2022年1月31日

どんな親友が望ましいか

ゲンロン一派ってのがいる。私はこの人達、なんか全然好きになれないから絶対ちかづかないつもりではいるが、同時代にほぼ隣というか東京圏にいるひとらなのでツイッターなどで観察はしている。観察ってより監視かもしれない。
 なにせ原発マージャンとかいいながらいわきまで出入りしてた時期もあったひとらで、僕の高校の同級生らしい開沼博氏に地元人の気持ち考えてるの? みたいにいわれるまで福島原発を闇旅行の観光地化しようとしていた一派なので。というかいわき圏でゲンロン派だったころのカオスラ一味が展覧会やってもいたので。まぁまぁみてたわけである。僕の住んでる北茨城は、いわき~東京間のとおりみちなのである。

 で、最近。ご存知のとおり。知らないか。しっててもどっちでもいいですが、 某カオスラ大炎上案件とかゲンロン界隈にはあり。ま、正確にいうとゲンロン界隈ってか東浩紀氏界隈というべきなのかもしれないのだが、なにせ黒瀬陽平氏というひとが起こした某事件で、カオスラというアートグループがきえた。それを消したのが、みてたかぎり、東浩紀氏だったのである。再起すら妨害している感じで。
 こんなの美術史ではみたことがない。まじで。初の案件なのは確かである。
 なんでそんなのが起きたの? というレベルですさまじい事件であり、現在進行形なので無論興味深くはあるものの、どっちかといえばいまのところ負の訴訟合戦スパイラルっぽくなっており、そこもそこでめずらしい。美術家らでそういうのあんまりいないというか見たことがない。美術史上、訴訟合戦といってもあったのは著作権と公平利用のあいだで、一部のポップアーティストらがやってたやつくらいしかみた事ない。しかもそれって必然に生じてるもので、要は流用はどこからどこまで二次創作として権利が認められるの? という複製品に関する議論で、まじめなものだった。つまりは平和な業界だったのである。いまにしておもうと。
 そんな業界をおもいっきりぶちこわしにきて、現にぶっこわしているのがゲンロン一派という異常事態なのである。それはもう日本美術史上しょうがないことなのではないか。訴訟連打してくるから、つまりはスラップされたら一撃でしぬような資力しか大抵のアーティスト・批評家らにない以上、自己について判断力のあるだれも触れられなくなっているだけで、どうせ後世から冷厳に評されるだろうことは認めるべきではないか。

 ちなみにもうこのブログから消してるけど、わたしは、わだすは、つだだいすけと申すおかたについてぇ、一言書いてたんですね、最初。それはただのいちアーティストだからだ。僕が。アイトリ2019のコンセプトが出た時点でだ。
 あのコンセプトはまぁまぁやばかった。それは美術業界をひとくくりに喧嘩うっており、僕はその業界に属してそうで直接属してはないので、どこでも個展とかやったことないし、孤立した作家なので、直接ダメージはないものの、おそらくこれは攻撃されたもしくはそうと感じた側がきれんのかもだろうなぁと予想された。なんでかというと。僕はその業界の内部はかなりの深度と洞察力で、かなりずーっとみてきている。その実態からして、ま、くまなく見れてるわけではないが、大体において津田さんは勘違いしてるふしがあった。美術業界って別に女性蔑視とかしてねぇとおもう。むしろ女性がひいきされてるくらいのもんではないかとおもう。なんでかというと。多数派が女性だからだ。美大とか。僕の姉もだし。そういう場って、一般には女性に奉仕する様なかたちになってるんであって、だってほとんど女性なんですよ? ミューズの神殿じゃねぇが、男性なんて別に威張ってなかったゾ、とおもったのだ。それどころか僕のしりあいの男性の美術家らって、ちょっとひとりの例外もなく優しい感じの男性らで。いわゆる女性ポイ性差なのである。まじで。喧嘩うってくるやつなんていもしねぇ。そのあたりとかをちょこっと書いてみたのである。そしたっけね。津田さんがエゴサ好きらしく、ツイッターにリンク自動で流れていった分のわがブログ記事(もう消してある、かな?)を読んだらしく、絡んできたのね僕に。
 これでもうなんかしばらく絡まれて、というか僕から絡んでいってないからそういっていいとおもうんだけれども。かなり津田氏側の認識が僕にもわかった。
 それで僕はおもったのだ。これは炎上するかは当時まだわからんかったが、コンセプト自体がやばいと。そのやばさは起爆力がやばいのだった。

 したっけね。実際起爆してしまいましたとさ。ね。

 すごかったね。燃え方が。僕のせいじゃないよ。僕は止めていたの。つださんに。軽くね。かるくだよ、津田氏の自由だから。コンセプト企画も。 芸術監督さんとして。でもやべぇだろうなと予想していた感じに、やっぱり結構ちかくなっていったのだった。
 なにしろ通るわけもない理屈を押し通す感じになっていたのだ。尤もそれを津田氏につたえることは著しく困難そうだったし、すでに展覧会は迫っていたのでコンセプト発表後、その修正なんざきっとできなかったのであろう。けど問題を認知した時点で過失を避けるべくできることはあったはずなのだが、津田氏はその様な行動はせず、いわば誤った目的の戦争中にそれを止める行動をせず、自分のつくった機構がもううごいちゃってるからごり押しで行こうとしてやっぱり愛知県界隈の関係者ごとズタボロに叩かれまくる結果になったのだった。僕は叩いてないけどね。そうなる事が見えてる感じだっただけで。

