2022年12月28日

ボビーの真理

今日からツイッターでの表現をもう一度試してみる。それも、天下のイーロン・マスク氏がこのSNS界きってのダメ企業、いや「言論弾圧だらけの悪魔の会社」を買収し、事態が改善したかを確かめてみるべきだからだ。
 もし彼が有能なら、今度は自分のアカウントがころされることもないだろう。恐らく。
 言いたいことは山ほどある。いな、単に言いたいとかよりむしろ言わねばならず、確実に後世に残さねばならない。それは人道についての事だからだ。しかも、表現をする事は自分の使命でもあり、仕事だ。自分は芸術家であり、自分の思想や思い、感覚や内面を表現できなければもう死んだのと一緒だからだ。

 今のツイッターは……およそ以前と変わらない。事態はますます悪くなっている。特に日本では。
 自分はもっとはじめにデザインが今とは全然違った頃からツイッターをみていた。それで「つぶやき」と自分がツイートを意訳してブログに書いていたらそれが自然に広まった。だって最初は本当に呟きだった。あとから考えると、直訳で「さえずり」にしとけばよかったようにも思うがもう今となっては手遅れだ。とかくこの「つぶやき」の集合体だったものは、今では企業だの影響者(インフルエンサー)と称する俗悪な人々の集まりになって、質がますます低下した。最初からただの「つぶやき」の場だったのだけど。

 当時、自分は普通に呟きのつもりで色々ツイッターに書いていた。周りもそうしていた。そしたら、突然アカウントが消された。これには相当驚いた。けど、今となっては当たり前の事でもあった――まさかツイッターの中の人があんなに邪だとは知らなかったのだ。この会社は以前から、中の人が変わらなかった。自分は短文が比較的好きだ。あらゆる文芸形式でも箴言の様に短い作文が一番好きなくらいである。詩でもゲーテみたいのより俳句のがいい。だからツイッターには向いてそうに思っていた、勿論初めは。勿論、それは勘違いだった。中の人の狂い方が凄まじくここには何の表現の自由もないのだと知らなかった。
 日本、殊に東京のテレビ局は以前から土台狂っていて、言葉狩りという悪習を行う。言葉狩りとは文脈を無視し、単に字面に恣意的解釈を加え単語単位で世界から消そうとする暴力をいう。その暴力は、文芸にとっては邪魔でこそあれなんの得もない。何しろ言葉は置かれる文脈で意味が全く変わるものだからだ。再三いう様に、ツイッターは短文メディアの癖、そんな文脈の理解が何もできない中の人だった。だから単語単位で何でも冤罪BANしてくる。BANとは古英語からきていて破門、禁止などの意味。ネットの社会ではアカウントを削除したりして、言論の自由を奪う事を指す。ツイッターはこれが心底大好きだった。冒頭に書いた通り事態はますます悪くなっている。イーロン氏にどれほどの徳があるかも分からず、彼一人に全てを変えられるだろうと信じている人はまだいない。逆に、天下のニューヨークタイムスすらとりあげるよう、東京赤羽のうみだししネット界きっての魔物、大魔王ひろゆきの切り抜きがはやっている。

 だから自分は半信半疑でこれを書いている。またいつなんどきツイッターの中の人が、言葉狩り暴徒にそそのかされ、我々の言論自由を弾圧するか分かったものではないからだ。正直にいえば自分はツイッターが或る種の地獄だと確信しているが、今日は敢えてそこを再び訪れ戦うつもりになったのだ。ある訳で。

