2018年12月31日

人格について

自殺や自傷は、それ自体の自害に伴う他害性が不道徳の核になる。つまりここで公的問題になっているのは無関係の他者への他害性、はた迷惑さであり、自害に伴う自業自得さではない。
 有限の発行済み信用貨幣を寡占する人への憎悪感情、うらみやねたみは、資本主義的商行為、利益追求一般が必然に伴う他害性によっている。アダム・スミスが『道徳感情論』でいわんとしていた主題は、この他害性の不道徳さなのだ。
 キリスト教、イスラム教、仏教といった世界宗教は、この他害性を最小化するよう教えている。いいかえれば利他性を道徳として定義しようとしている。
 資本主義での利潤追求の自己目的性は、比較的に他者をより資産額で低くみせる効用を常に伴っているので、本質的に他害的である。製品奉仕の相利的交換の体裁をとっているが、搾取・付加価値の連鎖は企業や個人の利己的な意図を増進させる。つまり資本主義を追求する限り、人類は他害性を強化していくのであり、この考えを含む営利企業や個人事業主、その他の市場放任を是認する一切の政党や皇族、王侯貴族ら、或いは資本家、経営者、労働者、消費者といった市場参加者は根本的に不道徳だ。資本主義は相利性に擬態した悪意をいいかえたものでしかない。
 累進税制の元で金銭あるいは資産を寡占した人は、納税量が重くなる上にねたまれる。これが十分な社会的制裁ではなく、既に蓄財した資本をふさわしく社会還元できなければ、社会からその資産家への憎悪は仮初の名誉を剥奪するところまで進む。このルサンチマンによる社会の攻撃性は、結果平等を志向する博愛と、単なる自己との比較によるうらやみを組み込んであらゆる対象に向かうので、たとえ自由至上主義者が無税地帯に逃げ込んでも安全ではない。したがって聖人君子と呼ばれる古典的人徳者らが清貧を合理化する説を唱えていたのは、社会のもつこの他害性に対する敵対的本性に悟っていたからであり、最も社会適応的という意味で道徳的だったのである。なぜなら清貧な人から奪うべき何もないばかりか、その人が利他的にふるまっているほど周りは感謝しかし得ないからだ。
 金銭と名誉は相反している。資産と敬意も相反している。もし金持ちや資産家が名誉の様な何かを手にしているかのごとく見えるとしたら、それはただの羨望を集めているに過ぎない。その人がカネや資産を一度に失った時を眺めているが良い。そのとき殆どの人が気味がいい痛快を感じたとしたら、そしてそれまで彼らに付き従っていた多くの人々が一度に手のひらを返したとしたら、元々彼らへの従順は自らおこぼれに預かろうとする利己心の故に、本心からの尊敬の念でなく、偽善的に展開されていたのである。真の名誉は常に清貧に伴っている。なぜならそこには他人より客観的に勝るだろう何物もないのに、ある人がもっている単なる徳、それが個人と密接に一体化している場合はただの人格の故に名誉に値すると思われているからだ。
 あらゆる知識は客体的なものなので、いずれは全人類の誰かが同様の知を得る。一方で人格は必ずしもそうではない。これゆえ真の名誉は人格に求まる。科学知識における先取権争いは多少あれ利己的なものであり、それが人格にとって必然の探求でないかぎり徳と一致していない。即ち、人生において合目的な探求対象とは、常に人格である。あらゆる技芸はこの人格を、殆ど神格へ一致するまで究極する手立てである。