 色々やばさはあるがそれに一個ずつ触れるとまたも津田さん界隈で今起きている訴訟合戦火に油そそぐ形になりかねんので、後世になってから発表しないといけない、のかもしれない。いまの時点で下手にそこに批評くわえていくと、普通につだっちのお師匠が訴訟合戦に遭ったみたいになっていくであろうからね。あれもすごい案件だ。僕はそれもかなりよく観察していた。多分、詳細しってる人は、というか津田さんのお師匠さんが津田氏に提訴されて民事だろうしどこまで過程が公開されるかはしらんけど、それも、ひとつあいとり史の顛末に残ることはのこるのではないか。

 大体このあたりの泥沼試合。とんでもない状態なのである。さっきも書いたよう、われわれの世界はいまにしておもうと平和だったのだ。美術業界って多分。しかしそこに女性主義をおもいっきりもちこんで、社会科学的な反証主義のまなざしからはほとんど偏見であろうと、女性教授の少なさ(日本人女性一般が教授になりたがらないのは美大にかぎらない)とか、性的嫌がらせ系確証バイアス(他業界にも存在するので特異な現象といえない)とかをあつめ、例外の余地やひとりも逃げ場なくアーティスツ・アート関係者どもまず全員ぶった斬ろうとするつだっちの蛮勇はすさまじいものであったが、それだけに反動もすさまじいものがあった。雑なコンセプトで現代アートねじれ宇宙決戦百戦錬磨の連中たたききれんの? 村上隆とクーンズ級でもグザヴィエ・ヴェイヤンの前座あつかいされるだけで大して勝てねー戦いが国際美術展なのにとおもっていた自分を除く国内美術業界人一般は、相当まちがってなければ、それなりに反発を感じたひとがいたのではないのか。だってさ、たしかに僕が見てきても彼らって女性だのなんだのに優しいんだな、一般には、みたことねーが特殊なひとのぞいてそうじゃないっすか。というかその種の特殊な人を、僕はまじでまだみたことがない。正確にいうと美術関係者って誰に対してもやさしくねーっすか? なんかあっても某画伯がヌードモデルを生徒に断られた? らしくて、それが僕の親友(小野さん)の(当時)彼女だったらしく小野氏ぶちぎれだった案件くらいしかきいたことがない。それも僕は直接みてない。もう僕はそのころ都内にもドバタ(すいどーばた美術学院)にもいなかったんで、全く別世界。ま、自分はそっちに深入りしてないからね。日本の美術アカデミズム界。よくしらんけど内部ではいろいろあるのかもしれないから断定的にはなんともいえないのであるが、なにしろ芸大位階制、本気で腐ってるなーとおもって僕は1年でさっさと外にでたので。18の時。
 かかわらなくて正解だったといえるのではないか。美大藝大。
 津田氏がジェダイなのか、美術業界がジェダイなのか。そこは私には判断つかぬ。しかし。津田氏が仮想敵ことごとくぶったぎる為には、女性主義の肯定行動一本槍、もしくは裏技でも、東浩紀の後ろ盾で天皇踏み絵の飛び技くらいでは基本準備不足だったらしかった。あまりに国内美術業界と右翼を同時に敵に回しまくった結果、周りをつぎつぎ敵に囲まれていき、ついには大炎上したのはみた。あれはおそろしい。
 しかも津田氏がむかしひと悶着おこしたお師匠や、同士のような黒瀬陽平氏もアイトリ2019を凡庸な展覧会あつかい――僕は直接展覧会みてないからなんともいえないが、だって君子危うきに近寄らず、ではないか。だが炎上コンセプト以外では、普通に展覧会がつつがなく終わっていたはずで。黒瀬氏がそこでいうのは生でみたら正論だったのかもしれないのだが――はたまた、つだしと友人だったろうモギケンまでオリジナル喜劇動画で正論ごんたとかいう謎キャラによりあいとり2019表現の不自由系展示かを「悪趣味」と論評、後ろから切りつけてくるみたいなふるまいをしていた。さらに追いつめられる津田氏は盟友だったろう東氏からも向こうから別れを切り出される様な状態になっていったのだった。
 けどね、これは嘘抜きで、なぜか僕に喧嘩売るみたいなことした人が自動でそうなる様な場面って、本気で結構ある。神の御加護か? 偶然というにしたって、あまりに急じゃなかろうか。
 しかも場外乱闘で黒瀬氏vs安西彩乃氏、東・上田洋子氏らゲンロン派vs黒瀬氏らカオスラ派、東氏vs彦坂尚喜氏、などなど連鎖的訴訟合戦にその界隈は入っていっていたのだった。去年。さすがにそこまで行く前に、雰囲気みて、普通に考えて君子どころか常識人が危うきに近寄れない案件でしょそりゃあ。美術界でみたことないレベルに業界内外まきこみ戦になっておるではないか。

