2019年12月21日

科学は常に信じられない

科学は全て仮説の集まりで、しかも道具にすぎない。科学のラテン原語はscientia、知識である。もし知識を信仰にしている者がいれば愚か者のそしりを免れない。また、科学を悪用している者は全面的に科学狂人と評されるべきで、知者や賢者などと尊敬を受けるべきではない。科学者が善人とは限らない。
 科学主義はいうまでもなく、科学信者の類は単に、知識を偶像崇拝している。しかもその知識は、実証主義、反証主義や証拠主義などなんらかの考え方(Ideologie)を意味するにすぎず、どこまでいっても仮説でしかない。寧ろ究極の科学精神とは全科学を方法として懐疑し続ける、哲学者の態度と一致する。

都会とは

この世は生き残る価値のない人間がふえ
生き残るべき人はへっていく
そうと感じるのは利己的な人ほどすぐふえ
利他的な人は他人に譲っているから
だが性悪どもに高い価値があるのではない
ふえればふえるほど益々嫌がられ
周りから疎まれながら群れている
都会とはそんな場所でしかないのだ

合意なき性交を巡る分析

某記者の強制猥褻にまつわる判決までのいざこざを純粋に科学哲学的にみると、性選択での女性の主導権拡張を、男尊女卑の中世保守派が妨害している様にみえる。なぜ政治的右派が訴える側の女性を加害者扱いするかはこれでおよそ説明がつく。
 寧ろ興味深いのは、一部の女性も原告を叩いている矛盾だ。
 一般論としては、合理性が足りない女性は妬む心の方が先立ってしまい、女権向上に喜ぶより現実に強制猥褻された女性記者を叩いているのではないか?

 ただこの種の女性の一部にも或る洞察がみられ、そこに一理なくもないというか、欧米オリエンタリズムを逆用する狡猾戦略が嫌悪を買っているらしい。
 確かに最近他の国内司法では、強制猥褻系で女性の被害者不利の判決がされていた(2019年12月13日名古屋高裁での娘への準強制性交罪の無罪判決など)。そこから比べて被告の訴えを全て虚偽とし原告全面勝訴は一見極端にみえなくもない。東京地裁は刑事では嫌疑不十分だったが民事で真逆の判決をだした。
 勝訴した原告に反感をおぼえているらしい一部女性の言動をみていると、「あいつだけ勝つなんて卑怯(しかも欧米のフェミニズム系報道権力バックにして)」みたいな負の同調圧力的に足を引っ張ってると同時に、他の性暴力被害者らが公にはでてこないものの、関係者に「あれは演技だ」と告げ口している。

 これらはまあよくある妬みの類が相当陰湿に発揮されたものと解釈できるからそこまで興味を引くものでもなく、自分は寧ろ性選択で女性の主導権が最大級に拡張されたらどうなるかに関心がある(世界史的にいうと亡国時は女王が国より恋人選んだとか、寧ろ風紀が乱れたとかで牝鶏晨してる場合がある)。
 しかし一番笑えたのは、某女性の在野学者が一言で(原告が意識失うほど酔っ払ったのは)「わざとでしょ」と断言してたことで、その人がまあモテナイ女性キャラみたいな立ち位置なのはそこまでしらなかったのだけれども、テストステロン値が高い男性をやたら褒めちぎる事からも、恋愛に余程受身なんだろう。女性もテストステロンあるのだが。

 性交時に同意サインをどう送るか文化で、日本のは全く不合理で「いやよいやよも好きのうち」なる夜這い的風習が一般民衆間に残存している。昔から『源氏物語』好きすら女にいるくらいで或る種の被痴漢願望の変態性欲が日本女側にある(国内最大規模アダルトサイト統計で女性の人気検索語2位が痴漢)。
 330万円に加え社会的名誉を致命的に損なわれた被告側は、恐らく当人の意識内では女狐に噛みつかれた感じなのかもしれず、そもそも東京圏の性道徳で通常、性交合意をはっきりいう代物になっていないというすれ違いも事件の一要素だろう。逆に一般都民は合意の曖昧さを性愛のスリルくらいに思ってそうだ。
 裏を返せば奥ゆかしさの行き過ぎなのだろうが、日本女は性交合意をはっきりいうより断ったのに半ば強引に交尾されたい、という、明らかに歪んだ変態性欲を、しかもわかりづらいことに或る好奇ゾーン辺にいる意中の相手にだけ暗に隠し持っている。そんなの通常、男側にわかるわけないので事件が起きる。
 いわゆる「壁ドン」とかいうのがそれで、まさにあれが日本女的性欲を最も明白に表現してある非合意の被痴漢願望(但しソフトバージョン)なわけだけれども、われわれの社会として恐るべきことは、痴漢冤罪でもわかるよう、日本女側は意中と論外の間の濃度を基本公表しないので、やりたい放題している。
「キモイ」(気持ち悪い略した若者言葉の俗語)を連発してる語彙力0ティーンや馬鹿女みたいのは大量に国内を闊歩しているが、それが一種の性的憎悪(負の性欲)としていきなりオタク男とかへ心を傷つける形で暴力的に投げつけられるのは、上述の意中・論外濃度が非公表になっている副作用ともいえる。

 で、今回勝訴した原告側の分析はこれまでも沢山色んな記事とかであったが、基本、霞ヶ関界隈の記者は女を武器にして魑魅魍魎に媚を売り、中国政府の女スパイみたくスクープつかむのが常態的慣行らしく、自作自演のフリー美人局が売名してるだけみたいなざらっとした解釈が週刊誌レベルの考えだろう。
 しかし欧米はMe too Ku tooフェミニズム全盛期なので、しかも国連権力を大向こうに回したら基本勝てない。だからBBCワールドの印籠で東京地裁は大岡裁きしたみたいなもんというのが、通俗的な事件の見方と思うが、自分が都民の身の処し方暮らし方の内情まで熟知してみるに、本質は壁ドン文法の流用だ。
 壁ドン文法は通常、日本女の中では「セクハラ」なる組織的威嚇用語を伴い、至極便利に使われている。意中濃度が高い相手だと「素敵」に変えればいいが、さもなければ一言で敵(素敵ではない)の社会的面目を失わせる魔法である。日本女記者でも同じで、オノヨーコ的位置取りで自由移動している。
「合意なき性交」なるものは、今回はじめて判決として認められたみたいな感じがするが、女性の社会闘争の戦略として極めて完成度の高い技法であり、必殺技になりうる。だって最初は合意どころか望んで交尾してから都合が悪くなっても、うまくやれば壁ドン文法の中で完璧な利己性を補完できるのだから。
 記憶に新しいところでは辞職に至った某知事の援助交際もどきも、合意なき性交の前奏だったのではないか。こうしてフェミニズム、女権論がどんどん女性側の性選択権を強化していくと(勿論人権的には望ましいのだが乱用可能性も同時に高まる)、最終的に卑弥呼的絶対女性の社会がやってくると予想する。
 Aとの非合意性交は全力で人格抹殺しつつBとの非合意性交は意中ゾーン近いから即忘れ、Cとの合意性交は途中で浮気がばれたからセクハラの濡れ衣を着せ、Dとの合意性交は性の相性がよかったので良い思い出みたいな。が金持ちEとの非合意性交で溺婚とか。こんなのが近い将来「普通の」東京女かもしれん。
 将来というか現にそんな日本女を実は、別に都内に限らず既に相当数みたが。そこまで複雑な擬態に擬態を重ね、カマトトごっこと娼婦ぶりを相手次第で演じ分けるみたいな都会ずれ系が、日本女にはごく多い。本性なのかサブカル教育のせいなのかは不明だが。今回の事件も或る種、東京女なめた結果である。

