人は義務から解放される度合いに応じ自由である。義務を背負い込んだり、義務を至上と考える事は、幸福の前提たる自由度を損なう。
カントのいう義務を自己犠牲の合理化と考えた時、それを幸福と思い込むのはふさわしい意志のあり方ではない。自由が望んで選ぶ義務の遂行は良心の追求なのであり、利他性を真に自己満足の為だけに考える事を指す。自分が苦痛や不快、有害さをこうむる時、それを自由が選びとるのはよい事とは限らない。救世主優劣感のよう、聖人の中にも不幸を幸と思い込む人がいる。他方、真の善は利他性自体を純粋な自由意志と一致させている時にあたる。自己に不幸でしかないような利他性は、利他性の偽装と同様に偽善的である。
自由は義務を超えている。自由である事の中に、利他性が追求されるべきだ。
天皇や政府の掲げる義務は、国民への奴隷化を意味している。そこからの解放は自由の最大化や、国家からの離脱によって果たされねばならない。個人は国という制度や、皇室という教祖なり権威なり裏の絶対権力者から、自由でなければならない。