにどこまで行かれるのです」
私は深い場所へ潜っていきたいのだ。それが何処でも構わない。
「けれどそちらは向かったものの十人が十人、みな二度と帰らない闇雲の道ですよ。あっしは先祖代々数百年以上ここに居座ってるがよく見届けてたさ。お魚さん、悪いことは言わない。そっちへ泳ぐのはやめておきなさい。小さな貝殻からの忠告です」
私は死ににゆくのだ。生き返る為に泳ぐのではない。ただ、己の自由の欲するままに進むしかないのだ。
「おかわいそうに」
しはらく泳ぐと、辺りは何も見えなくなった。深海特有のツンと鼻をつく嫌な匂いがする。気圧が変わって耳障りな音がする。やがて地底が現れて来た。そこには見たこともない不気味な形で蠢く、尾ひれだけで出来たような真っ赤な魚や、あたかも容姿に気を使うのを一切諦めた様な海虫の類いがうようよしている。
君は何を求めてこんな遠くまで来たのだろう。植物は生きられず、酸素も殆ど届かない息苦しい地獄の沙汰を彷徨って、一体何を探しているんだ。やあ、やっと会えたね。僕だ。深海の底に棲まう者。君をずっと待っていたのさ。だってそうだろう。君は僕を見つける為にここまでえいこらやっとやって来た。私はあなたを探していたんだろうか。心の深海の底に沈んで、息の根を押し殺してじっと黙り込んでいた、本当の私を。そうさ。間違いないね。当たり前じゃないか。君は自由になりたいんだろう。君がいつかこの海の中心から去っていったときにもう、我らはきっと君は戻ってくるだろう、と悟っていたんだよ。だってそうじゃないか。どんなにうらぶれたいなかがつまらないとしても、果たして弱肉強食生存競争のない完全無欠の理想社会なんて一体、この宇宙のどこにあるってんだい。私はそれを探していた。それでも私は旅立った。そう。私は結局、長い、長い戦いの果てにまるで星々が退屈して待ちぼうけしているんじゃないか、と心配したくらいずっと長い時だった。生きるというのは競戯の繰り返しだとわかった。過ぎし日々振り返る度にかなしけり。何ぞ無量の睡蓮草花、君は星の地表を渉る爽やかな風の響きになってそんな華々が眩しく咲く、湖の面白き淵を滑って、隅なく眺めていく。いつかそこには違う君の形が現れて、きっと同じルートを辿って闇の奥底の者へ会いに行くのだ。と、もとの本には書いてあったそうだ。
君は水のなかに入っていく。少しずつ少しずつ、まるで地球の命の退化をなぞらえるみたいに、穏やかに。水面下では星の瞬きが滲んで浮かんでいる。何匹もの魚たちが輝かしい鱗に覆われた身体をあちこちくねらせ、泳ぎ回っている。君は彼らの仲間になる。銀色の流線型になって、水のゆっくり流れるままに身を任せている。
やがて我々を包み込んでいる枠組みも壊れ散ってしまうだろう。分かってる。所詮、生き物たちは命ある星の欠片なのだから。いつか君は死ぬ。
見上げると月明かりが水面を白亜色に染めあげている。無数の波形が再生されては費やされ、消えていく。君の吐く息は薄い水色の球体となって遥か頭上にのぼっていく。君はずっと深い水の底へと潜っていく。美しい貝殻が話しかける。
「もし、そこのお魚さん。こんな遅くにどこまで行かれるのです」
私は深い場所へ潜っていきたいのだ。それが何処でも構わない。
「けれどそちらは向かったものの十人が十人、みな二度と帰らない闇雲の道ですよ。あっしは先祖代々数百年以上ここに居座ってるがよく見届けてたさ。お魚さん、悪いことは言わない。そっちへ泳ぐのはやめておきなさい。小さな貝殻からの忠告です」
私は死ににゆくのだ。生き返る為に泳ぐのではない。ただ、己の自由の欲するままに進むしかないのだ。
「おかわいそうに」
しはらく泳ぐと、辺りは何も見えなくなった。深海特有のツンと鼻をつく嫌な匂いがする。気圧が変わって耳障りな音がする。やがて地底が現れて来た。そこには見たこともない不気味な形で蠢く、尾ひれだけで出来たような真っ赤な魚や、あたかも容姿に気を使うのを一切諦めた様な海虫の類いがうようよしている。
