2022年12月29日
批評家としての茂木健一郎
モギケン(茂木健一郎)のツイッター返信欄にいる人々の歯の浮くようなお世辞の山。冷や汗が出てくる。そのヒトは、コロナ禍賄賂五輪を有観客強行したがり大量殺戮の過失致死罪を何とも反省しないほど邪悪な人間なのだが。そして自分が必死で裏方として走って、政府や皇室に口利きし彼の蛮行を止めていたが、彼らは何も感じない。凄まじく強い恐怖で言葉を失う。
かつてあらゆる衆愚は元々亡ぶべくして亡びたのだろう。その集団に巻き込まれている事に、途轍もなく恐怖しないわけがない。
モギケンの返信・引用リツイート欄を地獄と思わない人は、この世に生まれ、一体何を学んできたのだろう。人として尊ぶべきものは何も。
野蛮人というものがいる。そして野蛮人が集まると、ますます悪事を拡大する。
東京にはそういう蛮族がたかっていて、日々悪業を拡散している。福島は、悪漢とつきあっていて酷い目にあった。即座に縁を切らねばならないのだ、極悪人たちとは。端から東京と付き合っていなかったら、今も平和だった県。自分は、この世が地獄だとは教わらなかった。学校では、その逆の嘘ばかり教えていた。まるで日本人達が善良な意図をもって理想国を作ろうとしているかの様に。事実はまるで正反対だ。
みよ。モギケンの返信欄にたかる人々は、ホロコーストの被害者を悪意で揶揄する人権侵害者を崇める。地獄の光景だ。
茂木にも寿命がくる。だからこの地獄に耐え抜くのが精一杯だと自分は我慢していた。その時間はまるで未来永劫続くかの様に長く、苦痛は体を切り裂き切って最早のこされた魂だけが引き裂かれ続けていた。
この地獄を支配する闇側を何とか退けなければ、次の邪悪に支配され、何も変えられないと知らずに。
自分は正真正銘のアーティスト、そのものなので、実際そこには純粋無垢で混じりけのない創作意欲――表現の為の欲求と過去の全美術史を乗り越える勇気以外なにもないからだが、芸術家以外で生きえないその人からみると、小林秀雄の様なインチキ好事家がどれほど間抜けに見えるか、モギケンは知らないのだ。浅田彰を尊敬できた試しがないのは、彼は創作する側に立って物事を見る事ができないからだ。批評専門家は何もわかっていない。これが本当の事だ。
彼らは他人の創作物にたかって分かったつもりになって噂話で金を儲け、それなりの地位をえている場合もあるが、単に娯楽を楽しんでいる消費者騙しだ。現実に何かを作ってみろ。絵なんて紙一枚あればそこに描ける。音楽ならのどが動けば歌えるし、詩ならツイッターに書けばいい。尤もツイッターならすぐ消されるだろうが。人の魂の奥底にこもっているうめきを書いたら、常識に凝り固まる自称普通の人々は驚いて即座に冤罪BANをしかけてくるに違いない。むかし、ツイッターで絡んできたやつがいた。いつもそこで絡んでくるやつにろくなのはいない。名前は何と言ったか。
長野の者らしいその男はこう言った。
「芸術家さんですか」
彼が言いたい事は、芸術家という職業人は変わり者だから、変な事を言うのだろう? という差別的偏見での蔑視らしかった。だが、自分はいわゆる変わり者の分類ではない。寧ろ超常識人の側だ。自分には世間で自称普通と称しているIQ100前後の凡人が全員変わり者に見える。イジメを学校でやり、群れて無法者安倍晋三を支持、天皇陛下万歳といって神道と称する人種差別教を信じる――こんな分類の人々は、世界からみて風変わりだ。あの長野の男は、調べてみるとワナビーというやつだった。芸術家になりたがっている(wanna be、want to be)のだがなりきれない人々を指す俗語だが、彼はその宙ぶらりん状態に不安を感じていたのだろう。だから「本物の」芸術家で、それ以外では生きえないだろう自分をみて、無意識にねたんだのである。芸術家は成るものではない。単にその様に生まれつく者だ。自分はその者だから単に事実を語っている。自分は絵がなかったら恐らくもうしんでいるわけで、最後の手段として邪悪な世界に復讐すべく絵という武器を使って、世間からの迫害に抵抗してきているだけだ。芸術が要らない者は唯の凡人なのだ。芸術の領域にはかなりの自由度がある。それは先人らが徐々に獲得してきた領域だが、この範囲では世間では抑圧される何事かを語る事ができる。だから芸術家の言葉は批評家の言葉とは違う。その人は、自分の自由を使って、世間で許されない何かを語るだろう。それは同時に独創的で、彼らがいなければ無い。生まれつきほかの人々と大きく異なる特徴を明らかに持って生まれてきた人々は、その特別さを世間と適合させる事が必ずしも巧くできない。だから芸術という自由度の高い領域に魅せられ、そこで何事かを語る。