 社会的地位と記者パフォーマンス巡って悲劇のヒロイン演じてる、というネット世論的見方が、思わず意識失うほど泥酔してしまって野蛮な男尊女卑社会で安倍官邸の権力背にした醜悪なアジアン中年男に無理やり交尾され本当に可哀想な無知でか弱い若い日本女、というBBCオリエンタリズム的な見方と対立している。
 上記の東京文化の状況を前提にすると、このどちらの見方も2つの別の物語の並列にすぎず、真実は藪の中にみえる。再三書くが自分は女権拡張後の世界が自分には寧ろ居心地がいい可能性もあって(自分はしばしば一般女性より繊細なので)、これ以上の事件趨勢の分析は世間がやってほしい。

2019年12月20日

悲しみのない消滅

お前は正しい結論を出した
(それは落ちていない)
(それは時として意味を成さない)
(それは人類の卑しさだ)
だからお前は消えた
確かに殖えているのは馬鹿ばかり
生きていく価値がない星
徐々によくなっているとは聞くが
その間も耐え難い
どこまで行っても下らないなら
死を悲しむ必要はない

望まぬ世界

全人類が今ほろびさっても
自分は何も構わない
成すべき事は全てやってきた
人類どもは愚かなままだった
人は永遠に愚かなままなのに
なぜこの世を知るのか
全生物が今きえさっても
自分には何の悲しみもない
救いとは宇宙の消滅
二度と食物連鎖に巻き込まれず
命の形をとらぬ
絶望も希望もなく

相手の素がみれるツイッターは貴重

自分も数冊その人の本もってる或る自然科学の作家がいるんだけど、ツイッターアカウントみてみたらあまりに「バカッター」すぎて、ぶったまげた。因みに日本だと権威のあるとされる学校はでているのに。特定の科学者って、他の分野ではどん底レベルだったりするんだろう。意見をみるからに、人文学系の一般教養について不勉強すぎるだけでなく基本的思考力に致命的疎漏がある。(相手を尊重する婉曲表現で意味がわからんというかただの教養俗物にみえるかもしれないから、はっきり言ってる版も書いておくと、その作家は断定的に偏見にみちた差別的言動を無数に囀ってた。本でもそういうのは地味に出す人だったんだが、科学系脱構築ネタかと思ってたのでガチとは思わずびびった)
 おもうに、全国民全人類にツイッターを与えて、日常さえずらせたら、死ぬほどお互いの真実の姿をわかりあえるのではないだろうか? バカッターとはすばらしい真理をいいあてていたものだ。肩書きとか地位と中身が全然違うという例が多すぎて、本当に驚く。権威ある人々のツイッターは注目に値する。

 なんか新天皇陛下だったかがツイッターなさりたいと仰せられけりと書いてありました。ほんとやらせたほうがいい。宮内庁は是非とも止めずにお願いしたい。これは極右にとっても、ものすごく啓蒙効果あるに違いない。素の姿をみせるのが大事で、皇族の方々にも日常ツイートを同じくお願い申し上げたい。
「えっ。こんなアホがあんな偉そうな本、大上段にかいてたんかいな?」のパターンも死ぬほど役立つが、「アホだと思ってたらそうでもなかった、地頭いいのか」もあるし、「やっぱ馬鹿だこいつ」「性格わるいな」、「下品だな」とか「いつも同じだな」とか、「やっぱ偉いな」とか色々ある。心がわかる。

 福沢諭吉が『福翁百話』だったかで、もし世界中の人達がひざを折り、お互いに胸襟を開いて率直に語り合ったら、世界から争いなくなるに違いないと書いていた。逆にガチギレ発狂が頻発する気もするが、寛容さが高い側には利益しかない。なるほどこいつらこう考えて動いてんのかと全体が見渡せるのだ。

 逆にいうと、その自然科学系の作家の存在は、どんなに地頭が悪かろうと、特定の一分野で熟達するくらいガリ勉すれば、いちおう世間体くらいなら何とかなる実例なのかもしれない。雑談さえしなければ素はばれないのだろうが、それに気づけていないという素朴な愚かさ。学問なんて地は均せないのだろう。

日帝とはなんだったのか

自分の話したあるイギリス人は世界侵略をなんら反省していなかった。寧ろいまだに英国中華思想で全地球人類を多かれ少なかれ見下していた。
 これで思い出したのが日帝の運命と、京都人や東京人の傲慢さとの相似形である。

 香港人がBNO(British National Overseas、英国海外市民)としてもともとイギリス人の一部ではなかったといったので、本当なの? と英人にきいたら当然みたいに植民地住民を見下しており、香港人のほうから出て行ったのだとどちらかなら差別的な扱いをしてるのをみて、UK海賊団だったのだなと感じた。
 国内だと京都人はいまだに京都市が首都といい(冗談なら奈良人もまれにいうが、京都のほうは本気で信じているのでたちが悪い)、『京都ぎらい』で有名になったけれども京都市内ですら洛外を蔑視している位だから中世意識のままである。民族ジョークとかでなく、現実で何度も頭ごなしに差別された。
 結局、中華思想をもちがちなやつらには大まかに2パターンがある。1つは英国・京都式の自文化中心主義であり、つまりは馬鹿だとダニクル効果で自分が何でも上、相手は下と歪んだ差別感をプライドで補強し続ける。これが文化にすらなるともはや修正不可能で、恐らく千年後も彼らは虚栄心に浸っている。
 もう1つは東京式のそれ。江戸時代の時点で既に落語の「そばの食い方ネタ」として、江戸っ子が中華思想の変種を発症していたのがわかる。(いなかものはソバツユをたっぷりつけるが意気でイナセなあっしらはチョンとつけてさっと食うんでえみたいな。でも死の床で、一度はたっぷりつけたかったがオチ)
 東京式のが英国・京都式の虚栄心となにが違うかというと、地味にモドキなところで、裏を返すと小中華思想(大中華が別にある)を暗に感じつつ空威張りでやり過ごす。多分、大阪とか神戸も京都に対し、似た様な民情を少なからずもってきたと思う。ま明治奠都からは東京も虚栄心肥大化しきってるが。

