2007年8月31日

東京人の観察

煙草を吸う女。こういう女から産まれた子供は悲惨だろう。生来不健康のハンディキャップはないから。

2007年8月29日

風紀

もし日本の市民をさらに進化させたければ、古き良きイギリス風の純愛社交の場を構造づける。プロテスタンティズムを消化して武士道と結びつける。精神至上主義を文学的に回復する等が有効だろう。

2007年8月28日

独歩

獣から遠ざかる程、人は貴い。人間には高尚な生活以外に指すべき目標なし。どの代であれ、同時代人はまともに相手にすべきほど立派ではあり得ない。独り歩め。しかしながら、既存した伴侶は愛せよ。

世の中

経験程人間を愚鈍へ誘なうものなし。なぜなら世間には俗物が住んでいるのだから。人生経験は多彩であるべきではない。もしそうであれば感性は摩耗するだろう。可能なかぎり白紙であれ。と同時に世知に長けるよう工夫を尽くせ。
 単なる知としての世間と世馴れとは人品をはるかに隔てる。君が雅たりたければ最小経験と最大知識とを目指すのが良い。あまり世に出るな、隠れて暮らせ。知り合いを増やすな、自由時間を確保せよ。

2007年8月27日

信仰

愚民は純潔の意義が道徳にある事を知らぬ。
それが故に純愛が単なる無粋であると思い込み、悪徳に憑かれた子孫もろとも身を亡ぼす。

君もし幸福に成りたければ純潔を守り切れ。
異性と婚前に交わるな。
もしこの忠告を聞き逃せば、お前達の仲間は必ず獣類の地獄へまっ逆さまに堕ちるものだ。

2007年8月25日

性愛論

一夫一妻制度に適応しない個体は淘汰されて行く。人類は種の最多種化の為、如何なる個体へも繁殖の機会を提供しようと企画するから、害他的変異、つまりそのくみあわせをへらしてしまう姦淫を行う浮気者と、場合によっては同様の業を制度化する多妻主義者だけを厭う。
 地球文明において人類個体が最高度適応的かは、子孫養育を含める限り配偶の時代内最適選択に因る。彼らにとって性格が婚姻の為に最大の要因である理由はそこにある。そしてそういう性格は精神知能の発展確保によってしか充分育てられない。なぜなら身体容積の問題から、学習動物としてのみ人類は産育を可能にしている。
 性格が肉体差に原因する以上、容姿自体は性格の方向づけへ利用される。我々が好んで性選択する個性とはみな理想的性格を目的にしている。肉体は性格の象徴である。逆も又然り。ここに我々は古代ギリシア的な精神と肉体の乖離を同じ理念へ調停することができる。魂と体は同じもの、つまり形質へ異なる見方をしている丈。
 自然と制度の均衡は男女各々における理想的な中庸を目指して性淘汰を行う。もし進化の必然があるなら理想的人間についてのみだろう。暗喩すれば神の似姿として人間はあるべくうつくしい。

2007年8月24日

社会的幸福論

幸福そのものは人間の調和を意味する。社会と自然の調和が人間を築く。我々は獣性から神性へと絶えず導かれる。人間には度合いがあり、個性はその多様観をつくる。しかし如何なる個性と雖も精神向上への漸進にある。知能は人類を獣類からしかと見分ける唯一の特徴である。従って精神性も知能の範囲にある。それは彼らへ特定の性格を持たせて遠類の不条理から離脱させた。
 人類は社会という新たな猿山を築く。そこに不条理が存在しない訳ではない。唯、精神性の恩寵によって生存闘争の不快な面が緩和されるに過ぎない。社会契約により人類は同類殺害を集団的に統制することにさえ成功した。
 だが実態は彼らとて獣類から完全に脱化した神類ではない。大脳は新皮質を末梢神経として構築した。それは聊かも基幹神経としての旧皮質の消滅に至って居ない。彼らの社会的拘束の一切を外せば人類種から狼少女は育つ。言い換えれば文明度は社会的にしか量り得ない。我々の社会が人間に幸福をもたらす唯一の手段なのだ。
 絶えず脱構築し改良して行く社会構造の文明化が人間を救済する方法であれ。それは自然の悲惨な混沌を不条理として抑制し、理想の漸近的実現へと絶えず時代を導く。

