2006年5月31日
2006年5月26日
道のり
山奥を行く野武士。草を分け、木々を払い、道無き道を行く。空には満月が浮かび、冷たく男を見つめている。
清流に出会う。水を飲む雄鹿がぼんやり闇に浮かぶ。男は、水を両手で掬い、啜る。瞬く間に体中が癒やされる。笹の葉がさらさらと音、響かせる木陰に腰を下ろし、肩の力を抜く。風が絶え間ない自然の歌を奏でている。そこには美しい秩序のすべてが作曲されており、また完璧な手際で演奏されている。
男は土くれでよごれた手のひらで涙をこする。目がしみる。物音がした刹那、柄に思わず指を這わす。急いで利いている片目を凝らす。しかし、林間に紛れて、気配は消えてしまう。
男は暫くそのままの姿勢をつづけていたが、やがて立ち直り、河原を去る。後には月明かりに照らされた小川と、水のなかで背中を光らせる山女だけが残る。さらさらと笹の鳴る音がする。
清流に出会う。水を飲む雄鹿がぼんやり闇に浮かぶ。男は、水を両手で掬い、啜る。瞬く間に体中が癒やされる。笹の葉がさらさらと音、響かせる木陰に腰を下ろし、肩の力を抜く。風が絶え間ない自然の歌を奏でている。そこには美しい秩序のすべてが作曲されており、また完璧な手際で演奏されている。
男は土くれでよごれた手のひらで涙をこする。目がしみる。物音がした刹那、柄に思わず指を這わす。急いで利いている片目を凝らす。しかし、林間に紛れて、気配は消えてしまう。
男は暫くそのままの姿勢をつづけていたが、やがて立ち直り、河原を去る。後には月明かりに照らされた小川と、水のなかで背中を光らせる山女だけが残る。さらさらと笹の鳴る音がする。
2006年5月25日
都市論
大都市密度を徹底して上げる事で人間の生息領域を縮減する。これが近代主義の要諦。それは又高度の生産性と野ざらしの自然界を確保することで地球環境を救済したがる思想だった。ポストモダンとかいう馬鹿げた退行現象にかかづらうべきでない。
2006年5月20日
社会学
命題:共産主義の錯誤を証明する。
生産手段の社会的共有が共産主義の核心である。そうして搾取と不平等を無くそうという。だが人間自身には生来および学習による能力格差がある。これは我々が機械であるよりもっと生存競争を生き抜いた生物個体であるから。つまり人間社会では常にその生産力に対して適応した個体と失敗した個体がいる。例えば総じて仕事がdesk workならば、ある程度の知性と健全な耳鼻、徒歩程度の運動に適当な肉体的体力を持たない個体は普通、適応に失敗する。こうして様々な場合であらゆる個体に平等の仕事量を課すのは必ずや不可能である。例え如何に最適職種に分配しても、多少あれどこかに同じ能力格差は生じる。ならばそもそもの万人の平等な労働という事項は始めから挫折している。
また、どんな政権の元でも生産手段は常に発展するだろう。人は学習し、応用するものだから。しかし共産体制下では成果は還元されない。即ち配分格差がなければ、あらゆる必要以上の努力は個人より先に、全体に対して配られる。ここには搾取がない代わりに、私腹もない。ならば一生懸命働かずとも安閑と怠惰に仕事をしても同じ成果が返ってくる。それでは頑張っても頑張らずとも、個人とは何の関係もない。即ち人は社会の機械になる。ここでは生産手段の開発も機械の運転の一部だから、創意工夫をこなす者はいなくなる。つまり学習し創造する者はいなくなる。これは人間が知的である限り矛盾である。故に、生産手段は常に発展しつづけねばならず、それには能力格差間の時々に応じた活躍による切磋琢磨が必要である。ならば成果の不平等な分配も報酬としてある程度認められなければならない。また生産手段は無競争な社会というよりは寧ろ多分に競戯し合う個人または競合の集団により所有されるべきである。
よって、共産主義は錯誤である。文章始めの命題は証明された。QED.