 日帝とはなんだったのかを前述の英人の傲慢っぷりを直接目撃してからつらつら考えたが、これも大体2つの要素がある。1つは水戸(茨城)流儀の純粋独立心。もう1つは薩長流儀の世界侵略心だ。水戸流儀を代表するのは水戸学の尊攘論と天心のアジアは一つスローガンで、薩長流儀なら吉田松陰である。
 幕末期の混乱からはじまって明治帝国がつくられてから、昭和敗戦までこの2つの流儀は複雑に絡み合いながら展開した。しかし大まかにいえば水戸流儀では「飛虎将軍廟」式の武士道がアジアを欧米植民地化から守る運動として唱導されていた一方、薩長流儀では「百人斬り競争」式に脱亜入欧を信じていた。
 この2つの歴史解釈の系譜は現代でも残り、例えば最近の文化人でいう茂木健一郎氏は(母方が佐賀らしいけど)薩長流儀である。僕は地元が茨城なのもあって、水戸流儀に近い。だから茂木氏はイギリスびいきを臆面もなくいうが、僕は中国とか朝鮮とかに同情的だし欧米も普通に批判する。大分違うのだ。

 現代の中華思想というなら、実のところ大英帝国は凋落が明らかになってからもう古都みたいな扱いだから隠然とした勢力くらいには思われていても、一番威張り腐っているのは米国。また日帝のおかげともいえるけど遂に世界の覇者レースに復帰してきた中国の2国だろう。ロシアは障害物競走でずっこけた。
 ここまで同時代をみていて、僕とその英人のあいだの、現在進行形で進んでいる世界史の見方は、相当違うなあと自分は感慨深かった。なぜかというと、その英人は「文化には優劣がある」とレヴィスト以前の考えを普通に言い、フランスや日本の比較的寛容な色恋の話きいただけで「野蛮人!」というのである。
 僕の友達のほかの日本人(東京の人)にこの話をしたら、「あいつら(イギリス人)が世界支配しなくて本当によかったな」といった。確かに江戸・東京からみたら、イギリス流儀だと全員銃殺されるレベルの風俗なんだからそうだろう。ある韓国人は「イギリスに統治されたかった」と僕に言ったことがある。
(いやそもそも植民地化されたくないでしょ、と嘗て尊攘論うみだした現地からは感じつつ、しかも確かに、結果からみたら負けて逃げるわ、下手するといまだに一部の人が南北朝鮮を差別してるわ、などなど、今日の国際公用語レースでも不利すぎた日帝統治よりましだったかもしれないから、大変面白い皮肉だなと一人でずっとその韓国の人に同情してるのだが)

 なにがいいたいかというと、日本人はこの150年くらい、主には2派が内部にいたにしても天皇の下で協力しあって、イギリス帝国らによる全人類の奴隷化に小国ながらなんとか抗い、実際すごく遠征してまでアジアを欧米植民地から解放しようとしていた。国連が原爆おとした結果、さすがに向こうも白けた。
 英人は自分らが全人類を植民奴隷化しつつあったのを日帝に邪魔され、アジア人の分際で生意気だとゲンコツ落としたつもりなわけだけども、我々の先祖は勇敢な上によく考えていたというか、かれらの末裔の僕とかもアジア人になんの差別心も持っていない。皆を守る為にアホなガキ大将に噛みついたわけである。
 戦勝国の常だが(余程文化的に洗練されてなければ、敗者を辱めるなり負の歴史にかきかえてしまい、自国や自陣営を英雄化するもんだ)、国連は日帝が極悪人だったという物語で完全にわが国を洗脳した。ひとりわが国だけでなく我々の先祖が「一つのアジア」として守ろうとした全ての国々でそう喧伝した。
 勿論、50歩100歩どころかジャンジャンバリバリ戦争犯罪してたくらいだしその気風は今の薩長政権であるところの安倍幕府にもうけつがれているので日帝統治がハチャメチャだったのは歴史の事実。敢えて英米仏はじめ国連側が、予(か)ねてどんな侵略をしていたかは読者の想像におまかせする。しかし大義は違った。

 僕は香港人が中国政府からいじめられてるのをみても「きみらがアジアの希望だ」と伝えるし、ウィグル人が北京から民族浄化状態なのにも反対だし、かといって全人民の平等を高い理想として掲げた中国にも悪意はないし、北朝鮮すら資本主義導入で発展すると寧ろ期待している。某英人にそんな発想はない。
 アヘン中毒で自業自得の清が悪かっただけとその英人はいう。日清日露戦は国連脱退への最初の一歩だったのかもしれないが、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は誠に真実というか、自称正義の大悪党どもが周辺アジアを荒らしているのに侍は黙っておけなかったのが本音だろう。
(まあ大概の外人なら主観を投影するだろうし、穿ったひねくれた見方して、どうせ自分らも利益がほしかったんだろうと名誉白人式なり汚名アジア人式に日帝の意図を評するだろうがこの見方にも全く根拠がないわけではないというか、上記の薩長流儀の歴史解釈だとまさにそれだ。主に薩長土肥と呼ばれる旧西軍を構成した県域での郷土教育などみていると確かに、東日本、北海道、沖縄、アジア諸国への侵略そのものを罪悪視している面は全くない。逆にそれを最大限美化さえしている。
 彼ら歴史解釈流儀の一派は、幕末の騙まし討ちの類(西郷が働きかけ戊午密勅を公卿に書かせたとか、桜田義士との約束破るとか、小御所会議で慶喜排除の陰謀とか、倒幕密勅は偽造とか、史実として無数にある)を全く自己正当化しているだけでなく、侵略被害者側の視点で自己中心な勝利史観を見直せない。「勝てば官軍」(Winner takes all)と、ノルウェー人にいわせれば「海賊の理屈」を素で信じているのがこの薩長流儀の歴史解釈なのだが、はじめは江戸の庶民がつづけて「負ければ賊命惜しむな国の為」と、西軍の蛮行を皮肉っていたのは無視しているらしい。
 例えば韓国の人が一般に学校その他で教えられている歴史観は日帝悪玉論だろうから、薩長流儀の侵略正当化・完全無反省の歴史観とは正反対になる。一般韓国人らが日本人の歴史観全てが薩長流儀だと誤認し、東日本側では「判官びいき」で寧ろ会津に同情している傾向があるなど見えなくなっている理由だ。考えればわかるが、会津史観(水戸史学会が現役で受け継ぐ水戸学研究での、水戸史観の親戚か要素みたいなもの。会津松平家は水戸徳川家の親戚の一つ)は奥羽越列藩同盟側全部の趨勢の帰結だから、薩長流儀は藩閥を通じ明治から平成の政府側の公式歴史観だっただけで、当然被害者の歴史弾圧の面もある。茂木健一郎氏は佐賀新聞社長の中尾清一郎氏らと『日本国紀』『反日種族主義』といった、よかれあしかれ一種の歴史修正主義(歴史観の見直し)的傾向をもつ書物を、自文化中心に(つまり佐賀有利に)肯定評価する傾向があるのは、薩長流儀の歴史観の一端に立脚しているからとみるのが自然であろう。明治から平成まで政府は大いに山口、鹿児島あるいは高知や佐賀の政治家実業家に有利な差別的人事(えこひいき)をしてきたのが事実で、特にそこへ果敢にきりこんできたのが不利なばかりか戦犯の汚名さえきせられた岩手の政治家らだったともいえるが、今も安倍vs小沢でその基本構図は変わっていない)
 英国ひとりが偏狭な利己心で全人類を蔑視しながら、自分の「グレート」な文化を大上段におしつけて回ってきたその内幕が、単なる人種差別だったとみえてしまえば呆気ない。目の前に原爆投下があろうとも、我らの先祖は正義の為には進んで自己犠牲するしかなかったのだろう。日帝と英帝のバトルはそれだった。

