2006年5月19日

自然学

自然の由はない。神々しい運動があるだけだ。説明したいという欲求は揺らぎの理由を問う。しかし無は語らない。語る能力を持たないから。
 近代人類の物理学者は何を知りうるか。宇宙の始源が如何なる法則のもとに展開され、又どう開陳され、どう延差に過ぎゆくのか。
 法則を司る理念は何か。人間の思考以外に、法則は存在するのか。万有知能の生ずる確率は宇宙にとって何の目的に照らされるか。
 我々が神と称しめた世界を支配するEnergieの想起は、精神作用として地球人類の小さな頭脳に入り込んだ。そして再び同じ経過を繰り返す計画の創作に仕事する。どうして?
 宇宙の初まりにどんな理由があって計画が開始されたのか。無、平衡真空に変化を加えたものは何か。Energieの出元はどこか。物質なきところに充満せしめる無際限な概念を我々はエネルギーと翻訳したのだ。だからEnergieは本来的に無である。蓋し、それが量的に測られえると考えた古人の過ち。
 事実に照らしてEnergieは保存する。それは平衡真空の値を0とした物質(-)と運動(+)の関係にしかすぎないのだ。物質Energieと運動Energieの対比的証明を要請する。
 宇宙は無が動きと形の模様になった変身体である。けれど法則としてあらわれし神の思考を知るには理想しなければならない。それは我々の思念が求める運動なのだから。
 ところで多様化がどの程度の範囲で真実かを知らない上では、あたかも絶対的事物理念であるかの様にそれを語るのは誤りだ。最も単純な球面世界modelの様にある限界点から収縮に転じるとすれば一様化がその場での真理となる。
 だからentropy信仰はEnergie信仰より遥かに危うい、と悟るべし。自然の由をつくりあげる知性。その無力を呆れながらも信じつづけない限り、真理は分からない。