文明論

文明化が野蛮からの脱出である限りそれは知能に原因する人間の精神化だろう。
 福祉、つまり最大多数の最高幸福を達成する為に、知能あるところ世界を文明化する。それは思想の合理化により社会秩序を建設する。
 自然は究極のところ消滅しない。我々の作為はすべて自然からの抽出に留まる。それはentropyの抑制によって生活の調和を目指す。

2007年8月23日

実践理性と死

もし理性という働きそのものからの解放を求めるなら自殺する他にあり得ない。
 義務がかれを生に結び続けるのは定言命法の故に。従って理性は自死を退ける。
 生が義務の声を遂行する限り、我々は絶えず神格へ導かれる。
 人格とは当為へ向かう永久の努力のさなかにある。正義はその適応性に伴ってのみ死を省みない。

定め

自由意志は定めある限り成立しない。定めはあまねく往き渡る。我々の演技は定めの完成の為に繋がって行く。

聖性

権力構造は同時代的な作為である以上、理想趣味の為の利用価値しかない。政治家はこの意味で実践者としてしか存在しない。些かもその価値を減退する内容ではないが。
 アリストテレスの幸福主義が人間の究極の結論ならば、我々は理性に従属する生命体でしかない。実践家に対してであれ技術家に対してであれ、理論家に対するのと同等の地位が認められねばならない。理論そのものは聖性の側面でしかないのだから。
 幸福の相対性は適応行動の聖性に由来する。

人類文明論

人々は宇宙の形態の一類に過ぎず、自らの集団生活を保つ為に文明を営々と築き上げる。彼らの構造はこうだ。しかし、なぜ君の魂はその中に含まれてしまったのか。実存は単に偶然でしかない。だが、その偶然は一度起こった以上何度でも繰り返される。人間は永続する。それは精神という仕方で永久に生き延びようとするアキレスに似ている。すべての文化とは哺乳類の繁殖活動から離脱した個体群による架構。人類の貧弱さを省みれば彼らは猿類界の敗惨者だったが、同時にその逃避によっていつしか新たな一族を物す。人類はそうして成立した哺乳類の一類だったし、これからも命ある限りそうだろう。果たして哺乳類自体にどのくらいの生存力があるのか我々は究極のところ想像的にしか予測できない。だがその想像は彼らに信仰の基礎、当為ないしは理想を与える。文明は理想に協賛する一族を新たに人類内に建築しようとする。文明人類とは人類そのものと次第に区別される。いわゆる文明国とそれ以外との格差の両端は永久に縮まないだろう。両者の中に存在している最高度の知能とチンパンジーに類似した野蛮人との生息条件とは殆ど同じ生物だとは感じられない程に異なって行くこと。
 全ての人類に対して文明化を偏見するのは過ちでしかない。我々が各地へ分化し始めた時点で我々の運命の過半は予定され続けて来た。やがてそれは人種と語族となり時に民族意識となり国家となった。そして進化ならぬ分化は際限なく進む。真を目的にする地域住民と文明をそうするものとでは文明自体に性格差が生じる。例えば日本語は総alphabet化されていない。彼らにとって漢語謂が伝統的保守性だから。とすればおのずからローマ字への表記用記号の統合にも速度差が生じる。この速度差は分化の一形態に過ぎない。言い換えれば文明度は構造的であり、決して一様ではない。彼らは実際には多様系を目指すのであり、単なる文明極点を志向しない。
 どのような個性も多様観の一部分。統一的な文明極点は理想的にしか想像できない。それは如何なる理性的存在者についても同様。人類が普遍的と見なすあらゆる作為は地球構造に支配される。従って彼らの最高峰文明でさえ決して宇宙多様系の建築ではあり得ない。彼らは単に制度と分化の間を行き来する過渡現象だ。精神に対する普遍視は不適当。それは我々の肉体に由来し、肉体固有の限界な知能を超えられない。人類が永久に無知たることを免れないのは彼らの精神が肉体に繋がれた現象だから。彼らの現象界に対する認識の拡張; つまり科学がどの程度成功して行ったにせよ、理性の自己目的性は天敵不在の状況に依存している固有の奇跡に過ぎない。
 芸術は文明を築く。あらゆる作為が自然に対するentropy減少でしかあり得ない以上、我々の生存価値は多様観中の動態を増進させて行くような再創造の永久継続にしかない、我々に未来を開示する展望として。比例的な整理による秩序化でさえその為に用いうる手法の一つに過ぎない。