天才という言葉は、この意味で、芸術家自身に最もふさわしい。その人は生まれつき違うのだ。何か詩を語らせてみるといい。天才ならば、その人は他人には想像もつかない何かを語りだすだろう。そしてそれは同時に世間の人々には判断のつかない事だろう。まるで天から降り注いでいた神秘の真砂を捕まえるかのよう、天才は滔々と語り続ける。それらすべての言葉は、既存のルールのまねごとではない。人々に理解でき、共感され、イイネされ、受賞する様な言葉は、どれもこれも真の芸術ではありえない。なぜなら同時代の遺伝子は一定のばらつきのもとに繁殖しているからで、大きく外れ値になっている人が語った言葉は、意味不明で、共感できず、ダメだしされ、同時代からつまはじきにされる筈だからだ。ずっとあとから振り返れば、同時代ではダメ人間だと思われていた芸術家の作品こそが、その時代をこえ遥かに進歩的な前衛だった、と気づかれる。失敗者と信じられていた人は、単に同時代の凡愚の群れからずっと遠くを走っていたので、同じ競争だとは見えなかったのだ。
批評家は凡人を騙す楽な商売だ。
遺伝子からして大きく外れ値にある様な人の生きていた世界は、凡庸な遺伝子の人々にとってまるで「異世界」の様だ。
透明な壁で隔てられたその異世界は、はじめ存在自体が気づかれない。何か別の星の言葉で語っている様に。
だが隣の水槽には無数の豊かさが眠っている。その別世界を生きた人がいた。批評家達は、芸術家達がしんでから、世間の評価が確定して、後追いでほめちぎる。さも初めから自分達はその異世界に気づいていたかの様に。嘘つきどもは気づかれないのをいい事に、教養人ぶる。部外者、スノッブとは批評で飯を食う連中にふさわしい言葉である。
何も作れない人々は芸術を知らない。
2022年12月28日
愚かな国の暴力至上主義
ツイッターは我々に次の事を教えてくれる。
・人間は救えないほど愚かしい。
・邪悪な人間は己の愚かさを反省できない。
・人を匿名条件下に置いてしまうと、宗教心のない者はすぐさま悪用する。
・言葉に練達しない者は、当人にとっての分かり易さを賢さと混同して生きている(言葉に騙されている)
ツイッターの中の人は一体何を恐れているのだろう? あれほど簡単に人の言葉を弾圧し、消して、人の魂まで焼いているとは。
人の魂を焼く者は人間の生そのものを消しているのである。
ツイ民一般は、自分達の常識を正義と混同している。それは彼らが愚かだからだ。愚かさは他人に変えられない。
虚勢に耽る者、現世利益に耽る者、世俗の地位を得て威張り散らす者。私がみたツイッター上の人間達は一人残らずこんな連中の手先に甘んじ、それがさも人としてなすべきことかのようだった。
大人が地獄をつくりたがるならそれは世界で最もツイッターに似ているだろう。2ちゃんねる以下の世界がある。ここでは、何も言えない。何かをいうと愚者が寄ってきてそれを通報して消してしまう。だから、誰もかも真実を言う事ができない。いえるのは衆愚の気に入る過ちか、さもなければあしき強者へのお世辞か、どちらかだ。
真実の言葉がない国では、退廃が進む。誰もが絶望していて少しも幸せになれない。わが国が救われるなら、そのときそこにはツイッターという今のサイトはないだろう。無論2ちゃんねるだの5ちゃんねるだの、散々この国を壊乱してきた匿名犯罪サイトも消えている。
いつまでも悪が栄え続けるものだろうか? もしそうならそこに良心をもつ存在は生きていない。生に絶望する為の場だ。恐らくツイッターを作ったジャック・ドーシーらは、手軽な金儲けのため軽いノリで言論の場を作ったのだろう。結果、本来焼くべきではないものを大量に焼いてきた。それは人の魂だ。
既に死の海には大量の人の魂が浮かんでいるが、全て浮かばれない。魂の大量死はツイッターの中の人の深い罪しか何も示さない。
この国に深刻な絶望が広まっている。子供の自殺率は少しも変わらないまま、もっとひどくなっている。だが、自分には理の当然にも思える、ツイッターはモブ達の日常生活を垣間見れる地獄の覗き窓になっているが、彼らが毎日やっている事といえば他人を傷つける為の人道犯罪の山か、顕示消費の自慢かだ。