君は何を求めてこんな遠くまで来たのだろう。植物は生きられず、酸素も殆ど届かない息苦しい地獄の沙汰を彷徨って、一体何を探しているんだ。やあ、やっと会えたね。僕だ。深海の底に棲まう者。君をずっと待っていたのさ。だってそうだろう。君は僕を見つける為にここまでえいこらやっとやって来た。私はあなたを探していたんだろうか。心の深海の底に沈んで、息の根を押し殺してじっと黙り込んでいた、本当の私を。そうさ。間違いないね。当たり前じゃないか。君は自由になりたいんだろう。君がいつかこの海の中心から去っていったときにもう、我らはきっと君は戻ってくるだろう、と悟っていたんだよ。だってそうじゃないか。どんなにうらぶれたいなかがつまらないとしても、果たして弱肉強食生存競争のない完全無欠の理想社会なんて一体、この宇宙のどこにあるってんだい。私はそれを探していた。それでも私は旅立った。そう。私は結局、長い、長い戦いの果てにまるで星々が退屈して待ちぼうけしているんじゃないか、と心配したくらいずっと長い時だった。生きるというのは競戯の繰り返しだとわかった。過ぎし日々振り返る度にかなしけり。何ぞ無量の睡蓮草花、君は星の地表を渉る爽やかな風の響きになってそんな華々が眩しく咲く、湖の面白き淵を滑って、隅なく眺めていく。いつかそこには違う君の形が現れて、きっと同じルートを辿って闇の奥底の者へ会いに行くのだ。と、もとの本には書いてあったそうだ。
2006年4月4日
私学
理想は文明の独立した主眼である。官僚が全体主義に、経営者が企業活動にこれを利用しようとするのは過ちだ。国家堕落の危険がここにある。なぜならば官・民・学の癒着は文明福利を少数の超人による独占と大衆の無力に帰す。私学教育機関が固有に帯びた使命とは、あらゆる外部圧力を毅然とはねつけ、独立を貫く不党不偏の覚悟にある。もしこれを果たせぬならば寧ろ自滅して可である。
Americaの必要な慈悲
Americaの有した自由への限りない憧憬は人類共通の希望である。しかし、America型民主資本社会が内在させた自己中心主義は中華意識にも繋がる傲慢を含んでしまったのは確かだ。それは彼らの侵略征服した広大な土地が潜在させた豊富な資源と相まって、他国軽視の風潮にまで堕している。更に、ユダヤ系へのEurope的背景を打破すべく企画された学歴社会は、階層の固着による高級官僚のegoismを引き出している。
この様なAmericanityは地球共生が求められるglobal worldにとっては圧倒的に不利に働くだろう。それはEnglishが公用語として全世界に共用されるのに比べ、母体と他国との情報伝達速度に格差を生じさせられないという現実によって、ますますAmericaが第三世界の情報植民地にされる時代の到来を予告している。
Americaはpragmatismが孕む利己中心思想を革命しない限り、無限の繁栄という理想への扉を閉ざされるだろう。独立自由を希望する勇士たちが先祖の持ち得た思想を再点検し直し、国民の内部から新たな利他的普遍主義を育まないかぎり。望むべくはアメリカ人が、自己犠牲を至上の有用性とする仏教的喜捨の精神を学ぶ事を。
この様なAmericanityは地球共生が求められるglobal worldにとっては圧倒的に不利に働くだろう。それはEnglishが公用語として全世界に共用されるのに比べ、母体と他国との情報伝達速度に格差を生じさせられないという現実によって、ますますAmericaが第三世界の情報植民地にされる時代の到来を予告している。
Americaはpragmatismが孕む利己中心思想を革命しない限り、無限の繁栄という理想への扉を閉ざされるだろう。独立自由を希望する勇士たちが先祖の持ち得た思想を再点検し直し、国民の内部から新たな利他的普遍主義を育まないかぎり。望むべくはアメリカ人が、自己犠牲を至上の有用性とする仏教的喜捨の精神を学ぶ事を。
独立忠義の志
『文明』が社会運用の目的である限り、左右両翼の善用は無論だろう。
即ち中道主義を基本とし、左右の羽ばたきを文明発展に利用する気概こそ地球文民たる資格である。
国際情勢の乱気流を考慮すれば時にはどちらかの羽を停止し、どちらかの羽のみで飛ぶ場合も出てくるかもしれぬ。
だが究極の目的地へ至るまで勇ましく飛び続けられなければ、それは我々の真の国家ではない。
故に、文士の心根はその属する時代に対して、絶対無制約に虚心中立でなければならぬ。
