自殺や自傷は、それ自体の自害に伴う他害性が不道徳の核になる。つまりここで公的問題になっているのは無関係の他者への他害性、はた迷惑さであり、自害に伴う自業自得さではない。
有限の発行済み信用貨幣を寡占する人への憎悪感情、うらみやねたみは、資本主義的商行為、利益追求一般が必然に伴う他害性によっている。アダム・スミスが『道徳感情論』でいわんとしていた主題は、この他害性の不道徳さなのだ。
キリスト教、イスラム教、仏教といった世界宗教は、この他害性を最小化するよう教えている。いいかえれば利他性を道徳として定義しようとしている。
資本主義での利潤追求の自己目的性は、比較的に他者をより資産額で低くみせる効用を常に伴っているので、本質的に他害的である。製品奉仕の相利的交換の体裁をとっているが、搾取・付加価値の連鎖は企業や個人の利己的な意図を増進させる。つまり資本主義を追求する限り、人類は他害性を強化していくのであり、この考えを含む営利企業や個人事業主、その他の市場放任を是認する一切の政党や皇族、王侯貴族ら、或いは資本家、経営者、労働者、消費者といった市場参加者は根本的に不道徳だ。資本主義は相利性に擬態した悪意をいいかえたものでしかない。
累進税制の元で金銭あるいは資産を寡占した人は、納税量が重くなる上にねたまれる。これが十分な社会的制裁ではなく、既に蓄財した資本をふさわしく社会還元できなければ、社会からその資産家への憎悪は仮初の名誉を剥奪するところまで進む。このルサンチマンによる社会の攻撃性は、結果平等を志向する博愛と、単なる自己との比較によるうらやみを組み込んであらゆる対象に向かうので、たとえ自由至上主義者が無税地帯に逃げ込んでも安全ではない。したがって聖人君子と呼ばれる古典的人徳者らが清貧を合理化する説を唱えていたのは、社会のもつこの他害性に対する敵対的本性に悟っていたからであり、最も社会適応的という意味で道徳的だったのである。なぜなら清貧な人から奪うべき何もないばかりか、その人が利他的にふるまっているほど周りは感謝しかし得ないからだ。
金銭と名誉は相反している。資産と敬意も相反している。もし金持ちや資産家が名誉の様な何かを手にしているかのごとく見えるとしたら、それはただの羨望を集めているに過ぎない。その人がカネや資産を一度に失った時を眺めているが良い。そのとき殆どの人が気味がいい痛快を感じたとしたら、そしてそれまで彼らに付き従っていた多くの人々が一度に手のひらを返したとしたら、元々彼らへの従順は自らおこぼれに預かろうとする利己心の故に、本心からの尊敬の念でなく、偽善的に展開されていたのである。真の名誉は常に清貧に伴っている。なぜならそこには他人より客観的に勝るだろう何物もないのに、ある人がもっている単なる徳、それが個人と密接に一体化している場合はただの人格の故に名誉に値すると思われているからだ。
あらゆる知識は客体的なものなので、いずれは全人類の誰かが同様の知を得る。一方で人格は必ずしもそうではない。これゆえ真の名誉は人格に求まる。科学知識における先取権争いは多少あれ利己的なものであり、それが人格にとって必然の探求でないかぎり徳と一致していない。即ち、人生において合目的な探求対象とは、常に人格である。あらゆる技芸はこの人格を、殆ど神格へ一致するまで究極する手立てである。
2018年12月31日
右翼、権力、資本主義の否定について