男女別義

数十億年かけて育んで来た地球生態観が朝礼暮改なしうる筈はない。よってfeminismは単に方便の増長をもたらすに過ぎない。白人社会で男女同権が適応的となったのはアメリカ文化のわずか200年前後の影響波に過ぎず、いずれ矛盾の露呈により愍滅されるだろう。
 市民化の方便として女をおだてる手腕に長けることが近代文明に於いて家族結合の知的水準強化に応用できたに過ぎない。もし博士の女性を未開人男性と並置すれば我々は格差が後天的に仕組まれる意味を悟るだろう。社会秩序に於いては男女の別、つまり性的異型がその単位時間分の配偶多様性について最も能率的なのは問う迄もない。ここへの分業は地球生態が育て得た貴重な天分であり、単なる平等天賦説の前には比較しうる真実ではない。以上を知り哲るには同性愛生物(雌雄同体)が総体として決して複雑な組織を発達なし得なかった史的事実を観察せよ。
 文明は雌雄を含むより多彩微妙な人間関係を養成する。それを単なる地球生態覇権飽和的退廃のせいに帰することはできない。人類は種の最大化を通じて社会を細分し、転回抱擁し、やがてはその中から宇宙人類の進化を誘なう。

2007年8月22日

芸術論

文学に於けるrealismは絵画や彫刻に於ける場合と同様に幻想に過ぎない。芸術についてrealismはillusionismの換言である他ない。
 幻想芸術は現実の側が相対して悲劇的だった場合には慰めのため必要だろう、即ちcatharsis。
 文明の展開に従って現実の中の極端な悲喜劇性は減退して行く。代わりに芸術は事物の抽象性を要求する。それは彼らを取り巻く現実を幸福の次元で表現する様に求める。
 あまねく芸術についてrealismは抽象、継いでidealismに向かって進化する。すべて芸術の理想は絶えざる抽象によってしか表現できない。
 自然と芸術との間の調和は人為による抽象に否応なく忍び込む自然に関してのみ理想的である。

思潮論

学術は文化史脈上にしか実在しない。それは見えない人々にとっては生涯見えず、見なくて済むものでさえある。
 文化史脈は世界諸語族の連想形式に由来する。それは伝統的なもの。例えば哲学は意味に於ける、文学は記号に於ける史脈を抽象する。それは単なる言語学の命題ではなく、個人的世界観について。科学の地位が向上する事は我々の中の知性を重視する人類思潮の謂い。それは前二者と同様に認識を抽象する。哲学は理性の、文学は感性の人類思潮。
 又、科学・哲学・文学とは文の領域傾向に過ぎず、その境界線は時代思潮の偏見でなければひたすら差延の合間にしか引き得ない。

2007年8月21日

脱自由主義説

人間の世俗的価値は肩書きにしか存在しない。
何故ならそれは多少あれ客観的な身分証明書だからである。

権力構造が与える名分は支配者の権威を強化し、又個人にそれへの従属を強いる。
民主主義社会[と現代を我々が知覚する範囲]に於いては、何らかの主権以上の権力者がこの賞与と服従の構図を利用して「政治」を行う。言い換えれば名分とは如何なる物であれ政治権力なのである。

 爵位の拒否は政治権力の否定である。
我々は主権に対してすら拒否権を持たねばならないが、自然権の放棄という言い分を伴って地球中の如何なる私生児でさえ認知され次第一国民たらざるを得ない。

「機会の平等」は民主主義社会の前提とされアメリカ合衆国憲法に嘔われた。
しかし実際に人間は扶養権益の枠内で育つのであり、結果として成人に至る頃には再出発点に多大なハンディキャップが存在するのが普通である。
そして現代先進国で顕著な学位制の確立は益々封建的身分の世襲を誘引して行く。


 我々は「結果の平等」を否定してはならない。
それは少なくとも機会の平等をより厳格化する為にさえ必要なのだ。
 調整は政治権力の命題であり、しかもそれは他ならず名分によって図られるべきだ。


 日本企業は寡頭競争を合理的に淘汰する為に学閥差別を応用して来た。
産業体制が脱工業化を果たすに従って異なる種類の能力が要請され、結果として雇用の流動と差別の緩和が実現されて行く。
 しかし学位制が市場経済の知的能力の尺度に援用される限り、根本的な差別は撤廃され得ない。