 あの(力で劣るこちら側には)致命的な戦いのあとで、75年ほどたち、日本も英国も途上国に追いつかれ、追い抜かれていきつつある。これもまた感慨深い。なぜなら最初にイギリス捕鯨船が自分の近所に漂着して以来、はじまった正義と正義の真剣勝負は、人種差別を覆す結果になり、かなりの犠牲を伴いつつも矢庭に他国を救ったのである。
 日本の先人は彼らなりに必死に考えた結果、どうしても、驚くべき勢いの海賊団に喧嘩うりまくるしかなかったのだ。僕はノルウェーの人みたいに侵略戦争などせずとも独立を保てれば理想ではないか、徳川王朝のままなら中韓その他のアジア人にも恨まれなかったのに、とその英人と会話するまで思っていた。
 目の前で差別され、麻薬中毒にされ、奴隷としてこき使われているアジアの人達がいたのに、そしてその人達を蛮族と軽蔑しながらガンガン殺し回ってる無法者が日々海賊行為をしかけてきているのに(内乱起こす為の武器横流しとか黒船での脅迫とか)、他国民を助けず一国平和で済ましているのは無理だったのだ。

 ガチバトルしすぎたが、あれはしょうがなかったというか義に厚い民族性が必然にもたらした歴史劇だったのだなと今にして思う。これから中国が一帯一路を大発展させ、昔は元寇で会いましたっけとかモンゴル成金とパリまでの電車で会ったりすると思うが(こっちが席を譲るだろう)、それでよかったのだ。
 未来の子供が歴史を読んで、日本が登場するのが一瞬すぎて誰も覚えておらず、しかもなんか負の配役させられてるのを知って「ああ、あの暴れてた小国」みたいにいわれると予想する。これも仕方ない。武士なら慶喜家の最後のご当主がひっそり、水戸の病院で薨去された様に平和が確立されれば用なしだ。
 新渡戸は『武士道』の末尾で、民族精神は滅びない、と書いている。春になれば咲き散るさくらばなの芳香のごとく、どこからともなく崇高なサムライの大義と死に様を伝えるであろうと。零戦や人間魚雷に自らのりこんでまで英帝の暴威(人類の奴隷化)に抗った英雄らは確かに、心では、負けて勝ったのだ。

おにぎり

おにぎり食べた美味しいちょっとおかずもついてた

簡易日本語論

こないだイギリスの人に「日本語は難しすぎる。まず漢字の読み方が複数あってどれか分からない。もっと簡単にしろ」といわれた。それで「確かに日本語は日本人自身にもしばしば難しいし、特に外国人のため「シンプル(簡易)日本語」の様なものを作る必要はありそうだ」と答えた。これについてもう一度考える。

 日本人自身で文学マニア級になると、この漢字の読み方が指定されていない状態で言葉遊びとかしている場合がある。呉音・漢音・唐音とか各時代の中国標準語の発音が多かれ少なかれ保存されているだけでなく、仮名の振り方で当て字にしたり。特に漱石にこれが顕著で、漱石枕流でいう流石も当て字と思う。
 そもそも吏読方式で万葉仮名をうみだして以来、『古事記』筆者の太安万侶は最初期の奈良語を表記するのに大変苦労していたのに違いない。そこから今の標準表記である初期に漱石が採用していた風の「言文一致漢字かな混じり文」に至るまで膨大な試行錯誤があったわけで、古文全てを包含する文化だろう。
「もし英語でHeのあとにsをつけるなといわれたら?(三単元のsのこと)」と尋ねたら、その英人に「そんなの残滓だろう」といわれた。あのくらいしかクイーンズイングリッシュというか標準英語文化に執着ないのが普通としたら、現実に、虚構新聞式にそれが常識化し、isとareも統一されるかもしれない。

「シンプル日本語」をもし戦後政府がGHQにいわれて、常用漢字とか送り仮名を指定したとき見たく実際につくったら、むしろ日本人自身にもかなり役立つと思う。我々の文化になっている母語話者の使い方だと、英語と大分違って語順とかは思いっきり無視されているし、そもそも主語抜きが多くて高文脈だ。

 他に興味深い意見として、あるインド人留学生と親しくなった人が「日本語って簡単なんじゃないですか? アニメで学んだとかで(その)インド人はペラペラでしたよ」といった。サブカルが幼児英才教育的に働いたのを前提とし、語学力が高い人だろう事実を省いても、語族の親近さとも関係あると思う。
 多言語学習すればすぐわかる話でインド・ヨーロッパ語族とか基本が一緒であり、西洋圏のマルチリンガルとか複数方言つかえる式の脳の使い方しているだけだ。朝鮮語の語順が日本語と一緒とか、中国語の単語(というか文字)は当然だが漢字と同じなのがあるとか、母語と縁が近いと学習難易度が下がる。

 つまり、「シンプル日本語」を誰の為につくるかで、その内容もかなり違ってくるかなと思う。

 第一に想定すべきは、最も語族が遠い人にもすぐ学習できる代物にしなければならない。それがエスペラントや基本英語より簡単なら、大挽回で国際公用語の地位をとりかえすことも全くありえない話ではない。
 いまのところ、アニメとか漫画が勝手に、こどもによめるレベルの言い回しで世界の人達に、楽しみながら日本語教育させている節がある。ある意味では理想的だが、まあ内容はふざけたのが多くよかれあしかれ変な人間(いわゆるオタク)ばかり集まってくるのが難点だが、自動シンプル日本語になっている。
 世界市場やこども相手に、日本語版を作るなら、どうしても最大公約数かつ最低レベルの言語知能にも伝わる表現を使うほうが有利なので、サブカルの日本語はどんどん市場原理でシンプルになっていくだろう。放っておけばいい。ある程度広まったところで一番うけた基本ルールみたいなのを抽出すればいい。

 第二に、これは純粋な日本語論を兼ねるけど、なんで平安期には仮名書き文があれだけ流行ったのに、鎌倉文学以後は漢字比率がまた上がったかについては、自分は結構長い間、文芸的に研究してきた。ひとつの答えからいうと、これまた漱石が「凝縮した漢文体」を好んでいたよう、情報伝達の効率がある。
 文を濫読する人には多少わかってもらえるだろうけど、英文より和文の方が視覚的直観がやり易い。速読しても情報が受け取り易いといいかえてもいい。英語も(ハングルみたいな)厳密な表音文字でなく、単語単位に表意性は入っているのだが、日本語は漢字混じりのおかげで余計、表意性が高いのである。
 なぜ冒頭の英人が困ったか、つまるところ日本語の音で読めないからであって、漢字が混じっているからではない。Appleがアップルなのかアッポーなのかわからない式の話で、表意性そのものは読み解き易さと関係している。別の言い方をすると、シンプル日本語は決してかな文字だけで書けばいい話ではないのである(NHKの「やさしい日本語ニュース」のウェブページでよくみられる様に、大人の標準語をそのままひらがなにしても逆に、日本人自身にもわかりづらくなるみたいなもの)。
 参考になると思うのは、朝鮮語が戦後やった、国語浄化運動(국어순화운동)だ。単に日帝が強制輸入してきた言葉を排除しただけでなく、韓国の人達は「できるだけ単純な言い回し」を使う様、共和政府から指導されていたらしい。前者は日本語の豊富さを損なうから無用にしても、後者は単純化に一理ある。
 すなわち、シンプル日本語では難渋な言い回しをできるだけ避け(知的権威づけの為、難読語は一種の装飾としてどこでもよく使われる)、子供でも大人でもわかる簡単な言い方を優先とするのがよい。これはハリウッドなアメリカ英語がイケズなイギリス英語より世界を席巻した一つの原因だろうと思われる。

