2022年12月29日

批評家としての茂木健一郎

モギケン(茂木健一郎)のツイッター返信欄にいる人々の歯の浮くようなお世辞の山。冷や汗が出てくる。そのヒトは、コロナ禍賄賂五輪を有観客強行したがり大量殺戮の過失致死罪を何とも反省しないほど邪悪な人間なのだが。そして自分が必死で裏方として走って、政府や皇室に口利きし彼の蛮行を止めていたが、彼らは何も感じない。凄まじく強い恐怖で言葉を失う。

 かつてあらゆる衆愚は元々亡ぶべくして亡びたのだろう。その集団に巻き込まれている事に、途轍もなく恐怖しないわけがない。
 モギケンの返信・引用リツイート欄を地獄と思わない人は、この世に生まれ、一体何を学んできたのだろう。人として尊ぶべきものは何も。
 野蛮人というものがいる。そして野蛮人が集まると、ますます悪事を拡大する。
 東京にはそういう蛮族がたかっていて、日々悪業を拡散している。福島は、悪漢とつきあっていて酷い目にあった。即座に縁を切らねばならないのだ、極悪人たちとは。端から東京と付き合っていなかったら、今も平和だった県。自分は、この世が地獄だとは教わらなかった。学校では、その逆の嘘ばかり教えていた。まるで日本人達が善良な意図をもって理想国を作ろうとしているかの様に。事実はまるで正反対だ。
 みよ。モギケンの返信欄にたかる人々は、ホロコーストの被害者を悪意で揶揄する人権侵害者を崇める。地獄の光景だ。
 茂木にも寿命がくる。だからこの地獄に耐え抜くのが精一杯だと自分は我慢していた。その時間はまるで未来永劫続くかの様に長く、苦痛は体を切り裂き切って最早のこされた魂だけが引き裂かれ続けていた。
 この地獄を支配する闇側を何とか退けなければ、次の邪悪に支配され、何も変えられないと知らずに。

 自分は正真正銘のアーティスト、そのものなので、実際そこには純粋無垢で混じりけのない創作意欲――表現の為の欲求と過去の全美術史を乗り越える勇気以外なにもないからだが、芸術家以外で生きえないその人からみると、小林秀雄の様なインチキ好事家がどれほど間抜けに見えるか、モギケンは知らないのだ。浅田彰を尊敬できた試しがないのは、彼は創作する側に立って物事を見る事ができないからだ。批評専門家は何もわかっていない。これが本当の事だ。
 彼らは他人の創作物にたかって分かったつもりになって噂話で金を儲け、それなりの地位をえている場合もあるが、単に娯楽を楽しんでいる消費者騙しだ。現実に何かを作ってみろ。絵なんて紙一枚あればそこに描ける。音楽ならのどが動けば歌えるし、詩ならツイッターに書けばいい。尤もツイッターならすぐ消されるだろうが。人の魂の奥底にこもっているうめきを書いたら、常識に凝り固まる自称普通の人々は驚いて即座に冤罪BANをしかけてくるに違いない。むかし、ツイッターで絡んできたやつがいた。いつもそこで絡んでくるやつにろくなのはいない。名前は何と言ったか。
 長野の者らしいその男はこう言った。
「芸術家さんですか」
彼が言いたい事は、芸術家という職業人は変わり者だから、変な事を言うのだろう? という差別的偏見での蔑視らしかった。だが、自分はいわゆる変わり者の分類ではない。寧ろ超常識人の側だ。自分には世間で自称普通と称しているIQ100前後の凡人が全員変わり者に見える。イジメを学校でやり、群れて無法者安倍晋三を支持、天皇陛下万歳といって神道と称する人種差別教を信じる――こんな分類の人々は、世界からみて風変わりだ。あの長野の男は、調べてみるとワナビーというやつだった。芸術家になりたがっている(wanna be、want to be)のだがなりきれない人々を指す俗語だが、彼はその宙ぶらりん状態に不安を感じていたのだろう。だから「本物の」芸術家で、それ以外では生きえないだろう自分をみて、無意識にねたんだのである。芸術家は成るものではない。単にその様に生まれつく者だ。自分はその者だから単に事実を語っている。自分は絵がなかったら恐らくもうしんでいるわけで、最後の手段として邪悪な世界に復讐すべく絵という武器を使って、世間からの迫害に抵抗してきているだけだ。芸術が要らない者は唯の凡人なのだ。芸術の領域にはかなりの自由度がある。それは先人らが徐々に獲得してきた領域だが、この範囲では世間では抑圧される何事かを語る事ができる。だから芸術家の言葉は批評家の言葉とは違う。その人は、自分の自由を使って、世間で許されない何かを語るだろう。それは同時に独創的で、彼らがいなければ無い。生まれつきほかの人々と大きく異なる特徴を明らかに持って生まれてきた人々は、その特別さを世間と適合させる事が必ずしも巧くできない。だから芸術という自由度の高い領域に魅せられ、そこで何事かを語る。
 天才という言葉は、この意味で、芸術家自身に最もふさわしい。その人は生まれつき違うのだ。何か詩を語らせてみるといい。天才ならば、その人は他人には想像もつかない何かを語りだすだろう。そしてそれは同時に世間の人々には判断のつかない事だろう。まるで天から降り注いでいた神秘の真砂を捕まえるかのよう、天才は滔々と語り続ける。それらすべての言葉は、既存のルールのまねごとではない。人々に理解でき、共感され、イイネされ、受賞する様な言葉は、どれもこれも真の芸術ではありえない。なぜなら同時代の遺伝子は一定のばらつきのもとに繁殖しているからで、大きく外れ値になっている人が語った言葉は、意味不明で、共感できず、ダメだしされ、同時代からつまはじきにされる筈だからだ。ずっとあとから振り返れば、同時代ではダメ人間だと思われていた芸術家の作品こそが、その時代をこえ遥かに進歩的な前衛だった、と気づかれる。失敗者と信じられていた人は、単に同時代の凡愚の群れからずっと遠くを走っていたので、同じ競争だとは見えなかったのだ。
 批評家は凡人を騙す楽な商売だ。

 遺伝子からして大きく外れ値にある様な人の生きていた世界は、凡庸な遺伝子の人々にとってまるで「異世界」の様だ。
 透明な壁で隔てられたその異世界は、はじめ存在自体が気づかれない。何か別の星の言葉で語っている様に。
 だが隣の水槽には無数の豊かさが眠っている。その別世界を生きた人がいた。批評家達は、芸術家達がしんでから、世間の評価が確定して、後追いでほめちぎる。さも初めから自分達はその異世界に気づいていたかの様に。嘘つきどもは気づかれないのをいい事に、教養人ぶる。部外者、スノッブとは批評で飯を食う連中にふさわしい言葉である。
 何も作れない人々は芸術を知らない。