世襲制は中庸を守ってのみ世代間家業の蓄積なる有効性を保つ。
学位制の脱構築は『奨学制度の充実』によってしか計り得ないだろう。
 それは単に個々の大学経営に依存するだけでは調整範囲について不充分である。
従って国家及び国連権力をこの為に再構築し直すべきである。

いずれ自由偏重主義には矛盾があり、様々な不条理の露呈が致命的になる以前に我々は民主社会主義的調整の政策へ準備を怠ってはならない。

2007年8月20日

生死

全ての人間は時を経て死ぬ。その人に価値があるか否かは他の人によってしか測り得ない。人は人間にしか存在しない。意識を失う瞬間が自然に訪れるとは限らず、人間は常に生き方の表示を延長させて行く所にのみ存在価値を見出す他ない。生体ある限り如何なる栄誉に対してすら欲望の源が満たされる事は無い。
 全て人間は相対的にしか人間たり得ない。他の個体に比べてのみ主体性は認識される。且つ人間は差延し、我々は自らを絶えず再生させる性格のうちに自分らしさを定義づけて生き延びる。彼らに偉大と凡庸とが在るならそれが欲望を他個性相対的にどう導き得たか次第だ。民族や国家についてすら同様に。人類の全体は秩序ある平和の建設を要求している。少なくとも地球儀の範囲でそれに比較的貢献為し得た個性を我々は偉大と認めるらしい。
 理性的生命としてそれだけで構わない筈が無い。我々は真理と名づけた定式を思想内に抽象する。では真理に近い思想の持ち主がその他の人間より優るのだろうか。
 時代思潮のさなかにあって無数の思念がうごめいている。彼らの内に最高度の聖人と最低級の俗物とが共存する体系は社会と呼ばれる。人間の生死は社会にとってのみ存在する。

2007年8月19日

文学手本説

文学は聖書と雑誌の間を媒介する中間的書籍で、その衆生啓蒙性にのみ価値がある。世界宗教無き蛮族は何らかの信仰なしに心身健全を保ちえない。よって社会環境の編成に伴う新たな手本が需要される。

 文学は社会が存続する限り生き残る。それは傑作に至り識字大衆の文明度を象徴する。

 カント的道徳神学が必要ならばユダヤ教・儒教・神道・ヒンズー教などの少数宗派はより巨大な架構に含まれ、一神教の単純さへ回収されて行くだろう。「無形的唯一神の信仰」は有効期限の無い保存性に於いて専ら異文化間の通則を得る為に便利故。
 仏教の本義に於いて暗喩的神格概念がなく、純粋に形而上的な縁起法則のみが信仰対象に崇められているとは、それが一神教の次段にある実証宗教の原型である事を示している。天地教が神を置かず、道徳因果のみを抽出した信仰な限りそれは未来科学とより良く調和する世界宗教となるだろう。仏教は天地教に包含される。なぜなら仏道が抜苦与楽すなわち慈悲福祉を志向する以上、その究極は中庸善行の自律的義務付けに迄還元されて行く。それは一神教の当為と合致する。

 文学は宗教の能率的伝達について価値を持つ。文芸上の真は非科学的であり、単に感覚的観察に留まる。故に時代変遷後にも価値を保つような作品とは啓蒙的歓待の書に他ならない。その目的は最大多数の最高啓発にある。文芸は本来文明娯楽化された教科書だった。
 辞書は語義を列記してあるに過ぎないが、文学はその文脈づけの様々な手法に則り、暇人たる哲学好事家を超えて万民へ百科全書を通読させえる。

Feminismの考察

自然が分け与えた性別の理由、彼らの分業の用に足る様設らえられる。
 突然変異無き限り女性に、男性以上の心身能力を発揮する事への生来的制限が家庭内外での協業を計らせる。適度な男女分業がない社会組織では能率は低下し経済も衰微する。
 社会の動きはこうして、遺伝と獲得の両形質面で適宜に男女差をつくろうとしてきた。単にどんな内容を伴う性差なのかが文化面でとわれるのみ。