望むと望まざるとに関わらず旧徳川方に組み込まれた人々を裏切り、虐げ、差別し、侵略して恥じない薩長土肥ら西国人一般は単なる野蛮人だが、その様に他者の立場にたって物事を思う能力がなく、それどころか利己性をマキャベリズムや社会進化論の文脈で自己正当化しかしない人々は、根本的に人類に害意をもっている、人類全体にとって有害な人々なのだ。これは被侵略地域に対して悪意をもっている全ての人々、特に皇室の様な邪教祖兼世襲独裁者とか、自称右翼の安倍晋三、ナショナリズムを主張するドナルド・トランプらなど、権力志向の人々殆ど全てにあたる。右翼とは利己性を美化して言った性質に過ぎず、その本性は他人を自分以下の存在として考えている、実に卑しい心根のいいかえである。
東京都とか、京都市、或いは山口県とか鹿児島県、高知県、佐賀県といった、国内侵略を正当化している地域史をもつ人々は、自文化中心的歴史観の刷り込みと偏見によって多かれ少なかれこの種の蛮根を免れているとはいいがたい。その事は国外に対しても同様であり、第二次大戦の戦勝国やら自称先進国やらの中華思想が旧植民地へどの様に発揮されているかを我々は日々観察できよう。
即ち今日の人類はその種の蛮族と同国内でさえ同居せざるを得ない、非常に不愉快な目にあっているのだが、逆に右翼はその下賎な利己主義の故に己こそ同国の代表者であるかの如く偽装する手立てには事欠かない。だから我々は世界各国のいずれの場所にあってさえ、この右翼的傾向をもつ人々は反人道的な存在、思想と行動のあらゆる面において人間に対して有害なのだと認識する必要がある。いうまでもないことだが、その種の右翼の代表者たる皇族、王侯貴族らは、今日の資本家や労働者と同様に非人間的で、根っから人類全般を己以下の境遇に起きたがる、邪悪なる存在でしかない。資本や労働力は、予てからの世襲権力同様に、自ら国の支配力を寡占する為に機能しているからだ。資本家が非人間的だとマルクスが指摘していたとして、平成の時点で労働者全体も同じ役割を果たしている。この人達は資本主義のしくみを加速させるばかりで少しもそれを抜本的に否定したり、改善したがらないからだ。堕落した宗教家や僧侶、坊主らも、金儲けを志す事で同様の境涯に居る。だが上記のことがわかった以上、善意をもつ、生き残るべき人類が一人以上この地上にのこされているのなら、その人は一切の右翼的思想傾向や、権力志向、そして資本主義といった利己の為の手段を全否定する必要がある。
東京都とか、京都市、或いは山口県とか鹿児島県、高知県、佐賀県といった、国内侵略を正当化している地域史をもつ人々は、自文化中心的歴史観の刷り込みと偏見によって多かれ少なかれこの種の蛮根を免れているとはいいがたい。その事は国外に対しても同様であり、第二次大戦の戦勝国やら自称先進国やらの中華思想が旧植民地へどの様に発揮されているかを我々は日々観察できよう。
即ち今日の人類はその種の蛮族と同国内でさえ同居せざるを得ない、非常に不愉快な目にあっているのだが、逆に右翼はその下賎な利己主義の故に己こそ同国の代表者であるかの如く偽装する手立てには事欠かない。だから我々は世界各国のいずれの場所にあってさえ、この右翼的傾向をもつ人々は反人道的な存在、思想と行動のあらゆる面において人間に対して有害なのだと認識する必要がある。いうまでもないことだが、その種の右翼の代表者たる皇族、王侯貴族らは、今日の資本家や労働者と同様に非人間的で、根っから人類全般を己以下の境遇に起きたがる、邪悪なる存在でしかない。資本や労働力は、予てからの世襲権力同様に、自ら国の支配力を寡占する為に機能しているからだ。資本家が非人間的だとマルクスが指摘していたとして、平成の時点で労働者全体も同じ役割を果たしている。この人達は資本主義のしくみを加速させるばかりで少しもそれを抜本的に否定したり、改善したがらないからだ。堕落した宗教家や僧侶、坊主らも、金儲けを志す事で同様の境涯に居る。だが上記のことがわかった以上、善意をもつ、生き残るべき人類が一人以上この地上にのこされているのなら、その人は一切の右翼的思想傾向や、権力志向、そして資本主義といった利己の為の手段を全否定する必要がある。