 元々ツイッターは短文向けになっており、しかも、ツイッター民一般はこれも散々分析したのだが異常なまでに短さを賢さと誤認する。さらに正確にいうと、彼らは単に言語IQが低い集団らしいといってもいいのだが、そういう民度が当たり前みたくクラスが作られてて、高言語IQのはみ出し者から迫害される。自分は本を読むのが日常、という次元をこえて、もはや自分より読書家が人類史にいない可能性が少しはあるくらい、本読んでた記憶しかない。少なくとも高校からはそうである。毎日限界量までの本、精確にいうと文を読んでるので、文章が好物であり、しかも長くて難解でも平気でいるという典型的文学者だ。よって日本語ツイッター民は天敵みたいなものと感じるくらい全くウマがあわない。彼らは、僕が実は短文の方が好みなんだけど、と感じているのに、なぜかそこにきて「短くしろ!」「バカが!」と散々脅迫し、言論弾圧し、威力業務妨害し、殺害予告までしてくるのだ。文学者が何書こうが文人の自由なのに。ツイッターの140文字って超短文では? とか言っても何も通じない。だって小学生で渡される作文用紙400字づめを何枚も埋める筈だ。それが全然できないのがツイ民の中央値なので、それ以上の能力を期待できないのは十分わかっている。自分は海千山千、このサイトを何十年もみてきてもう相当慣れた。単にツイ民だけではない、中の人がそうなのだ。だから彼らは『1984』真理省級の言論弾圧を平気でやってきていた。自分は最悪だなこのサイトと何度思ったか分からない。その最悪だな数をかぞえあげたらとっくに宇宙全体が埋まって今ごろ最悪だな以外の何もなくなっているだろう。偶然残ったこの宇宙だ。

 これだ。ツイッターは。何かしら書いている時、無言の圧力を感じる。それは
「とにかく手短にまとめろ」
「きりあげろ」
「イケハヤ(最近いない)みたいに、箇条書きでコツをまとめ、忙しい商売人にウケをとれ」
こういう最悪、うん確かに自分にとっては最悪でしかない圧力が無言でかかる、だから嫌い。
 自分は思いが殆ど無限にあるから詩を書いてといわれたらその場で無限に書ける。単に、ブログの管理が一日一投稿だけにしといても膨大になっちゃうので、書くスペースがないだけである。既に何万記事にもなってあまり管理不可能になってしまっている。
 その意味で自分は一般ツイ民とは脳自体が違うのだ。散々きりすてて、思い全部のうちほんの小さなナノミクロンより小さい素粒子以下の物質単位みたいなのを異常な精度でぎりぎり大変なのにとりだし、これでしょ? とかいうと「長い!」「短くできないから馬鹿」などといってくる。最小化してそれだ。ツイ民って。だからうんざりしかしないのは当然だが、自分は色々悟った、人は脳が生まれつき違うので分かりあえるとか思わない方がいい。自分にはツイ民一般は違う人間で、同じ存在と思わない事にしてもう随分たつ。実際、言論を弾圧することなくその文を楽しんで読んだらいいだろうにと思うが、彼らは読書が苦痛で、永久にそんな風には思わないらしいのだ。

 糸井重里さんの文章を読んでいた。岩田社長(有名なので省く)と組んで作った『MOTHER2』が神作なのは無論だが、読んでいて色々な感慨がわいた。糸井さんは言葉の職人として、岩田さんは天才プログラマーとして、偶然コラボがなりたって、小4の僕の前にあれが現れたのだと。同級生の野口君の手から。ツイッターでは茂木健一郎が糸井さんにつぐ文化人系フォロワー数だった。茂木脳博士の倫理崩壊をみていたツイ民は、前アカウントを彼周囲のネトナチ一味に冤罪バンされほぼロム専状態だった自分も含め、唖然としていた。
 このまま放っておいても世の中は少しもよくなりはしない。子供は勘違いする。糸井さんはかつてのサブカル文化人ポジションのまま、一部(プライムっていいづらい)上場企業の社長として君臨する様になった。現役小学生でギーグじゃなくなぜかポーキーを倒した自分には、彼が神なことを余り疑えない為それはかなり良い体制だが、次点のモギケンは本当にひどい。世を壊乱している。