 この一連の動きをこわごわみていたんだが、はっきりいってまじで恐ろしい展開である。そして僕はその序盤に、そこまでいくまではわからんかったが、結構やばさだけは感じとっていたのだった。
 やっぱ、自分は直感が鋭いんで感じる時は感じるもんだ。津田さんにツイッターで展覧会きてね! っていわれたけど、ある種の勇気でちゃんと理由述べて断ったもん。僕。無理じゃん。こわくて。ま、どんな展覧会でも自分まず行きませんけどね。面倒くさいから。かなり目が肥えてしまっているせいなのかしらんけど。昔は行ってたんだけど。
 だから序盤で津田氏がエゴサでからんできたとき、冷静にあいとりコンセプト最大の社会学的問題点とおもわれた「肯定行動は必ずしも性差自由と一致するとはかぎらない」論をしていた僕をつだしが向こうからブロックしてくれたのは、かなり結果としてはよかったのではないか。自分は、神に守られた。無神論者からしたらありえないが、たまにそういう事が起きる気がするものの、多分あるとしても信仰という偏見だろうけど。

 まーとにかくだ。ゲンロン一派はこの後、モギケンを編入する方針にしたらしい。モギケンとはご存知茂木健一郎氏。なんかモギケンカフェとかいう対談シリーズを始めて、シラスとかいう新しい動画プラットフォームにチャンネル開設を直近あおってるぽかった。数日前くらい。このシラスなる有料課金サイトみたいなのも、上記の事態がすすんでいく中で発表されてある種いわくつきといおうか、できた最初、東浩紀がこんなこといってたのだ。
「ガースーとかどうでもいい。シラスなら炎上しませんよ、スガさんおいでなさい」
とかって。ツイート掘れば正確な文言でてくるとおもうけど。
 当時あづまというひとは自分は右派になったとかいいだしており、そんな感じであいとりアドバイザーも途中で降りちゃったり、当人物、まえから立場はわりところころかわるんではあるが、今度は自由派から右派になりました~的な言説をし、黒瀬深とかいうだいぶいかれてる極右アカウントみたいなのに挨拶したり。色々歯車が狂いだしている感じであった。その後深氏(黒瀬氏だと陽平氏とかぶるので)は、さきの新潟県知事だった米山隆一氏に喧嘩うって訴訟され、個人情報とられたらしく焦って逃げたみたいな呆気ない幕ぎれ感、大負け戦なのであった。大阪かなんかの青年だったらしいすね? よくわかんないけど。興味ないので追ってない。ちなみにいろいろ口先だけでプロフィールについて嘘つきまくって安倍ナチ政権を礼賛しまくってきたやつだったのであるが、モギケンも当時、深氏にいつもご活躍は拝見してますとか挨拶ツイートしだしてプチ炎上してた。シールズに絡んだ時もあったけど、今度は極右アカウントにそうする。過去のもぎしの言動から推測するに安直な行動だろうしにぇ、きっと。
 で、あづま一味は今度はモギケンを客寄せ? にしようとしている様にみえる。津田切りというすさまじい行動のつぎにだ。すごいね。つだぎりにはびっくりした。
 あづま氏はこの意味だと、まじでいわゆるサイコパス度が高い経営者の行動みたいに一連のばたつきがみえかねないとおもわれ、つだしが同時期に好敵手となるポリタスTVとかいう動画サイトをたちあげてたからなのかはしりませんけど、津田・あづま両氏ってひとむかしまえ親友みたいだったのだ。かれらってなんかモギケンらと鼎談とかやってたよ。いろいろ。ニコ生だかの動画で。それがあづまときたら急に津田さんを罵りだしたもんだからこわかった。あれ、ほかのみてた人らもこわかったんではないか。僕はこわかった。だっていかれてますでしょ? あいとりで一緒に炎上したからって、その火の粉をなんとか払ったら助け合うどころかあづまがわから友情をいきなり切りはじめ、なんでかとおもったら、なんか性格の不一致っぽいんだが、かなり陰険ないいあいみたいになっているのであった。

 まぁたしかに人間にはいきなり友情をきりはじめるやつはいる。それはそれ。だがその展開自体を詳しくみて、そこに道理、あるいは義理人情があるかどうかが大事とおもわれる。
 津田・あづま間のそれは僕が眺めてた感じ、要はビジネス的な関係で一緒にやっていくのが困難になったっぽい雰囲気もあった。すなわちあづま氏は、つだ氏が時がたっても延々対右派戦で炎上しつづけているので、それだとあづま氏的にはもう商売にならないからきりすてる選択をしたかのようであった。動画サイトの方針か? つだ氏はその不義理・不人情に疑念を感じつつ、いろいろ彼っぽい左派っぽい、なんかねぇセクトっぽい言い方であづま氏の変節をおおかれすくなかれ非難しだしたみたいだったのだが。それにあづま氏の側がことさら腹を立てだし。ついにこと切れたのであった。