日頃の行いがこれほど悪い衆愚国なのだから、そんな場が長持ちする筈もない。日々絶望が広まり遂には崩壊が起きる。
政府は軍国化をしたがっているがその為の金は庶民にはない。人頭税をとっても足りないので遂には命を差し出させられるだろう。以前から東大閥三浦瑠麗により設計されていた皆兵令だ。加速主義を唱えていた宮台真司が襲われた。暴漢が何を考えていたかまだ定かではないが、暴力の矛先から反知性主義の右翼なのは想像に難くない。宮台を急進左派かの様に思ったのだろう。現実には政治的に、ただの対米独立論者なのだろうが。
不勉強なままの、極右に歯止めが効かなくなっているのだ。
知識階級の自堕落と倫理崩壊はもう致命的なものだ。大体、宮台自体が「エログロナンセンス」時代の残党一員にすぎず、援助交際を肯定してきた人物である。少なくとも性に関する倫理観のない人にその点で、若者が何を説教されるべきだというのだろう? 修身から始めよと孔子に説教されて恥をかくだけだ。茂木健一郎一味の倫理は完全に狂ってしまい、彼が非難してきた成田悠輔とその点で変わりない。否最初から狂っていたのを何とかごまかして世渡りしてきたにすぎないのだろう。茂木は成田より狡猾に世間を生き抜いた。だがメッキが剥がれてきたら東大閥の肩書で賄賂五輪を強行する既得権の太鼓持ちだった。
自分が生きている時代は、他の時代と実は本質で変わりないのかもしれない。現にその時代に生きていると余りの闇側の圧迫で息がつまりそうになるが、どの時代でも衆愚に囲まれた者にとってそう感じられていた筈だ。但し、信じられない程の受難なので、他の時代の人々はもっと楽だった筈と空想してしまう。
昔の『クオリア日記』を読んでいると、茂木は自分の最初の本に割と正直なアマゾン書評を急ぎ削除に躍起になっている現場が生々しく記録されている。彼にとっては自分が褒められて当然と感じているのだ。その様な自己愛は東浩紀が浅田彰から指摘されていたものと符合する。知識人として危険な兆候だ。我々は自分の考えにも最大限懐疑的たるべきだ。何しろ、正しいと言える考えに容易に辿り着けるなら、真理で世の中は埋まっている。全く不正義や悪徳で埋まっているこの国など、永遠に生まれた筈もない。
小林秀雄は茂木の模範なのだろう。だが小林は戦争協力者だ。しかもその罪業に反省もなかった。茂木は自分の世俗的地位に甚だ関心があるに違いない。意識的には逆の事を言っている動画や音声があるが、現実の動きを近くで観察しているとその逆ではないかと疑わしくなってくる――アマゾンのレビューを作家が消して回る事など許されるのだろうか? 村上春樹はドリーに文句をつけたか? 無駄な事だ。我々は言葉が我々に紐づけられているうちは何らかの意図を込めて言った事にされる。テクスト論以後、作家は手元を離れた言葉を必ずしも自分に紐づけておけない。だったら茂木がやった事は、単なる言論弾圧ではないのか。自分が自作を批評すれば十分の筈だ。感想は自由に持てる。上の世代の人間がやってきた事は、実にろくでもない面も沢山ある。それが事実だろう。祖先崇拝を常識かのよういう田母神俊雄は、それが信仰だと知らない。神道から全面的に洗脳されていない人には、原罪を信じている者すらいる。
前世代の罪を拭えなければ我々も同じ罪に手を染めさせられるだろう。
自分には人間という生命体は、誰もかれもろくな生物とは思えなかった。少しはましな人といっても一人だけで、その人としか特に会話していないが、彼女も自分と同じ様に感じている。そしてそれは真実なのだ。
邪悪な生物であるヒトという哺乳類は、まちがいなく亡び去っていく筈だ。他の類人猿の様に。山上徹也が安倍晋三を暗殺後、世の中は少しはましになったかもしれない。いい兆候といえるのは、地獄を現出させていたツイッターの中の人が金の誘惑に負け、英雄イーロンに「言論弾圧の牙城」を明け渡した事だ。実に痛快で、事態は闇側に支配された状態から少しは動き出したのか。光明はまだ僅かだが。この人間界という地獄に終わりが来た時、自分は歓喜する事だろう。何しろ、そのヒトと称する生命体がどれほど悪事をしてきたか、どれほど自分に純粋な悪意からありとあらゆる害悪をなしてきたのかを自分は何もかもよくおぼえているからだ。ヒトは絶対に救われないだろう。あまりに悪事の総量が多すぎる。目立って繁殖しているのは俗物ばかりであり、少なからぬ悪事をして儲けた金で都会に集まり、全国の農村を差別・侮辱・搾取して暮らしている。奈良地方で飛鳥時代にはじまった中華皇帝ごっこらしい。
