2006年4月3日

民度論

日本に於いて今日程度の民度の際に、自民族中心主義を文明への国力増強剤として善用しないべきだろうか。例えば日本民族意識の再確認として倭奴国やサムライの語を善用して懐古の情を募り、協和超米の国民的sloganを第二次高度経済成長への目標として流行らせる。が、大衆扇動の薬害としての異民族差別興隆が国際的社会問題になるのは避けられない。それは日本が単一民族性の高い社会として背負う危険、人種差別による外人蔑視への布石にすらなり兼ねない。現代日本民度をおもいやれば、最高徳たる普遍主義は最低級の大衆にはとても身につけ難い。衆愚を啓蒙する最良の方法は可能なかぎり善導を目指した洗脳である。Philosophyの古来伝統なき日本の人々に批判精神を根付かせるには世界宗教的浄化によるしかないだろう。逆説的に集団主義の個別化の役にも立つので、それは結果として日本民主社会の民度を高めるだろう。だから文士はその国際的な趣味を追求することで民族の殿堂となり、国風間の信実の伝達役となって国民のあいだに普く群衆化の馴れ合いを疎む独立気性を染み渡らせるべきだ。それは文民の批判力、即ち哲学的懐疑の精神を個人と社会に漲らせるだろう。