思索

強者の地位を狂気から救うものは喜捨のみ。

2007年8月18日

隣国

日韓の根本相違は神道の裏支配しかない。

商品開発

アルコールなしのビール――都会向け健康飲料として。

2007年8月17日

思索

真善美は聖の側面。それらの三身が理想を創る。

聖性の側面

科学・哲学・文学とは文面の抽象‐具体度の偏差値にすぎず、且つその境界は厳密ではありえない。知性・理性・感性とは各々の文化傾向のいいかえ用語にすぎず、優劣ですらない。それらは単に思考性質の三種であり等価と云われる。
 我々はかの三頭を高める務めを負う。それらが融合する事は必ずしも正しくなく良くはない。

地政学

歴史は風土へ時代様式を降らせ、混ぜ合わせたり押し流したりする。だが固有の命脈は世帯を超えて繋がる。種は適材適所を択ぶ為に定着しなければ引っ越しを繰り返す。遊牧民族に於いて土地は血統へ帰納される。

2007年8月16日

文芸論

文の進化は共同化の進化に並行的。それは文面に於ける抽出であり、文通という芸を風雅にする。
 もし記号を含めれば学術とは全て文の組み合わせにすぎない。我々の認識はこの文学の指導に従う。なぜなら確定性、つまり検証可能性の高い文面は口頭よりも普通、抽象し易い。

純潔度

例えば古代日本の社会に於いて、階級や地域に応じて男性の貞操が差ほど重視されなかった背景には地政学的理由がある。それは各国で王権の世襲状態にみられた様に、多妻の種を通じた繁殖速度差により群れ権力を寡占しようとした絶対主義の必然的独裁にともなった文化で、世界宗教からみれば退廃だった。現代でも猿達と同様、商業的大都市圏にこのなごりがみられる。

 近代化が昇華を方便として内発的な発展を志向し、充分な人口密度によって以上の構造から自らを解放しようとしても不思議はない。所がこの様な作為が全ての風土で完全に成功することはないだろう。文化律は、よく特定民族的でさえあるからだ。

 日本人なるものが再創造的な文化規制によって恋愛観念を消化したにせよ、その根本義は独特の慣習へ回収されて行く。夫婦の大倫は男女相互の貞潔によってしか充分に図られ得ない。それは独裁化した天皇家をはじめ古代のどの低落しきったSodom的倭へさえ正妻と他との差別として婚姻関係へ要求されて居た。そもそも性愛倫理の要求は社会秩序である。従って「例外」として一部の絶倫へ白眼視されていたにせよ種に於いて夫婦一対は幸福に値する対称形であり、そこで純潔は主要な善であった。

 婚姻前後に関わらず、他ならぬ一人のみへの献身は男女の関係を信仰の次元に高めた。それは互いの誠実の絶対的な信頼による不即不離の運命共同体を形成せざるを得ない。
 社会階級は経済的偏差によって国家人倫の大本へも微細な民度を配分する。倫理に於いても又、同様に子供の数とその育て方に千差万別の格差が生じる。それは来るべき新たな変化に満ちた時代への適応の準備として蓄えられ、微分されて行く。この流れが逆しまになるのは革命があった時を除いてあり得ない。民族的統一という幻惑の煽動される時はその致命的な危機より勝るはない様に。
 もし純潔が善の規律とされるならそれが階級秩序の方便となる。ある生産制度下で支配と被支配階級の頭数を統率する為にも、倫理は存在する。

 純潔は度合いのみならず尚更信仰を要請する。意思に於いて裏切りが存在した際には既にその定義は失われてしまう。

2007年8月15日

東京文化の観察

電車内にて人前で化粧する女。低脳をみせしめにするための儀式。

人は自分の人生を択ぶ。教養の程度が愛憎を図る。彼らの本性は世界精神に規定されているのに。生存競争、世代交代、どこ迄も終わりは無い。辛く長く、意味も無く、人生は丁寧に束ねた光のように儚い。遊び戯れて死ぬるわずかな間を延びる現象。追い風の為に向かい風の為に棚引く祈り。命。

路頭

近代が引き裂いた二つの世界の中をさまよっている。人類の生活、彼らは境界を侵し、やがては無に還る。日本人は他のあらゆる西洋人と同じく、別の仕方で愚かしく尊い。だがその為に何があるだろう。他の東洋人も何も違いない法則の元に生まれていた。進化の偶然を利己主義に引き付ける丈では誰も孤独から脱し得ないのに。孤立して在れ。いずれ全ては未完なり。