これほどむなしい島嶼に偶然生まれてみると、愚かな者は絶対救われないのだと深く確信を持てる。言論弾圧の為にはどんな手だてでもとるガーファムは、少しも中国政府を非難できない。彼らの恣意的判定でどれほど我々が迷惑を受けてきた事か! 人の信頼を裏切る事は、度重なっていくほどその会社を支える国の文化背景への憎悪や、遂には怨嗟に転嫁しかねない。自由の国など大ウソだ。金儲けの国。米国の暴力に従って、日本をダメにしている連中は、単に力にはひれ伏すだけの卑怯者である。そんな事は分かりきっているが、彼らに正義など知覚できないのは明らかだから、この国の軍隊は根源的に信用ならない。自衛隊を信じている衆愚は確実に裏切られる。彼らは暴力しか信じていないのだ。
ボビーの真理
今日からツイッターでの表現をもう一度試してみる。それも、天下のイーロン・マスク氏がこのSNS界きってのダメ企業、いや「言論弾圧だらけの悪魔の会社」を買収し、事態が改善したかを確かめてみるべきだからだ。
もし彼が有能なら、今度は自分のアカウントがころされることもないだろう。恐らく。
言いたいことは山ほどある。いな、単に言いたいとかよりむしろ言わねばならず、確実に後世に残さねばならない。それは人道についての事だからだ。しかも、表現をする事は自分の使命でもあり、仕事だ。自分は芸術家であり、自分の思想や思い、感覚や内面を表現できなければもう死んだのと一緒だからだ。
今のツイッターは……およそ以前と変わらない。事態はますます悪くなっている。特に日本では。
自分はもっとはじめにデザインが今とは全然違った頃からツイッターをみていた。それで「つぶやき」と自分がツイートを意訳してブログに書いていたらそれが自然に広まった。だって最初は本当に呟きだった。あとから考えると、直訳で「さえずり」にしとけばよかったようにも思うがもう今となっては手遅れだ。とかくこの「つぶやき」の集合体だったものは、今では企業だの影響者(インフルエンサー)と称する俗悪な人々の集まりになって、質がますます低下した。最初からただの「つぶやき」の場だったのだけど。
当時、自分は普通に呟きのつもりで色々ツイッターに書いていた。周りもそうしていた。そしたら、突然アカウントが消された。これには相当驚いた。けど、今となっては当たり前の事でもあった――まさかツイッターの中の人があんなに邪だとは知らなかったのだ。この会社は以前から、中の人が変わらなかった。自分は短文が比較的好きだ。あらゆる文芸形式でも箴言の様に短い作文が一番好きなくらいである。詩でもゲーテみたいのより俳句のがいい。だからツイッターには向いてそうに思っていた、勿論初めは。勿論、それは勘違いだった。中の人の狂い方が凄まじくここには何の表現の自由もないのだと知らなかった。
日本、殊に東京のテレビ局は以前から土台狂っていて、言葉狩りという悪習を行う。言葉狩りとは文脈を無視し、単に字面に恣意的解釈を加え単語単位で世界から消そうとする暴力をいう。その暴力は、文芸にとっては邪魔でこそあれなんの得もない。何しろ言葉は置かれる文脈で意味が全く変わるものだからだ。再三いう様に、ツイッターは短文メディアの癖、そんな文脈の理解が何もできない中の人だった。だから単語単位で何でも冤罪BANしてくる。BANとは古英語からきていて破門、禁止などの意味。ネットの社会ではアカウントを削除したりして、言論の自由を奪う事を指す。ツイッターはこれが心底大好きだった。冒頭に書いた通り事態はますます悪くなっている。イーロン氏にどれほどの徳があるかも分からず、彼一人に全てを変えられるだろうと信じている人はまだいない。逆に、天下のニューヨークタイムスすらとりあげるよう、東京赤羽のうみだししネット界きっての魔物、大魔王ひろゆきの切り抜きがはやっている。
だから自分は半信半疑でこれを書いている。またいつなんどきツイッターの中の人が、言葉狩り暴徒にそそのかされ、我々の言論自由を弾圧するか分かったものではないからだ。正直にいえば自分はツイッターが或る種の地獄だと確信しているが、今日は敢えてそこを再び訪れ戦うつもりになったのだ。ある訳で。