2018年12月30日
犬猫守るイギリス人
牛殺し犬猫守るイギリス人
鯨殺る和歌山山口野蛮人
カンガルー食べて鯨を守れかし
犬食べる文化をそしり牛食べる
自らの癖を固守する愚か者
異なれる文化をそしる偽善者よ
動物を守れといいつ虫殺す
植物に痛覚ありしビーガンよ
多細胞生物食物連鎖する
動物を守れといいつ食べて生く
生命の痛み減らせと虫を踏む
微生物うがいし殺し哺乳類
鯨殺る和歌山山口野蛮人
カンガルー食べて鯨を守れかし
犬食べる文化をそしり牛食べる
自らの癖を固守する愚か者
異なれる文化をそしる偽善者よ
動物を守れといいつ虫殺す
植物に痛覚ありしビーガンよ
多細胞生物食物連鎖する
動物を守れといいつ食べて生く
生命の痛み減らせと虫を踏む
微生物うがいし殺し哺乳類
侵略を反省しない人
侵略を反省しない人(平成天皇から安倍晋三まで、薩長土肥や関西・西国人一般、或いは米英仏など旧戦勝国らの一般人)は、根本的に思いやりが欠けている。この様な人達は他人を傷つけ、集団で殺戮しても罪恥を感じる能力がない。政治的地位や象徴権威を誇っている人達の実態とは、良心のない人、又はただの極めつけのサイコパスでしかないのだ。その様な人々は尊敬すべきでもなければ模範にも足らず、当然信頼にも足らない。寧ろ常々反面教師にすべき存在である。
自称愛国
外敵を捏造しつつ国内で差別をばらまく自称愛国
売国し差別と言論弾圧し薩長藩閥なおも悪業
天皇が違憲と搾取くり返すあしき邪教の平成の末
皇族の贅沢代で自殺せし貧しき青年われはかなしむ
生存権蹂躙されしこの国で卑しき都民が原発ばらまく
売国し差別と言論弾圧し薩長藩閥なおも悪業
天皇が違憲と搾取くり返すあしき邪教の平成の末
皇族の贅沢代で自殺せし貧しき青年われはかなしむ
生存権蹂躙されしこの国で卑しき都民が原発ばらまく
人
さも無限に続く
今という日も過ぎ去る
人が見なくなったこの世も続くなら
動物たちに何を伝えよう
夜は終わる
朝がくる
だが誰も心配していないこととして
この世にも終わりがくる
終了
幕開け
Dynamism
End
それから人は生まれ
この世に感謝したりうらんだりする
今という日も過ぎ去る
人が見なくなったこの世も続くなら
動物たちに何を伝えよう
夜は終わる
朝がくる
だが誰も心配していないこととして
この世にも終わりがくる
終了
幕開け
Dynamism
End
それから人は生まれ
この世に感謝したりうらんだりする
2018年12月29日
あたかも僕らに自由が与えられる為に
君の夢は
無限に降りつづける雪の中で
あたかも妖精の様に消えていくだろう
だがこの世はつづく
君の夜は
有限の命に残された思い出の中で
しずかに沈んでいく
それでも僕らは生きる
月がどれほどめぐっても
宇宙に残されたひとつの言葉がある
君のそらは
果てしない彩りで暮れていく
だがこの世は残る
あたかも僕らに自由が与えられる為に
無限に降りつづける雪の中で
あたかも妖精の様に消えていくだろう
だがこの世はつづく
君の夜は
有限の命に残された思い出の中で
しずかに沈んでいく
それでも僕らは生きる
月がどれほどめぐっても
宇宙に残されたひとつの言葉がある
君のそらは
果てしない彩りで暮れていく
だがこの世は残る
あたかも僕らに自由が与えられる為に
社交と内省
自分より尊い人とのつきあいは良い思い出となり、自分より卑しい人との関わりは悪い思い出になる。この為ある人の道徳性が高い程、同時代で交際は少なくなる。
社交的な人々は、その傾向が強いほどろくでなしであり易く、内省的な人の方が人付き合いから受ける損得を見分けられるだろう。