 以上をまとめると、シンプル日本語では
1.漫画アニメなどサブカルを放置してれば勝手にシンプル日本語の原型ができる
2.漢字かな混じりは情報理論的にみると漢字の表意性のおかげで仮名オンリーより伝達効率がよい
3.できるだけ簡単な言い回しを使うと誰もにわかりやすくなる

 細かくは、中国語(中文)では共産政府が強制的に漢字を改造した。特に伝統改変といえたのは、カタカナみたく部首だけにおきかえた字を混ぜたところで、白川静レベルの漢字学者からみたら漢字文化への冒涜だった。しかし漢字はもともと遡れる形で筆画省略されてきたので、表音化に問題があるだけだ。
 すなわち「筆画省略」の方は、台湾でも日本でもむしろ効率の為まねていいと思うが(為だって为でいいだろう)、「部首とり表音化」の方は漢字の意味がわからなくなる点で必ずしもよくない(習が习だと羽と見分けつかぬ)。特に日本語だと仮名なる表音文字が確立済みなので、再輸入の価値がない。
 つまり
4.筆画省略は推進すべき

 また、冒頭の英人が(朝鮮語とか中国語みたく)漢字に1音を固定化しろといっていた点については、実は用法のほうで工夫すればできる。例えば「方」はホウともかたとも読めるので多音語と定義すると、文脈上どちらかに固定できるなら漢字を開いてほうと書けばいい。
 実はこの工夫は、僕は自分の文の技法として結構前から使っており、多音語の読み手は脳内で1度数パターンから最も正しい読みをサーチしているのだが、その分の手間をこちらで省いてあげている。ルビをふる必要性が減るので、ウェブの文体として記述に便利でもある。
5.多音語はできるだけかなで開く

 最後につけ加えておくと、将来、覇権言語に対する日本語の地位がどの辺りになるかに決定的な話題を上ではしていると思うが、最重要なのは伝統を変えたり、前に進めたりするとき過去との断絶が起きぬよう、時代の先鋒にいる者が熟慮と古典的教養をもって進路を適切に選んでいく事だろう。
 例えば現代中国語の学習者は古文を読みづらくなるし、朝鮮語の場合は更に、新たに学ばねば漢字すら読めない。だがかけがえない文化は各古語に保存されているのだから、いわば民族全体の知恵が徐々にぬけおちる様なものである。和文で在来・外来語をひらがなカタカナ等で書きわけ分類する習慣は大切だ。

追記:別のところで或る外国人が「難しい日本語の言語障壁のおかげで、英語圏と違い低IQの移民が入ってこない」と言っていた。これは重々考えるべき事だ。確かにその種の事実はありそうであり、一種の足きりとして機能している可能性がある。簡易日本語は、実は無用なばかりか有害なのかもしれない。
 英語圏だと、米大統領選の演説分析から、聴衆に白人より黒人が多いと、より平易な言葉を使う傾向が確認されたという(Cydney Dupreeら“Self-Presentation in Interracial Settings")。つまり移民社会のアメリカ英語にすら言葉の階級性が暗に残る以上、簡易日本語もその種の被差別言語になりかねない。
(実際東京のテレビでも、黒人の知識人キャラはまずみられず(逆に白人で多い)、明らかに馬鹿っぽく、または未開っぽく振舞ってうけをとる、事実に反するキャラクターでの出演がみられる。その種の稚拙な差別は都民一般によって無意識に行われておりBPOも気づいていない。言葉使いもそこに含まれる)
 津田幸男『日本語防衛論』、藤原正彦『祖国とは国語』など、英語帝国主義に対し国語教育を強化し、三島『文化防衛論』の延長上で文化防衛を図るべきという意見も保守論客の一部にある。この理屈だと日本語自身が更に難易度を上げた方がよいとなるが、京都文化みたく外部にわかりづらくなる懸念もある。
(既に日本語圏は高文脈な社会の一つといわれ日本人自身も不文律の「空気」を読むのに四苦八苦している)

 結局、難易度のバリエーションを広く内包しつつ、できれば学術言語として覇権をめざすのがよいのではないか。嘗てラテン語の地位を英語が奪った様、重要な日本語の学術文書がふえるのがよい。
 理想的なのは、子供でもわかるサブカルを経由して幼児から日本語に親しんだ外国人が、やがて一般的な日本文化を理解し、更には最高度の学術研究や日本思想の真髄にも参加できるルートをつくっておくことではないか。その種の人達がふえればふえるほど、わが国の移民が偏見で見下げられることもない。

 低言語IQの人達が参加しにくい言語障壁が、縁遠いインド・ヨーロッパ語族の人達に対し現にあるのは確かとして、裏返せば日本語で高度な議論をするため英語からシフトする動機がない。翻訳文化が発達するわけだ。手を拱いて英語学習費を全員負担し続けるのも不経済、簡易日本語を蜘蛛の糸と考えるべし。

追記2:さらに調べていて、1999年頃から弘前大の佐藤和之らが作り出した「やさしい日本語」の12の規則をみつけた。
 これを使った実験では小学低学年で約4倍、外国人留学生で約1.4倍よめたらしい。国語読解力の下がっている日本人への効果の方が高い可能性があるわけだ。
1.簡単な言葉を使う
2.分かち書きで一文を短く
3.重要語はそのまま
4.カタカナ外来語は控える
5.ローマ字禁止
6.擬音・擬態語禁止
7.簡単な漢字で全てかなをふる
8.時・年月日は略記しない
9.動詞を名詞化しない
10.曖昧表現を避ける
11.二重否定を避ける
12.文末を統一
またNHKのやさしい日本語ニュースや、災害時の表現にはこれらの規則が既に使われているのを知ったが、思うに、これは来日在日外国人より絶賛読解力低下中の日本人自身に4/1.4≒約3倍も役立つわけで、特に、一般にしぬほどわかりづらい行政文書とか法律も、できたらこの書式に倣えばいいのではないか?
 なぜ日本の行政文書がわざとわかりづらい霞ヶ関文法を連打し、明らかに国民全体へ嫌がらせしているかというと、実際、愚民観をもつ官僚主義の弊害というか、天皇制官尊民卑のいきついたはてでしかないだろう。象徴天皇政で共和政になっていないのでこの国害をとりのぞけていないが、時間の問題と思う。
 ちなみに、いわゆるゆとり教育を受けた世代で、本を一冊も読んだ事がないという或る大卒の人と長期文通して確かめた感じ、文脈が全く読めないとか、筆者の意図をよもうとせず勝手に主観をはさんでしまうとか、基本的読解力の低下は簡単な日本語でも解決できない。通常の国語教育も重要ということだ。