 モギケンが呼ばれたのは大体このあとくらいの感じであったように思うが、すなわち、あづま氏がつだぎり後の客寄せ役きてください、ここに茂木さんがいる、ちょうどよかったありがとうっぽくみえたしぐさだったのである。僕が第三者としてツイッターみててだよ。実態はしらん。ただ、モギケンはある種単純な人間におもうので、へーい行きますよ~みたく、普通にゲンロン最高! 対談中にでてくる寿司ウマみたいなことをいっていた。あれどこのすし? とかきいて、すべてのすしで最高にうまいとか動画だったかラジオだったかでいっていたが、「近くの銀のさらのみたいですよ」(銀のさらは宅配ずしのチェーン店)ってあるコメンターに教えてもらったら、高級すしと見分けのつかない味覚に自分でびっくりしていたみたいでもあった。プライミング効果というやつで簡単に味がかわる。その意味ではモギケンって真正グルメではないのだろう。アヅマンとの友情最高みたいな。これはこれでこわい。つだっちの気持ちが全然わからないらしいのだ。

 僕はああいう人らあんまり現実でみたことがない。不人情の空間だ。
 自分としては上記経緯ではなはだ強く、一切ゲンロン派界隈にかかわらないべきだと判断している。無論それは私個人であって、モギケンみたいな他人がその界隈で楽しくやる自由を妨害するつもりは皆無。当然自分の責任の範囲を超えている。もともと僕とは性格から哲学の向きから、美術の好みから、なにからなにまであづま一味と違いすぎるので、同年代くらいなのだろう黒瀬陽平氏らカオスラ連とちがってそこに縁がないが、それでよい。

 ひとはひとに義理人情を欠かさぬべきものとしつけられその通りに生きてきたと渋沢栄一が『徳川慶喜公伝』の自序に書いていたが、基本的倫理観がぶっこわれてる系の人って、義理人情の観念はさほどもってなさそうである。違うんだろうか。もしそうなら、自分が不義理働いておいて、お世話になったお師匠さんを訴訟ってするもんだろうか。あるいは親友をただの損得勘定っぽくうらぎって、同時に別の友人とその親友へ公然とみせつけるようひっついたりするだろうか?

 ともかく。そうしてゲンロン一味というのは、少なくともその動画サイトに於いて有料制に閉じた系をつくっている。サロン商売なんだろうけど。これ、哲学あるいは政治に関したことについては、とってもまずいと僕は直感している。なんでかというと宗教集団って、宗派って、閉じると先鋭化しますでしょ。まさにその状態だからだ。もちろん一般に学派って外の系と出入りする人がいる半開くらいだろうし、ゲンロンもいちおうBANされてなかったら金払えば誰でも見れるはすんだろうけど、この場合にかぎって、ダークサイド・アヅマヒロキが教祖状態で暴走したらどうなるか。
 前回は、というか、過去最低3回は実例ある。1度、原発麻雀。2度、あいとり炎上。3度、黒瀬事件。2度あることは3度あるどころかもう3度あったんだから、4度目がない可能性がほとんどないほど某氏が教祖として暴走しがちなのが、経験的にはよくわかるであろう。科学的にそうとまではいわないが。希な事例がたまたまその期間に集中してただけの可能性も残ってはいますがね、確率論なら。

 僕は思う。批判に閉じた系は大抵くるっていく。なにせ会社ですらそんな経験値から外部監査役を重役に入れる慣習があるのだ。それがない状態ではたやすくおかしなことをしても、だれも修正できない。悪魔の代弁者が必ず一人以上いないことには、そして必ずなされるかの反論自体がかたちだけになっておらず、批判的有効打撃を伴いうるのでないかぎり、教皇ですら道を踏み誤るかもしれなさがありまくるのである。だったらそこらの会社社長なんざパートナーだか外部監査だかがつねに冷静でなければ即座に、変な判断をしてもおかしくないであろう。そこをお仲間でうずめる瞬間に終わる。組織はそうなっているというべきだ。
 そしてその実例を示しているのが現に、この国ではなかろうか。政局的に弱小政党の日本共産党は、一般論として、悪魔の代弁者の役割にいたのである。だが共産党が皇室にへつらった結果、退位法をビデオメッセージで国民に広く求めるとかいう憲法4条1項「国政の権能をもたない」はず天皇に、憲法違反の大蛮行をさせてしまったのである。ふざけんな、ふざけんなといい、国会で日共だけ退位法に反対票を投じていたら、すくなくともまたも天皇全体主義で国がおわることもなかったであろう。象徴が違憲なんだからおわったに等しい。憲法5条と皇室典範16条2項に、天皇が心身重患なら摂政を置くと書いてある。
 本来、親友というものは、自分の為にどんなに厳しい忠告も真正直にしてくれる人にすべきなのはこのためである。

文語はそれ固有の世界

最近、自分はユーチューブでラジオを作ってみて、講義シリーズをとっていたのだが、口語で表現することは文語のそれとまるで違う面があると色々発見した。この点でやってみたのは正解だったと思う。