2007年8月12日

戯曲

あるせりふ

・登場人物
青年 独白する若者

・場所 東京都内の電車
・時 午後

青年 世界中に女ほど愚かしくみにくく馬鹿なる物なし。電車。真夏。女が子供のまえにも構わず男にベタベタよりかかる。拒否せぬ男は愚鈍の模範である。女の数を減らす事、女の人格を抑圧する事は地上の秩序の規律である。サルと何一つ変わらない劣等生物め。

(客の視点が乗った電車、停まる。風景が流れて、並行していた向かいの電車の窓から見えた青年が消える)

2007年8月11日

武道

常に人を打ち倒しえる姿勢を備えていなければならない。人に打倒させ得るが、自らに打倒できない場面に究すれば補佐するか、退け。

配偶論

自由恋愛の奨励が即風紀向上をもたらすというのは誤解なり(例えば福沢・漱石)。結婚とは偏に経済的担保の共生契約に過ぎず。恋愛とは目的に非ず、その契約制度に期待された自由な配偶選択の機会幅已。
 どころか、現に抑圧の意図的に解除された恋愛環境に於いて、却って猶予の延長はその退廃をもたらす。彼らは性愛を悪戯けへ弄ぶに過ぎず、結局社会的生産力へ直に繋がらず。出生率低下と離婚率上昇。

 もし風紀自体を向上させたくば、自由な配偶選択の奨励と両輪に家計を潤す経済体制を整えざるベからず。かつ、逆説すれば君経済的成長を見込めぬ時勢と察すれば寧ろ風紀の厳粛に孜々努めざるベからず。
 これ恋愛乃ち自由配偶選択と家計の秤なり。もし恋愛を解放したくば単に家庭を築く家計を潤さざるベからず、又既に家計を潤さば風紀の厳格を社交に浸透せざるベからず。衣食足りて礼節を知る、之又交際の発展に関しても同様。

2007年8月10日

日本の徳

中国を含むアジア連合を避け、アメリカとカナダを含む太平洋連合に協賛する方がどれだけ世界史に福祉あるか知れない。

近代文明論

知性、理性、感性はそれぞれ理論、実践、技術すなわち真、善、美のための知能特性に由来する。科学、哲学、芸術はこれらの文化。私はこれらの文化を総称して学術と呼ぼう。学術に於いて三権独立は必然となる。
 近代文明人は学術、政治、経済という自律すべき三権の調和を国家運営へ応用する。それらはやはり同様の理論・実践・技術の組み換え構造と考えられる。もし国家連合が可能なら、以上を考慮して学政経の三位を国際的に建設しなければならない。また少なくとも近代政治に於いては、理論・実践・技術に当てはまる立法・司法・行政のいわゆる三権分立が準備となる。
 国際連合が充分に機能するには更に経済上の三権に均衡がはかられるをえる。これは理論・実践・技術にあてはまる家計・政府・企業によってはかられる。家計は消費を、企業は生産を、政府はこの両者からの市場によってつくられた配分のかたよりへの調整を追求する。国家連合間におけるこれらの自律した平衡をはかるには国際市場への適度な介入が必須となる。偏った超大国覇権の打破は集団制裁の国際包囲網によって可能だろう。

文学論

文学とは合理美の抽出。それは多彩性の作為と同時に文明の便利でもある。文体と文脈の揚棄が傑作を生む。教養と天才は不可欠であり、名品は万世を啓発する古典となる。文学は世界観の見極めによって未来文明への布石となる。最高傑作已が聖書として読み継がれる。我々が娯楽としての文芸を弄ぶのは審美淘汰の便宜に過ぎない。
 どのような書物と雖も最大多数の最高啓発則ち救済を目指している。文芸が哲学より尊いならその大衆性に因る。聖書が科学書より貴いなら同じ理由から。文学は聖書の更新。それは旧典を新たな智恵と折衷させて時世へ翻訳する文化技術。よって文学は宗教を土台とし、又その真理を抽象する。
 救済の度合いに応じてのみ文学の偉業は量られうるだろう。時代を通じて古典化しない明文こそが万民の参照に値する。宿世すくせを越境し続ける経典は古今東西人間世界の真相を穿うがって、理性的存在者の宇宙観へ仮設の信仰方針を与える。
 全ての明文は考えのかたちであり永久に聖書の完成たり得ない。文字に付随した観念だけが理想の契機として重宝される。いずれ一文字で全知を表現する迄、文学は続く。その大衆部を文芸と呼び上座部を哲学と呼ぶ。どちらも文語を通じた聖書の更新という目的に於いて変わらない。科学は数字を含む少数記号を利用して哲学すら抽象化した文化だろう。この方法で現行可能なのは上座部の内、最高峰の知識人を宗派教化する事のみ。科学は知性の宗教。その普及は閑暇への適性に依存する。よって風光明美な涅槃寂静で理論生活への宗教寛容がなければ、比喩の具体性を逃れきれない文学に比べて完全に抽象化しうる科学は一部の特権選良にしか共有される事は無い。いわば科学は上座を文学は下座を救う舟となる。それらは何れが欠けても人類文化を形跡しないだろう。
 科学、哲学、文学は近代迄地球人類文明が育み得た三位一体の活字文化だった。我々は感性、理性、知性という三つの特性をこれ等から成長させる事ができた。そしていずれの特性も近代文明にとっては不可欠となった。