元々ツイッターは短文向けになっており、しかも、ツイッター民一般はこれも散々分析したのだが異常なまでに短さを賢さと誤認する。さらに正確にいうと、彼らは単に言語IQが低い集団らしいといってもいいのだが、そういう民度が当たり前みたくクラスが作られてて、高言語IQのはみ出し者から迫害される。自分は本を読むのが日常、という次元をこえて、もはや自分より読書家が人類史にいない可能性が少しはあるくらい、本読んでた記憶しかない。少なくとも高校からはそうである。毎日限界量までの本、精確にいうと文を読んでるので、文章が好物であり、しかも長くて難解でも平気でいるという典型的文学者だ。よって日本語ツイッター民は天敵みたいなものと感じるくらい全くウマがあわない。彼らは、僕が実は短文の方が好みなんだけど、と感じているのに、なぜかそこにきて「短くしろ!」「バカが!」と散々脅迫し、言論弾圧し、威力業務妨害し、殺害予告までしてくるのだ。文学者が何書こうが文人の自由なのに。ツイッターの140文字って超短文では? とか言っても何も通じない。だって小学生で渡される作文用紙400字づめを何枚も埋める筈だ。それが全然できないのがツイ民の中央値なので、それ以上の能力を期待できないのは十分わかっている。自分は海千山千、このサイトを何十年もみてきてもう相当慣れた。単にツイ民だけではない、中の人がそうなのだ。だから彼らは『1984』真理省級の言論弾圧を平気でやってきていた。自分は最悪だなこのサイトと何度思ったか分からない。その最悪だな数をかぞえあげたらとっくに宇宙全体が埋まって今ごろ最悪だな以外の何もなくなっているだろう。偶然残ったこの宇宙だ。
これだ。ツイッターは。何かしら書いている時、無言の圧力を感じる。それは
「とにかく手短にまとめろ」
「きりあげろ」
「イケハヤ(最近いない)みたいに、箇条書きでコツをまとめ、忙しい商売人にウケをとれ」
こういう最悪、うん確かに自分にとっては最悪でしかない圧力が無言でかかる、だから嫌い。
自分は思いが殆ど無限にあるから詩を書いてといわれたらその場で無限に書ける。単に、ブログの管理が一日一投稿だけにしといても膨大になっちゃうので、書くスペースがないだけである。既に何万記事にもなってあまり管理不可能になってしまっている。
その意味で自分は一般ツイ民とは脳自体が違うのだ。散々きりすてて、思い全部のうちほんの小さなナノミクロンより小さい素粒子以下の物質単位みたいなのを異常な精度でぎりぎり大変なのにとりだし、これでしょ? とかいうと「長い!」「短くできないから馬鹿」などといってくる。最小化してそれだ。ツイ民って。だからうんざりしかしないのは当然だが、自分は色々悟った、人は脳が生まれつき違うので分かりあえるとか思わない方がいい。自分にはツイ民一般は違う人間で、同じ存在と思わない事にしてもう随分たつ。実際、言論を弾圧することなくその文を楽しんで読んだらいいだろうにと思うが、彼らは読書が苦痛で、永久にそんな風には思わないらしいのだ。
糸井重里さんの文章を読んでいた。岩田社長(有名なので省く)と組んで作った『MOTHER2』が神作なのは無論だが、読んでいて色々な感慨がわいた。糸井さんは言葉の職人として、岩田さんは天才プログラマーとして、偶然コラボがなりたって、小4の僕の前にあれが現れたのだと。同級生の野口君の手から。ツイッターでは茂木健一郎が糸井さんにつぐ文化人系フォロワー数だった。茂木脳博士の倫理崩壊をみていたツイ民は、前アカウントを彼周囲のネトナチ一味に冤罪バンされほぼロム専状態だった自分も含め、唖然としていた。
このまま放っておいても世の中は少しもよくなりはしない。子供は勘違いする。糸井さんはかつてのサブカル文化人ポジションのまま、一部(プライムっていいづらい)上場企業の社長として君臨する様になった。現役小学生でギーグじゃなくなぜかポーキーを倒した自分には、彼が神なことを余り疑えない為それはかなり良い体制だが、次点のモギケンは本当にひどい。世を壊乱している。
世界は変えられねばならない。それも、よりよい方へ。
イーロン氏は金の力で世を救いたいのだろう。
自分にも金があればそうしている。
だが、自分が専攻してきたのは美術、絵で、その派生分野みたいに周辺をほどあれ知っているに過ぎない。武器はある。だがそれを使わねば、世界は変えられない。
