2018年10月16日

差別

差別はする側に100%原因がある。差別はする側が100%悪く、差別される側は100%善い。差別されたら、自らもそうしていないかに気を配り、差別する者を反面教師にするがいい。差別する者は偏見に囚われ道を過ち、自滅していく。差別された側は安楽に伏す。差別する者は亡び、差別される者は救われる。

2018年10月15日

絵画論

絵にしかできない表現と、写真にしかできないそれは違う。この点で写実絵画の伝統は意義を失った。絵とは抽象性にしか目的がない。
 絵らしさを全きものにした絵と、写真らしさを全きものにした写真とが重要だ。この両者を混同させる表現は、全て間違っている。寧ろ写真は写実絵画が果たしていた役割の一部を受け継ぐ。記録だとかモチーフによる象徴だとか。
 絵の伝統は抽象画が引き継いでいく。
 商業が絵に与えた影響は過大視されている。はっきりいえばそれは完全に無視して構わない程しか絵画史に意味をなしていない。商人は俗人だ。バンクシーのパフォーマンスといった瑣末な嘲弄に対し、絵画史は全く意を介さず存続する。美術市場を相手どる類の芸術家は、全く無意味な作業に時を無為にしているのだ。政治的要素とか、経済的要素は絵画史の本質と無関係だ。あるべき事は絵自体の探求でしかない。

宇宙のわけ

ひと気のない夕暮れ
私はそらを眺める
誰もいないそら
魔法よりうつくしい
神のわざ
だがそれにも終わりはくる
宇宙がどれほど果てしなくとも
星は力を集めて壊す
夢の合間みたい
私はそらを見る
あたかもそこに全てがあるかの様
この小さな星が作る奇跡
生きていることさえ
宇宙にとってはわけもない

正しさ

人は正しく生きられれば十分だ。それ以上を求めるべきではない。

2018年10月13日

教え

愚かな者を教えるのは辛い。愚かな者は逆恨みする。愚かな者に教えるな。愚かな者に教えれば、逆恨みされるであろう。

自国批判

最も自国を軽蔑している人が、代表的なその国民だとは。自国に批判的な人こそが、内外の人にとって最も誠実だから。これに比べ愛国者を自称する連中の愚昧さは、自国について虚偽や自慢をくり返すばかりで、自他に有害でしかない。保守とは愚劣の別名だ。

2018年10月12日

卑しい人

卑しい人を助けるな。卑しい人は逆恨みする。
 人生では卑しい人と片時も過ごす事なかれ。卑しい人を避けて暮らせ。卑しい人はさも魂をもたぬ偶物である。卑しい人とともにあって幸せには決してなれない。
 卑しい人を避けられる程、人は幸を得る。卑しさは行いによっている。わずかなりとも卑しいふるまいがみられた人とは、関わるな。尊い人は卑しいふるまいをしないものだからだ。

2018年10月11日

金持ち

卑しい金持ちは淘汰され、尊い金持ちが択ばれていく。

秋の日に

秋の日に庭の芝生にねころびて陽を受け我も救われり
秋の庭眺め煮込みうどんくわば縁側の我を鳥も笑えり
夜更け過ぎ秋の虫奏づ窓あけみれば海の香ぞする
君のする遊びにわれも興ずれど野卑なる戦われは好まず
われらすごすわずかな時も死とともに生きた証も自然に還る

大衆

今日の大衆は企業や政府の奴隷として人生の長い間を過ごし死ぬ。だが彼らは群衆心理でそうしているだけで、それを望んでいるとはいえない。

美術論

決して壊れない機械の様な作品、全ての時代の人々に救いを与える作品。

2018年10月9日

発明

ソーラーパネルを背面にしたスマートフォン、及び、ソーラーパネルつきのQiの充電器。

2018年10月7日

親

親は子供を程度こそあれ愛玩動物とかんがえている。

わが国4つの悪の元凶

薩長藩閥と皇室を永久に除去する事なしに、日本がわずかでも進歩する事はありえない。
 京都と東京を完全絶滅する事なしに、日本から差別が消える日は来ない。

2018年10月3日

実証主義について

実証主義者は無根拠な倫理、即ち当為が人間理性、もしくは良心に基づく創造的な分野だと知らない。実証主義や実証的科学はコントの創始した新興宗教である。この宗派に心酔している人は、人間づきあいにおいて偏屈で、無神論に陥りがちであり、そのうえ利己的で礼儀や道徳をわきまえていない傾向にある。大学で理科や非人文学のいずれかの分野を専攻した人物は、その総合知力が低いほど不道徳を知性と勘違いしたまま、一生を不幸に過ごす。

自己利益

卑しい人は自己利益が他人にとって好ましいと勘違いしている。もしくは、自己中心的で、他人にとって自分の利益が基本的に有害だと気づいていない。利己的な性格の人は悪い性格である。

経済

経済は人の為にあるのに、それがこれほど人を苦しめるとは。

2018年10月2日

理性と本能

動物は本能に従って生きているが、人は理性に従っていると考える人がいる。だがこの理性というものが、即ち人間的な本能の一部を構成している。人はその本性において、理性的にしかふるまえない。

利他性と利己性

利他性は究極の所、良心の満足という利己性の一部、それも最も高貴な一部である。利己的功利主義、相利的功利主義、利他的功利主義の3つは、それぞれ矛盾しない。これらは同じ良心を、場合によって異なる角度から最適化するものに他ならない。

2018年10月1日

義務と自由

人は義務から解放される度合いに応じ自由である。義務を背負い込んだり、義務を至上と考える事は、幸福の前提たる自由度を損なう。
 カントのいう義務を自己犠牲の合理化と考えた時、それを幸福と思い込むのはふさわしい意志のあり方ではない。自由が望んで選ぶ義務の遂行は良心の追求なのであり、利他性を真に自己満足の為だけに考える事を指す。自分が苦痛や不快、有害さをこうむる時、それを自由が選びとるのはよい事とは限らない。救世主優劣感のよう、聖人の中にも不幸を幸と思い込む人がいる。他方、真の善は利他性自体を純粋な自由意志と一致させている時にあたる。自己に不幸でしかないような利他性は、利他性の偽装と同様に偽善的である。
 自由は義務を超えている。自由である事の中に、利他性が追求されるべきだ。
 天皇や政府の掲げる義務は、国民への奴隷化を意味している。そこからの解放は自由の最大化や、国家からの離脱によって果たされねばならない。個人は国という制度や、皇室という教祖なり権威なり裏の絶対権力者から、自由でなければならない。