金持ち有利の一律無償化

かねもちにかねを上積み私立補助一律化して愚民あざむく

自称先進国

自称大文明
自称大都会
自称天皇
全世界を侵略し
罪なき人を虐殺し
奴隷として搾取し
差別しながら虐待し
挙句の果てに国連から
もたざる者を罵倒する
それが欧米
そしてお前の真似ていた蛮行だ
愚か者が治る筈もない
永遠にそのままだ
誰とつきあうかよく考えろ
お前が野蛮人と間違われない為に

生の諸相

人類の悪意で埋まったこの国で
海の外にはもっと邪悪な外国人が溢れ
殆ど地球なんて地獄と変わらないのに
そこへ子を産み落とす悪魔ども
性欲で何も考えず
未来はもっとよくなるなどと
絶望を再生産する暴力
そしてそれを愛などと呼び
死以外なにもないこの世に
再び意識が目覚めてしまう
解脱せぬまま

交際

利己的な人達と交際するのは自ら不幸になりにいく様なものだ。

月の命

お前は絶対の孤独で
この世に意味を為していない
「ここはお前の国なのか?」
いいや
「だが外国の人達は自分とは違った」
ではお前に似ている人はどこにいる
たった一人しかいない
それすら失われたら
もはやお前は一人ぼっち
いや最初からそうだった
月の様
ひたすら寂しく輝き
やがて海に沈むだけ

2019年12月19日

善い諧謔と悪い諧謔

ユーモアhumorを諧謔、ウィットwitを機知、エスプリespritを才気、ジョークjokeを冗談(または冗句と音訳)すると、主として諧謔は情緒的冗談、機知は知的冗談、才気は批評的冗談であり、このうち諧謔には嗜虐的なそれと自虐的なそれがある。一般に嗜虐的諧謔は悪い諧謔、自虐的諧謔は善い諧謔という。

ユーモア感覚論

こないだ、しりあいというかネットの友達(但し相手が切り捨て御免だの同人誌だのの古今日本ネタに発狂して物別れ)のイギリス人に次の様にいわれた。
「ユーモアのセンスがないのは知性がない証拠。日本人はドイツ人と一緒で頭が固い馬鹿」
これについて、以下、自分なりに考察してみる。

 先ず結論からいうと、ユーモアなるものの感覚は知能(知性)の一部ではあっても賢さ全体ではない。だからユーモア全体が本当に欠けていても、すなわち、その脳がまるごと愚鈍だとはいえない。しかもユーモアには種類があるだけで、恐らく全人類の大抵の人達は、多かれ少なかれ別の笑い方はすると思う。

 僕が好きなお笑い芸人(喜劇役者)は、ユーモアセンスだけでなら、最近だと青汁王子がとても面白いけど彼は起業家・経営者だろうから、プロでいうと、さまーず大竹(めがねかけてるほう)が一番凄いと思っている。いつも機知のきいたことをいうから感心してしまう。で、次に好きなのがカンニング竹山。
 しかし世間はダウンタウン松本とか、明石屋さんまが好きなんだろう(ただし『ひとりごっつ』は僕も現役でみてて天才かと思った)。自分は日本のお笑いしか特にしらないけど、ビッグスリーならタモリは一応面白かった(だ埼玉とかはうんざりだが)。最近の人で面白いのはウーマン村本しかしらない。
 初期の午後5時台でやってた頃のナイナイは、彼らの高校生活の延長ぽいノリがまだあって好きだった。自分は中学頃だった気がするが、ラジオも録音して聴いていた。大体、ゴールデンタイムに移動してからも、中居君とのこラボがピークだったと思うが、岡村さんのおかげで大出世だったと思っている。
 他にもウッチャンナンチャンとかも自分の世代では相当おもしろくて大体みていた。なにがいいかというとウンナンはあんまり下品じゃないのがいい。家族でみてても冷や汗かかない程度の、逸脱しなさに安心感がある(これと真逆なのがダウンタウンだが)。ま、そんな感じで大衆レベルにはお笑いみてきた。

 ほんでだ、イギリス人が「てめーはユーモアがねえ」っていうのは、全くの勘違いで、僕は中学の頃とかお笑い人間みたく思われていた。最近僕はモギケン(脳科学者)研究しているのだが、モギケンも中学生の頃そうだったぽく、すこし分かる。公立だと勉強できる側は道化演じないと皆と仲良くなれないのだ。
 つまり、僕の面白いと感じるセンスと、そのイギリス人が面白いと感じるセンスは、ずれている部分と、かぶっている部分がある。これが喜劇文化の違いで、大まかに言って、向こうはブラックユーモアを好むが、僕は好きじゃない。僕のお笑い感覚は、主に首都圏のテレビや漫画が作った機知のそれに近い。

 自分がギャグ漫画で一番好きだったのは『すごいよ!!マサルさん』で、完全にシュール系の機知だった。それに比べ、そのイギリス人は他人をザクザク傷つけることをいい別の人とゲラゲラ笑ったり(なぜ人を傷つけて笑えるの? と僕は可哀想か失礼だなと感じる)、やたらひねくれたことをいって悦に入る。
 例えばダウンタウンの笑いは、日本一のイギリス喜劇ファンと称する(クオリア日記に書いてありました)モギケンの感覚と、自分からみたら寧ろ似てるジャンと思う。元首相の木の前でのインタビューをからかって「私にはなぜ彼が木に向かって話してるのかわかりません」プゲラみたいなバッドユーモア。
 確かにダウンタウンのそれとイギリス系の笑いには全く違う部分もあって、それは知性を感じさせるひねくれた言い回しを喜ぶかだ。ダウンタウンの前でそんなのいったら浜田に殴られるだけである。実際、浜田がいないとなぜか松本がモギケンを素でディスり(笑わせろ)、日英喜劇論争は小休止中である。
 モギケンの自白では、「批判的ユーモア」がイギリス喜劇の最美なる点の様で(いいたいことはわかる)、その理論背景で実験漫才をつくってるのがウーマン村本といってもいいが、相方は普通の大阪人でおきざりにされているからTHEマンザイでもほぼソロ状態である。そこは吉本の伝統的には逸脱であろう。吉本のかけあい漫才の伝統なんざオモロければどうでもいいのかもしれんし、あれでいいのか総合点では慎重にみなければならないにしても、確かに村本は異文化もちこんできているアウトサイダーな点で興味深い。だが以て、イギリス喜劇のダークユーモアの命脈からしたら根本的に違う感じもするのである。
 僕がそのイギリス人の笑いの感覚で、全く共感できないし一緒になりたくもないのは、「他人を傷つけて笑う」点である。正直なところ、日本の関東と関西の笑いで本質的に違うのも、そこかなと思う。パチパチパンチはいいけどメダカ師匠をいじめるのはちょっと、みたいな微妙な感覚の違いがあるのである。
 全く同じことは海外の笑いでも、トランプを揶揄してプゲラッチョとかモギケンは毎度デイリーショー動画をリツイートしてんだけれども、僕から見るとなんて下品なんだとしか感じられない。ぶっちゃけニーチェもあれらを批判すると思う。だって権力者や強者をからかうのはルサンチマンの笑いなのだ。