モギケンのツイッター討伐が完成したら、そのとき、世の中は根本から変わるだろう。彼は倫理崩壊した脳科学者で、コロナ禍賄賂五輪の有観客強行、ホロコースト被害者揶揄ギャグ全力弁護(僕が人道の観点からそれはないでしょと注意したら冤罪バンされた)、ノーマスクテロ、ひろゆき沖縄ヘイト擁護、数え上げればきりがない悪行の山々がある。それらの山々は、後世に悪疫をもたらし続ける。現に、今度は福島原発事故に無反省であいかわらず東電筆頭株主・東京都民の分際で再稼働強要や、科学の乱用で汚染水押しつけなどにも手を出している。福島側にくらすこちらから見れば悪魔以外何物でもない。数万年も影響が残る炭素14や、影響が微弱になるまで最低60年かかるトリチウムがアルプスでもとりのぞけない水を、いつもの逃げ口上で「処理水」といいかえる東京人特有の幼稚な手口。飽き飽きなのは無論、東京都の科学水準の低さは深刻に未開というべきレベルである。現に、班目春樹は東大博士として福一は爆発しないと嘘ついた。東京都に何も期待できない、どころか原発を東日本中にまきちらし爆発させ逃げるかぎり積極的に解体しなければならないのは公害の一被害者側として全く真理だが、今はその話ではない。そっちのが深刻だが。
ツイ民一般に場を譲る限り全ては悪くなるのである。今をみよ。国の調子が悪くなってきている。
だから自分は覚悟を決めた。
維新志士の様に、というか維新志士として、自分は生きる。ただ、自分は文人なので文で。特に絵が一応得意なんだから、何かしら絵の分野とかでやれないかなーとみているが、普通に。絵で。国の革命に力を貸すのが自分の使命ではないか? 政治家やれるならやるかもだけど。
それ覚悟なの? ほにゃふにゃだけど、という風に。弱そうな体で。わざと書いてみたが、それは修辞術。レトリック。文人だから怖くなさそうに書いたのだ。
実際の覚悟としては、別にしんでもなんでもよい。どうせ放っておいても世の中よくなりはしない。この調子なら国が亡ぶだろう。だから天下を取る。
糸井氏の志は高い、偶然だけど。最初はドラクエをやってて嫉妬したらしい。それで頑張って作ったが『MOTHER2』で頂点を極め3はみんな待ってたのに頓挫、まじでまってたが為に64までもっていた僕がいうのだから間違いない。で、アドバンスでお仕着せの別バージョンだしたがこれじゃない感が凄かったがとにかくゲームクリエイターとしては堀井雄二を超えたのではなかったか。今から振り返ると、ドラクエシリーズは11Sまで全部やって7だけスマホ版ですら途中で退屈して最後までやれないでいるが、総合点だったら、実は糸井さんのが神だったと認識していい。小学生からゲームやってきていうのだから確かだ。10オフラインだけやってないっちゃやってないが、まだ出てすぐだし10オンラインはなんか違う感が凄くてすぐ出てしまった。とろいんだもん、歩きが。なにあれ。
まぁいい。
糸井さんがやった事は誰かが継がねばならない。偉業を。宮崎駿の後が新海誠では話にならないのだ。それと一緒。黙れば終了だ。自分は表現力がある。このように、さっき書くかなーと思ってからここまで書いた。表現力でいったらちょっと誰か勝てる人いるのか分からない。だが、ツイ民は自分の天敵であり、とにかく芸術表現を弾圧する。芸術家の表現の自由を弾圧する。すきこのんで弾圧する。それは彼らが根っから敵キャラだからだ。それなら、自分はしぬまでその敵たちと戦い続けねばならない。
大昔、といっても5年前くらいにイギリスの友人にいわれた。友人なのかあれ。知り合いよりは知ってるけどね。「戦え!」と。日本は衆愚なんだと僕が相談したら。「モブと戦って、世界を変えろ」
彼ボビーが言った事は真理だったろう。
関西弁とトラウマ
はじめ資本主義が原因かと思った。さも金儲けに陥れられているのかと。実際そういう力も関係あるかもしれない。だが、それだけではない。この力は、もっとろくでもないものだ。
自分は綿矢りさという人がとても苦手だ。インターネットを開いていると最近たまに現れ、当該人物はなにかの宣伝をしているらしい。出てくると自分は吐き気がしてくるのですぐそのメディアを切る様にする。さっきもツイッター上に出てきたのですぐミュートして切った。それも理由がある。実際、自分は当該人物をみるとトラウマが発動して、具体的に、食事ものどを通らなくなるのだ。