 世界は変えられねばならない。それも、よりよい方へ。
 イーロン氏は金の力で世を救いたいのだろう。
 自分にも金があればそうしている。
 だが、自分が専攻してきたのは美術、絵で、その派生分野みたいに周辺をほどあれ知っているに過ぎない。武器はある。だがそれを使わねば、世界は変えられない。
 モギケンのツイッター討伐が完成したら、そのとき、世の中は根本から変わるだろう。彼は倫理崩壊した脳科学者で、コロナ禍賄賂五輪の有観客強行、ホロコースト被害者揶揄ギャグ全力弁護(僕が人道の観点からそれはないでしょと注意したら冤罪バンされた)、ノーマスクテロ、ひろゆき沖縄ヘイト擁護、数え上げればきりがない悪行の山々がある。それらの山々は、後世に悪疫をもたらし続ける。現に、今度は福島原発事故に無反省であいかわらず東電筆頭株主・東京都民の分際で再稼働強要や、科学の乱用で汚染水押しつけなどにも手を出している。福島側にくらすこちらから見れば悪魔以外何物でもない。数万年も影響が残る炭素14や、影響が微弱になるまで最低60年かかるトリチウムがアルプスでもとりのぞけない水を、いつもの逃げ口上で「処理水」といいかえる東京人特有の幼稚な手口。飽き飽きなのは無論、東京都の科学水準の低さは深刻に未開というべきレベルである。現に、班目春樹は東大博士として福一は爆発しないと嘘ついた。東京都に何も期待できない、どころか原発を東日本中にまきちらし爆発させ逃げるかぎり積極的に解体しなければならないのは公害の一被害者側として全く真理だが、今はその話ではない。そっちのが深刻だが。
 ツイ民一般に場を譲る限り全ては悪くなるのである。今をみよ。国の調子が悪くなってきている。

 だから自分は覚悟を決めた。

 維新志士の様に、というか維新志士として、自分は生きる。ただ、自分は文人なので文で。特に絵が一応得意なんだから、何かしら絵の分野とかでやれないかなーとみているが、普通に。絵で。国の革命に力を貸すのが自分の使命ではないか? 政治家やれるならやるかもだけど。

 それ覚悟なの? ほにゃふにゃだけど、という風に。弱そうな体で。わざと書いてみたが、それは修辞術。レトリック。文人だから怖くなさそうに書いたのだ。

 実際の覚悟としては、別にしんでもなんでもよい。どうせ放っておいても世の中よくなりはしない。この調子なら国が亡ぶだろう。だから天下を取る。

 糸井氏の志は高い、偶然だけど。最初はドラクエをやってて嫉妬したらしい。それで頑張って作ったが『MOTHER2』で頂点を極め3はみんな待ってたのに頓挫、まじでまってたが為に64までもっていた僕がいうのだから間違いない。で、アドバンスでお仕着せの別バージョンだしたがこれじゃない感が凄かったがとにかくゲームクリエイターとしては堀井雄二を超えたのではなかったか。今から振り返ると、ドラクエシリーズは11Sまで全部やって7だけスマホ版ですら途中で退屈して最後までやれないでいるが、総合点だったら、実は糸井さんのが神だったと認識していい。小学生からゲームやってきていうのだから確かだ。10オフラインだけやってないっちゃやってないが、まだ出てすぐだし10オンラインはなんか違う感が凄くてすぐ出てしまった。とろいんだもん、歩きが。なにあれ。
 まぁいい。
 糸井さんがやった事は誰かが継がねばならない。偉業を。宮崎駿の後が新海誠では話にならないのだ。それと一緒。黙れば終了だ。自分は表現力がある。このように、さっき書くかなーと思ってからここまで書いた。表現力でいったらちょっと誰か勝てる人いるのか分からない。だが、ツイ民は自分の天敵であり、とにかく芸術表現を弾圧する。芸術家の表現の自由を弾圧する。すきこのんで弾圧する。それは彼らが根っから敵キャラだからだ。それなら、自分はしぬまでその敵たちと戦い続けねばならない。

 大昔、といっても5年前くらいにイギリスの友人にいわれた。友人なのかあれ。知り合いよりは知ってるけどね。「戦え!」と。日本は衆愚なんだと僕が相談したら。「モブと戦って、世界を変えろ」
 彼ボビーが言った事は真理だったろう。