 口語であらわすときに容易にできる様な微差の表現は、文語では容易にできない。その意味で文語はあとからできたものなのが明らかだと具体的実感でわかった。
 自分はもともと人間が一般に邪悪なものと感じ、あまり親しみたくないので、極力避けて生きてきているけど、その結果もあって文語を極めようとしてきていた。文の読み書きは大得意、というか大変好きで、子供のころ、その猛烈なペースが固まった時点からなら高2くらいからずっと休みなくやってきているのである。孔子は『論語』でこれを楽しむものに如かずといっているがまさに自分のことである。つねにおもしろい文章を探しているのである。
 しかしだ。自分が実際に口語表現を試してみた結果、これは話術の範囲に入ると思われるが、文語とはまるで違う能力が入っているのを発見したのである。

 この後も色々実験している。いわゆる文字起こしならどうかとか。しかし、究極のところ文語ってそれ固有の世界なのが確かだ。これが真理だろう。

 自分はこの意味で新たな局面に達したと思っている! きのうまでの自分は今日と違う。それはそうだが、文語に於いてその様な革新を起こした人って、今まで人類史上にいたのか謎だ。だが自分はその革新の根っこにあるものをもうつかんだのである。そしておそらく今後、私の文章には必然にその様な革新の成果が表れてくると思う。私がつかんだものは確かな規則なので、後世の人が自分を文筆家として評価したとき、まちがいなくその部分を感知できると思うわけである。

 自分はもともと文語の世界が好きなんだな、と感じる。この世界はそれ固有の秩序があって、ほかでかえられない。そしてこの世界にだけできる表現の可能性がある。自分はその固有さを今までも検知していたのだが、今ほどはっきりとその中心部をクリティカルに捉える事はできていなかったのである。

知的謙虚さと説教

自分はよいことのみをし、わるいことを徹底的に避けるよう生きてきたが、代わりに周りの人々はそうせず、どんどん迷惑をかけてくるという「他人の有害さ問題」は何も解決しなかった。悪徳まみれの、愚かな人々は単に生きているだけで害他行動をするものだからだ。

 この問題はガウタマが一つの典型的解決をみいだしていた。それは人を避けることだ。彼は普段郊外の林で瞑想していることにし、その外に出るのは托鉢など機会がある時にしていたと思われる。つまり一般の向社会性を否定していたのだ。
 この方法では、確かに大部分の他者の有害さは避けられるものの、一部の他者はそこをすりぬけてきてしまうし、また根本的に人間の邪悪さそのものは解決できない。さらに人は社会的動物(ポリス的動物)とアリストテレスが『政治学』でいうよう、そもそも対人関係を伴わない生き方は人の社交性全般を不全にしかねない。十分な社交性をもっている人とそうでない人、一般論としてどちらがより人徳として望ましいか。もし性格が内向的であっても、後天的修正がとても困難ななんらかの遺伝的苦手さのもとになければ、文明にあって社交性自体はおそらく一般に中庸ほどには身に着けるべきものと考えうるだろう。さもなければ人同士に必要があっても互いにやりとりするのが難しくなり、社会の発達自体が遅れてしまうことだろう。

 他方で啓蒙主義によって一般社会へ積極的に影響をおよぼし、人々に説教をくりかえしつつ、少しなりとも個々の人固有の悪徳を改鋳していこうとする考え方がある。どちらかなら欧米文明がとってきたのはこの道筋だろう。それがいきすぎ、「明白な運命(Manifest destiny)」と称する欧米列強やその影響を受けた日本は「八紘一宇」などと称した植民地主義の形をとった。
 日本にこの啓蒙主義がもちこまれ、はじめの紹介者の一人が福沢諭吉になって以来、国内一定層の知識人は、欧米文明に自文化、あるいは日本列島全体の単位を同期するのが一つの目的と考える様になってきた。そしてここからの同期の遅れとして後進性を無理にでも定義し――それはもともと多文化論を否定している驕っていて、誤った考えだろうが――人々へ東洋風生活は恥ずべき様子だといつわってきている。すなわち、彼らは殆どは単なる文化差としてしか責めるべき実態がありもしないばかりか、却って、希少価値を伴う本来保護されるべき貴重な自文化をも自己破壊するよう日本人一般におどしをかけ、輸入品としてのありふれた欧米文明を押し売りに回るのだ。無論この営為は単なる事情通の悪意でおこなわれており、かねてから薩長土肥京芸と天皇一味ら、幕末西軍がおもとして捏造してきた文化盗用業にすぎず、西洋中心主義や米国主義にへつらうなかで、文化輸入業者としての彼ら自身の営利や、対アジア馬乗りを正当化するものだった。文化植民地主義というべきこのありさまはいまだに彼らの植民地たる東京辺からマスコミ・SNSなどの第四・第五権力、あるいはしばしば皇室の権威を借り、大いに威張りながら拡散されており、「明白な運命」「八紘一宇」づらでのアジア文明への不当な蔑視、かつ欧米人気にのっかり逆輸入づらで自論を無理にくみかえておこなう国内漫画・アニメなど副文化への、その内容の品位を問わない妄信的礼賛ぶりなども、目に余る。
 平成・令和期でこのたぐいの立場を少なからずとる論客として東浩紀や茂木健一郎などのゲンロン一派、あるいは村上隆ら超平面論者がいた。こういった悪趣味や低俗さを伴う文化的自堕落ぶりを容認する態度の欠点は、純粋芸術に中間・大衆芸術をまきこむことで品位としての貴族道徳を根本から傷つけてしまうことだ。

 では我々はこのまともな向社会性、すなわち立派な私徳・公徳に向かう気勢の失われた場で、一体なにができ、またすべきだろう?