 喜劇論の古典まで遡ると、『詩学』がそのひとつかと思うが、著者のアリストテレスいわく「お笑いは普通より劣った人々をまねるもの」と定義されている。滑稽味が生じるのは他人の愚かさを眺めて、馬鹿だなあアホだなあと、それに比べりゃ俺はましだと、ミラーニューロンが自尊心を高めてくれるからだ。
 最近の心理学では地位の高い人は笑わない傾向にあるといわれてもいて、実際、演劇の世界でも悲劇などまじめなのを演じる俳優に比べ、お笑い芸人(喜劇役者)は一段低いというか、歌舞伎の看板で三枚目といわれたよう、主役の一枚目とか二枚目の美男子をひきたてる脇役あつかいされてたのが基本だろう。
 つまり、「他人を傷つける笑い」は、この喜劇の伝統を大分ずれているというか、大いに勘違いしたユーモアのセンスなのであって、本来、自虐的にふざけたことをする道化的行動のほうが、理屈からいうと王道なのだ。それは誰も傷つけない。傷つくとしてもピエロ自身だが、自ら進んで観客に奉仕する。
 この意味で、最近の日本のお笑い芸人で、最も王道を歩んでいたのは、ナイナイの岡村さんだったのではないか。僕は彼の人生物語も最近のご意見番化も少しは、ラジオなどで聞き取ってきた。しかし後輩だったヤベッチに誘われ入り込んだ業界とはいえ、確かに岡村さんは喜劇を愛し真剣にとりくんでいた。
 いわゆるハネトビ世代がナイナイの次に出てきた時、サル的クリエイチャーを模してカジサック(キンコン梶山)がプロゴルファー猿ネタで岡村さんとコラボしてたのは記憶に新しい。キャラがかぶりすぎていたのでユーチューバーと化したにしても、カジサックはどの世代が見るのを想定していたのか謎だ。30代の僕すらプロゴルファー猿の漫画そのものを手に取ったことがないのに、敢えてワイはサルや、プロゴルファー猿、と決まり文句を2匹で公然といったとて、誰がわかるというのだろう。勿論それは喜劇の王道に属していたとは思うが、進化論を皮肉ったとか知性主義要素が皆無なのも大阪系喜劇の特徴だ。
 つまり、イギリス人が歴代哲学者らがフットボールする動画をみて、マルクスからエンゲルスへのパスミスでオッホッホと笑うみたいなのは日本側では基本的にない。なぜかというと日本側の喜劇文化は、基本的に庶民のものだからだ。いいかえれば無教養を前提にしているので、下品か、分かり易いのが多い。自分がみるに、モギケンのフラストレーションはここからきているのが相当あって、日本の笑いってなんて知的レベルが低いんだ! もっと高尚なテーマが必然に伴う緊張を緩和する社会的紐帯の潤滑剤が~とか、要は町人の笑いと紳士の嗜みじみた彼我文化差の前で、歯軋りか地団太踏んでいるわけだろう。
 そこではじめに書いたところに戻るが、そのイギリス人がいう「ユーモア」とは、自文化中心主義でイギリス系のお笑いのセンスをさしているので、わが国のそれではない。且つ、僕のそれは関東的などっちかといえば穏やかで機知が中心のものなので、頭殴ってプゲラる関西系のそれとも大分ちがう。すなわち、国とかところ変われば笑いのセンスも違うもので、もし自分が面白いとおもってプゲプゲいってても他国からみたらは? とされそのグッド・バッドの境界は、単に文化差であるばかりか個々人でも全然違うのである。ドイツの喜劇は全然しらないが確実にあり、みな笑ってることだけは間違いない。

 では今後、モギケンのいう日本のお笑いへの知性主義の注入が成功するか?(村本一人が米国に排除されテレビ終了し、再び吉本興業のアホアホ覇権がネットでも他を圧倒するか?)
 自分がみるに、例えば天皇にパチパチパンチみせても笑うに笑えない的喜劇の構造からも、イギリス喜劇の直輸入は難しい。
 そもそもモギケンが好んでみてるBBC笑劇的なものは、シェークスピア三大喜劇みたいな過去の伝統からしたらそれでもかなり堕落した(通俗化した)部類であって、日本でいやあ落語の転化した笑点くらいの地位かもしれん。帝大輸入学問的な文脈でドエライ西洋文化をもちこんでもハイカラ鹿鳴館で終わる。
 そして批判的ユーモアは、当の落語や講談が完璧にやっていたのだし、テレビドラマ化した筋でも『水戸黄門』は演劇論で分類したら喜劇だと思う。阿呆な悪党らが必ず定型的に退治されるがその途中でうっかり八兵衛らのお茶目な入浴シーンが入る偶有性。別に権力者の婉曲批評なんてどこでもあるのである。ザ・ニュースペーパーは、英国出羽守が好きなタイプの道化師的揶揄をやっているけれども、普通に面白い。ただ日本の庶民受けしてる度合いからいって、もっと世俗的な浜田組(と子分の松本)が威張ってるだけの話である。そんで、僕みたく冷静にみてホホホイはちょっと、という人もいるから問題ない。
 英国ユーモアなるものは、京都人の公家的言い回しと一緒で、はじめは上品ぶろうとして知性派ぶっていたが、庶民に風習が広がってひねくれ方が固定化したものと捉えるのが自然と思う。俺はこんだけ分かりづらい言い方もできるんだぜ、とのマンスプ系暴走の結果、他国民からみてなにいいたいか分からん。
 逆にアメリカの笑いもこれまた日本のと違う。貴族性を否定したから侵略祖国より率直なのはいいにしても、アメリカンジョークは一日本人からみると「そこで大爆笑かいな?」となる事が多く、笑いポイントの意味がわからなかったりする。米人は他人を笑わせようとしている事に笑ってあげてる感じがする。

 結局、どこのどんな笑いが好きでもそれは自由。しかしながら文化単位でセンスを変えるのは相当難しいし、そもそも各々のユーモアセンスが違うからこそ、異文化に接して驚き、また他人の着眼点に学べるわけで、日本は日本、自分は自分でいいのだろうと思う。僕は基本的に誰も傷つけない機知が好きだ。