2007年8月9日

創作論

芸術とアカデミズムは相反する。

数理学

宇宙の理由を探ることは数学の手段化を伴う。しかしその認識の限界は同時に手段に在る。総て宇宙論は何れもみな漸近的仮説に留まらざるを得ない。智恵の泉は学究過程の厳密化中にしか無い。物理は学び得ず、思想体系に参加しえるのみだ。しかし我々はこれらの体系を完成へ向かって永久に論理更新させて行く使命を負う。
 理性人の命題は真理の追求にある。真理が相対的にしか認識し得ないにせよ、我々が真理の確律を相対的にも認識しうることは則ちそれを知る経過を意味する。知ることは働きである。全知とは固定した状態では無く、知性の漸進性にとっての進化目的に他なるまい。
 源は果てについての思考と両輪されねばならない。もし片側だけ知り片側を知らない場合があれば、我々は宇宙についての概括にさえ達していないのだ。
 数学しか絶えず積み重ねて学び得ない。数学は我々現代人類が創造する唯一の科学言語である。

2007年8月8日

文芸論

小説は民族史を物語る便覧として役立ったが脱構築思想以後最早その国際定義は無い。語族は国語から解放されたと考えて良い。我々は遊民となる他ない。
 国際文学は近代小説の破格からのみ出発する。現代において私小説すなわち単なる自己中心的現実主義の文化的意義を主張する者がいればお笑い草にしか見えまい。文学的キュビズムは多視点を通じて実存主義的通弊、狭窄な自民族中央史観を悉く排斥する。
 国際遊民は多言語使用者としてしか文芸を創作できないだろう、たとえ翻訳文体を介してさえ。
 現代小説家は多声な物語を折衷する作為を通じてのみ、同時代に献身する筋書きを見つけ得る。振り仮名は詩人の手法であり、文脈の越境は複線的明文化に由る。それらは語句語法や語感の定義のみならず心情を多語族へ伝承する。
 現代文学者の第一声は国際人としての哲学でなければならない。
 だが、無差別博愛や熱狂的自閉がそれ自体特異な様に、或いは如何なる虚構や作り事へもこの個性的友情趣味は各種文化史脈からの要請を万世へ注釈する便覧でありうべき。つまりそれは当代独創的な着眼による文化批判でなければならず、なおかつ審美観点の位置取りは時空普遍的かつその裏付けに多定点なだけ良いのだろう。よって、現代文学の最高峰は碩学的教養と観照の天才なる聖性に於いて測られるだろう。良識に欠けた者の書へ誤った人類内栄冠を与えてはならない。諸文芸賞与論。
 その程度がどの文明を反映するかに関わらず、文明多様観は人類にとって先ず地球史脈型の秩序であるべきだ。脱構築は対流であり、凡そ自傷ではない。
 文学は聖俗の間に風雅を羽含む為に設らえられる特別な祭壇。それは例え何語を通じてすら、最新美観の定義を更新する本となる。

芸術論

反体制を生涯保たない限り芸術家は大成し得ない。芸術は浮利に反する。それが先覚的であればある程、棟梁は俗物を操作しなければならない。巫性はかの審美観の不透過度に因る。且つその美術価は時代の昇華度に依り存する。時代は普遍的・非共時的・通時概念であり、地域的限定を持たない以上、究極の芸術へは文化を超越して漸近しうる已である。若し君が権威に誘惑されたならあらゆる方便を尽くして絶縁すべきである。自己批判を失えば創作性は腐る。