生産手段の社会的共有が共産主義の核心である。そうして搾取と不平等を無くそうという。だが人間自身には生来および学習による能力格差がある。これは我々が機械であるよりもっと生存競争を生き抜いた生物個体であるから。つまり人間社会では常にその生産力に対して適応した個体と失敗した個体がいる。例えば総じて仕事がdesk workならば、ある程度の知性と健全な耳鼻、徒歩程度の運動に適当な肉体的体力を持たない個体は普通、適応に失敗する。こうして様々な場合であらゆる個体に平等の仕事量を課すのは必ずや不可能である。例え如何に最適職種に分配しても、多少あれどこかに同じ能力格差は生じる。ならばそもそもの万人の平等な労働という事項は始めから挫折している。
また、どんな政権の元でも生産手段は常に発展するだろう。人は学習し、応用するものだから。しかし共産体制下では成果は還元されない。即ち配分格差がなければ、あらゆる必要以上の努力は個人より先に、全体に対して配られる。ここには搾取がない代わりに、私腹もない。ならば一生懸命働かずとも安閑と怠惰に仕事をしても同じ成果が返ってくる。それでは頑張っても頑張らずとも、個人とは何の関係もない。即ち人は社会の機械になる。ここでは生産手段の開発も機械の運転の一部だから、創意工夫をこなす者はいなくなる。つまり学習し創造する者はいなくなる。これは人間が知的である限り矛盾である。故に、生産手段は常に発展しつづけねばならず、それには能力格差間の時々に応じた活躍による切磋琢磨が必要である。ならば成果の不平等な分配も報酬としてある程度認められなければならない。また生産手段は無競争な社会というよりは寧ろ多分に競戯し合う個人または競合の集団により所有されるべきである。
よって、共産主義は錯誤である。文章始めの命題は証明された。QED.
2006年5月19日
自然学
自然の由はない。神々しい運動があるだけだ。説明したいという欲求は揺らぎの理由を問う。しかし無は語らない。語る能力を持たないから。
近代人類の物理学者は何を知りうるか。宇宙の始源が如何なる法則のもとに展開され、又どう開陳され、どう延差に過ぎゆくのか。
法則を司る理念は何か。人間の思考以外に、法則は存在するのか。万有知能の生ずる確率は宇宙にとって何の目的に照らされるか。
我々が神と称しめた世界を支配するEnergieの想起は、精神作用として地球人類の小さな頭脳に入り込んだ。そして再び同じ経過を繰り返す計画の創作に仕事する。どうして?
宇宙の初まりにどんな理由があって計画が開始されたのか。無、平衡真空に変化を加えたものは何か。Energieの出元はどこか。物質なきところに充満せしめる無際限な概念を我々はエネルギーと翻訳したのだ。だからEnergieは本来的に無である。蓋し、それが量的に測られえると考えた古人の過ち。
事実に照らしてEnergieは保存する。それは平衡真空の値を0とした物質(-)と運動(+)の関係にしかすぎないのだ。物質Energieと運動Energieの対比的証明を要請する。
宇宙は無が動きと形の模様になった変身体である。けれど法則としてあらわれし神の思考を知るには理想しなければならない。それは我々の思念が求める運動なのだから。
ところで多様化がどの程度の範囲で真実かを知らない上では、あたかも絶対的事物理念であるかの様にそれを語るのは誤りだ。最も単純な球面世界modelの様にある限界点から収縮に転じるとすれば一様化がその場での真理となる。
だからentropy信仰はEnergie信仰より遥かに危うい、と悟るべし。自然の由をつくりあげる知性。その無力を呆れながらも信じつづけない限り、真理は分からない。
近代人類の物理学者は何を知りうるか。宇宙の始源が如何なる法則のもとに展開され、又どう開陳され、どう延差に過ぎゆくのか。
法則を司る理念は何か。人間の思考以外に、法則は存在するのか。万有知能の生ずる確率は宇宙にとって何の目的に照らされるか。
我々が神と称しめた世界を支配するEnergieの想起は、精神作用として地球人類の小さな頭脳に入り込んだ。そして再び同じ経過を繰り返す計画の創作に仕事する。どうして?