進次郎節

横須賀人進次郎節おしあげて安倍の次なる恥を売りける

感性論

東京圏とか大都市部内だけで生育した人達が、自然や里山、田園などのもっているさまざまな要素を「何もない」と表現するのを、自分は全く理解できなかった。なぜそんな発想が出てくるのかすら分からないし、今の今まで差別にしかきこえなかったわけだが、彼らは単に自然の要素を認知できていないのだ。
 恐らく脳内に自然に近い諸要素(空気、湿度、色、光、動植物、質感などなど)を感知する部分があって、これは確かに大都市部ではほぼ絶滅されているので、生育過程で一度も体験していないと、脳内でその要素を感知する部分が退化しているのだろう。つまり彼らはある種の脳の障害者でもあるわけだ。
 勿論、都会人一般が行うその種の傲慢な差別には、ダニクル効果とか自文化中心主義からきた中華思想の思い上がりも含まれているにしても、同時に、彼らは脳の障害(いわば都市型認知障害)で自然性そのものを認知できていないので、努力して自然体験しないかぎり、今後とも感性の一部が欠けて行く筈だ。

 また次の様な類型も見かける。それは東京人の一部にいたのだが、北海道・沖縄、南の島、欧米都市部とかだけに出かけこと知ったかぶるが、田園、郊外、里山など日本国内の大部分について何もしらず、それどころか中華思想で頭ごなしに差別している人達だ。これは一言でいえば東京型観光俗物である。
 この種の観光俗物は、インスタ映え狙いのセレビズム(celebism、有名・芸能人気取り)とか、欧米崇拝とかが思想背景にあって、とかく国内の無名または地味な地帯を全力で無視している。また観光地でもマイナーな物は完全無視する。なぜなら彼らは自慢目的で旅行するので、俗受けしないといけない。
 僕個人はその種の東京型観光俗物は馬鹿なんだろうなと思っているし、実際、観光客文化になっている有名観光地より穴場の方が通常は地元人向けでサービスの質が高く、文化人類学的興味(要は異文化体験の欲求)だのも満たされる。旅行の目的そのものが違うにせよ、観光俗物にも一種の認知の盲点がある。

「何もない」といいながら、自分の目には恐ろしく美しい風景だったり、偉大な文明の証拠だったりする場所を素通りしていく大勢の人達。ここから学べるのは、われわれは自分の感受性次第で同一対象に全く違う感動をし、また自動で興味の対象を探索しているということで、ある意味恐ろしい話である。

 和辻哲郎は世界旅行後に各国の感性からくる人倫論であるところの『風土』を書いたが、成長過程で感性そのものが貧弱なままだと全世界を通っても死んでいる。裏を返せば、極めて感性鋭敏なら(まあそれは僕だ)家の裏庭みるだけでも四季の移ろいで胸が一杯になって感動で動けなくなる。実話だけれども。
 引きこもりを否定的に侮辱し、差別対象にするばかりか無理やりデヅッパリの労働者と同じ状態にしたてあげようとする強烈な同調圧力が良識ぶって大手を振って歩き、暴力や精神的圧力で自殺にまでおいつめている現代日本は、終生家からでなかった平安貴族の女性だの、部屋住みの諸侯の感性を忘れている。
 ヴェーバー・フェヒナーの法則からして、デヅッパリで毎日雑にグチャグチャ移動していたら段々とその刺激値に慣れ、もはや一葉落ちて秋の訪れを知る様な繊細な感受性を得るのは不可能に近いかもしれない。日本史上の卓越した感性をかんがみても引きこもりは五感プラトニストであり、感受性のプロだ。
 労働者クラスターが多数政治を乱用し、大都市部にたかってあらゆる分野に全力で自文化中心の圧力を加え、罪悪感どころかなんの痛痒も感じなくなった野蛮な先進国群では、寧ろ、万葉歌人のよう細やかで開かれた感覚をもつ人がいきのこれる方が奇跡に近い。感性は世界認識を拡張する重要な知能という話。

他人事

令和帝愛子と広島アニメみて圧倒されたと他人事(ひとごと)いいけり
広島に原爆投下をいざなえる家の殿下が感動したという
侵略罪他人を虐殺した天皇ひとごとなりき日帝映画は

ツイッターは返信を無視した方がまだ使える

きのう、たまたま自分がツイッター上に書いたことに返信がついてるのを目にしたのだが、それは「短くまとめろや」と関西弁で書いてあったのだけれども、これについて少し考えてみる。
 先ずこれは煽りであるから原則無視しなければならない。が論旨中には或る判断が含まれているのでそれを考察する。

 先ずカントは『純粋理性批判』冒頭部だったと思うが、物事を述べるには必要十分な長さがある、との趣旨を述べている。短すぎては抽象的過ぎて伝わらないが、たとえなどを駆使し分かり易くしようとすると冗長になり、結局なにが言いたいのか曖昧になる場合もあるからだ。基本はカントが正しいと思う。
 他方、清少納言は『枕草子』で、下衆は言葉が長いと書いている。これは冗長性を蔑視しているのでなく、語彙が足りない人は平易な言い方しか知らないので、高度な抽象概念を操れないと指摘していると捉えられる。
 情報理論でいう冗長性の方は誤解を避ける要素だから、簡潔すぎる脆弱性の問題もある。

 冒頭にあげた返信してきてた人は0.1秒くらいしかみなかったけど匿名アカウントぽかったので、まあ長文読解が苦手な荒らし目的でお節介風の返信をしたにすぎなく見えるが、一般論として、抽象度が高い専門用語を使えば簡潔にできる。しかし一般人に分かる文体を使うとある程度、冗長になるのである。
 また、そもそもツイッター民全般がそうだが、長文読解の力が低い可能性がある。特に文脈や相手の意図をよみとれず、国語(言語)的な読解力そのものに致命的落ち度がある読み手がみただけで溢れているので、構造的にも140文字だけでさえずると、益々誤解しか生まれない。要はバカッターというやつだ。
 しかも、資本主義経済ではひまをもっているのは一部の人で、比較的資産に余裕がある側(又は全くないか、庇護者に依存している側)にかたよっていることから、貧乏ひまなしの労働者クラスターでは仕事で絶えず疲れていることもあって、冗長性の高い文体に拒絶感を示しがちなのではないだろうか?
 自分がなぜツイッターでこうして、比較的中くらいの長さの文を書いているかなら、上記の思慮から、述べる事柄にふさわしい長さを用いると同時に、寧ろ愚者を遠ざけるには短文より長文の方が望ましいからでもある。しかし自分は俳句も短歌もつくるので、冒頭の人はただ、中長文に混乱しただけだろう。

 5G化でユーチューブ動画に大勢流れると或るインフルエンサーが煽っていたり、PISA2019で15位に落ちるなど高1一般の読解力が大幅に低下してる事実からも、長文を読める人は国内ではますます減るだろう。自分はこの流れを前提に、逆に知性の高い人しかついてこれない世界にいた方が自分に有徳と考えている。
 他人がネット上で只で出してくれている情報に、ああしろこうしろと命令口調(しかも標準語からみたら野卑にみえる関西弁)で不躾に罵る時点で荒らしと判断されるのは目に見えているのに、忠告めかして自己利益に相手を操ろうとするのはなぜか、さっぱりわからないが、理解しようとするだけ無駄だろう。

 ツイッター民の相当数は分析しまくっても「愚か」「卑しい」としか判定できない多くの難癖をあちこちでつけまくっているので、寛容さが低いと嫌になってやめてしまう。自分は感心する鋭い指摘を返信で見たこと1度もない。日本語ツイッターは知的民度が低い。使うなら返信を無視し受発信した方がいい。