2018年12月18日

仏教と資本主義の矛盾と止揚

二度と生まれないこと、また子をなさずに死ぬことを生の目的にしたゴータマは、自然死の甘受とあらゆる苦役の否定を主張していた。仏教は死を美化している。
 仏教は生の享楽を中道の観点から、部分的に否定する。この点で功利主義と袂を分かつ。無余涅槃は死をいいかえたもので、有余涅槃は生産性の否定である。涅槃は幸福と異なる。功利主義における幸福を利他性の高い質的快楽の最大化とすると、仏教における涅槃はこの状態を無欲や少欲を目的とする快苦の中庸に求める。つまり、ゴータマは人類全体の幸福の最大化をめざしてはいなかった。その上、死や非生産性を美化することで、文明の発展という進歩史観を根本的に否定していた。
 米中、或いは諸国の資本主義は、実際は需給の一致として部分的な功利主義をくみこんでいる。完全競争市場が需給を完全に一致させるという理想は、欲望の否定や非生産性の美化の元では成り立たない。つまり仏教と資本主義(含む功利主義)は本質的に対立している。だが、今日の社会で最も必要とされている救いは、資本主義のねずみ競走からの解脱である。