この人物は不道徳なこと、下品なことを書きつけ、関西から東京へでてきて自己宣伝する。だからとても苦手なのだ。しかも、昔2ちゃんねるの文学板というところでこの人物のスレッドは最悪で、当人もどきみたいなやつや下衆ファンが色々汚い冤罪を自分にしかけてきたことがあり、自分にはものすごい本物のトラウマになった。自分は漱石や芥川、当時はまだ読んでいた春樹のスレッドなどをおもに見ていたのだが、綿矢という人のスレッドはたまたま上にあがってくるとろくでもなく低俗な内容で、板全体でも異様に浮いていた。まるでアイドル板みたいなところから場違いの下賎な人々が入り込んでいるみたいに、そこだけ民度が異常に低く邪魔だった。しかもたまたま上にあがってきたとき、作者がセクハラ発言をされている様に見えるので自分がそれはよくないんじゃないのみたく一言注意したら、下衆ファンが急に発狂して攻撃をしかけてきたばかりではなく、当人みたいなやつまでわいて、「折角セクハラ楽しんでたんやから邪魔するなや」みたいな信じられないほど下卑たことを関西弁で言った。自分は人間がそんなに汚い存在だとは全く想定していなかったので、大ショックを受け、何ヶ月も食事すらうまくできなくなるほど気分が悪くなってしまった。まるで『MOTHER2』でゲップーにやられた時みたいに。それ以上にひどかった。以後も、綿矢スレッドの下衆どもはしぬほど汚く、自分の実名やアカウント(2ちゃんではトリップという)になりすましての名誉毀損罪を散々やってきた。木村花さんが自殺し、やっと政府が対応しだすまでまだ遥か先のことで、その時点で自分はまだ20代前半だったが、それから10年近く、毎日のよう綿矢一味から想像のかぎり最悪の名誉毀損罪、侮辱罪、誹謗中傷をされ続けた。それがやっと終わったのは自分が東日本大震災に遭った時で、誹謗厨自体も被災して焦ったのかもしれなかったし、そいつらは日本が亡びかねなかったのでビビって逃げたのかもしれなかった。いづれにしても、綿矢りさ一味は、本当にろくでもない。
しかも、ブログかなにかから狡猾にもたどって、脅迫の電話をしてきたやつも一匹いた。昔の携帯にだ。綿矢りさ一味は頭がおかしいことが間違いない。もう一度書くが、単にセクハラ発言から善意で作家を一度庇ったことがあっただけでである。だが、そんな作家が逆切れするだろうことは決して偶然でもなんでもない。フェミニストもびっくり仰天、実際綿矢とかいう人物はそれほど下賎な内容を書くのだ。当時2ちゃん文学板で作家当人みたいなやつがよんでとすすめてきたからしょうがなく自分がよまされた、『夢を与える』とかいうのは本物の集団強姦肯定小説で正真正銘純然たる蛮族の話で、それが馬鹿なことに東京とかいう下衆地獄に関西から出てきて勘違いした最悪の猥褻物頒布罪を石原慎太郎都知事と組んで18歳未満にまでしてる本であり(この都知事がまたエログロナンセンス時代の残党で『聖餐』とか殺戮強姦猟奇性愛小説で頭がおかしい)、またまた吐き気が止まらなかった。そのすこしまえ我慢してブックオフ100円の『インストール』よんだら、もはや嗚咽がとまらないほど下品で信じられず、未成年が性売買して自慢する話で人として終わってる次元であり、京都とか称する人心スラムは完全におわっていいのだ。その後ずっとたって、キヨハとかいう人がツイッターで暴露していたが現実に京都では未成年を人身売買しているらしい。終わってる。やはり腐った社会からは腐った人間が出てくるのだし腐敗していたら腐敗していると気づくべきで、東京人どもが綿矢の退廃小説がまきちらす腐臭に気づかないのは、当人らの魂も同等以下に腐っているからだ。樋口一葉『たけくらべ』の頃から東京も腐っているのだし、紫式部『源氏物語』の頃から京都こと山城国も腐っている。綿矢や紫をほめる茂木健一郎も道徳心が腐っているのだろう。コロナ禍賄賂五輪有観客強行やノーマスクテロは明白な公害であり過失致死罪ではないのか。歴史否定論はネオナチに力を貸すろくでもない狂った神経科学屋の妄想である。
だがあるとき急に吐き気がして、同じ感じになった。原因不明だった。なぞなのでびっくりして随分動けなくなりうずくまっていたが、本当に。気づくと、テレビで『火垂るの墓』を流している。ジブリアニメだ。高畑勲は関西人なのだろうか? その言葉が、自分には京都弁と似てきこえるので、勝手に無意識が反応して関西人を避けるよう命令したらしい。
2022年12月27日
2022年12月21日
最後の審判
2022年12月20日
用・強・美・安
資本主義社会の現代建築は一般に、ヴィトルヴィウス『建築書』以来の三大要素に加え、経済合理性もあわせ鑑みるよう要請されている。
また、経済合理性には一般のそれと、特定のそれがある。このうち、一般的な計画にかかる負荷を前者で、特定計画のものを後者で説明できる。