宇宙の初まりにどんな理由があって計画が開始されたのか。無、平衡真空に変化を加えたものは何か。Energieの出元はどこか。物質なきところに充満せしめる無際限な概念を我々はエネルギーと翻訳したのだ。だからEnergieは本来的に無である。蓋し、それが量的に測られえると考えた古人の過ち。
事実に照らしてEnergieは保存する。それは平衡真空の値を0とした物質(-)と運動(+)の関係にしかすぎないのだ。物質Energieと運動Energieの対比的証明を要請する。
宇宙は無が動きと形の模様になった変身体である。けれど法則としてあらわれし神の思考を知るには理想しなければならない。それは我々の思念が求める運動なのだから。
ところで多様化がどの程度の範囲で真実かを知らない上では、あたかも絶対的事物理念であるかの様にそれを語るのは誤りだ。最も単純な球面世界modelの様にある限界点から収縮に転じるとすれば一様化がその場での真理となる。
だからentropy信仰はEnergie信仰より遥かに危うい、と悟るべし。自然の由をつくりあげる知性。その無力を呆れながらも信じつづけない限り、真理は分からない。
2006年5月15日
2006年5月14日
Essay
神
地球型生命が無闇な多様化信仰を持つ事が果たして、文明の至頂だとは思われない。
人間は整理された秩序を以て宇宙をrecreateする。
それ自体が宇宙にとっての多様化の側面なのだ。
この「秩序」を文明と呼ぶ。
故に、文明は混沌から最も遠い場所でなければならない。
そうして生活から悲劇を充分に除去することで、生命体は超越的自我──精神──を徐々に獲得していける。
先々に『神は自ずから現る』であろう。
地球型生命が無闇な多様化信仰を持つ事が果たして、文明の至頂だとは思われない。
人間は整理された秩序を以て宇宙をrecreateする。
それ自体が宇宙にとっての多様化の側面なのだ。
この「秩序」を文明と呼ぶ。
故に、文明は混沌から最も遠い場所でなければならない。
そうして生活から悲劇を充分に除去することで、生命体は超越的自我──精神──を徐々に獲得していける。
先々に『神は自ずから現る』であろう。
2006年5月13日
合理主義
宇宙文明の美学が合理主義にあると信じる理由はそれ自体の普遍的意義だ。換言、物体を最純たる抽象的形態に改造することは地球人の知的傾向にのみ依存する命令ではない。それは無機物象の芸術側面たる目標である。時空間の有機的動態は少なくとも乱雑の秩序によって、合理的基礎に則る様に出来上がる。なぜなら生存の目的は構成の緻密化だから。よって精神と呼ばれる知性は、遥かなる旅路の通過さるべき宿りである。ならば世界はまたひとつ彩りを添えるために命たちへ理念を知らせる。工人たちを養って。
部位
とりもなおさず我々に異類間での生存競争からの一時的ゆとりを与えた猿と異なる部位がもし人間にありうるとすれば、それはしばしば子どもじみた態度として衆愚間では一蹴されがちな知的好奇心のなかにしか見いだされない。ならば人の人たる由縁を突き詰めていく者こそ進化の正道を行く万能人ならん。
不条理に面して自然状態に近しい人間社会一般の不平等性を怨み、弱小の地位を文明として高ましめ、同類間競戯の活発化を図る偉聖によく首を垂れなければならぬ。彼の他に人の名実代表はおるまい。
神の遊戯の本性が生涯を於いて充分に追求されるならば必ずや理想は実現されよう。若しその桃源郷にとって必要があるならばこそ、地上の建設は何時とは無しに開始された。そして個別の生はそのような工事への自由であり、仕事である他ない。
不条理に面して自然状態に近しい人間社会一般の不平等性を怨み、弱小の地位を文明として高ましめ、同類間競戯の活発化を図る偉聖によく首を垂れなければならぬ。彼の他に人の名実代表はおるまい。
神の遊戯の本性が生涯を於いて充分に追求されるならば必ずや理想は実現されよう。若しその桃源郷にとって必要があるならばこそ、地上の建設は何時とは無しに開始された。そして個別の生はそのような工事への自由であり、仕事である他ない。
現代
宇宙が内在させた法則と一致するような合理性を追求せよ。現代芸術の主題が造形的合理であるのは疑問の余地がない。なぜなら人間の加工物に一定の理念がありうるとすれば、普遍的便利の基礎づけであろうから。その研究は君をして地球型生命の同時代知的限界を代表させる。しかし、成果は多少あれ確実に、未来の何らかの建設に役立つ。