社交的な人々は、その傾向が強いほどろくでなしであり易く、内省的な人の方が人付き合いから受ける損得を見分けられるだろう。
愚民と文明
想像以上に愚民が多いのでなければ、なぜ我らの国がこれほど息苦しいのか。政府の質が民度の反映であるからには、腐敗した自民党や皇室の存在はわが国の民衆の愚劣さの結果でしかない。啓蒙と遺伝的選択をくり返すしか、少なくとも、日本を文明化する手段は何もないであろう。
2018年12月27日
2018年12月26日
2018年12月25日
修行の全て
人生で最も難しい修行は、低俗な人達と縁を切る事だ。低俗な集団は全てを自己正当化しながら群集となり、互いに悪徳を移しあっているが、同時にその衆愚の外部を絶えず捏造し差別する事で、自らの悪業を増幅させようとしている。ゴータマがいうとおり、この衆愚から離れる事、よき友人を見つける事が修行の全てなのだ。
人には本能があり、つい他人と関わりたがる。社交欲には性から哲学まであらゆる要素が含まれているが、解脱した人はそれら全てを超えている。人はつい他人によりたがるが、そこから自らを強制的に引き離し、修行を完成させる事、孤独を極める事が人生に於ける最終段階なのだ。
勿論、自らより尊い人々との関わりは自分に有益だ。従って現世で社交性が最小な人は、既に完成地点に近づいている。
人には本能があり、つい他人と関わりたがる。社交欲には性から哲学まであらゆる要素が含まれているが、解脱した人はそれら全てを超えている。人はつい他人によりたがるが、そこから自らを強制的に引き離し、修行を完成させる事、孤独を極める事が人生に於ける最終段階なのだ。
勿論、自らより尊い人々との関わりは自分に有益だ。従って現世で社交性が最小な人は、既に完成地点に近づいている。
2018年12月24日
2018年12月23日
金銭と徳
金を儲ける為ではなく、無償で他人に奉仕する方へ努力せよ。利己に逸る者は復讐を受け或いは自滅していくが、徳高き者は守られ尊ばれる。金銭は有限な資源を寡占している点で儲けるほど恨まれる。だが徳はあればあるほど世を暮らしよくする。
2018年12月22日
2018年12月21日
2018年12月20日
君子
小人は利に喩り、君子は義に喩る。時代の変革期にこの孔子の言ほど重い金言はみあたらない。小人は小人に憧れ、模範にし、敬ってもいる。衆愚は君子を認知もできず、寧ろ無知故に蔑む。だが或る歴史の中で君子のみが偉大である。君子を知っているのは君子だけである。
2018年12月19日
影響者の質
不道徳で注目を集めるサイコパスの影響者(influencer)は、ミーム上の悪玉ウィルスと社会的作用が変わらない。量的人気度は質的なそれではなく、質的なそれは道徳性によっている。量的なそれは論争を呼ぶ、例外的個性すべてに注目が集まることによっている。したがって、単に注目される影響者がよい結果をもたらすとは限らず、不道徳さによって耳目を引いている人の場合、彼らの悪影響で多くの人に不幸をもたらす。ミーム競争としての各媒体は、科学的実証主義を含め、全参加者の間で新興宗教の合戦を映しているのだ。
最善の影響者は聖人であり、最悪のそれは極悪人である。
最善の影響者は聖人であり、最悪のそれは極悪人である。
2018年12月18日
日本の芸術界
既に評価が定まり、周囲からもちあげられた通俗作家の後追いをするだけで、訳知り顔の批評家もどき、いや単なる俗物が腐ったわが国の芸術界を更に淀ませていく。そもそもこの国にハイアートは存在しない。あるのは腐敗した同業組合、馴れ合いサロンのできそこない、そして皇族を通じて税金に寄生する根本的に悪意ある似非芸術家だけである。