即ち中道主義を基本とし、左右の羽ばたきを文明発展に利用する気概こそ地球文民たる資格である。
国際情勢の乱気流を考慮すれば時にはどちらかの羽を停止し、どちらかの羽のみで飛ぶ場合も出てくるかもしれぬ。
だが究極の目的地へ至るまで勇ましく飛び続けられなければ、それは我々の真の国家ではない。
故に、文士の心根はその属する時代に対して、絶対無制約に虚心中立でなければならぬ。
大学改革案
1. 研究計画書審査を年二回分散
2. 研究計画書の提出を電子書類化
3. 新任教員へのstart up費用投資を大学・部局が提供
4. 着任後5~6年で昇進審査をする
5. 学閥を避け、外国人研究者へ昇進審査を依頼
6. 夏休みを除く10ヶ月分の給与を基本とし、残り二ヶ月分を研究費の一部もしくは外部資金で自由に補充できるsystemへ
7. 修士博士の何れかにproposalを書くcurriclumを設ける
8. Proposal評価の審議会は1人につき最低2時間以上をかけ、絶えず異なる教員および他研究室助手などが関わる
9. Englishでの口頭発表および論文作成を研究者資格適性勉強として学生主体で行う
10. 研究費からの大学院生への経済的supportは公的当然という認識を学則で教員全員に知らしめる
10. 国費から大学院生への経済的supportを助成する科学研究費全般を増額する
11. 修士博士一貫教育を4年とし、修士courseと博士courseを分別、博士course選択者には3年間の経済的supportを担当教員に義務づける
12. 修士一年目で意欲ある学生へ博士courseへの変更、意欲なき学生へは修士courseへの変更を可能にする
2. 研究計画書の提出を電子書類化
3. 新任教員へのstart up費用投資を大学・部局が提供
4. 着任後5~6年で昇進審査をする
5. 学閥を避け、外国人研究者へ昇進審査を依頼
6. 夏休みを除く10ヶ月分の給与を基本とし、残り二ヶ月分を研究費の一部もしくは外部資金で自由に補充できるsystemへ
7. 修士博士の何れかにproposalを書くcurriclumを設ける
8. Proposal評価の審議会は1人につき最低2時間以上をかけ、絶えず異なる教員および他研究室助手などが関わる
9. Englishでの口頭発表および論文作成を研究者資格適性勉強として学生主体で行う
10. 研究費からの大学院生への経済的supportは公的当然という認識を学則で教員全員に知らしめる
10. 国費から大学院生への経済的supportを助成する科学研究費全般を増額する
11. 修士博士一貫教育を4年とし、修士courseと博士courseを分別、博士course選択者には3年間の経済的supportを担当教員に義務づける
12. 修士一年目で意欲ある学生へ博士courseへの変更、意欲なき学生へは修士courseへの変更を可能にする
教育の理想
愚者と知者がいるのは社会の常だが、両者を引き合わせるものは教育である。馬鹿を減らし、聖者を増やす事がその大義だ。単に浮浪を囲い込むだけでなく組織内部代謝の促進も図られねばならない。縁起した組織間の自由競戯を肯定し、相互向上の福利を目指すべき。最先端の実用教材を用いて社会を導くcommunity schoolという理念を含め、更に母体である市民産業社会の構成員が普く、個人の向学啓発を義務として認識できる世界でなければならない。教育の理想は絶えざる自己改革による文明活力の増進。そしてまた、あらゆる文明の究極の源はここにのみ見いだせるだろう。
同じ川に二度入ることはできない
青春には経験不足により、未来への期待から何でもかんでもできると信じがちだが、初々しい美徳という以外にならばそれはかなりの度合いで誤っている。なぜなら個人生活は盛衰と交代という理由から飽くまで限られているから。
音楽論
基底音と原音のみの採用。つまり音階の抽象。効果はかけないこと。無音状態を置かないこと。これらを守れば大小や長短に、多彩に組み合わせられる音楽ができる。それは未来文明の輝きを現し建設音の模範になる。