死
全ての人は死ぬ。それを忘れたふりをして夢中に生活するが、老いて初めて浮き世の儚さを知る。
愚鈍たる生活者達は何らかの現世的価値に執着して空虚を慰める。だが、それでさえ絶対的な生滅の法則の前では時空の彼方に流れ去るさだめにある。
遅かれ早かれ星々の藻屑となる一芥のごみ。それを愛せるものならばそうするがいい。地球に寄生する醜悪なる蛆虫の群れに何らかの必然を望む為に。
愚鈍たる生活者達は何らかの現世的価値に執着して空虚を慰める。だが、それでさえ絶対的な生滅の法則の前では時空の彼方に流れ去るさだめにある。
遅かれ早かれ星々の藻屑となる一芥のごみ。それを愛せるものならばそうするがいい。地球に寄生する醜悪なる蛆虫の群れに何らかの必然を望む為に。
2006年5月11日
理
死に絶えるために生き延びる。生き延びるために死に絶える。地球はどうして君達を育んだのか。宇宙はどうして地球を育んだのか。
凡そ理想する以外に思考する我々が向かう進化の矛先は無い。天敵を失くした知的生命が生態系を促進する中で相利共生を図るのは自然であり、文明とはとりもなおさずその謂いだから。
遊戯として独立した及ぶ限りの知性化、理想によって延長的多様化という生存活動を漸近的に合理化していくのが文明。けれども、我々の実存する宇宙が専ら観察可能に平坦な範囲の一次元的時間のなかで目的的に多様化していくものである限り、文明は時空間物象についての相対観に基づくべきものだろう。文明合理主義は最大効率の多様化を目指して追求される。我々自身の生活も又。
凡そ理想する以外に思考する我々が向かう進化の矛先は無い。天敵を失くした知的生命が生態系を促進する中で相利共生を図るのは自然であり、文明とはとりもなおさずその謂いだから。
遊戯として独立した及ぶ限りの知性化、理想によって延長的多様化という生存活動を漸近的に合理化していくのが文明。けれども、我々の実存する宇宙が専ら観察可能に平坦な範囲の一次元的時間のなかで目的的に多様化していくものである限り、文明は時空間物象についての相対観に基づくべきものだろう。文明合理主義は最大効率の多様化を目指して追求される。我々自身の生活も又。
道
栄光を追い求める名も無き主体。普遍人の行方には幸福と呼ばれる脳内化学反応と死しかないのに、それでも生き延びる限り宇宙文明により追い立てられる。進化し続ける動態、生物、その一意として造物されていく社会世界を眺めて何を想う。思考的細胞を鍛えるという他には殆ど何の行き先もないと云うのに、絶え間なく問答される命題群に従う。思想の中にしか目的は無い。
2006年5月10日
2006年5月9日
星
虚構。如何にしても人たらざるを得ぬ存在のかなしさ。彼らにとって幸福しか慰めにはならず、文明しか仕事はない。あたかも星屑の齢に閉じ込められた囚人のように自由を追求する個性たち。いつかは形を変えていく。どうか生存競争の醜にこれ以上かかづらうことなくこの世の美を遊べ。空に舞い、地を這い、海を渉って、山を越えて、川を下って、月に登る。それから宇宙の神秘を心ゆくまで想うがいい。地球のものがたりを飽きることなく奏でる命たちよ。その永久を儚くも願わん。
2006年5月8日
佳さ
僅か100年前後の短い人生を謳歌しようと欲すれば、それを貴重と思うなかれ。自棄得利の成長向上を至上命題として文明の無限を実証する一縷となれ。己を愛するな、自分を神々しく高めていく精神力の充実を誇れよ。なれば人の健全は生涯の目的であれ。何れ彼らの進化は佳さの際限ない再現の向こうにある。
2006年5月5日
性
各地の創世記に見られる通り、異性との情愛以上に孤独への慰めとして歴史構造的に共有される活動はないかの如くだ。だが我々は結局そこにすら空しさを見い出さずにはおけない。全ての永遠の異性愛とやらは雌雄別体生物的本能の昇華としての限界を常に帯びる。即ち遺伝子の生存主義的利己による性を。キリストは偉大だったろう。古代ユダヤ人の信念を活用して普遍愛を知らしめた。だが不思議と、性愛が愚か者にとって最初に頼られるものでもある。尤も、全ての性愛は神の慈悲へ至る。いわば博愛とはその性の究極の姿だったのだ。普遍的に充実した生といったものは理想の神格化の行程にしか見つけることができない。