2007年8月7日

ヘーゲル批判

多様観が目的だとすれば、文明は宇宙がそうである如く多声秩序を要請する。我々はギリシアの調和つまり理性が世界中の理想であると考えてはならない。それは文化風土的な当為であり決して万民の規範とは成り得ないのだった。ある時それは脱人間中心的・自然本位な調和となった。彼らにとって幸福はセオーリアによらなかった。そこで理性は感性に従属し、理論理性は技術理性の道具とされた。
 文化交遊を通じて已、純粋理性的存在者、人格は当然の進化を経られる。しかし実際には全文化の保身は不可能。住民の文明化は世界遺産を離脱する様に臨むもの。でなければ地球は何れの御時にか墓場の用地に過ぎない。
 何とは無くても均質化の破格とは元来不自然だと万世へ自覚させよ。観光遺産は壊死文化であらざるを得ない。
 外部からの伝統啓発とその保護買収とは分際に留まる。以外は侵略と呼ぶのだから。この文化的分際の中庸度は単に文明の経済力へ依存している。軍事力は兵器の後手となる。抑止力は侵略力の寡言。よって、もし貴方が少数民族の自然淘汰を憐れむならば私財を投じてその趣味的鑑賞に務める他無い。その国家的な意義は進化の渦中に在る万物誰にとっても存在しえない。
 私がヘーゲルに対して確実に批判しうるのは、統一されざる全体としての梵我一如にのみ現実は存在し又二度と存在しえないという道理。自民族中心主義も脱構築の洗礼を経るべきだろう。

装飾

女性は装飾性を認められるが為に、自体が価値証明ともなっている。

民族精神

「民族意識は魂の幼児期だ、その気質が形成されるのだから」
こういった考え方は、単なる思い込みである。ある文化の働きに対する慣れが、他の文化に適応しきれない人を生み出す場合を強調し過ぎている。つまり、何々人といった枠組みは政治的派閥を目論む権力者が、暴力団乃至政党を結束する為の嘘に過ぎない。

智恵の程度

人が哲学者であるか否かは智恵の態度に応じてしか見分けられない。

科白

孤独と評してみた所でお前が社会の子である限り、永久に道理からは逃れ切れまい。

何の為に生まれたのだ?
献身の為?
死ぬ時には誰もが等しい。
想像力の範囲に幸福を求めよ。決して現実に対して在る可に無い。

人生なる限界へ自覚的にあればこそ、成す可使命は偉大でなければならぬ。
信じるな、行え。
金の為に奔走する者、僅かに浮世の安住へ浮沈する者、何れも果たして虚しい。

隠れて居ても品位は壁を通じて伝わって行くものだ。
人間である限り我々の対象は文明。では目的は?

2007年8月5日

賢愚の言

愚民は物事を複雑にして満足する。賢者には一言で足りる。

2007年8月4日

理想の王国

彼らが文明を築く理由、我々自身の為に。しかし彼らは又、宇宙史の生存闘争者だ。我々の現代は僅かに人類しか理性人を知らない無知に縁起している。彼らの知能を啓発する事、この永久革命としての哲学を通じてすら、人類には固有の限界がある。この限界についての自覚、人間原理の追究は哲学の現代的命題。なぜならこの自覚を通じて限界の克服に努めることによってしか我々は理性の王国の目的を達する建設に参加しえない。
 我々の周縁性の尚更の自覚は地球文明に文化的な個性を育てる土壌ともなる。我々は宇宙の中央文明を見つけなければならない。

流行

流行に敏感になるには食わず嫌いを避ければいい。

2007年8月3日

天才論

我後生へ警告す。現世文壇に一切期待すべからず。現世文壇とは俗物の集合にして、堕落退廃の一大地獄なり。もし文壇にて人道を打ち立てんと欲すれば文壇を観るベからず、出版マスコミその他あらゆる付属物を省みるベからず。唯、当代最高峰の天才作家へ直接弟子入りすべし。天才のみが天才を見出す。これしか天才が世に出る道一切なし。俗物のみが俗物を見出す。俗物が世に蔓延る原因これ以外なし。

女性

女権は自由な男性が解放した。力と云うもののありかと愛玩化への適応がその姿をより女性化させてきた理由。

2007年8月1日

物理学

時の構造、空間によってしか規定されないか、どう時は出来ているか。