2006年4月3日
民度論
日本に於いて今日程度の民度の際に、自民族中心主義を文明への国力増強剤として善用しないべきだろうか。例えば日本民族意識の再確認として倭奴国やサムライの語を善用して懐古の情を募り、協和超米の国民的sloganを第二次高度経済成長への目標として流行らせる。が、大衆扇動の薬害としての異民族差別興隆が国際的社会問題になるのは避けられない。それは日本が単一民族性の高い社会として背負う危険、人種差別による外人蔑視への布石にすらなり兼ねない。現代日本民度をおもいやれば、最高徳たる普遍主義は最低級の大衆にはとても身につけ難い。衆愚を啓蒙する最良の方法は可能なかぎり善導を目指した洗脳である。Philosophyの古来伝統なき日本の人々に批判精神を根付かせるには世界宗教的浄化によるしかないだろう。逆説的に集団主義の個別化の役にも立つので、それは結果として日本民主社会の民度を高めるだろう。だから文士はその国際的な趣味を追求することで民族の殿堂となり、国風間の信実の伝達役となって国民のあいだに普く群衆化の馴れ合いを疎む独立気性を染み渡らせるべきだ。それは文民の批判力、即ち哲学的懐疑の精神を個人と社会に漲らせるだろう。
宗教論
Fascismの善用はその大衆善導の手法としての宗教にあった。そして哲学はその批判精神によって、最も創造的適応に近い宗教であるともいえるかもしれない。哲学が哲学自身を批判する事はできうるか。それは常なるrecreationの中に、方法的懐疑のあそびの中にある。
人間と神の民
日本は完全な単一民族国家では無いし、例え己がどんな民族出自であったとしても文化相互理解と異民族との親和の努力に志すべきだろう。そもそも民族というのは仮のもの。自然の道はそれを次第に混ぜ合わせていく方向にあり、それに逆らうより親しみ、楽しむべき。日本人は、紛れなく人間でしかない。神民という思い込みが果たして何を言い当てているか難しく、ただ、彼らが他のどんな人たちとも変わらない人間であるのは確かで明らか。
物理学
最初の一撃の理由が分かれば、我々の理由を知ったに同然。即ち斥力が引力に勝った瞬間のかけひきを科学的に理解証明すればよい。では如何にして? これは単に始点からの確率論的対称性解の問題なので、その遅速は無視して数学的論証は可能だろう。この解を今「原初」と呼ぼう。
人間原理以外の方法で我々が属する宇宙モデルの正解を見つけることを想え。
具体的帰納法も利用すべきだ。つまり詳細に言えば、素粒子以外の最小単位や宇宙の地平線状態らをよく観察するよう努める。及び、超光速加速度装置の技術的追求や反あるいは新物質もしくはそれらの化学的運動制作の方法開発を理論へ還元する。
けれど、人間原理は単に原初からの展開を理由づける手段で、それ以外の形而上学的方法は人間精神の思考を意味しない。つまり論証結果は実証結果と必然的に一致する。だから我々が人間原理をモデル選別に先立って採用するのは科学の発展にとって合理的。なぜなら我々は超人間精神的思考を未だ知らないから。未来には知る。
量子論が単に非対称への確率論でないのは相対論の一般的枠組みが示す。即ち相互関係のmicroからmacroへ至る次第な必然化が宇宙の統一性。これを自然原理と呼んでもよい。
我々の在る宇宙はこうなっているわけだと仮定する。故に人間原理を抜きにして新たにより正確なモデルを追究していけよう。なぜならその人間的宇宙以外にもより我々を育んだのに適正な宇宙があるかも知れないから。つまり、他の宇宙との関係を探り、比較対照しながら実際の現実を理想していけ。
我々が真理を求めるのは自然原理が新皮質密度を高めた生命体を養成しているからだが、生物としては我々自身がよりよい生活をできる場所を見つけるため、社会的個人としては価値あるrecreationの仕方であり、それは人間の進化の王道、知性化に適う。知性が高められていくことは原初というEnergieの理に適う、だから我々が考えることは飽くまで神的なのである。
人間原理以外の方法で我々が属する宇宙モデルの正解を見つけることを想え。