 ここにみられるのは東洋文明と西洋文明の、ある島国のなかでの衝突だろう。ガウタマと福沢は全く対極の精神論を説いている。
 ガウタマは『ダンパマダ』で愚者を避けよという。福沢は『文明論之概略』で知徳の平均値としての文明度の向上が人間社会の目的だという。ガウタマは反社会的思想家、福沢は向社会的なそれで、この二者はやはり愚者の害他性、悪徳を扱っていながら、それへの対処法がおよそ全く別になっている。
 けれども反社会的孤立論者とおぼわしきガウタマも、他者へ説教せよといっていた。

(他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』6章 賢い人、77
(中村元・訳『真理のことば・感興のことば』岩波文庫、1978年)
ここにあるのは道徳についての啓蒙的態度だが、同時に、ガウタマはその限界に悟っている。愚者が賢者になる事もあるが、それは愚者自身(自分自身)が愚かだと気づいた時だという。

 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
 聡明な人は瞬時またときのあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。――舌が汁の味をただちに知るように。
――ガウタマ・シッダールタ
『ダンマパダ』5章 愚かな人、63-65
(前掲書)

 ここでいわれているのは、孔子が『論語』で「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これが知るなり」(為政第二、十七)、「小子つつみをならしてこれをせめて可なり」(先進第十一、十七)といい、プラトンにえがかれるソクラテスが不知の自覚(無知の知)あるいは助産術といわれる態度をもつのとほぼ同一の件で、すなわち知的謙虚さの指摘だろう。

 人がもつべきものは知的謙虚さで、自分は既に十分すぎるほど学んだと死ぬまで思い込まない必要があるのだろう。
 しかし仮に自分がそうしたところで知的傲慢さをもった他者らは無限にわいてくる。彼らは人を虐げ続ける。その人々に対処するのに、一つ有効なしかたと聖人らが考えていたのは、説教だったのだ。

国家社会主義自民党

人々の恨みを触媒にした岸田信夫・国社主義内閣

サッチャーに説教される岸田と漁夫の利の大悪党安倍

株式会社をみんなのモノにし次々潰れた国社主義諸国と安倍・スガ・岸田日本

総統上皇が一言いえば全員ひれふす違憲退位法ごりおし国権侵害全体主義神道ナチ

2022年1月30日

天皇全滅後の世界

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2022年1月29日

最後の審判

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2022年1月28日

消えてしまう宝

この世はおわりまで無意味であり続けるだろう
だからといって君はこの世をのがれえない
結局この世にもどってくる
 
人と呼ぶ生き物
そのあいだでうめきながら
 
この世は永遠に無意味であり続けるだろう
さもなければ君はこの星をぬけだせない
結局もどってくる自分の人生で
 
人と呼ぶ生き物は
どう転んでも死んでいく
 
もし永遠に手が触れても
さもはじめからなかったかの様に
 
人と呼ぶ生き物と
あらゆる宇宙のできごとに囲まれ
やがては消えてしまう宝に囲まれ

2022年1月27日

黄色い線

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2022年1月26日

最後の晩餐

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都会中華思想の末路

東横人都会を自慢しコロナ禍地獄

京阪人都会と自称しコロナ禍地獄

中部人都会を崇めてコロナ禍地獄

孤独と愛

愛すべき人を知っている、ということは、この世で孤独を救うだろう。

2022年1月24日

嘘つきアニメーター

この世に生きていく価値があるのか
僕らはずっと疑っていた
 
宮崎駿というアニメーターが嘘をついた
「この世は生きるに値する」と
一体そう断定できるほど彼は苦労したか
彼の全人生が最悪のできごとの連続でも?

僕にとってこの世はなるほど地獄じみている
それも人間という存在が余りに邪悪で
余りに不愉快な愚か者どもだからだ
人間どもがそれほど傲慢なら反省の余地もない

この世に生きていく価値がないとしても
自分はなにも不思議はない
実際無価値かもしれない
だから宮崎駿は愚か者だと自分は思う

途中で自殺してしまった人々は彼を笑う
この世に生きていく価値がないとみなし
解脱を理想にしたガウタマ・シッダールタは
宮崎駿が嘘つきだと思うだろう
そして実際そうなのだ

アニメーションや漫画という嘘のなかで
彼は永遠に妄想を生きている
だから人間が救いようもなく邪悪だとは
ついぞ気づかずにいたのだ

地獄じみたヒトと称するサルどもの間で
生きていく価値を作りえるのは自分だけだ

国歌

わがくに千代ちよ八千代やちよにこま石のいわおとなりてこけのむすまで

2022年1月23日

単なるIR(投資家関係)情報開示だけでなく開かれた中長期投資の為にも日本で四半期開示を非義務化すべきでなく、むしろ一層の会計透明化のため世界に先んじて国内上場企業が特定の勘定科目を任意に隠す事を法的に禁じるべき