その様な国で何をしても足元を絡めとられ、カネやマスコミを駆使した下らない中央集権の権威付けゲームとか、小中華的差別の残渣とか、悪意あるサブカル文化人の様な商売人にすりよるばかりでとにかく何も創造しえないので、この国のアーティストはみなが金儲けか、永遠に無名かのいずれかを選ぶしかない。芸術界の地獄では低俗さが称揚され、愚かな外人に勘違いしたレッテルを貼られ言い訳もできない。だから心ある芸術家は心の底から日本国の芸術界をうらみ、破壊しようとするも、その意図自体も誰にも理解されないので、誰も生き残れないのだ。
日本にあるのは下らない商品ばかりで、寧ろそれが芸術作品面をしてすべてを席巻してしまったので、日本人の脳内には文化的教養というものは全くない。漫画批評を文壇内での地位争いを目当てに中途半端にする者が当代の代表的知識人であるというなら、その国に学ぶべき事が何かあるのだろうか? 要するに俗受けだけが目的の幼稚な商業作品を国内のみで有効なガラパゴス学歴で糊塗しながら適当に享受しているだけ。何も語るべきことはないのだ。
勿論、創作はこれで終わるわけでもないし、資本主義芸術が破壊され尽したでもないので、我々のやるべき事が生ある限り残るのだが。
その様な国で何をしても足元を絡めとられ、カネやマスコミを駆使した下らない中央集権の権威付けゲームとか、小中華的差別の残渣とか、悪意あるサブカル文化人の様な商売人にすりよるばかりでとにかく何も創造しえないので、この国のアーティストはみなが金儲けか、永遠に無名かのいずれかを選ぶしかない。芸術界の地獄では低俗さが称揚され、愚かな外人に勘違いしたレッテルを貼られ言い訳もできない。だから心ある芸術家は心の底から日本国の芸術界をうらみ、破壊しようとするも、その意図自体も誰にも理解されないので、誰も生き残れないのだ。
日本にあるのは下らない商品ばかりで、寧ろそれが芸術作品面をしてすべてを席巻してしまったので、日本人の脳内には文化的教養というものは全くない。漫画批評を文壇内での地位争いを目当てに中途半端にする者が当代の代表的知識人であるというなら、その国に学ぶべき事が何かあるのだろうか? 要するに俗受けだけが目的の幼稚な商業作品を国内のみで有効なガラパゴス学歴で糊塗しながら適当に享受しているだけ。何も語るべきことはないのだ。
勿論、創作はこれで終わるわけでもないし、資本主義芸術が破壊され尽したでもないので、我々のやるべき事が生ある限り残るのだが。
仏教と資本主義の矛盾と止揚
二度と生まれないこと、また子をなさずに死ぬことを生の目的にしたゴータマは、自然死の甘受とあらゆる苦役の否定を主張していた。仏教は死を美化している。
仏教は生の享楽を中道の観点から、部分的に否定する。この点で功利主義と袂を分かつ。無余涅槃は死をいいかえたもので、有余涅槃は生産性の否定である。涅槃は幸福と異なる。功利主義における幸福を利他性の高い質的快楽の最大化とすると、仏教における涅槃はこの状態を無欲や少欲を目的とする快苦の中庸に求める。つまり、ゴータマは人類全体の幸福の最大化をめざしてはいなかった。その上、死や非生産性を美化することで、文明の発展という進歩史観を根本的に否定していた。
米中、或いは諸国の資本主義は、実際は需給の一致として部分的な功利主義をくみこんでいる。完全競争市場が需給を完全に一致させるという理想は、欲望の否定や非生産性の美化の元では成り立たない。つまり仏教と資本主義(含む功利主義)は本質的に対立している。だが、今日の社会で最も必要とされている救いは、資本主義のねずみ競走からの解脱である。