具体的帰納法も利用すべきだ。つまり詳細に言えば、素粒子以外の最小単位や宇宙の地平線状態らをよく観察するよう努める。及び、超光速加速度装置の技術的追求や反あるいは新物質もしくはそれらの化学的運動制作の方法開発を理論へ還元する。
けれど、人間原理は単に原初からの展開を理由づける手段で、それ以外の形而上学的方法は人間精神の思考を意味しない。つまり論証結果は実証結果と必然的に一致する。だから我々が人間原理をモデル選別に先立って採用するのは科学の発展にとって合理的。なぜなら我々は超人間精神的思考を未だ知らないから。未来には知る。
量子論が単に非対称への確率論でないのは相対論の一般的枠組みが示す。即ち相互関係のmicroからmacroへ至る次第な必然化が宇宙の統一性。これを自然原理と呼んでもよい。
我々の在る宇宙はこうなっているわけだと仮定する。故に人間原理を抜きにして新たにより正確なモデルを追究していけよう。なぜならその人間的宇宙以外にもより我々を育んだのに適正な宇宙があるかも知れないから。つまり、他の宇宙との関係を探り、比較対照しながら実際の現実を理想していけ。
我々が真理を求めるのは自然原理が新皮質密度を高めた生命体を養成しているからだが、生物としては我々自身がよりよい生活をできる場所を見つけるため、社会的個人としては価値あるrecreationの仕方であり、それは人間の進化の王道、知性化に適う。知性が高められていくことは原初というEnergieの理に適う、だから我々が考えることは飽くまで神的なのである。
自然学
なぜ時間は始まったのか。その手順が理解され得たとしても、なぜ宇宙は創生されたのか。Energieのせいにすれば説明は容易だが、その神或いはエネルギーがどうして宇宙を創造したか、考えなければならない。対称の乱れを初めて動かしたものは何か。自然の始まり。Newtonが初めの一撃と呼んだ力の正体。
量子力学的確率論に完全に帰しえる問題か。もしくは新たな概念の想定が必要か。即ち万有斥力。どうしてそれが生まれたか。なぜどの様に引力に勝ったか。宇宙の未来を予見する手順。Entropy増大則はmacro scaleで永遠真理か。
なぜEnergieは保存されるか、その内実が空間的非対称のやりとりであるからして。ならば、時間とは空間的非対称のやりとりの側面。つまり、entropy増大則とはmicro scaleでは時空間の方向。
それはhuman scaleでもやはり同じ。だから、人間原理的宇宙を我々が選択するならば仮説としてmacro scaleでも同じくentropy増大は不変。換言、微妙な膨張を永久につづけるアインシュタイン的定常宇宙modelが最適な知的生命にとっての器。しかし、人間原理導入が果たして真に科学的か? 帰納的実証に値しない自然科学理論は常に仮説であり、人間理性の考察材料としての数学解に留まる。我々は神秘追求の漸定的手法としてのみ、それを課題解法へ利用しなければならない。
そもそも人間原理とは何か、それは我思う故に宇宙ありの仮定である。
限りなく漸進的膨張をつづける時空間は、おおよそ定常宇宙としてよいだろう。それは予想不可能性、不確定要素を内在させながら乱雑多様になっていく。天の川銀河も無論その一部であり、精神的人間も又。
だから少なくともこの宇宙は我々を遥か超越的に知的な生命体も無論居りえる。彼らとの接触は避けられず、恐らくは相利共生か或いは我々の想像を超える仕方での交際へ臨む。生命体は宇宙の動態の一種であり、無機体より複雑化した時空間形式。精神でさえも。
∴人間原理が絶対化されるのは非理論的。それは追々破棄さるべき仮定つまり論証用憲法として、宇宙modelを選択する際のみ利用される方便。人間精神の思考能力の限界としての正解を求める生存本能に帰す科学律的信念でしかない。あらゆる宗教は文化思想史という社会学の分野に含まれて然り、それが宇宙の自然法則が指導する多彩化へ逆らえない証拠となるだろう。
量子力学的確率論に完全に帰しえる問題か。もしくは新たな概念の想定が必要か。即ち万有斥力。どうしてそれが生まれたか。なぜどの様に引力に勝ったか。宇宙の未来を予見する手順。Entropy増大則はmacro scaleで永遠真理か。