・一般経済合理性――一般計画に掛かる負荷
・特定経済合理性――特定計画に掛かる負荷
以下に同時代建築からの実例を挙げる。
ここに「京都らしさ」と称し、受領宜しく庶民からの税搾取による贅沢ぐらしを営んでいた中世世襲公家らの顕示的消費ぶりに懐古趣味を発揮する目的で、一般市民は特に使えない茶室を併設したり、地方交付税に財政面で依存しているにもかかわらず公僕たる議員らの虚栄心を増すほど華美な議事堂にしたてたり、優れた職人らの伝統工芸を保護する代わり一般市民の税負担が増す漆塗りの豪華装飾を施したエレベーターを設けたりし、同時に、役人にとっての利便性を図る地下通路を立派に建設はしてみたものの、事実上の財政破綻を伴う財政難も相まって、単に職員全員を容れる用にさえかなわなかったため世間の非難を受けた『京都市庁舎』の拡張計画がある。この計画は、一般経済合理性を大幅に軽視したことで、資本主義経済下に有る現代社会の一般要請に巧く適わなかった一例、と認識される。すなわち、設計意図が古都にふさわしい品位誇示を兼ねた利便性の向上だったものの、市民目線では「あれもこれも、もっと節約できないか?」とみなされたのである。
またこれとは別に、総額34億円6600万円の改修費となって、却って税負担がコロナ禍で苦しむさなか世間から失望を買った『秋篠宮邸』改修工事があり、特定経済合理性の確保に失敗した一例だと考えられる。この計画は単に一家が暮らすに過ぎないにしては通常の相場に比べ余りに額が高すぎるため、国民感情を顧みれば、かりそめにも先祖たる仁徳天皇の逸話――『日本書紀』によれば、自分の家の屋根の破れも直さず一為政者として減税下の節制に務めた――があるにもかかわらず、近い将来の日本国・国民統合の象徴たる地位にふさわしい人物がはぐくまれるべき家の建設に於いて、といった、ごく特定の場面で、景気停滞期にあたる平成末期から令和初期の「今かけてよい費用負荷の設計」ではことさらなかったのである。
他方、また別の同時代の一例を挙げる。
初めの計画ではおもに眺めのよさをともなう内観のためだろう全面ガラス張りにするつもりだった箇所を、省エネルギー化をめざし大幅に壁面へ変えたり、市民が憩いをとれる屋外広場にヴォールト屋根を設置する箇所も、部材や空間の大きさをより経済的なものに変えたりしつつ、施主たる主権者、あるいは、一般市民の感覚とも違和感なく、総合的美観を保つ実施設計をまとめた『日立市役所』は、これら両方の経済性に成功した例といえるのだろう。
具体的に紐解いていけば、全面ガラス張りの部屋は成程どの執務室からでも周辺の街や山、そして海までが見渡せるよい眺望が確保され、市役所を訪れた人の為だけでなく、職員の日常生活をもより開放感があるものにしたかもしれないが、同時に、公的機関でのエネルギー負荷増は絶えず懸念される公共問題ともなりえる。屋上に太陽光パネルを設置する予定であったが、優先順位を考えれば、初めの計画案を見直し、特に夏場における西日流入や、普段から全天日射しか期待できない北側窓など、必ずしも快適さを伴わない場所の壁面化で、より使用エネルギーを節減できる形で再設計するのは一般経済合理性を満たす結果なのだといえる。
いかにも室内と地続きになっている屋外広場は、つねづね訪れた人々にとって市役所という「お堅く」「怖い」場所への敷居を下げるだろうし、このため円形を多用した柔らかな印象をあたえる流動的な屋外屋根を作る事さえできれば、内外貫流空間づくりの手段となっている部材自体は、必ずしも豪華な必要がない。市役所全体の美観と矛盾しない範囲で実用性をかえりみ、初期計画より的確な内容に費用もろとも精査できた点で、このヴォールト屋根素材のより安価な部材・形・大きさへの見直しは、特定計画上での特定経済合理性を満たした実例といえるのだろう。
2022年12月19日
偶然的性選択説
既存の性選択説は完全なものではなく、遺伝的多様性について十分に説明できない。実際には、配偶選択に一定の偶然性が介在しており、或る程度の適応度がある個体のうち、特定の個体をえりぬくときたまたま選ばれる事が有る。必ず最適化された種だけが選ばれるわけではない。よってこの説は偶然的性選択説と呼べる。
2022年12月14日
2022年12月13日
同類
2022年12月9日
2022年12月8日
最高の芸術家
嘘で埋まったこの世
あなたは既にいない
既にこの世のものではない