企業の四半期開示が義務でなくなろうと、企業の情報開示が不確実で不十分ならその企業を株主が保有するのをためらう様になるだろうから、四半期開示を非義務化する必要はない。
 また四半期開示と中長期保有の間に、自明の因果関係があるとは限らず、中長期保有を目的にした投資家は四半期決算をみても、容易に自らの保有企業を手放そうとはしないだろう。現時点でも株式の売却益に都度課税があるからである(株式譲渡益課税、資本益キャピタル・ゲイン課税)。

 こうしてみると四半期開示の非義務化は 、単に上場企業側に1年間かけ会計操作の不正をおこなう猶予を与える、悪意ある法制であると考えてよいと思われる。その様な不透明で閉鎖的な市場を作れば、投資家一般にとって、日本企業を保有する鼓舞は諸外国の透明で公正、かつ開かれた株式市場に比べ、低くなるだろう。

 それどころか或る株式市場の流動性が高くなる事、即ち短期投資家がふえる事がそのまま、市場の活気や諸企業間の新陳代謝を促進する面をもつだけでなく、もともとその様な投機的性質の、偶然的浮動を含む富の循環がなければ、或る株式市場はつねにあらたにかわりゆく国際市場環境に最適化されない以上、中長期投資家のみが或る株式市場に有益とはいいがたい。この見直し問題について、金融庁らへ日本の株式市場を冷え込ませようとそそのかしている何者かによる、元の命題の建て方が誤っているのだ。

 よって、四半期開示の非義務化は不必要なばかりか日本の上場企業一般にとって有害かつ株式会社をとりまく市場全般にとって公害な施策と考えていいだろう。もしその様な施策が東京証券取引所その他国内でおこなわれれば世界の投資家らの目は、アジアの極として香港証券取引所に移っていき、日本経済の没落を派手に演出するのが誤りないだろう。
 むしろ国会議員が金融庁と共に新たにふみおこなうべきは一層の会計項目の開示義務で、株主が日本企業の実態をつぶさに知る事ができる条件づくりである。投資は或る企業活動への信頼のもとにおこなわれるべきで、東京証券取引所に属する企業群に限って、少なくとも米国企業一般や中国の一部企業への信頼に比べそれはいまだに不十分だからだ。
 例えば日本では世界に先んじてその企業にとって不利だが市場にとって業績を見通すのに必要な特定の勘定科目を、企業がこれまでのとおり任意で隠す事はできなくするべきだ。優れた企業は商売にあたってどんな成績も隠す必要はなく、一時的な失敗でもその企業自体の競争優位性が失われない限り、中長期投資家を惹きつけ続ける筈だからである。また短期的に業績が悪化してもそれを隠すより、実態を信頼してくれる投資家に極力その現状を知ってもらっている状態の方が、企業側にとって安心できる長くつきあえる優良株主をもつ事ができるのは明らかだからである。

無限の戦

僕は明るくすばらしい未来が
無限に広がっていると思っていた

ところが実際の世界は正反対で
外道の南関人、関西人、薩長土肥京芸の蛮族
邪教祖天皇一味とゲスどもが
無限に悪事をくりかえすだけだった

救いのない人間界で日々サルが繁殖していた
利己の極みで連日大発情・大発狂し
純粋な悪意だけで悪しき世界を完成させる為に

この宇宙にうまれてくるのは単純な悲劇
しぬまで極悪人どもの嫌がらせに自己防衛しながら
やつら人間の無限の愚かさにどれほど立ち向かおうと
ただひたすら虐げられ、陥れられるこの地獄の日本で

2022年1月21日

春の訪れ

わが庭に梅の咲きけりねずみ起き

2022年1月19日

磯原のヒグラシ

ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つらしいが、磯原のヒグラシは夏前に鳴き出す。

(すぐれた哲人は事態が起きる前に洞察し、先憂後楽で既に問題を解決している事の比喩。
 ヘーゲルが『法の哲学』で書いた「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」を、温故知新の「ふるきをたずねる」部分にあて、「あたらしきを知る」の別の言い方として新たな内容をつけくわえたもの)

2022年1月17日

絶望すらない世界

この壊れた世界に
あるものといえば絶望だけ
だが人の失われた世界は
もはや絶望すらないだろう

2022年1月16日

誤解を招く人物評

わるい者をほめるのは、よい者をけなすのと同様に悪い。それはその言動を信じた人々に真実を見誤らせるからだ。

2022年1月15日

最初からしろ

マクドナルドが木製スプーンと紙製ストローにするらしい 最初からしろよとしかいいようがねぇ

2022年1月14日

茨城の住みたい田舎1位と傲慢な偏見まみれ東京・京都中華思想

さすが極悪イジメ国民 茨城が住みたい田舎1位になっても決してほめず騒がないのに 純粋な悪意のかぎりをこめた偏見まみれ差別報道のときだけ毎度散々大騒ぎ しかもそれでNHK含む都内マスゴミぐるみのかねもうけ

東京と京都って 日本人差別・諸国民大量虐殺犯のくせ謝罪も贖罪の旅すらもしたことがない天皇一味と 代々性格の悪さ世界1位を列島の東西で競ってきているの?