仏教は生の享楽を中道の観点から、部分的に否定する。この点で功利主義と袂を分かつ。無余涅槃は死をいいかえたもので、有余涅槃は生産性の否定である。涅槃は幸福と異なる。功利主義における幸福を利他性の高い質的快楽の最大化とすると、仏教における涅槃はこの状態を無欲や少欲を目的とする快苦の中庸に求める。つまり、ゴータマは人類全体の幸福の最大化をめざしてはいなかった。その上、死や非生産性を美化することで、文明の発展という進歩史観を根本的に否定していた。
米中、或いは諸国の資本主義は、実際は需給の一致として部分的な功利主義をくみこんでいる。完全競争市場が需給を完全に一致させるという理想は、欲望の否定や非生産性の美化の元では成り立たない。つまり仏教と資本主義(含む功利主義)は本質的に対立している。だが、今日の社会で最も必要とされている救いは、資本主義のねずみ競走からの解脱である。
理系ばか
自然学的な命題や方法論と社会学のそれを混同している人(通俗的な言い方にすれば理系ばか)は、単に愚かなのである。コペルニクス的転回を認知していない人は、倫理や社会が客体的と思い込んでいる。また数学的論証があらゆる命題に適用されると狂信している人や実証主義の信者は、社会学上の命題や探究の抽象性を、非厳密性や非実証性と混同してしまう。
差別による自己愛
無能で不利な立場に置かれた人々で、しかも不道徳さが甚だしい時、もはや自分の立場を守ってくれるものは生得的に先進国と呼ばれてきた国の出身・居住者であるとか、東京都なり京都市といった皇居のある、或いはあった付近の出身・居住者であるとか、アングロ・サクソン系だとか白人だとかアジアにおける日本国に祖先を持つとか、最もむなしい場合で単なる愛国心という精神論といった、過去に存在した差別へ先祖がえりする事での自己正当化しか残されていない。ネトウヨとか皇室とか自民党員、自民信者とか神道信者と呼ばれる人々、或いは日本国民の右翼一般、東京都民や京都市民の或る部分は、この様な空疎で卑しい試みを宗教化し、無意識的かつ習癖的に行っている唯の差別主義者でしかない。彼らの集団意識はすべて虚妄であり、その根底にあるのは肥大化させた自己愛と対比的に持つ、他者への敵意、悪意である。これらの人々は本質的に公害を意図して生きている、人類にとって根源的に有害な人々なのである。
2018年12月17日
利他性の度合い
貧しくとも利他的な人、貧者の一灯、清貧と比べ、成金や拝金主義者の利己的な金儲けは利己を目的にした条件つきの相利行動であり、真の善意ではない。デリダの説と異なり、付加価値(搾取)は必ずしも返礼の省略ではない。商業の範囲では、本来その製品や奉仕が生存に必須だった人にさえ、貧しければ何も供給されないからだ。
真に善き生き方は、利他性のみに求まる。イエスが持たない者の寄付を殊更賞賛したのは、善行の自己犠牲度が高いほど貴い行いだからだ。
累進税は、この意味で過度の利己心に対する罰であり、累進税率が高い国々ほど社会一般で共有される公的意識が高い事になる。自由至上主義者らは地球単位での公害を自己正当化している。従ってこの人々は純粋に悪意で、いいかえれば純粋に利己的かつ害他的な意図で脱税・節税をはかっているのである。国連は代表国が先導して、抜け道なく累進的国際徴税、及び地球規模で不利な国々への調整を早期にはかる義務がある。
利益の拡大を動機づけにした企業活動一般は、半悪半善たらざるを得ない。真の組織的利他性はNPO組織や、協同組合によってしか追求されえない。また多数派政党は公共の利害を代表するつもりでいて、少数派の不利益が合理化される「多数決の落とし穴」に陥り易く、真に善い組織である事はできない。真の善を代表する政党は、常に少数派、もしくは個人である。