なぜEnergieは保存されるか、その内実が空間的非対称のやりとりであるからして。ならば、時間とは空間的非対称のやりとりの側面。つまり、entropy増大則とはmicro scaleでは時空間の方向。
それはhuman scaleでもやはり同じ。だから、人間原理的宇宙を我々が選択するならば仮説としてmacro scaleでも同じくentropy増大は不変。換言、微妙な膨張を永久につづけるアインシュタイン的定常宇宙modelが最適な知的生命にとっての器。しかし、人間原理導入が果たして真に科学的か? 帰納的実証に値しない自然科学理論は常に仮説であり、人間理性の考察材料としての数学解に留まる。我々は神秘追求の漸定的手法としてのみ、それを課題解法へ利用しなければならない。
そもそも人間原理とは何か、それは我思う故に宇宙ありの仮定である。
限りなく漸進的膨張をつづける時空間は、おおよそ定常宇宙としてよいだろう。それは予想不可能性、不確定要素を内在させながら乱雑多様になっていく。天の川銀河も無論その一部であり、精神的人間も又。
だから少なくともこの宇宙は我々を遥か超越的に知的な生命体も無論居りえる。彼らとの接触は避けられず、恐らくは相利共生か或いは我々の想像を超える仕方での交際へ臨む。生命体は宇宙の動態の一種であり、無機体より複雑化した時空間形式。精神でさえも。
∴人間原理が絶対化されるのは非理論的。それは追々破棄さるべき仮定つまり論証用憲法として、宇宙modelを選択する際のみ利用される方便。人間精神の思考能力の限界としての正解を求める生存本能に帰す科学律的信念でしかない。あらゆる宗教は文化思想史という社会学の分野に含まれて然り、それが宇宙の自然法則が指導する多彩化へ逆らえない証拠となるだろう。
2006年4月1日
親米論
ユダヤ民族と相利共生する方法は日本の国籍を非血統主義へと改善する事。及び、自由競戯市場の解放性を高める事だ。単一民族国家である日本がアメリカを仮想敵国視して乗り越える際に最も重要なのはユダヤ民族を優勢して擁護する事だ。Nationalismを文明と等価視するのは一時、日本の急速な近代化の方便としては適当であったかも知れないが、行き着くところは国家の孤立破滅でしかないだろう。そもそも人種や民族および国家すなわち文化の分別は全て、普遍文明へ至る為の手法でしかない。文化は方法であり、文明は目的。つまりnationalityの指導の仕方もこの原則に則らなければならない。
多民族雑人種国家であるAmericaを真に敵に回すのは神民思想にとって最も危険な誤謬だろう。それが資源小国の日本人をユダヤ人の二の舞の国際的孤独に追い込むのは避けられまい。そして人類の大道から考えても、そんな偏狭が正道だとはとても言えない。人種が混合し、文化が雑駁になっていくのはentropy増大則から演繹しても逆らえる訳なく自然だし、生物学的に帰納してもDNA掛け合いのpatternを増やし得る限りにおいて地球の生態系自体にとって理に適う。故に純血主義を取る国際人は必ずや圧倒的少数だろうし、それはますます希少化する。
ならば日本人および日本が舵取るべき筋はAmericaを倒すのではなく、互恵しながらの超越である。つまり切磋琢磨が望まれるべき日米関係。協和超米の語意にはfriendlyなrival心が含まれる。
多民族雑人種国家であるAmericaを真に敵に回すのは神民思想にとって最も危険な誤謬だろう。それが資源小国の日本人をユダヤ人の二の舞の国際的孤独に追い込むのは避けられまい。そして人類の大道から考えても、そんな偏狭が正道だとはとても言えない。人種が混合し、文化が雑駁になっていくのはentropy増大則から演繹しても逆らえる訳なく自然だし、生物学的に帰納してもDNA掛け合いのpatternを増やし得る限りにおいて地球の生態系自体にとって理に適う。故に純血主義を取る国際人は必ずや圧倒的少数だろうし、それはますます希少化する。
ならば日本人および日本が舵取るべき筋はAmericaを倒すのではなく、互恵しながらの超越である。つまり切磋琢磨が望まれるべき日米関係。協和超米の語意にはfriendlyなrival心が含まれる。