非言語哲学について

言語による哲学、すなわち全ての言語哲学には固有の限界がある。それらは言葉でいいあらわせないものを考えの中に入れえない。

 芸術の一切は、それが言語芸術でないとき、非言語による哲学と捉ええる。

 宗教の一切は、それが言葉を介しないとき、信仰を通した哲学と捉ええる。

神の定義とそのわざ

徳には幸を、不徳には不幸をもたらす者を神と定義すれば、禍福をあざなえる者こそこの世でのカミらしさを最も身におさめているだろう。
 徳を自らまたは他者に公益をもたらすもの、不徳を自らまたは他者に公害をもたらすものとすると、徳という原因を幸という結果と一致させ、不徳という原因を不幸という結果と一致させる勧善懲悪こそ、まことの神のわざである。

言語圏の相互均衡とその世界史的な政治運動について

我々は言語圏を持っている。
(但し或る言語条件(言語障害)をもつ者をここでは仮に除く。特定の言語条件者は、その言語圏を出ない、とする。これは現実には微差や濃度を含む各異言語圏と分類される領域同士の相互作用を考慮すると議論が複雑になる事を回避する為の便宜であり、よって、この議論は現実の条件全てを説明しない)

 その言語圏はそれぞれの人々を一定の相互関係に結びつける紐帯である。これらの紐帯は人を言語圏の外にはじき出さない様にする。もしくは或る言語圏の範囲に、人々をひきつける。それはやりとりの合理性の為である。
 特定の言語圏はその言語圏に人を縛りつけている。これを同時に文化圏と呼ぶこともあるが、必ずしも文化圏なるものと重ならない。

 言語の学習効率から、人々は特定の母語を持ちがちになる。

 これらの言語圏は、人々を互いに異なる秩序へと至らせようとする。それらの言語圏の相互関係は、結局、世界政治史を作っていく運動である。

2022年1月13日

ねずみとこ

ねずみがとことこ ねずみとこ ねずみちゅーちゅー ねずみこと

ねこぬぁなー

ねこがにゃーにゃー ねこにゃーにゃー ねこがぬあーにゃー ねこぬぁなーぬあー

ねこがにゃーにゃー

ねこがにゃーにゃー ねこにゃーにゃー ねこがにゃーにゃー ねこにゃーにゃー

2022年1月12日

ねこにゃーにゃー

ねこにゃーにゃー
ねこにゃーにゃー

2022年1月10日

輪廻と解脱

この世界は生きていくに値しない
それゆえ死んでいくだけができる
だがこの宇宙に存在しうるものは
ことごとく むなしく ついえていく

この星は失われ
人のいない世界はうつくしい

宇宙のどこにいても
だれも救われないだろう

だがこの世界はつづく
つぎつぎ生まれくる命と共に

2022年1月5日

日立バイパス

日立バイパス
2022年
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絵を描けない人

ゲルハルト・リヒターは装飾的犯罪者だ。その抽象画が大量の追随者を生み出し、それらの西洋画の描き手らは、悉く無意味な物を量産したからだ。彼は余りにまね易い様式を生み出し、それはあらゆる抽象画を否定するしぐさでありながら、それ自体を不定形として定式化もしていた。そしてこの営為は一つの詐欺で、何も意味のある形を生み出していないにもかかわらず、さも現代美術の一種かのよう彼のしごとを言い繕ってきたからだ。芸術的犯罪をおかしてから、リヒターは結局なんのしごとも成し遂げられないままこの世を去っていくだろうが、あとに残ったのは大量のごみだった。
 リヒターのまねごとをする連中の生み出し続ける大量の偽抽象画は、誰も感化せず、ひたすら西洋建築のどこかに置き続けられるなんとなくよさそうな色の塊として、その場を訪れる人々をうんざりさせ続けるだろう。

『ビルケナウ』は彼の詐欺の頂点で、遂には何も生み出していないこと自体が誰にもばれないだろうと大胆になった芸術家気取りの偽物の技として、永久にドイツという国の恥ずべき後進性の記念碑となったのだ。

 成程、リヒターは我々の時代の巨匠だろうが、それは反面教師としての、何も生み出せなかった人の無残な骸である。

 私は嘗て、美術家の友達、田中隆央氏らに「リヒターから出発しなければならない」といった。20代前半の頃だ。これは間違いだった。言わんとしていたのは次の事だ。当時の自分は「絵から出発しなければならない」といいかえるべきで、リヒターは最初に否定されるべき、絵を描けない人だった。

2022年1月3日

宇宙船

僕は宇宙船に乗って星を回る
どこへ着くか定かではない
だがこの船が辿り着いた所で
自分達の旅は終わりを告げる

つくること

完成された国は完成された宇宙をつくる
もしこの世界に何もなくとも

2022年1月1日

赤い線

赤い線
2022年
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