真に善き生き方は、利他性のみに求まる。イエスが持たない者の寄付を殊更賞賛したのは、善行の自己犠牲度が高いほど貴い行いだからだ。
累進税は、この意味で過度の利己心に対する罰であり、累進税率が高い国々ほど社会一般で共有される公的意識が高い事になる。自由至上主義者らは地球単位での公害を自己正当化している。従ってこの人々は純粋に悪意で、いいかえれば純粋に利己的かつ害他的な意図で脱税・節税をはかっているのである。国連は代表国が先導して、抜け道なく累進的国際徴税、及び地球規模で不利な国々への調整を早期にはかる義務がある。
利益の拡大を動機づけにした企業活動一般は、半悪半善たらざるを得ない。真の組織的利他性はNPO組織や、協同組合によってしか追求されえない。また多数派政党は公共の利害を代表するつもりでいて、少数派の不利益が合理化される「多数決の落とし穴」に陥り易く、真に善い組織である事はできない。真の善を代表する政党は、常に少数派、もしくは個人である。
2018年12月16日
営利的サイコパス
インターネットは営利的サイコパスが人類に有害だとますます露にしていくだろう。良心のない金持ちは人類に最大の公害をもたらしても何ら痛痒を感じない。インターネット関連法はこの集団が為すあらゆる蛮行に対応する必要がある。
俗物について
自分が低俗でない事はそれだけで十分望ましい資質を示している。それは最も隷属的で不利な立場を先見的に避けている証だからだ。
だが俗物根性は高尚さ自体ではない。高尚さは理解に労力のかかる趣味(美的判断)についての能力であり、この資質が高いほど自らを衆愚性から遠ざけ得る。
一方で、俗物根性は理解していない趣味を偽装する態度に当たる。低俗さは趣味について不道徳な状態と等しいが、それ故この属性を持つ者は軽蔑され、多少なりとも知的な人々から避けられる。俗物は低俗さを避けながらも高尚さを理解していない者を指している。
だが俗物根性は高尚さ自体ではない。高尚さは理解に労力のかかる趣味(美的判断)についての能力であり、この資質が高いほど自らを衆愚性から遠ざけ得る。
一方で、俗物根性は理解していない趣味を偽装する態度に当たる。低俗さは趣味について不道徳な状態と等しいが、それ故この属性を持つ者は軽蔑され、多少なりとも知的な人々から避けられる。俗物は低俗さを避けながらも高尚さを理解していない者を指している。
2018年12月15日
徳のみ
人気は徳の目安ではない。同じく、稼ぎ、資産、名誉、居住地、生まれ、門地、学歴、経歴なども徳の目安ではない。高徳な生涯を送った者に汚名を着せている衆愚を見よ。卑俗を極めた悪徳の主が、世俗的価値を寡占している。それにもかかわらず、徳のみが幸福な生の定義である。
商売
商人は利己を抜きに行動できない。商人と親しむな。商人は多少あれ他人を利用しかしない。人は商人と親しむほど不幸になる様にできている。人は利他的な人と親しむ限りで幸福になる。商人は最高でも半悪の偽善者にしかなりえない。商売を生業にするな。
東京自慢の都会人
自民党暴力をふるい再稼動
やくざなる自民に投ずる愚民かな
海を埋め米属国の薩長閥
西軍が国売り民売り農を売る
東京で西軍暴れ保守とほざく
トランプに経済制裁受ける安倍
移民入れネトウヨ狂喜自民閥
皇族の贅沢代で自殺する
貧困を搾取自慢のインフルエンサー
差別して東京自慢の都会人
差別して文化を誇る京都人
アメリカの傀儡政権たみ騙す
やくざなる自民に投ずる愚民かな
海を埋め米属国の薩長閥
西軍が国売り民売り農を売る
東京で西軍暴れ保守とほざく
トランプに経済制裁受ける安倍
移民入れネトウヨ狂喜自民閥
皇族の贅沢代で自殺する
貧困を搾取自慢のインフルエンサー
差別して東京自慢の都会人
差別して文化を誇る京都人
アメリカの傀儡政権たみ騙す